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かつては「歴史」ある、一つの「国」でした(1)・・・パート7

続いてです。続いては、「茨城県」について解り易くまとめたものがございますので、参考までに書きたいと思います。
茨城(県)(いばらき)と、自然の「地形」と「気候」です。

■茨城(県)(いばらき)■

関東地方の北東部にある県。日本列島のほぼ中央部、北海道と九州とにそれぞれ1000キロメートルの位置にある。東は太平洋(鹿島灘(かしまなだ))に面し、北は福島県、西は栃木県、南は利根(とね)川を挟んで千葉県、南西部は埼玉県に接している。また、東京に近接し首都圏の一部を構成している。県庁所在地は水戸市で、県名は『常陸国風土記(ひたちのくにふどき)』による茨棘(うばら)に由来する茨城(うばらき→いばらき)の郡名による。利根川、霞ヶ浦(かすみがうら)など多くの河川、湖沼が陸上交通の発達を妨げ、断崖(だんがい)と砂浜の海岸には良港がなく、これら自然の条件が海陸からの近代交通の発達を阻害していた。それが明治時代以後、後進的地域ともなった一因であるが、広大な平地林や砂丘を未開発のままに残しえた理由でもある。築港と架橋の技術発達と高度経済成長政策とは、この未開発の土地に大規模な地域開発を可能とし、一挙に近代的発展を促した。鹿島臨海工業地域や筑波(つくば)研究学園都市の開発、利根川架橋の促進や日立港、鹿島港の築港がそれである。また、京浜地帯の過密化などにより、県南部から浸食するように都市化が進んでいる。

これらの特色は人口の分布や変動にもみられ、第1回国勢調査の行われた1920年(大正9)135万であったものが、40年(昭和15)162万、50年(昭和25)に204万に達し、205万前後を長く停滞した。しかし70年に転入人口が増加して214万、80年256万人、85年273万人、95年296万人、2005年(平成17)298万人となった(2005年国勢調査人口297万5617)。本県の人口増加は従来、自然増に大きく支えられてきたが、近年は社会増が顕著である。転入が多いのは県南部、鹿島地区やJR常磐(じょうばん)線の沿線が主で、都市化、工業化地帯である。とくに取手(とりで)市付近の住宅団地造成が影響している。また、県北の旧那珂(なか)郡、久慈(くじ)郡地方の山間部は人口減少が著しい。

2008年4月現在32市7郡10町2村からなる。

偕楽園
◆http://100.yahoo.co.jp/detail/%E8%8C%A8%E5%9F%8E%EF%BC%88%E7%9C%8C%EF%BC%89/%EF%BC%BB%E7%94%BB%E5%83%8F%EF%BC%BD/00043328000201/

1. 自然

■地形

北部に山地、南東部に湖沼、その間に広く平野が開け、河川は北西から南東の方向に流れている。山地は阿武隈(あぶくま)高地南端部にあたり、その中央を久慈(くじ)川の支流里(さと)川の谷で二分される。東側は古生層の地質をもつ多賀(たが)山地で北から南へ、800メートルから300メートルまでの緩い高原をなす。最高峰は花園(はなぞの)山西方の882メートル峰。西側は第三紀層からなる久慈山地で、高度のわりには急峻(きゅうしゅん)な地形をもっている。鍋足(なべあし)山、男体(なんたい)山はその代表である。久慈川の西側は八溝(やみぞ)山地で、本県の最高峰八溝山(1022メートル)をもち、四つの山塊を連ね、茨城県と栃木県の県境を南下し、筑波山(876メートル)に終わる。筑波山塊の中央は陥没して柿岡(かきおか)盆地となる。

平野は常陸(ひたち)台地(下総(しもうさ)台地とあわせて常総(じょうそう)台地ともいう)といい、その間に久慈川、那珂川、涸沼(ひぬま)川、恋瀬(こいせ)川、小貝(こかい)川、鬼怒(きぬ)川、飯沼(いいぬま)川など多くの河川が細長い沿岸低地をつくる。台地は洪積層で関東ローム層が表面を覆い、地力が低く水が乏しい。低地は排水不良の湿田が多く、水害を受けやすい。川の出口付近は沼沢地が多く、霞ヶ浦、北浦、涸沼などの湖沼がある。海岸線は一般に単調で、南部は砂浜海岸をなし、鹿島浦とよばれ、鹿島砂丘が発達している。北部の海岸は海岸段丘や台地が海食崖をなし、景勝地をつくっている。

自然公園は、霞ヶ浦付近の水郷(すいごう)地帯と、関東平野に秀麗な山容を誇る筑波山とを含めた水郷筑波国定公園があるほか、県立自然公園には、花園花貫(はなぞのはなぬき)、奥久慈(おくくじ)、高鈴(たかすず)、太田、御前山(ごぜんやま)、水戸、大洗(おおあらい)、笠間(かさま)、吾国愛宕(わがくにあたご)などがある。

■気候

日本列島が北東から南西へ曲がる曲がり角にある位置と地勢の関係から、気候の地域差は大きい。気温は年平均約14℃であるが、冬の気候に特色があり、海岸から湖沼地帯は暖かく、西南日本太平洋沿岸型、北西部の山地は内陸型の寒冷地である。水戸の冬は北関東のなかでもかなり厳しい寒さをもつ。年降水量は約1300~1400ミリメートルである。風は冬の北西季節風が強く、筑波おろし、日光おろしなどとよばれ、冬野菜や麦などに寒風害をおこすことがある。夏から秋には北東風が多く、海岸から筑波山地東側まで影響を受け、東北地方冷害の南限をなすことがある。気候区は、海岸から湖沼地帯が冬は温暖な海洋性気候、西部が夏は乾燥し冬は風の強い内陸性気候、北西部山地が冬は寒冷で夏は雷雨の多い気候の3地区に区分される。水戸付近は平野と山地の漸移気候で、冬はかなり低温となる。

 参考文献
1.『茨城県史料』17冊(1967~79・茨城県)

2.『日本の文化地理4』(1971・講談社)

3.茨城大学教育研究所編『茨城県郷土研究』(1953・茨城県教職員組合)

続いては、「常陸国」について書きたいと思います。参考までです。

■常陸国(ひたちのくに)■

廃藩置県前の旧国名。大化改新(645)後まもないころに成立した国。現在の茨城県域の北・東部にあたり、関東地方でも北東部に位置する。東は太平洋、西は下野(しもつけ)・下総(しもうさ)両国、北は陸奥(むつ)国に接する。国域の北半分は久慈(くじ)川・那珂(なか)川流域の平地と、阿武隈(あぶくま)山地南部・八溝(やみぞ)山地を中心とする山地で、南半分は霞(かすみ)ヶ浦・北浦に代表される農漁村地帯である。初め常道国(ひたみちのくに)といい、のち常陸国となる。国名の由来は『常陸国風土記(ふどき)』によれば、直通(ひたみち)説と、衣袖漬(ころもでのひたち)説とがあるが、東北地方が道奥(みちのく)といわれたときは常道とよばれ、陸奥とよばれると常陸となる。道の奥にじかに接する国という意味で国名がおこったと考えられる。大化改新までは新治(にいはり)、筑波(つくば)、茨城(むばらき)、那賀(なか)、久慈、多珂(たか)に分かれていたが、改新後の国郡制の施行によって常陸国となり、国内は新治、筑波、白壁(しらかべ)(真壁(まかべ))、河内(かうち)、行方(なめかた)、香島(かしま)(鹿島)、信太(しだ)、茨城、那賀(那珂)、久慈、多珂(多賀)の11郡となった。

古代にあって常陸国は、東北経略の基地として重要視され、奈良時代以降、武功に優れたり、陸奥の情勢に通じた有能な人物が国司に任命され、826年(天長3)には上総(かずさ)・上野(こうずけ)両国とともに親王任国となった。このころ国司として下向してきた源氏・平氏・藤原氏の分流は、土着して未開地を開発し、下人や農民などを従えて土豪として成長した。10世紀なかばに乱を起こした平将門(まさかど)はその一人である。将門の乱後、平国香(くにか)の子孫が大掾(だいじょう)氏を称して繁栄し、また源義光(よしみつ)の子孫佐竹(さたけ)氏も勢力を有した。

平安末期には郡域の変更、郡の私称が行われたが、北半部は佐竹氏が、南半部は常陸平氏一族の支配下となる。鎌倉期になると、これが、源氏の流れをくむ佐竹氏、藤原氏の流れをくむ笠間(かさま)・小田・関・田中・宍戸(ししど)・伊佐氏、平氏の流れをくむ常陸大掾・吉田・石川・真壁・小栗・下妻(しもつま)氏の3勢力となる。

南北朝の前期には北部の瓜連(うりづら)城などを中心に、後期には南部の小田・関・大宝城などで、北朝方の佐竹・烟田(かまた)・行方・鹿島諸氏と、南朝方の那珂・小田・関・下妻・真壁・笠間諸氏が交戦したが、やがて佐竹氏が進出した。佐竹氏は豊臣(とよとみ)秀吉の小田原征伐のときには、秀吉に味方して国の大半を領有した。

関ヶ原の戦い後、佐竹氏は秋田へ国替になり、その後には徳川家康の実子が配され、1609年(慶長14)には御三家(ごさんけ)水戸藩が成立した。水戸藩では2代藩主光圀(みつくに)が『大日本史』編纂(へんさん)のため、全国から多くの学者を招いたが、これが18世紀末からふたたび盛んとなり、水戸学を形成して注目された。国内はおおむね北部が水戸藩領でまとまり、西部が小藩領と天領・旗本領、南部が天領・旗本領とに細分されていた。総石高(こくだか)と村数は元禄(げんろく)期90万3778石余、1677村、天保(てんぽう)期100万5707石余、1723村である。特産物には、結城紬(ゆうきつむぎ)をはじめ西ノ内(にしのうち)紙、水府煙草(すいふたばこ)、久慈のこんにゃくなどが全国的に知られた。明治維新の際、水戸藩のほか、笠間、下館(しもだて)、下妻、土浦(つちうら)など13藩があったが、新治県、茨城県に統合され、1875年(明治8)さらに茨城県に統一された。

 参考文献
1.中山信名編、栗田寛補『新編常陸国誌』(復刻・1981・常陸書房)

2.塙作楽編『常陸の歴史』(1977・講談社)

続いては、「下総国(しもうさのくに)」について書いていきます。参考までです。

■下総国(しもうさのくに)■

千葉県北部と茨城県南西部、埼玉県東端部にわたる旧国名。東海道の一国。大国。北は常陸(ひたち)国、南は上総(かずさ)国、西は武蔵(むさし)国に接する。『古語拾遺(こごしゅうい)』(807)によれば、初め「ふさ(総)の国」、大化改新により上総と下総の2国に分かれた。「ふさ」とは麻のことであり、ふさの国はよい麻を産する所の意味である。『和名抄(わみょうしょう)』(931~938ころ)では下総を「しもつふさ」とよんでいる。ところで、国造(くにのみやつこ)については『先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)』(平安初期)には、印波(いんば)国造、下海上(しもつうなかみ)国造、『日本後紀(にほんこうき)』(840)には千葉国造とある。『延喜式(えんぎしき)』(927)によれば、郡は千葉(ちば)、葛餝(かつしか)、印播(いんば)、埴生(はにゅう)、匝瑳(そうさ)、海上(うなかみ)、香取(かとり)、相馬(そうま)、結城(ゆうき)、豊田(とよだ)、猨島(さしま)の11郡から構成された。1985年現在千葉、市川、習志野(ならしの)、流山(ながれやま)、野田、柏(かしわ)、我孫子(あびこ)、鎌ヶ谷(かまがや)、船橋、八千代(やちよ)、松戸(まつど)、成田(なりた)、四街道(よつかいどう)、八日市場(ようかいちば)、旭(あさひ)、佐倉、佐原(さわら)、銚子(ちょうし)(以上千葉県)、結城、古河(こが)、取手(とりで)、水海道(みつかいどう)、岩井(以上茨城県)、三郷(みさと)(埼玉県)のあわせて24市と、東葛飾(ひがしかつしか)、印旛(いんば)、香取、海上(かいじょう)、匝瑳(以上千葉県)、北相馬、結城、猿島(さしま)(以上茨城県)、北葛飾(埼玉県)のあわせて9郡に分かれる。改新後に置かれた国府はいまの市川市国府台(こうのだい)、国分寺は市川市国分(こくぶ)に置かれた。『和名抄』には下総国内の郷数87、田2万6423町とある。

平安時代中期以降、桓武(かんむ)平氏は関東にその勢力を伸ばした。ことに平将門(まさかど)は当国猿島郡を、また平忠常(ただつね)は相馬郡を本拠として威を振るい、ついには反乱を起こすに至った。忠常の子孫は千葉氏として、当国を勢力地盤として大いに実力を発揮するに至った。1180年(治承4)石橋山の戦いに敗れた源頼朝(よりとも)は安房(あわ)に逃れたが、千葉常重(つねしげ)の子常胤(つねたね)は進んで頼朝のもとに参陣した。以後、千葉氏は鎌倉御家人(ごけにん)として着実に勢力を伸ばし、歴代は下総国の守護を勤めた。そのほか、結城氏、葛西(かさい)氏らの豪族の活躍も見逃せない。

下総国内のおもな荘園(しょうえん)をみると、匝瑳郡に三井寺(みいでら)領玉造(たまつくり)荘、熊野山領匝瑳南条(なんじょう)荘、香取郡に円覚寺領大須賀保(おおすがのほう)、千葉郡には八条院領千葉荘、葛飾郡に伊勢(いせ)二宮領葛西御厨(かさいのみくりや)、八条院・称名寺(しょうみょうじ)領下河辺(しもこうべ)荘、豊田郡に按察使(あぜち)家領豊田荘、相馬郡に伊勢内宮(ないくう)領相馬御厨、海上郡に九条家領三崎(みさき)荘、二位大納言(だいなごん)領橘(たちばな)荘、印旛郡に成就寺(じょうじゅじ)領印東(いんとう)荘が分布した。

13世紀の初めに安房国に生まれた僧日蓮(にちれん)は日蓮宗の開祖であるが、下総武士団との関係は深く、1260年(文応1)念仏者により庵室(あんしつ)を焼かれて下総若宮(わかみや)(市川市)の富木胤継(ときたねつぐ)(常忍(じょうにん))の館(やかた)に身を寄せた。この富木氏の邸が中山門流発展の基となった。日蓮が執権(しっけん)北条時頼(ときより)に呈した『立正安国論』の自筆本が中山法華経寺(ほけきょうじ)にある。

戦国時代には足利成氏(しげうじ)が古河(こが)にあって、古河公方(くぼう)と称した。一方、房総南部を拠点とした里見氏や、後北条(ごほうじょう)氏らが当国にも逐次勢力を扶植するようになった。1590年(天正18)小田原合戦により千葉氏は後北条氏とともに滅亡し、徳川家康の勢力が急速に当国を席巻(せっけん)した。その結果、佐倉、関宿(せきやど)、古河の各藩のほか、結城、小見川(おみがわ)、多古(たこ)などの小藩が分立した。佐倉藩は、武田―松平―小笠原(おがさわら)―土井―石川―松平(形原(かたはら))―堀田(ほった)―松平(大給(おぎゅう))―大久保―戸田―稲葉―松平(大給)の諸氏が相次ぎ入封、1746年(延享3)以後は後期堀田氏が入封して定着した。関宿藩は松平(久松)―松平(能見(のみ))―小笠原―北条―牧野―板倉―久世(くぜ)―牧野―久世の各氏が、古河藩は小笠原―松平(戸田)―小笠原―奥平―永井―土井―堀田―松平(藤井)―松平(長沢・大河内(おおこうち))―本多―松平(松井)―土井の各氏が続いて明治に至った。

当国は江戸の御膝元(おひざもと)であったので、軍事上からも江戸の防衛線の重要な一環を形成し、譜代(ふだい)大名(石高(こくだか)の規模は零細を特色)、旗本知行(ちぎょう)、代官領が錯綜(さくそう)し、原則として佐倉藩領の城付(しろつき)領などを除くほかは、支配形態は一般的に相給(あいきゅう)の犬牙(けんが)錯綜の地であり、しかも個別領主の交替も頻繁であった。当国の検地(太閤(たいこう)検地)は1591年(天正19)から翌年に断行された。1702年(元禄15)における当国の総石高56万8331石1斗1升3合7勺4才、村数1486か村であった。これより先、佐倉藩に起こった佐倉惣五郎(そうごろう)事件は歴史上著名であり、人物としては、農民・商人から勉学を続け「大日本沿海輿地(よち)全図」を完成した伊能忠敬(いのうただたか)(出身は上総国、18歳で下総国佐原村伊能家へ養子)がよく知られる。産業は、近世以降、銚子(ちょうし)・野田の醤油(しょうゆ)醸造、行徳(ぎょうとく)の塩田が栄え、紀州漁民の進出で漁業も発展した。結城の紬(つむぎ)も古くから有名。1871年(明治4)7月廃藩置県により当国は印旛県、新治(にいはり)県の管轄、73年印旛・木更津(きさらづ)両県が合併して千葉県となり、75年新治県に属した地域を利根(とね)川を境界として千葉・茨城両県に分割、現在に至っている。なお、葛飾郡の一部は71年および75年に埼玉県に編入された。

 参考文献
1.『千葉県史 明治編』(1962・千葉県)

2.川村優編『郷土史事典12 千葉県』(1979・昌平社)

3.川村優他編『千葉県の歴史』(1971・山川出版社)

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