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かつては「歴史」ある、一つの「国」でした(1)・・・パート9

続いてです。続いては、茨城県の 産業の「農業」から「交通」まで書いていきます。参考までです。

3. 産業

長く農業中心であったが、1960年代以降、道路交通の発達と平地林の地域開発を軸として工業化、都市化が進んできた。

■農業

県面積の31.1%が耕地(19万ヘクタール)で、農業就業人口19.2万人(1995)。いまも全国屈指の農業県であるが、しかし水の乏しい関東ローム層の台地の畑と、裏作のできない低湿な水田を基盤としている悩みをもっている。

米作は9.6万ヘクタール、45万トンの生産があり、全国第7位の米産県である。水稲の不足を陸稲で補う傾向は残り、全国一の陸稲産地。作付面積でみると、1965~95年の30年間に、麦類は10分の1(8400ヘクタール)となり、全国第1位から第5位に下がった。サツマイモは2分の1(7800ヘクタール)に減少したが全国第2位を保っている。このサツマイモのようなタイプの作物が多いのが本県の特色である。工芸作物の茶、葉タバコ、コンニャクはいまなお多く、和紙生産に欠かせないトロロアオイの特産も残っている。ラッカセイも10分の1となったが千葉県に次いで第2位は変わらない。

園芸作物は道路交通の発達と東京市場の拡大によって急増した。ハクサイ、ゴボウ、蓮根(れんこん)など地の利を得て全国第1位を保つほか、ピーマン、露地メロン、トマト、ナスやミツバ、ニラなども第1、第2位。近年冬、春のレタスやカリフラワーなどの洋菜も第1位となった。それぞれ特産地を形成し、首都圏内の大野菜供給地となった。果樹は増加した。クリ栽培は全国第1位、筑波山地東側の台地に多く、日本ナシは鳥取県に次ぐ第2位、筑西(ちくせい)市とかすみがうら市を中心に主産地を形成している。花卉(かき)類も増加してきた。切り花ではキクのほか、グラジオラス、フリージアが多く、またグラジオラス球根栽培は特産地となり、輸出用とされている。ゴルフ場の増加に対して芝の栽培も多く、つくば市が中心産地である。

■畜産業

養豚は平成年代に入り減少傾向にあり、飼養戸数は多いが、頭数は全国第2位。もともと養豚はサツマイモとデンプン加工の発展に関連して成長した。乳牛は1941年(昭和16)に石岡付近から始まり、台地、山地、利根川堤防に地形を利用した酪農として発達した。北部山地の馬産地帯は、肉牛の飼育に転じ、常陸牛の銘柄で統一を図っている。養鶏、ブロイラーも増加したが、畜産公害を防げる広大な土地の存在が有利な条件である。養蚕業は農家数、桑園、収繭(しゅうけん)量ともに全国第5~6位にある。

■林業

林野面積は19.5万ヘクタール。用材としての資源は貧弱であるが、八溝山付近は針葉樹林が多く、林業も盛んである。ナラ、クヌギなどの広葉樹は多く、平野部の台地でもこれらが平地林をなして特色づけている。林野副産物としての薪炭は減少したが、クリの実は全国第1位。シイタケ栽培は山地にも平地にも広くみられ、生シイタケは全国有数。また造林用杉苗木の生産も多い。

■水産業

60キロメートルの海岸線をもちながら大型漁船の出入港がなく、市場との距離も遠いので明治時代以後、漁業は不振を続けたが、日立の久慈港に始まり那珂湊(なかみなと)、大洗(おおあらい)、波崎(はさき)、大津など漁港の築港や改修が進み、1983年以降は全国有数の漁獲量をもつ水産県となった。漁獲量の80~90%はイワシという特色がある。そのほか、サンマ、サバ、アジなど沖合・沿岸漁業が主。漁港のうち、漁獲量の最大は波崎、底引網漁業の平潟(ひらかた)(北茨城市)は郷土料理向けのアンコウ、大洗はシラスなどが特色。淡水漁業も全国第1位で霞ヶ浦のハゼ、ワカサギとコイや淡水真珠の養殖が盛大。那珂川のサケ、久慈川のアユ、涸沼(ひぬま)のシジミも有名である。

■鉱工業

常磐南部炭田は1972年(昭和47)3月櫛形(くしがた)鉱(現、日立市十王町)の閉山により、銅の日立鉱山は81年9月の閉山により、いずれも明治以来の歴史を終えた。わずかに露天掘りの石炭生産が残るだけである。日立市の大平田(たいへいだ)石灰石鉱山は日立のセメント工業の原料産地、また笠間(かさま)市、桜川(さくらがわ)市の花崗岩(かこうがん)石材は東日本最大の産地である。

近代工業は日立と鹿島地区に偏在し、かつ重化学工業が出荷額の約70%を占め、大規模工場が多いという特色をもつ。日立工業地域は、銅山と精銅生産に起因する電線(非鉄金属)工業と電気機械器具工業の両者をもつ日立製作所系の企業の発展を基盤とする。1994年(平成6)、非鉄金属は3100億円、電機は5985億円で、両者は市の出荷額の60%を占め、これに機械4611億円を加えると90%となり、さらに絶縁物の日立化成工業などの関連工業を加えると、日立市が日立製作所を中心とする工業都市の性格が明らかであろう。鹿島、神栖(かみす)地区は掘込み式の鹿島港中心に1969年以後に成立した。鉄鋼、石油化学、電力の臨海性の工業地域である。生産開始5年後の74年に、この両地区あわせた出荷額は日立市を抜いて本県第1位となった。しかし80年以後、鉄鋼の不況により停滞し、93年には日立市に追い抜かれて第2位となった。このほか、ひたちなか市は早く、取手市は近年、ともに日立市に次ぐ電機工業都市となった。土浦・石岡両市は機械と電線、筑西(ちくせい)市はプラスチックとコンクリート、高萩(たかはぎ)・坂東(ばんどう)両市は製紙工業が特色。また古河(こが)・総和地区は食料品・自動車・プラスチック・金属などの工業地区となり、龍ケ崎(りゅうがさき)市も機械工業が盛大である。

在来工業は振るわないが、そのなかで結城(ゆうき)市の結城紬(つむぎ)は伝統産業として著名。これに対し常総(じょうそう)市石下(いしげ)地区の石下紬は明治末期に絹綿交織の技術開発と、機械化工場制によって紬の低廉化に成功した。第二次世界大戦後は高級志向により1955年から純絹になった。笠間焼は家庭用の水がめ、すり鉢、茶碗(ちゃわん)など実用品を主としたが、需要の変化と栃木県の益子焼(ましこやき)の影響もあって、花器、茶器などの民芸品に転じた。鬼怒(きぬ)川沿いや石岡周辺では桐(きり)材を産し、桐だんす、桐下駄(げた)の生産が多かった。これも需要の変化で衰え、結城だけに桐だんす工業が残っている。水運時代に発達した醸造業は現在も河川、湖沼沿岸の町に多く、石岡は醸造業(酒、しょうゆなど)が集中している。下館地区には米を原料とする製菓業が多く、これも伝統的である。

■地域開発

未開発の土地が広く残され、県南部の平野地帯では20~30%がいまも山林原野のままである。第二次世界大戦後は農業開発が進み、とくに新利根川灌漑(かんがい)排水事業は国営として20年をかけて、約8000ヘクタールの耕地を整備した。次は東海、大洗の海岸地帯に原子力研究施設群を設置している。そして高度経済成長期には日立港築港を成功させ、さらに鹿島砂丘地帯を開いて鹿島港と臨海工業地域を造成した。また筑波台地には、筑波研究学園都市を開き、国の研究機関と二つの国立大学を移した。1985年には「国際科学技術博覧会」(科学万博―つくば'85)が開催された。また、旧水戸射爆場跡地に開港した常陸那珂港の整備が進められ、流通機能と文化機能をもつ新都市も建設中である。

■交通

近世に発達した水運交通は、いまも残る多くの河岸(かし)町を繁栄させた。河川交通は大正時代までに衰退し、最後まで残った霞ヶ浦の土浦―潮来間の水郷汽船も、定期船は1975年(昭和50)に廃止され、遊覧船だけとなった。国鉄(現JR)では1885年(明治18)東北本線が古河を通り、小山から水戸までの水戸線が89年に開通。97年に常磐線が県内を走り、また明治末期までに水郡(すいぐん)線の一部、真岡(もおか)線(真岡鐵道)ができ、水郡線の全通は1934年(昭和9)である。民鉄は大正時代から昭和初期までに常総(関東)鉄道、鹿島参宮(鹿島)鉄道、湊(みなと)(茨城交通)鉄道、竜ヶ崎(関東)鉄道、常北(日立)電鉄、常南電鉄、水戸電鉄、茨城鉄道、筑波鉄道などが通じた。このうち常南電鉄、水戸電鉄、日立電鉄、茨城鉄道、筑波鉄道、鹿島鉄道の各線は廃止されている。なお、1985年(昭和60)には第三セクター鹿島臨海鉄道の大洗鹿島線、水戸―北鹿島(現鹿島サッカースタジアム、JR鹿島線に接続)間が開通し、2005年(平成17)には第三セクターの首都圏新都市鉄道によるつくばエクスプレス(秋葉原―つくば)が開通した。陸路では陸前(りくぜん)浜街道が国道6号として整備され、他の重要国道も整備が進んでいる。常磐自動車道の県内区間は全通し(三郷(みさと)―いわき中央1988開通)、北関東自動車道も県内区間はほぼ開通し、2011年度に全線開通の予定。

■マルチメディアデータ

偕楽園
◆http://100.yahoo.co.jp/detail/%E8%8C%A8%E5%9F%8E%EF%BC%88%E7%9C%8C%EF%BC%89/%EF%BC%BB%E7%94%BB%E5%83%8F%EF%BC%BD/00043328000201/

 参考文献
1.『茨城県史料』17冊(1967~79・茨城県)

2.『日本の文化地理4』(1971・講談社)

3.茨城大学教育研究所編『茨城県郷土研究』(1953・茨城県教職員組合)

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