かつては「歴史」ある、一つの「国」でした(1)・・・パート5
続いてです。茨城は歴史のある県です。かつては、「常陸国」といわれていました。皆さんもこのことはご存知のかたもいらしゃると思います。続いては、茨城の以前いわれていたという「常陸国」ついて書きたいと思います。参考までです。
●常陸国について
常陸国(ひたちのくに)は、日本のかつての行政単位だった国の一つで、東海道の最遠、関東地方の東北端に位置する。常州(じょうしゅう)と呼ぶこともある。『延喜式』での格は大国、遠国。親王任国。
常陸国Japan prov map hitachi
■http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Japan_prov_map_hitachi.png
●沿革と歴史
7世紀に成立した。成立時期については、『常陸国風土記』によれば大化の改新(645年)直後に創設されたことになるが、壬申の乱(672年)の功臣である大伴吹負が後世の常陸守に相当する「常道頭」(「常陸」ではない)に任じられたとする記事がある事から「常陸」という呼称の成立を7世紀末期とする考えもある。当初の常陸国は現在の茨城県の大部分(西南部を除く)と、福島県から宮城県南部(今の常磐線沿線)にまで至る広大な国であった。後に陸奥国が設けられると、常陸国の北端は菊多郡までになった。『常陸国風土記』は数少ない現存する風土記の一つである。
養老2年(718年) に菊多郡を新設の石城国に編入した。これ以降は国の形は変わらず、西南部を除いた茨城県に相当する範囲となった。新治郡、筑波郡、信太郡、茨城郡、行方郡、香島郡(後に鹿島郡)、那珂郡、久慈郡、多珂郡(後に多賀郡)、白壁郡(後に真壁郡)、河内郡からなる。
平安時代には、上総国、上野国とともに親王が国守となる親王任国であった(天長3年(826年)旧暦9月6日後より)。例えば時康親王や人康親王のような常陸太守が実際に任地に赴くことはないので、国司の実質的長官は常陸介であった。
●国府・国分寺・国分尼寺・安国寺・利生塔・一宮以下・総社
国府は茨城郡にあった。現在の石岡市にあり、遺跡が発掘されている。
国分寺は石岡市府中にあった。石岡市府中の真言宗智山派浄瑠璃山東方院国分寺(本尊:薬師如来)がその法燈を伝承する。安国寺は、笠間市上郷の曹洞宗朝日山安国寺(本尊:南無釈迦牟尼仏)。国分尼寺と利生塔は現存しない。
『延喜式神名帳』には大社7座6社・小社21座21社の計28座27社が記載されている。大社は全て名神大社で、以下に示すものである。
・鹿島郡 鹿島神宮(茨城県鹿嶋市宮中)
・鹿島郡 大洗磯前薬師菩薩明神社(現 大洗磯前神社、茨城県東茨城郡大洗町)
・久慈郡 静神社(茨城県那珂市静)
・筑波郡 筑波山神社二座(茨城県つくば市)
・那賀郡 吉田神社(茨城県水戸市宮内町)
・那賀郡 酒烈磯前薬師菩薩神社(現 酒列磯前神社、茨城県ひたちなか市)
・新治郡 稲田神社(茨城県笠間市)
一宮は鹿島神宮、二宮は静神社、三宮は吉田神社である。鎌倉時代までにはこの三社で確立していた。総社は石岡市総社の総社神社(常陸総社宮)である。
●国司
★常陸守
・文武四年(700)十月 百済王遠寶
・和銅元年(708)三月 阿倍狛秋麻呂
・和銅七年(714)十月 石川難波麻呂
・養老三年(719)七月 藤原宇合
・天平九年(737)正月 坂本宇頭麻佐
・天平十八年(746)四月 石上乙麻呂
・天平十八年(746)九月 紀飯麻呂
・天平勝宝四年(752)六月 百済王敬福
・天平宝字二年(758)六月 佐伯毛人
・天平宝字七年(763)正月 藤原清河
・天平宝字八年(764)十月 石上宅嗣
・宝亀八年(777)十月 藤原小黒麻呂
・延暦元年(782)六月 紀船守
・延暦二十一年(802)正月 大原某を免
・延暦二十四年(805)八月 紀直人、卒
・延暦二十四年(805)九月 橘安麻呂
・大同元年(806)正月 下葛野王
・大同元年(806)二月 和入鹿麻呂
・弘仁二年(811)正月 菅野真道
・弘仁五年(814)七月 藤原福当麻呂
・天長元年(824)六月 佐伯清岑
・天長三年(826) 甘南備高直
★常陸太守
・天長七年(830)正月 葛原親王
・承和元年(834)正月 葛井親王
・承和五年(838)正月 忠良親王
・承和七年(840)正月 葛井親王 再任
・承和十一年(844)正月 葛原親王 再任
・承和十五年(848)正月 時康親王
・仁壽三年(853) 仲野親王
・斉衡四年(857) 人康親王
・貞観二年(860)正月 賀陽親王
・貞観六年(864)正月 惟喬親王
・貞観十年(868)正月 惟彦親王
・貞観十四年(872)二月 惟恒親王
・貞観十八年(876)二月 惟彦親王
・元慶四年(880)正月 時康親王
・元慶八年(884)三月 貞固親王
★常陸介
・大伴弟麻呂 - 783年(延暦2年)任官。
・藤原緒嗣 - 791年(延暦10年)から797年(延暦16年)7月までの間のいずれか。
・源満仲 - 912年?(延喜12年)から997年(長徳3年)10月6日(8月27日)までの間のいずれか。
・源義光 - 1045年(寛徳2年)から1127年(大治2年)11月25日(10月20日) までの間のいずれか。
・藤原実宗- 1107年(嘉承2年)前後
・平家盛 - 1147年任官
・平頼盛 - 1149年(久安2年)任官、1158年(保元3年)中務権大輔兼任として再任。
・島津忠景 - 1267年(文永4年)から1295年(永仁3年)までの間のいずれか。
・佐竹貞義 - 1287年(弘安10年)から1352年10月18日(正平7年/文和元年9月10日)までの間のいずれか。
●守護
★鎌倉幕府
・1189年~1203年 - 小田知家
・1228年~? - 小田知重
・1248年~1250年 - 宍戸国家
・1301年~? - 小田宗知
・1315年~? - 宍戸時家
・1317年~? - 佐介時綱(北条時綱)
・?~1333年 - 小田氏・宍戸氏
★室町幕府
・1335年~1352年 - 佐竹貞義
・1352年~1362年 - 佐竹義篤(九代当主)
・1362年~1389年 - 佐竹義宣(十代当主)
・1389年~1407年 - 佐竹義盛
・1407年~? - 佐竹義人(義憲、義仁)
・1425年~? - 山入祐義
●郡
・新治郡
・真壁郡
・筑波郡
・河内郡
・信太郡
・茨城郡
・行方郡
・鹿島郡
・那珂郡
・久慈郡
・多賀郡(多珂郡)
●人口
・1721年(享保6年) - 71万2387人
・1750年(寛延3年) - 65万5507人
・1756年(宝暦6年) - 64万1580人
・1786年(天明6年) - 51万4519人
・1792年(寛政4年) - 49万5083人
・1798年(寛政10年)- 49万2619人
・1804年(文化元年)- 48万5445人
・1822年(文政5年) - 49万5575人
・1828年(文政11年)- 49万5859人
・1834年(天保5年) - 45万7321人
・1840年(天保11年)- 49万9761人
・1846年(弘化3年) - 52万1777人
・1872年(明治5年) - 64万8674人
出典: 内閣統計局・編、速水融・復刻版監修解題、『国勢調査以前日本人口統計集成』巻1(1992年)及び別巻1(1993年)、東洋書林。
●江戸時代の藩について
常陸国には明治維新を迎えた藩として水戸藩、御蓮枝(分家・支藩)として府中藩、宍戸藩、そして付け家老として明治以降独立する松岡藩、その他に土浦藩、笠間藩、下館藩、谷田部藩、麻生藩、牛久藩、下妻藩がある。
明治元年から廃藩置県まで藩となったものに志筑藩、松川藩、龍ヶ崎藩がある。
●関連項目
・令制国一覧
表・話・編・歴 令制国の一覧
五畿七道 畿内 山城 – 大和 – (芳野) – 河内 – 和泉 – 摂津
東海道 伊賀 – 伊勢 – 志摩 – 尾張 – 三河 – 遠江 – 駿河 – 伊豆 – 甲斐 – 相模 – 武蔵 – 安房 – 上総 – 下総 – 常陸
東山道 近江 – 美濃 – 飛騨 – 信濃 – (諏方) – 上野 – 下野 – 出羽(羽前 ·羽後) – (石背) – (石城) – 陸奥(岩代 ·磐城 ·陸前 ·陸中 ·陸奥)
北陸道 若狭 – 越前 – 加賀 – 能登 – 越中 – 越後 – 佐渡
山陰道 丹波 – 丹後 – 但馬 – 因幡 – 伯耆 – 出雲 – 石見 – 隠岐
山陽道 播磨 – 美作 – 備前 – 備中 – 備後 – 安芸 – 周防 – 長門
南海道 紀伊 – 淡路 – 阿波 – 讃岐 – 伊予 – 土佐
西海道 筑前 – 筑後 – 豊前 – 豊後 – 肥前 – 肥後 – 日向 – 大隅 – (多禰) – 薩摩 – 壱岐 – 対馬 – (琉球)
北海道 渡島 – 後志 – 胆振 – 石狩 – 天塩 – 北見 – 日高 – 十勝 – 釧路 – 根室 – 千島
続いてです。茨城県は、かつては、「常陸」という一つの「国」でした。常陸は、「親王任国」だそうです。ということで、親王任国について書きたいと思います。参考までです。
●親王任国について
親王任国(しんのうにんごく)とは、親王が国司に任じられた国及びその制度を指す。
天長3年9月6日(826年10月10日)、清原夏野の奏上に基づき制定された(『類聚三代格』:親王任国太政官符)。
●概要
桓武天皇は非常に多くの皇子・皇女を残し、続く平城天皇及び嵯峨天皇も多くの皇子・皇女に恵まれたが、このため天長3年当時、多数ある親王家を維持する財源と親王に充てるべき官職が不足していた。清原夏野はこうした課題に加えて、当時親王が八省卿を兼務する慣例が成立していたことに問題[1]があることを指摘して、こうした問題を解決するため、親王任国の制度を奏上した[2]。当初は淳和天皇の治世だけに限定して始められたが、結局この制度はその後も存続し、平安時代を通じて定着することとなった。
親王任国に充てられたのは、常陸国、上総国、上野国の3国である。いずれも大国だった。これら3国の国司筆頭官である国守には、必ず親王が補任されるようになった。親王任国の国守となった親王は「太守」と称した。親王太守の官位は、必然的に他の国守より高く、通常は従五位上から従六位下であるのに対して親王任国の太守は正四位下とされた。
天長3年に初めて3国の太守に任じられたのは、賀陽親王(常陸太守)、仲野親王(上総太守)、 葛井親王(上野太守)で、いずれも桓武天皇の皇子であった。
親王太守は、現地へ赴任しない遙任だったため、親王任国での実務上の最高位は、次官の国介(すけ)であった。平安中期になり、受領国司が登場した際も、親王任国については介が受領の地位に就き、他国の国守と同列に扱われた。なお、親王任国においては、太守の俸禄は太守の収入に、その他の料物については無品親王(官職に就けない内親王含む)に与えられたと考えられているが、詳細は不明である。
承平天慶の乱において平将門が新皇として関東八ヶ国の国司を任命した際も、常陸と上総の国司は「常陸介」「上総介」を任命している。叛乱勢力であり親王任国の慣習を守る必要は無いのだが、伝統として定着していたのであろう。しかし何故か上野だけは「上野守」を任命しており、これは将門が上野国に特別な意味を見出していたという説がある。
時代が下り、後醍醐天皇の建武の新政期には、一時期陸奥国も親王任国とされ、義良親王が陸奥太守として実際に陸奥国へ赴任した。
名目としての親王任国はその後も継続した。織田信長が「上総介」を僭称し松平忠輝が任官し、本多正純、吉良義央、小栗忠順が「上野介」を任官したのも、名目 のみとは言え、「上総守」「上野守」の官職が親王のみにしか許されなかったからである。
●脚注
1. 親王は後宮において大切に育てられたために世情に通じていないこと、加えて省の職員に不祥事があった場合に上司にあたる八省卿の親王が連座する危険性があることを指摘した。
2. なお、中納言である良峯安世も、天長初年より、国司制度の改革を唱える意見書を度々出しており(『類聚三代格』)、清原夏野の提案も良峯安世の改革論との関連が考えられている。また、親王任国制のモデルは、参議による国司兼官制に求められると見られている。
3. この3国が選定された理由について不明であるが、時野谷滋は常陸については、同国が田積(田の面積)4万町を誇り(『和名類聚抄』)、なおかつ正税・公廨稲がそれぞれ50万束(『延喜式』)と大国中で屈指の国であったこと、この天長3年に常陸守甘南備高直が前任者との交替の際の失態が明らかにされて更迭された(『続日本後紀』承和3年4月18日条)結果、常陸守が空席であった事を指摘して、同国選定の背景としている。
4. なお、四品親王の場合、弾正尹に任じられる場合には「守」、太守に任じられる場合には「行」と記されている(『三代実録』)。
●参考文献
・時野谷滋『律令封禄制度史の研究』(吉川弘文館、1977年) ISBN 4-6420-2069-1
●関連項目
・令制国
・遙任
・大宰帥(慣習による親王任命)
・常陸宮家(親王任国であった常陸国に因んで命名)
続いてです。続いては、奈良時代初期の713年(和銅6年)に編纂され、721年(養老5年)に成立した、常陸国(現在の茨城県の大部分)の地誌である「常陸国風土記」について書きたいと思います。参考までです。
●常陸国風土記について
常陸国風土記(ひたちのくにふどき)は、奈良時代初期の713年(和銅6年)に編纂され、721年(養老5年)に成立した、常陸国(現在の茨城県の大部分)の地誌である。 口承的な説話の部分は変体の漢文体、歌は万葉仮名による和文体の表記による。
元明天皇の詔によって編纂が命じられた。編纂者は詳しくは不明だが、藤原宇合や高橋虫麻呂らが関与しているといわれている。
現在、風土記は、常陸国、播磨国、肥前国、豊後国、出雲国の5冊のみ伝わっている。他は逸文。
常陸国は、大化改新(645年)の頃に誕生し、現在の石岡市に国府と国分寺が置かれた。その下に新治、白壁(真壁)、筑波、河内、信太、茨城、行方、香島(鹿島)、那賀(那珂)、久慈、多珂(多賀)の11郡が置かれた。
本書における常陸国の名の由来は、以下の2説とされている。
「然名づける所以は、往来の道路、江海の津湾を隔てず、郡郷の境界、山河の峰谷に相続ければ、直道(ひたみち)の義をとって、名称と為せり。」
「倭武(やまとたける)の天皇、東の夷(えみし)の国を巡狩はして、新治の県を幸過ししに国造 那良珠命(ひならすのみこと)を遣わして、新に井を掘らしむと、流泉清く澄み、いとめずらしき。時に、乗輿を留めて、水を愛で、み手に洗いたまいしに、御衣の袖、泉に垂れて沾じぬ。すなわち、袖を浸すこころによって、この国の名とせり。風俗の諺に、筑波岳に黒雲かかり、衣袖漬(ころもでひたち)の国というはこれなり。」
また、『常陸国風土記』が編纂された時代に、常陸国は、「土地が広く、海山の産物も多く、人々は豊に暮らし、まるで常世の国(極楽)のようだ」と評されていた。
●関連項目
・風土記
・播磨国風土記
・肥前国風土記
・豊後国風土記
・出雲国風土記
・夜刀神:常陸国風土記に記載のある蛇神/妖怪
・ダイダラボッチ:大串貝塚を残した巨人
●外部リンク (参考までです)
・口訳・常陸国風土記
http://nire.main.jp/rouman/sinwa/hitatihudoki.htm
| 固定リンク



コメント