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元々此れは「魔術」的な意味でしたが、今は、違った意味で使われています・・・パート11

続いてです。「ハロウィンイベント2009イベント情報です」。少し長いので、二枚に分けて書きました。参考までです。

■ハロウィン・ジャパン・インフォ・ハロウィンイベント情報
http://www.h-jp.info/

■東京ディズニーランドスペシャルイベント2009

ディズニー・ハロウィン
2009年9月10日(木)~11月3日(火・祝)まで
http://www.tokyodisneyresort.co.jp/tdl/japanese/event/halloween2009/

■ディズニー・シースペシャルイベント2009
ディズニー・ハロウィン
2009年9月10日(木)~11月3日(火・祝)まで
http://www.tokyodisneyresort.co.jp/tds/japanese/event/halloween2009/index.html

■ウェブラ チッタデッラ【川崎】~KAWASAKI Halloween 2009

http://www.lacittadella.co.jp/halloween/

■ハロウィン2009
http://season.enjoytokyo.jp/halloween/

■ディズニーアンバダーホテル・ディズニー・シースペシャルイベント2009

http://www.disneyhotels.jp/dah/japanese/event/halloween2009/index.html

■カワサキハロウィン2009

http://lacittadella.co.jp/halloween/index.html

■ディズニーアンバダーホテル・エンパイアグリル

http://www.disneyhotels.jp/dah/japanese/event/halloween2009/empire.html

■グランドハロウィン2009

http://www.grand1934.com/rest/complan/halloween.html

■【ハッピーハロウィン2009 パンプキンフェア】ハロウィンパーティー

2009年10月31日(土)のハロウィン当日はハロウィンパーティーを開催。スタッフによるダンスがハロウィンダンスに変わるほか、毎年恒例のフェイスペインティングサービス(無料)などを実施します。

【期  間】 2009年10月31日(土)
【時  間】 第1部 15:00~17:00(受付開始14:00~)
       第2部 19:30~21:30(受付開始18:30~)
【場  所】 東京ドームシティ ベースボールカフェ
【問 合 せ】 ベースボールカフェ 03-3817-6262

東京ドームシティ
http://www.tokyo-dome.co.jp/

■ハッピーハロウィン2009

http://www.oriental-hotel.co.jp/event/halloween/index.html

■しな水ハロウィンフェスティバル2009

http://www.aquarium.gr.jp/topics/index.html

■ハッピーハロウィーン 2009 -- 愛知県

みんなでハロウィーンに参加しよう!
毎年恒例のハロウィーンイベントが星が丘テラスで開催。今年は参加型イベントが目白押し! ハロウィーンにちなんだワークショップや大きなかぼちゃの重さ当てスタンプラリーが行われる。また、昨年も好評だったハロウィーンパレードも開催。今年は初めてナイトパレードも行われ、ハロウィーンの雰囲気を存分に楽しめる。

料金 有料のイベントあり
問い合わせ先 星が丘テラスインフォメーション 052-781-1266

開催地 星が丘テラス イベント広場・ウッドデッキ他
住所 名古屋市千種区星が丘元町16-50
アクセス 公共: 地下鉄東山線 星ヶ丘駅より徒歩1分
車: 東名高速道路 名古屋インター、東名阪自動車道 上社インターより栄方面に向かって約3キロ
駐車場: 1500台 (30分200円 一般駐車場)
備考 j時間はイベントに異なる

URL http://www.hoshigaoka-terrace.com/
http://map.livedoor.com/event/d/8560/%E3%83%8F%E3%83%83%E3%83%94%E3%83%BC%E3%83%8F%E3%83%AD%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%B3_2009/

■ユニバーサル・マジカル・ハロウィン2009

http://www.usj.co.jp/UMH09/

■ピューランド・ハロウィンフェスティバル2009

http://www.puroland.co.jp/event/2009autumn/hw.html

■にいつハロウィン仮装まつり

http://www.akiha.jp/halloween/

■ハロウィンイベント2009

http://season.enjoytokyo.jp/halloween/event/

■夢の島ハロウィンパーティー2009

ハロウィンにちなんで、茨城県常陸大宮市で作られた1個50~100キログラムにもなる巨大なお化けカボチャを約50個展示します。このお化けカボチャは鑑賞だけでなく、自由に触ったりもできます。また、今年は来館者の投票による「お化けカボチャコンクール」を開催し、一番重いカボチャや形がきれいなカボチャを選んでもらいます。

http://www.metro.tokyo.jp/INET/EVENT/2009/08/21j8p502.htm

■ハロウィン 2009
仮装ダンスレッスン

開催日
10月31日(土)
対象クラス
31日(土)のすべてのダンスレッスン
コンテスト方法
10/31にみなさんの仮装された姿を写真に撮って、スダシオ内掲示とFWDS web-site にて公開。ご覧になった皆さんから投票をして頂きます。その結果、もっとも得票数の多かった方に、FWDSベスト・コスチューム賞を進呈します。
投票(審査)期間
11/2~11/21日 (審査発表11/21即日)
FWDSベスト・コスチューム賞
賞状とダンスレッスンチケット1枚
(全てのダンスレッスン有効・1年間有効)

http://www.fwds.org/ez/halloween08.html

■六甲アイランドハロウィンフェスティバル2009

http://www.rokko-island.com/

■東京ディズニーシースペシャルイベント2009
「ミステリアス・マスカレード」

http://www.tokyodisneyresort.co.jp/tds/japanese/event/halloween2009/about.html

■ハッピーハロウィーン 2009

ジャンル お祭り
開催地 星が丘テラス イベント広場・ウッドデッキ他

開催期間 2009年10月17日~2009年10月31日
※イベントの中止や開催期間の変更に関しては、「問い合わせ先」欄に掲載の連絡先までご確認ください。

開催時間  j時間はイベントに異なる
料金 有料のイベントあり
問い合わせ先 星が丘テラスインフォメーション
電話番号 052-781-1266
概要 毎年恒例のハロウィーンイベントが星が丘テラスで開催。今年は参加型イベントが目白押し! ハロウィーンにちなんだワークショップや大きなかぼちゃの重さ当てスタンプラリーが行われる。また、昨年も好評だったハロウィーンパレードも開催。今年は初めてナイトパレードも行われ、ハロウィーンの雰囲気を存分に楽しめる。

http://local.yahoo.co.jp/detail/event/p10017396/
http://www.hoshigaoka-terrace.com/index.php?ts=1256808248266

■IKSPIARI HALLOWEEN 2009

http://www.ikspiari.com/

■伊香保グリーン牧場 ハロウィーン2009 オータムフェア

開催期間:2009年9月19日~2009年10月31日
開催地:伊香保グリーン牧場
住所:渋川市金井2844
公式サイト
http://www.greenbokujo.jp/news_09halloween.html
http://travel.biglobe.ne.jp/family/event/010/10012166.html

■ラグナシア ハロウィン2009

http://www.laguna-gamagori.co.jp/lagunasia/event/2009/autumn/happy.html
http://www.laguna-gamagori.co.jp/lagunasia/event/2009/autumn/index.html?OVRAW=%E3%83%8F%E3%83%AD%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%B32009&OVKEY=%E3%83%8F%E3%83%AD%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%B3&OVMTC=advanced&OVADID=25246779541&OVKWID=265268898541

■サンルートプラザ東京 ハロウィン2009

http://www.sunroute-plaza-tokyo.co.jp/page/event/halloween/2009/index.html#event

■ハロウィン2009 パレード

日時:2009年10月31日(土) 11:00~13:30
※時間内であれば随時ご参加いただけます。
※パレードは約200名様を1グループに、時間内に数グループに分かれてスタートします。
※参加人数によってはスタートまで多少お待ちいただくこともございます。(午前中は混雑が予想されます)
※パレードの所要時間は25分程度です。

http://www.roppongihills.com/jp/feature/vol110/02_halloween2009.html

■【辻堂海浜公園】辻堂海浜公園 ハロウィン2009

http://www.kanagawa-park.or.jp/cityparkevent/2009/10/03111645.html

■名称 ハロウィンパーティ2009 (ハロウィンパーティ)

開催場所 兵庫県宝塚市 宝塚ガーデンフィールズ

http://www.jalan.net/kankou/evt_0072566.html

■2009.10.28~10.31
10月31日(土)カワサキハロウィン2009のお知らせ

10月31日(土)カワサキハロウィン2009に伴い、川崎駅周辺
で交通規制が実地されます。

http://www.lazona-kawasaki.com/info/news.shtml

■ハロウィンウォーク2009

http://www.yamate-seiyoukan.org/event/event-halloween2009.html

ハロウィン2009イベントは、その他実に様々なイベントが、全国各地で行われています。
全て書ききれないので、「ハロウィン2009のイベント」で検索すれば、きっと貴方のお気に入りのイベントが見つかるかもしれません・・・。

いかがでしたでしょうか??「今回の「ハロウィンの日2009」。ハロウィンは11月1日のキリスト教のすべての聖人の祝日「万聖節」の前夜祭で、アメリカなどではこの日の夜、カボチャをくりぬいてランタンを作り、魔女やお化けに変装した子供達が家々回っては、お菓子などをもらう習わしがある。古代ケルト族の秋の収穫の祝いと、悪魔を追い払う祭りが今に伝わったものという。

本来は、ケルト人の新年「ソーウィン」から派生しており、この日には死者の世界と人間の世界を隔てるベールが薄くなるため、幽霊がさまよいでると信じられていました。

今日は、10月31日、「ハロウィンの日」。皆さんはどう過ごしますか??

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元々此れは「魔術」的な意味でしたが、今は、違った意味で使われています・・・パート10

続いてです。続いては、「ハロウィンに関する2009ニュース、イベント情報」です。参考までです。

■山下公園で「国際野外アートフェア」‐ハロウィンワークショップも /神奈川

10月29日9時29分配信

山下公園おまつり広場(横浜市中区山下町279)で10月30日より、野外でアート作品に触れる「国際野外アートフェア2009横浜」が開催される。(ヨコハマ経済新聞)

同イベントは、「アートを日常に」をキーワードにしたストリートアートフェア。市民と日米アーティストがアート作品を通して気軽に直接交流できる空間を提供し、アートを身近に感じられる生活環境を支援する。期間中はお祭り広場にブースを設置し、絵画(水彩画、油絵)、版画、デジタル画、立体オブジェ、写真、工芸、陶芸など多様なジャンルの作品を展示するほか、ワークショップやデモンストレーションをおこなう。主催はNPO法人インターナショナル アート&クラフト プロモーション

出展アーティストは、Vincent Pernicanoさんら全米最大級のアートフェアで活躍するアメリカ人、カナダ人アーティスト11人、小林敏大さんをはじめとする国内アーティスト約20人。アニメーション作家でイラストレーターの久里洋二さんも招待作家として参加する。

10月31日は、「アートハロウィン!!」と題した、コスチュウムやフェイスペイントで仮装を楽しむ「ハロウィーンワークショップ」(参加費1,000円、12時~15時)、水彩の魔術師と言われるShirl K Hathawayさんのユニークな「水彩技法のデモンストレーション」(参加無料、11時~12時頃)。11月1日は、Carroll Swayzeさんと一緒に親子で壁画に挑戦する「ハンドペインティング」(参加費500円、12時~15時頃)を実施。

会場には、久里さんの作品をプリントしたTシャツなどを販売するイベント記念品販売所や、カード決済端末機を設置したクレジットカード支払い受付所、宅配サービス受付所を設ける。

NPO法人IA&CPの副理事、岡鼻ミドリさんは「アメリカでは50年の歴史を持つ一般的なアートフェアは、美術館や画廊のように敷居も高くなく、お散歩感覚でアートを見て回りながら作家とも気軽に話が出来ます。気に入った作品と出会ったなら、お財布の中のお小遣いでアートを購入してみてください。家に持ち帰れば、昨日とは違う我が家になるはずです」と話す。

開催時間は10時~16時。11月1日まで。

NPO法人インターナショナル アート&クラフト プロモーション(IA&CP)は、2009年5月25日に設立した「アートを日常に」をキーワードに活動する市民団体。多様なスタイルや表現力を持つさまざまなアート作品を通じて、創造力、発想力、考える力、見抜く力、判断力、行動力、真のコミュニケーション能力を育む機会の創出を目指す。「国際屋外アートフェア2009横浜」が第1回目の活動。
山下公園で「国際野外アートフェア」‐ハロウィンワークショップも /神奈川

10月29日9時29分配信 みんなの経済新聞ネットワーク
Tiffany Ownbeyさんの作品「Catch、ペーパーマシェ」(ヨコハマ経済新聞)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20091029-00000008-minkei-l14.view-000

■ハロウィンと秋のバラ祭り:「ハイジの村」ハロウィーンムード /山梨
10月27日13時1分配信 毎日新聞

北杜市明野町浅尾の「県立フラワーセンター・ハイジの村」で、「ハロウィンと秋のバラ祭り」が開催されている。敷地内はオレンジ色の大小さまざまなカボチャで飾り付けられ、ハロウィーンムードを演出している。11月3日まで。
中庭では、センター内で栽培されたカボチャの数と、最も大きなカボチャの重さを当てるクイズ大会が開かれており、正解者に抽選でオリジナルグッズがプレゼントされる。また、センター内のレストラン「ボルケーノ」では、期間限定メニューとして、カボチャを丸ごと使ったグラタン「ジャック・オ・グラタン」が提供される。
 
このほか、赤や黄色、白など色鮮やかな約1500株のバラが見ごろを迎えている。見ごろは今月末まで。
 家族で訪れた神奈川県相模原市下九沢、主婦、丸山なつ美さん(25)は「カボチャの飾りがとてもかわいい。ハロウィーンの楽しい雰囲気が伝わってきます」と話していた。

■ゲーマー的、ハロウィンのコスプレ指南
10月28日9時6分配信 インサイド

もうじきハロウィンですが、ゲーマー的にはどんなコスプレをすればいいのでしょうか?

海外ゲームサイトVintage Computing and Gamingは「2009年のゲームコスチュームアイデア」と題し、コスチュームの作り方とキャラクターとしての振る舞い方を伝授するジョーク記事を発表しています。面白いものを見ていきましょう。

■火の粉(ドンキーコング)
・材料:赤・オレンジ・黄色のクレープペーパー、ゴミ袋
・キャラクターとしての振る舞い:建設現場に鋼材に沿って10個のカスタードパイを配置する。大工や配管工の仮装をした人が来るので通行を妨害する。

サイトでは「難燃性のジャンプスーツとスタント用可燃ジェル」との記述が横線で消されているのが物騒。身体に火でも点けろとでもいうのでしょうか。カスタードパイはベルトコンベアー面(50m)のセメントの再現のようです。

■Reggie Fils-Aime氏(米国任天堂の社長兼COO)
・材料:アフロのカツラ、ライトグレーのビジネススーツと青いシャツ、スティーブ・ジョブズ氏の写真を入れた財布
・キャラクターとしての振る舞い:家々の戸口で、Wiiとゲームに関する改良をぎこちなくプレゼンする

このコスプレをすれば「ポケットは前のハロウィンからキャンディで一杯」になるだろうとのこと。Wiiの人気は海外でも変わらないようです。

■ロロ(『アドベンチャーズ オブ ロロ』)
・材料:青い毛糸玉500個、白い道化の靴と手袋、19世紀に作られた金の鍵、イカの目玉
・キャラクターとしての振る舞い:格子のような歩道を歩き回り、色々な品物を歩行者の前に押し出し、動けなくならないようにキャンディを探す

懐かしのファミコンゲームの登場。ロロは青いボールに目玉がついた様な姿ですが、青い毛糸玉500個とイカの目玉とは工作に手間がかかりそうです。

■ボンバーマン(『ボンバーマン アクト:ゼロ』)
・材料:色あせたアイアンマンのアーマー
・キャラクターとしての振る舞い:いつも通りキャンディを集める。きっとアイアンマンに間違われるが、アイアンマンでないと繰り返し語る

『ボンバーマン アクト:ゼロ』ではキャラクターデザインが大幅に変わりましたが、Vintage Computing and Gamingは、ぶっちゃけアイアンマンそっくりだと言いたいようです。

■獣王記の主人公(『獣王記』)
・材料:オオカミ・トラ・ドラゴンのマスク、空気を入れて膨らませる筋肉スーツ
・キャラクターとしての振る舞い:丸いキャンディを1個受け取ったら筋肉スーツを膨らませる。2個目でマスクをかぶる。通りにあわせてマスクを変える。

『獣王記』のパワーアップを模して振る舞うということで、海外ゲーマーのレトロゲーム愛には感心するばかりです。

レトロゲームのキャラクターから業界人まで幅広いコスプレ。特にReggie Fils-Aime氏のハロウィンコスプレは本当にやる人が出るかも知れませんね。

【関連記事】
http://www.vintagecomputing.com/index.php/archives/595

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元々此れは「魔術」的な意味でしたが、今は、違った意味で使われています・・・パート9

続いてです。ハロウィンは、本来は、ケルト人の新年「ソーウィン」から派生しており、この日には死者の世界と人間の世界を隔てるベールが薄くなるため、幽霊がさまよいでると信じられていました。

ハロウィンは、元々は、「黒魔術」だということをご存知でしょうか?ハロウィンは、古代ケルトの「ドルイド」の信仰では、新年の始まりは冬の季節の始まりである11月1日のサウィン(Samhain)祭でした。ちょうど短い日が新しい年の始まりを示していたように、日没は新しい日の始まりを意味していました。したがって、この収穫祭は毎年10月31日の夜に始まりました。アイルランドと英国のドルイド祭司たちは、火をつけ、作物と動物の犠牲を捧げた。また、ドルイド祭司たちが火のまわりで踊るとともに、太陽の季節が過ぎ去り、暗闇の季節が始まったのだっそうです。

それでは、続いては、この「ドルイド教(ドルイド)」というものについて書いていきたいと思います。参考までです。

◆ドルイド教について◆

紀元前700年から1200年のころ、中央ヨーロッパからヨーロッパ全土に広がりはじめたケルト人たちのエリート階級の宗教。
ドルイドとは「オークの木の賢者」の意味と考えられています。彼らネメトンと呼ばれるオークの木の森で集い、オークの木に宿るヤドリギを神聖視し、魔術やヒーリングに使っていました。ドルイドたちは実際には、王や英雄の歌を記憶し、詩を作り、人々に情報を伝えたバード(吟遊詩人)、ヒーリングと自然界の知識を学び、時を超えて過去と未来を見たオービット、そして実際のドルイドに分かれていたと考えられています。
バードとオービットとしての経験を積んだものだけが、ドルイドになれました。ドルイドは、天文学者、立法者、裁判官、魔術師などの機能をあわせ持っており、王にも匹敵する権力を持っていました。ドルイドになる訓練は、長ければ20年もかかったといいます。

ケルト人とローマ人とキリスト教の手によって抑圧され、文字によって知識を残さなかったドルイドの知識の多くは失われてしまいました。
しかし、明らかに異教徒だったドルイドは厳しく迫害されましたが、バードに対する迫害は厳しくなく、彼らがドルイドの知識を伝えたとい言われています。18世紀ごろまでは、スコットランドとウェールズでバードの学院が機能したいたといいます。実際にどの程度古いドルイドの知識が残ったはさだかではありません。
18世紀のイングランドでは、イギリスじゅうのバードのグループが団結し、1つの新しいドルイド団体を作り上げました。これはキリスト教とフリーメーソンをベースにした運動で、名前だけのドルイドだったそうです。

しかし、歴史学や考古学を通じて、より古代のドルイドについてわかるようになり、さらにウィッカなどのペイガン運動の影響もあり、現代の多くのドルイドたちは新しいペイガンのドルイドとして生まれ変りました。現代の多くのドルイドは比較的古いドルイドと近い運動であるそうです。
一説によると、ドルイドが迫害されたとき逃げ延びた者たちが世俗化したのがヨーロッパの魔女や呪術師の始まりだといわれているそうです。

それでは、ここで、もうひとつ、「ドルイド教」について、より詳しく書いたものがございますので、参考までにご紹介したいと思います。(特に、バード、オーヴイット、実際のドルイド」についてです)。あくまでも「参考」までです。

◆ドルイド教について・・・パート2◆

紀元前700年から1200年頃のあいだに、中央ヨーロッパからヨーロッパ全土に広がりはじめた「ケルト人」の司祭の宗教です。
ドルイドとはおそらく「樫の木の賢者」の意味である。彼らは、樫の木の森で集い、樫の木に宿るヤドリギを神聖として魔術やヒーリングに使っていました。
一説によると、ドルイドはアトランティス大陸が沈んだ時に逃げた魔術師が起源だとされていますが、客観的な証拠には乏しいのだそうです。実際には、彼らは3種類に分かれたと言われます。それはバード、オーヴイット、実際のドルイドです。

バードは吟遊詩人で、王や英雄の伝承を物語や詩の形で覚え、人々に伝える伝承者であり生きた記録でした。オーヴイットはヒーリングと自然界の知識、占いを学ぶ予言者でした。バードとオーヴイットの経験が積んだものが、司祭、立法者、天文学者、裁判官、魔術師などの機能をあわせもつドルイドになれたと言います。ドルイドの修行には20年の月日がかかったのだそうです。伝説的にはドルイドは嵐や霧を起こすこともできました。

ケルト人がローマ人によって迫害され、また、ドルイドは文字の形で思考を残すことをしなかったため、現在我々が歴史上のドルイドについて知ることはほとんどローマ人の手による記録だそうです。ドルイドは抑圧されたものの、バードへの迫害はそれほど厳しくなく、スコットランドのバードはドルイドの知識を密かに伝えたという考えもあるそうです。

18世紀のイングランドでは残っていたバードたちが一つの新しいドイルド団体として団結し、新しいドルイドの伝統を始めたそうです。とはいえ、これは古代のドルイドとはほとんど似ても似つかず、主にキリスト教徒たちによる運動だそうです。

20世紀現在、ドルイド教は様々な形態で存在しているそうです。古いドルイド教のように、神々を崇拝し、自然中心主義の宗教としてドルイド教を実践している者もいれば、キリスト教徒のドルイド、ボランティア団体や文化運動としてのドルイド教も存在しているのだそうです。日本にもドルイドは存在し、古い自然中心宗教の復活を目指しているのだそうです。

これはあくまでも、参考までに記しました。ご了承下さい。

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元々此れは「魔術」的な意味でしたが、今は、違った意味で使われています・・・パート8

続いてです。続いては、1992年10月17日、ルイジアナ州バトンルージュにAFSを通じて留学していた日本人の高校生がハロウィンパーティで訪問先を間違い射殺された事件、「日本人留学生射殺事件」と言うものについて書いていきたいと思います。

これは、参考までです。ご了承くださいませ。

●日本人留学生射殺事件について

日本人留学生射殺事件(にほんじんりゅうがくせいしゃさつじけん)とは、1992年にアメリカ合衆国で日本人留学生、服部剛丈が射殺された事件である。この事件でアメリカの銃社会の実情が浮き彫りになり、その悲劇を乗り越えていこうとする各種の取り組みがなされた。

●事件の概略

1992年10月17日、ルイジアナ州バトンルージュにAFSを通じて留学していた日本人の高校生、服部剛丈(はっとり よしひろ、当時16歳)が、ハロウィンパーティに留学先のホストブラザーと出かけた。しかし、訪問しようとした家と間違えて別の家を訪問したため、家人ロドニー・ピアーズ(当時30歳)から侵入者と判断されてスミス&ウェッソン社製の.44マグナム装填銃を突きつけられ、「フリーズ(Freeze「止まれ」の意)」と警告された。しかしながら服部は「パーティに来たんです」と説明しながらピアーズの方に進んだため、2.5mの距離から射殺された。

●その後の経緯

ピアーズは、日本の刑法では傷害致死罪に相当する計画性のない殺人罪で起訴されたが、同州の東バトンルージュ郡地方裁判所陪審員は12名(白人10名、黒人2名)全員一致で無罪の評決を下した。評決の理由は裁判において、明らかにされていない。ルイジアナ州の法律では、屋内への侵入者については発砲が容認されているが、服部は屋内に入っていない。この裁判の場合、傷害致死罪を適用するのは最初から無理があり、無罪評決は正当防衛を認めたものか、傷害致死罪の構成要因を満たしていないと陪審員が判断した結果なのかは不明である。

この後行われた、遺族が起こした損害賠償を求める民事裁判では、刑事裁判とは正反対の結果となった。ピアーズが家に何丁も銃を持つガンマニアであり、しばしば近所の野良犬や自宅敷地内に入ってきた犬猫を射殺しており、当日は酒に酔っていたことなどが実証されたため、正当防衛であると認められないとして65万3000ドル(およそ7000万円)を支払うよう命令する判決が出され、同州高等裁も控訴を棄却したため確定した。  

服部の両親はAFSと友人たちの協力で「アメリカの家庭からの銃の撤去を求める請願書」に署名を求める活動を開始、1年余で170万人分を超える署名を集めた。1993年11月、当時のアメリカ大統領、ビル・クリントンに署名を届けるために面会した。服部夫妻がワシントンに滞在していた間に、アメリカにおける銃規制の重要法案であったブレイディ法が可決された。

●事件の背景

米国には銃で自らや家族を防衛することを容認する文化が存在し、連邦最高裁は2008年に、権利の章典は個人の銃所持を認めているという見解を出した[3]。このような社会においては、他人の敷地に許可なく侵入することの危険性、射撃の警告を受けた場合の対処の仕方(例えば警官に職務質問等において警告を受けた場合、絶対身体を動かしてはならない)等のアドバイスが外国人に対して必要ではないかという指摘もある。  

また、銃社会アメリカに固有の文化に対する干渉への心情的な反発にも配慮する必要がある。すなわちこれが高じれば被批判者よりエスノセントリズムに立った文化批判と受け取られかねなく、慎重な対応が求められる。実際、上述の服部夫妻による銃規制運動もアメリカ国内では賛否両論があった。しかしながら、困難を極めたブレイディ法の成立に服部夫妻の運動が影響したことは当時の一般的な見解であった。

●そのほか

ロドニー・ピアーズは賠償金65万3000ドルのうち保険金からの10万ドル以外は支払っていない(2009年9月10日現在)。
日米間の文化の違いを乗り越え相互理解してもらうことを目的に、服部の遺族は生命保険の支払い金を原資として、AFS留学生として日本に滞在するアメリカの高校生に毎年1人ずつ奨学金を提供する「YOSHI基金」を1993年6月に設立し翌年から毎年実行している。
服部の遺族はまた、賠償金の支払い10万ドルのうち、弁護士費用を除いた5万5000ドルを原資として、「Yoshi's Gift」を設立し、アメリカ国内の銃規制団体を援助している。
アメリカ在住の中国人の女性映画監督クリスティン・チョイが『世界に轟いた銃声(原題:The Shot Heard Around the World)』というドキュメンタリー映画を製作した。この映画では民事訴訟におけるピアーズの様子のほか、殺害された服部の母親も出演している。そこで彼女は息子を射殺した男性もまたアメリカの銃社会の被害者かもしれないと発言している。
歌手の松任谷由実は事件後の1993年当時、自身がパーソナリティを務めていたニッポン放送のラジオ番組、「松任谷由実のオールナイトニッポン」の中でリスナーから届いた仮装した写真を見て「なんかこの格好"フリーズ"て言って撃たれそう」と発言し、直後に不謹慎であったとして謝罪した。番組終了後も改めてニッポン放送のアナウンサーが真夜中に遺族に対しての謝罪放送を行った。

●脚注

1. 賀茂美則著 『アメリカを愛した少年 ー「服部剛丈君射殺事件」裁判』(講談社)ISBN 4062067196
2. 賀茂美則著 『アメリカを愛した少年 ー「服部剛丈君射殺事件」裁判』(講談社)ISBN 4062067196
3. http://en.wikipedia.org/wiki/District_of_Columbia_v._Heller
http://en.wikipedia.org/wiki/District_of_Columbia_v._Heller

● 関連書籍

・.賀茂美則著 『アメリカを愛した少年 ー「服部剛丈君射殺事件」裁判』(講談社)ISBN 4062067196
・ティム・タリー著 平義克己訳 『フリーズ! ―ピアーズはなぜ服部君を撃ったのか』(集英社)ISBN 4087751686
・チャールズ・ムーア著 「独占手記:『服部君裁判』勝利の瞬間」 『文藝春秋』 1994年 11月号

●関連項目

・銃社会

●外部リンク (こちらは参考までです)

・YOSHIの会
http://www11.plala.or.jp/yoshic/

・ロドニー・ピアーズ インタビュー by 大野和基
http://www.globe-walkers.com/ohno/interview/peers.htm

・服部君射殺事件のヘイメーカー夫妻訪日
http://www.scarsdalemura-kara.com/juukisei%20unndo.htm

心からご冥福をお祈り申し上げます。

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元々此れは「魔術」的な意味でしたが、今は、違った意味で使われています・・・パート7

続いてです。続いては、火薬陰謀事件の「密告」から順に書いていきます。

●密告

全ては周到に進められているかに見えた。しかし、カトリック議員までも殺害することになるこの計画に対しては、疑問の声もあった。この意見の相違が原因となったのか、計画は1通の書簡によって狂わされた。

開院式を目前に控えた10月26日の晩、第4代モンティーグル男爵ウィリアム・パーカー (William Parker, 4th Baron Monteagle) のもとに、匿名の書簡が届けられた。書簡には、開院式への出席を取りやめるよう警告する文章が書かれていた。モンティーグル卿は、この書簡を直ちに第5期初代ソールズベリー伯ロバート・セシルに見せた。

書簡の差出人は遂に判明しなかったが、モンティーグル卿の義弟であったトレシャムとの説が有力である。

ケイツビーらは、書簡がモンティーグル卿の手に渡り、しかもトマス・ウィンターが逮捕後の11月23日に行った告白の中で展開されているように、ソールズベリー伯が所有しているということを知っていた。にも拘らず、彼らは予定通り決行することを決めたのである。地下室を検査したフォークスの報告から、火薬が他者に触れられた形跡のないことが判明したことにより、計画の成功を確信したためとみられる。

こうしてガイ・フォークスは、火薬の見張りと点火を行うため、地下室に残された。他の陰謀者はウォリックシャー (Warwickshire) のダンチャーチに逃れ、固唾を呑んで報せを待った。

●破局

しかし、議場が爆音に包まれる日は来なかった。地下室は、まさに開院式当日、11月5日の未明に治安判事トマス・ナイヴェット (Thomas Knyvet) によって襲撃されたのである。ナイヴェットは上院直下の地下室にてガイ・フォークスを発見し、一帯の捜索を命じた。当局は火薬の入った樽を発見し、フォークスを逮捕した。

ジェームズ1世の寝室に連行されたフォークスは、当初は完全黙秘を決め込んだ。しかし、投獄されたロンドン塔にて、王の許可のもとで行われた凄まじい拷問の末、事件の全容を白状した。

スタフォードシャー (Staffordshire) にあるケイツビーの隠れ家にも、11月8日に捜査の手が入った。トマス・ウィンターは、肩に銃撃を受けた。続いてクリストファー・ライトとジョン・ライトが殺害され、ルークウッドが負傷した。ケイツビーはなおも抵抗を試みたが、パーシーと共に殺害された。残った生存者は全員投降した。

逮捕された容疑者は全て、ウェストミンスター・ホールで裁判にかけられた。1606年1月30日、ディグビー、ロバート・ウィンター、グラント、及びベイツはセント・ポール教会の西端にて処刑、また翌日にはトマス・ウィンター、ルークウッド、キーズ及びフォークスが処刑された。最後に残ったガーネットも、やはり審理の結果、死刑が確定した。彼は、事件への積極的な関与の否定を叫びながら、5月3日に処刑された。

なお、上で述べた「上院地下に通じるトンネルの掘削」は事実ではなく、容疑者らの取調べの際、事件の猟奇性を高めるために捏造されたものであるとされる。

事件を契機に、1606年に宗教刑罰法 (Penal Laws) が強化され、カトリック教徒への弾圧はさらに苛烈なものとなった。

現代の物理学者の試算によると、「仮に計画が実行されていた場合、ウェストミンスター宮殿の大半は破壊され、半径1km圏内の窓ガラスが割れていたであろう」とのことである(なお、窓ガラスが一般に普及するのはごく最近のことであり、「窓ガラス」という表現を用いたのは爆発の威力を説明するために過ぎない)。

●その後

事件以後、「11月5日」という日はイギリスにおいて、特別な意味をもって記憶されることとなった。1606年1月、議会は11月5日を「命を救い給うたことを神に感謝する日」として、法定の祝日と定めた。この制度は1859年に廃止されるまで、2世紀半にわたって続いた。

また名誉革命(1688年)の際には、カトリック信仰を奉ずるジェームズ2世を廃してイングランドの新国王となるべく決起したオラニエ公ウィレム3世(のちのウィリアム3世)は、イングランドのトーベイへの上陸日を11月5日に設定した。

この事件は新旧両教派間の深刻な対立構造を改めて示したが、これがのちの北アイルランド紛争を惹起する原因の1つとなったといわれる。事件を契機に、毎年国会の開院式前には、赤い制服を身にまとった王衛兵 (Yeomen of the Guard) が議場をはじめ王宮一帯をくまなく点検する儀式が行われているが、紛争とそれに伴い頻発したIRAのテロ事件を背景として、現在では単なる行事の域を遥かに超えた大規模なものとなっている。

●ガイ・フォークス・ナイト

イギリスでは、11月5日(ただしグレゴリオ暦)は「ガイ・フォークス・ナイト」と呼ばれている。毎年この日には、「ガイ (guy) 」と呼ばれるフォークスを表す人形を市中に曳き回したのちに篝火で焼く行事が各地で行われた。現在では、専ら打ち上げ花火を楽しむ祭りとなっている。

●異説

Scholastic社刊のThe Slimy Stuarts(ISBN 9780590134828)によれば、これはそもそもジェームズ国王がしくんだ偽の事件であるという説がある。箇条書きで簡単に書かれているが、これが事実であるという書き方になっている。翻訳すると次のようになる。

ジェームズはイングランドに到着当初あまり人気がなく、人気取りのためにこの事件をしくんだ。やり方は、まず敵を作る(カトリックが望ましい)、次にその中に紛れ込ませた手下に「国王と大臣全てを吹き飛ばす」計画を吹き込み、計画実行直前に逮捕する。

なお、この本を含むHorrible Historiesシリーズは、歴史の副読本のような作りになっており、小学校もしくは中学校で実際に使われることを想定して書いたと思われる。Scholastic社には、教師用のウェブページもある。

●関連項目

・ガイ・フォークス

●関連書籍

・アントニア・フレイザー、加藤弘和訳『信仰とテロリズム―1605年火薬陰謀事件』 慶應義塾大学出版会、2003年、ISBN 4766409671

●外部リンク (こちらは参考までです)

・ブリタニカ百科事典第11版(英語)
http://www.1911encyclopedia.org/Category:FYT-GAI

・カトリック百科事典(英語)
http://www.newadvent.org/cathen/07081b.htm

火薬陰謀事件について
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%81%AB%E8%96%AC%E9%99%B0%E8%AC%80%E4%BA%8B%E4%BB%B6#.E5.AF.86.E5.91.8A

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元々此れは「魔術」的な意味でしたが、今は、違った意味で使われています・・・パート6

続いてです。ハロウィンの習慣は、イングランド南部では17世紀以降、11月5日の火薬陰謀事件の記念日(ガイ・フォークス・デイ)に置き換わり、廃れた。しかしながら、スコットランドおよびイングランド北部においては広く普及したままであった。イングランド南部で、すっかり米国風のハロウィンになったとはいえ、再び普及したのは、この10年間だけだそうです。

続いては、ハロウィンの習慣の置き換わった、「火薬陰謀事件」について書いていきたいと思います。参考までです。

●火薬陰謀事件について

火薬陰謀事件(かやくいんぼうじけん、英: Gunpowder Plot)は、1605年にイングランドで発覚した政府転覆未遂事件である。イングランド国教会優遇政策の下で弾圧されていたカトリック教徒のうちの過激派によって計画されたものであるとされてきた。首謀者はロバート・ケイツビー、実行責任者はガイ・フォークス。上院議場の地下に仕掛けた大量の火薬 (gunpowder) を用いて、1605年11月5日の開院式に出席する国王ジェームズ1世らを爆殺する陰謀 (plot) を企てたが、実行直前に露見して失敗に終わった。これにちなんだ祭事が毎年イギリス各地で開催されている。

なお、ここでいう「1605年11月5日」とは、ユリウス暦に基づく日付である。事件当時のイギリスでは、未だグレゴリオ暦は採用されていなかった。グレゴリオ暦での日付は、1605年11月15日である。以下の記述も、特別の記載がない限りユリウス暦での日付(グレゴリオ暦より10日早い日付)である。

●容疑者

右の絵は、事件の容疑者を描いたオランダの銅版画である。左から順に、

トマス・ベイツ (Thomas Bates)
ロバート・ウィンター (Robert Wintour (Winter))
クリストファー・ライト (Christopher Wright)
ジョン・ライト (John Wright)
トマス・パーシー (Thomas Percy)
ギド(ガイ)・フォークス (Guido (Guy) Fawkes)
ロバート・ケイツビー (Robert Catesby)
トマス・ウィンター (Thomas Wintour (Winter))
となっている。なお、この絵は「7人の英国貴族」と題されており、主犯ケイツビーの使用人であったベイツは、「不運にも事件に巻き込まれた存在」と位置付けられている。

この他、ロバート・キーズ (Robert Keyes) 、エヴァラード・ディグビー (Everard Digby) 、フランシス・トレシャム (Francis Tresham) などが協力者として名を連ねていた。

●背景

離婚問題のこじれという個人的な理由でローマ教皇庁と対立したイングランド王ヘンリー8世は、1534年に国王至上法を発布して、教皇庁と袂を分かった。彼はローマ教皇に代わって自らがイギリス教会の首長であることを宣言した。これがイングランド国教会の起こりである。ヘンリー8世は自分に従わない聖職者を処罰・処刑したり、修道院の所有していた土地や資産を没収するなどの政策を推し進めた。『ユートピア』の著者トマス・モアもヘンリー8世の離婚問題で疑義を呈したことから刑死に追い込まれた。ヘンリー8世の死後、熱心なカトリック信徒であったメアリー1世はイギリスをカトリック教会に戻すべくプロテスタントに対する弾圧を行い、「血塗れのメアリー (Bloody Mary) 」の異名をとった。

続くエリザベス1世は完全なカトリックへの復帰も、過激なプロテスタンティズムへの傾斜もとらないという「中道政策 (Via Media) 」 によって英国国教会の位置付けを明確にし、彼女を排除する計画に関わったスコットランド女王メアリー・ステュアートを捕らえた。エリザベス自身は処刑に消極的であったが、最終的には死刑執行書への署名を決断、1587年に刑が執行された。この事件はカトリック教会の守護者を自認していたスペインにイングランド攻撃の口実を与え、1588年のアルマダ海戦へと繋がっていく。イギリスのカトリック・シンパの間ではメアリー・ステュアートは「殉教者」として称えられることになった。

そのメアリーの息子であるスコットランド王ジェームズ6世は、1603年にイングランド王ジェームズ1世として即位した。母親と同じカトリックの信仰を持つジェームズの即位は、カトリック教徒にとって暗闇に差し込む光になると思われた。その一方でカトリック信徒と同じく不遇をかこっていたピューリタン(清教徒)は1603年4月、戴冠のためエディンバラからロンドンに向かうジェームズに対し、「千人請願」と呼ばれる書状を提出し、清教徒に対し寛容な政策を採るよう訴えた。これを受けて翌1604年1月、ハンプトン・コートに各宗派の代表が集い、会議 (Hampton Court Conference) が開催された。ところが、この会議で国王は「主教なくして国王なし (No bishop, no King)」との言葉に象徴される、国教会優遇政策堅持の宣言を行った。この結果は、清教徒のみならず、カトリック信者にとっても極めて不利なものであった。

●発案

この閉塞状況を打破するための方策として首謀者ロバート・ケイツビーが導いた結論こそが、ウェストミンスター宮殿内にある議事堂の爆破という前代未聞の陰謀だったのである。「国王を殺害するのみならず、国会議員の多数を占める国教徒、そして清教徒をも同時に殲滅して国会の機能を麻痺せしめ、代わって政権を掌握したカトリック教徒がイングランドに至福の王国を建設する」。この遠大な目標を達成すべく、ケイツビーは1603年の四旬節に、トマス・ウィンター(ケイツビーのいとこ)、及びジョン・ライトに対し、議事堂爆破の計画を打ち明けた。

これを聞かされたウィンターらは当初、この途方もない計画を果たして本当に遂行できるのかと疑問に思い、難色を示した。だが、彼らは結局ケイツビーの説得に応じ、計画に参加することを承諾した。1604年4月、ウィンターはケイツビーの密命を帯びて、フランドルへ渡った。彼は、イギリスとの和平交渉のためスペインから同地に赴いていたフリアス公ファン・デ・ベラスコ (Juan de Velasco) に協力を仰いだが、実のある返答は得られなかった。

ウィンターはまた、イングランドから同地に渡っていたガイ・フォークスのもとにも向かった。フォークスは熱烈なカトリック教徒として育った人物であり、かつネーデルラントでの従軍経験から火薬類の取り扱いに長けていた。ケイツビーに実績を買われたフォークスは、後に計画の実行役として動くこととなる。

4月末に英国へ帰還したウィンターとフォークスは、ケイツビー、ジョン・ライト、及び新たに加わったトマス・パーシーと面会し、互いに秘密を厳守するとの誓いを立てた。

のちに、ロバート・キーズ、ケイツビーの使用人トマス・ベイツ、イエズス会員ヘンリー・ガーネット(Henry Garnet) らが陰謀に加担した。

●進行

彼らの計画は、王宮近くに活動拠点を置くことから始まった。

トマス・パーシーは第9代ノーサンバランド伯ヘンリー・パーシー (Henry Percy, 9th Earl of Northumberland) の遠縁であり、比較的宮廷に近い位置にいた。王宮周辺に最も顔の利くパーシーの働きによって、彼らは上院に隣接した家を見つけ、5月24日に年12ポンドで賃貸契約を締結することに成功した。この借家から上院直下の地下室に至るトンネルを掘り進め、その地下室に火薬を仕掛けることを試みたのである。

借家の鍵はガイ・フォークスに渡された。以後、フォークスはパーシーの使用人を装い、「ジョン・ジョンソン (John Johnson)」という偽名を名乗って地下活動に従事することとなった。

火薬の保管場所として使用するためにランベス区でも家を借り、ロバート・キーズが担当として置かれた。一味は一旦解散して、ミカエル祭の時に再び会うことにした。再会した彼らは、掘削を始めるべき時が到来したとの見解を互いに確認した。

掘削作業は12月11日から開始した。家への出入りを頻繁に行うと周囲に怪しまれるので、彼らはあらかじめ大量の食料を用意し、泊り込みで立ち塞がる土や岩盤と格闘した。慣れない肉体労働に苦しみながらも、彼らは絶えず働いた。この時期に、クリストファー・ライト、ロバート・ウィンターが計画に加わった。

その後、彼らは夜の闇に乗じて、ランベスから小舟で運んだ火薬をパーシーが借りた家に搬入した。1605年のイースターの頃、作業中であった一味の真上で轟音が鳴った。彼らは計画が発覚したのかと思い、不安に駆られた。しかし調べた結果、王宮の地下貯蔵庫に置かれていた石炭を除去する音であったことが判明。トンネルを掘削するという当初の計画を放棄して、彼らはこの地下貯蔵庫を年4ポンドで借りることを決めた。

早速火薬の入った樽が次々に運び込まれた。爆発の威力を増加させるため、中に鉄片や石を混ぜ込むという念の入れようであった。同年5月、上院直下の地下室は、うずたかく積まれた燃料用の薪束の下に隠された36樽もの火薬で満たされた。

ガイ・フォークスは、他者が偶然あるいは故意に家に入った場合に疑いを持たれぬよう、地下室を整理した。フォークスはその後、かねてより助力を仰いでいたウィリアム・スタンリー (William Stanley) 及びヒュー・オーウェン (Hugh Owen) に経過を通知するためにフランドルに入り、8月に戻った。一方ケイツビーはパーシーに対し、人手や資金が不足しているため、信頼できる者を引き入れねばならないと提案した。彼は、エヴァラード・ディグビー、フランシス・トレシャム、アンブロー・ルークウッド、及びジョン・グラントに計画を伝えた。ディグビーは1,500ポンドの寄付を、またトレシャムは2,000ポンドの寄付を申し出た。パーシーは、10頭の駿馬を調達することを約束した。

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元々此れは「魔術」的な意味でしたが、今は、違った意味で使われています・・・パート5

続いてです。今回は、ハロウィンについて書いております。続いては、アイルランドおよびスコットランドに伝わる女の妖精であり、家人の死を予告すると言われている、「バンシー」について書いていきたいと思います。参考までです。

●バンシーについて

バンシー(banshee、bean sidhe)は、アイルランドおよびスコットランドに伝わる女の妖精であり、家人の死を予告すると言われている。

バンシーの泣き声が聞こえた家では近いうちに死者が出るとされるが、どの家にでも現れるというわけではなく、純粋なケルトやゲール系の家族のもとにしか来ないともいわれる。複数のバンシーが泣いた場合は、死者は勇敢な人物か聖なる人物であった証とされる。 アイルランドやスコットランドの旧家には、その家固有のバンシーがいて、たとえ故郷を遠く離れて暮らしている者にも、故郷にいる家族の死を伝える。

アイルランド地方に伝わる一説では、バンシーは長い黒髪で緑色の服に灰色のマントを着た女性の姿をしているとされるが、泣き声が聞こえる時は、その姿は見えないという。 その泣き声は、ありとあらゆる叫び声(人間以外も含める)を合わせたような凄まじいもので、どんなに熟睡している者でも飛び起きるほどである。 また、バンシーの目はこれから死ぬ者のために泣くので燃えるような赤色をしているという。

バンシーとは、ケルト語の「フェアリーの女('ban'は女、'shee'は妖精)」という意味の言葉からきており、ベン・シーベン・ニーア等々の別名がある。

●伝承の分布・類似例

バンシーの民話はアイルランドからスコットランドにかけて伝承されており、その姿形や振る舞いなどは多様性に富んでいる。また、移民などによって一部はアメリカにも伝わったようである(詳細については参考文献を参照)。

アイルランドとスコットランド高原地方では「浅瀬の濯ぎ女」という名でも知られている。 彼女は出産のために早く死んだ女の霊であるとされ、血に染まった男の経帷子を洗うことによってその男の死を予告するという(伝承ではケルト神話の英雄ク・ホリンの死を予言したともいわれている)。

●影響を与えた作品

ナルニア国物語の白い魔女のモデルであると言われている。また、ハリー・ポッターとアズカバンの囚人ではまね妖怪ボガートが変身する生徒の恐怖の対象として登場した(原作のみ)。

マクダネル社が生産したF2H艦上ジェット戦闘機の通称となった。創始者であったジェームス・マクダネルがオカルト的命名を好んだため。マクダネルはアイルランド移民の二世だったが、その機体命名はオカルト好みであること以外に傾向はないので、バンシーがアイルランドの妖精であることは特に重要ではなかったと思われる。

●関連事項

・ホーエンツォレルン家
・お留守バンシー バンシーがモデルの主人公の小説。
・halo 3 作中で登場するエイリアンの戦闘機が「バンシー」と呼ばれている。
・機動戦士ガンダムUC 作中に登場する機体ユニコーンガンダム2号機が「バンシィ」と呼ばれている。
・戦闘妖精・雪風にバンシーIIIとバンシーIVという空中空母が登場する

●参考文献

ローズマリ・エレン・グィリー『妖怪と精霊の辞典』、青土社、1995年8月。

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元々此れは「魔術」的な意味でしたが、今は、違った意味で使われています・・・パート4

続いてです。ハロウィンは、カトリックの諸聖人の日(万聖節)の前晩(10月31日)に行われる伝統行事。諸聖人の日の旧称"All Hallows"のeve(前夜祭)であることから、Halloweenと呼ばれるようになりました。ハロウィンは、ケルト人の収穫感謝祭がカトリックに取り入れられたものとされています。ケルト人の1年の終りは10月31日で、この夜は死者の霊が家族を訪ねたり、精霊や魔女が出てくると信じられていたそうです。

これに因み、31日の夜、カボチャをくりぬいた中に蝋燭を立てて「ジャック・オー・ランタン」(お化けカボチャ)を作り、魔女やお化けに仮装した子供達が「トリック・オア・トリート(Trick or treat. お菓子をくれなきゃ、いたずらするぞ)」と唱えて近くの家を1軒ずつ訪ねる。家庭では、カボチャの菓子を作り、子供たちは貰ったお菓子を持ち寄り、ハロウィン・パーティーを開いたりするのだそうです。

続いては、カボチャをくりぬいた中に蝋燭を立てて「ジャック・オー・ランタン」(お化けカボチャ)というものについて書きたいと思います。参考までです。

●ジャックランタンについて

ジャックランタン(Jack-o'-Lantern ジャック・オ・ランターン)は、アイルランド及びスコットランドに伝わる鬼火のような存在。名前は"ランタン持ちの男"の意。普通の火の玉の姿の他、光る衣装を身に纏うカボチャ頭の男の姿であらわれる事もある。別名提灯(ちょうちん)ジャック。

生前に堕落した人生を送ったまま死んだ者の魂が、死後の世界への立ち入りを拒否され、悪魔からもらった石炭を火種にし、萎びて転がっていたカブをくりぬきそれを入れたランタンを、片手に持って彷徨っている姿だとされている(→ウィルオウィスプ)。また、悪賢い遊び人が悪魔を騙し、死んでも地獄に落ちないという契約を取り付けたが、死後、生前の行いの悪さから天国へいくことを拒否され悪魔との契約により地獄に行くこともできず、カブに憑依し安住の地を求めこの世を彷徨い続けている姿だともされている。

この話がアメリカに伝わったのち、カブのランタンは、移民したアイルランド人によりアメリカでの生産が高かったカボチャのランタンに変化したが、スコットランドでは現在もカブ(ルタバガ)を使っている。この他、毎年10月31日のハロウィンの日に作るカボチャのロウソク立てをジャックランタンと呼び、善霊を引き寄せ、悪霊達を遠ざける効果があるといわれている。

旅人を迷わせずに道案内をする事もあるという。

●フィクションでの登場
ジャックランタンをモチーフとするキャラクターが登場する作品。

『ナイトメアー・ビフォア・クリスマス』(映画)
 主人公ジャック・スケリントンとして登場。『ハロウィン・タウン』のカリスマ。普段は骸骨男でハロウィンにはパンプキン・キングとして活躍していた  が、ハロウィンに虚しさを感じクリスマスを演出しようとする。

『スパイダーマン』(コミック版)
 悪役(ヴィラン)として登場。4代目ホブゴブリンを襲名するため、ジャックランタンとしての活動期間は短い。

ゲーム『女神転生』シリーズ
 アトラス社のゲームに登場。同社のマスコットであるジャックフロストと類似した、デフォルメされた外見となっている。
 敵キャラクター(いわゆる雑魚モンスター)として登場するが、同ゲームのシステムにより「仲魔」にする事が可能。

オンラインゲーム ラグナロクオンライン
 敵モンスター「ジャック」として登場。
 ハロウィンイベントでは、ハロウィン版ジャックが登場した事もある。

『からくりサーカス』
 主人公(才賀勝)の使用する懸糸傀儡(マリオネット)として登場する。

『シャーマンキング』
 敵キャラのO.S(オーバーソウル)時の媒介として仕込み鎌付きの人形として登場する。

アトラクション『GUNDAM THE RIDE‐A BAOA QU‐』(ガンダム・ザ・ライド ア・バオア・クー)
 本作に登場するジムの部隊「ジャック・ザ・ハロウィン隊」に「鎌を持ったジャック・オー・ランタン」のエンブレムが施されている。

『浪漫倶楽部』
 第19話「三日月のカボチャ」にて、夢ヶ丘中学校のハロウィン祭りに紛れ込んで現れている。

●関連する項目

・伝説の生物一覧

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元々此れは「魔術」的な意味でしたが、今は、違った意味で使われています・・・パート3

続いてです。今日は、「ハロウィン」ですが、ハロウィンは、カトリックの諸聖人の日(万聖節)の前晩(10月31日)に行われる伝統行事。諸聖人の日の旧称"All Hallows"のeve(前夜祭)であることから、Halloweenと呼ばれるようになったということは、先ほど申し上げました。

続いては、「諸聖人の日」について書きたいと思います。参考までです。

●諸聖人の日について

諸聖人の日(しょせいじんのひ)はカトリック教会の祝い日の一つで、全ての聖人と殉教者を記念する日。日本では「万聖節」(ばんせいせつ)ともいわれる。諸聖人の日は、名前のとおり全ての聖人の日であって、決して忘れられた聖人のための日ではない。カトリック教会の典礼暦では11月1日が諸聖人の日、続く11月2日が死者の日となっている。

他方、正教会は五旬祭後第1主日を「衆聖人の主日」として祝っているが、これは年ごとに祭日が変化する移動祭日であってしかも5月か6月にあたり、諸聖人の日とは日付が大きく異なる。

●歴史

英語で諸聖人の日は「オール・ハロウズ(All Hallows)」、「ハロウマス(Hallowmas)」とも表記される。アイルランドやケルトの習慣ではこの日の前の晩は「ハロウ・イブ(Hallow Eve)」と呼ばれ、キリスト教伝来以前から精霊たちを祭る夜であった。19世紀に移民によってアメリカ合衆国に持ち込まれたこの習慣が「ハロウィン(Halloween)」である。(「ハロウィン」は「ハロウ・イブ」がなまったものである。)

一年のうちのある一日にすべての聖人と殉教者を祝う習慣が始まったのは4世紀ごろであった。もともとこの習慣はアンティオキアで始まったようである。アンティオキアでは聖神降臨のあとの最初の日曜日が諸聖人の祝日となっていた。ヨハネス・クリュソストモスの407年の説教の中にも諸聖人の祝日への言及がみられる。

アンティオキアなど東方で行われていたこの習慣が、やがて西欧へも伝わっていく。カトリック教会における諸聖人の祝い日の制定の起源に関してはある有名な説話があるが、これは真実かどうかは不明である。その説話というのは609年5月13日、教皇ボニファシウス4世が異教の神殿であったローマのパンテオンを聖母マリアと殉教者のためにささげ、それ以来5月13日が聖母と殉教者たちの祝い日となったというものである。5月13日は古代のローマの宗教ではラミュレスといわれるさまよう死者の魂をなだめる日であったため、中世の研究者たちはこのラミュレスの日がキリスト教的に再解釈されて諸聖人の日になったと考えたが、現代ではこの説はあまり受け入れられていない。現代の研究者たちが有力と考えているのは8世紀前半の教皇グレゴリウス3世がサン・ピエトロ大聖堂の中に使徒とすべての聖人、殉教者のための小聖堂をつくり、その聖堂の祝別の日が11月1日にうつされたことでやがて11月1日がすべての聖人と殉教者の日となったというものである。

記録によればシャルルマーニュの時代にはすでに11月1日に諸聖人の祝いを行うことが一般化していたことがわかる。835年にはルイ敬虔王の布告によって、フランク王国の中で11月1日が守るべき祝日となっている。ポルトガルとフランスではこの日に亡くなった親族のために花をささげる習慣がある。ディアダスブルカスとして知られるポルトガル式のハロウィンは4月30日の夜に行われているが、諸聖人の日との関連はない。ポーランドでは同じ日に、サドゥスキーといってろうそくをもって墓参りをする習慣がある。ポーランドやクロアチア、コロンビア、ペルーなど伝統的にカトリックの多い国では国民の祝日になっている。

宗教改革者たちによって聖人への崇敬が廃止されたあとも、イギリスとカトリック諸国では暦に諸聖人の祝日が残されていたが、プロテスタント諸国では徐々に廃れていった。スウェーデンでは諸聖人の日は死者のために祈る日となることで存続した。

プロテスタントの日本基督教団では11月の第一日曜日は「聖徒の日」とされているが、聖人のためではなく亡くなった信徒たちのために祈る日になっている。

●関連項目

・教会暦

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元々此れは「魔術」的な意味でしたが、今は、違った意味で使われています・・・パート2

続いてです。続いては、ハロウィンの「世界での受容 」から順に書いていきます。参考までです。

●世界での受容

主にアイルランド、イギリス、アメリカ、カナダ、プエルトリコ、ニュージーランド、そしてオーストラリアの一部に広まっている。ドイツと日本においてはアメリカの大衆文化として一部受容された(日本については後述)。

東方教会(正教会・東方諸教会)の広まる地域(東欧・中東など)においてはハロウィンはあまり普及していない。ロンドンにあるロシア正教会の司祭はハロウィンを「死のカルト」であると批判している[1]。またロシアにおいてはロシア教育省が宗教行事の一環であることを理由に、公立学校に対してハロウィンの関連行事を行わないよう通達を出している。

カトリック信徒の多いラテン系諸国(イタリア・スペイン・ポルトガルおよび中南米諸国)でも、あまり普及していない。

また、訪問した子ども達に食品では無いものを故意に渡す人間がいるとの噂が広まり、欧米ではモラルパニックの様相を呈したこともある。

●日本での受容 (こちらは参考までです。ご了承下さい。)

日本では、この行事は、青少年・児童向けの英語教材やアメリカの映画・テレビドラマなどを通じて、アメリカの子供たちの行う行事として知られていた。 映画 E.T. の大ヒットによりハロウィンが再認識され、1990年代以降、首都圏の一部では盛んになった。内容は、子供らがお菓子を請うことや、仮装パレード(子供・大人を問わず)の形式をとることが多かった。なお、専らアットホームで明るいイベントとしての性格が強く、お菓子をもらえなかった子供のいたずらなどは導入されていなかった。また、仮装のモチーフも、魔女や小悪魔など怪奇性のあるものも主流だが、それらとて愛らしさが強調されていた。他、日本の妖怪やアニメキャラ(「機動戦士ガンダム」などのロボットアニメ、「ちびまる子ちゃん」など多くの世代に知られるものの他、その時点で子供(特に低年齢の女児)に人気のあるアニメキャラ)など、日本独自のものも多い(中にはただの仮装パレードと化している地域もあった)。パレードとして国内最大のものはJR川崎駅前の「カワサキ・ハロウィン・パレード」であった。2008年まで行われたこのパレードでは約三千人による仮装パレードで約十万人の人出を数えた(通算12回開催された)[1]。
http://www.jiji.com/jc/d2?p=hlw00101&d=004ent

なお、もともとカトリックの祝日に起源を持つハロウィンだが、日本のカトリック教会では11月1日の「諸聖人の日」は祝日としているが、ハロウィンは教会の行事としてはほとんど行われていない。

2009年現在、製菓メーカーがこぞってハロウィン期間限定の菓子を発売するのが流行であり、バレンタインデー、クリスマスに次ぐ「第3の商戦」と呼ばれる。

★モラル問題

日本在住の外国人と見られる人々がハロウィンに騒ぎを起こした事が問題になった。2007年10月27日にはJR山手線、大阪環状線に数十人のグループが押し寄せ、車内の蛍光灯を外す、網棚の上に寝転ぶ、他の乗客とトラブルを起こすなどして電車を遅延させるなど暴徒化する者もいた。JR内での騒動は2005年から報道されはじめたが改善せず、2008年にはJR側が警視庁と連携を取りながら事前にビラを配り、ガードマンを配置するなど対応を強化するなどの対応をとった。

●ハロウィンをテーマにした作品等

★映画

・ハロウィン(HALLOWEEN) - 1978年製作のアメリカ映画。監督はジョン・カーペンター。
・E.T. - 1982年製作のアメリカ映画。主人公エリオットがハロウィンを祝い、兄妹とE.T.らで仮装して町へ出かけていくエピソードあり。監督はスティーヴン・スピルバーグ。
・ナイトメアー・ビフォア・クリスマス(THE NIGHTMARE BEFORE CHRISTMAS) - 1993年公開のストップモーション・アニメーション。製作・総指揮はティム・バートン。監督はヘンリー・セリック。
・パーフェクト・ワールド(映画)(A PERFECT WORLD) - 1993年製作のアメリカ映画。監督はクリント・イーストウッド。ハロウィンがテーマでは無いが、ハロウィンの子供の遊びが印象的に描かれている。主演はケビン・コスナー。
・米TVシリーズ「フロム・ザ・ダークサイド」(脚本ジョージ・A・ロメロ) 「Tales From The Darkside - Trick or Treat」
トリック・オア・トリート(Trick or Treat) - ブライアン・シンガー監督によるホラー。2007年のハロウィンシーズンに全米公開予定とのこと。
・カウボーイビバップ天国の扉(2001年)- 事件の舞台がハロウィンを前後する時期の未来都市。ジャック・オ・ランタンや「トリック・オア・トリート!」がストーリーと深く絡む。
・「ハロウィン(HALLOWEEN)」 - 2007製作のアメリカ映画。監督・脚本・プロデューサー:ロブ・ゾンビ
http://www.hallo-ween.jp/

★書籍

・「ハロウィーンがやってきた(原題:THE HALLOWEEN TREE)」 レイ・ブラッドベリ
・朝日ソノラマから過去に出版されていたホラーコミック誌「ハロウィン」
・『ハロウィーン・パーティ』(アガサ・クリスティ著)

★音楽

・ハロウィン(HELLOWEEN) - ドイツのロックバンド。バンド・ロゴ、ジャケット・アートワーク等にジャック・オー・ランタンをモチーフにしたマスコットが使用されている。またハロウィンをテーマにしたHALLOWEENという曲を1987年に発表している。
・ミスフィッツ(MISFITS) - アメリカのロックバンド。1981年10月31日にHALLOWEENという曲を含むEP「HALLOWEEN」を発表している。
・トミーヘヴンリー(Tommy heavenly6) -日本の ロックバンド「the brilliant green」のボーカルである川瀬智子のソロプロジェクトの一つ。2006年10月11日にハロウィンを記念して製作したシングル「Lollipop Candy♥BAD♥girl」を発売した。この曲はハロウィンの日付にあやかった10分31秒の大作シングルである。

★漫画

ピーナッツ - 登場人物の一人であるライナスがハロウィンには『カボチャ大王(The Great Pumpkin)』がやってきて子供たちにプレゼントを配って回ると信じており、毎年その話題のネタが掲載されていた。
からくりサーカス - 藤田和日郎の漫画作品。ハロウィンのカボチャをモチーフにした『ジャック・オー・ランターン』というキャラクターが登場する。
MÄR - 安西信行の漫画作品。ハロウィンのカボチャをモチーフした顔が十字架に張り付いているキャラクター『ハロウィン』(別名『磔のハロウィン』)が登場する。

★特撮

。ウルトラマンティガ-第8話ハロウィンの夜に

作中にハロウィンを取り入れたストーリーが存在する。ウルトラマンティガが夢を吸われた子供達の夢を取り戻すため、地球の平和を守るために異次元人ギランボに立ち向かう。

★パーティー

・ハロウィン・パーティー
http://www.tokyoparty.org/party.php?p=halloweenparty

★その他

・『ウルティマオンライン (エレクトロニック・アーツ)』・『リヴリーアイランド (So-net)』などの各オンラインゲームでは、毎年10月に特設サーバーや特別イベントを用いた大規模なハロウィンイベントが行われている。

●脚注

1. プラウダ:Russian Orthodox Church harshly condemns Halloween for its cult of death(英文)
http://english.pravda.ru/russia/history/01-11-2007/99982-halloween-0

2. Poisoned candy scarewikipedia.en
http://en.wikipedia.org/wiki/Poisoned_candy_scare

3. Halloween - foodswikipedia.en
http://en.wikipedia.org/wiki/Halloween#Foods

4. pins and needlessSnopes.com
http://www.snopes.com/horrors/mayhem/needles.asp

5. 今夜、山手線を厳重警戒せよ! ハロウィーンでJR産経新聞 2008年10月31日
http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/081031/crm0810311201018-n1.htm

●関連項目

・クリスマスプレゼント
・日本人留学生射殺事件

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元々此れは「魔術」的な意味でしたが、今は、違った意味で使われています・・・パート1

皆さん、こんにちわ。更新です。今日は、10月31日です。今日、10月31日は、「ハロウィン」です・・もう皆さんもご存知だと思います。ハロウィンは、カトリックの諸聖人の日(万聖節)の前晩(10月31日)に行われる伝統行事。諸聖人の日の旧称"All Hallows"のeve(前夜祭)であることから、Halloweenと呼ばれるようになりました・・。

ということで、今日は、「ハロウィン」について書いていきたいと思います。参考までです。それではまず、「ハロウィン」から「 ハロウィンの習慣」まで順に書いていきます。

●ハロウィンについて

ハロウィン 、あるいはハロウィーン(Halloween, Hallowe'en) は、カトリックの諸聖人の日(万聖節)の前晩(10月31日)に行われる伝統行事。諸聖人の日の旧称"All Hallows"のeve(前夜祭)であることから、Halloweenと呼ばれるようになった。

ケルト人の収穫感謝祭がカトリックに取り入れられたものとされている。由来と歴史的経緯からアングロ・サクソン系諸国で主に行われる行事であって地域性が強く、教会と不可分の行事ではないため、キリスト教の広まる地域であれば必ず祝われるという訳ではない。

●概要

ケルト人の1年の終りは10月31日で、この夜は死者の霊が家族を訪ねたり、精霊や魔女が出てくると信じられていた。これらから身を守る為に仮面を被り、魔除けの焚き火を焚いていた。601年にローマ教皇グレゴリウス1世が宣教師にケルト人へキリスト教改宗の策として、「ケルト人の信仰法である木の伐採は行わずに、木の真上にはキリストの神様がいてそのために木を信仰し続けなさい。と広めなさい」と言ったのがいまのハロウィンになったきっかけでもある。

家族の墓地にお参りし、そこで蝋燭をつけるという地方もある。墓地全体が、大きなランタンのように明々と輝く。日本のお盆の迎え火、送り火にも似ているかもしれない。ただ、これに合わせて欧米では、放火事件などが頻発する。

これに因み、31日の夜、カボチャをくりぬいた中に蝋燭を立てて「ジャック・オー・ランタン」(お化けカボチャ)を作り、魔女やお化けに仮装した子供達が「トリック・オア・トリート(Trick or treat. お菓子をくれなきゃ、いたずらするぞ)」と唱えて近くの家を1軒ずつ訪ねる。家庭では、カボチャの菓子を作り、子供たちは貰ったお菓子を持ち寄り、ハロウィン・パーティーを開いたりする。

●仮装とランタン

ハロウィンのテーマは不気味なものや怖ろしいもので、妖精や精霊に限らず、「死」そのものや、不死の怪物、黒魔術、伝承の怪物などが含まれる。ハロウィンで仮装されるものには、幽霊、魔女、コウモリ、黒猫、ゴブリン、バンシー、ゾンビ、魔神、などの民間で伝承されるものや、ドラキュラやフランケンシュタインのような文学作品に登場する怪物が含まれる。ハロウィン前後の時期には、これらのシンボルで家を飾る。

黒とオレンジ色が伝統的なハロウィンの色である。「ジャックランタン」(Jack-o’-lantern)」(お化けカボチャ、カボチャちょうちん)は、オレンジ色のカボチャをくりぬき、刻み目を入れ、内側からろうそくで照らしたもので、最もハロウィンらしいシンボルである。ハロウィンを祝う家庭では、カボチャを刻んで怖い顔や滑稽な顔を作り、悪い霊を怖がらせて追い払うため、ハロウィンの晩、家の戸口の上り段に置く。

ただし、1990年代以降、仮装の対象としてあまり扱われなくなったモチーフも多い。黒人・インディアンなどは人種差別の見地から、妊婦や身体障害者なども同様の見地から好まれないようになった。ひいては、長年ハロウィンの仮装の特徴だった怪物などのおどろおどろしいモチーフすら廃れ、妖精や野菜など愛らしいものが仮装のモチーフに好まれる傾向が見られる。

●文化史 

★ケルトのサウィン祭

古代ケルトのドルイドの信仰では、新年の始まりは冬の季節の始まりである11月1日のサウィン(Samhain)祭であった。ちょうど短い日が新しい年の始まりを示していたように、日没は新しい日の始まりを意味していた。したがって、この収穫祭は毎年10月31日の夜に始まった。アイルランドと英国のドルイド祭司たちは、火をつけ、作物と動物の犠牲を捧げた。また、ドルイド祭司たちが火のまわりで踊るとともに、太陽の季節が過ぎ去り、暗闇の季節が始まった。

11月1日の朝が来ると、ドルイド祭司は、各家庭にこの火から燃えさしを与えた。各家族は、この火を家に持ち帰り、かまどの火を新しくつけて家を暖め、「妖精」(「シー(Sith)」と呼ばれる。女の妖精はバンシーと呼ばれた)などの悪霊が入らないようにする。というのも、1年のこの時期には、この世と霊界との間に目に見えない「門」が開き、この両方の世界の間で自由に行き来が可能となると信じられていたからである。

祭典ではかがり火が大きな役割を演じた。村民たちは、屠殺した牛の骨を炎の上に投げ込んだ。(「かがり火」を"bonfire"と呼ぶのは、これらの「骨火」に由来すると思われる) かがり火が燃え上がると、村人たちは他のすべての火を消した。その後、各家族は厳粛にこの共通の炎から炉床に火をつけた。これにより、村の各家族は一つにつながった。アイルランドでは今でも、毎年ハロウィンの夜には何百もの火が点けられている。

新異教主義者(Neopagans)は、今でもハロウィンの日には、世俗的なハロウィンに参加するとともに、サウェン祭を祝っている。

★ ハロウィンの習慣

ハロウィンの習慣は、イングランド南部では17世紀以降、11月5日の火薬陰謀事件の記念日(ガイ・フォークス・デイ)に置き換わり、廃れた。しかしながら、スコットランドおよびイングランド北部においては広く普及したままであった。イングランド南部で、すっかり米国風のハロウィンになったとはいえ、再び普及したのは、この10年間だけである。

アイルランドでは10月最後の月曜が祝日となっており、ハロウィンを祝う習慣が最も純粋な形で残っている。この祝日に続く週は、学期の半ばであるがすべての学校が休みになり、一般にハロウィーン休みと呼ばれる。この結果、アイルランドは、ハロウィンの日に子供の学校がなく、したがって、古代の由緒ある方法で無条件にハロウィンを祝うことのできる唯一の国である。

「トリック・オア・トリート(Trick or Treat)」の習慣は、クリスマスの時期の酒宴 (古い英語で wassailing と呼ばれる) の習慣に似た、soulingと呼ばれるヨーロッパの習慣から発展したと思われる。11月2日の死者の日に、キリスト教徒は「魂のケーキ」(soul cake) ――干しぶどう入りの四角いパン――を乞いながら、村から村へと歩いた。物乞いをするときには、亡くなった親類の霊魂の天国への道を助けるためのお祈りをすると約束した。魂のケーキの分配は、サウィン祭のとき徘徊する幽霊に食べ物とワインを残す古代の風習に代わるものとして、キリスト教会によって奨励された。

ブルターニュ西部のケルト族の一部では、サウェン祭は、今でも「小さな角 (Kornigou) 」を焼くことにより予告される。「小さな角」は、あの世の王国へ戻るときに角を落とす冬の神を記念するため、枝角の形に焼かれたケーキである。

日本では夏がお化けの季節となっているが、北米ではハロウィンの時期が幽霊などの季節となっている。そこでこのハロウィンが近づくとホラー映画の公開やテレビでの放送が多くなる。

★ジャックオーランタンの伝説

その昔ウィルという、口は巧いが卑怯で素行も最悪な鍛冶屋の男がいた。彼は死後に死者の門へ着いたのだが、そこで聖ペテロ(天国へ行くか地獄へ行くかを選定する者)を騙し、 生き返った。しかし生き返った後も反省はせず、前の通り最悪な男のままだった。そのため、再び死後に死者の門を訪れた際、聖ペテロに「お前はもはや天国へ行くことも、地獄へ行くこともまかりならん」と言われ、暗い闇の中を漂うこととなった。それを見て哀れんだ悪魔は、地獄の劫火から轟々と燃える石炭を1つ取り、ウィルに明かりとして渡した。その明かりは時々、現世に種火のような弱い光を投げかける。それから、夜中に不思議な光が見えるとき、哀れなウィルの話になぞらえて「種火のウィル」「ウィル・オー・ザ・ウィスプ」と呼ぶようになった。ジャック(男、一般的な男性の名前)の角燈「ジャックオーランタン」ともよばれている。現在は、ナイトメアー・ビフォア・クリスマス等の影響でこちらの方が有名。多種多様な話、呼び名があるが、各教会ごとに脚色したり、本として出版するときに話が増えたのだろう。世界中にも不思議な光の話がある。

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これは日本史上「最大」といわれている災害です・・・パート8

続いてです。続いては、「濃尾地震2009年イベント・ニュース」情報です。参考までです。

■濃尾断層帯で地下探査 防災科技研など

きょう6日から 人工震源使い

独立行政法人防災科学技術研究所(茨城県つくば市)と千葉大大学院理学研究科(千葉市)は5日、濃尾地震(1891年)を引き起こした濃尾断層帯を調べるため、人工震源を使った地下構造探査を共同で実施すると発表した。両研究機関は「地震被害を軽減する基礎データを得ることができる」と期待している。

探査は6日から28日まで行う予定。同研究所は、本巣市、揖斐川町周辺の根尾谷断層を横切る30キロと、濃尾断層帯から離れた各務原市、可児市と愛知県犬山市周辺の20キロで行う。千葉大は、揖斐川町周辺の30キロを含む滋賀県余呉町から郡上市に至る直線50キロの区間で、岐阜大、名古屋大などと実施する。

探査方法は、ダイナマイトや大型バイブレーターを搭載した起震車で震動を引き起こし、地震波を発生させる。この地震波を地下10数キロまでの基盤と同40~50キロの基盤に当て、反射波を地上約50メートル間隔に置いた地震計で計測し、観測車でデータ処理する仕組み。

 同研究所の小原一成・地震観測データセンター長は「国内最大級の内陸地震である濃尾地震の断層帯を調べることで、内陸地震の発生メカニズムを解明していく」と述べた。千葉大の伊藤谷生教授は「中部地方は最も活断層が密集した地帯。特にフィリピン海プレートが複雑で、それがどのように影響を与えているかが大きな問題。今回はプレートの全体構造を把握することが目標」と語った。

 震動は微弱のため、建物が揺れる影響はない。探査結果は学会などで来年中に発表される。

(2009年10月6日  読売新聞)

こちらで参照できます。
http://chubu.yomiuri.co.jp/news_b/bosai091006_1.htm

■岐阜県地震防災の日(10月28日)
県では、明治24年(1891年)10月28日に発生した濃尾地震の経験を風化させないよう、10月28日を「岐阜県地震防災の日」として定めています。この岐阜県地震防災の日にあわせ、防災フェアを開催します。この機会に、今一度地震への備え、心構えについて考えてみませんか。
●とき / 10月24日(土曜日)~28日(水曜日)
●ところ / カラフルタウン岐阜(岐阜市) 

・Map
http://www.gis2.pref.gifu.jp/MyMap2_0/GifuAdvanceMap/GifuAdvanceMap.jsp

内容 / 防災に関するステージイベント(24日(土曜日))、地震体験車の試乗(24日(土曜日)・25日(日曜日))、防災グッズの展示販売など

問/県庁危機管理課
電話 058-272-1121

詳細
http://www.pref.gifu.lg.jp/pref/s11117/jisin/index.htm

こちらでも参照できます。
http://www.pref.gifu.lg.jp/pref/kouhou-c/fureai/0910/info/02.html

■起震車で地震体験 県主催防災フェア
2009年10月26日

1891年の濃尾地震にちなんだ「県地震防災の日」(28日)を前に、岐阜市の複合商業施設・カラフルタウン岐阜で「防災フェア」が開かれている。24、25両日には新型の地震体験車が置かれ、家族連れらが最高震度7の揺れを体験した=写真。
県が昨年6月に買い替えた地震体験車は、濃尾地震や阪神淡路大震災(95年)のほか、東南海地震など想定されている地震が体験できるようになった。25日、体験車に乗った愛知県一宮市の小学1年、馬場大聖君(6)は「怖くなかったけど、地震で家が壊れるのはいやや」と話していた。
 
県はこれまで、市町村や学校の依頼を受けて体験車を貸し出していた。10月からはより広く体験してもらおうと、大型スーパーなどへ職員が運んで、買い物客に体験してもらう活動を始めている。
 
防災フェアは28日までで、伊勢湾台風の写真の展示や防災用品を紹介している。

こちらで参照できます。
http://mytown.asahi.com/gifu/news.php?k_id=22000000910260006

◆根尾谷地震断層観察館の情報

名称 根尾谷地震断層観察館 (ネオヤジシンダンソウカンサツカン)

所在地 〒501-1529
岐阜県本巣市根尾水鳥 
TEL:0581-38-3560
Map
http://www.jalan.net/ou/oup2000/ouw2003.do?spotId=21427cc3290031247&odkType=1

交通アクセス 水鳥駅から徒歩で
営業時間 公開 : 9:00~17:00
休業 : 月曜日(祝日は除く)
料金 大人 : 大人:500円 体験館1回200円
子供 : 子供:200円 体験館1回200円
バリアフリー設備 車椅子対応トイレ
車椅子対応スロープ その他情報 管理者 :本巣市
入館者数(年間) :36000人(平成17年)
お問合わせ 058-323-7764

こちらで参照できます。
http://www.jalan.net/kankou/spt_21427cc3290031247.html

※あくまでも参考までに記しました。ご了承下さい。

いかがでしたでしょうか??「濃尾地震」。濃尾地震は、1891年(明治24年)10月28日6時38分50秒に発生した。震源は、岐阜県本巣郡根尾村(現・本巣市)、北緯35度35分、東経136度20分の地点。規模は当時のデータから後にM8.0(8.4とする説もある)、モーメントマグニチュードは7.4と推定されている。「根尾谷断層帯」が活動した典型的な直下型地震であり、これは日本の陸域で発生した地震としては史上最大である。この地震で、根尾村水鳥(みどり)地区には、上下差6メートルにも及ぶ根尾谷断層が地表に出現した。この断層崖は国の特別天然記念物に指定されています。

今日は、10月28日、「濃尾地震」発生の日。皆さんは、どう過ごしますか??

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これは日本史上「最大」といわれている災害です・・・パート7

続いてです。続いては、濃尾地震についてまとめたものがございますので、「濃尾地震(のうびじしん)」から「地震断層(じしんだんそう)
」まで順に書いていきたいと思います。参考までです。

まずは、「濃尾地震(のうびじしん)」についてです。

■濃尾地震(のうびじしん)

1891年(明治24)10月28日6時38分ころ、愛知・岐阜両県にまたがって発生した地震。規模はM8.4。死者7273人。全半壊の家屋22万2501、道路破裂2万0067か所、橋梁(きょうりょう)損落1万0392、堤防崩壊7177、山崩れ1万0224か所などの被害が発生したが、もっとも被害の大きかったのは美濃(みの)と尾張(おわり)の地方であった。この地震で、北北西―南南東の方向に延長80キロメートル以上にも及ぶ根尾谷(ねおだに)の大断層が出現した。とくに岐阜県本巣(もとす)郡根尾村水鳥(みどり)(現本巣市根尾水鳥)付近では西側が約6メートル隆起し、南南東方向に約2メートルずれた。余震が多く、岐阜県では10月の有感余震は720回に達した。この地震で、福島県西部岩代(いわしろ)地方、静岡県伊豆地方から西は岡山県美作(みまさか)地方に至る広域で温泉水の増量がみられた。

続いては、「根尾谷(ねおだに)」についてです。

■根尾谷(ねおだに)

岐阜県西部、越美(えつみ)山地を南流する根尾川の上流域にあたる谷。その最上流部から南部の根尾川東岸は本巣(もとす)市に、根尾川西岸は揖斐(いび)郡揖斐川町谷汲(たにぐみ)および大野町に属する。1891年(明治24)の濃尾(のうび)地震のとき発生した、本巣市根尾水鳥(みどり)地区の活断層などは世界的に有名である。かつては越前(えちぜん)との交流の多かった最奥部の諸集落は廃村化している。本巣市の根尾能郷の猿楽(さるがく)狂言、揖斐川町谷汲徳積(とくづみ)の古刹(こさつ)華厳(けごん)寺や鎌倉踊りも有名。樽見(たるみ)鉄道延長開通(1989)で、地域の活性化が期待されている。

続いては、阜県南西部、本巣(もとす)郡最北部にあった旧村名である、「根尾(ねお) 」ついて書いていきます。

■根尾(ねお)

岐阜県南西部、本巣(もとす)郡最北部にあった旧村名(根尾村(むら))。現在は本巣市の一地区。2004年(平成16)本巣町、真正(しんせい)町、糸貫(いとぬき)町と合併、本巣市となる。根尾の地名は、本巣市の旧根尾村域に残る。旧根尾村は、根尾川上流域にあり、その奥部はY字形に東西の谷に分かれている。東谷の奥部は1959年(昭和34)の伊勢湾(いせわん)台風、西谷の奥部は65年の集中豪雨による災害で、急速に過疎化が進んだ。奥部以外では山林の緑化が進み、樽見(たるみ)鉄道の延長(1989年樽見まで開通)で東谷の地下資源の開発が期待される。国道157号、418号が通る。東谷の下大須(しもおおす)に大規模なキャンプ場「NEOキャンピングパーク」がある。能郷(現本巣市根尾能郷)地区の猿楽(さるがく)狂言は古い伝統をもち、国指定の重要無形民俗文化財である。また、1891年(明治24)の濃尾(のうび)地震で生じた水鳥(みどり)(現根尾水鳥)地区の断層は有名で、根尾谷断層とよばれる。上下の変化6メートルに及び、菊花石とともに国指定特別天然記念物。断層の保存などのために「根尾谷地震断層観察館」がつくられている。また根尾谷淡墨(うすずみ)ザクラは国指定天然記念物である。旧根尾村の人口は2184(2000年国勢調査)。

 参考文献
1.『根尾村史』(1980・根尾村)

続いては、「根尾谷断層(ねおだにだんそう)」についてです。

■根尾谷断層(ねおだにだんそう)

福井から根尾谷(岐阜県)を経て岐阜に至る北西―南東方向の左横ずれ断層。1891年(明治24)の濃尾(のうび)地震(マグニチュード8.4)に際しては、総延長80キロメートルにわたり、最大縦ずれ6メートル、最大左横ずれ8メートルの変位が生じた。この断層はいくつかの断層の複合系と考えられ、狭義の根尾谷断層は、福井・岐阜県境の能郷白山(はくさん)付近より南東の部分をさす。

続いてです。、根尾谷断層(ねおだにだんそう)は、福井から根尾谷(岐阜県)を経て岐阜に至る北西―南東方向の左横ずれ断層だそうです。続いては、「横ずれ断層(よこずれだんそう)」いう断層について書いていきます。

■横ずれ断層(よこずれだんそう)

変位の方向が断層面の走向に平行、または、ほぼ平行な断層。断層面は垂直か、非常に高角度であることが多い。断層の両側のブロックが互いに横方向にずれるためにこの名前が使われることが多いが、走向移動断層、横すべり断層とよばれることもある。断層を挟んで向こう側のブロックが右方向に移動したときは右横ずれ断層、左方向に移動したときは左横ずれ断層という。日本で地震断層として知られている左横ずれの根尾谷断層や右横ずれの野島断層は、傾斜方向の移動成分が横ずれ成分の半分ほどで、実際には斜めずれ断層なのだが、単に横ずれ断層として扱われることが多い。

断層面の傾斜が垂直に近く、断層破砕によって浸食されやすくなっているため、大規模な横ずれ断層は直線的な谷地形を作ることが多い。右横ずれの中央構造線活断層系が、徳島県の吉野川や和歌山県の紀ノ川のような直線的な谷地形をつくっているのはその好例である。二つのプレートが横ずれ断層で接するときはトランスフォーム断層とよばれ、北アメリカ西海岸のサンアンドレアス断層やニュージーランド南島のアルパイン断層などが知られている。

続いては、明治以降の大地震で出現した「根尾谷断層(ねおだにだんそう)」、「濃尾地震」は「地震断層」と呼ばれたそうです。続いては、「地震断層」について書いていきます。

■地震断層(じしんだんそう)

.地震に伴って地表に現れた断層。1936年(昭和11)に地質学者の大塚弥之助がこのことばを使い始めた。地震は地下で断層がずれ動いて発生するが、地震断層の大部分は、その断層の一部が地表まで達したものである。そのほか大地震の振動や地下でのずれのために地表付近に二次的に生じたものもある。後者は一般に小規模である。

概して地震の規模が大きいほど、地震断層の長さやずれの量が大きい。日本の内陸の地震の場合、地震断層は地震がマグニチュード7~8のときに出現し、その長さは20~80キロメートル、ずれの量は1~8メートルくらいである。

明治以降の大地震で出現した顕著な地震断層としては、根尾谷(ねおだに)断層(濃尾(のうび)地震)、千屋(せんや)断層(陸羽地震)、丹那(たんな)断層(北伊豆地震)、郷村(ごうむら)断層(北丹後地震)、鹿野(しかの)断層(鳥取地震)、深溝(ふこうず)断層(三河地震)、石廊崎(いろうざき)断層(伊豆半島沖地震)、野島断層(兵庫県南部地震)などがある。

・濃尾地震についてはこちらで詳しく参照できます。
http://research.kahaku.go.jp/rikou/namazu/04nobi/noubi.html

http://chigaku.ed.gifu-u.ac.jp/chigakuhp/html/kyo/chisitsu/neodani/docs/nobijishin.html

http://www.pref.gifu.lg.jp/pref/s11117/saigai_siryo/1891noubi/saigai3.htm

http://chigaku.ed.gifu-u.ac.jp/chigakuhp/html/kyo/chisitsu/neodani/docs/nobijishindansokeinosugata.html

http://www.jma-net.go.jp/nagoya/hp/bousai/earth/kiroku_jishin.html

http://homepage1.nifty.com/zpe60314/ajishin19.htm

※あくまでも参考までです。ご了承下さいませ。

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これは日本史上「最大」といわれている災害です・・・パート6

続いてです。本巣郡根尾村は、現在は、「本巣市」になりました。続いては、「本巣市」について書いていきます。参考までです。

●本巣市について

本巣市(もとすし)は、岐阜県の南西部に位置する市。発足時の人口は約3万4000人で、市役所は旧本巣町にある。

本巣市
もとすし

国  日本
地方 中部地方、東海地方
都道府県 岐阜県
団体コード 21218-1
面積 374.57km²

総人口 34,924人
(推計人口、2009年9月1日)
人口密度 93.2人/km²
隣接自治体 岐阜市、関市、山県市、瑞穂市、大野市
揖斐川町、大野町、北方町
市の木 柿
市の花 淡墨桜
市の魚
市の鳥 アユ
ウグイス
本巣市役所
所在地 〒501-1292 岐阜県
本巣市文殊324番地
電話番号 0581-34-2511

外部リンク 本巣市
http://www.city.motosu.lg.jp/

●地理

本巣市の北側は福井県に面している。

・山: 桑山
・河川: 根尾川

旧本巣町・旧真正町・旧糸貫町は太平洋側気候、旧根尾村は日本海側気候で豪雪地帯。

★隣接している自治体

北 : 福井県大野市
西 : 揖斐郡揖斐川町、大野町
東 : 岐阜市、関市、山県市
南 : 瑞穂市、本巣郡北方町、
歴史 [編集]
2004年2月1日、本巣郡本巣町、真正町、糸貫町、根尾村の区域を合併し発足。
名称の由来は、旧町村のあった郡の名前からとられた。

●人口

1980年 28,245人 
1985年 31,315人 
1990年 32,828人 
1995年 33,297人 
2000年 33,900人 
2005年 34,603人

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%B7%A3%E5%B8%82

●行政

・市長:藤原 勉(2008年3月7日~,1期目)
 ・初代市長:内藤 正行(2004年3月8日~2008年3月6日,1期,旧糸貫町町長)
 ・市長職務執行者:矢野 勝(2004年2月1日~3月5日:初代市長選出まで,旧真正町町長)
・議会
 ・議員定数:21人(合併から2005年9月までは48人)

●友好都市

・越前市(福井県)
 旧根尾村(本巣市)の淡墨桜と旧今立町(越前市)の薄墨桜が縁で、1994年に姉妹都市提携。

●経済

市の南部は岐阜市に隣接する上、瑞穂市のJR穂積駅に車で20分ほどのため住宅地や企業の工場等がある。一方で市の北部のほとんどは山林が占め、樽見以北にはほとんど集落が存在しない。

★主な企業

・浪速製菓(こんぶ飴、こんにゃくゼリー)
・レシップ(電装機器)
・アムト(製缶、配管材料)
・岐阜工業(トンネル建設機械)
・敷島産業(食品)
・長良化学工業(洗剤、芳香剤)
・ロイヤルグリーン(農業。セントポーリア生産日本一)
・セントラルローズ(農業。ミニバラ生産販売)
・森松工業(建築設備・上水道用タンク、食品・薬品用プラントタンク製造)

●交通

★鉄道

・樽見鉄道
 ・樽見鉄道樽見線:北方真桑駅 - モレラ岐阜駅 - 糸貫駅 - 本巣駅 - 織部駅 - 木知原駅 - (揖斐川町) - 神海駅 - (揖斐川町) - 鍋原駅 - 日当駅 - 高尾駅 - 水鳥駅 - 樽見駅

★道路

・国道

・国道157号
・国道303号
・国道418号

・県道
 ・岐阜県道・三重県道23号北方多度線
 ・滋賀県道・岐阜県道40号山東本巣線
 ・岐阜県道53号岐阜関ヶ原線
 ・岐阜県道78号岐阜大野線
 ・岐阜県道79号関本巣線
 ・岐阜県道156号曽井中島美江寺大垣線
 ・岐阜県道159号北方真正大野線
 ・岐阜県道167号金原上西郷線
 ・岐阜県道168号屋井黒野線
 ・岐阜県道169号石神七五三線
 ・岐阜県道170号田之上屋井線
 ・岐阜県道173号文殊茶屋新田線
 ・岐阜県道255号根尾谷汲大野線
 ・岐阜県道270号藤橋根尾線

・道の駅
 ・織部の里もとす
 ・富有柿の里いとぬき

●教育

高等専門学校

・岐阜工業高等専門学校

高等学校

・岐阜県立本巣松陽高等学校
・岐阜第一高等学校

中学校

・本巣市立本巣中学校
・本巣市立真正中学校
・本巣市立糸貫中学校
・本巣市立根尾中学校

小学校

・本巣市立本巣小学校
・本巣市立外山小学校
・本巣市立弾正小学校
・本巣市立真桑小学校
・本巣市立席田小学校
・本巣市立土貴野小学校
・本巣市立一色小学校
・本巣市立根尾小学校

幼稚園

・本巣市立真正幼稚園
・いづみ北幼稚園

保育所

・本巣市立本巣保育園
・本巣市立本巣西保育園
・本巣市立神海保育園
・本巣市立真桑保育園
・本巣市立弾正保育園
・精華保育園

●観光

★特産品

・富有柿

★名所

・淡墨公園の淡墨桜(国の天然記念物)樹齢千五百年以上の彼岸桜の古木。日本さくら名所100選の一つ。
・根尾谷断層(国の特別天然記念物)
・ホタル公園

★旧跡

・宗慶大塚古墳
・舟来山272号墳(赤彩古墳)

★寺社・仏閣

・長屋神社
・徳山神社
・能郷白山神社

★祭事・イベント

・真桑人形浄瑠璃(国の重要無形民俗文化財)
・能郷の能・狂言(国の重要無形民俗文化財)古式を保存する猿楽

●その他

・うすずみ温泉
・根尾谷の菊花石(国の特別天然記念物)
・中部電力奥美濃水力発電所・上大須ダム

●施設

★美術館・博物館

・地震断層観察館・体験館
・本巣民俗資料館

★警察

・北方警察署(北方町)管内
 ・真正交番
 ・本巣交番
 ・根尾駐在所

★体育施設

・本巣市民スポーツプラザ

★その他

・富有柿の里
・古墳と柿の館(旧糸貫町)
・モレラ岐阜(旧糸貫町)
・リバーサイドモールシンセイ(旧真正町)
・真正リオワールドショッピングセンター(旧真正町)

●その他

・市議会議員の報酬が全国で最も低い。(月額約22万円)
・市外局番は旧本巣町と旧根尾村の地域が0581、旧糸貫町と旧真正町の地域が058となっている。

●出身著名人

・高木貞治(数学者)
・小西美帆(女優)
・中島武市(実業家、歌手・中島みゆきの祖父)
・蜂矢敏行(元大相撲力士)
・国枝栄(JRA調教師)
・柴橋正直(衆議院議員)

●関連項目

・日本の地方公共団体一覧
・マクワウリ (旧本巣郡真桑村が一大産地だった)

●外部リンク (こちらは参考までです。)

・本巣市
http://www.city.motosu.lg.jp/

表・話・編・歴 岐阜県の自治体

市部 岐阜市 | 大垣市 | 高山市 | 多治見市 | 関市 | 中津川市 | 美濃市 | 瑞浪市 | 羽島市 | 恵那市 | 美濃加茂市 | 土岐市 | 各務原市 | 可児市 | 山県市 | 瑞穂市 | 飛騨市 | 本巣市 | 下呂市 | 海津市 | 郡上市

羽島郡 岐南町 | 笠松町

養老郡 養老町

不破郡 垂井町 | 関ケ原町‎

安八郡 神戸町 | 輪之内町 | 安八町

揖斐郡 揖斐川町 | 大野町 | 池田町

本巣郡 北方町

加茂郡 坂祝町 | 富加町 | 川辺町 | 七宗町 | 八百津町 | 白川町 | 東白川村

可児郡 御嵩町

大野郡 白川村

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これは日本史上「最大」といわれている災害です・・・パート5

続いてです。根尾村は本巣郡というところにありました。続いては、「本巣郡」について書いていきたいと思います。参考までです。

●本巣郡について

令制国一覧 > 東山道 > 美濃国 > 本巣郡
日本 > 中部地方 > 岐阜県 > 本巣郡

本巣郡(もとすぐん)は、美濃国・岐阜県の郡。人口18,052人、面積5.17km²、人口密度3,490人/km²。(2009年9月1日、推計人口)

現在は以下の1町のみを含む。

・北方町(きたがたちょう)

●沿革

・1878年の郡区町村編制法施行の際、郡の領域はそのままであったが、本巣郡・席田郡は合同で本巣郡北方町に、方県郡は厚見郡(現在は全域が岐阜市内)と合同で厚見郡岐阜町に郡役所を置いた。
・明治22年7月1日 町村制施行(1町60村)
 ・北方町 (北方町)
 ・生津村、高屋村、馬場村、柱本村 (生津村 → 北方町)
 ・穂積村、別府村、稲里村 (穂積町 → 瑞穂市)
 ・本田村、只越村 (本田村 → 穂積町 → 瑞穂市)
 ・牛牧村、十九条村、野畠村、祖父江村 (牛牧村 → 穂積町 → 瑞穂市)
 ・美江寺村、重里村、十七条村、十八条村 (船木村 → 巣南町 → 瑞穂市)
 ・小柿村、軽海村、宗慶村、十四条村、上真桑村、下真桑村 (真桑村 → 真正町 → 本巣市)
 ・屋井村、七五三村、早野村 (土貴野村 → 糸貫町 → 本巣市)
 ・見延村、長屋村、石神村、上高屋村、数屋村、有里村、随原村 (一色村 → 糸貫町 → 本巣市)
 ・山口村、曽井中島村 (山添村 → 本巣町 → 本巣市)
 ・文珠村 (本巣町 → 本巣市)
 ・外山村、木知原村、神海村、佐原村、金原村、日当村 (外山村 → 本巣町 → 本巣市)
 ・長嶺村、市場村、神所村、中村、越卒村、門脇村、天神堂村、長島村、黒津村、越波村 (中根尾村 → 根尾村 → 本巣市)
 ・板屋村、小鹿村、松田村、上大須村、下大須村、板所村、口谷村、奥谷村 (東根尾村 → 根尾村 → 本巣市)

・明治29年4月18日の郡制施行の際、席田郡、方県郡の一部、大野郡の一部が本巣郡に統合され、郡役所は北方町に置かれた。(1町97村)
・明治30年4月1日 (1町22村)
 ・生津村、高屋村、馬場村、柱本村が合併して生津村となった。
 ・穂積村、別府村、稲里村が合併して穂積村となった。
 ・本田村、只越村が合併して本田村となった。
 ・牛牧村、十九条村、野畠村、祖父江村が合併して牛牧村となった。
 ・美江寺村、重里村、十七条村、十八条村が合併して船木村となった。
 ・小柿村、軽海村、宗慶村、十四条村、上真桑村、下真桑村が合併して真桑村となった。
 ・屋井村、七五三村、早野村が合併して土貴野村となった。
 ・見延村、長屋村、石神村、上高屋村、数屋村、有里村、随原村が合併して一色村となった。
 ・山口村、曽井中島村が合併して山添村となった。
 ・外山村、木知原村、神海村、佐原村、金原村、日当村が合併して外山村となった。
 ・長嶺村、市場村、神所村、中村、越卒村、門脇村、天神堂村、長島村、黒津村、越波村が合併して中根尾村となった。
 ・板屋村、小鹿村、松田村、上大須村、下大須村、板所村、口谷村、奥谷村が合併して東根尾村となった。
 ・政田村、浅木村、温井村、海老村、下福島村が合併して弾正村となった。
 ・唐栗村、森村、七崎村、田ノ上村、宮田村、大月村、居倉村が合併して川崎村となった。
 ・古橋村、呂久村、中宮村、横屋村、宝江村が合併して鷺田村となった。
 ・上保村、郡府村、北野村、春近村、石原村、三橋村、仏生寺村、芝原村、加茂村が合併して席田村となった。
 ・河渡村、寺田村、曽我屋村、一日市場村が合併して合渡村となった。
 ・中西郷村、上西郷村、小野村、中村(旧方県郡)が合併して西郷村となった。

・明治37年4月1日 中根尾村、東根尾村、西根尾村が合併して根尾村となった。(1町20村)

・大正6年(1917年)、現住人口:52,449名。マラリア患者数:203名。

・昭和23年10月1日 穂積村が町制施行して穂積町となった。(2町19村)

・昭和25年

 ・6月1日 文珠村、山添村が合併して本巣村となった。(2町18村)
 ・8月20日 七郷村、西郷村が岐阜市に編入された。(2町16村)

・昭和29年

・9月20日 船木村、川崎村、鷺田村が合併して巣南村となった。(2町14村)
 ・11月3日 穂積町、本田村、牛牧村が合併して穂積町となった。(2町12村)

・昭和30年4月1日 (2町9村)
 ・北方町、生津村が合併して北方町となった。
 ・真桑村、弾正村が合併して真正村となった。
 ・土貴野村、一色村が合併して糸貫村となった。

・昭和31年9月30日 (2町7村)
 ・本巣村、外山村が合併して本巣村となった。
 ・席田村の一部(芝原、加茂)が北方町に編入された。
 ・席田村の一部(上保、郡府、北野、春近、石原、三橋、仏生寺)が糸貫村に編入された。

・昭和34年4月1日 合渡村が岐阜市に編入された。(2町6村)

・昭和35年4月1日 (4町4村)
 ・糸貫村が町制施行して糸貫町となった。
 ・本巣村が町制施行して本巣町となった。

・昭和38年4月1日 網代村が岐阜市に編入された。(4町3村)

・昭和39年4月1日 (6町1村)
 ・真正村が町制施行して真正町となった。
 ・巣南村が町制施行して巣南町となった。

・平成15年(2003年)時点での本巣郡の範囲は、元々は本巣郡、席田郡(むしろだぐん。後の糸貫町の一部及び北方町の一部)、方県郡(かたがたぐん)の一部、大野郡(おおのぐん)の一部の四郡にまたがっていた。

・平成15年(2003年)5月1日、巣南町・穂積町が合併して瑞穂市となった。

・平成16年(2004年)2月1日、本巣町・真正町・糸貫町・根尾村が合併して本巣市となった。
残る北方町は岐阜市などとの合併を目指していたが、2004年8月31日に岐阜広域合併協議会から離脱した。

明治22年以前 明治22年7月1日 明治22年 - 昭和24年 昭和25年 - 昭和34年 昭和35年 - 昭和64年 平成1年 - 現在 現在 の一覧表はこちらで参照できます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%B7%A3%E9%83%A1

表・話・編・歴美濃国の郡

多藝郡 | 石津郡 | 不破郡 | 安八郡 | 池田郡 | 大野郡 | 本巣郡 | 席田郡 | 方県郡 | 厚見郡 | 各務郡 | 山県郡 | 武藝郡 | 郡上郡 | 加茂郡 | 可児郡 | 土岐郡 | 恵奈郡 | 羽栗郡(安土桃山時代以降)| 中島郡(安土桃山時代以降)| 海西郡(安土桃山時代以降)

表・話・編・歴岐阜県の自治体
市部 岐阜市 | 大垣市 | 高山市 | 多治見市 | 関市 | 中津川市 | 美濃市 | 瑞浪市 | 羽島市 | 恵那市 | 美濃加茂市 | 土岐市 | 各務原市 | 可児市 | 山県市 | 瑞穂市 | 飛騨市 | 本巣市 | 下呂市 | 海津市 | 郡上市

羽島郡 岐南町 | 笠松町

養老郡 養老町

不破郡 垂井町 | 関ケ原町‎

安八郡 神戸町 | 輪之内町 | 安八町

揖斐郡 揖斐川町 | 大野町 | 池田町

本巣郡 北方町

加茂郡 坂祝町 | 富加町 | 川辺町 | 七宗町 | 八百津町 | 白川町 | 東白川村

可児郡 御嵩町

大野郡 白川村

●その他

8世紀頃の戸籍には御野国本簀郡との記載がある。本巣郡には美濃郷、鹿立郷、遠市郷、安堵郷、穂積郷、物部郷、船木郷、粟田郷の8郷があった。

●参考文献

・内務省衛生局保健衛生調査室編『各地方ニ於ケル「マラリア」ニ関スル概況』1919年(大正8年)発行(国立国会図書館の『近代デジタルライブラリー』で閲覧可能)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%B7%A3%E9%83%A1」より作成

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これは日本史上「最大」といわれている災害です・・・パート4

続いてです。続いては、1891年(明治24年)10月28日 濃尾地震。根尾谷断層を残した、震源でもある 「根尾村」について書いていきたいと思います。参考までです。

●根尾村について

根尾村(ねおむら)は、岐阜県本巣郡にあった村である。菊花石を産し、桜の名所として知られた。2004年に本巣郡の4町村が合併して本巣市となった。

旧・根尾村のデータ■
廃止日 2004年2月1日
廃止理由 新設合併
真正町・糸貫町・本巣町・根尾村→本巣市

現在の自治体 本巣市

廃止時点のデータ
国  日本
地方 中部地方、東海地方
都道府県 岐阜県
郡 本巣郡
団体コード 21427-2
面積 295.83km².
総人口 2,036人
(推計人口、2004年1月1日)
隣接自治体 板取村、美山町、本巣町、谷汲村、久瀬村、藤橋村
福井県 大野市
村の木 
村の花 
村のシンボル 
根尾村役場
所在地 〒501-1524 岐阜県
本巣郡根尾村板所625-1
電話番号 0581-38-2511
外部リンク 根尾村商工会
位置 北緯35度38分3.9秒
東経136度36分57.1秒

●地理

・岐阜県西部に位置し、福井県に隣接する山地にあった。村の面積のほとんどは山林で、根尾川沿いの狭い平地に人が住んだ。
・村の北西に能郷白山がそびえていた。山の最高点は村域からわずかに外れたが、白山をまつる神社と登山口は根尾村の能郷にあった。
・南北に長い村の中を、北から南に根尾川が流れた。村役場付近で合流する二つの川は、東谷川、西谷川と呼び分ける。根尾東谷川の上流には上大須ダムがある。
・樽見の2002年の年平均気温は12.9度。1月平均が1.0度、7月平均が24.9度。山地ゆえの冷涼な気候である。年間降水量は、3,230mmと多い。雪も多く豪雪地帯である。
・根尾谷断層がある。

★隣接していた自治体

・武儀郡 板取村(現在は関市の一部)
・山県郡 美山町(現在は山県市の一部)
・本巣郡 本巣町(現在は本巣市の一部)
・揖斐郡 谷汲村・久瀬村・藤橋村(現在は揖斐川町の一部)
・福井県 大野市

●歴史

・1891年(明治24年)10月28日 濃尾地震。根尾谷断層を残した
・1904年(明治37年)4月1日 東根尾村・中根尾村・西根尾村が合併して根尾村が成立
・2004年(平成16年)2月1日 本巣町・真正町・糸貫町・根尾村が合併して本巣市となる

●経済

★産業

・農業と林業が主産業であった。山芋、なめこなど。
・20世紀末からは観光業が伸び、春には樹齢1500年以上とされる淡墨桜(うすずみざくら)を見にたくさんの人が訪れている。

●交通

★鉄道路線

・樽見鉄道樽見線 樽見駅 - 水鳥駅 - 高尾駅 - 日当駅

★道路

古くは美濃国から温見峠(ぬくみとうげ)をへて越前国に通じる街道が走っていた。近代以降は国道157号がこの峠を抜けて岐阜県から福井県に通った。

・国道157号 南北に走り、北に福井県大野市、南には岐阜県本巣町に接続した。
・国道418号 根尾村から東に走り、尾並坂峠を境に美山町に接続した。
・岐阜県道270号藤橋根尾線
・岐阜県道255号根尾谷汲大野線

● 名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事

・根尾東谷断層 - 国の特別天然記念物
・地震断層観察館・体験館
・根尾東谷の菊花石 - 国の特別天然記念物
・淡墨公園の淡墨桜 - 国の天然記念物
・能郷の能・狂言 - 国の重要無形民俗文化財で古式を保存する猿楽
・うすずみ温泉
・中部電力奥美濃水力発電所・上大須ダム

●関連項目

・岐阜県の廃止市町村一覧

●外部リンク (こちらは参考までです)

・根尾村商工会
http://www.gifushoko.or.jp/homepage/hneo/

・本巣市ホームページ
http://www.city.motosu.lg.jp/

・根尾村について
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%B9%E5%B0%BE%E6%9D%91

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これは日本史上「最大」といわれている災害です・・・パート3

続いてです。続いては、根尾谷断層に関する博物館である、「地震断層観察館・体験館」について書いていきたいと思います。参考までです。

●地震断層観察館・体験館について

地震断層観察館・体験館(じしんだんそうかんさつかん・たいけんかん)は、岐阜県本巣市にある根尾谷断層に関する博物館である。

1891年の濃尾地震によりできた根尾谷断層を保存し、展示することを目的に1992年(平成4年)3月にオープンした。

施設はピラミッド型の三角屋根の地下観察館と円形ドーム型の地震資料館からなる地震断層観察館と、併設する地震体験館からなる。

断層のズレを直接観察できる世界で初めての施設。

地震断層観察館・体験館
Seismic Faults Observation & Experience House

施設情報
専門分野 根尾谷断層
管理運営 本巣市
開館 1992年(平成4年)3月
所在地 〒501-1529
岐阜県本巣市根尾水鳥512番地
電話 0581-38-3560

●沿革

・1988年(昭和63年) - 濃尾震災から100年の節目を迎えるにあたり断層を活用した新たな観光資源として、断層部分を掘り下げ露出させ断層を観察することのできる断層トレンチを整備することに決定。
・1990年(平成2年)12月 - トレンチ着手。
・1991年(平成3年)10月 - 垂直に降起した断層が出現。
・1992年(平成4年)3月 - 地下観察館として開館。開館1年間に8万人の入館者を記録。
・1993年(平成5年)3月 - 地下観察館横に地震資料館開館。両施設を合わせて「地震断層観察館」に改称。
・1998年(平成10年)3月 - 地震体験館開館。
・2001年(平成13年) - 累計入場者50万人。
・2002年(平成14年)7月10日 - 集中豪雨による根尾川の氾濫により全館が水没。以降数ヶ月にわたり休館となる[1]。

●概要

・開館時間:9:00〜17:00
・休館日:4月は無休連日開館、月曜日(祝日の場合はその翌日)、12月29日〜翌年1月3日。
・入館料:大人500円(350円)、小人250円(180円)※括弧内は20名以上の団体。
・地震体験館は別料金で、大人小人共に200円。

●施設

★地震断層観察館

地下観察館

・根尾谷断層を輪切りにした状態で、すり鉢状に20m四方を地下に8mをトレンチしてある。断層が施設内にあるため風雨にさらされる事がなく、断層を鮮明に観察する事が出来る。地震に関する書籍や新聞類を閲覧できるブースも用意されている。

地震資料館

・大画面ホール - 50人の収容ホールに200インチの大型画面がありビデオによる「根尾谷の自然」と題した村民の暮らしの紹介や断層発生のメカニズムの再現。
・常設展示 - 震災直後の写真や文献を展示。地震の仕組みやメカニズムを直径3mの映像モニター6台を組み込んである地球儀で紹介。

★地震体験館

・3Dシアターで震度4〜5の揺れを体験出来る。

●アクセス

・樽見鉄道樽見線水鳥駅下車。徒歩約2分。

● 関連項目

・根尾谷断層
・濃尾大地震

● 脚注

1. 災害の歴史 中部地方整備局越美山系砂防事務所サイト内。
http://www.cbr.mlit.go.jp/etsumi/saigai/rekishi.html

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これは日本史上「最大」といわれている災害です・・・パート2

続いてです。濃尾地震は、「根尾谷断層帯」が活動した典型的な直下型地震であり、これは日本の陸域で発生した地震としては史上最大である。この地震で、根尾村水鳥(みどり)地区活断層である、上下差6メートルにも及ぶ「根尾谷断層」が地表に出現しました。

続いては、根尾村水鳥地区の断層崖は国指定の特別天然記念物に指定されている「根尾谷断層」について書いていきたいと思います。

●根尾谷断層について

根尾谷断層(ねおだにだんそう)は、岐阜県本巣市(旧根尾村)を中心とする活断層である。根尾村水鳥地区の断層崖は国指定の特別天然記念物に指定されている。

●概要

1891年(明治24年)10月28日午前6時38分50秒に根尾村を震央として発生した濃尾地震(マグニチュード8.0)の震源断層である。

この地震により数十kmに渡って地表地震断層が現れた。総延長距離約80km、活動一回あたりの最大左横ずれ変位量8m、最大上下変位量6mに及ぶ大規模な断層である。

この根尾谷断層以前に地震断層について記録されたものが無いため、日本で確認できる最古の地震断層として記録されている。また地震直後に記録写真が国内外の地震学教科書などに引用されたため世界的に知られることとなり、海外からも地震学の研究者も多数訪れている(記録写真は複数撮影されているが、小藤文次郎が撮影して論文に掲載したものが世界的に名高い)。

2007年(平成19年)5月10日、日本の地質百選選定委員会が「日本の地質百選」の第1期選定として全国83箇所を選定(3月)した結果が発表されたが、その1つとして、根尾谷断層も選ばれた。

●場所

岐阜県本巣市根尾水鳥(みどり)地区。

樽見鉄道樽見線水鳥駅付近に、断層が渡っている。後述の地震断層観察館・体験館は、同駅から徒歩2分の地点にある。

●地震断層観察館・体験館
詳細は「地震断層観察館・体験館」を参照

●関連項目

・濃尾地震
・地質・鉱物天然記念物一覧

●外部リンク

・特別天然記念物、根尾地域の施設(本巣市)
特別天然記念物について
http://www.city.motosu.lg.jp/
根尾地域の施設について
http://www.city.motosu.lg.jp/outline/391/000393.html
・文化遺産オンライン(文化庁・総務省)
・国指定文化財 データベース(文化庁)
http://www.bunka.go.jp/bsys/
・薄墨桜と根尾谷断層 ホームページ
http://sakura5.net/neo/dansou.html

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これは日本史上「最大」といわれている災害です・・・パート1

皆さん、こんにちわ。更新です。今日は、10月28日です。今日10月28日は、「濃尾地震」が起った日だそうです。濃尾地震は、1891年10月28日に濃尾地方で発生した、日本史上最大の直下型地震。「美濃・尾張地震(みの・おわりじしん、Mino-Owari Earthquake)」とも呼ばれています。

ということで、今日は、「濃尾地震」について書いていきたいと思います。

●濃尾地震について

濃尾地震(のうびじしん、Nobi Earthquake)は、1891年10月28日に濃尾地方で発生した、日本史上最大の直下型地震。「美濃・尾張地震(みの・おわりじしん、Mino-Owari Earthquake)」とも呼ばれている。

●概要

濃尾地震は、1891年(明治24年)10月28日6時38分50秒に発生した。震源は、岐阜県本巣郡根尾村(現・本巣市)、北緯35度35分、東経136度20分の地点。規模は当時のデータから後にM8.0(8.4とする説もある)、モーメントマグニチュードは7.4と推定されている。「根尾谷断層帯」が活動した典型的な直下型地震であり、これは日本の陸域で発生した地震としては史上最大である。この地震で、根尾村水鳥(みどり)地区には、上下差6メートルにも及ぶ根尾谷断層が地表に出現した。この断層崖は国の特別天然記念物に指定されている。

●被害

濃尾2県はもとより、近隣の滋賀県や福井県にも被害は及んだ。明治時代では最大規模の地震であり、理科年表によると、死者は7273名、負傷者17175名、全壊家屋は14万2177戸を数えた。震央近くでは、揺れにより山の木が全て崩れ落ち、はげ山になったなどと伝えられる。また岐阜市と周辺では火災が発生し被害を大きくした。岐阜の壊滅を伝える新聞記者の第一報は、「ギフナクナル(岐阜、無くなる)」だったという。

建築物では、名古屋城の城壁や、宿場町の江戸時代からの建物の被害は言うまでもなく、欧米の技術で作られた近代建築でさえ、長良川鉄橋の落下をはじめ、耐震構造になっていなかった橋梁や煉瓦の建築物などが破壊されたため、この地震によって耐震構造への関心が強まり、研究が進展する契機となった。また、この地震後に震災予防調査会が設置された。

『鉄道唱歌』でも、岐阜の紹介として、鵜飼と並んで地震が歌われている。また唱歌『一月一日』(千家尊福作詞)を以下の様に捩った替え歌が児童の間で流行した。

“ 豆腐の始めは豆であり
尾張名古屋の大地震
松竹でんぐり返って大騒ぎ
後の始末は誰がする ”

●学術的な意義

この地震によって、地質学者の小藤文次郎は断層の地震との関係を確信し、断層地震説を主張した。

地震学者大森房吉は、この地震の余震を研究し、本震からの経過時間に伴う余震の回数の減少を表す大森公式を発表している。ちなみに、地震から100年以上経た現在もなお、余震が続いている。この地震は、内陸型地震としては特別に大きな規模の地震ではなく、同程度(長さ 50km程度)の規模の断層は日本各地に見られる。

●地震防災

岐阜県は濃尾地震が発生した10月28日を「岐阜県地震防災の日」として指定し、地震防災の啓発などを行っている。また、毎月28日を「岐阜県防災点検の日」として、県民に災害への備えを呼びかけている。

●関連項目

・根尾谷断層
・東海豪雨(2000年に濃尾地方を襲った豪雨)

● 脚注

1. 最大地震規模による日本列島の地震分帯図東京大学地震研究所彙報. 第65冊第1号, 1990.6.30, pp. 289-319
http://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/dspace/handle/2261/13056

●外部リンク (こちらは参考までです)

・国立科学博物館地震資料室 濃尾地震
http://research.kahaku.go.jp/rikou/namazu/04nobi/noubi.html

・1891年濃尾地震の地震断層東京大学地震研究所 地震研究所研究速報. 第13号, 1974-03, pp. 85-126
http://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/dspace/handle/2261/13936

1850年以後に発生した日本の主な大地震・被害地震

1850~1899 1853小田原M6.7 1854伊賀上野M7.4 東海M8.4 南海M8.4 1855飛騨M6.8 宮城沖M7.3 安政江戸M6.9 1856十勝沖M7.7 1857芸予M7.3 1858飛越M6.7 青森東方沖M7.3 1961宮城沖M7.3 1872浜田M7.1 1877(イキケM8.3) 1881国後沖M7.0 1889熊本M6.3 1891濃尾M8.0 1892能登沖M6.4 1893色丹沖M7.0 1894根室沖M7.9 明治東京M7.0 庄内M7.0 1895茨城南部M7.2 1896明治三陸M8.5 陸羽M7.2 1897宮城沖M7.4 三陸沖M7.7 1898宮城沖M7.2 1899紀和M7.0 日向灘M7.1

1900~1949 1900宮城北部M7.0 1901奄美沖M7.3 青森東方沖M7.4 1902青森東部M7.0 1905芸予M7.2 1906熊野灘M7.51909房総沖M7.5 江濃M6.8 沖縄M6.2 宮崎西部M7.6 1911喜界島M8.0 1913日高沖M7.0 1914桜島M7.1 秋田仙北M7.1 1915十勝沖M7.0 宮城沖M7.5 1916明石M6.1 1917静岡M6.3 1918(ウルップ沖M8.0) 1921千葉・茨城M7.0 1922浦賀水道M6.8 島原M6.9 1923茨城沖M7.3 種子島近海M7.1 関東(関東大震災)M7.9 1924丹沢M7.3 1925北但馬M6.7 1927北丹後M7.3 1930大聖寺M6.3 北伊豆M7.3 1931西埼玉M6.9 日向灘M7.1 1933昭和三陸M8.1 能登M6.0 1935静岡M6.4 1936河内大和M6.4 宮城沖M7.4 新島近海M6.3 1937宮城沖M7.1 1938屈斜路M6.1 宮古島北西沖M7.2 福島東方沖M7.5 1939男鹿M6.8 日向灘M6.5 1940積丹沖M7.5 1941長野M6.1 日向灘M7.2 1943青森東方沖M7.1鳥取M7.2 長野北部M5.9 1944東南海M7.9 1945三河M6.8 青森東方沖M7.1 1946南海M8.0 1947与那国近海M7.4 1948和歌山南西M7.0 福井M7.1 1949安芸灘M6.2 今市M6.4

1950~1999 1952十勝沖M8.2 大聖寺沖M6.5 吉野M6.7 1953房総沖M7.4 1955徳島南部M6.4 1956白石M6.0 1958石垣近海M7.2 択捉沖M8.0 1960(チリM9.5) 1961長岡M5.2 日向灘M7.0 釧路沖M7.2 北美濃M7.0 1962十勝沖M7.1 宮城北部M6.5 1964新潟M7.5 1965静岡M6.1 1966与那国近海M7.6 1968えびのM6.1 日向灘M7.5 十勝沖M7.9 1969北海道東方沖M7.8 岐阜中部M6.6 1972石垣南方沖M7.4 八丈島東方沖M7.2 1973根室沖M7.4 1974伊豆沖M6.9 1978伊豆大島近海M7.0 択捉沖M7.5 宮城沖M7.4 1982浦河沖M7.1 1983日本海中部M7.7 山梨東部M6.0 1984鳥島近海M7.9 1987日向灘M6.6 長野西部M6.8 1988千葉東方沖M6.7 1989岩手沖M7.0 1993釧路沖地震M7.5 北海道南西沖M7.8 1994北海道東方沖M8.2 三陸はるか沖M7.6 1995兵庫南部(阪神・淡路大震災)M7.3 択捉沖M7.7 1998石垣南方沖M7.7

2000~ 2000根室沖M7.0三宅島M6.5 鳥取西部7.3 2001芸予M6.7 与那国近海M7.3 2003宮城沖M7.1 宮城北部M6.4 十勝沖M8.0 2004紀伊半島南東沖M7.4 中越M6.8 釧路沖M7.1 2005福岡西方沖M7.0 宮城南部M7.2 三陸沖M7.1 2007能登半島M6.9 中越沖M6.8 2008茨城県沖M7.0 岩手・宮城内陸M7.2 十勝沖M7.1 2009駿河湾M6.5

地震の年表 - 日本の地震

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元々はある建物を宣伝するための「祭り」でしたが、これから「離れる」深刻な問題があります・・・パート14

続いてです。「読書週間2009イベント情報」です。参考までです。

■生誕100年 太宰・清張の足跡たどる 宇治市中央図書館
10月24日11時9分配信 京都新聞

今年生誕100年を迎えた作家の太宰治(1909~48)と松本清張(1909~92)の作品を紹介する図書展が23日、京都府宇治市折居台の市中央図書館で始まった。ベストセラー小説など約200冊がずらりと並び、来館者が興味深げに2人の足跡をたどっている。

秋の読書週間(27日~11月9日)にちなんで企画した。太宰の作品は、映画化され来年2月に公開される「人間失格」をはじめ、「斜陽」や「お伽草紙」などを展示している。松本の作品は、社会派推理小説ブームを巻き起こした「点と線」や「眼の壁」「わるいやつら」などを置いた。2人の軌跡を説明する長さ約5メートルの年表も掲示している。

2人と同じく生誕100年を迎えた作家の大岡昇平、中島敦、埴谷雄高、写真家の土門拳などの作品も飾り、今でも子どもに人気の高い児童作家飯沢匡の「ヤンボウ・ニンボウ・トンボウ」シリーズもある。市中央図書館は「それぞれの独特の持ち味を吟味、比較してほしい」と話している

・京都府宇治市折居台周辺の地図(縮尺1/30万)
http://map.yahoo.co.jp/pl?sc=7&lon=135.48.29.588&lat=34.52.35.626

■熊本市立図書館

読書週間イベント案内

2009・第63回 読書週間標語
「思わず夢中になりました」

終戦まもない昭和22年、まだ戦火の傷痕が至るところに残っているなかで「読書の力によって、平和な文化国家を作ろう」という決意のもと、出版社・取次会社・書店と公共図書館、そして新聞・放送のマスコミ機関も加わって、11月17日から、第1回『読書週間』が開催されました。
そのときの反響はすばらしく、翌年の第2回からは期間も10月27日~11月9日(文化の日を中心にした2週間)と定められ、この運動は全国に拡がっていきました。

そして『読書週間』は、日本の国民的行事として定着し、日本は世界有数の「本を読む国民の国」になりました。
いま、電子メディアの発達によって、世界の情報伝達の流れは、大きく変容しようとしています。しかし、その使い手が人間であるかぎり、その本体の人間性を育て、かたちづくるのに、「本」が重要な役割を果たすことはかわりありません。

暮らしのスタイルに、人生設計のなかに、新しい感覚での「本とのつきあい方」をとりいれていきませんか。
『読書週間』が始まる10月27日が、「文字・活字文化の日」に制定され、よりいっそうの盛り上がりが期待されます。

そこで、当館でも読書週間にあわせていろんなイベントを予定しています。
詳しくは、下記の添付ファイル「読書週間ポスター」をご覧ください。

■添付ファイル

読書週間ポスター (606.8 KB)
http://www-library.kumamoto-kmm.ed.jp/
PDFファイル

こちらでも参照できます。
http://www-library.kumamoto-kmm.ed.jp/hp/menu000000400/hpg000000376.htm

■丸岡図書館 読書週間行事案内

10月27日~11月9日は、読書週間「ライブラリーウィーク2009」です。
さまざまなイベントを用意して皆さまをお待ちしています。

こちらで参照できます。
http://www.city.fukui-sakai.lg.jp/static/00000540/003/00002530.html

■図書館 読書週間イベント開催

愛知東邦大学図書館では皆さんに読書の秋・芸術の秋を楽しんでいただくため、さまざまなイベントを催します。
今年のテーマ「君と読みたい本がある」
期間 : 2007年10月29日(月)~11月9日(金)

■ヴァイオリン&ピアノ音楽会 (入場無料)
 

日時:10月30日(火)12:20~12:50
場所:図書館1Fブラウジングルーム
曲目:G線上のアリア・千の風になって・チゴイネルワイゼンほか
 
※平和が丘学区の方もご鑑賞いただけます。お気軽にお越しください。

こちらで参照できます。
http://www.aichi-toho.ac.jp/news/index.php?ID=134&cID=6

■10月31日(土)から11月8日(日) 田中友佳子絵本原画展

秋の読書週間イベントのひとつとして、「田中友佳子絵本原画展」を開催します。


「こんたのおつかい」「かっぱのかっぺいとおおきなきゅうり」「にげだしたてじなのたね」「こんた、バスでおつかい」(以上、徳間書店)の中から全22点の絵本原画を展示します。

【日時】10月31日(土)から11月8日(日)午前10時から午後5時
※11月2日(月)は休館
【場所】中央図書館2階会議室(入場無料)

こちらで参照できます。
http://www.city.fussa.tokyo.jp/amuse/event/oct/88vtda000001rkvb.html

■☆古本屋巡りツアー(2009年読書週間・特別企画)
一人で古本屋巡りするのも楽しいですが、仲間で古本屋を巡り、その後「収穫物」を披露ながら語り合い、杯を交わすのはまた格別な喜びを得られます。2009年読書週間・特別企画として、「古本屋巡りツアー」を開催します。案内人は古本研究家・五十嵐修氏です。今年初めての企画ですので、どうぞよろしくお願い致します。

集合日時………2009年10月31日(土)15時集合
集合場所………地下鉄・南森町駅・③番出口(地上)、商店街入口
古本屋巡り……15時~17時
懇親会…………17時~19時(会場:ひょうたん島)
参加費…………男性5,000円、女性4,000円(懇親会費含む)
募集人数………10人(男女問わず)
案内人…………五十嵐修氏(古本研究家)
お申し込み……文化創造倶楽部事務局へメール、FAX、電話等で
〒581-0016 大阪府八尾市八尾木北3-137
TEL/FAX072-993-2037 携帯070-5432-2795
URL: http://www.bunkasozo.com E-mail: ono@bunkasozo.com
主催……………文化創造倶楽部
後援……………Big River Club、ドニエプル出版

こちらでも参照できます。
http://www.eonet.ne.jp/~dnipro/public_html/top/event.htm

子どもも、大人も本好きさん、あつまれ~!

~地域や学校で行われている、読書についての取組みが大集合!~

【日程】2009年11月7日(土)、8日(日)
【会場】横浜市中央図書館 ⇒中央図書館アクセス
【内容】岡田淳さん 講演会
   
   朗読会・・・フェリス大朗読チーム
   影絵・・・横浜市立みなと総合高等学校
   親子で楽しむ よこはま読書フェスティバル・・・横浜市小学校図書館研究会
   おはなし会
   展示
※ タイムスケジュールなどくわしくはこちら(PDF511KB)をご覧ください。

こちらでも参照できます。
http://www.city.yokohama.jp/me/kyoiku/library/bunka/dokufes2009.html

■奈良県立図書館イベント

図書情報館では、“2009年読書週間特別企画”として、千田館長による読書相談会を開催致します。
千田館長が直接カウンターに就き、一般利用者の読書相談に対し、図書情報館の資料を使って回答するとともに関連文献の紹介を行います。
この機会に「日本の古代に関する事項」について、お気軽にお尋ねください。
穏やかで気さくな人柄の千田館長が“本の森”の案内人をつとめます。

開催日時
平成21年10月31日(土) 13時~15時、15時30分~17時
場所
3階 調べ物・本の相談カウンター
申込み方法
受付期間 10月16日(木)~25日(日)まで
定員
先着順(予約制) 7名(申込み多数の場合は抽選)
申込み方法
FAX(0742-34-2777)、メール(info@library.pref.nara.jp)、電話(0742-34-2111)、往復はがきのほか、来館による申込みもできます。(2階カウンターにて受け付けます。)
※①郵便番号・住所②氏名③連絡先電話番号(FAXでのお申込みの場合は、FAX番号もお書きください。)を記入し、「千田館長読書相談会希望」と明記してください。また、往復はがきで申込みの場合は、返信にも送付先の郵便番号、住所、氏名を必ず記入してください。

こちらでも参照できます。
http://www.library.pref.nara.jp/index.html

2009秋の読書週間市民のつどい(10/28~11/14)

2009秋の読書週間市民のつどい(10/28~11/14)

イベント概要 秋の読書週間を迎えて市内の図書館で講演会やイベントが行われます。

場所 藤沢市内の各図書館

期間・日・時 10/28~11/14(※各図書館ごとの日時は詳細欄を参照願います)

料金 無料

こちらで参照できます。
http://e-comm.cityfujisawa.ne.jp/efp/currentevent/2145-10281114.html

■ほんぽーと中央図書館で11月1日(日)上映される『大人のためのほんぽーとシネマ』は,定員に達しましたので,予約を締め切らせていただきます。誠にありがとうございました。

【上映作品】
『おくりびと』(邦画)
日 時:平成21年11月1日(日) 午後2時半~4時40分(受付は午後2時から)

会 場:ほんぽーと中央図書館 3階ビーンズホール

~入場料無料~

※この作品に関する資料については,こちらのチラシをご覧ください。(PDFファイル418KB)

【問合せ先】ほんぽーと中央図書館 企画運営係(TEL025-246-7700)

こちらで参照できます。
http://www.niigatacitylib.jp/modules/news/index.php

開催日 2009年10月27日(火曜日)/2009年11月9日(月曜日)
ジャンル 催事・イベント
事前申し込み 不要
費用 無料 託児(一時保育) なし

こちらで参照できます。
http://www.city.mitaka.tokyo.jp/c_event/015/015544.html

■ブックスタート11月

赤ちゃんの時から絵本を読んであげたり、わらべうたあそびをしてあげたりすることは、心安らぐひとときを与えると同時に、赤ちゃんの心とことばを育てることにもつながります。お誕生日が近くなったら、長い読書生活の第一歩を最良の出会いでスタートさせてあげましょう。

対象:8ヶ月から満1歳(お誕生日当月)の赤ちゃんとその保護者。対象年齢内に1回受講できます。
場所と時間:
●浜松市内の図書館どこでも受講できます。
午前10時開始。ただし、佐久間図書館は午前9時30分開始
●イオン浜松市野ショッピングセンター2階「ふれあいホール」
毎月第一金曜日午後1時30分、毎月第四土曜日午前10時30分開始
内容:読み聞かせやわらべうたの体験、図書館職員からのアドバイス。赤ちゃんの名前で、図書館の利用者カードを作ることができます。おすすめの絵本を1冊さしあげます。申込みはいりません。
持ち物:母子健康手帳

こちらで参照できます。
http://www.lib.city.hamamatsu.shizuoka.jp/info/index.htm

■平成21年度 福岡県読書週間事業講演会「星の世界を記録で読み解く」
【日時】 2009年11月29日(日曜日) 14時0分~16時0分
【開催場所】 福岡県立図書館
【開催エリア】 東区
【分野】 講演会
【事前申込】 必要
【料金区分】 無料
【対象者】 福岡県内在住の方
【定員】 150名
【内容】 「星の世界を記録で読み解く」
九州大学大学院 助教 山岡 均 氏に過去に起こった星の事象を当時の文献記録の内容と併せて講演していただきます。

こちらで参照できます。
http://www.city.fukuoka.lg.jp/events/evt17426.html

■秋の読書週間

10月27日~11月9日の「秋の読書週間」にあわせ、各図書館では、本や読書に関する展示会などを行います。

こちらで参照できます。
http://www4.tkc.pref.toyama.jp/event_detail.phtml?Record_ID=084b480e6ae7c8d67bcbe627b8234669

■図書館南分館『読書週間おたのしみ会』

開催日
2009/11/8

対象
2歳以上

時間
14時~

参加費
無料

申込み
不要

場所
南分館ぎょうじのへや

問合せ
図書館南分館 781-7333

開催場所
ラスタホール

こちらで参照できます。
http://itami-city.jp/event/00000035129/

■おはなしのじかん

2009年11月14日(土)14:00から
総合保健福祉センター図書室

こちらで参照できます。
http://www.city.iwade.wakayama.jp/iwadetosyo19/topix/ohanasijikan21/ohanasijikan21.htm

■読書週間にちなみフェス 大阪市立24図書館

読書週間(10月27日から11月9日)にちなんで、大阪市教育委員会は10月24日から11月21日まで、市内24の市立図書館で「第12回大阪市図書館フェステイバル」を開く。

こちらで参照できます。
http://www.sankei-kansai.com/2009/09/27/20090927-015041.php

■子どものための 秋のおたのしみ会

開催期間 2009年10月31日(土)、11月1日(日)
各日とも14:00~・15:00~

こちらで参照できます。
http://www.kodomo.go.jp/childroom/notice/event.html

その他、全国各地で「図書館祭」が催されているそうです。

いかがでしたでしょうか??「読書週間」。読書週間は、1924年(大正13年)に図書館の利用PRを目的に始められた「図書館週間」を母体に1933年(昭和8年)には東京書籍商組合主催の「図書祭」に改称され、1947年(昭和22年)からは図書週間実行委員会の主催で「読書週間」と改称した。翌1948年(昭和23年)からは「文化の日」にまたがる2週間に期間が延長され、1959年(昭和34年)には読書推進運動協議会が主催団体となった。 それと、10月27日初日は、「文字・活字文化の日」だそうです。文字・活字文化の日は、2006年に制定された文字・活字文化振興法に盛り込まれた記念日で、読書週間初日の10月27日を「言語力」を育てるための日とされている。

今日は、10月27日、「読書週間」・「文字・活字文化の日」。皆さんは、どう過ごしますか??

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元々はある建物を宣伝するための「祭り」でしたが、これから「離れる」深刻な問題があります・・・パート13

続いてです。続いては、「学校図書館(がっこうとしょかん)」について書いていきたいと思います。参考までです。

■学校図書館(がっこうとしょかん)

小・中・高等学校において、図書、図書以外の資料――印刷物(新聞、雑誌、パンフレット、絵葉書等)、視聴覚資料(レコード、スライド、映画フィルム、写真、録音テープ、ビデオテープ、CD-ROM等)、その他(拓本、標本等)を収集し、整理し、保存して、児童・生徒または教員の利用に供する設備である。その目的は、学校の教育課程の展開に寄与し、児童・生徒の健全な教養を育成することにある。設置については、学校図書館法によって義務づけられている。

続いてです。「学校図書館活動」から「地域開放」まで書いていきます。参考までです。

1. 学校図書館活動

閲覧、貸出し、レファレンス・ワークreference work(情報を求め、または調査研究のため、図書館資料を利用しようとする児童・生徒・教師に対する援助活動)、資料複写、広報活動、読書会、講演会等の奉仕活動を行う。さらに、読書指導、図書館および図書館資料の利用指導も行う。読書指導は、児童・生徒の読書環境を整備し、読書意欲・興味をおこさせ、読書技術を学ばせ、読書を通じて、人生を充実させ、社会に適応できる人間形成ができるように援助することである。また利用指導は、図書館やその資料の利用について必要な知識や技能を習得させ、自分で調べ、考え、問題を解決していく自主学習ができるように、指導することである。

2. 歴史

明治末期、中学校に付設された図書館は五十数館あったが、教育活動の一環として読書指導が行われ、その必要性から、多くの図書を収集し、活用できる図書館が、初等・中等学校に設けられたのは、大正期のことである。

児童・生徒の個性や自発性を尊重し、その自由や自治をできる限り保障しようとした東京の私立成城(せいじょう)小学校、学年にこだわらず、時間配当を自由にし、教科書以外の各種の教材を活用し、自由学習時間を設けて、読書を奨励した千葉師範附属小学校がその例である。そのほか、東京、私立の成蹊(せいけい)小学校、池袋児童の村小学校、自由学園や、国公立の奈良女子高等師範学校附小、明石(あかし)女子師範附小、東京高等師範学校附小、東京女子高等師範学校附小などの附属小学校、倉敷小学校(岡山県)、大社中学校(島根県)、三好高等女学校(徳島県)など多くの学校が図書館を設けた。そして、優れた実践を積み上げていったが、軍国主義体制へと社会が変わっていくなかでは、あまり広がりをもつことがなかった。

第二次世界大戦後、教育は教科書中心の画一主義から大きく転換し、さまざまな学習資料が必要となった。それに伴い、1948年(昭和23)『学校図書館の手引』が刊行され、翌49年、東西2か所(千葉県鴨川(かもがわ)市、奈良県天理市)に各都道府県の代表者を集めて、『手引』の伝達講習会が開かれ、各地で図書館づくりを模索していた教師たちに、励ましと指針を与えた。こうした現場の熱意と同時に、PTAなどの援助に支えられ、全国各地に学校図書館づくりの動きが促進されることになった。1950年全国学校図書館協議会結成、第1回全国学校図書館研究大会が東京・氷川(ひかわ)小学校で開かれ、機関紙『学校図書館』が創刊された。これは学校図書館の歴史のうえで、画期的なことであった。

学校図書館法が制定されたのは、すべての学校に図書館を設け、一定の水準に引き上げるための公的保障を求める100万人署名による国会請願を背景にしたもので、1953年のことである(当時、小・中学校の図書館設置率50%、高校87%)。この法律は、学校図書館の設置義務、司書教諭の制度化、図書館費の公費負担を規定している。その後、学校図書館の整備、充実が図られ、読書指導・利用指導へと研究も進められた。1958年(昭和33)から、学習指導要領改訂が始まり、基礎学力の向上、能力と適性に応ずる教育が強調された。一方、児童・生徒の激増による上級学校への入学難は、教科書中心の知識注入教育を復活させることになった。さらに、教室不足による図書館の一般教室への転用も各地にみられ、学校図書館運動も陰(かげ)りがみえ始めた。それでも、全国各地の熱心な現場人に支えられ、学校図書館運動は、着実にその成果を積み上げていった。昭和30年代中ごろから「資料センターとしての学校図書館」ということばが用いられ、視聴覚資料の図書館管理、視聴覚部の図書館への併合、ファイル資料の収集・整理などの実践や研究が盛んになった。

1961年の全国一斉学力テスト、66年の後期中等教育多様化答申(中央教育審議会)による高校のコースと学科の多様化は、教育現場を能力主義、差別と選別の原理の支配する場にしだいに変えていった。78年には教材の精選、授業時数の削減などによる「ゆとりある教育」を目ざした学習指導要領の改訂が始まり、この改訂に際し、全国学校図書館協議会は、学校図書館の教育的意義と機能の明示、週1時間の「図書館の時間」の設定、毎日1時間の「自学時間」の設定などの要請を行った。

欧米諸国においては、知識注入ではなく、生涯教育につながる「学び方」を学ばせ、「学ぶ態度」を育成する教育を行うためには、図書館はなくてはならぬものと考えられていた。アメリカでは、1970年代から学校図書館がスクール・メディアセンターといわれ始め、印刷メディア(図書、新聞、雑誌等)、非印刷メディア(視聴覚資料等)が同時に書架に並列されるようになった。視聴覚資料も、館内の機器を使って利用させ、貸出しも行う。メディア専門職員は、図書館、情報科学、教育工学、教育コミュニケーションなどの修士号をもつことが要求されている。また各学校図書館を援助する機関として、学校区メディアセンター、地域メディアセンターが置かれ、資料活用についての指導助言、図書館の管理運営についての助言、学校図書館への資料の貸出し、教材の自作開発、資料の集配等の資料提供サービス、資料の分類、目録の共同処理、修理・製本の引受け、共同購入等の活動を行っている。

3. 改革

「学校には司書教諭を置かなければならない」と学校図書館法で義務づけられ、同法附則で「当分の間置かないことができる」とされており、同法制定(1953)以来30年以上も「当分の間」の状態が続いていた。しかし、1997年(平成9)6月「学校図書館法の一部を改正する法律」が成立し、2003年より12学級以上の規模の学校には、司書教諭を置くことが義務づけられた。教育委員会から正式に発令されている司書教諭の実数は、全国で小学校1万2974人、中学校5760人、高等学校3404人、中等教育学校13人、通信制28人、盲学校34人、聾(ろう)学校52人、養護学校869人(平成18年度学校基本調査)。

かつては、公立の小学校・中学校の大半には学校司書(学校図書館の仕事に従事している事務職員)もおらず、教師が教科を教え、学級担任をしながら、校務分掌として図書館を担当しており、授業中は閉館していることが多く、昼休みや放課後、わずかに生徒の係が貸出しを行っている程度であった。このような状況から考え、学校図書館を学校教育に不可欠なものにするためには、次のようなことが必要とされた。

すべての学校図書館に司書教諭・学校司書を置き、必要に応じて図書館事務職員を配置する。常時開館する。教科学習に役だつ参考資料が収集され、組織化されている。視聴覚資料も図書資料といっしょに配架し、館内で利用できる機器も配置する。地域の公共図書館・他校の学校図書館と資料収集の調整や資料の相互貸借を行う。人口20万の市および郡に1か所、学校図書館の図書館(地域メディアセンター)を設置する、などである。

1990年代に入ると、前記の課題についても改善が進められた。文部省(現文部科学省)も、1998年度(平成10)の教育白書『我が国の文教施策』の「初等中等教育のより一層の充実のために」において、学校図書館の重要性をうたっており、施設、設備、蔵書、指導などの充実をめざしている。不足していた司書教諭の計画的養成・発令が促進されている。また、高度情報化時代をむかえ、コンピュータ(レンタル)等の情報手段および情報ソフトの整備、図書館間のネットワーク化を進め、図書・資料活用を図っている。

4. 地域開放

学校図書館の地域開放は全国各地で進められている。たとえば、神戸市では1969年(昭和44)に開始、85年3月に50校に達し、2007年(平成19)4月現在88校である。趣旨は「教育委員会が指定する学校の図書室を開放し、市民および児童・生徒の読書意欲にこたえ、地域社会の健全な育成に寄与すること」であり、一般の人々に開放されている。札幌市では1978年から学校図書館開放に着手し、85年3月に21校に達し、2007年9月現在87校である。全校的にも増加傾向であり、学校図書館は、生涯学習体制の整備と連動しつつ、読書センター、情報学習センターとして、地域の人々が積極的に活躍する場としての役割を果たしていくことが望まれる。

 参考文献
1.深川恒喜・北嶋武彦・瀬戸真編著『現代学校図書館事典』(1982・ぎょうせい)

2.全国学校図書館協議会編・刊『新学校図書館学 1~5』(2000~06)

3.全国学校図書館協議会編・刊『学校図書館50年史』(2004)

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元々はある建物を宣伝するための「祭り」でしたが、これから「離れる」深刻な問題があります・・・パート12

続いてです。続いては、「 図書館建築」から「役割に応じた図書館建築」まで書いていきます。参考までです。

6. 図書館建築

図書館建築は歴史的には、収蔵する資料の材料形態によって大きく変化してきた。古代オリエントでは粘土板を重ねて置く穴蔵状の場所が発掘されているし、古代エジプトでは読書の図に壺(つぼ)状の容器がみられる。アレクサンドリア図書館ではパピルスの一枚巻子(かんす)を巻いて棚に並べたり、大きな甕(かめ)などに入れたりしていたと想像できる。綴本(とじほん)が成り立ってからは、本は平らに置かれたであろうし、表紙がつくようになると本は立てて並べることもできたが、いつ、こうした変化が出てきたのか正確にはわからない。東洋では、19世紀に至るまで本には厚表紙がなく、平らに置かれたので、西欧の書架型式は最近に至るまで発達をみなかった。

◆写本時代

古代から中世にかけての写本の時代、西ヨーロッパの図書館は書写室(スクリプトリウム)と収蔵庫(アルマリウム)からなり、両者は互いに接近していた例がスイスのザンクト・ガレン修道院にみられる。読書室については詳しいことはわかっていない。古代ローマの個人図書館からは、本のコレクションを誇示する目的が加わり、室内にギャラリーが巡らされるところもあった。書見台は8世紀ころから普及したといわれるが、次々と本を見られる回転車の様式は貴族的、趣味的なもので、どこにでもあったとは考えられない。本を書見台に鎖で結び付ける形式は13世紀ころの教会・修道院で始まったらしいが、保管と同時に繰り返しの利用を前提としていた。やがて本は複数で書見台に取り付けられ、書架付きの読書机が出現する。13世紀以降の大学図書館では、多数の写本が鎖で書架に結び付けられ、こうした書架(書見台が横板状に巡らされる)が次々に列をなして並ぶ姿がみられた。

◆印刷図書時代

16世紀、写本にかわって印刷図書が普及するようになると、図書館の様式は根本的に変化する。王室・貴族の図書館にみられるコレクションの大型化であり、大学図書館に示される利用へ向けての移行である。スペインのエル・エスコリアル(エスコリアル宮殿)に典型的に示されるバロック様式の図書館は、当時の空間感覚を見せつけている。周囲の壁面全体にわたり高い天井に届くほど本棚がつくられ、そこにぎっしり本が並び、中央スペースにはなにも置かない、いわば大広間図書館であった。一般に図書館は小部屋から広いスペースに移っていくが、18世紀なかばに開館した大英博物館でもモンタギュー邸を使い、区分された部屋を収蔵庫や閲覧室にあてていた。

19世紀には情報が拡大され、産業社会の到来で教育が普及し、同時に民族意識が高まり、これらを受けて図書館コレクションは量的に建物を脅かすようになった。大英博物館では次々に増える寄贈・購入で、増築すらまにあわなくなった。1856年完成の円型閲覧室は、矩形(くけい)の建物の中庭を埋めたもので、館長パニッツィの発案であったという。当時ようやく使われだした鉄骨で書庫が組み立てられており、大閲覧室はドーム型で、天井からの採光であった。この様式はフランス国立図書館、アメリカ議会図書館に受け継がれる。パニッツィの発案はさらに、円型閲覧室周囲の壁面を基本書で埋め、参考コレクションの基礎をつくったこと、閲覧室の外側スペースをすべて鉄骨の書庫としたことに示されていた。閲覧スペースとは切り離された、天井の低い積層式の書庫制ができあがった。パニッツィは手動式の移動書架まで考えていたというが、採用には至らなかった。ここまでくふうして場所の問題を解決しようとしたものの、大英博物館では、次の時期には新聞図書館を郊外に新築するなど、コレクションの分散化が始まっていた。

◆役割に応じた図書館建築

1850年からの公共図書館の出現はそれまでの図書館とは別の様式を生んだ。開架方式の採用である。初めは棚を構えた半開架もあったが、本がなくなってしまうとの理事会の反対を押し切り、イギリスの図書館員ジェームズ・ダフ・ブラウンJames Duff Brown(1862―1914)らが実行し、しだいに普及していった。しかし文化遺産を扱う図書館員のなかには技術・設備の革新に対して慎重にならざるをえない者もいた。19世紀末、アメリカのカーネギーが公共図書館の援助を行ったとき、見取り図を提出させ、暖炉などの飾りはつけず、利用スペースに回すよう指導したといわれる。

20世紀の図書館はどこでも、ヨーロッパで発達した建築を受け継いでいる。第二次世界大戦以降、新しくできる図書館は現代的な建築様式でできている。薄暗い場ではなく、利用者はゆったりしたスペースで新聞・雑誌が閲覧できるし、レコードやCDを聞く場所も設けられている。一般に公共図書館では貸出しに重きを置き、勉強机は別に設置されるようになった。建物自体も周囲との調和が考えられ、新設の大学のキャンパスでは、図書館が中央の位置を占めるところも多い。図書館建築は特殊な配慮の要る建築様式と認められ、図書館員の経験を生かし、意見をいれて建築家が取り組むようになった。建築ならびに施設基準も整ってきた。また、公共図書館では、複合文化施設の一環として図書館が計画、建設される例が目だっている。閲覧机と椅子(いす)の広さ・高さ、照明、採光、室内温度には基準が適用され、カウンターその他は利用しやすいようくふうがなされるようになっている。

 参考文献
1.ヨリス・フォルシュティウス著、藤野幸雄訳『図書館史要説』(1980・日外アソシエーツ)

2.石井敦・藤野幸雄編『図書館を育てた人々』全2巻(1983、84・日本図書館協会)

3.藤野幸雄著『現代の図書館――図書館概説』(1998・勉誠出版)

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元々はある建物を宣伝するための「祭り」でしたが、これから「離れる」深刻な問題があります・・・パート11

続いてです。続いては、「図書館の技術的発展」から「図書館員」まで書いていきます。参考までです。

5. 図書館の技術的発展

図書館の技術は蔵書資料を利用者の便宜のため、いかに組織化しておくかを中心に考えられ、分類と目録という方法を生み出した。19世紀以降、世界の図書館のほとんどが、西欧の図書館において発達したこれらの技法(図書分類法)を基本に運営されている。

◆目録作成

図書館の目録は、図書資料の著者、書名、出版事項、形態などの書誌情報を記述し、カードまたは冊子体で提供してきた。そのため当然、ある規則が必要となり、各国はそれぞれに目録規則をつくってきたが、1970年代以降、国際的な標準化の方向に進んでいる(『日本目録規則』新訂9版、1995)。目録作業は各図書館の担当係が行ってきたが、同じ本については同じ記述が便利であり、20世紀初めからアメリカ議会図書館が印刷カードを配布しだすと、これを利用するところが増えてきた。わが国では国立国会図書館が日本の出版物の記述については責任を引き受け、『日本全国書誌』週刊版と印刷カードを刊行している。また、国立国会図書館は、1973年(昭和48)から国際逐次刊行物データ・システム(ISDS)の国内センターとなり、国内で発行されている雑誌・新聞などの逐次刊行物に識別のための8桁(けた)の国際標準逐次刊行物番号(ISSN)を与えるとともに、書誌情報を作成し、パリの国際センターに登録している。1966年、アメリカ議会図書館はコンピュータによる書誌情報提供の技術を開発し(MARC(マーク)=Machine Readable Cataloging。機械可読目録)、国立国会図書館も1981年には漢字読み取りのJAPAN/MARC(ジャパン・マーク)を開発、目録情報は磁気テープやCD-ROMで買えるようになった。

アメリカ、イギリス、ドイツ、ロシアなどでは、法律により国内出版物が国立図書館にもれなく納本されるので、出版社の協力を得ることにより、出版物自体に国立図書館で作成した目録データを刷り込むこと(CIP=Cataloging in publication)が行われている。CIPには、著者、書名などのほかにその国で使われている標準的な分類番号などが含まれているから、各図書館ではCIPのなかにない出版事項、形態などを、受け入れた図書から補って目録を作成すればよい。CIPデータはMARCにも含まれている。日本では著者名や書名の読みが目録の排列と検索の手掛りになるので、著者名、書名の読みはある根拠に基づかなければならない。国立国会図書館では、そのための典拠ファイルをつくり公にしているが、出版物にそれらの読みを含めたCIPデータを記すまでには至っていない。洋書については、大学図書館ではアメリカその他のMARCテープを利用できるようになった。また、アメリカ議会図書館では200周年を迎える2000年を機に、独立から南北戦争、ギルディッド・エイジ(金めっき時代)、世界大戦、経済不況といった歴史にかかわる同館所蔵の文献、写真、地図などの資料すべてを電子化し、全国の小・中学校で利用できるようにする「アメリカンメモリー」の計画に取り組んでいる。通信のインフラストラクチャー(基盤設備)は、「情報ハイウェー」としてすでに整っている。

◆情報検索

情報検索の技術が進み、雑誌記事などの索引はデータベースからコンピュータで引き出せるようになり、さらにはオンラインでどこにいても利用できる方向に向かいつつある。語句索引はもとより、概念語からの検索、文献以外の情報のデータベース化は、これからの図書館のイメージを変えるかもしれない勢いで進行している。

図書館のコンピュータ化・電子化はあらゆる面にわたっている。発注リスト、入荷チェックはコンピュータで処理できるようになったし、本の貸出し・返却は機械で行っているところが多い。窓口業務は期限延長やら催促やら、それぞれの館が決めた細かい規則に分かれ、業務全体にわたるシステムにも取り組むようになってきた。とはいえ、コンピュータ化システムの採用はいまのところ仕事を増やすので、中小規模の図書館にとってはこれからの課題となる。さらに、コンピュータの導入に伴い、個人の読書にかかわるプライバシーの保護にはとくに気をつけねばならない。文献の全テキストがコンピュータに内蔵されるようになり、全世界の情報がインターネットで利用できるようになって、電子図書館(デジタル・ライブラリー)の時代が到来した。日本の大学図書館でも、貴重書や学位論文、学術雑誌のデジタル化が始まっている。国立国会図書館でも、2002年に開館した関西館により、同館所蔵資料の電子化とデータベース化が本格化する。

◆図書館員

図書館は現在大きく変わりつつある。技術の変化は図書館の存在理由をも揺さぶり始めたといえる。この状況のもとで、旧来の司書養成は検討し直さねばならない。アメリカでは1930年代から、学部レベルの基礎の上に大学院で教育を始め、これが一般化した。博士課程では、図書を中心とした資料の収集・保存、利用を機能とする図書館の本質とその経営を対象とする図書館学library scienceの研究が多くの成果を生んだ。その後、図書館学は、図書館業務のコンピュータ化、情報処理の進展に伴い、情報学information scienceという分野を加えた図書館情報学library and information scienceとなった。ドイツでは博士号をもった専門分野の研究者を、学術図書館の主題専門図書館員として養成している。図書館員を支えるものは資料知識であり、奉仕技術であるが、現代の図書館ではコンピュータをはじめとする機械技術の基礎知識、図書館の科学的管理運営の方法についても学習がなされねばならない。現場の職員の再研修も当面の課題となろう。図書館員の支えとなるべき図書館情報学は、図書館の原理、歴史から制度、技術にわたり研究されている。日本では、1979年に国立の図書館情報大学(現筑波大学図書館情報専門学群)が創設され、研究・教育への本格的な取組みが始まった。

参考文献
1.ヨリス・フォルシュティウス著、藤野幸雄訳『図書館史要説』(1980・日外アソシエーツ)

2.石井敦・藤野幸雄編『図書館を育てた人々』全2巻(1983、84・日本図書館協会)

3.藤野幸雄著『現代の図書館――図書館概説』(1998・勉誠出版)

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元々はある建物を宣伝するための「祭り」でしたが、これから「離れる」深刻な問題があります・・・パート10

続いてです。続いては、「図書館協力」から「その他の協力体制」まで書いていきます。参考までです。

4. 図書館協力

図書館はそれぞれ特定または不特定多数の自館の利用者のためにあるが、20世紀に入って、どの図書館も1館だけであらゆる資料を抱え込み、すべての情報要求にこたえられないことがわかってきた。地域的、全国的、さらには国際的な協力の仕組みを考えねばならず、この問題は今後最大の課題となるであろう。コンピュータによる情報検索技術はこの課題の解決に役だっている。

◆地域内と全国的ネットワーク

地域内の協力はとくに公共図書館において進んでいる。大都市では中央館といくつかの分館がネットワークを形成し、相互に資料を利用しあう仕組みがわが国の大学図書館、公共図書館間でもみられる。イギリスのロンドンでは、各区のなかは図書館がオンラインでつながり、他館の資料探しができるとともに、毎日各館の間を定期便が回っている。区内に求めるものがないと、中央館からほかの区に問い合わせることができる。さらに、バーミンガムほかの都市で、公共・大学・企業体の図書館がすべて参加できるネットワークをつくっている。ドイツでは、州を中心に協力体制が組まれ、中心となる大図書館には州内図書館の蔵書を調べられる中央目録があり、ここが相互貸借の斡旋(あっせん)をしている。

全国的なネットワークには、国の中央図書館が国内全図書館の図書館となる形と、専門領域を同じくする図書館間の協力体制とがある。

日本でも国立大学図書館の間で共通利用証の発行が可能になったし、医学図書館間では相互利用の前提から、外国雑誌のうち特殊言語のものはどこかでかならず購入しておくという共同購入の方法も実現させている。学術雑誌については、文部科学省が国立大学図書館のうちから、理工学、医学・生物、農学、人文社会科学分野の外国雑誌センターを設置し、多くの雑誌をとるよう援助するとともに、全国への複写サービスの中心としている。イギリスでは、日本研究の図書館間はあらゆる面にわたり協力を実現している。

コンピュータによる技術革新は、こうした協力を大きく前進させた。アメリカのオンライン・コンピュータ・ライブラリー・センター(OCLC)は全国的な情報検索・相互利用の新しい仕組みとして諸外国に影響を与えている。わが国でも国立情報学研究所(旧学術情報センター)が大学図書館の蔵書をデータベースとし、全国システムをつくりあげている。

◆国際的体制

国際図書館連盟(IFLA(イフラ))がその中心となる。この国際団体は、諸国の目録記述を標準化して、どの国でも他の国の資料を利用できる基礎づくりと、図書資料の国際間の貸借への実現を目ざして活動している。イギリスはこれにこたえ、大英図書館の成立とともに、諸外国に先駆けて国外への貸出しを実践してきた。とはいえ、国によっては出版物の自由な流通は制限されており、郵送料受益者負担の実現には困難が伴い、この理想への取組みは今後の課題となろう。国際間の協力としては、スカンジナビア4国(デンマーク、フィンランド、ノルウェー、スウェーデン)が各国の特色を生かした分担収集と、相互利用のためにつくっているスカンジア計画、言語を同じくするラテンアメリカ諸国間の書誌協力といった地域的な実践例がある。

◆その他の協力体制

以上は相互利用を中心とした図書館協力についてであるが、図書館間ではこのほかにさまざまな形態の協力を考え、実践してきている。共同収集をして資料を有効に集め、互いに保存し、利用しあう協力は、欧米諸国にその例がみられる。アメリカのファーミントン計画は、国内の大学・学術図書館約50館がそれぞれ分野を定めて外国の資料を分担収集するもので、1972年まで約25年間続けられた。当時、西ドイツの学術協会Deutsche Forschungsgemeinschaftが行った全大学への分担割当て援助は、第二次世界大戦後の図書館再建に大きな役割を果たした。現在、どの国においても、中央の網羅的な集中コレクションと、専門分化したコレクションの間のシステム化が必要とされている。

学術的な図書館ではとくに、蔵書のほとんどはつねに使われるわけではない。まれにしか使われない本でも、研究のためには場所をとっておかねばならない。アメリカでは第二次世界大戦後、共同保管の仕組みをつくってこれに対処し、さまざまな実験を試みている。中西部インター・ライブラリー・センター、ニュー・イングランド寄託図書館はその最大の例であろう。

資料の交換・再配置の体制もアメリカ、イギリスではつくられている。アメリカ議会図書館内にある合衆国図書交換機構は、各図書館で不要な資料を集め、リストをつくり、必要とする図書館にその資料を無料で送る斡旋(あっせん)機関である。雑誌のバックナンバーもこの仕組みでそろえられる。

利用の前提としての「総合目録」は、図書館協力のための必須(ひっす)のツールである。アメリカでは、カナダを含めた3500館の蔵書が調べられる総合目録を議会図書館がつくっている。日本では、大学等が所蔵する学術雑誌の総合目録として、1953年(昭和28)文部省(現文部科学省)編集により『学術雑誌総合目録』(冊子体)が創刊された、これにより雑誌については、どの号がどこにあるかがわかる。編集は、東京大学情報図書館学研究センター、学術情報センター、国立情報学研究所と変わっていき、97年(平成9)からは目録のインターネット検索を可能としたサービスも開始された。冊子体は2000年版(2001年刊行)を最後に終了し、現在は国立情報学研究所のインターネットによる検索サービスのみの対応となっている。また、図書についても国立情報学研究所のシステムを利用できる。

図書館協力の面では、わが国は遅れていたといえよう。しかし、その必要性は認められ、地域によっては公共図書館の協力システムが進んでいる所もあるが、組織的に縦割りの社会なので、横の連携を基礎とする協力関係は問題も多い。大図書館は小図書館への資料奉仕に終始するという格差の問題もあり、国有財産の管理という問題もいまだ完全には解決をみてはいない。

 参考文献
1.ヨリス・フォルシュティウス著、藤野幸雄訳『図書館史要説』(1980・日外アソシエーツ)

2.石井敦・藤野幸雄編『図書館を育てた人々』全2巻(1983、84・日本図書館協会)

3.藤野幸雄著『現代の図書館――図書館概説』(1998・勉誠出版)

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元々はある建物を宣伝するための「祭り」でしたが、これから「離れる」深刻な問題があります・・・パート9

続いてです。続いては、「 種類と機能」から「 組織・管理」まで書いていきます。参考までです。

2. 種類と機能

◆図書館の種類

図書館は設立主体によって児童図書館、学校図書館、大学図書館、公共図書館、専門図書館と分けられてきたが、後に国立図書館という種類を加えて考えるようになった(「公共図書館」「学校図書館」「国立図書館」「専門図書館」の項参照)。ドイツのように大学図書館と市民の図書館が共通である場合もあり、前記の分類はあくまでも便宜的であるが、人間の成長・発達にしたがい、これらの型の図書館を利用できる。

児童図書館は公共図書館の児童部門となっている例が多く、ほとんどの市町村立の図書館はこれを備えている。ほかに私的なコレクションを開放する家庭文庫が全国的に広まっている。子供のための図書館は、学齢前、小学校低学年、高学年と対象によって集める資料も異なり、設備(書架、机、椅子(いす))もサービスも対象により変えなければならない。読み聞かせ、ストーリー・テリング、紙芝居、読書相談などが広く行き渡っている。

大学図書館は各大学に付属しており、大学の規模・歴史によってコレクションはさまざまである。蔵書数700万冊以上の東京大学図書館から3万冊程度の短期大学図書館までいろいろある。わが国では国立大学と私立大学の格差(学生当りの蔵書数、同座席数など)が大きい。大学図書館は研究と教育のためのコレクションであり、学術雑誌、洋書が重視される。雑誌は製本してとっておかねばならない。わが国で外国図書が自由に多く買えるようになったのは1960年代以降で、歴史の長い図書館を除いては、まだ基本書の収集の段階のところが少なくない。とくに特殊言語となると、欧米の大学に比してわが国のコレクションは貧弱である。しかし、どこで何を所蔵しているかが簡単にわかる総合目録が国立情報学研究所により書誌データベースとなっており、相互に利用できる仕組みも整ってきた。1980年代以降、大学図書館の多くが機械化に取り組み、また学生・研究者の利用のため、基本参考図書を手にとって見られるようにしているのが普通である。

専門図書館は、資料とそれに基づいたサービス活動が専門領域にわたるようになっているが、日本では欧米諸国にみられる専門中央図書館(アメリカの国立医学図書館、国立農学図書館、ドイツの経済中央図書館、科学技術中央図書館など)がほとんどなく、研究所や企業体の資料室を専門図書館と称しているのが実情である。こうした図書館は規模も小さく、資料を多く抱えられないで、調査・参考相談のための情報サービスが中心となるため、相互協力の必要がいっそう認識されている。このほか、特殊な資料、特別な利用者を対象とする音楽図書館、点字図書館、博物館図書館、病院図書館などがあるが、欧米諸国に比べてその実態は貧しいといっていい。アメリカではほかに、個人の寄付とか個人名を冠した図書館がある(ニューベリー図書館、ハンティントン図書館、ケネディ図書館など)。

◆主たる機能

図書館の機能は、資料の収集・保存、利用とこれに伴ういくつかの奉仕活動にある。収集・保存は、国立国会図書館のように「文化財として」のわが国の資料を網羅的に集めているところを別にすれば、一般には自館の設置目的すなわち利用対象によるので、収集・保存は利用のためにあるといえる。各館は資料選択の基準を定め、委員会などの体制を整えているが、公共図書館における漫画本や、また、モラルにかかわる問題があり、どこにでも通用する基準はありえない。収集する資料は図書・雑誌に限られていない。収集により図書館は年ごとに確実に膨れ上がるという性格をもっているため、保存の場を確保することが現代の図書館の大きな課題であろう。一方、新築・増築は容易には考えられない。そこで、資料の有効な保管方法として移動式書架を取り入れたり、資料そのもののマイクロ化を図ったりするところもあるが、研究目的の図書館は別として、公共図書館ではその方法も大幅には採用できない。市町村立の中小公共図書館では、いかに有効に資料(どこでもとっている雑誌など)を廃棄処分にできるかを考えねばならないであろう。利用は図書館の中心機能であり、このために古い時代から資料の記述目録をつくってきたし、図書分類法も考えてきたわけである。

公共図書館の出現に伴い、書架は利用者が自由に近づけるものとなり、無料公開の原則から本はだれでも借り出せるものとなってきた。本以外の資料(レコード、CDなど)も借りられるし、登録は簡単にできるようになっている。こうした現状にあって、図書館は利用者に奉仕するため「図書館の自由に関する宣言」(1954。日本図書館協会)を採択し、次のことを確認した。「図書館は、基本的人権の一つとして知る自由をもつ国民に、資料と施設を提供することを、もっとも重要な任務とする」「この任務を果たすため、図書館は次のことを確認し、実践する。第一、図書館は資料収集の自由を有する」「第二、図書館は資料提供の自由を有する」「第三、図書館は利用者の秘密を守る」「第四、図書館はすべての検閲に反対する」「第五、図書館の自由が侵されるとき、われわれは団結して、あくまで自由を守る」、などである。

3. 組織・管理

図書館は独立した機関であることは少なく、大学、自治体、企業体などに付設されているか、所轄下にある。わが国では国立国会図書館法(1948)、図書館法(1950。公共図書館)、学校図書館法(1953)、国立学校設置法(1949)などにより設置されているが、外国では中央政府の直接管理下に大学図書館が置かれたり、州の直轄であったり、さまざまな形態をとっている。日本の公共図書館は各自治体の教育委員会が所管しているが、教育委員会事務局内の機構ではなく、図書館審議会などの下にある独立した存在とみてよい。公共図書館の財政は各都道府県または市町村によって支えられている。国立大学の図書館運営のためには、学生用図書購入費があるが、資料費の高騰に対してかなり低い額となっている。

図書館の組織は規模により当然、異なる。わが国の大学図書館でも歴史の古い大学では、中央館のほかに学部図書館がいくつかあるが、第二次世界大戦後発足の新制大学にあっては、キャンパスが複数でなければ中央館に絞られる場合が多い。公共図書館では、とくに都市部で、分館を構えて図書館サービスを行き渡らせようとしている。都道府県立の図書館と、同じ市の市立図書館は役割が違うので、併存する場合が多くなっている。

図書館内部の組織も、図書館の大きさによって異なり、職務として整理部門、管理部門、奉仕部門などがある。整理の仕事は資料の分類・目録を中心とするが、1980年代以降はほとんどがコンピュータ処理で行われている。管理は発注から受け入れが中心で、小図書館では1人ですべてを行う。奉仕の仕事は貸出し・返却の窓口業務であるが、資料にかかわる参考質問、調査の援助を主とした参考業務(レファレンス・サービス)が現代の図書館では重視され、図書館活動の柱とみなすむきも多い。そしてここに有能な職員をつぎ込むところが多い。各図書館ではそれぞれスタッフ・マニュアルをつくっている。

閲覧室の管理は、図書館の規模、開館時間の規程によって形態に相違がある。大図書館、学術図書館では資料分野、種類によって階層や部屋を分けているところもある。公共図書館では一般に児童部門と成人部門を分けている。開館時間は利用者の便宜に対処するところが一般的で、大学では夜間と試験期の時間延長、公共図書館では日曜開館が課題であり、実施しているところが多い。しかし、地方財政の悪化に伴い、図書館業務の外部への委託が行われようとし、図書館員の立場に逆行する現象となっている。

 参考文献
1.ヨリス・フォルシュティウス著、藤野幸雄訳『図書館史要説』(1980・日外アソシエーツ)

2.石井敦・藤野幸雄編『図書館を育てた人々』全2巻(1983、84・日本図書館協会)

3.藤野幸雄著『現代の図書館――図書館概説』(1998・勉誠出版)

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元々はある建物を宣伝するための「祭り」でしたが、これから「離れる」深刻な問題があります・・・パート8

続いてです。「市民のための図書館」から「明治から現代まで」まで書いていきます。参考までです。

◆市民のための図書館

19世紀のヨーロッパはフランス革命とナポレオン戦争で始まり、これらが図書館に及ぼした影響は大きかった。共和制の思想は各地に広まり、情報の伝達、各国の工業化に拍車がかけられた。フランスでは、革命で貴族・教会の財産は没収され、国立図書館(王立図書館から改称)は写本などの蔵書を増やし、『フランス書誌』という一国の図書全体の目録を目ざすものが発足する。ナポレオン戦争で国土を荒らされ、蔵書の多くを没収されたドイツ(とくにライン川左岸)の図書館は再建を迫られた。大学の10校以上が廃校となり、図書資料はほかに移されたり、分散されたりした。図書館の存在意義はここで改めて考え直され、1840年代にはドイツ図書館学を支える学者が輩出、専門誌『セラペウム』Serapeumも刊行されている。

イギリスでは産業革命後の国力の隆盛を受け、ビクトリア女王時代に大英博物館は美術品、図書資料ともに世界第一級となった。時の館長パニッツィSir Antonio Panizzi(1797―1879)による強力な収集方針、円型閲覧室と鉄骨の書庫導入の意義は大きい。しかし急速なコレクションの増加で、増築の手当てはつかず、大英博物館のその後の解体を招いている。19世紀後半には、市民のための真の図書館が成立し、図書館の数は増え、蔵書とその利用は近代的に組織化され、図書館員の養成も始まる。1850年イギリス議会を通過した「図書館法」は自治体に対し、地域住民のための図書館の義務設置を規定し、ここに、税金でまかなわれる無料公開の市民の図書館設立の基盤ができあがった。

アメリカでも同じ動きがおこり、州によっては法の制定がイギリスよりも早かった。この法による公共図書館は19世紀のうちに数を増やしたが、カーネギーによる建物と当初活動予算の援助は両国の運動を助けた。1876年フィラデルフィアの図書館大会を機に成立したアメリカ図書館協会は、急速に数を増した図書館員の共通問題解決の場であった。イギリスの図書館協会が翌年成立し、諸国はこれに続いた。1876年はデューイMelvil Dewey(1851―1931)が『十進(じっしん)分類法』(初版)を発表し、カッターCharles Ammi Cutter(1837―1903)が『辞書体目録規則』を発表した年でもあり、ここに図書館資料組織化(分類と目録)に共通の方法が現れた。各国の図書館協会から雑誌の刊行が相次ぎ、87年にデューイが始めた学校教育による図書館員養成はしだいに諸国に定着していった。19世紀末から20世紀初頭にかけ、大型の目録刊行が目だった。

ベルギーのオトレPaul-Marie Ghislain Otlet(1868―1944)とラ・フォンテーヌは「あらゆる領域、すべての言語の資料」をカード形式の目録に集めたが、こうした作業はもはや個人の手には負えず、第一次世界大戦の勃発(ぼっぱつ)で挫折(ざせつ)し、彼らの意図は文献検索の方向に引き継がれた。1900年までの蔵書を印刷形式で収録した『大英博物館図書館印刷目録』は代表的なもので、その後、大図書館の目録はどの図書館にとっても資料調査のための必須(ひっす)の参考書となった。

20世紀に入ると、1917年のロシア革命とともに社会主義社会の図書館が出現する。これは読書指導をたてまえとし、年次計画により発展を図る図書館である。非識字者の撲滅と教育の普及により、大衆図書館の数は増え、コルホーズ(集団農場)、工場にも図書館は行き渡っていく。しかし、1990年代に入って社会主義体制が崩壊したことにより、ロシアの図書館は厳しい時代を迎えている。旧ソビエト連邦を構成していた各共和国では、各国独自の言語をもちながらもロシア語で学術を発達させてきた「負の遺産」から抜け出すことが課題となった。

20世紀後半以降になると、これまで以上に、図書館は相互に協力せねば十分なサービス活動を展開できないまでになってきた。1927年設立の国際図書館連盟International Federation of Library Associations and Institutions(IFLA(イフラ))を中心に国際間の協力も進んでいる。アメリカでは1926年発足のシカゴ大学図書館学科以降、大学院レベルの教育が始まり、図書館現象の学問的研究が進められている。第二次世界大戦以降の技術の進歩は図書館の目録情報コンピュータ化を推進したが、情報伝達の速さから、世界の図書館の技術的側面は同レベルに近づきつつあるといえる。また、1990年以降、コンピュータとインターネットの普及により、ネットワーク社会に対応した電子図書館(デジタル・ライブラリー)サービスが各国で行われるようになり、研究開発が進められている。

◆中国

古代から中国の王朝は記録の収集・保存に熱心であり、前代の遺書を収集し、目録を編纂(へんさん)し、歴史を編んでいるが、王朝が倒れると戦火で王室の保存庫は焼失、資料は散逸した。隋(ずい)代以降の官吏登用試験(科挙)は古典の知識を重んじていたため、図書の利用は古くからあった。しかし反面、図書は「本来むやみに大ぜいの人に読ませるものではない」との考え方が支配的であった。秦(しん)の始皇帝は焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)で知られているが、すべての図書を焼いたわけではなかった。漢の武帝は最初の国立図書館の設立を考えたといわれている。東晋(とうしん)の元帝のとき、李充(りじゅう)(生没年不明)は四部分類を完成したが、この図書分類は清(しん)朝の『四庫全書(しこぜんしょ)』に至るまで使われた。歴代皇帝のうちには図書の収集に関心を示す者が多かったが、官立の図書館を建てたり、コレクションの公開利用を考えたりするには至らなかった。王族、高官、学者などの個人の文庫も多く、戦国時代からその例がみられる。読書人の私的蔵書は、宋(そう)代以後、太平に伴って経済力が増したころに有名なものがみられる。宋の李淑(りしゅく)(生没年不明)、宋敏求(そうびんきゅう)(1019―79)などは、数万巻の蔵書をもっていたので、近くに移り住んだ読書家もいたという。明(みん)代には范(はん)氏の天一閣(てんいっかく)、毛氏の汲古閣(きゅうこかく)、清代では楊(よう)氏の海源閣、瞿(く)氏の鉄琴銅剣楼など、日本にも知られた個人文庫は多い。

近代的図書館の建設は清朝末期に始まり、教育の普及のため各省に図書館がつくられた。北京(ぺキン)図書館(中国国家図書館)は1912年に開館、16年にはこの図書館への納本が定められた。公共図書館の規定も1915年に公布されたが、経費難で著しい発展はみられなかった。図書館員の養成は、1900年、アメリカのウッド女史Mary Elizabeth Wood(1862―1931)が武昌(ぶしょう/ウーチャン)の文華(ぶんか)大学で教職につき、人材育成に乗り出したときに始まる。図書館協会は1925年に成立、36年には全国に5196の図書館があったという。抗日戦期には、延安を除き図書館活動は停滞を余儀なくされた。1949年の解放以後、図書館は当時のソ連の型に倣って着実に発展し、とくに農村図書館、労働組合図書館は数を増やした。1966年からの10年間には文化大革命でふたたび発展は阻害された。とはいえ、北京大学図書館など、学術機関の図書館は豊富な蔵書量を誇っている。「改革開放」政策の進む現代中国の図書館では大図書館の建設が相次いでいる。北京図書館、上海(シャンハイ)図書館、天津(てんしん/ティエンチン)図書館、浙江(せっこう/チョーチヤン)図書館の新館はいずれも高層の書庫棟をもつ近代建築で、コンピュータ利用の業務の機械化にも積極的である。

■日本の図書館

◆図書寮が起源

古くからの印刷文化により知られる日本でも、個人の収集を除くと、利用をたてまえとした図書館は発達しなかった。律令(りつりょう)国家の官制に図書寮(ずしょりょう)という名称が出てくるが、独立した図書館ではなく、記録の編纂(へんさん)・保管の場であった。8世紀には個人でも書写・収集する例が現れ、石上宅嗣(いそのかみのやかつぐ)が自邸内につくった亭(うんてい)という文庫が知られる。875年(貞観17)宮廷文庫の冷泉院(れいぜいいん)が焼けた際、宇多(うだ)天皇の勅により藤原佐世(すけよ)は、中国渡来の書籍がわが国にどれだけ保存されているかを調べて、『日本国見在(げんざい)書目録』に1万6790巻を収録した。国書の目録としては弘安(こうあん)・正応(しょうおう)年間(1278~93)の成立とされる『本朝書籍(しょじゃく)目録』がもっとも古い。江戸時代以前の成立になる図書館としては足利(あしかが)学校と金沢(かねさわ)文庫が知られている。

足利学校は平安時代の歌人小野篁(たかむら)の創設との説があるが、実際には上杉憲実(のりざね)により再建され、知られるようになった。その最古の目録(享保(きょうほう)10年=1725)によると、漢籍を主とし蔵書は501部2895冊を数え、江戸時代を通じて庇護(ひご)されていた。金沢文庫は鎌倉時代の武家の創設にかかり、仏典、和漢の群書などの蔵書は2万冊を超え、横浜市に現存する。江戸時代には、徳川家康が林羅山(らざん)に命じ駿河(するが)城内に文庫をつくらせたが、これは尾張(おわり)の蓬左(ほうさ)文庫、水戸の彰考館文庫、紀州の南葵(なんき)文庫に分かれて受け継がれた。江戸城内には紅葉山(もみじやま)文庫(楓山(もみじやま)文庫)がつくられ、書物奉行(しょもつぶぎょう)がその管理にあたっていた。徳川綱吉(つなよし)は湯島の地に昌平坂(しょうへいざか)学問所をつくっている。加賀前田家は歴代書物愛好の藩主を得、その蔵書は1759年(宝暦9)の金沢(かなざわ)の大火で失われたが、今日なお10万冊の尊経閣(そんけいかく)文庫となっている。個人文庫も国学者塙保己一(はなわほきいち)の温故堂文庫などがあったが、これらは庶民の利用できる場ではなかった。幕末の蕃書調所(ばんしょしらべしょ)では書物方がオランダ書をはじめとする洋書を研究していた。

◆明治から現代まで

幕末から明治にかけて、福沢諭吉、市川清流(せいりゅう)(1824―?)、久米邦武(くめくにたけ)、金子堅太郎らの欧米図書館に関する報告と建言が相次いだ。政府は1872年(明治5)湯島の地に書籍館(しょじゃくかん)を設けた。この官立図書館はその後東京図書館と名称を改め、1885年には上野公園内に移り、1897年帝国図書館と改称された。一方、大学図書館は1886年東京帝国大学に図書館ができたのをきっかけに、京都が次ぎ、私立大学も慶応義塾大学、早稲田(わせだ)大学など、図書館を整え始めた。1899年図書館令の発布で、地方自治体は図書館を設置できることになり「閲覧料を徴集できる」性格のものではあったが、佐野友三郎(さのともさぶろう)(1864―1920)が秋田県で無料公開の原則をたてるなど、何人かの館長は欧米型の管理を実践していた。1892年、25人の図書館員により発足した日本文庫協会は1903年(明治36)私立大橋図書館(東京、九段靖国(やすくに)神社横)で第1回図書館事項講習会を開いた。司書教育が整うのは、21年(大正10)帝国図書館内に文部省図書館員教習所が開かれてからであろう。

第二次世界大戦後、図書館は急速に発展した。国立国会図書館の設立(1948)、図書館法の発布(1950)、大学設置基準に基づく国公私立大学の図書館付設により、図書館の数は飛躍的に伸びた。1948年(昭和23)の「国立国会図書館法」により成立した国立国会図書館はアメリカ議会図書館をモデルとしていたが、わが国の国立図書館としての自覚のうえにたち、『日本全国書誌』の機械可読目録に成功した。また、2000年(平成12)には東京の上野公園内に国際子ども図書館が部分開館(全面開館は2002年)。2002年10月には関西に電子図書館機能をもつ国立国会図書館関西館が開館した。都道府県立の公共図書館は、1950年の「図書館法」の制定で、自治体による図書館の義務設置が定まったことにより、数を増やして住民に身近な存在となった(2003年現在2759館)。公共図書館は、地域の図書館としての存在意義をもつようになり、都道府県から中小都市に行き渡り、住民の要求は団地、市街地にも分館や移動図書館を実現させるに至っている。第二次世界大戦後急速に数を増やした大学図書館は、60年代より蔵書を増やすとともに、大学相互協力の実現、市民への開放に取り組んでいる。大学図書館への書誌情報の提供という面では、国立情報学研究所(2000年4月学術情報センターが改組)が中心的な役割を果たしている。また、司書養成が大学の学部になり、情報処理技術の方向を加えて、大学院レベルの研究に向かうようになってきた。1954年に施行された小・中・高等学校の学校図書館の規定に関する「学校図書館法」が99年に改正され、これまで不備だった司書教諭の制度が見直された。司書教諭は、児童の読書活動を充実させることをおもな目的としており、2003年度以降、一部の小規模校を除くすべての学校に配置することが義務づけられた。これにより、児童の読書離れへの対応を考え直すきっかけができようとしている。第二次世界大戦後再建した日本図書館協会は、大会を通じて図書館員の連帯を強め、国際間の協力にも大きな役割を演じるようになった。

■マルチメディアデータ
・大英図書館新館について 
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E5%9B%B3%E6%9B%B8%E9%A4%A8/%EF%BC%BB%E7%94%BB%E5%83%8F%EF%BC%BD/00141324000401/

 参考文献
1.ヨリス・フォルシュティウス著、藤野幸雄訳『図書館史要説』(1980・日外アソシエーツ)

2.石井敦・藤野幸雄編『図書館を育てた人々』全2巻(1983、84・日本図書館協会)

3.藤野幸雄著『現代の図書館――図書館概説』(1998・勉誠出版)

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元々はある建物を宣伝するための「祭り」でしたが、これから「離れる」深刻な問題があります・・・パート7

続いてです。読書週間(どくしょしゅうかん)は、読書の普及のための行事週間。1924年(大正13)図書館週間として発足し、のち図書祭と改称され、38年(昭和13)から日中戦争、第二次世界大戦などにより一時中止されたが、48年(昭和23)に復活し、49年以後、毎年10月27日から2週間を読書週間とすることになった。60年には出版関係団体、全国図書館協会、全国学校図書館協議会からなる読書推進協議会が生まれ、さまざまな催しが行われています。

続いては、読書週間ということで、「図書館」について書いていきたいと思います。参考までです。

■図書館(としょかん)

library [英語]
Bibliothek [ドイツ語]
bibliothque [フランス語]

図書館は、図書その他の資料を収集・保存し、特定あるいは一般の利用者のため、閲覧、貸出し、参考調査などの奉仕活動を提供する機関である。この語は英語のライブラリーlibraryの訳語として、明治初期から使われ始める。それ以前には「文庫」「書籍館」などが使われていた。libraryには図書館のほかに、図書コレクション、叢書(そうしょ)の意味があり、ギリシア語語源の英語bibliothecaも同じであるが、日本語では図書を収集・保存する場所の意がとられた。

図書館の機能は時代とともに変遷している。現代の図書館が収蔵する資料は図書、雑誌に限らない。さまざまな種類の印刷資料のほか、利用者の需要に応じ、音の資料(レコード、録音テープ、CDなど)、目で見る資料(フィルム、写真など)、点字資料、CD-ROM、コンピュータ処理の全文入力データなどが対象になりうる。社会教育施設としての図書館は読書活動以外に、利用者の啓蒙(けいもう)と自己教育のための種々の活動を行っている。児童のための読み聞かせ、身体障害者のためのサービスも重要な活動となっている。現代の図書館は、文献資料を中心にした各種情報要求にこたえ、資料検索の仕組みをコンピュータ化している。また、1館ごとの存在では十分に機能を発揮しえなくなり、図書館相互のネットワークおよび地域内や全国的なシステムづくりを目ざしており、さらにインターネットを通じて世界各国からの電子化した資料も利用できるようになっている。

続いてです続いては、「 図書館の歴史」から「啓蒙思想の普及」まで書いていきます。参考までです。

1. 図書館の歴史

図書館の歴史は古く、文字文化の発生とともにある。古代オリエント、エジプト、中国、インドには古代の文献保存の方法と場所があった。古代の文献は場所によってその材料が異なり、保存法も違っていた。中国の竹簡(ちっかん)、木牘(もくとく)、メソポタミアの粘土板、エジプトのパピルス(ナイル河畔に多産の植物)、インドの貝多羅葉(ばいたらよう)(ヤシの葉)は文献時代の代表的材料であった。古代の文献保存所は、文書の保管所であったのか、書物の図書館であったのかさだかでなく、図書館の発生についてもまた不明な点が多い。ただし、寺院、王宮に結び付いて存在した点は認められる。アッシリアの古都ニネベ、バビロニアのニップール、ヒッタイト王国のボアズキョイの発掘では粘土板を集積した場所がみいだされている。

◆古代・中世

ヨーロッパではギリシアのヘレニズム文化の興隆、中国では漢の武帝あたりから、組織体としての図書館が記録にとどめられている。図書館としての機能をはっきり示す最古の大図書館はアレクサンドリア図書館であろう。プトレマイオス王朝(前4~前1世紀)の庇護(ひご)のもとに設立された学問所図書館で、ギリシア語写本をパピルスの姿で収集し、収集のためには、ギリシア本土から、あるいはこの地に寄港する船から写本を取り寄せて写し取っていた。紀元前47年にカエサルにより焼き払われたときには、70万の巻子(かんす)があったといわれている。図書館の管理に携わった8人の名前が知られているが、ゼノドトス、エラトステネス、ビザンティンのアリストファネスらは、当代有数の学者であった。図書館員は、最良の写本を選別する目をもち、テキストの校訂を行っていた。ヘブライ語ほかをギリシア語に翻訳するのも図書館員の仕事であった。カリマコスの編纂(へんさん)した『ピナケス』は、この図書館の蔵書目録というよりは、当時の著作の分類目録とされている。古代第二の図書館は、アレクサンドリアに対抗してアッタロス王朝のエウメネス2世(前2世紀)が学者を集め、王宮に建てたペルガモン(現トルコ)の図書館であった。

古代ローマの図書館はアレクサンドリアの型に倣ったが、写本は職業としても成り立ち、写本取引は地中海全域に広がっていた。プリニウス(大)の『博物誌』Historiae Naturalisのように、文献コレクションをもとに書かれる本も現れた。政治家と軍人の実務社会であった古代ローマでは、彼らの権勢を示すためにつくられた個人図書館も多く、これらはある程度学者や市民にも公開されていた。東方に遠征する将軍は戦利品としてギリシア語文献を持ち帰っていた。カエサル自身も公開の図書館建設を企画したといわれ、アシニウス・ポリオの「自由のアトリエ」、文人キケロの蔵書は有名であった。初期キリスト教のコレクションは、紀元後3世紀初頭すでにエルサレムとカエサリアにあった。

西欧中世の図書館はキリスト教教会を中心に発達した。ローマ帝国の分裂により、東のビザンティン帝国と西のローマ帝国に新しい文明が栄えたが、ビザンティン帝国はギリシアの学問と文献収集の伝統を受け継ぎ、10世紀にわたりこれを保った。首都には三つの重要な図書館(帝室図書館、総司教図書館、帝室学問所図書館)があったが、古代の文献を保存し、東方世界に伝えた意義は大きい。ここはイスラム世界との接点であり、窓口でもあった。民族移動による混乱を終えた西ヨーロッパは、9世紀のカール大帝の統一により文化建設が実現する。大帝の「カロリング朝ルネサンス」は、宮廷図書館の設立、領土内各地の修道院・学校の建設、法規の集成を含み、小文字を取り入れた書体の改良から書写活動も進んだ。

中世を通じてもっとも発達した図書館は修道院・教会の図書館で、ここは書写室・書庫が接近した自家生産型の図書館であった。材料も羊皮紙に変わり、巻子から綴本(とじほん)への移行もみられた。13世紀からキリスト教中世が解体の方向に向かうと、修道院や教会の図書館は衰え、かわって世俗の文化の担い手が現れ、安価な書写材料としての紙が普及し、写本も商取引の対象となるにつれ、領主貴族の図書館、市会の図書館が出現する。百科事典の試みが相次ぐのは14世紀であり、愛書家の発生、個人文庫の発生もみられる。ロベール・ド・ソルボンによるパリの学寮設立は大学図書館の成立を促す。ここでは1289年に図書館ができ、14世紀なかばには1700冊が所蔵されていた。大学の設立と同時に図書館が付設される例も出てくる(ハイデルベルク、1386)。大学図書館の蔵書は主題分類に従っていた。本は書見台に横たえられるか、そこに取り付けられた棚に並べられ、おのおの鎖で台か棚かにつながれていた。この姿は中世の領主図書館、修道院図書館にもみられるが、繰り返し利用されることを前提としていた。

イスラム世界の図書館は、口伝のコーランが集成され写本ができあがるころ(7世紀)から栄える。8世紀には紙が中国から伝来し、バグダードに製紙工場が完成する。11世紀アッバース朝では学術研究が栄えた。図書館は首長や文学・学術団体が宗教・歴史の知識を普及するためにつくられた。10世紀バグダードの本の家(ダール・アル・クトゥブ)、知識の家(ダール・アル・ヒクマ)が知られ、イスラム寺院(モスク)には至る所に図書コレクションがみられた。アル・ナディームの分類体系は、中世から19世紀まで使われた。図書館の利用者は限られていたが、図書館は無料で開かれ、紙やインキが用意されており、貸出しも保証金があれば行われていた。

■近代

◆印刷術の発明

ルネサンスと宗教改革、そして印刷術の発明で始まる西欧近代は図書館の基盤を築いた。人文主義時代のイタリアでは君公、学者のもとに、現在に残るコレクションが次々とつくられた。フィレンツェのメディチ家の司書ニッコロ・ニッコーリNiccolo Niccoli(1364―1437)は主家のため各地で写本を集めて回った。ルターによる宗教改革は、中世を支配したカトリックの基底を揺るがし、そのため旧教諸派、新教ともに教団、学問所を強化した。16世紀には大学も両派のものがドイツ各地でつくられた。これらの動きを支えたのはグーテンベルクによる印刷術である。写本にかわって印刷本は一般市民の手に届くようになり、大学はこぞって印刷所をもつようになった。印刷図書が写本を圧倒する16世紀にはドイツ各地で封建諸侯のもとに大型コレクションがつくられ始める(ハイデルベルクのパラティーナ図書館、ミュンヘン大公図書館、ウィーンとプロイセンの宮廷図書館)。それはドイツにおける図書文化の優越した地位に支えられていた。ここではフランクフルト(1564)とライプツィヒ(1594)に書籍見本市が始まっていた。コンラート・ゲスナーの『万有書誌』(1545)は図書館を中心に調べた写本の総目録である。

17世紀は、三十年戦争によりドイツの図書館が全体的に衰え、かわってフランスの図書館が決定的な影響力をもった。ヨーロッパ第一の文化国となっていたフランスは学術研究にも力を示し、アカデミー・フランセーズの成立(1635)、学術雑誌の刊行(『ジュルナール・デ・サバン』Journal des Savans, 1665)で他に先駆けた。この世紀のフランスの図書館で大きな影響力をもったのは王立図書館(ビブリオテーク・ド・ロア)であった。成立は16世紀初頭、フランソア1世の時代とされるが、法令による義務納本制を初めて施行し、国内全出版物を収集・保存できる国の中央図書館を実現させた。フランスの宰相マザラン卿(きょう)は司書ガブリエル・ノーデGabriel Naud(1600―53)の助力でマザラン図書館をつくったが、ノーデは徹底した収書方針を貫き、1643年、図書館を毎日一定時間開放する原則をたてた。ノーデの考えは『図書館建設に関する意見』Avis pour dresser une bibliothque(1627)として著されている。イギリスの政治家トマス・ボドリーSir Thomas Bodley(1545―1613)も同じ時代に司書ジェームズThomas James(1573?―1629)の力を得て、母校オックスフォード大学の図書館を再建した。書籍商組合からの納本を受け、蔵書目録の印刷、公開利用も他に先だって行った。

◆啓蒙思想の普及

18世紀の図書館は、各国の民族意識の高揚と啓蒙(けいもう)思想の普及による、市民の読書の場への要求、利用に価する教養コレクション(大学)の成立などにより特徴づけられる。1759年開館の大英博物館は、性格と成立事情はあいまいであったが、その後、個人蔵書の寄贈・遺贈を受け入れ、図書館部門を急速に伸ばした。ロシアのエカチェリーナ2世は、ポーランド分割の機に獲得したコレクションや買い集めた蔵書をもとにペテルブルグの帝室公共図書館の準備を整えた。デンマーク、スペインの王立図書館も18世紀には再興の兆しを示している。大学の学術コレクションは、とくにドイツで、哲学者ライプニッツの理論により、そしてこれを実行したゲッティンゲン大学図書館により、発展の基盤を得た。ライプニッツの思想は、

(1)図書館では独創的な思想はすべて調和のとれた継続として集めるべきである

(2)図書館を支えるのは年度ごとのしっかりした予算である

(3)図書館の職務はこの貴重な財産が利用できるよう目録にとり、開館時間や自由な貸出しを広げることにある

と要約できよう。市民の間には自分たちの自己形成を目的とするクラブ図書館や会員制図書館がイギリス、アメリカにでき、ベンジャミン・フランクリンのフィラデルフィア図書館会社は1731年に設立されていた。また、イギリス各地の職工学校には市や慈善団体の資金でつくられた図書室があり、女性や子供の読書をもまかなっていた。

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元々はある建物を宣伝するための「祭り」でしたが、これから「離れる」深刻な問題があります・・・パート6

続いてです。10月27日から二週間は「読書週間」ですが、続いては、「活字離れ」というものについて書いていきたいと思います。参考までです。

●活字離れについて

活字離れ(かつじばなれ)とは、識字率が高い国や地域において、書籍や新聞など”文字媒体”の利用率が低下することをいう。

●概要

一般に識字率(文字を読み書きする能力を有する者の全体に対する割合)が上昇すると、活字媒体の利用率も上昇する。しかし、識字率が非常に高い値を維持し続けている国や地域においては、他メディアの躍進などによって活字媒体の利用率がある程度低下する場合があり、この現象を「活字離れ」という。

活字離れは、教育者や保護者が学生をはじめとする若者について、あるいは識者らが社会全般の傾向として、言語能力の低下、勉学意欲の減退など、知的水準が落ちていると主張するとき、その原因として挙げられることが多い。また「出版不況」の原因ともいわれる。活字離れはしばしば社会問題のひとつとされ、活字媒体を好まない者を否定的に断じるとともに、そのような者をいかに減らすかが話題となる。 ただし、「活字離れ」を議論するときに、インターネットは巨大な活字媒体であるという視点からの発言は少ない。ユーチューブなどの動画の再生以外は、8割以上インターネット上での情報伝達は活字である。 また、「活字を読む側」だけだった立場から、作家や編集者、ライターと同様の立場で「活字を発信する側」に立つ人が、ブログやeメールといった「デジタル活字」の出現によって格段に増えたのは、活字を通じた多様な文化形成に貢献しているといえる。「活字」=「文字媒体」としたときに、紙媒体に載っている文字だけが「活字」だとするならば、「活字離れ」の議論も「狭義の活字論争」と言わざるを得ない。

●活字離れの実情

★メディア接触時間調査

現代の先進国では様々なメディアが大衆に情報を提供している。活字離れでは他メディアの隆盛による活字メディアの衰退という意見もあり、他メディアの消費動向と活字メディアの消費動向の比較がしばしば行われている。

アメリカの市場調査会社GfK NOPの調査によると、本と新聞、雑誌など活字媒体を読む時間は、調査対象30か国の平均が週6.5時間であった。活字媒体を読む時間の上位5か国は順にインド(週10.7時間)、タイ(9.4)、中国(8)、フィリピン(7.6)、エジプト(7.5)であり、下位5か国は順に韓国(3.1)、日本(4.1)、台湾(5)、ブラジル(5.2)、イギリス(5.3)となっている。

同調査ではテレビ視聴時間、ラジオ聴取時間、インターネット利用時間も同時に調べているが、活字媒体と明らかに競合しているメディアは存在しない。読書時間下位の台湾と上位のタイがインターネット利用時間の1位、2位であり、日本はいずれも下位である。タイ・フィリピン・エジプトはテレビ視聴時間の上位国でもある。日本と韓国はラジオ聴取時間の26位、29位となっている。

ただし、これらの比較では「平均値」同士を比較している面もあり、特にその内容に踏み込んでのデータ比較は困難である。以上のデータを見るだけでも、メディア間の接触時間比較では、あまり相関性がみられない。

●日本

日本新聞協会経営業務部の調査によると、日本国内の新聞発行部数は1990年代にピークを迎え、その後は微減傾向となっている。

書籍・雑誌の販売部数もまた1990年代にピークを迎え、約10年間、販売部数も販売総額も漸減傾向にある。ただし、2004年の書籍販売は8年ぶりの増加となるなど下げ止まりのきざしはある。

こうした状況下において、日本では読書量に関するいくつかの調査が継続して行われている。

ただし三橋貴明によれば、インターネットを通じて活字に接している機会は大幅に増えているとされ、活字離れ論は新聞の発行部数減に危機感を覚えている新聞社によるキャンペーンだという。

★読書離れと年齢層

1980年より年1回行われている『読売新聞』の読書週間世論調査によると、1990年代後半以降、月に1 - 3冊読んだ人を1冊も読まなかった人が上回るようになり、無読率は50%前後を推移している。とくに50代以上の各年齢層では過半数が読書をしていない。

一方、20代の読書離れも指摘されている。学生層の読書量減少は顕著で、1985年に1割だった無読率は2005年には4割弱へ増加し、また月4冊以上読んだ学生は4割から2割へ減ったという。一方、後述する全国学校図書館協議会では、青少年層向けの活字媒体(ライトノベルや良質な児童文学・ベストセラー小説)の流行により若者の活字媒体への関心は増加し、読書量も増大していると見ており、読売新聞の調査とは相反している。

1947年に始まった『毎日新聞』の読書世論調査によれば、2002年に調査開始以来最高となる59%の書籍読書率を記録し、雑誌読書率も84%に達した。なお2003年の調査では雑誌読書率が急落している。

★子供の読書離れ

社団法人の全国学校図書館協議会は『毎日新聞』と共同で、1968年より毎年1回、「5月中に読んだ本の冊数」という調査を行っている。

高校生の調査結果を見ると、1970年代の平均4.5冊から1980年代に上昇し、平均7.4冊(1984年と1988年)まで達した。1990年代には低下傾向となったが、2000年代に入って急上昇し、波はあるものの2003年には平均8冊、2004年にも7.7冊という高水準を記録した。

小学校・中学校の児童・生徒の調査結果は長らく平均1 - 3冊の水準(小学生で1.5冊未満、中学生で2冊前後)だったが、2000年代になると高校生と同じく急上昇し、2004年調査では小学生で1.8冊、中学生で3.3冊という調査開始以来の高水準に達した。

逆に「5月中、全く本を読まなかった」いわゆる無読率は高年齢層ほど高く、1980年代後半から1990年代にかけては、高校生の約60%、中学生の約50%、小学生の約15%であった。しかし2004年調査での無読率は高校生42.6%、中学生18.8%、小学生7%と減少している。

学生の読書量が増加した理由については、一部の学校で読書の時間を設けられていることが挙げられる。

★読書離れ

出版産業がピークアウトした1990年代半ばより、読書離れは大きな社会問題としてクローズアップされるようになった。

読書離れを「日本語の乱れ」や「考える力の減退」といった様々な他の現象と関連付ける言論が目立つ。「活字離れは若者の問題」という意識も強い。大学生の読書率・読書量の低下は進学率の高まりと入試の緩和が原因ともいわれるが、評論家や大学教員など知的エリート層を中心に初等・中等教育の劣化や学習意欲の衰退などの表れとする声が上がった。子どもの読書に高い教育効果を見込む保護者が多いこともあり、読書離れの解消を小中学校・高校の教育に期待する世論が形成された。その結果「朝の読書」運動などが広まり、50代以上の世代の無読率が高止まりする一方、小学生の読書量は2000年代に過去最高となった。

総務省統計局の社会生活基本調査によると、「趣味としての読書」の行動者率は1986年以降40%前後で推移しているが、1年あたりの平均行動日数は1986年の103日から2001年の85日へ次第に減少している(高齢化の進展により無読率の高い高齢者層が増加した影響も含む)。インターネット利用の普及などが活字離れにつながったというアンケート調査結果も出ている。これらの調査結果は「読書意欲はあるが、読みたい本が減った」という広汎に支持される意見を裏付けている。

このように、子どもに本を読ませたいという観点から学校や図書館などの公共機関に、自分が読みたくなる本が増えてほしいという観点から、出版社に一層の努力を求めるコンセンサスが形成されている。

★出版業界の対応

日本の出版業界における「活字離れへの対応」は、書籍の軽薄短小化という数十年来の流れの中に位置づけられる。気軽に手に取ってもらえるよう、新書など薄く小さく安いパッケージの比率を高め、文庫も増やしてきた。版面の改善も進められ、高齢者や若い読者にアピールする読みやすく大きな文字の使用、1ページあたり行数・文字数の抑制、といった工夫は常識となりつつある。ロングセラーの書籍を改版して文字を大きくする、海外作品の古典の翻訳をわかりやすい訳文に改める、などの作業も続けられている。

また書籍への関心の経路を増やすため、コミカライズによって漫画読者層にアピールしたり、書籍の映像化や映像作品の小説化など、様々なメディアミックス展開が行われている。こうした大きな需要を掘り起こす試みに加え、小さな需要に応えていく試みとしてオンデマンド出版や電子書籍などIT技術を活用したインターネット経由の通信販売が普及しつつある。現在、電子書籍の大半は漫画作品だが、活字の書籍も着実に増えている。

その他、読書を支援する環境が充実しつつある例として、絶版問題に対応して、世界最大の古書店街としても知られる神田神保町が共同で運営する古書専門販売サイト、復刊を推進するサイトの登場などが挙げられる。

★新聞離れ

新聞の発行部数は1997年にピークアウトした後も微減にとどまっているが、新聞購読者の高齢化が進展しつつあり将来が危ぶまれるようになった。

ただしインターネットにおける文字情報主体のニュース記事読者数は紙媒体の新聞購読者の減少数を大きく上回っているため、活字離れという文脈で話題になることは少ない。また日本新聞協会の調査によると、新聞を「大いに信頼できる」「だいたい信頼できる」と答えたのは、50歳代で92%、20歳代で83%である。インターネットは書籍と同等の長文記事を読むには不適な媒体とみなされているが、新聞記事のような短文ならばむしろ情報消費者の利便性を増進すると考えられており、紙媒体の凋落は新聞社の経営問題に過ぎず、社会的な影響は大きくないという見方が強い。

★新聞業界の対応

有料記事の需要落ち込みに対応し、広告モデルを全面的に採用したフリーペーパーや無料ウェブサイトによる生き残りを模索する一方、解説の充実などコンテンツの充実による有料紙媒体存続や有料会員制サイトの方向性も目指している。

●中国

中国の識字率は1980年代には8割未満だったが、2000年代に入って90%を突破した。しかし中国出版科学研究所の調査によれば、逆に識字者の読書離れが進み、1999年調査では60.4%だった読書率が、2006年の調査では48.7%へ低下した。

同研究所は、生活の変化に伴って読書をする時間が減ったことや、新しいメディアの普及に伴い、そちらに人が流れている他、旧来の学術書や教養を扱った書籍よりも、実用書や功利的なハウツー本の需要が増える傾向を指摘している。

●脚注

1. Uncovers Who’s Tuning In, Logging On and Hitting the Books,GfK NOP,New York,June 15, 2005.
2. 「新聞の発行部数と世帯数の推移」 日本新聞協会。
http://www.pressnet.or.jp/data/01cirsetai.html
3. 「読書週間 本社世論調査 本離れ懸念 世代で差」 読売新聞、2004年10月28日。
http://www.yomiuri.co.jp/book/news/20041028bf01.htm
4 「読書週間 “本離れ”傾向変わらず…本社世論調査」 読売新聞、2005年10月28日。
http://www.yomiuri.co.jp/book/news/20051028bk01.htm
5. 『「1か月読書せず」49%、若者の本離れ進む』 読売新聞、2006年10月29日。
6. 「書籍 ・ 雑誌読書率(16歳以上)は過去最高、小、中、高校生の雑誌読書率は過去最低 ― 2002年版“読書世論調査”(毎日新聞社)の概要―」『出版教育研究所通信』No.2、日本エディタースクール、2002年6月13日。 PDFファイル
7. 鈴木道弘、中本輝雄、大漉実知朗、滑志田隆 「第56回読書世論調査」 毎日新聞、2002年10月27日。
8. 「親と子の読書活動等に関する調査」文部科学省
http://www.mext.go.jp/a_menu/shougai/tosho/houkoku/05111601.htm
9. 「社会生活基本調査」国立国会図書館
http://rnavi.ndl.go.jp/research_guide/entry/theme-honbun-102350.php
10. 「インターネット白書2006」インプレス
11. 「クロス・メディア・リサーチ」日経リサーチ
12. 「NHK国民生活時間調査」NHK放送文化研究所
http://www.nhk.or.jp/bunken/
13. 「図録▽新聞を読まなくなった日本人」国民生活時間調査のデータを集計
http://www2.ttcn.ne.jp/~honkawa/3957.html
14. 読売新聞2006年10月20日記事
15. 「Education - Global Monitoring Report 2006 - Full Report」ユネスコ
http://portal.unesco.org/education/en/ev.php-URL_ID=43283&URL_DO=DO_TOPIC&URL_SECTION=201.html
●関連項目

・文字・活字文化振興法
・NIE

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元々はある建物を宣伝するための「祭り」でしたが、これから「離れる」深刻な問題があります・・・パート5

続いてです。続いては、今日、10月27日初日は、「文字・活字文化の日」だそうです。文字・活字文化の日は、2006年に制定された文字・活字文化振興法に盛り込まれた記念日で、読書週間初日の10月27日を「言語力」を育てるための日とされている。

ということで、、「文字・活字文化の日」について書いていきます。

●文字・活字文化のについて

文字・活字文化の日

この文字・活字文化振興法により制定。
読書週間の初日(10月27日)を 活字離れに歯止めをかけ、文字・活字文化についての関心と理解を深めるための日としました。

続いてです。続いては、文字・活字文化の振興を総合的に推進するための国や自治体の基本的責務を定めた法律である。「文字・活字文化振興法」という法律について書いていきます。

参考までです。

●文字・活字文化振興法について

文字・活字文化振興法(もじかつじぶんかしんこうほう)は、文字・活字文化の振興を総合的に推進するための国や自治体の基本的責務を定めた法律である。 活字文化というと活版印刷のことかと考えられがちだが、要は出版のことを指している。

超党派の国会議員286名から成る活字文化議員連盟において法案がまとめられ、2005年に制定された。

骨子案には版面権(著作隣接権の一種)の創設も盛り込まれていたが、当時はレコード輸入権創設への反対が叫ばれ知的財産法制強化への反感が強まっていた時期だったこともあって、最終的な法案には盛り込まれなかった。

なお、活字文化議員連盟は「文字・活字文化振興法の施行に基づく施策の展開」として、地域における文字・活字文化の振興、学校教育に関する施策の他、出版活動への支援も推進するよう求めており、その具体的な内容として、

文字・活字にかかわる著作物再販制度の維持
著作者及び出版者の権利保護の充実
を挙げている。

読書週間の初日にあたる10月27日を文字・活字文化の日として定めている。

●関連項目

・活字離れ
・出版不況

●外部リンク (こちらは参考までです)

・文字・活字文化振興法
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/H17/H17HO091.html

◆文字・活字振興法・基本理念について◆

平成17年7月に、図書館の充実や学校での言語力を養う教育の充実などを規定した「文字・活字文化振興法」が 公布、施行されました。

この法律は、文章を読んだり、書いたり、出版する活動を「文字・活字文化」と定義し、 「文字・活字文化」の振興を図り、知的で心豊かな生活、活力ある社会を実現していくことを目的としています。

  <基本理念>
○すべての国民が生涯にわたり等しく文字・活字文化のもたらす恩恵にあずかれる環境を整備する
○国語が日本文化の基盤であることに配慮する
○学校教育で「読む」、「書く」などの言語に関する力(=言語力)を高めていく

<地方公共団体に求められているとりくみ>
○公立図書館の設置、適切な配置
○公立図書館における司書、資料の充実、情報化の推進
○大学図書館の一般開放、文字・活字文化に関する公開講座の実施
○文字・活字文化の振興に資する活動を行う民間団体の支援
○学校教育における言語力の涵養に必要な教育職員の養成、研修の充実
○文字・活字文化の日(10月27日)にふさわしい行事の実施

文字・活字振興法リンク
https://www.library.city.edogawa.tokyo.jp/mozi__katuzi_sinkouhou.html

こちらは参考までです。

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元々はある建物を宣伝するための「祭り」でしたが、これから「離れる」深刻な問題があります・・・パート4

続いてです。続いては、日本図書館協会総裁徳川頼倫の死後に、紀州徳川家からの特別預金として寄付された運営基金5万円を巡って日本図書館協会と紀州徳川家が争った裁判、「徳川訴訟問題」について書いていきます。参考までです。

●徳川訴訟問題について

徳川訴訟問題(とくがわそしょうもんだい)とは、日本図書館協会総裁徳川頼倫の死後に、紀州徳川家からの特別預金として寄付された運営基金5万円を巡って日本図書館協会と紀州徳川家が争った裁判のこと。

●経緯

紀州徳川家の当主・徳川頼倫は1914年に新設された日本図書館協会の総裁に就任すると、率先して全国各地に図書館の設置を呼びかけ、公共図書館思想の普及に尽力した。だが、当時の図書館の社会的な地位が低く協会の財政事情も芳しくは無かった。そこで、1923年に開催された協会創設30周年の記念総会で協会財政の維持のために基金30万円を募金によって賄う決議が採択され、続いて徳川総裁は紀州徳川家から寄付金5万円を特別預金として拠出し、これを運用して年間3千円の利息を協会運営資金に充てる提案がされて了承された。1925年に徳川総裁は病没したが、特別預金の運営によって漸く財政的に安定し、1931年に社団法人として改組されることとなった際にこの特別預金5万円も協会の基本財産として認められた。

ところが、この年に徳川総裁の7回忌にあたって紀州徳川家から日本図書館協会に対して、先年の寄付は30万円募金が終わるまでのつなぎの筈なのに、その後募金が行われていないのは約束違反であること、社団法人化によって募金のための仕組みが整ったために寄付金の役目は一応終えたこと、昭和金融恐慌の十五銀行破綻によって紀州徳川家も打撃を受けたことからこれ以上の財政的支援を行う余裕がない事を理由に特別預金5万円の引揚を通告したのである。

これに松本喜一理事長(帝国図書館館長)ら幹部は驚いて、紀州徳川家に再考を求めたものの、交渉は暗礁に乗り上げ、1932年7月、日本図書館協会は基本財産維持を目的に紀州徳川家に特別預金返還を求める訴訟を起こした。

●訴訟経過

翌年東京地方裁判所での第1審は紀州徳川家が、続いて東京控訴院での第2審は図書館協会の勝訴となった。ところが1935年の第3審で大審院は東京控訴院への差戻を命じる判決が出されたことから訴訟は長期化した。東京控訴院では双方和解を勧告したものの、紀州徳川家は強硬な態度を示し、図書館協会は松本理事長と古参幹部の間に図書館のあり方を巡る対立が長年にわたって存在した(文部省の人事によって帝国図書館長に就任した松本は図書館協会の推し進めたアメリカ方式の公共図書館思想に懐疑的であったために、古参幹部との間に確執があった)ために和解がまとまらなかった。

1939年、前年の日比谷図書館廃止論議の際の対応の悪さなどが追及されて松本が理事長を辞任すると、公共図書館思想に理解があった高柳賢三(東京帝国大学附属図書館館長)が代わって理事長に就任した。英米法の権威である高柳によって和解交渉が積極的に進められたものの、和解には至らなかった。そこへ高柳の友人で東京機械製作所社長の芝義太郎から、高柳のために訴訟費用5千円と図書館協会への寄付金5万円を拠出したいとの申し出がなされた。これによって図書館協会は紀州徳川家に対して特別預金返還を求める理由は無くなり、同年に図書館協会の訴訟取り下げで両者の和解が成立した。

なお、この一件で図書館界・出版界との関係を持った芝義太郎の東京機械製作所は後に印刷機械メーカーとして発展することになった。

●参考文献

・日本図書館協会 編『近代日本図書館の歩み 本篇』日本図書館協会、1993年。 ISBN 9784820493198

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元々はある建物を宣伝するための「祭り」でしたが、これから「離れる」深刻な問題があります・・・パート3

続いてです。読書週間(どくしょしゅうかん)とは、10月27日から11月9日までの2週間にわたり、読書を推進する行事が集中して行われる期間です。1924年に日本図書館協会が11月17日から11月23日までの「図書週間」を制定していた。1933年には「図書館週間」と改称され、出版界では「図書祭」が開催されていた。しかし、戦争の影響で、1939年には一旦廃止されました。

続いては、1924年に11月17日から11月23日までの「図書週間」を制定していた、「日本図書館協会」について書いていきたいと思います。

●日本図書館協会について

社団法人日本図書館協会(しゃだんほうじんにほんとしょかんきょうかい)は、図書館事業を通じ日本文化の発展に貢献することを目的とする文部科学省所管の特例社団法人である。東京都中央区に事務所を置く。

●概要

★沿革

1892年に「日本文庫協会」として設立、1908年に「日本図書館協会」と改称、1929年に社団法人となる。

★刊行物

雑誌

・図書館雑誌(月刊)
・現代の図書館(季刊)

刊行書

・日本十進分類法
・日本目録規則
・基本件名標目表
・図書館年鑑
・日本の図書館
・JLA図書館情報学テキストシリーズ

★会員資格
会員は以下の種類がある。

・個人会員(図書館や出版、情報関係の職にある者と図書館に関心のある者)
・施設会員(図書館や資料室等)
・購読会員(学生)
・会友(退職した図書館職員のうち、10年以上個人会員である者)
・賛助会員(協会の事業を賛助する個人および団体)

●活動の沿革

・2001年、青少年社会環境対策基本法案についての見解。その中で、有害図書に接することが青少年の逸脱行為の原因になるという因果関係の科学的証明が無いことを指摘。日本図書館協会:『「有害」図書類に接することが逸脱行動の原因であるという結果は得られていません。表現と行動の因果関係が科学的に証明できないのですから、どのような表現が逸脱行動の原因であるかを科学的に定義することは不可能で、このことも規制する表現対象の恣意的拡大を可能にします。 』

●脚注・出典

1. 社団法人 日本図書館協会 (2001年). "青少年社会環境対策基本法案についての見解". 2009年9月22日 閲覧。

●外部リンク (こちらは参考までです)

・社団法人日本図書館協会
 http://wwwsoc.nii.ac.jp/jla/
 ・図書館の自由に関する宣言
 http://wwwsoc.nii.ac.jp/jla/ziyuu.htm
 ・図書館員の倫理綱領
  http://wwwsoc.nii.ac.jp/jla/rinri.htm

●関連項目

・図書館流通センター ― 当協会の一部門から独立
・図書館の自由に関する宣言
・図書館員の倫理綱領
・徳川訴訟問題

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元々はある建物を宣伝するための「祭り」でしたが、これから「離れる」深刻な問題があります・・・パート2

続いてです。終戦まもない昭和22年、まだ戦火の傷痕が至るところに残っているなかで「読書の力によって、平和な文化国家を作ろう」という決意のもと、出版社・取次会社・書店と公共図書館、そして新聞・放送のマスコミ機関も加わって、11月17日から、第1回『読書週間』が開催されました。そのときの反響はすばらしく、翌年の第2回からは期間も10月27日~11月9日(文化の日を中心にした2週間)と定められ、この運動は全国に拡がっていきました。

続いては、「読書週間の歴史と読進協」について書いていきます。参考までです。

◆読書週間の歴史と読進協

1)「読書週間」前史 ~図書館と出版界の連携によって~
 
「読書週間」の前史は大正13年に始まります。関東大震災の翌年のこの年に日本図書館協会が開始した「読書週間」は、11月17日から23日までの1週間の実施期間に、全国各地で読書の鼓吹、図書文化の普及、良書の推薦を主要な目的として、さまざまな行事が展開されました。これには出版界の各団体も参加し、それぞれの組織でその運動の推進に協力する体勢が作られました。
 
昭和8年には「図書館週間」と改称され、出版界ではそれと密接な連携を保ちながら「図書祭」を計画しました。当時出版界の有力団体であった「東京出版協会」の25年史には「図書の功績を讃え、敬虔なる感謝を捧げ、以て図書並に読書に関する世人の自覚を高め、良書に親しみ、良書を尊ぶ美風を振興することを企図した」とあります。同年11月1日、当時の東京商科大学一橋講堂で、厳粛な雰囲気の中で祭典が行われました。鳩山(一郎)文部大臣の祝辞のほか、上田萬年博士の記念講演があったことが記録に残されています。以来「図書祭」は文字通り「まつり」として開催されていきました。
 
昭和13年、この前年に発した『支那事変』――日中戦争の影響は読書運動に及んで、11月10日の国民精神復興に関する詔書煥発記念日に改められ、政府の「国民精神復興週間」に呼応する形に変化してしまいます。「図書館週間」も、昭和14年に文部省が発令した「一般週間運動廃止令」によって禁ぜられましたが、「読書普及運動」と名称を変えて、11月8日から12日までの5日間の開催で継続を計りました。しかしながら時局の緊迫化から両者ともこの年で終止符を打つことになります。

2)新しい「読書週間」の計画
 
昭和20年8月15日、第2次世界大戦は日本の敗戦によって終結しました。日本の主要都市は焦土と化し、米軍を中心とした連合軍の占領下に置かれました。建物、用紙、機材等の劣悪な条件の中から、思想・表現の自由を得た出版界は活動を開始します。一般の読書に対する関心も、層積した禁を解かれて活発になりました。そして新しい日本の再建の指標として、「文化国家の建設」が人心を一致させました。
当時の日本出版協会会長・石井満氏に、文化運動としての「読書週間」の再出発を熱心に進言したのは、栗田確也氏(当時・栗田書店社長)であったといわれます。打診に応じた占領軍CIEの出版顧問フレデリック・メルチャー(Frederic Mercher)氏によって米国のChildren's Book‐Week(11月16日から1週間)の示唆もあり、ここに新しい「読書週間」の計画が企図されました。

3)第2回「読書週間」~焦土のなかに花ひらいた瞬間
 
敗戦後の昭和22年、日本出版協会などの出版組織を中核として、日本図書館協会、そして取次、書店の流通組織、その他報道、文化関連団体30余が参加して「読書週間実行委員会」を結成し、11月17日からの一週間、東京、大阪、京都、札幌、長野、名古屋、福岡などで実施されたと記録されています。
 
東京では朝日新聞社、大日本印刷、凸版印刷、三菱製紙などの後援で、5つの会場で「出版文化博覧会」が開催されました。

第1会場=日本橋・白木屋『本になるまで』。印刷、製本機械による雑誌、書籍の製作工程。用紙の生産過程。さらに明治以降の特色のある装幀の本250点など。人間の皮で装幀した奇書も出展された。
第2会場=日本橋・高島屋『辞典と海外図書翻訳書店』では、占領軍各国代表部出品の新刊図書800冊が、とだえていた国際出版物への関心に再び灯をともした。
 
第3会場=東京美術学校『書籍と印刷に現れた近代日本美術展』。
第4会場=東京女子高等師範学校『教科書を中心にした教育図書展』では、高松宮が参観された。
第5会場=交通博物館『交通出版文化展』では、児童出版物も多数展示された。
会場は連日にわたってにぎわい、ノートをとるものも多かった、とあります。放送関係でも、読書運動を中心としたプログラムが組まれ、NHKの『話の泉』には、石井満会長(日本出版協会)が特別回答者として出演しました。正に出版文化への飢えと渇きから、本を作るもの、読むもの一体となって開放され、花ひらいた瞬間でありました。
翌年の2回では「1週間では惜しい」との声が集まり、現在に続く10月27日から11月9日という11月3日の文化の日を中心にした2週間となりました。

4)「読書週間」の拡がりと読進協の誕生
 
その後、毎年の「読書週間」は全国に拡がり、さまざまな行事が自主的に計画されていきました。
読書週間の運動に呼応するように、毎日新聞社は「毎日出版文化賞」(昭和22年創始)に、「読書世論調査」(昭和23年開始)などの読書推進の活動を興し、昭和25年に学校図書館協議会の結成の後、同会の提唱に共催して「青少年読書感想文全国コンクール」を昭和28年にスタートさせました。
 
このような盛り上がりのなかから、読書運動は年1回の行事ではなく、年間を通した運動であり、常時読書普及の推進をはかるべきである、との考えが高まり、昭和34年11月、実行委の任務を引継いで「読書推進運動協議会」が発足しました。
主要構成7団体として次の組織が挙げられます。日本書籍出版協会、日本雑誌協会、教科書協会、日本出版取次協会、日本書店商業組合連合会、日本図書館協会、学校図書館協議会。
それとともに、全国各地で読書推進運動を、それぞれ主体になって展開し、また読進協の趣旨を広く伝播する協力組織として、各都道府県読進協の結成を計りました。その呼びかけは主として日本図書館協会が行い、県立図書館を中心に現在42都道府県に結成されています。
読進協は昭和40年に社団法人(文部省主管)となっています。
(『読書推進運動協議会の二十年』昭和55年・読進協刊。布川角左衛門氏筆「前史」「読進協の発足」から)

こちらで参照できます。
http://www.dokusyo.or.jp/jigyo/dokusyo/top.htm

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元々はある建物を宣伝するための「祭り」でしたが、これから「離れる」深刻な問題があります・・・パート1

皆さん、こんにちわ。更新です。今日は、10月27日です。今日、10月27日は「読書週間」だそうです。読書週間は、1924年(大正13年)に図書館の利用PRを目的に始められた「図書館週間」を母体に1933年(昭和8年)には東京書籍商組合主催の「図書祭」に改称され、1947年(昭和22年)からは図書週間実行委員会の主催で「読書週間」と改称した。翌1948年(昭和23年)からは「文化の日」にまたがる2週間に期間が延長され、1959年(昭和34年)には読書推進運動協議会が主催団体となった。

ということで、今日は、「読書週間」について書いていきたいと思います。

●読書週間について

読書週間(どくしょしゅうかん)とは、10月27日から11月9日までの2週間にわたり、読書を推進する行事が集中して行われる期間。

1924年に日本図書館協会が11月17日から11月23日までの「図書週間」を制定していた。1933年には「図書館週間」と改称され、出版界では「図書祭」が開催されていた。しかし、戦争の影響で、1939年には一旦廃止された。

終戦後の1947年、日本出版協会、日本図書館協会、取次・書店の流通組織、その他報道・文化関連団体30あまりが参加して「読書週間実行委員会」が結成され、11月17日から11月23日までの第1回「読書週間」が行われた。「一週間では惜しい」という事で、2回目からは10月27日から11月9日までの文化の日を挟んだ2週間となり、現在に続いている。

1959年11月に、読書週間実行委員会の任務を引き継いで「読書推進運動協議会」(読進協)が発足した。

●外部リンク (こちらは参考までです)

・読書推進運動協議会
http://www.dokusyo.or.jp/

◆読書週間(どくしょしゅうかん) ◆

読書の普及のための行事週間。1924年(大正13)図書館週間として発足し、のち図書祭と改称され、38年(昭和13)から日中戦争、第二次世界大戦などにより一時中止されたが、48年(昭和23)に復活し、49年以後、毎年10月27日から2週間を読書週間とすることになった。60年には出版関係団体、全国図書館協会、全国学校図書館協議会からなる読書推進協議会が生まれ、さまざまな催しが行われている。

こちらは参考までです。

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これは、「日本で初」の歴史的出来事の一つです・・・パート12

続いてです。続いては、「原子力の日2009年」のイベント情報です。参考までです。

◆原子力の日クイズラリー

開催日 2009年10月10日(土)~26日(月)
開催時間 9:00~17:00
市町村 御前崎市
会場 中部電力(株)浜岡原子力館 
http://www.at-s.com/bin/YELL/YELL0020.asp?id=F787638315
浜岡原子力館について
http://www.chuden.co.jp/hamaoka-pr/
駐車場 乗用車129台、バス11台(無料) 
料金 無料 
問い合わせ先 浜岡原子力館 
問い合わせ先TEL 0537-85-2424 
ホームページ 浜岡原子力館公式サイト

こちらでも参照できます。
http://www.at-s.com/bin/even/EVEN0030.asp?event_no_i=I302995626

◆10月25日(日)「原子力を考える」事業 エネルギー チャレンジフェスタ

日にち:10月25日(日)
時  間:午前10:00~午後3:30
会  場:福島県原子力センター

・福島県内の高校生による意見交換会

・小・中学生の絵画・書道展

・早稲田大学名誉教授の大槻義彦さんによる科学講演会
  「理科・科学好きの子供に育てるための4ヶ条」

・米村でんじろう先生の弟子「ゆう先生」による科学実験ショー

・アトムシアター(午前、午後の2回上映)
  劇場版 仮面ライダーディケイド「オールライダー対大ショッカー」
  銀幕版 侍戦隊シンケンジャー「天下分け目の戦い」
の2本立て!

・チャレンジラリー

・ロボットひろば

・体験学習パネル展示コーナー

・原子力センターコーナー

・放射線測定コーナー

・大野病院コーナー

・無料とん汁コーナー(12:00より先着500名)

など、楽しいイベント盛りだくさん!!

こちらで参照できます。
http://www.atom-fukushima.or.jp/cgi/event/event.cgi?no=14

◆浜岡原子力館イベント情報

こちらで参照できます。
http://www.chuden.co.jp/hamaoka-pr/event/index.html

◆アクアトムフェア2005(原子力の日記念イベント) 11月5日(土)~11月6日(日)

≪5日のみ≫
★電気の歴史をたどろう
時 間:1.10:30~ 2.14:30~
場 所:3階サイエンスワークショップ
定 員:各回30名 
講 師:福井高専電気電子工学科 荒川先生
≪6日のみ≫
★花の色素を使った「新型太陽電池」を作ろう
自分の作った太陽電池でメロディーが流れるかな?
時 間:1.10:30~ 2.?14:30~
場 所:3階サイエンスワークショップ
定 員:各回30名
講 師:福井高専電気電子工学科 川本先生
≪5日・6日共通≫
★敦賀工業高校のお兄さんたちと科学工作をしよう!
【5日】ボクシングロボット作り
【6日】ホバークラフト作り
時 間:10:00~
場 所:3階アクアトムギャラリー
定 員:30名(時間内随時受付)
★アクアトムアニメ劇場
鉄腕アトム・ハローキティーのふしぎなみずうみの2本立て
時 間:?11:00~ ?13:00~ ?15:00~
場 所:3階アクアトムホール
定 員:各回86名
※当日10:00から先着順に整理券を配布します。

こちらで参照できます。
http://www.rcn.ne.jp/java/event/detail.jsp?clcd=900003&id=663

◆原子力安全フォーラム2009の開催

村では,来る11月7日(土)に「原子力安全フォーラム2009」を開催します。

JCO臨界事故から10年目の節目である今年,これからの原子力との歩み方はどうあるべきか,原子力との共存共栄のあり方や,国や事業者,住民がどの様な役割りを果たすべきかなどについて皆さんとともに考える機会にできれば幸いです。

第一部のワークショップは事前登録制ですが,第二部のフォーラムは参加自由ですので,皆様ぜひお越しください。

詳細については,添付のチラシ(両面)をご覧ください。

こちらで参照できます。
http://www.vill.tokai.ibaraki.jp/viewer/info.html?id=972

独立行政法人 日本原子力研究開発機構 大洗わくわく科学館

こちらで参照できます
http://www.ibaraki-portal.jp/shops/000196/

◆原子力関連業務人材育成研修 3−1−4 実務研修 非破壊試験技術者(UT1−実技)受験講座 第2回(敦賀)

こちらで参照できます。
http://www.fukui-navi.gr.jp/event_list.php?thm=5

◆放射性廃棄物地層処分に関するシンポジウム「地域と共に歩む、地層処分事業

~スウェーデンの取組から学ぶ~」”開催について

こちらで参照できます。
http://www.enecho.meti.go.jp/info/event/091007a/091007a.htm

10月26日は「原子力の日」
~はがき絵募集~

こちらで参照できます。
http://www.kepco.co.jp/knic/meeting/hagakie.html

その他、イベントが催されているそうです。

いかがでしたしょうか??「原子力の日」。「原子力の日」は、1963年(昭和38年)の今日、茨城県東海村の日本原子力研究所の動力試験炉が日本で初の原子力発電を行った。これを記念して1964年(昭和39年)に政府が原子力の日を制定、原子力について国民の理解を深めてもらおうと様々な行事を行っています。

今日は、10月26日「原子力の日」。皆さんは、どう過ごしますか??

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これは、「日本で初」の歴史的出来事の一つです・・・パート11

続いてです。東海村臨界事故でこの事故をきっかけとして、原子力防災体制の整備を目ざす「原子力災害対策特別措置法」が99年12月に成立、2000年6月に施行されました。

続いては、「原子力災害対策特別措置法」という法律について書いていきたいと思います。

●原子力災害対策特別措置法について

原子力災害対策特別措置法(げんしりょくさいがいたいさくとくべつそちほう)は、原子力災害の特殊性にかんがみ、原子力災害の予防に関する原子力事業者の義務等、原子力緊急事態宣言の発出及び原子力災害対策本部の設置等並びに緊急事態応急対策の実施その他原子力災害に関する事項について特別の措置を定めることにより、核原料物質、核燃料物質及び原子炉の規制に関する法律(昭和32年法律第166号。)、災害対策基本法(昭和36年法律第223号)その他原子力災害の防止に関する法律と相まって、原子力災害に対する対策の強化を図り、もって原子力災害から国民の生命、身体及び財産を保護することを目的として制定された法律である。

原子力災害対策特別措置法

日本の法令
法令番号 平成11年12月17日法律第156号
効力 現行法
種類 法律
主な内容 原子力災害における特別な措置について
関連法令 災害対策基本法、核原料物質、核燃料物質及び原子炉の規制に関する法律など

条文リンク 総務省法令データ提供システム
http://law.e-gov.go.jp/cgi-bin/idxselect.cgi?IDX_OPT=1&H_NAME=%8c%b4%8e%71%97%cd%8d%d0%8a%51%91%ce%8d%f4%93%c1%95%ca%91%5b%92%75%96%40&H_NAME_YOMI=%82%a0&H_NO_GENGO=H&H_NO_YEAR=&H_NO_TYPE=2&H_NO_NO=&H_FILE_NAME=H11HO156&H_RYAKU=1&H_CTG=1&H_YOMI_GUN=1&H_CTG_GUN=1

●構成

・第一章 総則(第1条 - 第6条)
・第二章 原子力災害の予防に関する原子力事業者の義務等(第7条 - 第14条)
・第三章 原子力緊急事態宣言の発出及び原子力災害対策本部の設置等(第15条 - 第24条)
・第四章 緊急事態応急対策の実施等(第25条・第26条)
・第五章 原子力災害事後対策(第27条)
・第六章 雑則(第28条 - 第39条)
・第七章 罰則(第40条 - 第42条)
・附則

●関連項目

・原子力災害
・東海村JCO臨界事故
・防災

原子力災害対策特別措置法についてはこちらでも詳しく参照できます。
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/H11/H11HO156.html

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これは、「日本で初」の歴史的出来事の一つです・・・パート10

続いてです。続いては、1999年9月30日、茨城県那珂郡東海村で、JCO(株式会社ジェー・シー・オー)(住友金属鉱山の子会社)の核燃料加工施設が起こした臨界事故。被曝による死者2名を出した原子力事故である、「東海村JCO臨界事故」について書いていきたいと思います。三k上までです。

●東海村JCO臨界事故について

東海村JCO臨界事故(とうかいむらジェイシーオーりんかいじこ)は、1999年9月30日、茨城県那珂郡東海村で、JCO(株式会社ジェー・シー・オー)(住友金属鉱山の子会社)の核燃料加工施設が起こした臨界事故。被曝による死者2名を出した原子力事故である。

●概要

1999年9月30日、JCOの核燃料加工施設内で核燃料サイクル開発機構の高速増殖実験炉「常陽」向けの燃料加工の工程中に、ウラン溶液が臨界状態に達し核分裂連鎖反応が発生。この反応は約20時間持続した。これにより、至近距離で致死量の中性子線を浴びた作業員3人中、2人が死亡した。

事故は、製品であるウラン溶液(硝酸ウラニル)を均質化する工程で発生した。溶液は本来、中性子が外に抜けやすいよう細長く作られた(形状制限された)「貯塔」で均質化を行う事になっていた。しかし、「沈殿槽」と呼ばれる、ずんぐりした形状で周囲を冷却水のジャケットに包まれた装置を使用したために、発生した中性子による反応の確率が高くなり、臨界状態に至った。

●事故の推移

午前10時35分に、転換試験棟で警報が鳴り、午前11時15分に、臨界事故の可能性ありとの第一報がJCOから科学技術庁(当時)にもたらされた。そして11時52分には、被曝した三人を搬送するため、国立水戸病院に向けて救急車が出発した。東海村による屋内退避を呼びかける広報が始まったのは、12時30分からである。

国際原子力事象評価尺度はレベル4で、周辺の多数の住民が緊急避難を強いられた。テレビでは当時の内閣総理大臣・小渕恵三が周辺住民に向かって外出しないようにと呼びかけた。現地では事故現場から半径350m以内の住民約40世帯への避難要請、500m以内の住民への避難勧告、10km以内の住民への屋内退避/換気装置停止呼びかけ、現場周辺の県道、国道、常磐自動車道の閉鎖、JR東日本の常磐線水戸 - 日立間、水郡線水戸 - 常陸大子・常陸太田間の運転見合わせ、陸上自衛隊への災害派遣要請といった措置がとられた。以上の措置は全て日本で初めてである。10km圏内の屋内退避勧告の発表は午後10時半、解除されたのは翌日午後4時半だった。

JCOのわずか400m北側には常磐自動車道の東海パーキングエリアがあり、ここの利用者も危険にさらされていた。行楽シーズンの昼間であり、常磐自動車道を閉鎖するまでには大勢の観光客が出入りしていたはずだが、この利用者に対する健康調査はおこなわれなかった。

事故原因は、旧動燃が発注した高速増殖炉の研究炉「常陽」用核燃料加工(UF6をUO2粉末に再転換)の中間工程を担うJCOの杜撰な作業工程管理である。JCOが常陽用の燃料を加工するにあたり、国の管理規定に沿う正規マニュアルではなく「裏マニュアル」を運用しており、例えば、原料であるウラン化合物の粉末を溶解する工程では、正規マニュアルでは「溶解塔」という装置を使用した手順だったが、裏マニュアルではステンレス製バケツを用いた手順に改変されていた。事故当日はこの裏マニュアルをも改悪した手順で作業がなされていた。具体的には、最終工程である製品の均質化作業で、臨界状態に至らないよう形状制限がなされた容器(貯塔)を使用するところを、作業の効率化を図るため、別の、背丈が低く内径の広い、冷却水のジャケットに包まれた容器(沈殿槽)に変更していた。

その結果、濃縮度18.8%の硝酸ウラニル水溶液を不当に大量に貯蔵した容器の周りにある冷却水が中性子の反射材となって溶液が臨界状態となり、中性子線等が大量に放射された。これは制御不能の原子炉が出現したようなものである。ステンレスバケツで溶液を扱っていた作業員の一人は、「約16kgのウラン溶液を溶解槽に移している時に青い光が出た」(チェレンコフ光)と語った。「うちが起こした事故はうちで処理しなければならない。」(社長・工場長談)とJCO関係者らが、数回に分けて内部に突入して冷却水を抜き、連鎖反応を止めることにより事故は終息した。中性子線量が検出限界以下になったのが確認されたのは、臨界状態の開始から20時間経った午前6時半だった。水抜き作業等で被曝した人は計18人、その後のホウ酸水注入で被曝した人は6人だった[2]。この事故の現象は戦時中陸軍が行っていた核兵器研究の理論に近いものだった。(日本の原子爆弾開発参照)

●事故被曝者

この事故では3名の作業員が推定1グレイ・イクイバレント以上の多量の放射線を浴びた。そのため、ヘリコプターで放射線医学総合研究所(以下放医研)へ搬送された後、2名は造血細胞の移植の関係から東大病院などに転院し、集中治療がなされた。

16~20グレイ・イクイバレントの被曝をした作業員O(放医研→東大病院)は、造血細胞の移植に失敗、事故から83日後の12月21日に死亡した。この線量は、核爆発時の爆心に匹敵する線量とされる。

6.0~10グレイ・イクイバレントの被曝をした作業員S(放医研→東京大学医科学研究所付属病院→東大病院)は、造血細胞の移植が一定の成果をあげ、一時は警察の本事故捜査員への証言を行うまでに回復した。しかしその後、容態が急変、事故から211日後の翌年4月27日に死亡した。

O、Sの死因はいずれも、放射線被曝による多臓器不全である。

短時間のうちに全身への8グレイ以上の被曝をした場合には、最新の医療でもほとんど手の施しようがない。特に国内では、このような大量の放射線被曝をした患者の治療自体が初めてで、治療に当たった医師団も毎日のように発生する新しい症状に、試行錯誤をしながらの治療だったと証言している。また、最高線量の被曝をした作業員の場合は、細胞の遺伝子が強力な放射線によって破壊され、細胞の再生すら不可能だったとも言われている。

推定1~4.5グレイ・イクイバレントの被曝をした作業員Y(転院なし)は、一時白血球数がゼロになったが、放医研の無菌室において骨髄の治療を受け、回復。12月20日に放医研を退院した。

また臨界状態を収束させるための作業を行った関係者7人が年間許容線量を越える被曝をし、事故の内容を十分知らされずに、被曝した作業員を搬送すべく駆け付けた救急隊員3人の2次被曝が起こった。さらに周辺住民への中性子線等の被曝も起こった。

●日本原子力史上初の刑事責任

この事故では、同時に会社側の刑事責任も問われた。事故から約1年後の2000年10月16日には茨城労働局・水戸労働基準監督署がJCOと同社東海事業所所長の越島建三を労働安全衛生法違反容疑で書類送検、翌11月1日には水戸地検が越島所長の他、加藤裕正同社製造部長、小川弘行計画グループ長、渡辺弘製造グループ職場長、竹村健司計画グループ主任、その他製造グループ副長の6名を業務上過失致死罪、法人としてのJCOと越島所長を原子炉等規制法違反及び労働安全衛生法違反罪でそれぞれ起訴した。なお、製造グループ副長は現場責任を問われたが、現場に居て被曝し、労災認定された。

2003年3月3日、6名に執行猶予付き有罪判決、JCOに罰金100万円の判決がそれぞれ言い渡された。水戸地裁は、「臨界事故を起こした背景には、長年にわたって杜撰な安全管理体制下にあった会社の企業活動において発生したものであり、その安全軽視の姿勢は厳しく責められなければならない」とし、さらに、「臨界に関する全体的な教育訓練はほとんど実施されておらず極めて悪質」と判断した。

●事故の影響

この事故の結果、JCOは加工事業許可取り消し処分を受け、ウラン再転換事業の廃止を余儀なくされた。管理側の事故隠し体制が明らかになり、原子力不信を招いた事件としても知られる。2003年3月3日の水戸地裁の判決はJCO側の敗訴だった。裁判の過程で科学技術庁の安全審査体制、及び発注者である旧動燃の要求の正当性に強い疑問が提示されている。

この事故は国際的にも有名になり、同年10月12日に水戸芸術館にて開催が予定されていたソプラノ歌手バーバラ・ボニーの水戸リサイタルが中止された原因とされている。また、農産物への風評被害があったとして東海村の農家がJCOに損害賠償を請求した。

小渕首相は事故翌日の10月1日に内閣改造を行う予定だったが、事故を受けて延期。10月5日に改造を行った。

日本の原子力産業で初めて死者が出たことや、核物質に対する理解が乏しかった1940年代から1950年代に頻発したものと同じ臨界事故であることなどから、各マスコミも「安全神話が崩れた」などとさかんに報道した。

この事故を受けて、保安規定の遵守状況の国による確認、定期検査、主務大臣または原子力安全委員会への申告制度(いわゆる内部告発)が導入された。

当時の陸上自衛隊は災害派遣要請に基づき対処を行った。その後、同年12月に原子力災害対策特別措置法が制定されたことを受け自衛隊法を改正、自衛隊の行動区分において「災害派遣」とは自然災害による派遣と定義づけ、原子力事故に起因する災害派遣は新たに「原子力災害派遣」を設け、別個のものとして対処することとなった。

●脚注

1. JCOにおける臨界事故の経緯について
http://www.mext.go.jp/a_menu/kagaku/shisaku/jco/uranc.htm
2. 一時滞在者及び防災業務関係者等の線量評価の結果について
http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/12/10/001023a.htm
3. REMネット
http://www.remnet.jp/lecture/words2003/02067.html
4. 中止告知 水戸芸術館ホームページ
http://www.arttowermito.or.jp/music/bonny99j.html
5. 風評被害による損害賠償詳細 茨城県議会議員井手吉弘のホームページ
http://www.jsdi.or.jp/~y_ide/991020jco_tokai2.htm

●参考書籍

・『JCO臨界事故と日本の原子力行政―安全政策への提言』JCO臨界事故総合評価会議(七つ森書館)
・『JCO臨界事故その全貌の解明―事実・要因・対応』日本原子力学会JCO事故調査委員会(東海大学出版会)
・『恐怖の臨界事故』原子力資料情報室(岩波書店)
・『朽ちていった命―被曝治療83日間の記録』(新潮社)

●外部リンク (こちらは参考までです)

・日本原子力学会
http://www.aesj.or.jp/
・JCO臨界事故総合評価会議(原子力資料情報室)
JCO臨界事故総合評価会議について
http://cnic.jp/jco/jcac/
原子力資料情報室について
http://cnic.jp/
・JCOウラン加工工場での臨界事故(JST失敗知識データベース)
htJSTtp://shippai.jst.go.jp/fkd/Detail?fn=0&id=CC0300004&
JST失敗知識データベースについて
http://shippai.jst.go.jp/fkd/Search

・東海村JCO 臨界事故(よくわかる原子力)
http://www.nuketext.org/jco.html
よくわかる原子力について
http://www.nuketext.org/index.html
・東海村臨界事故 被曝治療83日間の記録(岩波書店) - 概要
・「Tokaimura criticality accident, Japan」 - Encyclopedia of Earthにある「東海村JCO臨界事故」についての項目(英語)。
http://www.eoearth.org/article/Tokaimura_criticality_accident,_Japan

◆東海村臨界事故(とうかいむらりんかいじこ)についてはこちらでも詳しく参照できます。
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E6%9D%B1%E6%B5%B7%E6%9D%91%E8%87%A8%E7%95%8C%E4%BA%8B%E6%95%85/

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これは、「日本で初」の歴史的出来事の一つです・・・パート9

続いてです。続いては、「原子力基本法(げんしりょくきほんほう)」というものについて書いていきたいと思います。参考までです。

■原子力基本法(げんしりょくきほんほう)■

.原子力の研究、開発、利用を推進することによって、将来におけるエネルギー資源を確保し、学術の進歩と産業の振興を図り、もって人類社会の福祉と国民生活の水準向上とに寄与することを目的とし、1955年公布(昭和30年法律186号)された。「基本方針」として、「原子力の研究、開発及び利用は、平和の目的に限り、安全の確保を旨として、民主的な運営の下に、自主的にこれを行うものとし、その成果を公開し、進んで国際協力に資するものとする」と規定し、いわゆる「原子力三原則」(民主、自主、公開)を明確にし、世界唯一の原爆被害国で平和国家として出発した国として、原子力を核兵器などの軍事目的に利用することを禁止した。さらに、原子力基本法では、「原子力」等の用語の定義、原子力委員会及び原子力安全委員会、原子力の開発機関、原子力に関する鉱物の開発取得、核燃料物質の管理、原子炉の管理、特許発明等に対する措置、放射線による障害の防止、補償についての基本的な事項などを定めている。

その後、原子力に関する法律は各分野にわたって整備され、次のような原子力法体系が構成されている。

(1)基本法 原子力基本法。

(2)組織法 原子力委員会及び原子力安全委員会設置法(1955)。

(3)研究開発促進機関法 独立行政法人日本原子力研究開発機構法(2004)。

(4)規制法 核原料物質、核燃料物質及び原子炉の規制に関する法律(原子炉等規制法と略称。1957)、放射性同位元素等による放射線障害の防止に関する法律(放射線障害防止法と略称。1957)、放射線障害防止の技術的基準に関する法律(1958)。

(5)損害賠償法 原子力損害の賠償に関する法律(1961)、原子力損害賠償補償契約に関する法律(1961)。

(6)立地促進法、いわゆる電源三法 発電用施設周辺地域整備法(1974)、電源開発促進対策特別会計法(1974)、電源開発促進税法(1974)。

原子力利用の実用化が進んでいるものとして原子力発電がある。2005年(平成17)現在、54基の発電用原子炉が運転中で、総発電量のおよそ30%が原子力発電である。原発の建設に関連する法律は30以上あり、電気事業者が受けるべき許可・認可・免許、同意等の数は60以上に及び、通常でも、立地点の選定から運転開始までに9年以上を要するといわれる。国のエネルギー政策に基づく原発の建設については、核アレルギー、原発の安全性、環境保護などの見地から、地元住民の反対が根強く、建設用地の確保はきわめて困難である。さらに、原子炉の老朽化も進み、運転を終了した原子力発電所の解体撤去が必要となっている。東海発電所(日本原子力発電)は2001年(平成13)から廃止措置に取り組んでおり、新型転換炉「ふげん」(日本原子力研究開発機構)は1998年に廃炉が決定し、2003年には運転を終了するなど、いまや日本も廃炉時代に入ったといえる。

原子力法の基本目的としては、原子力の軍事目的利用の禁止だけではなく、原子力の危険、放射線および原発の解体廃棄物の有害な作用から、国民の生命、健康、財物を防護することを明確に規定する必要があるといえよう。

 参考文献
1.下山俊次著「原子力」(『現代法学全集54 未来社会と法』所収・1976・筑摩書房)

2.科学技術庁原子力安全局監修『原子力規制関係法令集'98年版』(1998・大成出版社)

原子力基本法についてはこちらでも詳しく参照できます。
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S30/S30HO186.html

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これは、「日本で初」の歴史的出来事の一つです・・・パート8

続いてです。続いては、「原子力発電(げんしりょくはつでん)」について書いていきたいと思います。「原子力発電(げんしりょくはつでん)」から「新型炉の建設」まで書いていきます。参考までです。

■原子力発電(げんしりょくはつでん)

核分裂反応によって生ずるエネルギーを利用して発電を行うこと。原子炉で発生した熱を電気に変換するためには蒸気タービンが用いられている。このほかにもたとえば、高温ガス炉とガスタービンの組合せや、イオン性流体を用いた直接発電などが研究されているが、実用には至っていない。したがって今日の原子力発電所は、火力発電所のボイラー部分を原子炉で置き換え、これに放射性物質の処理施設などを付置することによって構成されているとみることができる。このように、原子力発電は既存の火力発電の技術を大幅に取り入れることによって、短期間に実用化され、また大型化を遂げるに至ったが、材料の開発、既存の技術との結合・消化が十分とはいえず、放射性廃棄物の最終処分とあわせて、多くの技術的問題を抱えていることも否定できない。一例をあげるならば、60万キロワットの大型火力発電所においてはタービン入口での蒸気温度は550℃で、熱効率は約40%に上っている。一方原子力発電においては、100万キロワットの加圧水型を例にとると、蒸気温度275℃、熱効率は34%と低い。熱公害および資源の有効利用の観点から検討を要する点となっている。

軽水型発電炉の原理〔図〕
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E5%8E%9F%E5%AD%90%E5%8A%9B%E7%99%BA%E9%9B%BB/%EF%BC%BB%E7%94%BB%E5%83%8F%EF%BC%BD/00081658000701/

1. 歴史と現状

原子力発電は1950年代の初期、軍事技術の転用という形でスタートした。イギリスは、1953年コールダーホール型発電炉の建設計画を発表し、56年運転を開始したが、これは原爆用プルトニウム生産と発電という二重の目的をもった原子炉であった。一方アメリカは、以前から原子力潜水艦用動力炉の開発を進めており、1954年第一号原子力潜水艦ノーチラス号が進水した。同時に、これを陸揚げした形で出力10万キロワットのシッピングポート原子力発電所の建設に着手し、58年運転を開始した。ソ連は1954年5000キロワットのオブニンスク原子力発電所の運転を開始し、原子力発電という点では米英に先駆けている。日本においては、1957年(昭和32)イギリスのコールダーホール炉の導入が決定され、茨城県東海村に建設され、65年運転を開始した。このころ、ウェスティングハウス社やゼネラル・エレクトリック社などのアメリカの企業からの軽水型発電炉の激しい売り込みがあり、電力各社はこれらの導入を発表した。こうして70年に敦賀(つるが)1号や美浜(みはま)1号が運転を開始し、これ以降各地に次々と原子力発電所が建設されてきた。

発電用原子炉は、用いられる核燃料物質の種類、核反応の媒介となる中性子のエネルギーの大小(高速中性子か熱中性子か)、さらに中性子を減速する材料や発生した熱を取り出す材料(冷却材)などの選択によってその基本的な構成が定まる。以下にその代表的なものをあげよう。今日、アメリカ、日本、ドイツなどで広く用いられている軽水炉は、燃料として低濃縮ウラン(天然ウラン中に約0.7%含まれている核分裂性の核種ウラン235の濃度を3%程度まで濃縮したもの)を用い、減速材兼冷却材として普通の水(軽水)を利用する。カナダで開発されたCANDU(キャンドゥー)炉は、燃料として天然ウラン、減速材として重水を使用する。同炉には冷却材として軽水を用いるもの(BLW型)と重水を用いるもの(PHW型)の2種類がある。ソ連で開発されたチャンネル型炉は、減速材に黒鉛、冷却材に軽水が用いられる。冷却材として気体を用いるものもあり、その典型はイギリスで開発されたコールダーホール炉で、燃料は天然ウランまたは低濃縮ウランを用い、減速材は黒鉛、冷却材には炭酸ガスが使用されている。以上はすべて発生した中性子を減速して用いる炉であり、基本的には天然ウラン中に1%弱含まれているウラン235だけしか燃やすことはできない。これら熱中性子炉が資源浪費型の原子炉といわれるゆえんである。高速中性子を用いるいわゆる増殖炉では、天然ウラン中に99%存在するウラン238をプルトニウムに転換して燃料とすることができるが、現在のところ技術的にも困難な面が多く実用に至っていない。

2. 軽水型発電炉

図に示すように軽水炉は冷却システムの違いにより、沸騰水型炉(BWR; Boiling Water Reactor)と加圧水型炉(PWR; Pressurized Water Reactor)の二つに分類される。前者では、原子炉内の冷却水は蒸気となり直接タービンへと供給される。炉内の温度・圧力は290℃、70気圧程度である。一方後者においては、炉内で熱せられた水(一次冷却水)は蒸気発生器(熱交換器)を通じて別系統の水(二次冷却水)に熱を与え、水蒸気としてタービンを回す。一次冷却水は沸騰することなく高温(343℃)化するため160気圧程度の高い圧力が加えられている。

BWRの圧力容器は、水を沸騰させるボイラーにあたるものであり、ステンレスで内張りした肉厚の炭素鋼によってつくられている。容器の中央部には炉心があり、ここに多数の燃料集合体が置かれ、核分裂反応によって熱を発生する。核反応は、燃料集合体4個に1個の割合で置かれた制御棒(中性子を吸収するホウ素化合物を十字型のステンレス容器に封入したもの)の上下動によって制御される。圧力容器内の下部にはジェットポンプがあり、炉内の冷却水を強制的に循環させる。圧力容器内上部には気水分離器があり、これによって湿分を除去された蒸気は、高圧タービン、ついで低圧タービンへと送られ、さらに復水器に入り、ここで海水などによって冷却される。復水は放射能や不純物を除去する脱塩器、ついで給水加熱器を経て、ふたたび圧力容器内へと戻る。圧力容器全体はドライウェルと称する格納容器内に置かれる。ドライウェルは、圧力容器が破断し、高温・高圧の蒸気が噴出した場合、これを凝縮させて圧力を抑制するサプレッション・チェンバー(またはプール)と結合している。原子炉の補助設備としては、原子炉停止後の崩壊熱(核反応が停止しても放射線発生に伴って生ずる熱)を除くための残留熱除去系、冷却水の不純物を除去するための冷却材浄化系、冷却材喪失事故(LOCA)時のための工学的安全装置である非常用炉心冷却系(ECCS)および格納容器スプレー系などがある。このほかに、燃料交換施設および使用済み燃料貯蔵プール、放射性廃棄物処理施設、中央制御室をはじめとする制御系統、タービン系統、非常用電源などをあわせて、一つの発電所が成立している。

PWRの原子炉は、BWRと比較して、内部にジェットポンプなどの構造物がなく、簡単になっている。また寸法も小さい。制御棒は、BWRの場合下部から挿入されるのに対し、PWRでは上部から挿入される。またPWRでは、銀‐インジウム‐カドミウム合金よりなる棒状の要素が燃料集合体中の案内管を上下する方式が採用されている。圧力容器内で熱せられた一次冷却水は、蒸気発生器へ入る。蒸気発生器内には、高ニッケル合金(インコネル)製の蒸気細管(外径約2センチメートル)が数千本取り付けられており、この細管壁を通じて熱は二次側へと伝えられる。こののち一次冷却水は圧力容器へと戻るが、このように一次系が閉じているので、核反応抑制のためのホウ酸や、腐食防止のための水素ガスなどを一次冷却水に添加することが行われている。またPWRの場合は一次側の水が沸騰しないようにつねに一定の圧力を加えなければならないが、この圧力の制御は、加圧器内の電熱器に通電することによってなされる。原子炉補助設備などは、一次系の水質を制御する化学・体積制御設備を除いてはBWRとほぼ同じである。

原子力発電所の運転は中央制御室(コントロール・ルーム)で行われる。制御室には原子炉の出力を表す信号、冷却材の圧力、流量、温度、液位を表す信号などが集中しており、これに基づいて原子炉の制御を行う。また緊急時には各種の原子炉保護装置が作動する。たとえば、一定程度以上の地震を検出器が感知すると、自動的に制御棒が挿入されて、核反応は緊急停止する(スクラムとよぶ)。

原子力発電所の運転に伴って、放射性のガス、冷却水の漏れや洗濯・除染廃液、さらに使用済みのイオン交換樹脂、フィルター・スラッジなど各種の放射性廃棄物が発生する。これらの処理のため、放射性廃棄物処理施設が置かれている。現在、極低レベルの廃液は環境に放出されるが、それ以外の廃液は濃縮されてアスファルトを混ぜ、固体廃棄物とともにドラム缶詰めをして敷地内の保管場所(グレーブ・ヤード)内に貯蔵される。年間このようなドラム缶が5000本近く発生する。一定程度(2万5000~3万メガワット・日/トン)「燃やされた」燃料は使用済み燃料貯蔵用プールに貯蔵され、その後特別な輸送用キャスクに詰められて再処理工場へと送られる。

放射線による人体への被曝(ひばく)を防ぐため、法令により放射線管理区域および周辺監視区域が定められている。すなわち、発電所における各施設建屋(たてや)ごとに管理区域が設定され、その立ち入りにあたっては被曝線量測定のためのフィルムバッジなどを着用し、さらに退出時には、ホールボディカウンターなどで汚染の有無をチェックすることになっている。周辺監視区域としては発電所の敷地があてられることが多い。

3. 原子力発電の安全性

原子力発電の安全性は平常時および事故時の二つに分けて考えられる。平常時に関しては、原子力発電所だけではなく、たとえばウラン採鉱時における被曝や、再処理工場からの、1日8000キュリーにも及ぶ希ガスの放出、放射性廃棄物の処理処分などを含む、トータルシステムとしての原子力発電の安全性が考慮されなければならない。紙数の関係もあり、ここではおもに原子力発電所の事故時の問題について述べる。原子力発電所の安全性が重要視されるのは、原子炉内に莫大(ばくだい)な量の放射能およびエネルギーが発生し、たとえ核反応が停止しても、これらは引き続き存在し、巨大な潜在的危険性を形づくるからである。たとえば1年間運転した電気出力100万キロワットの原子炉の中には、放射性ヨウ素だけでも数千万キュリーが蓄積するが、これは国際放射線防護委員会によって定められた甲状腺(せん)に対する「最大許容身体負荷量」の約100兆倍にも相当するものである。したがって、万一、事故が発生した場合、炉内の放射能をいかに環境に漏らさないようにするか、住民が被曝しないようにするかが、安全を考えるうえでの基本になっている。原子力開発のごく初期においては、安全を保障するための手段は広い敷地をとることであった。しかし、その後、原子炉が大型化し、経済的理由から原発の都市接近が図られるようになると、非常用炉心冷却装置(ECCS)などに代表されるいろいろな安全装置が付加され、これによって立地基準の緩和が図られてきた。ECCSとは、万一、圧力容器の配管などが破断して炉内の冷却水が流出し(冷却材喪失事故)、炉心の温度が上昇するようなことがあっても、これが作動して注水し、炉心の破壊や溶融が生じないようにするという装置である。

一方、開発が進むにつれて、原子炉の設計や安全審査を行うための安全概念がいろいろ提起されてきた。たとえば「多重防護」「単一故障指針」「設計基準事故」「低人口地帯」などがこれである。「多重防護」とは、(1)品質管理などを厳重にして故障が起こらないようにする、(2)故障が発生してもこれを大事故に発展させないための対策(たとえばECCS)、(3)事故の拡大を防止する対策(格納容器など)、の三重の壁からなっているとされる。さらに安全審査に際しては「重大事故」、「仮想事故」(設計基準事故ともいう)の考え方がとられるが、これは「技術的見地から起こると考えられないような事故を想定して、その際にも敷地の外側の人が受ける被曝線量は十分小さいようにする」という考え方である。

以上のように少なくとも設計上は安全性が確保されているはずの原子力発電に対して、その安全性が疑問視され、論争が行われてきた最大の理由は、現実に原子力発電所において、さまざまな事故・故障が発生してきたからであった。事故の原因は、機器の故障、設計不良、誤操作など多岐にわたっているが、その典型的な例として、圧力容器内壁や配管などの応力腐食割れ、蒸気発生器細管の減肉、ペレット被覆管相互作用による燃料被覆管の破損など、原子炉を構成している材料の欠陥に基づくトラブルをあげることができる。とくに応力腐食割れは、これを修理するために発電所の稼動率の低下をきたし、また補修作業が強放射線下で行われるために、従事する労働者(とくに下請労働者)の被曝を増大させ、社会的な問題となってきた(ただし、最近では、運転方法に制限を加えたり、材料の改善を行うことにより、稼動率は上昇している)。また事故に際して重要な役割を果たすはずのECCSについては、アメリカで行われたLOFT実験と称する模擬的な実験の結果、その有効性について疑問が提出された。このような技術的問題を抱える原発で大事故の発生する確率はどの程度であろうか。1974年アメリカのラスムッセンNorman Rasmussenは、フォルト・トリーといった手法を用いて事故発生の確率を計算し(ラスムッセン報告)、原子炉事故による危険性は、隕石(いんせき)の落下によって生命を失うほど確率的に小さいものであると発表した。しかしこの結論は多くの学者によって強く反論されている。

1979年3月28日、アメリカ、ペンシルベニア州スリー・マイル島(TMI)で発生した事故は、炉心溶融(チャイナ・シンドローム)という最悪の事態になる可能性も一時は考えられ、文字どおり世界を震撼(しんかん)させたが、同時に重大な教訓をわれわれに与えた。事故によって環境に放出された放射能は数百万キュリーに上り、これは、「技術的に起こりえない」とされている「仮想事故」の場合の規模をはるかに上回るものであった。半径5マイル以内の妊婦と児童の避難が行われた。原子炉は完全に使用不能となり、経済的損失は10億ドルを上回るとされている。事故に関する大統領特別調査委員会の報告(ケメニーJohn G. Kemmeny報告)は、安全であると「過信」することこそ、もっとも危険な態度であるとし、行政のあり方に厳しく批判を加え、「もし企業や行政担当者が抜本的に態度を改めないならば、彼らこそが有用なエネルギー源としての原子力を手離す責任を負うことになる」と結論づけた。初めに述べたように、原子力はきわめて短期間に急成長を遂げた技術である。実証的な安全性を確認したうえで開発を進めないならば、ケメニー委員会のこの指摘はまさに現実のものとなるであろう。

1986年4月26日、当時のソ連・ウクライナ共和国にあるチェルノブイリ原子力発電所4号炉において、原子炉の暴走により原子炉が爆発炎上し、原子炉内部に蓄積した放射能の5%程度、約1億キュリーの放射能が環境に放出されるという原子力開発史上最大最悪の事故が発生した。この事故で直接、被曝や火傷などにより32人の人命が失われ、子供の甲状腺癌(がん)を含む多くの放射線障害が発生した。事故当時周辺30キロメートル圏内の住民13万5000人が避難したが、放射能の影響は風下側にあたるベラルーシをはじめとしてヨーロッパ全土に及んだ。チェルノブイリ原子力発電所は黒鉛減速・軽水冷却圧力管チャンネル型とよばれるもので、現在広く用いられている軽水炉とは形式を異にしているが、いったん巨大事故が発生した場合いかに深刻な被害が生じるかをまざまざと見せつけられた事故であった。

1999年には東海村臨界事故が発生、大量被曝した作業員2人がその後、相次いで死亡するなど、日本の原子力発電史上最悪の事態となり、その安全性に対する社会的な信頼も大きく揺らぐこととなった。また、2007年に起きた「平成19年(2007年)新潟県中越沖地震」で、新潟県の東京電力・柏崎刈羽(かしわざきかりわ)原子力発電所が被災、この地震により変圧器の火災や、大気中や海中に周辺環境には影響を与えない程度の微量の放射性物質漏れが発生した。その後原発設計当時の周辺断層の評価が適切に行われていたかどうかが問題となっている。

4. 老化と事故

スリー・マイル、チェルノブイリ両原発事故の後、世界各国の、とくにアメリカの原発建設が低迷しているなかで、日本では依然として高い成長率を誇っている。一方、初期に運転を開始した炉の寿命が近づいており、これをどのように処置するかという廃炉問題もクローズアップされてきた。とくに加圧水型炉(PWR)では、運転中の中性子の照射によって圧力容器が脆(もろ)くなる(照射脆化(ぜいか))という現象が生じ、寿命末期では脆くなる限界の温度(脆性遷移温度)が上昇する。この温度以下でたとえば緊急炉心冷却(ECCS)水が入るなどして圧力容器に熱衝撃が加わると、圧力容器の破壊といった重大な事故が起こりかねないことが指摘されている。

1991年2月、美浜(みはま)2号炉で蒸気発生器の細管が破断し、炉内の一次冷却水が減少してECCSが作動するという大きな事故が発生した。それ以前にも蒸気発生器はたびたび細管の破断を起こしており、結局同炉を含む8基のPWRが蒸気発生器を交換することとなった。

このほか大きな事故としては、沸騰水型炉(BWR)の再循環ポンプのたび重なる破損や、浜岡1号炉の圧力容器の底を貫いて入っている計測用の管(インコアモニタ・ハウシング)の溶接部の応力腐食割れなど、重大な事態に発展しかねない事故が発生している。

5. 新型炉の建設

新設される原子炉の多くは、APWR、ABWRとよばれる(Aはadvancedの略)改良型であり、ABWRで出力135万キロワットとなるなど、いっそうの大型化が図られている。またABWRでは再循環ポンプが圧力容器内に収められている。一方、なにか異常が発生しても放置しておけば事態は安全なほうへと推移して重大な事故は生じないという特性をもつ炉、固有安全炉の提案もなされているが、現在の軽水炉への批判と受け取られることを嫌って、あまり研究・開発は進んでいない。

◆マルチメディアデータ

軽水型発電炉の原理〔図〕
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E5%8E%9F%E5%AD%90%E5%8A%9B%E7%99%BA%E9%9B%BB/%EF%BC%BB%E7%94%BB%E5%83%8F%EF%BC%BD/00081658000701/

 参考文献
1.中島篤之助・安斎育郎著『日本の原子力発電』(1974・新日本出版社・新日本新書)

2.武谷三男編『原子力発電』(1976・岩波新書)

3.通産省資源エネルギー庁編『原子力発電便覧』(1982・電力新報社)

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これは、「日本で初」の歴史的出来事の一つです・・・パート7

続いてです。続いては、「原子力の利用」について書いていきたいと思います。「原子力の利用」から「放射線とラジオ・アイソトープの利用」まで書いていきます。参考までです。

5. 原子力の利用

◆核拡散問題

原子力技術の開発が軍事利用から始まった歴史が示すように、いわゆる平和利用技術の世界的拡散は必然的に核情報と核分裂性物質の拡散を意味する。核兵器保有国もアメリカ、ロシア、イギリス、フランス、中国の5か国のほか、1974年にインド、98年にはインドとパキスタン、2006年には北朝鮮(朝鮮中央通信が発表)が相次いで核実験を行うなど増加しつつある。1970年にアメリカとソ連(当時)の合意のもとに核拡散防止条約Non-Proliferation Treaty of Nuclear Weapons(NPTと略)が成立し、およそ120か国が加盟するに至った。しかし同条約は一方で核兵器保有国に核軍縮の実行を義務づけてはいるものの、米ソ間の核軍拡競争(核兵器の垂直拡散)はとどまるところを知らず、他方では核拡散(水平拡散)のおそれがあるとして非核兵器国の原子力平和利用にさまざまな制限を設ける結果となるという大きな矛盾を内包している。加盟国は核物質の計量管理制度を設けるとともに、国際原子力機関の査察を受け入れることなどを内容とする保障措置協定を締結する義務を負わねばならない。しかし1974年インドの行った核爆発実験はNPTの有効性に疑問を抱かせることとなり、とくにアメリカの受けた衝撃は大きかった。その結果アメリカの核不拡散政策は著しく強化され、とくにカーター政権時代になると核不拡散法が国内法として制定され、核物質や核技術の輸出に強い規制が加えられるとともに、高速増殖炉計画の中止や商業再処理の禁止などが各国に呼びかけられた。アメリカの提供する濃縮ウランを再処理する場合にはアメリカの同意が必要という日米原子力協定の条項を盾に、動力炉・核燃料開発事業団(のちの核燃料サイクル開発機構、現日本原子力研究開発機構)の再処理工場の運転をめぐって日米間で長期にわたる核燃料交渉が行われるに至ったのもそのためである。また核燃料サイクルを核拡散防止の観点から国際的に評価し直すことを目的として、国際核燃料サイクル評価会議International Nuclear Fuel Cycle Evaluation(INFCE)が1977年から80年2月にかけて開かれ、最終的には59か国、6国際機関が参加した。その結論は玉虫色の典型ともいうべき内容であるが、保障措置の改良や強化、プルトニウム貯蔵や使用済み核燃料管理などの新国際制度を設けることなどがうたわれている。

このほか核関連物質・資材などの非核兵器国への輸出に際して適用される規制規準として1975年にロンドン・ガイドラインが決められた。また核物質防護(フィジカル・プロテクション。PPと略)条約が80年3月に署名のため開放され、日本は1988年(昭和63)11月に加入した。

核軍拡を放置したままのNPT体制、ひいては原子力平和利用の矛盾は深まる一方である。

◆放射線とラジオ・アイソトープの利用

原子力の発電以外への応用として重要な分野は放射線やラジオ・アイソトープ(RI)の応用である。原子炉を用いてさまざまのRIやコバルト60などの放射線源などを大量廉価に生産できるようになったからである。1999年末の統計でRIまたは放射線発生装置の使用事業所数は5046か所に上っている。RIの使用形態は密封RIと非密封RIとに分けられる。前者ではニッケル63やトリチウム3などがガスクロマトグラフの検出器などに利用されている例のような計測的用途や、遠隔照射医療装置やレベル計用のコバルト60などの線源としての用途がおもなものである。その他の重要な密封RIは、55Fe, 57Co, 85Kr, 90Sr, 109Cd, 125I, 137Cs, 147Pm, 170Tm, 192Ir, 196Au, 241Am, 252Cfなどである。これに対し非密封RIで使用量のもっとも多いのはテクネチウム99mである。核医学的にもっとも広く利用される核種で、親核種であるモリブデン99ジェネレーターとして市販され、病院内で娘(むすめ)核種であるテクネチウム99mを抽出・製剤化して用いられる。国内で使用されているRIの大部分はイギリス、アメリカ、フランス、カナダなどからの輸入品であるが、日本でも5%程度が生産されている(1999年度)。金額的には核医学用の医薬品で全体の約90%、600億円近くを占めている(1999年度)。核医学利用を大別すれば、RIをトレーサーとして体内に投与し、体外から特定臓器などの機能や形態を調べるインビボin vivo使用法と、抗原抗体反応の特異性を利用するラジオイノムアッセイ、すなわち血中や尿中の微量物質を体外で、試験管中で分析するインビトロin vitro使用法とになる。また、最近、直線加速器、シンクロトロン、サイクロトロン、ベータトロンなどの加速器が悪性腫瘍(しゅよう)の治療などに広く用いられつつある。またCT技術Computed Tomographyと結合させたポジトロンCT診断、密封RI線源をX線源のかわりに用いるCTでの樹木の年輪の測定など、さまざまの興味ある応用が展開されている。

放射線の利用としては、ジャガイモ、タマネギなどの発芽防止のための照射利用や、注射筒・針などの照射滅菌が実用上重要なものである。放射線のエネルギーを高分子化合物の合成や改質などに利用する放射線化学の分野は、研究としては重要であるにもかかわらず、工業的には他の方法を凌駕(りょうが)することが困難で、当初の期待とは反する状況にある。

 参考文献
1.NHK取材班著『原子力――秘められた巨大技術』(1982・日本放送出版協会)

2.安斎育郎編『図説原子力読本――これでいいのか原子力開発』(1979・合同出版)

3.法貫四郎他監修『原子力ハンドブック』(1976・オーム社)

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これは、「日本で初」の歴史的出来事の一つです・・・パート6

続いてです。続いては、「原子力発電の現状」について書いていきたいと思います。「原子力発電の現状」から「TMI原発事故 」まで書いていきます。参考までです。

4. 原子力発電の現状

◆世界の原子力発電

1997年12月末の世界の原子力発電所は、運転中のものだけで429基、3億6470万キロワットの設備容量に達している。建設中、計画中のものを含めれば、総計523基、4億3913万キロワットに達する。原子力発電所を運転している国は30か国であるが、発注済みおよび計画中を含めれば39か国に達している。これらの原子力発電所で使われている原子炉の形式を表に、炉型別の設備容量の割合を図Aに示す。世界の割合をみると、加圧水型炉(PWR)と沸騰水型炉(BWR)をあわせた軽水炉が全体の約87%を占めていることがわかる。軽水炉がこのように現在の原子力発電の主流を占めるに至った理由は、(1)使い慣れた水(軽水)を冷却材および減速材として使用しているために構造が比較的簡単であること、(2)電気出力のわりにプラントが小型であること、(3)核燃料をはじめ部品が標準化、規格化され、量産化によるコスト低減が達成されたこと、(4)原子炉以外の発電関係機器に従来の石油火力発電技術を利用しやすかったこと、などであろう。こういう特徴は核燃料として濃縮ウランを使用することによって初めて可能となったものであるが、これは反面、ウラン資源浪費型ともいえる炉形式である。たとえば電気出力100万キロワットの軽水炉を70%の稼動率で30年間動かすのに必要なウラン量は、燃焼率3万メガワット・日/トンとしても天然ウラン換算4260トンとなるが、CANDU(キャンドゥー)炉などの重水炉ならば、7000メガワット・日/トンの燃焼率として2650トンで足りることになる。また原子炉でプルトニウムが生成する割合(転換比)も低く、0.5以下である。にもかかわらずこの炉型が主流となった理由は、炉工学的に使いやすい低濃縮ウランの供給が、アメリカの軍事生産の過剰能力によって保証されたという点に求められる。

◆軽水炉型以外の原子力発電

マグノックス炉はイギリスで初期に開発された方式で、核燃料被覆管にマグネシウム合金を使っているのでこの名がある。AGR(改良型ガス炉)はその改良型で、濃縮ウラン燃料・ステンレス被覆となっている。黒鉛減速・軽水冷却方式は旧ソ連で開発され、圧力容器のかわりに圧力管が使われている(チャンネル型ともいう)。重水炉としてはカナダで開発されたCANDU炉がある。日本が新型動力炉開発計画の一つとして開発した新型転換炉は重水減速であるが、冷却には軽水を使う方式であった。高温ガス冷却炉は核エネルギーを発電のみならず、製鉄、化学工業などの熱源に直接利用する目的で開発されつつある炉形式で、アメリカ、ドイツなどで運転されている。日本でも出口温度1000℃を目ざして研究が続けられ、日本原子力研究所大洗(おおあらい)研究所(現、日本原子力研究開発機構大洗研究開発センター)において、1998年(平成10)11月10日に高温工学試験研究炉(HTTR)が初臨界を達成、高温ガス炉の基盤の確立、高温工学に関する基礎研究が行われている。

◆核燃料サイクル

原子炉を中心に、核原料物質の採鉱に始まり、放射性廃棄物の処理・処分に終わる「核燃料のライフ・サイクル」ともいうべき一連の段階を核燃料サイクルという(図B)。原子力発電をエネルギー産業として考える場合には、核燃料サイクルの全体について考察する必要がある。さまざまな核燃料サイクルが構想されているが、当面現実化しつつあるのはワンス・スルー・サイクル(1回限りのサイクル)だけで、これとても放射性廃棄物の処理・処分の見通しが確定したわけではない。以下に各段階の問題点を要約しておく。

(1)ウランの採鉱と精錬 『ウラン―資源と需給に関する報告』1999年版(経済協力開発機構原子力機関=OECD/NEAが2年ごとに刊行)によれば、ウランの確認資源量は324万5000トンで、内訳はKgU(キログラム・ウラン)当り80ドル以下の資源が251万5000トン、KgU当り80~130ドルのものが73万トンとなっている。この数字は、軽水炉などのワンス・スルー・サイクルだけで消費されるとするなら、石油資源よりも小さい資源であることを意味する。資源の大部分を占めるウラン238をプルトニウムに変換する増殖炉サイクルが完成してのち、石炭に匹敵する大きさの資源になるであろう。ウランの採鉱は、原子炉の重大事故の場合を除けば、核燃料サイクル中最大の放射線障害を人間に与える可能性がある。それは採鉱に伴うラドンの放出や、尾鉱(選鉱くず)の蓄積に基づく放射線障害などがその原因となる。核燃料サイクルで、たとえば100万キロワットの電気出力のPWR炉(加圧水型原子炉)の年間取替え燃料28トンを得るには、181トンの天然ウランが濃縮工場の原料として必要であり、そのためには10万トン以上の鉱石の採掘が必要である。同出力の石炭焚(だ)き火力発電所の年間石炭所要量はほぼ400万トンであるので、核燃料の重量利得は40倍程度にとどまることに留意すべきである。

(2)ウラン濃縮 核兵器製造用に開発された巨大な濃縮能力が軽水炉を原子力発電の主流とした理由である。おもにガス拡散法が用いられていたが、遠心分離法が主流となりつつある。また、化学交換法、レーザー法などの新方法が急速に開発されつつある。これらはいずれも核拡散に直結する技術であることに注目する必要がある。

(3)核燃料再処理 PWRの使用済み核燃料の組成は、96%が燃え残りウラン(濃縮度は0.8%以上)、約1%がプルトニウム、約3%が核分裂生成物である。この三つの部分を分離するのが再処理の工程である。歴史的にはプルトニウムを抽出するために開発された工程であるため核拡散に直結していることになる。しかし原子力が未来のエネルギー資源となるためには増殖炉燃料の再処理を含む技術の確立が必要となるであろう。しかし現在は、軍用あるいは低燃焼度のガス炉燃料などを除き、軽水炉の商業用再処理は、技術的に未確立で、採算的にも困難に遭遇している。日本は発生した使用済み核燃料の再処理の大部分をフランス、イギリスに委託していた。

(4)高レベル廃棄物の処理・処分 高レベル廃棄物の最終処分の方法は未確立である。軍事利用のためにすでに蓄積された高レベル廃棄物の量は、蓄積される平和利用のそれの10倍を超えると推定されている。これらは現在大部分が鋼製タンクに貯蔵されたままである。再処理後の廃液をガラス固化体とし、ステンレス容器などに封入する方法が研究されている。国際学術連合会議(ICSU。現国際科学会議)は最終処分法として安定な地層(岩体)への埋設について留意すべき事項を勧告しているが、地層への熱影響を緩和するために、100年程度の中間貯蔵(地上での)を推奨している。これは、再処理を行わず、使用済み核燃料のまま貯蔵する場合にも適用できる。いずれにせよ、もっとも困難な問題は、科学的に安定な閉じ込めが予見されえたとしても、社会的受容が得られるか否かにある。

(5)低レベル廃棄物の処理・処分 容積の小さい高レベル廃棄物と対比すれば、低レベル廃棄物の放射能レベルは低いかわりに容積が大きいことが特徴である。日本でも、1995年(平成7)末ですでに88万本を超えるドラム缶(200リットル入り)が累積し、際限なく増加しつつある。海洋投棄と陸地処分が方策として考えられていたが、太平洋への投棄は政治的・社会的理由で困難となり、陸地処分が検討されている。1998年3月現在、青森県六ヶ所村に建設された低レベル放射性廃棄物埋設センターには、約10万7000本のドラム缶が搬入され、最終的には300万本相当を埋設する規模に拡張される予定となっている。

(6)輸送問題 たとえば図の核燃料サイクルの各段階は、実際には輸送手段で結ばれている。とくに使用済み核燃料の海外輸送、返還される高レベル廃棄物固化体などの高放射性物質や、プルトニウムの輸送などは、核拡散防止問題も絡んで複雑な社会問題となっている。1984年夏に生じた六フッ化ウランを積んだモン・ルイ号(フランス)の沈没は、秘密のベールに包まれていた核物質輸送の危険性の一端を明らかにした。また、1987年2月に核物質防護(フィジカル・プロテクション)に関する条約(核物質防護条約)が発効し、プルトニウムの輸送などに対しては厳重な防護措置が必要となった。こうして1992年11月フランスから約1トンのプルトニウムを積んだ輸送船「あかつき丸」の護衛のために、新たに海上保安庁の巡視船「しきしま」が163億円を投じて建造された。しかし「しきしま」の軽武装では核ジャック対策には不十分であるとして、通過海域の担当アメリカ海軍にアメリカ国防省が万一の場合の対応を通達したという。問題は2010年ごろまでに、さらに約30トンもの返還輸送が必要とされることである。

◆原子力発電論争

原子力発電所の運転に伴って原子炉内に蓄積される放射能の量は膨大(電気出力100万キロワットの原発が1年運転後の停止直後で170億キュリー)である。したがって、その小部分が環境に漏洩(ろうえい)するだけでも深刻な影響が生ずるであろう。原発の安全性とは、この巨大な潜在的危険を顕在化させないよう閉じ込めに成功するかどうかに帰着する。したがって、原子力発電の社会への導入にあたって、国家による特別厳重な安全審査の実施、あるいは万一の事故に際しての技術的・社会的影響評価(災害評価)の試算などが必要とされ、さらにアメリカのプライス・アンダーソン法を典型とする、国の保証による原子力損害賠償制度の確立も必要と考えられてきたのである。しかしあまりにも急速な原子力発電規模の拡大は、原子力発電の安全性に対する一般公衆の不安を呼び起こし、いわゆる原子力発電論争がアメリカをはじめ世界各国に拡散することとなった。さらに「実証炉」という宣伝にもかかわらず、軽水炉は実際の運転経験を踏まえて一歩一歩大型化したのではなく、電子計算機による模擬計算にのみ依拠して急激なスケール・アップや出力密度の上昇などを図り、コスト・ダウンを追求したために、故障やトラブルの続発に悩まされ、稼動率は低下した。このことがまた公衆の信頼を著しく傷つける結果となった。とくに各種配管などに応力腐食割れが多発したことは、それが最悪の事故と考えられる「空焚(からだ)き事故」と直結し、またその防止のための安全装置であるECCS(非常用炉心冷却系)の信頼性に対する疑問とも相まって、論争を著しく激化させたのである(ECCS論争)。

原子力発電論争で取り上げられた問題は、前述の原子炉の工学的安全性に限られるはずもなく、必然的に他の代替エネルギーとの比較、エネルギー政策、大量の温排水・取水問題を含む環境の熱汚染問題、漁業をはじめとする他産業へのインパクト、経済性論争などきわめて広範な問題について、政党、労組、市民団体、科学者などを巻き込む社会的大問題となった。なかでも原子力発電の結果生ずる放射性廃棄物の処理・処分問題、原子力技術や情報の拡散の結果としての核兵器拡散の危険など、問題は一地方における立地安全問題から、世界政治のあり方に直接関係する問題までもが、この論争の範疇(はんちゅう)に包含されるようになっている。このような原子力発電の社会的受容(パブリック・アクセプタンス)をめぐる論争の根底にある問題の一つは、放射線影響にかかわる問題である。人間に放射線障害を引き起こす可能性のある最少被曝(ひばく)線量についての科学的論争は現在も続いている。最近までもっとも信頼できるデータとされてきた広島・長崎の被爆影響評価について、とくに照射線量の推定値の根本的見直しが必要なことが明らかとなり、日米両国の協力で再検討作業が行われた。このことが示すように、とくに微量の放射線の影響評価の研究が困難であり、また微量放射能の環境中での挙動の解明も十分でないにもかかわらず、原子力発電の急速な導入は、被曝労働者人口の激増を結果し、遅れた労働制度とも結び付いて深刻な社会問題となっている。

◆TMI原発事故

1979年3月28日にアメリカ、ペンシルベニア州にあるスリー・マイル島(TMI)原発2号炉で発生した大事故(スリー・マイル島原発事故)は、周辺8キロメートル内の住民中の妊婦や幼児の退避といった事態にまで発展し商業用原子力発電史上最大の事故となった。炉心溶融がかろうじて避けられた4月2日までの「魔の6日間」、世界の耳目が同炉に集中した。事故から5年後の84年にようやく原子炉圧力容器があけられた結果、炉心の損傷は推測以上にひどく、炉心部の40%以上の燃料棒がばらばらになっており、また一部溶融していたことが明らかとなった。調査はなお進行中であるが、その結果はいずれにせよ原子力発電の危険性についてのもっとも貴重かつ客観的なデータとなるであろう。当時のアメリカ大統領カーターの任命したTMI事故調査特別委員会は、単なる技術上の不完全さの指摘にとどまらず、安全規準の不適切さ、規制行政の欠陥、防災計画の欠如などについて厳しい批判を行い、見識に富む勧告を行っている。

1986年4月26日、旧ソ連ウクライナ共和国のチェルノブイリで、20世紀最大・最悪といわれる大事故が起きた(チェルノブイリ原子力発電所事故)。原子炉暴走事故であり、水蒸気爆発、もしくは化学爆発が起こった。3人の従業員が即死したのをはじめ、消火作業にあたった消防士、作業員など多数の死傷者が出た。また、放射性物質が周辺各国にまで及んだ。

 
 参考文献
1.NHK取材班著『原子力――秘められた巨大技術』(1982・日本放送出版協会)

2.安斎育郎編『図説原子力読本――これでいいのか原子力開発』(1979・合同出版)

3.法貫四郎他監修『原子力ハンドブック』(1976・オーム社)

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これは、「日本で初」の歴史的出来事の一つです・・・パート5

続いてです。続いては、「原子力開発の歴史」について書いていきたいと思います。「原子力開発の歴史」から「軽水炉市場の創出」まで書いていきます。参考までです。

2. 原子力開発の歴史

◆原子爆弾の開発

1938年ドイツのO・ハーンとF・シュトラスマンによるウランの核分裂現象の発見は、それまで物質の究極構造の究明という純粋な物理学的興味の対象にすぎなかった核物理学とその成果とを、直接、巨大な核エネルギーの解放という実用問題に結び付ける契機となった。しかもその発見の時期が第二次世界大戦の前夜であったために、この巨大なエネルギーは不幸にも原子兵器(核兵器)として開発されることになった。

原子兵器開発の研究は、ナチス・ドイツでは早くも1939年から、イギリスでは40年から開始されていた。しかし第二次世界大戦の激化とともにイギリスでの研究継続は不可能となり、のちにアメリカでの原爆開発計画に合流することになった。

アメリカは、アインシュタイン、フェルミ、シラード、ウィグナーをはじめ多くのナチスに追われた亡命科学者を受け入れたこと、イギリスの研究陣が合流したこと、またその国土が大戦中戦災を免れたこと、もともと卓越した工業力と経済力をもっていたことなどが有利に働いて、極秘のうちにおよそ20億ドル(当時。1996年の恒常ドルで2000億ドル相当)の巨費と十数万の科学者・技術者を動員したマンハッタン計画(原爆製造計画)に成功して、1945年7月に3個の原子爆弾を完成させることができた。うち1個は同年7月16日ニュー・メキシコ州アラモゴードの砂漠での爆発実験に使用されたが、これは爆縮型のプルトニウム原爆であった。残り2個はそれぞれウラン235原爆とプルトニウム原爆であったが、前者が同年8月6日広島に、後者が8月9日長崎に投下された。

ソ連および日本でも第二次世界大戦中に原子兵器開発研究は進められていた。ソ連は大戦後の1949年には原爆を、53年には重水素化リチウムを用いた航空機搭載可能なブースター原爆(威力約500キロトン)を実験した。アメリカはこれを乾式水爆と誤認するが、その基礎はすでに大戦中の研究により形成されたものである。日本のそれはみるべき成果をあげる前に敗戦を迎え、成果も四散してしまった。

マンハッタン計画の遂行によって獲得された原子力技術は、原爆製造のためだけでなく、今日の原子力技術体系の骨格をなす主要な部分をすべて含んでいるといえるので、以下におもな成果を要約しておくこととする。原爆製造はつきつめていえば、純粋のプルトニウムと高濃縮ウランの一定量をいかにして入手するかに帰着する。

(1)プルトニウムの生産 このために核分裂連鎖反応に関する次のような諸問題――中性子の逸出、減速材の作用、同位体濃縮の効果、連鎖反応制御の方法など、要するに今日の用語でいえば原子炉物理学および原子炉工学を建設し、かつまた実際に原子炉を建設し作動させたこと。ついでそれを一挙にスケール・アップして大型のプルトニウム生産炉を建設・運転させたこと。

(2)原子炉建設に必要なウラン、減速材である黒鉛や重水などを大量に製造する技術を開発したこと。

(3)放射線からの防護手段の開発と健康管理。

(4)ウラン同位元素の濃縮 電磁分離法をはじめ、あらゆる同位体分離法が検討され、ガス拡散法を最後に成功させたこと。

(5)核燃料再処理技術の研究 沈殿分離法によるプルトニウムの抽出法が最初に確立された。

マンハッタン計画の成果については、1945年に公表された「スマイス報告」によってその概要を知ることができる。

◆第二次世界大戦後の大軍拡

第二次世界大戦の終了とともにアメリカは原子力開発管理体制を戦時中の軍管理から文民管理に切り換えた。すなわち1946年に原子力法(マクマホン法)を採択し、それに基づいて原子力委員会を発足させた(1947年1月)。国際的には原子兵器の「管理」を目ざすバルーク案を国連に提出したが、原水爆禁止を優先せよというソ連の反対で実現しなかった。広島・長崎への原爆投下は大戦の終結を早めたというよりは、戦後の米ソ冷戦の開始を示すものであったから、アメリカは戦後になってかえって3波にわたる核軍備の大拡張を行うこととなる。第一波は文民管理の原子力委員会の発足と同時に開始され、ワシントン州ハンフォード(マンハッタン計画が推進された地)のプルトニウム生産施設とウラン濃縮工場の改修と拡張が行われ、原子力潜水艦の開発もスタートした。第二波は1950年1月の大統領トルーマンによる水爆開発命令に始まり、54年の水爆完成に終わる時期で、あらゆる形態の核兵器開発が促進され、ケンタッキー州パデューカに新鋭ウラン濃縮工場が建設された。第三波は1952年から56年までで、第二波と重なっており、この時期には戦術核兵器の開発を重点に全軍核武装化が追求された。このためオハイオ州ポーツマス新濃縮工場の建設やハンフォード工場の大拡張が行われた。第一号原子力潜水艦ノーチラスは55年に就航している。アメリカがこの3波にわたる核軍拡に注ぎ込んだ費用は138億ドル(当時)に上り、マンハッタン計画の7倍という膨大なものであった。この止めどもない核軍拡政策は、53年8月にソ連が行ったブースター原爆実験をアメリカ側が乾式水爆と誤認したことにより、転換されることになった。これはソ連のサハロフの設計したレーヤー・ケーキ爆弾とよばれる核融合材料を原爆に包み込んだ威力500キロトン相当のブースター原爆の実験であった(ソ連がテラー・ウルム型の水爆実験に成功したのは、1955年11月22日セミパラチンスク実験場においてであった)。これ以後ももちろん軍備競争は続けられるが、それは米ソの「力の均衡」を前提にした軍拡競争に変わったのである。またこの均衡を前提に、53年12月アメリカ大統領アイゼンハワーは国連で有名なアトム・フォア・ピース計画を発表し、備蓄した濃縮ウランの供与と、国際原子力機関(IAEA)の創設を提唱し、アメリカの核戦略はいわゆる平和利用をも含む総合的戦略へと変貌(へんぼう)することとなった。

◆原子力平和利用の開始

1955年の夏にスイスのジュネーブで開かれた第1回原子力平和利用国際会議は、初めて原子力平和利用の扉を開き、軍事機密の厚い壁に遮られていた原子力技術情報の広範な公開を実現した。このため原子力の平和利用に関する楽天的な見通しが世界的に広まり、日本、旧西ドイツ、ベルギー、イタリア、スペイン、ブラジル、アルゼンチンなどの国々がそれぞれ原子力委員会を創設するに至った。このときまでに原子力技術を開発していた国は、アメリカ、イギリス、旧ソ連、フランス、カナダの5か国であった。しかし、いずれの国も各国に輸出できる原子力発電技術を完成していたわけではなく、1960年代前半までに輸出されたのは研究用原子炉やアイソトープ関連技術であった。ただイギリスだけが黒鉛減速ガス冷却炉による大規模な原子力発電所の建設計画を発表していたが、それを輸入したのは日本とイタリアのみで、またこのわずか2基のコールダーホール型炉が、イギリスの輸出できた商業発電炉であった。

原子力発電の電力生産への利用は、安価な中東原油が大増産されたために抑制されていた。1963年、第3回原子力平和利用ジュネーブ会議が開かれたが、この機会にアメリカは、濃縮ウランの供給保証付きで、アメリカ型軽水炉の「実証性」を宣伝し、世界的売り込みを図った。しかしこの時期における全世界の原子力発電設備容量の総計は400万キロワット程度にすぎなかったのである。この数字は、1960年から大統領ケネディによって推進されていた原子力潜水艦隊(ポラリス原子力潜水艦48隻、攻撃型原子力潜水艦約100隻)が搭載していた原子炉の発電能力の総計に及ばなかったと推定される。

◆軽水炉市場の創出

第3回ジュネーブ会議以後、アメリカのゼネラル・エレクトリック社、およびウェスティングハウス社などは、海軍用原子炉の開発で蓄積した技術を基礎に、さらに新鋭石油火力発電所との競争を目標として、部品の規格化と量産化、大型化によるスケール・メリットの追求などの手法により発電単価の切下げを図りつつ、一方ではアメリカ政府の低濃縮ウラン供給保証を武器に、世界的に軽水炉の売り込みを行った。こうして「軽水炉ブーム」が巻き起こされる。しかしこのブームは長くは続かず、1976年には発注はほとんどゼロにまで落ち込むこととなる。この低迷にいっそう打撃を与えたのが79年のスリー・マイル島(TMI)原発事故であった。契約のキャンセルや建設中止はその後も現在まで続き、原子力産業界への深刻な影響を憂慮したアメリカ議会の要請により、同議会技術評価局は84年2月に「不確実性の時代における原子力」と題する報告を公表したが、そのなかで公衆、投資家、規制機関、施設者の多くが軽水型原発に対し強い不信を抱いていることを述べ、高温ガス炉、重水炉などの他の炉型の導入などさまざまの改善策を提案している。しかし同報告は、原子力発電の将来が予測できない「不確実」なものになりつつあることを象徴的に示していたといえよう。

 参考文献
1.NHK取材班著『原子力――秘められた巨大技術』(1982・日本放送出版協会)

2.安斎育郎編『図説原子力読本――これでいいのか原子力開発』(1979・合同出版)

3.法貫四郎他監修『原子力ハンドブック』(1976・オーム社

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これは、「日本で初」の歴史的出来事の一つです・・・パート4

続いてです。続いては、「原子力」について書いていきたいと思います。「原子力」から「核分裂と連鎖反応」まで書いていきます。参考までです。

■原子力(げんしりょく)

atomic power、nuclear energy

原子核の崩壊や変換、核反応などに際して放出されるエネルギー。核エネルギーとも原子エネルギーともいう。原子核の中に巨大なエネルギーが潜んでいることは、20世紀の初め天然に存在する放射性元素の研究によってすでに知られていた。1905年に発表されたアインシュタインの特殊相対性理論は質量とエネルギーの同等性を明らかにした。すなわち1グラムの質量がエネルギーに変換されると90テラジュール(90×1012J)のエネルギーとなり、これは100ワットの電球3万個を1年間点灯し続けうるエネルギーに相当する(ジュールはJと表記する仕事およびエネルギーの単位)。

原子核が形成される際には、それを構成する素粒子の質量の一部が結合エネルギーに変換されて内部に蓄積されている(したがって質量欠損が生じている)ので、それが核反応に際して放出される。その大きさは化学反応のそれの数百万倍に達することが放射能の研究で知られていた。しかし大量の核反応をおこさせる方法は、中性子の発見と、それによるウラン原子核の核分裂、および核分裂連鎖反応の発見により初めて実現した。この核分裂に基づくエネルギーの利用は最初原子爆弾として実現し、のちに原子力発電などのエネルギー利用へと移行した。また核融合反応は水素爆弾として軍事利用されているが、制御された核融合反応の実現は、科学技術研究開発の最重要テーマと位置づけられ、各国で競争的に研究努力が続けられているが、いまだ達成されていない。

1. 核分裂と連鎖反応

核反応に伴って放出される核エネルギーが原子1個当り化学反応の数百万倍であるとしても、実用上有用なエネルギーとして取り出し可能となるためには、多くの原子に持続的に反応を行わせるような方法が発見されなければならない。たとえば放射壊変のような核反応では、反応のおこる割合は確率的に定まっていて、外部から制御することは不可能である。一般に核反応をおこさせるためには、外部から膨大なエネルギーを加える必要があり、したがって核反応を用いて実用的なエネルギーを取り出すことは不可能だと思われていた。この状況は核分裂という予想外の現象の発見によって一変した。核分裂は、ウランなどの重い原子核が中性子の衝撃を受けて、ほぼ質量の等しい二つの原子核に分裂する現象である。たとえば次式のように分裂する。

現象である。たとえば次式のように分裂する。

http://100.yahoo.co.jp/detail/%E5%8E%9F%E5%AD%90%E5%8A%9B/で詳しく参照できます。

この際放出されるエネルギーはラジウムのα(アルファ)崩壊の50倍程度であるが、重要なのは核分裂に伴って新たに2~3個の中性子を発生することである。したがってこのように増倍された中性子を有効に利用するならば、次々にウラン原子核の核分裂を連鎖的に行わせることが可能となるであろう。しかし実際にこれを行うには、いくつかの解決すべき問題があった。最大の問題は、増倍された中性子が非分裂性の原子核に吸収されたり、外部へ散逸したりして連鎖反応が立ち消えになってしまうことや、逆に連鎖反応が急速に進みすぎぬように制御することである。天然ウランには核分裂性のウラン235はわずか0.7%しか含まれておらず、残りの99.3%のウラン238は高速の中性子でなければ分裂せず、かえって中性子を吸収してしまうのである。また核分裂の際に発生する中性子の速度は速すぎるために、ウラン235原子核と衝突する確率は小さい。速度を熱エネルギー程度にまで遅くしたほうが核分裂はずっとおこりやすくなるのである。

こうして天然ウランよりウラン235の同位体濃度を高めた濃縮ウランや、重水や黒鉛(軽水)などの減速材などが必要となる。また連鎖反応を制御するためには、熱中性子を吸収しやすい原子核(ボロン10やカドミウムなど)からなる制御材を系内に入れてやる必要が生ずる。また、系全体の質量をある程度以上に大きくし、表面から逸出する中性子の割合を小さくしなければ連鎖反応は持続しない。この最小必要質量を臨界量という。以上は核連鎖反応を持続的に行う装置、つまり原子炉について述べたのであるが、原子爆弾の場合には高濃縮ウランあるいはプルトニウムを瞬間的に臨界質量以上に合体させることにより連鎖反応を急激に発生させ、巨大なエネルギーを放出させる。

◆マルチメディアデータ

発電用原子炉の形式〔表〕
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E5%8E%9F%E5%AD%90%E5%8A%9B/%EF%BC%BB%E7%94%BB%E5%83%8F%EF%BC%BD/00081645000301/

炉型別原子力発電設備容量の割合〔図A〕
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E5%8E%9F%E5%AD%90%E5%8A%9B/%EF%BC%BB%E7%94%BB%E5%83%8F%EF%BC%BD/00081645000501/

核燃料サイクル図〔図B〕
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E5%8E%9F%E5%AD%90%E5%8A%9B/%EF%BC%BB%E7%94%BB%E5%83%8F%EF%BC%BD/00081645000601/

 参考文献
1.NHK取材班著『原子力――秘められた巨大技術』(1982・日本放送出版協会)

2.安斎育郎編『図説原子力読本――これでいいのか原子力開発』(1979・合同出版)

3.法貫四郎他監修『原子力ハンドブック』(1976・オーム社)

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これは、「日本で初」の歴史的出来事の一つです・・・パート3

続いてです。続いては、東海発電所(東海原発)のある「東海村」について書きたいと思います。

●東海村

東海村(とうかいむら)は、関東地方の北東部、茨城県北部の村。那珂郡に属する。

東海村
とうかいむら

国  日本
地方 関東地方
都道府県 茨城県
郡 那珂郡
団体コード 08341-1
面積 37.48km²

総人口 36,898人
(推計人口、2009年9月1日)
人口密度 984人/km²
隣接自治体 日立市、那珂市、ひたちなか市
村の木 黒松
村の花 スカシユリ
村の鳥 メジロ
東海村役場
所在地 〒319-1192 茨城県
那珂郡東海村東海三丁目7番1号
電話番号 029-282-1711
リンク東海村
http://www.vill.tokai.ibaraki.jp/

●概要

日本で最初に原子力の火が灯った村として有名である。1957年に日本原子力研究所(当時)東海研究所が設置され、日本最初の原子炉であるJRR-1が臨界に達して以来、多くの原子力関連施設が集積することとなった。現在は日本原子力研究開発機構(旧日本原子力研究所及び旧核燃料サイクル開発機構が合併)、日本原子力発電東海発電所・東海第二発電所など多くの原子力施設が村内に存在し、また近隣の那珂市や大洗町にも大規模な原子力関連施設が存在する。東海村を中心とした茨城県の太平洋沿岸部は日本の原子力産業の重要な拠点となっている。東海村以外に、「原発銀座」「原子力の街」と呼ばれる市町村は、敦賀市や六ヶ所村が有名である。

1999年9月30日に東海村JCO臨界事故が発生した。村内では、施設の周辺住民の中性子線被曝や風評被害など、様々な影響があった。

全国の村では、岩手県岩手郡滝沢村、沖縄県中頭郡読谷村に次いで3番目に人口が多い。また、人口密度は4番目に高い。茨城県条例による町制施行要件はクリアしている。

茨城県内にある村は、本村と稲敷郡美浦村の2つのみ。

●地勢

水戸市から北東へ約15kmの距離にあり、東は太平洋に面し、西が那珂市、南がひたちなか市、北が久慈川を境に日立市に接している。常陸台地の北端に位置する一帯で、久慈川の南側と真崎浦、細浦などの低地は沖積層で、水田地帯となっている。一方、台地は洪積層で、畑地と平地林が広がり、東へ緩やかに傾斜したその先端が砂丘となっている。砂丘は現在、防砂林として活用されているほか、日本原子力研究開発機構、日本原子力発電株式会社などの敷地となっている。

● 沿革

・平安時代:久慈郡に属し、美和郷、神崎郷とよばれた。
・文禄3年(1594年):豊臣秀吉の検地以後は、那珂郡に属するようになる。
・慶長7年(1602年):佐竹氏が秋田藩に移り、水戸徳川家の支配下に入る。
・明治22年(1889年):市町村制施行に際し、那珂郡に村松村、石神村が発足。
・昭和30年(1955年)3月31日:町村合併促進法によって村松村と石神村が合併し、東海村が発足。

★村名の由来

藤田東湖の『正気歌』にある「…卓立東海浜」による。1955年の発足時の新命名。1948年には、村松村石神村組合立による東海中学校が設立されており、東海村が成立する前から、当地において「東海」の名称が採用されている。

●人口

人口は36,767人、世帯数は13,956世帯、人口密度は980人である(2009年5月1日現在)。

1980年 29,197人 
1985年 31,065人 
1990年 31,557人 
1995年 32,727人 
2000年 34,333人 
2005年 35,450人 

●行政

・村長:村上達也

●産業

・農業
・原子力産業:電源開発上非常に重要であり、村もその政策で存立している。催し物も原子力政策にまつわるものが多い。

★原子力産業

・独立行政法人 日本原子力研究開発機構(旧日本原子力研究所及び旧核燃料サイクル開発機構が統合)
・日本原子力発電
 ・東海発電所
 ・東海第二発電所

●姉妹都市

・アイダホフォールズ市(アメリカ合衆国 アイダホ州)

●学校

高等学校

・茨城県立東海高等学校

中学校

・東海村立東海中学校
http://www.tokai-tokai-j.ed.jp/
・東海村立東海南中学校
http://www.tokaiminami-j.ed.jp/

小学校

・東海村立石神小学校
http://www.tokai-ishigami-e.ed.jp/
・東海村立白方小学校
http://www.tokai-shirakata-e.ed.jp/
・東海村立村松小学校
http://www.tokai-muramatsu-e.ed.jp/
・東海村立舟石川小学校
http://www.funaishikawa-e.ed.jp/
・東海村立中丸小学校
http://www.tokai-nakamaru-e.ed.jp/
・東海村立照沼小学校
http://www.terunuma-e.ed.jp/

●郵便局

石神外宿簡易郵便局

●交通

★鉄道

東日本旅客鉄道 常磐線:東海駅

★道路

一般国道

・国道6号
・国道245号

★港湾

・茨城港(重要港湾)

●東海村を舞台とした作品

・「ゴジラ2000 ミレニアム」(1999年)
・「ゴジラ×メガギラス G消滅作戦」(2000年)

●観光地

・村松山虚空蔵堂

●出身有名人

・橋本昌(茨城県知事)
・田口洋美(民俗学者)
・根本陸夫(元プロ野球選手)
・小林康剛(サッカー選手、ファジアーノ岡山所属)
・小林久晃(サッカー選手、ヴィッセル神戸所属)

●関連項目

・東海(様々な「東海」)
・原子力
・水戸ホーリーホック(本拠の笠松運動公園陸上競技場が東海村、那珂市、ひたちなか市にまたがる位置にある

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これは、「日本で初」の歴史的出来事の一つです・・・パート2

続いてです。続いては、日本初の商業用原子力発電所といわれている、「東海発電所」について書いていきたいと思います。参考までです。

●東海発電所

東海発電所(とうかいはつでんしょ、東海原発)は、日本原子力発電株式会社が運営していた、日本初の商業用原子力発電所。炉型は英国製の黒鉛減速炭酸ガス冷却型原子炉 (GCR) で、これに耐震強度の増強など、日本独自の改良を加えたものである。現在は運転を終了し、原子炉解体プロジェクトが進められている。国内では商業用原子炉解体の実績が無く、同プロジェクトは日本初の原子炉解体である。

●歴史

1960年代、高度経済成長と共に日本の電力需要が高まり、エネルギーの活路を原子力発電に求めた。軽水炉の導入も検討されたが、当時まだ実績が十分では無かったため、世界初の商用発電炉である英国製の黒鉛減速ガス冷却炉(いわゆるコルダーホール型)を輸入することになった。しかし、英国設計の炉心では、日本の地震に対する十分な耐震強度が得られないため、設計に改良を加える必要があった。炉心を構成しているのは、およそ1,600トンにも及ぶ黒鉛ブロック(減速材)で、英国製の黒鉛ブロックの断面は正四角形だった。そこで、関東大震災の3倍の震度に耐えられるように、黒鉛ブロックの断面を正六角形に改め、さらに凹凸でかみ合わせることにより耐震強度を大幅に向上した。これには英国側の機密が多く、日本人の技術者らが東海発電所の原子炉理論を手に入れるまでには大変な苦労があった。その後、1960年1月に着工し、1965年5月4日、初臨界に到達。日本初の商業用原子炉となった。

その後27年間の営業運転を経て、1998年3月31日に営業運転を停止。設計寿命を残しての廃止措置は黒鉛炉特有の経済性の悪さが理由である(隣に建つ100万kW級発電炉である東海第二発電所とほぼ同大の敷地を使いながら出力は16万kWでしかない)。現在、日本初の原子炉解体に向けたプロジェクトが進行するなど、その計画から現在にわたって日本の原子力産業のさきがけとして、データを蓄積している。

●東海発電所

・運営者:日本原子力発電株式会社
・住所:茨城県那珂郡東海村白方1-1
・炉型:黒鉛減速炭酸ガス冷却型原子炉
・減速材:黒鉛
・冷却材:炭酸ガス
・冷却材出口温度:350℃
・燃料:天然ウラン(約187トン)
・燃料棒:約16,000本
・黒鉛ブロック:約3万個(1,600トン)
・熱交換器(蒸気発生器):2台
 東海発電所では蒸気発生器とは呼ばずに熱交換器と呼んでいた。
・タービン発電機:3,000rpm×2台
・電気出力:16.6万kW
・着工:1960年(昭和35年)1月16日
・臨界到達:1965年(昭和40年)5月4日
・運転開始:1966年(昭和41年)7月25日
・運転終了:1998年(平成10年)3月31日

● 設置までの歴史

・1957年12月5日 - 日本原子力発電株式会社が茨城県東海村を発電所敷地候補地に決定
・1959年3月16日 - 東海発電所原子炉設置許可申請
・1959年12月14日 - 東海発電所原子炉設置許可
・1959年12月22日 - 東海発電所の購入契約を日本原子力発電株式会社と英国GEC社で締結
・1960年1月16日 - 東海発電所建設工事着工
・1966年7月25日 - 東海発電所営業運転開始

●現在までの廃止措置

・1998年3月31日 - 営業運転終了
・2001年3月 - 燃料搬出完了
・2001年10月4日 - 解体計画書提出
・2001年12月 - 解体作業開始、使用済み燃料冷却のプール洗浄
・2003年 - タービン建屋内の機器の撤去およびタービン発電機の解体
・2004年11月 - 燃料取換機および建屋の解体開始
・2006年8月 - 熱交換器撤去工事開始

●今後の廃止措置計画

・2011年 - 原子炉解体開始

●関連項目

・発電所
・原子力発電
・原子力発電所

●外部リンク

www.vill.tokai.ibaraki.jp - 東海発電所・東海第二発電所
http://www.vill.tokai.ibaraki.jp/as-tokai/01jigyosyo/j03gende.htm

www.japc.co.jp - 東海発電所の廃止措置
http://www.japc.co.jp/haishi/

日本の原子力発電所

運転中の発電所

泊原発 - 東通原発 - 女川原発 - 福島第一原発 - 福島第二原発 - 東海第二原発 - 浜岡原発 - 志賀原発 - 敦賀原発 - 美浜原発 - 大飯原発 - 高浜原発 - 島根原発 - 伊方原発 - 玄海原発 - 川内原発


長期運転停止中の発電所 柏崎刈羽原発 - もんじゅ

建設・計画中の発電所 大間原発 - 浪江・小高原発 - 上関原発

運転を終了した発電所 東海原発 - ふげん

原子炉設置許可申請を取下げた発電所 巻原発 - 芦浜原発

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これは、「日本で初」の歴史的出来事の一つです・・・パート1

皆さん、こんにちわ、更新です。今日は、10月26日です。今日、10月26日は、「原子力の日」でだそうです。「原子力の日」は、1963年(昭和38年)の今日、茨城県東海村の日本原子力研究所の動力試験炉が日本で初の原子力発電を行った。これを記念して1964年(昭和39年)に政府が原子力の日を制定、原子力について国民の理解を深めてもらおうと様々な行事を行っています。

ということで、今日は、「原子力の日」について書いていきたいと思います。参考までです。

●原子力の日について

原子力の日(げんしりょくのひ)は、毎年の10月26日を原子力に関する歴史的出来事を記念するために制定された日本の記念日の一つ。

●概要

原子力の日は以下に示す出来事を記念するために1964年7月31日に閣議決定によって制定された。

1956年10月26日 - 日本が国際連合の専門機関の一つである国際原子力機関へ参加した。
1963年10月26日 - 茨城県東海村の日本原子力研究所の動力試験炉(JPDR Japan Power Demonstration Reactor)が日本で初めての原子力発電に成功した。
毎年この日には、原子力に関係する機関や企業等で記念行事が行われている。

JPDRは、1976年3月18日に運転を終了し、1986年から1996年3月31日にかけて解体工事が行われ、設置場所は更地になった。これは日本ではじめての原子炉解体工事である。

JPDRの実績を元に日本でも商用の原子力発電の導入が決定し、実績が豊富な英国の技術が採用され、富士電機を受け入れ主体として東海村に原子炉の建設が始められた。その後完成した原子炉による日本で最初の商用原子炉による発電は1966年7月25日に日本原子力発電株式会社東海発電所によって行われた。しかしながらこれに続く発電炉は米国の軽水炉が導入されることになり、英国製原子炉の導入はこれ一基のみとなった。この原子炉は1998年3月31日に運転を終了し、現在は解体工事中である。

■〔「原子力の日」が決められた理由〕について■
 
10月26日が原子力の日に選ばれたのは、昭和38年に日本原子力研究所の動力試験炉(JPDR)で日本で最初の原子力による発電に成功した日であり、また、昭和31年に日本が国際連合の専門機関の一つである国際原子力機関(IAEA)への参加を決めた記念すべき日でもあるという理由からです。
昭和31年という年は、戦後日本で初めて原子力予算が認められ、原子力の平和利用に新たなスタートを切った年です。米国、ソ連、英国では核爆発実験を続けていましたが、原子力を世界の平和のために利用することを日指す国際的な機関の必要性がさけばれ、IAEA憲章が国連総会で採択された年でもあります。そして10月26日には、日本を含む70カ国で憲章に署名がなされ、原子力の平和利用の国際協力が大きな広がりを持つことになりました。10月26日のJPDRでの原子力発電は、IAEA参加の日を強く意識して計画されたように思われます。

●関連項目

・原子力発電
・原子力発電所
・日本の記念日一覧

●参照リンク
[1]
http://www.ies.or.jp/japanese/mini/mini_hyakka/05/mini05.html

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これは世界的に大きなダメージを受けた、「歴史」ある大惨事です・・・パート9

続いてです。続いては、「大恐慌(だいきょうこう) 」についてまとめたものがございますので書いていきたいと思います。参考までです。

◆大恐慌(だいきょうこう)◆

大恐慌(だいきょうこう)
the Great Depression

1929年に始まる過剰生産恐慌。単に工業恐慌のみならず、農業恐慌、金融恐慌、資本主義の根幹に触れる通貨恐慌、本位貨恐慌に及び、しかも世界各国(社会主義国であったソ連を除く)を巻き込み、1933年にまで至る広範囲、長期という特徴をもつゆえに、数ある恐慌のうちとくに「大恐慌」とよばれている。

1929年10月24日(木曜)のウォール街のニューヨーク株式市場における瓦落(がら)は「暗黒の木曜日」といわれ、この大恐慌爆発の契機となった。以後2か月の間に株式は平均42%の急落を告げた。これは、アメリカが第一次世界大戦中に戦場となることなく、戦争経済から得た過度の利潤を貸付資本として「永遠の繁栄」のもとに投機的に株式投下し、株価を水膨れさせた結果の破綻(はたん)であり、そのアメリカ経済の内部に過剰生産が進行していたことによる。

1. 大恐慌発生の背景
第一次世界大戦における戦争利得国アメリカは、1920年の戦後恐慌を経て、いち早く世界の中心的資本主義国に台頭し、戦場だった西欧諸国に対して帝国主義国としての生産力と資本力の格差をつけ、1922年には上昇局面に入る。それを支えたのはおもに、アメリカの戦時利得による過剰な資本の西欧・中南米への輸出と、国内成長産業である耐久消費財(自動車、家庭電気器具など)および建築への投資であり、低廉な購入信用(=消費者信用)もこれに役だった。さらに自動車、建築などは裾(すそ)の広い多数の部品産業と関連産業をもっており、1920年代のアメリカ国内に好況をもたらした。しかし反面、同じ1920年代には一貫して5%以上の失業率をもつ構造的失業も確かに存在し、また農業、綿紡績、皮革、石炭、造船など不況産業も抱え、成長と停滞が併存する形での好況であった。他方、アメリカは第一次世界大戦後は世界一の農業国になったが、ヨーロッパ農業の回復とともに世界的に生産過剰が表面化し、1920年代を通じ世界農業は慢性的不況を呈していた。

また世界経済においては、戦争の痛手から遅々たる回復しか示さない西欧諸国(および恐慌頻発の日本)と、アメリカとの格差は広がり、アメリカの債務国から最大の債権国へ、ドイツの資本輸出国から輸入国へ、フランスの長期資本輸出国から短期中心のそれへ、イギリスの短期借り長期貸しの資本輸出国への跛行(はこう)的変化のもとに、おのずから一つの国際的循環が形成された。アメリカの債権国としての過剰な民間ドル資金の対外輸出(流出)は、主として西欧、とくにドイツに流れ、その復興資本に役だち、その取得されたドル為替(かわせ)がドイツの賠償の支払いを可能にし、それを得たイギリス、フランスは、アメリカに戦時債務の返却をするという還流循環であり、それによって1920年代の好景気が維持された。いま一つは、中南米、カナダに投下されたアメリカ民間資本がイギリスに吸い上げられ、イギリスの対米貿易赤字支払いにあてられる連鎖となった。こうして1920年代の景気上昇と再建金本位制(金為替本位制)がつくられた。それらは、ことごとに、1929年に始まる大恐慌および1930年代の慢性不況の基礎条件をつくった。
2. 大恐慌の経過
1920年代のアメリカのこの景気上昇を支えた過剰資本は、景気の進行とともに遊休過剰資本の株式投機、土地投機(フロリダが最盛)となり、1920年代末にはその頂点となったが、すでに未曽有(みぞう)の過度信用と過度投機が累積し、自動車、建築、その他耐久財に過剰がやってきていた。

かくて先の未曽有の株式瓦落を契機に深刻な大恐慌が始まった。とくに景気の規定的要因である建築、鉄鋼、自動車の減退は著しく、滞貨の激増、生産の縮小、企業倒産の続出、失業者の増大、それら下降要因の累積的相互波及により経済活動の麻痺(まひ)を引き起こした。この場合、生産の低下は、独占の高い自動車、鉄鋼できわめて大きいが、価格低下は小さく、独占特有の下方硬直性を示した。しかし、農業や皮革のように競争的非独占部門では激しい価格崩落が起こった。全部門で総じて強い有効需要の減退となって未曽有の長期深刻なものとなった。また、建築活動の縮小がはるかに厳しい事態となったのは、耐用期間が長期化するからで、1930年代前半まで続き、この大恐慌が長期化する大きな要因をつくった。

この結果、生産財生産は20世紀初頭の水準まで引き戻され、バルガの推定によると、恐慌前の最高点から恐慌中の最低点への工業生産低下率は、アメリカ56%、イギリス32%、ドイツ52%、フランス36%という大幅なものであった。企業数は1929年の20万9000から1932年の13万9000に激減し、失業者は1930年400万人余、1932年1250万人、1933年1600万人と拡大の一途をたどり、失業率も30%の水準に迫ったのである。

このように大恐慌は、先の国際的連関を通じ、アメリカからドイツ、イギリス‐フランスなどと連鎖反応して全世界を巻き込む世界恐慌となったのみならず、さらに激しい価格下落を起こした深刻な慢性的農業恐慌を伴っており、農民層の分解と土地喪失を起こし、全生産部門を襲った全機構震撼(しんかん)となった。

それだけではない。この恐慌は長期化し、1932年なかばまで下降要因の累積的相互波及が続くが、すでに1930年末から始まった信用恐慌へつながり、ニューヨークのバンク・オブ・USの倒産まで含む重大なものとなった。この金融恐慌はオーストリア最大の銀行クレジット・アンシュタルトを1931年5月に破産に追い込み、かくてドイツ、イギリスへと波及して、ついに1931年9月にはイギリス、1933年3月にはアメリカが金本位制を離脱するという資本主義の根幹を揺るがす本位貨崩壊にまで及んだ。この包括的な大恐慌は、ようやく1933年夏に底をみせ、不況に移行したのであった。

結局、大恐慌は1929年から1933年まで長期停滞を示し、好況への回復をみせず、その後の慢性的不況にみられるように、これまでに前例のない資本主義の自動回復力喪失を示し、順調な成長力を示す社会主義とは対蹠(たいしょ)的となった。この克服のために提唱されたのが、国家による有効需要創出、完全雇用、金本位制停止にかわる管理通貨制度、というケインズ政策である。アメリカは、このケインズ政策を一部取り入れたニューディール政策をとったが、世界の大勢は、イギリスのスターリング特恵制度成立を機に、世界貿易のブロック化と、それに対抗するファシズム化・国家独占資本主義化を生み出し、第二次世界大戦を準備する傾向をつくりだした。

 参考文献
1.玉野井芳郎編著『大恐慌の研究』(1964・東京大学出版会)

2.吉富勝著『アメリカの大恐慌』(1965・日本評論社)

3.『岩波講座 世界歴史27世界恐慌期』(1971・岩波書店)

いかがでしたでしょうか??「暗黒の木曜日」。暗黒の木曜日は、1929(昭和4)年10月24日木曜日、ニューヨーク・ウォール街の株式取引所で株価が大暴落し、世界大恐慌のきっかけとなりました。 当時のアメリカは、第1次大戦の軍需により好景気が続いていましたが、1920年代末には景気後退の前兆が見られ始めていました。10月24日の取引が開始して1時間ほどの間に急激に株価が下落し、そのスピードに人々がパニックになって一斉に売りに出ました。市場介入等により、その日の取引終了時には前日の終値まで値を戻しましたが、5日後の10月29日火曜日にも、取引開始と同時に「暗黒の木曜日」を超える売りが殺到し、「悲劇の火曜日」と呼ばれました。

今日は、10月24日、「暗黒の木曜日」。皆さんは、どう過ごしますか??

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これは世界的に大きなダメージを受けた、「歴史」ある大惨事です・・・パート8

続いてです。続いては「ブラックマンデー」について書いていきます。

●ブラックマンデー

ブラックマンデー(英:Black Monday)とは、1987年10月19日に起こった、史上最大規模の世界的株価大暴落。ニューヨーク株式市場の暴落を発端に世界同時株安となった。暗黒の月曜日(あんこくのげつようび)ともいう。

●概要

1987年10月19日月曜日、ニューヨーク株式市場が過去最大規模の暴落。ダウ30種平均の終値が前週末より508ドルも下がり、この時の下落率22.6%は、世界恐慌の引き金となった1929年の暗黒の木曜日(ブラック・サーズデー、下落率12.8%)を上回った。翌日アジアの各市場にこれが連鎖。日経平均株価は3,836.48円安(14.90%)の21,910.08円と過去最大の暴落を起こした[1]。更にヨーロッパの各市場へもつながっていった。

しかし、このときの証券市場の激震は、その後の金融当局による適切な対応の結果、実体経済へは甚大な被害をもたらすにはいたらなかった。

●要因

アメリカの貿易収支の赤字幅が予想以上に膨らんでいたことや、1985年のプラザ合意以後のドル安打開のためにドルの金利が引き上げられる観測が広がっていたことが要因として挙げられる。マイロン・ショールズとフィッシャー・ブラックによるブラック-ショールズ方程式のように高度な金融工学の登場により、コンピュータの普及と相まって、オプション市場と先物市場は爆発的な成長を見せた。コンピュータの普及とブラック-ショールズ方程式の登場は大規模な株式ポートフォリオに保険を提供するようになった。このポートフォリオ・インシュランスは先物を使ったヘッジ手段である。ポートフォリオの価値が市場を大きく上回っているときには先物売りは少ないが、市場が下落しだすと売りを増やし、損失と先物売りの利益がほぼ同じようになるようにする。従って、市場が下落し始めるとコンピュータが自動的に売り注文を出すようになり、売りが売りを呼ぶ展開となった。

この二ヶ月前、FRB議長職がポール・ボルカーからアラン・グリーンスパンへ引き継がれていたことも市場の不安心理をあおっていたと見られる。

●時代背景

1970年代の世界的なインフレーションと1980年代初めの高金利時代において株式は割安に放置され続けていた。1980年代、インフレ抑制に成功した世界ではディスインフレーションと金融緩和が進行していた。1970年代のインフレーションによって名目の利益水準は相当膨らんでいたため、世界中の割安な株式市場に流動性が流入し活況を呈した。しかし、ゆき過ぎた活況は金融引き締め観測により終わりを告げた。

この中、金融緩和を続けた日本では、日経平均株価は半年後の1988年4月には下落分を回復。すでに1986年頃に始まっていたバブル景気は更なる膨張を続け、1989年12月29日には史上最高値(38,915.89円)をつけることになる。

●註
1. 日経平均株価については、翌日2037.32円高(9.30%)となっている。これは当時の歴代1位の上昇幅で、歴代2位の値上がり率である。

●関連項目

・ニューヨーク証券取引所
・ウォール街大暴落 (1929年)

ブラックマンデーについて
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%83%87%E3%83%BC

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これは世界的に大きなダメージを受けた、「歴史」ある大惨事です・・・パート7

続いてです。参考までに、「Black Monday (1987)」と「ブラックマンデー」を書きたいと思います。
まずは、「」です。

●Black Monday (1987)について

In finance, Black Monday refers to Monday, October 19, 1987, when stock markets around the world crashed, shedding a huge value in a very short time. The crash began in Hong Kong, spread west through international time zones to Europe, hitting the United States after other markets had already declined by a significant margin. The Dow Jones Industrial Average (DJIA) dropped by 508 points to 1738.74 (22.61%).

●Losses

By the end of October, stock markets in Hong Kong had fallen 45.8%, Australia 41.8%, Spain 31%, the United Kingdom 26.4%, the United States 22.68%, and Canada 22.5%. New Zealand's market was hit especially hard, falling about 60% from its 1987 peak, and taking several years to recover. (The terms Black Monday and Black Tuesday are also applied to October 28 and 29, 1929, which occurred after Black Thursday on October 24, which started the Stock Market Crash of 1929. In Australia and New Zealand the 1987 crash is also referred to as Black Tuesday because of the timezone difference.)

The Black Monday decline was the largest one-day percentage decline in stock market history. Other large declines have occurred after periods of market closure, such as, in the USA, on Monday, September 17, 2001, the first day that the US market was open following the September 11, 2001 attacks. (Saturday, December 12, 1914, is sometimes erroneously cited as the largest one-day percentage decline of the DJIA. In reality, the ostensible decline of 24.39% was created retroactively by a redefinition of the DJIA in 1916.)

Interestingly, the DJIA was positive for the 1987 calendar year. It opened on January 2, 1987, at 1,897 points and would close on December 31, 1987, at 1,939 points. The DJIA did not regain its August 25, 1987 closing high of 2,722 points until almost two years later.

●Mysteriousness

A degree of mystery is associated with the 1987 crash, and it has been labeled as a black swan event. Important assumptions concerning human rationality, the efficient market hypothesis, and economic equilibrium were brought into question by the event. Debate as to the cause of the crash still continues many years after the event, with no firm conclusions reached.

In the wake of the crash, markets around the world were put on restricted trading primarily because sorting out the orders that had come in was beyond the computer technology of the time. This also gave the Federal Reserve and other central banks time to pump liquidity into the system to prevent a further downdraft. While pessimism reigned, the DJIA bottomed on October 20.

Following the stock market crash, a group of 33 eminent economists from various nations met in Washington, D.C. in December 1987, and collectively predicted that “the next few years could be the most troubled since the 1930s.”

●Timeline

In 1986, the United States economy began shifting from a rapidly growing recovery to a slower growing expansion, which resulted in a "soft landing" as the economy slowed and inflation dropped. The stock market advanced significantly, with the Dow peaking in August 1987 at 2722 points, or 44% over the previous year's closing of 1895 points.

On October 14, the DJIA dropped 95.46 points (a then record) to 2412.70, and fell another 58 points the next day, down over 12% from the August 25 all-time high. On Friday, October 16, the DJIA closed down another 108.35 points to close at 2246.74 on record volume. Treasury Secretary James Baker stated concerns about the falling prices. That weekend many investors worried over their stock investments.

The crash began in Far Eastern markets the morning of October 19. Later that morning, two U.S. warships shelled an Iranian oil platform in the Persian Gulf in response to Iran's Silkworm missile attack on the U.S. flagged ship MV Sea Isle City.

●Causes

Potential causes for the decline include program trading, overvaluation, illiquidity, and market psychology.

The most popular explanation for the 1987 crash was selling by program traders. U.S. Congressman Edward J. Markey, who had been warning about the possibility of a crash, stated that "Program trading was the principal cause." In program trading, computers perform rapid stock executions based on external inputs, such as the price of related securities. Common strategies implemented by program trading involve an attempt to engage in arbitrage and portfolio insurance strategies. The trader Paul Tudor Jones predicted and profited from the crash, attributing it to portfolio insurance derivatives which were "an accident waiting to happen" and that the "crash was something that was imminently forecastable". Once the market started going down, the writers of the derivatives were "forced to sell on every down-tick" so the "selling would actually cascade instead of dry up."

As computer technology became more available, the use of program trading grew dramatically within Wall Street firms. After the crash, many blamed program trading strategies for blindly selling stocks as markets fell, exacerbating the decline. Some economists theorized the speculative boom leading up to October was caused by program trading, while others argued that the crash was a return to normalcy. Either way, program trading ended up taking the majority of the blame in the public eye for the 1987 stock market crash.

New York University's Richard Sylla divides the causes into macroeconomic and internal reasons. Macroeconomic causes included international disputes about foreign exchange and interest rates, and fears about inflation.

The internal reasons included innovations with index futures and portfolio insurance. I've seen accounts that maybe roughly half the trading on that day was a small number of institutions with portfolio insurance. Big guys were dumping their stock. Also, the futures market in Chicago was even lower than the stock market, and people tried to arbitrage that. The proper strategy was to buy futures in Chicago and sell in the New York cash market. It made it hard -- the portfolio insurance people were also trying to sell their stock at the same time.

Economist Richard Roll believes the international nature of the stock market decline contradicts the argument that program trading was to blame. Program trading strategies were used primarily in the United States, Roll writes. Markets where program trading was not prevalent, such as Australia and Hong Kong, would not have declined as well, if program trading was the cause. These markets might have been reacting to excessive program trading in the United States, but Roll indicates otherwise. The crash began on October 19 in Hong Kong, spread west to Europe, and hit the United States only after Hong Kong and other markets had already declined by a significant margin.

Another common theory states that the crash was a result of a dispute in monetary policy between the G7 industrialized nations, in which the United States, wanting to prop up the dollar and restrict inflation, tightened policy faster than the Europeans. The crash, in this view, was caused when the dollar-backed Hong Kong stock exchange collapsed, and this caused a crisis in confidence.

●See also

・List of largest daily changes in the Dow Jones Industrial Average
・Black Tuesday
・Black Thursday
・Black Friday

●Further reading

・"Brady Reportふとじ" Presidential Task Force on Market Mechanisms (1988): Report of the Presidential Task Force on Market Mechanisms. Nicholas F. Brady (Chairman), U.S. Government Printing Office.
・Carlson, Mark (2007) "A Brief History of the 1987 Stock Market Crash with a Discussion of the Federal Reserve Response,"Divisions of Research & Statistics and Monetary Affairs Federal Reserve Board, Washington, D.C.
・Securities and Exchange Commission (1988): The October 1987 Market Break. Washington: The Securities and Exchange Commission.
・Shiller, R. (1989), Investor Behavior in the October 1987 Stock Market Crash: Survey Evidence, Boston: MIT Press, http://ideas.repec.org/p/nbr/nberwo/2446.html  in Shiller, Robert J. (1990), Market Volatility, MIT Press, ISBN 0 262 19290 X 
・Robert Sobel Panic on Wall Street: A Classic History of America's Financial Disasters-With a New Exploration of the Crash of 1987 (E P Dutton; Reprint edition, May 1988) ISBN 0-525-48404-3.

●References

1. Browning, E.S. (2007-10-15). "Exorcising Ghosts of Octobers Past". The Wall Street Journal (Dow Jones & Company): pp. C1-C2. http://online.wsj.com/article/SB119239926667758592.html?mod=mkts_main_news_hs_h. Retrieved 2007-10-15. 
http://online.wsj.com/article/SB119239926667758592.html?mod=mkts_main_news_hs_h

2. Share Price Index, 1987-1998, Commercial Framework: Stock exchange, New Zealand Official Yearbook 2000. Statistics New Zealand, Wellington. Accessed 2007-12-12.
http://www2.stats.govt.nz/domino/external/web/nzstories.nsf/0/1ea7f51215015a74cc256b1f0004f99a/Body/0.2856?OpenElement&FieldElemFormat=jpg
http://www2.stats.govt.nz/domino/external/web/nzstories.nsf/0/1ea7f51215015a74cc256b1f0004f99a?OpenDocument

3. "Dow Jones biggest percentage declines". South Florida Sun-Sentinel. 2008-09-30. http://www.sun-sentinel.com/business/sfl-flzdowbox0930sbsep30,0,7864544.story
http://www.sun-sentinel.com/topic/

4. "Financial Crisis: Dow Drops 504" (PDF). Seattle Post Intelligencer. 2008-09-16. http://seattlepi.nwsource.com/frontpage/SPI-20080916-A-001.pdf
5. "Setting the Record Straight on the Dow Drop". New York Times. 1987-10-26. http://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?res=9B0DE0D71F3EF935A15753C1A961948260
http://www.nytimes.com/1987/10/26/business/setting-the-record-straight-on-the-dow-drop.html

6. "The Day Stocks Rose but the Dow Plunged". WSJ.com Blogs: The Numbers Guy. 2008-10-01. http://blogs.wsj.com/numbersguy/the-day-stocks-rose-but-the-dow-plunged-423/
http://blogs.wsj.com/numbersguy/the-day-stocks-rose-but-the-dow-plunged-423/

7. Taleb, Nassim Nicholas (2007). The Black Swan: The Impact of the highly improbable. Random House. pp. 400. ISBN 1400063515. 
8. "Group of 7, Meet the Group of 33". The New York Times. 1987-12-26. http://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?res=
http://www.nytimes.com/1987/12/26/opinion/group-of-7-meet-the-group-of-33.html
9B0DEED8133AF935A15751C1A961948260. 
9. "Motley Fool's Black Monday 10th Anniversary 1987 Timeline". 1997-10-19. http://aol.fool.com/Features/1997/sp971017CrashAnniversary1987Timeline.htm. Retrieved 2007-10-15. 
http://www.fool.com/features/1997/sp971017crashanniversary1987timeline.htm

10. The Concise Encyclopedia of Economics, "Program Trading," by Dean Furbush accessed May 22, 2007
http://www.econlib.org/library/Enc1/ProgramTrading.html

11. Albert, Bozzo (10-12-2007). "Players replay the crash". Remembering the Crash of 87. CNBC. http://www.cnbc.com/id/21136884. Retrieved 2007-10-13. 
http://www.cnbc.com/id/21136884

12. Paul Tudor Jones II Interview
http://chinese-school.netfirms.com/Paul-Tudor-Jones-interview.html

13. Annelena, Lobb (2007-10-15). "Looking Back at Black Monday:A Discussion With Richard Sylla". The Wall Street Journal Online. Dow Jones & Company. http://online.wsj.com/article/SB119212671947456234.html?mod=US-Stocks. Retrieved 2007-10-15. 
http://online.wsj.com/article/SB119212671947456234.html?mod=US-Stocks

●External links(こちらは参考までです)

・CBC Reports on Black Monday
http://archives.cbc.ca/economy_business/stock_market/topics/1883-12455/

・CNBC Remembering the Crash of 1987
http://www.cnbc.com/id/20910471

・Guardian Black Monday photographs
http://www.guardian.co.uk/business/gallery/2007/oct/17/blackmonday?picture=331000985

・Motley Fool's Black Monday 10th Anniversary 1987 Timeline
http://www.fool.com/features/1997/sp971017crashanniversary1987timeline.htm

・Black Monday (1987)について
http://en.wikipedia.org/wiki/Black_Monday_(1987)

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これは世界的に大きなダメージを受けた、「歴史」ある大惨事です・・・パート6

続いてです。続いては、「 社会主義・共産主義への傾倒 」から順に書いていきます。

★ 社会主義・共産主義への傾倒

世界各国が大恐慌に苦しむ中、NEP(ネップ)で経済発展を続けるソ連(ソビエト社会主義共和国連邦)とスターリンの美化傾向が進んだ。大恐慌下で救いを求める人々の一部は共産主義に希望的な経済体制を夢見た。特に英国の支配階級で裏切りが続出した事は冷戦時代に大きな意味を持った。しかしスターリンの目指したのはトロツキーの国際主義ではなくソ連の国益であった。

★社会科学における解釈とその影響

★政治経済学

世界恐慌は「基軸通貨交替」「覇権国交替」に伴う当然の、あるいは必然的な事態と考えられる。英仏を中心とする世界体制が第1次世界大戦で崩れ、米国が覇権国になる途中の出来事であった。世界の富を集めた結果世界的に通貨が必要であったが、金本位制のもとで通貨創造が出来ない各国は米国からの資金還流を待つしかなかった。しかし米国には覇権国の責任を受ける準備が出来ておらず、国際連盟には参加せず、ドイツなどの経済的苦境を放置した。さらに保護貿易主義を取り、米国の繁栄を世界各国に分かち合うことがなかったため、世界各国の経済的苦境が結局米国自身に跳ね返った。米国の生産量に見合うだけの支払うべき資金(有効需要)がどこにもないからである。米国はその本位金保有高に見合うだけの資金創造を海外に投資することで国際分業を促進しなければならない立場にありながら、むしろ投資資金を引き上げる事で世界各国の流動性を枯渇させた。モンロー主義(孤立主義)が優勢で、ウッドロウ・ウィルソンの国際主義ではなかった。第1次世界大戦の参戦も、ルシタニア号事件とツィンメルマン電報事件が必要であった。

レンテンマルクを発行しドイツの天文学的インフレを収束させたワイマール共和国のシュトレーゼマンの功績は結局彼の死とともに水泡に帰し、ナチスの勃興を促した。

最大の負の教訓は、軍国主義を取ったドイツ・イタリア・日本などが急速に復興し、米国のニューディール政策が必ずしも景気の回復に結び付かなかった事である。ニューディールはケインズ主義の需要喚起策の成功のように考えられている場合があるが、そうではなかった。ケインズ自身も自覚していたように、戦争が強力に余剰生産力を解消したのである。そういう意味でも1929年に始まった世界恐慌は第二次世界大戦の素地を作ったと言える。事実、ニューディールは世界経済の需給ギャップを埋めるにはあまりにも小さく、財政出動に慎重でありすぎ、期間も十分ではなかった。アメリカは第二次世界大戦によってようやく後先を考えない政府支出を始め、国民もまた強力に政策を支持したことによりようやく不況から脱却し、飛躍するのである(参照:軍事ケインズ主義)。

★経済学

当時は「市場は自身で調整を行う機能を持っており、政府の介入は極力すべきではない」という自由放任主義の考え方が主流であった。また、オーストリア学派などによって大恐慌は蓄積した市場の歪みを調整するための不可避の現象であるという見方もなされた。しかし、このような考え方では1930年代に世界が直面した大恐慌を説明し世界経済を救い上げる手立てを提供することができず、新しい経済理論が求められた。

行政府による財政出動による経済刺激策はフランス革命前後の啓蒙思想の頃から盛んに議論されてきた論題であったが、古典派経済学の過少消費説への勝利以降、政府の介入は民間の経済活動を圧迫するだけであるとの考えが通説となった(クラウディングアウト)。大恐慌の発生以降、再びこの論題がアメリカおよびイギリスで盛んに論議され、アメリカでは共和党のフーバー政権が赤字財政と国債発行に反対し、均衡予算主義のためにクラウディングアウトの議論を援用した。また、イギリスでは保守党政権下の財務省が同様の理論でケインズの立案になる自由党の提案と対立した。

ケインズは『雇用・利子および貨幣の一般理論』(1936年)の中で、政府による財政出動によって、失われた雇用の創出と有効需要の創出が可能であり、投資の増加が所得の増加量を決定するという乗数理論に基づき、減税・公共投資などの政策により投資を増大させるように仕向けることで、回復可能であることを示した。

反ケインジアンの筆頭とされるマネタリストのミルトン・フリードマンは、ニューディール政策が直接雇用創出を行ったことは緊急時の対応として評価するものの、物価と賃金を固定したことは適切ではなかったとし、大恐慌の要因を中央銀行による金融引締に求めている。

●参考文献
(日本語訳があるもの)

・ポール・アードマン著 竹内宏監訳 『ポール・アードマンのマネー大予言』 東洋経済新報社、1984年。
・ゴードン・トマス マックス・モーガン=ウィッツ著 常盤新平監訳 『アメリカの死んだ日』(改題『ウォール街の崩壊』) 講談社学術文庫、1979年。(英国人記者チームによる歴史検証シリーズの一冊 。中心人物は世界最大の銀行だったバンクオブアメリカの創始者A・P・ジャンニーニ(en:Amadeo Giannini)など。一般市民の様子もいきいきとして描かれている)
・F・L・アレン著 藤久ミネ訳 『オンリーイエスタディ--1920年代・アメリカ』(原著1931年) ちくま文庫、1993年。(ハーパーズ誌の編集者、実地ルポと分析。米国での古典)
・J・K・ガルブレイス著 鈴木哲太郎訳 『バブルの物語』 ダイヤモンド社、1991年。(一般向け歴史検証。世界最古のバブルと言われるオランダの「チューリップ投機」や英国の大事件「南海泡沫(southsea bubble)会社事件」について詳しい。目立たない古い薄い英語本がバブル時代に日本語訳された)
・J・K・ガルブレイス著 村井章子訳 『大暴落1929』(原著1954年) 日経BP、1997年初訳、2008年新訳。
・エドワード・チャンセラー著 山岡洋一訳 『バブルの歴史』 日経BP、2000年。
・石ノ森章太郎 『日本経済入門』 日本経済新聞社、1986年。(漫画によるバブル批判で、多面的に分かりやすく要点を押さえている。大恐慌については上掲『アメリカの死んだ日』からの引用があり、昭和の恐慌については中村本から引用している。一冊本10cm厚とハードカバー分冊がある)
・中村政則 『昭和の恐慌』 小学館、1982年。(昭和恐慌の様子を多角的に分析。分かりやすい一般向け歴史書。特に経済面からの記述が詳しい。渡辺銀行について青木の証言をそのまま引用)
・高橋亀吉 森垣淑 『昭和金融恐慌史』 講談社学術文庫、1993年。(原本は清明会出版部、1968年発行。在野の研究者による良書。一時期初学者の必読本だった)
・ピーター・テミン著 猪木武徳 ばん沢歩 山本貴之訳 『大恐慌の教訓』 東洋経済新報社、1994年。(米国の大恐慌の原因を株価暴落ではないなど多角的に検証した古典。専門書)
・"Echoes of the Depression" ,The Economist ,Oct 2nd 2008
林敏彦 「経済教室---新たな政策の枠組み必要」 『日本経済新聞』 平成20年10月10日版。PDF原文(「1929年のNY株式暴落が米国の大恐慌の原因だったわけではない」)
・ティモシー・S・グリーン著 氷川秀男 石川博文訳 『金の世界』 金融財政事情研究会、1968年。(金本位制の基礎知識が得られる。経済危機で注目される金についての一般的解説本。再版されて内容が薄められた分わかりやすくなった)
・金融恐慌史概観-日本の事例を中心として-(小竹豊治教授退任記念号)(北原道貫 三田商学研究Vol.19,No.4(19761030)pp.136-147 慶應義塾大学 ISSN:0544571X)
http://ci.nii.ac.jp/naid/110002555444/

・大恐慌期のデフレーションとその終焉(堀雅博 財務省財務総合政策研究所「フィナンシャル・レビュー」August―2002)
・基軸通貨ポンドの衰退過程に関する実証的研究(平成14年度~平成16年度科学研究費補助金研究成果報告書)金井雄一(名古屋大学大学院経済学研究科教授)
・戦間期日本の為替レート変動と輸出 畑瀬真理子(日本銀行金融研究所 金融研究 2002.6)
「1929年大恐慌」の謎 関岡正弘(PHP研究所 (2009/1/31) ダイヤモンド社から1989年に刊行されたものを再版)

●脚注

1. 広辞苑
2. 有斐閣『経済辞典』p.414
3. 有斐閣『経済辞典』p.414
4. 不破哲三『『資本論』全三部を読む 』p.45
5. 不破哲三『二十一世紀と「科学の目」』p.53
6.世界恐慌について
http://m-words.jp/w/E4B896E7958CE68190E6858C.html

7. 有斐閣『経済辞典』p.414
8. 金融工学--世界恐慌招いた「学問」の正体-- 月刊テーミス 17(12) (194) pp.28〜29 2008/12
9. 『世界恐慌を生き抜く経済学』 Mainichi Business Books、2008
10. 高橋 乗宣 『世界恐慌の襲来―日本経済は「最悪の10年」に突入する』東洋経済新報社 2008
11. "Fighting Off Depression", by Paul Krugman, The New York Times, January 4, 2009
http://www.nytimes.com/2009/01/05/opinion/05krugman.html?_r=1

12. 靴磨きの少年の名前はパット・ボローニャという。このエピソードはバブルの本質を表しているが、事実関係は明らかでない。ジョセフがいつどこで述べたかも不明である。株価暴落には仕掛け人がおりジョセフが関係者であるという説は根強い。息子であり大統領であるJFKの妻ジャクリーヌの実家ブビエ家も大恐慌前に売り抜けた証券取引人であり、これがこの疑惑を強化している。後にジョセフが初代証券取引委員会(SEC)委員長となって辣腕で証券業界を取り締まり、政界進出を果たしたことも疑いを深めている。
13. Ben S. Bernanke "The Macroeconomics of the Great Depression: A Comparative Approach," Journal of Money, Credit, and Banking, 27(1), 1995.
14. 基軸通貨ポンドの衰退過程に関する実証的研究(平成14年度~平成16年度科学研究費補助金研究成果報告書)金井雄一(名古屋大学大学院経済学研究科教授)PDF-P.9以降
15. 中村政則『昭和の歴史 第2巻』小学館 1994年
16. 世界恐慌期フランスにおける経済政策の機能(和多則明 大阪外国語大学)
http://ci.nii.ac.jp/naid/110006178922/

17. 世界恐慌と1929-1931年のフランス経済(竹岡敬温 經濟學論究Vol.52 No.特別号(19990919) pp. 1-37 関西学院大学 ISSN:02868032)
http://ci.nii.ac.jp/naid/110000405989/

18. 金本位制による通貨で現在価値で約40兆5千億円
19. 家畜、農産物、工業製品などで、ドイツは約450億金マルクと算定していた。
20. 「ルール地方案内」在デュッセルドルフ日本国総領事館2009年7月[4]PDF-P.5
21. 「第一次大戦後におけるフランスのインフレーションと通貨政策」林昭男(小樽商科大学学術成果コレクション1975-03-30)
22. 「金本位制・国際通貨制度とケインズ」松川周二(立命館経済学56巻特別号8)[6]PDF-P.14
23. 『ウォール街の崩壊』講談社
24. 「1930年代前半における都市美協会による「都市美委員会」設置の提案に関する研究」中島直人(東京大学助手)
http://ci.nii.ac.jp/naid/110006604442/

25. 書評 平沢照雄『大恐慌期日本の経済統制』(寺岡寛 日本経済評論社2001年、中京経営研究第12巻第2号2003年2月)
26. 「戦前日本の海外での企業活動」神保博彦 大阪産業大学経済論集第9巻第2号
27. 「1930年代日本における中小工業統制と産業協力活動-電球硝子工業の事例-」平沢照雄(『歴史と経済』197号(第50巻1号)2007年10月)[
http://ci.nii.ac.jp/naid/110006420230
http://wwwsoc.nii.ac.jp/seikeisi/AbstractJ_193-199.html

28. 「戦間期日本における失業問題と金融政策」加藤道也(大阪産業大学経済論集第9巻第1号)
29. 「朝鮮都市経営株式会社の事業概要-設立期を中心に : 朝鮮都市経営会社の住宅地開発に関する研究 その1(都市史:アジア,建築歴史・意匠)」石田潤一郎(日本建築学会大会学術講演梗概集(九州)2007年8月)
30. 「『水産工業』戦略の展開(上)-日本食糧工業の場合-」高宇 (立教経済学研究第61巻第1号2007年)
31. 「「戦間期日本におけるエネルギー節約政策の展開-燃焼指導に着目して-」小堀聡(『歴史と経済』第195号、2007年)
http://ci.nii.ac.jp/naid/110007030257

32. 「1930年代における日本のモロッコ貿易をめぐる諸問題」北川勝彦(関西大学『経済論集』第56巻第1号 2006年6月)
33. 東京国際空港、あじあ号、冷凍食品、霞ヶ浦干拓、東京緑地計画協議会、白水溜池堰堤
34. 「トランスボーダーの人流:1930 年代初頭ロシア極東から北海道に避難・脱出した事件を中心に」倉田有佳
35. 直接の引用は「現代経済学全集第28巻」金本位制と世界恐慌 高垣虎次郎(日本評論社 昭和7年10月25日発行)
36. アンドリュー・ボイル著「裏切りの季節」 Climate of Treason
37. 世界最悪のインフレは1946年に10垓(がい=京の1万倍、兆の1億倍)ペンゴ紙幣が発行されたハンガリーである。10億兆ペンゴ=10垓(がい)ペンゴ=1×10の21乗ペンゴ=1,000,000,000,000,000,000,000 ゼロが21個も並ぶ。実物写真
http://www.77bank.co.jp/museum/okane/0104.htm

38. The Boston Globe "Nobel laureate economist Milton Friedman dies at 94" 2006-11-16
http://www.boston.com/news/globe/city_region/breaking_news/2006/11/nobel_lauriet_e.html

参考までです。ご了承下さい。

●関連項目

・戦間期
・株式市場
・昭和一桁
・昭和恐慌
・昭和金融恐慌
・大学は出たけれど
・ブロック経済 - 自前の植民地経済圏を保持していた大国が採った対応策の一つ。帝国主義論によれば「植民地獲得競争で後れを取っていたドイツ・イタリア・日本の対外拡張主義暴発の要因となる」と説明されるが、時間軸上では枢軸国の海外進出政策とブロック経済は必ずしも因果関係や前後関係にない。

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これは世界的に大きなダメージを受けた、「歴史」ある大惨事です・・・パート5

続いてです。続いては、世界恐慌の「各国の状況」から順に書いていきます。

★各国の状況

未曾有の恐慌に資本主義先進国は例外なくダメージを受けることになったが、その混乱の状況や回復の過程・速度については各国なりの事情が影響した。植民地を持っている国(イギリス・フランス)やアメリカは金本位制からの離脱や高関税による経済ブロックによる自国通貨と産業の保護に努めたが、必ずしも成功しなかった。ソビエト連邦や日本、ドイツといった全体主義国家の場合、産業統制により資源配分を国家が管理することで恐慌から脱したが、全体主義政党や軍部の台頭が宗主国諸国との軋轢を生んだ。恐慌の発生以降も各国での通貨問題を解決するための多くの試みがなされたが恒常的な協調体制が構築されたわけではなく、結局外為相場の国際的調整は第二次世界大戦後のIMF設立を巡る議論の中に送り込まれることとなった。第一次世界大戦後、世界恐慌まで続いていた軍縮と国際平和協調の路線は一気に崩れ、第二次世界大戦への大きな一歩を踏み出すこととなった。この中で経済政策で対応し、かつ満州を経済圏として持った日本のGDPは1934年に恐慌前の水準に戻り、ニューディール政策を採ったアメリカは1936年には恐慌前の水準に回復したものの37年不況により再び34年の水準まで逆戻りし、1941年まで恐慌前の水準に回復することができなかった。

★アメリカ
「アメリカ合衆国の経済史」も参照
アメリカ合衆国の経済史について
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E5%90%88%E8%A1%86%E5%9B%BD%E3%81%AE%E7%B5%8C%E6%B8%88%E5%8F%B2

共和党のフーヴァー大統領は古典的経済学の信奉者であり、国内経済において自由放任政策を採った。その一方で1930年にはスムート・ホーリー法を定めて保護貿易政策を採り、世界各国の恐慌を悪化させた。1931年、オーストリア最大の銀行が倒産してヨーロッパ経済の更なる悪化が予想されたことに対しようやくフーヴァーモラトリアムと称される支払い猶予を行ったが、既に手遅れであり恐慌は拡大する一方だった。1932年後半から1933年春にかけてが恐慌のピークだったようで、恐慌発生直前と比べて株価は80%以上下落し、工業生産は平均で1/3以上低落、1200万人に達する失業者を生み出し、失業率は25%に達した。閉鎖された銀行は1万行に及び、1933年2月にはとうとう全銀行が業務を停止、社会主義革命の発生すら懸念された。こうした中、修正資本主義に基づいたニューディール政策を掲げて当選した民主党のフランクリン・ルーズヴェルト大統領は公約通りテネシー川流域開発公社を設立、更に農業調整法や全国産業復興法を制定し、更にラテンアメリカとの外交方針を以前の棍棒外交から善隣外交へ転換した。ただ、ニューディール政策は1930年代後半の景気回復を前に規模が縮小されるなどしたため、1930年代後半には再び危機的な状況となった。このため、同政策にどれほど効果があったかについては今日でも賛否両論がある。

アメリカ経済の本格的な回復はその後の第二次世界大戦参戦による莫大な軍需景気を待つこととなる。

★イギリス

労働党のマクドナルド内閣は失業保険の削減など緊縮財政を敷くがその政策から労働党を除名され、代わりに保守党と自由党の援助を受けてマクドナルド挙国一致内閣を組閣する。それとほぼ同時期の1931年9月21日、ポンドと金の兌換を停止、いわゆる金本位制の放棄を行った。なおイギリスが金本位制の放棄を行ったのをきっかけに金本位制を放棄する国が続出、1937年6月にフランスが放棄したのを最後に国際的な信用秩序としての金本位制は停止した。勢力にかなりの蔭りが出ていたイギリスでは広大な植民地を維持していくことができずウェストミンスター憲章により自治領と対等な関係を持ち、新たにイギリス連邦を形成、これを母体にブロック経済(スターリング・ブロック)を推し進めていくことになる(ただしインド帝国はブロック経済下でも東アジアと密接な経済関係にあったことが知られる)。

★フランス

フランスでは世界恐慌の影響を1931年まで逃れる事に成功した。1931年9月21日にイギリスが金本位からいちはやく離脱しポンドの平価切下げ(チープマネー政策)を実施して以降、フランス経済は明確に下降し、すべての指標が恐慌の進行を示した。外国貿易は持ちこたえフランス銀行の金準備はなお増え続けたが、失業は増大し物価は卸売物価も小売物価も著しく低下した。労働時間給はゆるやかに下降を始め、株式相場の崩壊は顕著であった。1931年7月に始められた原料と食料品に対する輸入数量割当制度が、イギリスの金本位離脱に続く6ヶ月間にさらに拡大され、1932年2月にはフランスで小麦粉に使用される小麦の90%が国内産であることを義務付ける法案が成立した。

フランスは第一次大戦の賠償金として1320億金マルクをドイツに請求し、約200億金マルクに相当する現物給付を受けていたが、現金での支払いをもとめ1923年1月11日にルール地方を占領していた。フランス政府はドイツからの賠償支払いを前提に大幅な赤字財政をとっており、賠償金の支払いが期待できないことが明らかになり始めた1923年以降、フランは為替相場で下落しインフレが昂進した。

1928年には金為替本位制に復帰したがイギリスが旧平価で復帰したのに対し、フランスはフラン安の新平価で復帰したため経常収支は黒字化し、また金為替本位制に否定的な立場から金の流入政策をとり、対外投資を引き上げ、経常収支の黒字を金で受け取ることを求めた。このフランスの金の吸収はとりわけロンドンの金準備への圧力となり、イギリスを再度の金本位離脱に追い込むことになった。

イギリスと同様、ファシズムに対抗するため仏ソ相互援助条約を締結。そしてコミンテルンの指導を受けたレオン・ブルム人民戦線内閣を組閣する。

★ドイツ

第一次世界大戦の敗戦で各国から巨額の賠償金を請求され、ハイパーインフレーションやフランスのルール占領などにより極度に弱体化が進んでいたドイツ経済はその後、一時的に経済の回復傾向が続いていたが、そこを襲った大恐慌によって深刻な状態へ陥った。アメリカ企業も次々と撤退、少しずつ復興しかけていた経済は一気にどん底に突き落とされた。結果、失業率は優に30パーセント以上に達し銀行や有力企業が次々倒産、大量の失業者が街に溢れ国内経済は破綻状態となる。

その中、共産主義とナチズムが台頭。失望した人々の期待を受けて国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)が大躍進を遂げ1933年、ヒンデンブルク大統領の下で国家社会主義ドイツ労働者党党首のヒトラー内閣が成立。ドイツ国会議事堂放火事件でドイツ共産党を弾圧し全権委任法を成立させる。翌年、大統領の死去と共にヒトラーは総統に就任、第三帝国が成立した。

ヒトラーはソ連での計画経済の成功を受けて作成された四カ年計画に基づき軍拡と公共事業の拡大(アウトバーンの建設等)を実施した。また、民間の重工業化を支援した。二次に亘るこの計画により失業者は劇的に減少し、経済的な回復は達成された。

その後、ヴェルサイユ条約、ロカルノ条約を相次いで破棄、ラインラントに軍隊を進駐させる。

★イタリア
「イタリアの歴史」も参照
イタリアの歴史について
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2

イタリアは元々第一次世界大戦直後から経済混乱に陥りミラノ株式取引所も不振が続いていたため、逆に世界恐慌の影響はほとんど受けず、多くのイタリア人は株価大暴落の知らせを聞いても「ああそうか、というだけで今までどおり暮らしていた」と言う。

1861年に統一されたばかりのイタリアは第一次世界大戦で領土を獲得できると期待していたが徒労に終わった。イタリアでは共産主義と国粋主義の対立が長引いていたが、ムッソリーニの組閣によりファシスト党の一党独裁が始まって以降、イタリアでは共産主義者の大半は国外に逃亡し、ストライキによる鉄道の遅延は解消された。ファシストは古代ローマの栄光を取り戻すことを目指していたが、現実のイタリアは荒廃しており、国民が豊かになるためのチャンスは他国へ移民することであった。ファシスト政権は公共土木工事と産業統制による中小企業の整理統廃合に注力し、政権は独身者への課税と母親への褒賞により出生率は向上した。

★日本

大戦後の恐慌、関東大震災、昭和金融恐慌(昭和恐慌)によって弱体化していた日本経済は、世界恐慌の発生とほぼ同時期に行った金解禁の影響に直撃され、それまで主にアメリカ向けに頼っていた生糸の輸出が急激に落ち込み、危機的状況に陥る。株の暴落により、都市部では多くの会社が倒産し就職難の者(学歴難民)や失業者があふれた(『大学は出たけれど』)。恐慌発生の当初は金解禁の影響から深刻なデフレが発生し、農作物は売れ行きが落ち価格が低下、冷害・凶作のために疲弊した農村では娘を売る身売りや欠食児童が急増して社会問題化。生活できなくなり大陸へ渡る人々も増えた。(参照:金解禁)

国民が困窮する中、労働者や小作農の立場に立つ政党が代表者を国会に送るようになり労働争議や小作争議が増え、政府は治安維持法を改めて最高刑を死刑にし、特別高等警察を全国に設置して社会主義運動の取締りを強化。

高橋是清蔵相による積極的な歳出拡大(一時的軍拡を含む)や1931年12月17日の金兌換の停止による円相場の下落もあり、インドなどアジア地域を中心とした輸出により1932年には欧米諸国に先駆けて景気回復を遂げたが、欧米諸国との貿易摩擦が起こった。1932年8月にはイギリス連邦のブロック政策(イギリス連邦経済会議によるオタワ協定)による高関税政策が開始されインド・イギリスブロックから事実上締め出されたことから、満州や台湾など旧植民地アジア(円ブロック)が貿易の対象となり、重工業化へ向けた官民一体の経済体制転換を打ち出す。

この間「満州は日本の生命線である」と言った言葉の通り、日本は大陸進出へと進んでいくことになる。ドイツやイタリアのようにファシズムやナチズムを唱える政党の躍進はなかったものの軍部の発言力は強まり、満州事変を引き起こして政府の不拡大方針を無視し、さらに五・一五事件で政党政治の幕引きをし、ワシントン海軍軍縮条約、ロンドン海軍軍縮条約の破棄、二・二六事件、日独伊防共協定の締結、そして日中戦争、第二次世界大戦に突入していく。

経済政策では1931年(昭和6年7月公布)の重要産業統制法による不況カルテルにより、中小産業による業界団体の設立のを助成し、購買力を付与することで企業の存続や雇用の安定をはかった。また大企業を中心に合理化や統廃合が進んだ。重要産業統制法はドイツの「経済統制法」(1919年)をもとに包括的立法として制定され、同様の政策はイタリアの「強制カルテル設立法」(1932年)、ドイツの「カルテル法」(1933年)、米国の「全国産業復興法」(1933年)などがある。

この間財閥は産業界を支配し、利権を求めて政治や軍に対する影響力を強めた。期間を通じて目白押しの大規模プロジェクトなどで経済的成長が図られたが、資源配分転換と国際協調を背景にした軍縮への軍部の抵抗を止められず太平洋戦争へと向かうことになる。

★ソ連

ソ連は共産主義国家だったため、主要国の中でただ一国、世界恐慌の影響を全く受けず非常に高い経済成長を続けた。以後、スターリンの推進する五カ年計画で着々と工業化を進めていった。ソビエトのプロパガンダもあり、自由主義諸国の研究者の中には社会主義型の計画経済に希望を見出す者も多く出たが、実際にはホロドモールや食糧の徴発でポーランドに脱出するロシア人の漸次増加が起きていた。極東・シベリア開発には政権により意図的に作り上げられた「にわか囚人」が大量に動員された。[34]

★世界恐慌期の各国工業生産の推移

年 アメリカ イギリス フランス ドイツ 日本 ソ連
1928年 93 94 92 99 90 79
1929年 100 100 100 100 100 100
1930年 81 92 100 86 95 131
1931年 68 84 86 68 92 161
1932年 54 84 72 53 98 183
1933年 64 88 81 61 113 196
1934年 66 99 75 80 128 238
1935年 76 106 73 94 142 193

(1929年=100)

★世界恐慌前後の各国貨幣用金の分布状況の推移

年 アメリカ イギリス フランス ドイツ 日本 世界総計
1925年末 4,399 814 978 316 576 10,244
1926年末 4,492 845 978 464 562 10,496
1927年末 4,379 842 977 471 542 10,602
1928年末 4,141 836 1,271 676 541 11,052
1929年末 4,284 791 1,641 569 542 11,272
1930年末 4,593 792 2,099 552 412 11,756
1931年6月 4,956 865 2,212 359 424 12,078

単位:100万ドル、イギリスは連合王国およびアイルランド含む。 (出典:League of Nations,Statistical Year Book,1931-2,pp.266-9)

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これは世界的に大きなダメージを受けた、「歴史」ある大惨事です・・・パート4

続いてです。続いては、1929年10月の大暴落はアメリカ合衆国における不動産価格の低落時期(ピークは1925年だった)に来ており、工業化諸国における経済後退時期である「世界恐慌」について書いていきたいと思います。

●世界恐慌について

世界恐慌(せかいきょうこう)とは、世界的規模で起きる経済恐慌(world crisis)のこと、あるいは1929年に始まった経済不況(The Great Depression)を指す。後者の事件は大恐慌世界大恐慌とも言われる。

当記事では、世界恐慌の概要とともに、とくに1929年から発生した世界恐慌について詳述する。

ある国の恐慌が次々と他国へと波及し、世界的規模で広がる事象を世界恐慌という。

マルクス経済学では、資本主義諸国の経済の有機的に連関によって、資本主義経済の矛盾も世界的に爆発的に広がる危険性を持つと捉える。恐慌がこうした要因で波及した世界恐慌の最初の例として、クリミア戦争が終結した時に穀物価格が急落したことにより1857年に起こった恐慌[4]が挙げられる。

上の分類における世界恐慌のもっとも代表的な例が1929年にアメリカ合衆国のウォール街で起きたパニックをきっかけに世界各国を襲った大恐慌であり、単に「世界恐慌」と書いて1929年の事件を表す場合もある。

また、2008年の金融危機に始まる一連の不況も「世界恐慌」と呼ばれる場合がある。ノーベル経済学賞受賞者のポール・クルーグマンも、世界的な景気後退状況について「これは、まさに第二次世界恐慌(a second Great Depression)の始まりと思われる」と述べた。(こちらに関しては、「世界金融危機 (2007年-)」の記事も参照)

・世界金融危機 (2007年-)について
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E7%95%8C%E9%87%91%E8%9E%8D%E5%8D%B1%E6%A9%9F_(2007%E5%B9%B4-)

●1929年に始まった世界恐慌

1929年10月24日にニューヨーク証券取引所で株価が大暴落したことを端緒として世界的な規模で各国の経済に波及した金融恐慌、および経済後退が起きた。1929年10月24日は「暗黒の木曜日」として知られ、南北戦争に次ぐアメリカの悲劇といわれた。

背景 [編集]
第一次世界大戦後、1920年代のアメリカは大戦への輸出によって発展した重工業の投資、帰還兵による消費の拡張、モータリゼーションのスタートによる自動車工業の躍進、ヨーロッパの疲弊に伴う対外競争力の相対的上昇、同地域への輸出の増加などによって「永遠の繁栄」と呼ばれる経済的好況を手に入れた。

1920年代前半に既に農作物を中心に余剰が生まれていたが、ヨーロッパに輸出として振り向けたため問題は発生しなかった。しかし農業の機械化による過剰生産とヨーロッパの復興、相次ぐ異常気象から農業恐慌が発生。また、第一次世界大戦の荒廃から回復していない各国の購買力も追いつかず、社会主義化によるソ連の世界市場からの離脱などによりアメリカ国内の他の生産も過剰になっていった。

また、農業不況に加えて鉄道や石炭産業部門も不振になっていたにもかかわらず投機熱が煽られ、適切な抑制措置をとらなかった。アメリカの株式市場は1924年中頃から投機を中心とした資金の流入によって長期上昇トレンドに入った。株式で儲けを得た話を聞いて好景気によってだぶついた資金が市場に流入、個人投資家も、信用取引により容易に借金が出来、さらに投機熱は高まり、ダウ平均株価は5年間で5倍に高騰。1929年9月3日にはダウ平均株価381ドル17セントという最高価格を記録した。市場はこの時から調整局面を迎え、続く1ヶ月間で17%下落したのち、次の1週間で下落分の半分強ほど持ち直し、その直後にまた上昇分が下落するという神経質な動きを見せた。それでも投機熱は収まらず、のちにジョセフ・P・ケネディはウォール街の有名な靴磨きの少年が投資を薦めた事から不況に入る日は近いと予測し、暴落前に株式投資から手を引いたと]述べた。

●展開

そのような状況の下1929年10月24日10時25分、ゼネラルモーターズの株価が80セント下落した。下落直後の寄り付きは平穏だったが、間もなく売りが膨らみ株式市場は11時頃までに売り一色となり、株価は大暴落した。この日だけで1289万4650株が売りに出されてしまった。ウォール街周囲は不穏な空気につつまれ、400名の警官隊が出動して警戒にあたらなければならなかった。

シカゴとバッファローの市場は閉鎖され、投機業者で自殺した者はこの日だけで11人に及んだ。この日は木曜日だったため、後にこの日は「暗黒の木曜日(Black Thursday)」と呼ばれるようになった。翌25日金曜の13時、ウォール街の大手株仲買人と銀行家たちが協議し、買い支えを行うことで合意した。このニュースでその日の相場は平静を取り戻したが、効果は一時的なものだった。

週末に全米の新聞が暴落を大々的に報じたこともあり、28日には921万2800株の出来高でダウ平均が一日で13%下がるという暴落が起こり、更に10月29日、24日以上の大暴落が発生した。この日は取引開始直後から急落を起こした。最初の30分間で325万9800株が売られ、午後の取引開始早々には市場を閉鎖する事態にまでなってしまった。当日の出来高は1638万3700株に達し(これは5日前に続く記録更新であり、以後1969年まで破られなかった)、株価は平均43ポイント(ダウ平均で12%)下がり、9月の約半分ぐらいになってしまったのである。一日で時価総額140億ドルが消し飛び、週間では300億ドルが失われた計算になったが、これは当時の米国連邦年間予算の10倍に相当し、アメリカが第一次世界大戦に費やした総戦費をも遥かに上回った。

投資家はパニックに陥り、株の損失を埋めるため様々な地域・分野から資金を引き上げ始めていった。この日は火曜日だったため、後にこの日は「悲劇の火曜日(Tragedy Tuesday)」と呼ばれるようになった。そしてアメリカ経済への依存を深めていた脆弱な各国経済も連鎖的に破綻することになる。

過剰生産によるアメリカ工業セクターの設備投資縮小に始まった不況に金融恐慌が拍車をかけ、強烈な景気後退が引き起こされた。

産業革命以後、工業国では10年に1度のペースで恐慌が発生していた。しかし1930年代における恐慌(世界恐慌)は規模と影響範囲が絶大で、自律的な回復の目処が立たないほど困難であった。

●大不況から世界恐慌へ

第1次世界大戦後の米国経済の圧倒的な存在感(当時世界の金の半分以上が米国に集まっていた)のため、一般的には米国の株価暴落がそのまま世界恐慌につながったとされているが、バーナンキをはじめとする経済学者は異なる見解を示している[13]。

1929年のウォール街の暴落は米国経済に大きな打撃を与えた。しかし当時は株式市場の役割が小さかったために被害の多くはアメリカ国内にとどまっており、当時の米国経済は循環的不況に耐えてきた実績もあった。不況が世界恐慌に繋がったのは、その後銀行倒産の連続による金融システムの停止に、FRB(アメリカ連邦準備制度理事会)の金融政策の誤りが重なったためであった。

大不況が世界に広まるきっかけとなったのは1931年5月11日のオーストリアの大銀行クレジットアンシュタルト(Creditanstalt, 1855年にロスチャイルド男爵により設立)の破綻であったとされる。クレジットアンシュタルトは株価暴落に伴う信用収縮の中で突然閉鎖した。東欧諸国の輸出が激減し経常収支が赤字となり、旧オーストリア帝国領への融資が焦げ付いたこと、加えて政府による救済措置が適切に行われなかったことが破綻の原因となった。オーストリア向けの融資が焦げ付いた要因としては、3月の独オーストリア関税同盟の暴露に対するフランスの経済制裁により、オーストリア経済が弱体化したことが致命的であった。

クレジットアンシュタルトの破綻を契機として、5月にドイツ第2位の大銀行・ダナート銀行(「ダルムシュテッター・ウント・ナティオナール」)が倒産し、7月13日にダナート銀行が閉鎖すると、大統領令でドイツの全銀行が8月5日まで閉鎖された。ドイツでは金融危機が起こり、結果多くの企業が倒産し、影響はドイツ国内にとどまらず東欧諸国、世界に及んだ。

当時の米国大統領、フーバーの「株価暴落は経済のしっぽであり、ファンダメンタルズが健全で生産活動がしっかり行われている(ので大丈夫)」という発言は末永く戒めとして記憶されることになった(当時の大経済学者アーヴィング・フィッシャーエール大学教授の所論でもあった)。

金本位制の元で、経済危機はそのまま経済の根幹を受け持つ正貨(金)の流出につながる。7月のドイツからの流出は10億マルク、イギリスからの流出は3000万ポンドだった。さらに数千万ポンドを失ったイングランド銀行は1931年9月11日金本位制を停止し、第1次世界大戦後の復興でやっと金本位制に復帰したばかりの各国に衝撃を与えた。イギリスは自国産業保護のため輸入関税を引き上げ、チープマネー政策を採用した。ポンド相場は$4.86から$3.49に引き下げられた。ブロック経済政策は世界中に波及し、第二次世界大戦の素地を作った。

特に1929年2月に金本位制に復帰したばかりの日本は色々な思惑から、世界経済混乱の中で正貨を流出させた(金解禁は1930年1月から1931年12月10日まで)。この決定は「嵐の中で雨戸を開けた」と評され、昭和恐慌から太平洋戦争へ至る道筋を作ったと言われる。

(当時金価格は1トロイオンス$20.67、4.25スターリングポンドであった。戦後はニクソンショックまで1トロイオンスあたり$35の固定相場である。今1トロイオンスの地金は約8万円なので、$1億=現在金価値約4000億円相当と考えられる(2008年10月現在)。ただし、当時の経済規模を考えると10倍以上のインパクトがあったと思われる)

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これは世界的に大きなダメージを受けた、「歴史」ある大惨事です・・・パート3

続いてです。ウォール街大暴落は、1929年のウォール街の大暴落(ウォールがいのだいぼうらく、英語: Wall Street Crash of 1929、または大暴落(英語: Great Crash)、1929年の株価大暴落(英語: Stock Market Crash of 1929)は、その影響の広がりや期間を考慮に入れればアメリカ合衆国の歴史史の中でも最大級に壊滅的な株価大暴落です。

それでは、アメリカ合衆国の歴史史の中でも最大級に壊滅的な「株価大暴落」について書いていきたいと思います。

●株価大暴落について

株価大暴落(かぶかだいぼうらく)は株式市場全体で株価が突如急激に低下すること。 暴落は経済要因に加えパニックにより加速される。また投機的株価バブルに続いて発生することが多い。

株価大暴落はある市場参加者の売りからポジティブフィードバックがはじまり、より多くの市場参加者の売りを加速するという群集心理に、外部経済事象が重なった社会現象である。暴落は一般に次の条件下で発生する。1)株価の上昇が長期にわたり過度の楽観主義が蔓延、2)市場で株価収益率が長期平均を上回る、3)レバレッジと信用取引に対する市場参加者の過度の依存。

暴落を数値化した定義はまだないが、数日間で市場平均株価の変動率が2ケタの低下をみせる場合が一般的である。暴落はパニック売りと突然且つ劇的な株価低下により下げ相場とは区別されるのが普通である。下げ相場は数ヶ月から数年単位でみられる市場株価の低下である。それに対し暴落は下げ相場と結び付けられることが多いが、必ずしも下げ相場を伴うわけではない。例えば1987年の暴落は下げ相場には結び付かなかった。また日本の日経平均株価にみる1990年代の下げ相場はこれといった暴落もなく数年間続いた。

●1929年のウォール街大暴落

詳細は「ウォール街大暴落 (1929年)」を参照

史上もっとも有名な暴落は1929年のウォール街大暴落であろう。怒涛の20年代に経済は急成長した。この時代はラジオ・自動車・航空機・電話・電力供給といった発明が普及した技術の黄金期であった。この時代の先陣を切ったRCAやゼネラルモータースの株価は急上昇した。金融会社もウォール街の銀行家がゴールドマンサックスなど 投資信託会社株を買い好調だった。投資家は信用取引にレバレッジを効かせて得た株式市場からのリターンに有頂天だった。1921年8月24日、ダウ式平均株価は63.9だったが、1929年9月3日には6倍以上の381.2に上昇していた。以後25年間この水準に戻ることはなかった。

その年の夏には経済に限界がみえ10月前半には株価も低下してゆくことが誰の目にも明らかだった。この株価不安に投資家は浮き足立ち事態は一気に現実化した。10月24日(通称ブラックサーズデー)には株価急落の第1波が襲来した。さらに追い立てるように10月28日のブラックマンデー、10月29日のブラックチューズデーが続いた。

ブラックマンデーにはダウ式平均株価は38ポイント低下して260になり、下落率は12.8%だった。売り注文が殺到して、投資家に手持ちの株の時価を知らせる電信システムの能力を圧倒した。電話線と電報の機能はパンクして十分対応できなかった。この情報の真空は一層の恐怖とパニックを呼んだ。投資家が歓迎した新時代の技術はこの期に及んで深刻なボトルネックとなった。

ブラックチューズデーは混迷の日だった。追加証拠金が必要となり手持ち株の現金化をせまられた投資家は売り注文に殺到した。時代の寵児だった優良株は凋落の憂き目を見た。かつて75ドルの最高値をつけたRCA株は、この日の取引開始から2時間で40.25ドルから26ドルに落ち込んだ。ゴールドマンサックスは取引開始の60ドルから終値35ドルで引けた。同様にニューヨークのファーストナショナルバンクは5,200ドルから1,600ドルに低下した。2日間でダウ式平均株価は23%低下した。

11月11日は週末で株式指標は228となり、9月の最高値から40%の下落をみた。市場では続く数ヶ月間活発な取引が展開されたが、これは焼け石に水で、やがて現代史上最悪の経済危機が投資家を呑み込んだ。

株価暴落は投資家に重大な損失を与えたが、これに続く大恐慌はさらに悪質であったことはよく知られている。暴落は多くの投資家のポートフォリオに深刻な穴を開けたが、大恐慌はそれどころか破産をもたらした。大恐慌が底をつく1932年7月時点でダウ式平均株価は89%下落していた。

●1987年の暴落

詳細は「en:Black Monday (1987)」、「ブラックマンデー」をそれぞれ参照

1980年代中期は経済における楽観主義が幅を利かせた時代である。1982年8月から頂点となる1987年8月までダウ式平均株価は776から2,722に上昇した。この株価上昇は同時期の世界の19大市場の株価を平均296%押し上げた。ニューヨーク株式市場で取引される平均株数は64,000,000株から181,000,000株に増加した。

1987年10月19日の暴落は1987年のブラックマンデーとよばれ、5日前の10月14日にはじまった株価下落のクライマックスであった。ダウ式平均株価は10月14日に3.81%下落し、10月16日金曜日にさらに4.60%下げた。しかしこれは翌週月曜日に比べれば物の数ではなかった。ブラックマンデーにはダウ式平均株価は508ポイント、22.6%を下げた。S&P500は282.7から225.06に20.4%下げた。NASDAQ指数は11.3%の下げに留まったが、その理由は売り注文が膨らまなかったのではなくNASDAQの市場システムが機能しなくなったからである。売り注文が殺到したニューヨーク証券市場では上場株2,257種のうち195種は注文に対応しきれず値がつかなかった。NASDAQの状況はさらに深刻だった。マーケットメーカーの撤退を許容する市場形成システムを重視したため、NASDAQ市場の流動性は蒸発した。多くの株取引で一株あたりの売値が買値よりはるかに高い異常な状態だった。このような行き詰まった状況で、市場は取引時間を大きく短縮した。10月19日にはNASDAQ市場でマイクロソフト株の取引は54分間で打ち切られた。

この暴落は一取引日の損失としてはウォール街の歴史で最大である。10月14日の取引開始から10月19日の取引終了までにダウ式平均株価は760ポイント、31%を下げた。

1987年の暴落は世界的な現象だった。FTSE100種総合株価指数は月曜日に10.8%、その後12.2%下げた。この10月には世界の主要市場で株価は大きく下げた。一番影響が小さかったオーストリア市場で11.4%、もっとも打撃が大きかった香港恒生指数は45.8%下落した。23工業先進国のうち19カ国の市場で下落幅は20%を上回った。

1930年代の大恐慌の再現を恐れながらも市場では暴落直後から活発な取引が展開され、その翌日には史上最高となる一日の上げ幅102.27ポイントを記録し、10月22日木曜日には186.64ポイントに更新した。ダウ式平均株価の不振はわずか2年で、1989年8月までに市場の株価は完全に回復した。

1987年の暴落の原因はまだ結論付けられていない。株式市場は長い間強気で推移し、アメリカ市場の株価収益率は戦後平均を上回っていた。S&P500社は23倍の収益率で、戦後平均の14.5倍をかなり上回った。群集心理とフィードバック循環はすべての株価暴落の主因だが、アナリストは外部誘因事象にも注目している。株価の過大評価という一般的な懸念材料のほか、プログラム売買、ポートフォリオ・インシュアランス 、デリバティブ、暴落前に発表される経済指標(例:アメリカの貿易赤字とドルの下落が公定歩合の引き上げにつながる)の悪化といった要因が槍玉にあがっている。

1987年の暴落の結果、ニューヨーク証券市場にブレーカーとなる取引制限が導入された。冷却期間があれば投資家のパニックを防げるとして、この強制的市場停止は取引時間中に市場株価が大きく下落すればいつでも発動される。

●2008年の暴落

この暴落の原因は端的に言えば、サブプライムローンの破綻による金融不安で、サブプライムショックとも言われる。 2008年の暴落は、2007年までにNYダウが史上最高値を更新し続けたことに端を発する。その後その景気拡大をささえていたサブブライムローンは2006年頃から安定的な運用を疑問視され始めていたが、なおそれは拡大を続けていた。2007年6月22日は、米大手証券ベアスターンズ傘下のヘッジファンドが、サブプライムローンに関連した運用に失敗したことが明らかになると、7月10日には米格付け機関のムーディーズが、サブプライムローンを組み込んだ住宅ローン担保証券RMBSの大量格下げを発表し、金融収縮が始まった。その後一時平静を取り戻し、NYダウは10月には再度史上最高値を更新する。が、その裏で住宅価格の下落は止まらず、その後各金融会社で(最低の)損失が明らかになると再度金融不安が拡大した。

その後2008年9月15日、米証券4位(当時)のリーマンブラザーズの破綻と同3位のメリルリンチのバンク・オブ・アメリカによる救済合併、翌16日には、米最大の保険会社AIGの経営危機による国営化が明らかになると金融収縮の懸念をし、アメリカは緊急経済安定化法案を議会で提出する。しかし、9月29日下院で否決されるとNYダウは史上最悪となる-777ドルをつけるなど、一気に金融信用収縮が加速する。 10月1日には下院で修正案が可決されたものの、時既に遅く、その毒は欧州に回り、7日にはロシアでは株価が19%下落し、アイスランドでは対ユーロでクローナが30%下落し、同国では全ての銀行が国有化されるなど、未曽有の世界同時金融危機が本格化した。 翌8日、NYが-678ドルをつけると、日経平均は翌日881.06円安(-9.62%、過去3番目/当時)と暴落した、

その後も、全く止まらず、13日日欧米の5つの中銀が資金無制限供給を受けた直後、NYが+936.42ドル,幅は過去最大(+11.08%)、翌日経平均も+1171.14円、+14.15%(率は過去最高)と大幅に上げたものの、16,24日にも下げ幅でそれぞれ-11.4,-9.6%と歴代ワースト2位、5位の下げ幅を記録し、下げ続けている。

●株式市場大暴落の数学理論

株式市場の動向を数学的に裏付ける作業は強い関心を引いてきた。株式市場の動向がランダムなガウス分布または正規分布に基づくという古典的な仮説には誤りがあるらしい。株価の大きな変動(暴落)は正規分布の予測よりもはるかに頻度が高い。 マサチューセッツ工科大学の研究では、株価暴落の周期は逆3乗則に従うという[7]。これに加え他の研究から、株価暴落は金融市場に自己組織化臨界現象**がおこる兆候であるらしいことがわかった。1963年にブノワ・マンデルブロは、株価が厳密なランダムウォーク変動をするのではなく、むしろレビーフライト**に沿うことを提唱した[8]。レビーフライトはランダムウォークの一種で時折大きな変動に妨害されるものである。1995年にロザリオ・マンテーニャとジーン・スタンレーは過去のS&P500社株価指数を分析し、5年間のリターンを計算した[9]。その結論は、株式市場のリターンはガウス分布より不安定だがレビーフライトほど不安定ではないというものだった。

研究者はこの理論を研究し続けているが、特に群衆の行動をコンピュータシミュレーションし、暴落のような現象を再現するモデルの適合性を確認中である。

●外部リンク (こちらは参考までです)

・Every Generation has its Crash
http://www.marketthoughts.com/every_generation_has_its_crash.html

・Log-periodic power law bubbles in Latin-American and Asian markets and correlated anti-bubbles in Western stock markets: An empirical study.Anders, Sornette. International Journal of Theoretical and Applied Finance 4(6), 853-920(2001).
http://arxiv.org/abs/cond-mat/9907270

・A theory of power-law distributions in financial market fluctuations. Gabaix, Gopikrishnan, Pierou, Stanley. Nature, vol 423. 15 May 2003.
・The Crash of 1987 A definitive bibliography of articles, books and websites.
http://www.lib.uwo.ca/business/crash87.html

●注釈
1. Devil take the Hindmost, Edward Chancellor. ISBN 0-374-13858-3. New York:1999. p216.
2. Preliminary Observations on the October 1987 Crash, United States General Accounting Office (GAO). January 1988. GAO/GGD-88-38. p.14, p.36
3. U.S. GAO op. cit. p.55
4. Critical Market Crashes, D. Sornette. p.6
5. U.S. GAO op. cit. p.37

6. - What caused the Stock Market Crash of 1987?
http://hnn.us/articles/895.html

7. "Stock trade patterns could predict financial earthquakes", Xavier Gavaix, MIT news, May 14, 2003.
http://web.mit.edu/newsoffice/2003/powerlaw.html

8. Mandelbrot, B. (1963) ”The variation of certain speculative prices” Journal of Business, XXXVI, 392-417
9. Mantegna, R.N., and Stanley, E. 1995. Scaling behaviour in the dynamics of an economic index. Nature 376(July 6):46.

●関連資料

・Galbraith, John K. The Great Crash. Mariner Books, New York. ISBN 0-395-85999-9.
・Kindleberger, Charles P. 2000, Manias, Panics, and Crashes: A History of Financial Crises. Wiley & Sons, New York, NY. ISBN 0-471-38945-5.
Shiller, Robert J. 2001, Irrational Exuberance. Broadway, New York, NY. ISBN 0-7679-0718-3.
Didier Sornette, Why Stock Markets Crash. Princeton University Press. ISBN 0691-09630-9

●関連項目

・暗黒の一週間

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これは世界的に大きなダメージを受けた、「歴史」ある大惨事です・・・パート2

続いてです。続いては、ウォール街大暴落 (1929年)の「経済指標」から順に書いていきます。

●経済指標

1920年代後半に続いた投機ブームは数十万人のアメリカ人が株式市場に重点的に投資することに繋がり、少なからぬ者は株を買うために借金までするという状況下で市場崩壊が起こった。1929年8月までに株式仲介人達は小資本投資家達が買おうとしている株の額面価格の3分の2以上を日常的に貸していた。85億ドル以上が貸し出しとなり、この総額はアメリカ合衆国で流通している貨幣総額を上回っていた。上がり続ける株価がより多くの人々に投資を促すことになり、人々は株価がさらに上がることを期待した。投機によってさらに株価上昇を加速させ、バブル経済を作り出した。スタンダード・アンド・プアーズ評価株の平均株価収益率は1929年9月で32.6であり、明らかに歴史的な標準より高かった。経済専門家の大半はこのできごとを近代経済史の中で最も劇的なことと見ていた。

1929年10月24日(ダウ工業株平均は9月3日に最高値381.17を付けたばかりだった)、市場は遂に崩壊し、恐慌的な売りが始まった。1931年、アメリカ合衆国上院にペコラ委員会が創設され、崩壊の原因を調査することになった。アメリカ合衆国議会は1933年にグラス・スティーガル法を成立させ、預金と貸付を取り扱う商業銀行と、株式、債券など有価証券の引受、発行および配布を行う投資銀行との分離を決めた。

1929年の大暴落を教訓として、世界中の株式市場は急速な下落の際には一時的に取引を停止する手段を決め、1929年の時のような恐慌的売却を防止すると主張した。しかし、半世紀後の1987年10月19日のブラックマンデーでは、1日だけの暴落ではあったが1929年の大暴落よりはるかに大きな株価暴落となり、ダウ工業株平均は22.6%下落した(市場はこのあと急速に回復し、わずか2日後には1933年以来となる1日での上昇幅を記録している)。

●大暴落は大恐慌に影響したか

1929年の株価大暴落と世界恐慌は、20世紀の「最大の財政危機」だったといえる。

「1929年10月の恐慌はその後の10年間世界を包んだ景気後退の象徴として機能した。」「1929年の株価大暴落は不安定な方向感覚の喪失とない合わさった恐怖を起こしたが、その衝撃は否定する心とともに急速に麻痺し、役人も大衆も妄想を抱いた。」「1929年10月24日と29日の株価暴落は、...日本を除き全ての金融市場で事実上瞬間的なものだった。」ウォール街の大暴落はアメリカ合衆国と世界の経済に大きな衝撃を与え、その直後から現在まで歴史学、経済学および政治学の分野で激しい論争の種となってきた。「持ち株会社による悪用が1929年のウォール街の大暴落とそれに続く世界恐慌に繋がったと考える人々がいる。」「多くの人々は株式市場というリスクあるものに投資することにあまりに熱心だった商業銀行の崩壊を非難してきた。」

「1929年の暴落は狂騒の20年代を震撼させ終わらせた。」「経済史家チャールズ・キンドルバーガー」によって「暫定的に表現された」ように、1929年には「効果的に存在する最後の頼みの綱となる貸し手」が居らず、もしそれが存在して「適切に行動して」おれば、「金融危機の後に付いてくる景気後退の期間を短縮するキーに」なったであろう。この大暴落はアメリカ合衆国にとって広範に拡大し長期間続くことになる一連の経過の始まりを記した。

大きな問題は「1929年の大暴落が世界恐慌を引き起こしたか?」、あるいは信用取引が加速したバブル経済の破綻と単に時期が一致しただけか、ということである。株価の下落は倒産や、事業閉鎖、労働者の首切りなど経済不況となることを含み厳しいマクロ経済的困難さを引き起こした。その結果として起こった失業率の増加や不況は大暴落の直接の結果であると見られているが、不況に繋がった単一の出来事では決してない。その後に起きた出来事に最大級の影響を与えたと見られるのが通常である。それ故に、ウォール街の大暴落は世界恐慌を始めさせた経済の下降線を報せるものとして広く認められている。

本当かどうかは別として、その後の経過はほとんどあらゆる人々にとって深刻なものだった。「学会の専門家の大半は大暴落のある1面には同意している。ずなわち、それは1日で巨万の富を消失させ、即座に消費者の購買意欲を削いだことである。」このことで世界中で合衆国正貨(すなわちドル)の取り付けを始めさせ、連邦準備制度は利率を上げて最悪の事態にせざるを得なかった。4,000ほどの貸し手が最終的に追い詰められた。また、「直近の約定価格を上回る水準でなければ空売りできない」こととするアップティックルールが、1929年大暴落後に執行され、「売り手相場では空売りして株価を下げることを防止するようになった」

多くの学会人は1929年ウォール街大暴落を一時的活況の新しい理論の一部である歴史プロセスの部分として見ている。ヨーゼフ・シュンペーターやニコライ・コンドラチエフのような経済学者に拠れば、この大暴落は単に景気循環と呼ばれる継続するプロセスで起こったひとつの歴史的事件に過ぎないとしている。大暴落の影響は単に景気循環が次のレベルに進行する速度を速めたのだと言っている。

ミルトン・フリードマンはアンナ・シュワルツとの共著、『アメリカ合衆国の金融史』で、「大不況」を深刻にしたのは景気循環の下降線、保護貿易主義あるいは1929年の株価大暴落ではなかったという主張を行っている。その代わりに国を深刻な不況に陥れたのは、1930年から1933年に続いた3波の恐慌の間に起きた金融システムの崩壊だった、と主張している。

●脚注

1. a b Pyramid structures brought down by Wall Street Crash The Times
http://business.timesonline.co.uk/tol/business/industry_sectors/utilities/article553657.ece

2. Role of 'new Tinkerman' tailor-made for Benitez The Times
http://www.timesonline.co.uk/tol/sport/football/premier_league/liverpool/article584120.ece

3. Economics focus: The Great Depression The Economist
http://www.economist.com/finance/displaystory.cfm?story_id=E1_TGVSDT

4. Reactions of the Wall Street slump The Economist
http://www.economist.com/businessfinance/displayStory.cfm?story_id=12327393

5. America gets depressed by thoughts of 1929 revisited The Sunday Times
http://business.timesonline.co.uk/tol/business/economics/article3602690.ece

6. Edward Teach - CFO Magazine (May 1, 2007). "The Bright Side of Bubbles - CFO.com". Cfo.com. 2008-10-01 閲覧。
http://www.cfo.com/article.cfm/9059304/c_9064230

7. Hakim, Joy (1995). A History of Us: War, Peace and all that Jazz. New York: Oxford University Press. ISBN 0-19-509514-6. 
8. Jude Wanniski The Way the World Works ISBN 0895263440, 1978 Gateway Editions
9. DJIA 1929 to Present (Yahoo! Finance)
http://finance.yahoo.com/q/ta?s=%5EDJI&t=my&l=on&z=l&q=l&p=&a=&c=

10. "U.S. Industrial Stocks Pass 1929 Peak", The Times, 24 November 1954, p. 12.
11. a b Richard Salesman, Richard M. "The Cause and Consequences of the Great Depression, Part 1: What Made the Roaring '20s Roar" in The Intellectual Activist, ISSN 0730-2355, June, 2004, p. 16. Emphasis original.
12. "Timeline: A selected Wall Street chronology". PBS. 2008-09-30 閲覧。
http://www.pbs.org/wgbh/americanexperience/crash/

13. The Great Depression, by Robert Goldston, pages 39-40
14. a b The Panic of 2008? What Do We Name the Crisis? The Wall Street Journal
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15. "NYSE, New York Stock Exchange > About Us > History > Timeline > Timeline". Nyse.com. 2008-10-01 閲覧。
http://www.nyse.com/about/history/timeline_trading.html

16. a b Linton Weeks. "History's Advice During A Panic? Don't Panic : NPR". Npr.org. 2008-10-01 閲覧。
http://www.npr.org/templates/story/story.php?storyId=94721470

17. "American Experience | The Crash of 1929 | Timeline | PBS". Pbs.org. 2008-10-01 閲覧。
http://www.pbs.org/wgbh/americanexperience/crash/

18. pbs.org – New York: A Documentary Film
http://www.pbs.org/wnet/newyork/

19. "Historical Index Data – Market Data Center". ウォールストリート・ジャーナル. 2008-10-14 閲覧。
http://online.wsj.com/mdc/public/page/2_3047-djia_alltime.html
ウォールストリート・ジャーナルについて
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%83%AB

20. Liquid Markets.
http://www.liquidmarkets.com/?name=djia

21. "Crashes, Bangs & Wallops". フィナンシャル・タイムズ. 2008-09-30 閲覧。 “20世紀への変わり目では、株式市場への投機は専門家に限られたものだったが、1920年代では何百万人もの「普通のアメリカ人」がニューヨーク証券取引所で投資していた。1929年8月までに株式仲介人達は小資本投資家達が買おうとしている株の額面価格の3分の2以上を信用取引で貸していた。85億ドル以上が貸し出された。”
http://www.ft.com/cms/s/0/7173bb6a-552a-11dd-ae9c-000077b07658.html?nclick_check=1

22. pbs.org — New York: A Documentary Film
http://www.pbs.org/wnet/newyork/

23. Shiller, Robert (2005-03-17). "Irrational Exuberance, Second Edition". Princeton University Press. 2007-02-03 閲覧。
http://press.princeton.edu/chapters/s7922.html

24. Paulson affirms Bush assessment The Washington Times
http://www.washingtontimes.com/news/2008/aug/11/paulson-affirms-bush-assessment/

25. Scardino, Albert (1987-10-21). “The Market Turmoil: Past lessons, present advice; Did '29 Crash Spark The Depression?”. New York Times.
http://www.nytimes.com/1987/10/21/business/the-market-turmoil-past-lessons-present-advice-did-29-crash-spark-the-depression.html

26. Downtown bestiary Times Online
27. a b Crashes, Bangs & Wallops Financial Times
http://www.ft.com/cms/s/0/7173bb6a-552a-11dd-ae9c-000077b07658.html

28. Death of the Brokerage: The Future of Wall Street National Public Radio
http://www.npr.org/templates/story/story.php?storyId=94894707

29. Kaboom!...and bust. The crash of 2008 The Times
http://www.timesonline.co.uk/tol/news/uk/article4795052.ece

30. a b The Market Turmoil: Past lessons, present advice; Did '29 Crash Spark The Depression? The New York Times
http://www.nytimes.com/1987/10/21/business/the-market-turmoil-past-lessons-present-advice-did-29-crash-spark-the-depression.html?sec=&spon=&pagewanted=2

31. Practice has plenty of historical precedents - Financial Times
http://www.ft.com/cms/s/0e317d72-86ac-11dd-959e-0000779fd18c,Authorised=false.html?_i_location=http%3A%2F%2Fwww.ft.com%2Fcms%2Fs%2F0%2F0e317d72-86ac-11dd-959e-0000779fd18c.html&_i_referer=http%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E6%259A%2597%25E9%25BB%2592%25E3%2581%25AE%25E6%259C%25A8%25E6%259B%259C%25E6%2597%25A5

32. Funds want ‘uptick’ rule back Financial Times
http://www.ft.com/cms/s/0362e760-8b24-11dd-b634-0000779fd18c,Authorised=false.html?_i_location=http%3A%2F%2Fwww.ft.com%2Fcms%2Fs%2F0%2F0362e760-8b24-11dd-b634-0000779fd18c%2Cs01%3D1.html&_i_referer=http%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E6%259A%2597%25E9%25BB%2592%25E3%2581%25AE%25E6%259C%25A8%25E6%259B%259C%25E6%2597%25A5

33. Panic control The Washington Times
http://www.washingtontimes.com/news/2008/may/12/panic-control/

こちらは参考までです。

●関連項目

・世界恐慌
・昭和恐慌

●参考文献

Bierman, Harold. "The 1929 Stock Market Crash". EH.Net Encyclopedia, edited by Robert Whaples. August 11, 2004. URL http://eh.net/encyclopedia/article/Bierman.Crash
Brooks, John. (1969). Once in Golconda: A True Drama of Wall Street 1920-1938. New York: Harper & Row. ISBN 0-393-01375-8.
Galbraith, John Kenneth. (1954). The Great Crash: 1929. Boston: Houghton Mifflin. ISBN 0-395-85999-9.
Klein, Maury. (2001). Rainbow's End: The Crash of 1929. New York: Oxford University Press. ISBN 0-195-13516-4.
Klingaman, William K. (1989). 1929: The Year of the Great Crash. New York: Harper & Row. ISBN 0-060-16081-0.
Rothbard, Murray N. "America's Great Depression"
Salsman, Richard M. “The Cause and Consequences of the Great Depression” in The Intellectual Activist, ISSN 0730-2355.
“Part 1: What Made the Roaring ’20s Roar”, June, 2004, pp. 16?24.
“Part 2: Hoover’s Progressive Assault on Business”, July, 2004, pp. 10?20.
“Part 3: Roosevelt's Raw Deal”, August, 2004, pp. 9?20.
“Part 4: Freedom and Prosperity”, January, 2005, pp. 14?23.
Shachtman, Tom. (1979). The Day America Crashed. New York: G.P. Putnam. ISBN 0-399-11613-3.
Thomas, Gordon, and Max Morgan-Witts. (1979). The Day the Bubble Burst: A Social History of the Wall Street Crash of 1929. Garden City, NY: Doubleday. ISBN 0-385-14370-2.

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これは世界的に大きなダメージを受けた、「歴史」ある大惨事です・・・パート1

皆さん、こんにちわ、更新です。今日は、10月24日です。今日、10月24日は「暗黒の木曜日」だそうです。暗黒の木曜日は、1929(昭和4)年10月24日木曜日、ニューヨーク・ウォール街の株式取引所で株価が大暴落し、世界大恐慌のきっかけとなりました。 当時のアメリカは、第1次大戦の軍需により好景気が続いていましたが、1920年代末には景気後退の前兆が見られ始めていました。10月24日の取引が開始して1時間ほどの間に急激に株価が下落し、そのスピードに人々がパニックになって一斉に売りに出ました。市場介入等により、その日の取引終了時には前日の終値まで値を戻しましたが、5日後の10月29日火曜日にも、取引開始と同時に「暗黒の木曜日」を超える売りが殺到し、「悲劇の火曜日」と呼ばれました。

ということで、今日は、「暗黒の木曜日」について書いていきたいと思います。

●暗黒の木曜日について

◆暗黒の木曜日◆

1929年10月24日木曜日に起こったアメリカ株の大暴落。
第1次世界大戦の終結後、米国経済はきわめて好調となり、株価も大きく値上がりしていきました。ところが、1929年10月29日に、これまで順調に値上がりしていたニューヨーク工業株30種平均(ダウ平均)が底なしとも言える大幅な下落に転じました。そのため、アメリカ経済は未曾有の不況へと落ち込み、それが世界にも波及して世界大恐慌へと発展していきました。

●ウォール街大暴落 (1929年)

1929年のウォール街の大暴落(ウォールがいのだいぼうらく、英語: Wall Street Crash of 1929、または大暴落(英語: Great Crash)、1929年の株価大暴落(英語: Stock Market Crash of 1929)は、その影響の広がりや期間を考慮に入れればアメリカ合衆国の歴史史の中でも最大級に壊滅的な株価大暴落である。

●概説

この株式の崩壊を表すために、「ブラックサーズデー」、続いて「ブラックフライデー」、「ブラックマンデー」および「ブラックチューズデー」の4つの段階が通常使われている。大暴落は1日の出来事ではなかったので、この4つの段階はすべて適切である。最初の暴落は1929年10月24日木曜日に起こったが、壊滅的な下落は10月28日月曜日と同29日火曜日に起こり、アメリカ合衆国と世界に広がる前例の無い、また長期にわたる経済不況の警鐘と始まりに急展開した。株価大暴落は1ヶ月間続いた。

経済学者や歴史家達はこの株価大暴落がその後の経済、社会および政治のできごとにどのような役割を演じたかについて意見の一致をみていない。「エコノミスト」誌は1998年の記事で、「手短に言えば、世界恐慌は株価大暴落と共に始まったのではない」と主張した[3]。さらに大暴落の当時に、世界恐慌が始まったのかどうかは明らかではない。1929年11月23日、「エコノミスト」誌は、「大変深刻な株価大暴落が工業生産の大半が健全でありバランスが取れていたときに工業に深刻な後退を生むだろうか?...専門家は、幾らかの後退はあったに違いないが、それが長引くものか、全体的産業不況を生み出す期間まで続く必要があったかを証明する十分な証拠が無いことに同意している。」と問いかけた。しかし、「エコノミスト」誌は、「幾つかの銀行は疑いも無く破綻し、また今後も予測されている。このような状況下で銀行は商業と産業の資金を繋ぐ余力があるだろうか?ないだろうか?銀行の位置付けは疑いも無くこの状況下のキーであり、何が起ころうとしているかは霧が晴れるまで適切に評価できるはずがない」とも警告した。

1929年10月の大暴落はアメリカ合衆国における不動産価格の低落時期(ピークは1925年だった)に来ており、工業化諸国における経済後退時期である世界恐慌に導く一連の出来事の始まりに近い時であった。

●大暴落以前

大崩壊の当時、ニューヨーク市は世界の大都市となり、そのウォール街は世界の指導的金融センターの一つになった。ニューヨーク証券取引所は世界でも最大級の株式取引所だった。

大暴落に先立つ10年間、すなわち狂騒の20年代は、都市における富と過剰の時代であり、投機の危険性について警告があったが、多くの者は市場が高い価格水準を維持できるものと信じた。大暴落の直前に、経済学者アーヴィング・フィッシャーが、「株価は、恒久的に高い高原のようなものに到達した」という有名な予言を行っていた。大きな強気相場の中での楽観論と金融上の利益は、ニューヨーク証券取引所の株価が崩落したブラックサーズデーに雲散霧消した。この日に落ちた株価はさらにまるまる1ヶ月間前例のない率で落ち続けた。

ブラックチューズデーまでの数日間、市場は非常に不安定だった。売り先行と大量取引の間に短時間価格上昇と快復の期間が散りばめられた。経済学者で著作家のジュード・ワニスキーは後に、当時アメリカ合衆国議会で論じられていたスムート・ホーリー法の成立見込みとこれらの変動を関連付けた。大暴落後、ダウ工業株平均は1930年初期に回復したが、反転して再度暴落し、1932年の大きな下げ相場の中で最安値に達した。1932年7月8日、ダウ工業株平均は20世紀始まって以来の最安値となり、1954年11月23日まで1929年に達した水準まで戻ることはなかった[。

1929年央に株を購入し持ち続けていた者は誰でも、株価が回復するまでにその成人してからの人生の大半を費やすことになった。

– リチャード・M・サルスマン

●経過

ダウ工業株平均が6年間上がり続けて当初の5倍になり、1929年9月3日に最高値381.17を付けた後で、市場は1ヶ月間急降下し、下げ初めから見れば17%下落した。

株価はその後の1週間以上にわたって下げ幅の半分を回復したが、その直後にまた下落するだけだった。下げ基調は1929年10月24日のいわゆるブラックサーズデーまで加速していった。その日は当時の記録破りとなる129万株が取引された。

同日(10月24日)午後1時、ウォール街の幾人かの指導的銀行家が取引所での恐慌と混乱に対する解決策を見つけるために落ち合った。この会合にはモルガン銀行の頭取代行トマス・W・ラモン、チェイス国定銀行頭取のアルバート・ウィギン、および国定ニューヨーク・シティバンク社長のチャールズ・E・ミッチェルが出ていた。彼らは取引所の副会頭リチャード・ホイットニーを彼らのために働く者として選出した。ホイットニーはその背後に控えた銀行家達の財務力をもとに、市場価格よりもかなり高い価格でUSスチール株を大量に購入する注文を出した。トレーダー達が見守る中で、ホイットニーは続いて他のブルーチップ(優良株)銘柄に同じような買い注文を出した。この操作は1907年恐慌を終わらせた戦術に類似しており、その日の崩落を止めることに成功した。しかし、この時に一息ついたものの一時的なものに過ぎなかった。

市場が休みの週末、ウォール街のパニックがアメリカ合衆国中の新聞で報道された。週明けの10月28日の月曜日、最初の「ブラックマンデー」にはより多くの投資家が市場から引き上げ、その日のダウ工業株平均は13%下落するという記録的なものになり、再び大規模な株価崩壊が起こった。翌10月29日、壊滅的な株価崩壊が起こった「ブラックチューズデー」には約1,600万株が取引された。この日の取引高は1968年に破られるまで40年間近くも最高記録となっていた。著作家のリチャード・M・サルスマンは、ハーバート・フーヴァー大統領が懸案のスムート・ホーリー法案に拒否権を発動しないという噂が飛び交っており10月29日に株価は更に暴落したと記した。ゼネラルモーターズの創業者ウィリアム・C・デュラントはロックフェラー家の家族や他の金融界の巨人達と一緒になって、大衆に市場における彼らの自信を示すために大量の株式を買い支えたが、その努力も崩壊を止めることはできなかった。その日にダウ工業株平均はさらに12%下落した。ティッカーテープ機(証券市場の情報を電信網によって遠隔地に伝える機械)はその日の夜7時45分ころまで止まらなかった。市場はその日だけで140億ドルを失い、1週間の損失は300億ドルとなった。これは連邦政府年間予算の10倍以上に相当することなり、第一次世界大戦でアメリカ合衆国が消費した金よりもはるかに多いものだった。

ダウ・ジョーンズ工業株平均、1929年10月28日と29日

日付 下げ幅 下落率 終値
1929年10月28日 -38.33 -12.82 260.64
1929年10月29日 -30.57 -11.73 230.07

一時的な底値は11月13日のことであり、ダウ工業株平均は198.60で終わった。市場はこの時点から数ヶ月間回復し、1930年4月17日には294.07という2番目の高値を付けた(いわゆるen:dead cat bounce)。市場は1931年4月に着実に下げ始め、1932年7月8日にダウ工業株平均が41.22を付けるまで止まらず、最高値と比べると89%の下落という衝撃的なものになった。これは19世紀に市場が始まって以来の最安値だった。

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これは「歴史」のある、「日本で初めて」の通信です・・・パート9

続いてです。「電信電話記念日」2009年イベント情報です。参考までです。

◆沖縄タイムス

【23日・金】電信電話記念日-霜降

専修学校インターナショナルデザインアカデミー卒業作品展(午前9時、県立博物館・美術館県民ギャラリー、~25日)

運天暢子ピアノリサイタル(午後7時、浦添市てだこホール)

県学校図書館研究大会・国頭大会(名護市中央公民館)

沖縄の産業まつり(午前10時、奥武山公園、~25日)

一日合同行政相談所(サンエー那覇メインプレイス、29日=うるま市役所本庁、いずれも午前10時)

http://www.okinawatimes.co.jp/news/2009-10-01-M_1-015-1_001.html?PSID=215d22405c449a1c3bebc3325222fcd5

◆日田のお祭り

《塚田くにちみこし》10月22日(木)、23日(金)
阿蘇神社の秋祭りのみこし行列。ひょっとこ踊り

《出口くにち楽》10月24日(土)、25日(日)
老松神社の秋祭りに奉納される杖楽で神社と福路神社の往復の際に行われる。

日時:10月20日(火)~27日(火)
会場:日田市天瀬町五馬地区
アクセス:
①天瀬高塚ICより市道を天ヶ瀬温泉街方面へ8km。国道210号に出て赤岩より県道12号を五馬方面へ3kmで五馬地区へ。
【天瀬高塚ICからの所要時間:25分】

②日田ICより国道212号を阿蘇方面へ5km、大宮交差点先を左折してスカイファームロードを小国方面へ12kmで五馬地区へ。
【日田ICからの所要時間:35分】

■問合せ:日田市天瀬振興局産業観光課 tel. 0973-57-3147

http://www.oidehita.com/modules/news/article.php?storyid=326

◆天瀬(天ヶ瀬温泉・湯の釣温泉)エリア宿泊情報はこちらで参照できます。
http://www.oidehita.com/modules/contents3/index.php?id=20

あくまでも、参考までです。ご了承下さい。

いかがでしたでしょうか??「電信電話記念日」。電信皆電話記念日は、1869年(明治2年)の9月19日(新暦では10月23日)に、東京・横浜間に日本で初の公衆電信線の架設工事が始められたことに由来する。1950年(昭和25年)に日本電信電話公社が制定しました。

今日は、10月23日、「電信電話記念日」。皆さんは、どう過ごしますか??

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これは「歴史」のある、「日本で初めて」の通信です・・・パート8

続いてです。電信皆電話記念日は、1869年(明治2年)の9月19日(新暦では10月23日)に、東京・横浜間に日本で初の公衆電信線の架設工事が始められたことに由来する。1950年(昭和25年)に日本電信電話公社が制定しました。

電信電話記念日は、「日本初の公衆電話線の架線工事が始められたことに由来」します。それでは、続いては、「公衆電話」というものについてまとまたものがございますので、書いていきたいと思います。参考までです。

■公衆電話

公衆電話(こうしゅうでんわ)

不特定多数の人々が利用することを目的とし、利用しやすい場所に設置される電話。日本で使用されている公衆電話機は、「電話ボックス」の電話のように街頭に設置される街頭公衆電話と、商店・売店などに設置される店頭用公衆電話との2種類に分類されていたが、1995年(平成7)に委託式の赤電話が廃止されたため、この区別はなくなり、かわって一般の公衆電話と移動体公衆電話(列車・船舶・航空機公衆電話)とに分けられるケースが多くなっている。なお、加入電話の一種ではあるが、不特定多数の人々も利用できるものとして、喫茶店・食堂などに設置されるピンク電話機がある。

1. 歴史

日本の電話交換業務は、1890年(明治23)に東京と横浜で開始されたが、公衆電話の始まりも同時期であり、電信局の中などに電話所が設けられた。街頭に初めて公衆電話が現れたのは1900年(明治33)9月で、東京の新橋・上野両駅構内に設置された。翌10月には最初の公衆電話ボックスが京橋のたもとに建てられた。これは当時「自働電話」とよばれ、5銭、10銭の二つの投入口があり、料金の投入を音の違いによって交換手に知らせるものであった。1925年(大正14)に自動式の導入を機に「公衆電話」と呼び名が改められた。その後、種々の変遷を経て、これが「青電話」になった。

硬貨式の公衆電話は1953年(昭和28)1月に、赤電話は同年10月に、ピンク電話は59年に登場した。当初、市外通話は交換取扱者への申込みによっていたが、自動で即時につながる地域の拡大に伴い、66年からは、利用者自身のダイヤルで市外通話ができる公衆電話が実用化され、公衆電話サービスは飛躍的に向上した。さらに使用硬貨が10円1種類のため、遠距離通話の増加に伴って、利用上の煩わしさ(両替や追加投入など)について改善を望む声が強くなり、100円硬貨も併用できる黄電話が72年から導入された。

その後1982年に、硬貨の投入、両替の煩わしさをなくし、より便利に使用できるように、磁気カード式公衆電話が登場し、95年(平成7)にはピンク電話をのぞくすべての公衆電話が磁気カード式公衆電話(硬貨併用型を含む)にかわり、青電話、赤電話、黄電話は姿を消した。

2. 街頭公衆電話機

もともとはいわゆる「青電話」のことで、終日利用できる電話機。主として街路などの電話ボックスに取り付けられるボックス公衆電話機と、キャビネットや駅構内・ホテル・病院などのビル内に設置される卓上公衆電話機に分けられていた。ボックス公衆、卓上公衆のいずれの電話機にも、10円硬貨専用の青色の電話と、100円硬貨併用の黄色の電話(72年導入)とがあった。

3. 店頭用公衆電話機

いわゆる「赤電話」のことで、おもに昼間の電話利用に供するため、一般商店・売店などの店頭に設置されていた赤色の公衆電話。硬貨投入により一般ダイヤル通話ができるとともに、電報発信(115番)や申込み通話(100番)も、受託者の鍵(かぎ)の操作により行うことができる。10円硬貨専用の赤電話と、100円硬貨も併用できる100円赤電話とがあった。

4. 磁気カード式公衆電話機

硬貨のかわりに磁気カード(テレホンカード)を用いて通話のできる公衆電話機。テレホンカードには、あらかじめ利用可能度数が記録されており、これを電話機へ差し込むことで、硬貨の場合と同様に通話が可能となる。テレホンカードの利用可能度数は、使用度数に応じて逐次減算され、記録度数がなくなるまで、テレホンカードを繰り返し使用することができる。緑色の公衆電話で、テレホンカードと硬貨の併用型に加え、テレホンカード専用型も導入されている。

5. デジタル公衆電話機

従来のアナログ回線にかわり、ISDN回線を使用した公衆電話機。電話機の前面にISDN端末やアナログ端末(モデム付きパソコンなど)を接続するコネクターがあり、データ通信などが可能になっている。1990年(平成2)から設置され、色はライトグレーが基本となっている。

6. ICカード公衆電話機

磁気カードではなく、ICカードを用いて通話のできる公衆電話機。ICカードは磁気カードに比べてメモリー容量が大きいことから、偽造カードがつくりにくいだけでなく、メモリーを使用した新たなサービスの可能性をもっている。1999年3月から設置されている。

なお、日本における公衆電話の設置台数は、携帯電話の普及に伴う使用頻度の低下により減少傾向にあり、2000年度末現在では約70万7233台となっている。

参考までに記しました、ご了承下さい。

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これは「歴史」のある、「日本で初めて」の通信です・・・パート7

続いてです。続いては、電話の「ネットワークのデジタル化」から「インターネット接続サービス」まで書いていきます。

7. ネットワークのデジタル化
日本における電話サービスは1890年(明治23)に開始され、以来サービスの全国的な拡大がなされたが、第二次世界大戦によりほとんどの機能を失った。戦後荒廃のなかから復興が行われ、官営事業から公共企業体に変わった日本電信電話公社(現NTT)により、6次にわたる電信電話拡充5か年計画が実施された結果、電話加入数は急速に伸びて、1977年(昭和52)には「積滞(加入申込みをしてもすぐ電話がつかない状態)解消」が達成され、79年には「全国ダイヤル自動即時化」が達成された。電話の故障率は、1953年には100加入当り1か月に19件もあったものが、84年には0.47件まで減少し、信頼性が大幅に向上している。また、1997年(平成9)には電話ネットワークのデジタル化が完成して、通話品質の遠近差がまったくないきわめて良好な通信環境が実現された。

携帯電話(PHSを含む)も2002年には7000万加入となり、いまや電話は全国どの地域のだれとでもいつでもダイヤル一つで話せる通信手段として日常生活に欠かせない存在となっている。しかし、社会の情報化の急速な進展に伴って、音声通信に加えて、ファクシミリ通信、インターネットなど、新しい通信サービスが普及し、映像通信やマルチメディア通信などのニーズが急速に高まってきている。

1970年代までの通信網(ネットワーク)は、主としてアナログ技術に頼っていたため、通信サービスごとに独立したネットワークをつくる必要があった。1980年代に広く普及したデジタル技術は、種々の情報をいったんデジタル信号に変換してしまうと共通的に扱うことができることから、種々のサービスに共通に使える統合サービスデジタル網(ISDN integrated service digital networkの略称)の構想が生まれ、1980年代の終わりにはこれが実現した。NTTでは、1984年9月から87年3月まで東京の三鷹(みたか)市・武蔵野(むさしの)市においてINS(Information Network System)モデルシステムとよばれるISDNの実験を行い、1988年4月よりINSネットサービスとして提供している。

一方、1990年代に入ると、大学、研究機関などを中心にインターネットの利用が急速に広がり、一般的な利用へのニーズも高まってきた。このようなニーズに応えて、日本では93年(平成5)7月から第二種電気通信事業者(回線設備を自前で保有しない通信事業者)により、96年12月からは第一種電気通信事業者(NTTなどの回線設備を自前で保有する通信事業者)によるインターネット接続サービスが開始された。

8. INSネットサービス

(1988年~)音声による通信の他に、ファクシミリやデータ・映像などの情報をデジタル化して高品質でしかも経済的に送ることができるISDNの国際標準に準拠したデジタル・ネットワークサービスである。最高速度が電話2回線分に相当する128キロビット/秒の「INSネット64」サービスと、電話23回線分に相当する1.5メガビット/秒の「INSネット1500」サービスがあるが、「INSネット64」サービスが一般的である。1996年12月にはインターネット利用を中心に契約数が100万(電話回線に換算すると200万回線相当)、2001年3月には1000万を超える契約数となっている。

9. インターネット接続サービス

(1993年~)世界中のインターネットへの接続サービスを一般ユーザーに対して定額かつ安価な料金で提供するサービスである。インターネット接続サービスは、電話やINSネットサービスと違い、次のような特徴をもっている。

(1)パケットネットワーク コンピュータ通信であるため、コンピュータから出てくるデータのかたまりに行き先などの制御情報をヘッダとして先頭につけたパケットを単位として、情報を伝達するネットワーク。回線ネットワーク

(2)ベストエフォート型 伝送品質の保持には最大限努力するが、保証はしない。しかし、その分通信料金が割安に提供される。ギャランティー型

(3)コネクションレス型 あらかじめ電話のように通信相手に対する回線を確保する手順を経て実際の情報伝達(通話)を始めるのではなく、必要に応じて適宜情報伝達を行う。コネクション型

(4)常時接続 電話機は通常は交換機からは切り離されており、すなわちネットワークには接続されておらず、通信を行うときだけ接続されるが、インターネットでは通信端末がつねにネットワークに接続されている状態が基本となっている。通信端末とネットワークを常時接続する方法としては、専用線による方法、INSの固定接続サービスによる方法、CATVのケーブルモデムによる方法、ADSL(asynmetric digital subscriber line)を用いる方法、加入者系無線アクセスシステム(FWA Fixed Wireless Access)という無線通信による方法などがある。なお、通常の電話回線やINSサービスを用いて、まずインターネットのアクセスポイントにダイヤルして、通信端末を接続してからインターネットを利用する方法はダイヤルアップ接続とよばれる。

◆電気通信事業者

日本の電信電話事業は創業以来つねに国の事業として運営されてきた。しかし、第二次世界大戦の荒廃により、国営では、産業、経済、社会の進展や国民の要望に対応して電信電話を効率よく復興することは困難となった。そこで企業的な経営体制を導入することで、設備の整備拡充、国民の利便の確保などを図ることとし、事業運営形態を電気通信省から公共企業体に変更することとなり、1952年(昭和27)に日本電信電話公社(電電公社)が発足した。また、翌53年には国際電信電話株式会社(KDD)が発足し、国際電信電話業務は民営で行われることとなった。

さらに1985年4月の法改正により、電気通信事業は自由化された。従来の日本電信電話公社は日本電信電話株式会社(NTT)となって民営化し、NTT、KDD以外にも新たな電気通信事業への参入が可能となった。新規参入業者のうち、自ら回線設備を所有し電気通信事業を行う事業者を第一種電気通信事業者という。1985年6月に参入計画のトップをきった第二電電(DDI)をはじめ、国鉄(現JR)系の日本テレコム、建設省(現国土交通省)・日本道路公団系の日本高速通信など5社に対し、第一種電気通信事業の許可があった。

第一種電気通信事業者から回線設備を借用して電気通信事業を行う事業者を第二種電気通信事業者という。2001年(平成13)4月1日現在で第一種電気通信事業者は343事業者。NTT、NTTドコモなどのほかに新第一種電気通信事業者とよばれる日本テレコム、KDDI(2000年10月にKDD、DDI、日本移動通信が合併して成立)などの長距離系のほか、地域系、国際系、衛星系、移動体系、CATV系がある。また、回線設備を借りてサービスを提供する第二種電気通信事業者は2001年4月1日現在で9006事業者である。

 参考文献
1.日本電信電話公社編『電信電話事業史』(1959・電気通信協会)

2.川中徳重編『電気通信年鑑1983』(1983・さんちょう株式会社)

3.日本電信電話株式会社編『日本電信電話公社社史』(1986・情報通信総合研究所)

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これは「歴史」のある、「日本で初めて」の通信です・・・パート6

続いてです。続いては、電話の「電話の種類」から「いろいろな電話サービス」まで書いていきます。

4. 電話の種類

(1)単独電話 電話局との間に設置された電話回線を1人の加入者が使用する電話。

(2)共同電話 1本の電話回線を2人以上の加入者が共同で使用する電話。申し込んでもなかなか電話がつかない時代に、少ない設備で多くの加入者に電話機を設置するために用いられてきたが、1人の加入者が話し中のとき別の加入者は利用できないという欠点があるため、設備が拡充された今日ではそのほとんどが単独電話に移っている。

(3)構内交換電話(PBX) 電話局からの一般加入電話回線および加入者宅に設備される交換設備と、その交換設備に接続される内線電話機から構成される。構内交換電話は、主として事業所において多数の内線電話が必要な場合に利用される。従来は外からの通話に対しては交換手を介して手動で接続されていたが、日本では1989年からサービスの始まった1.5メガビット/秒のISDNを用いて内線への自動接続ができるPBXダイヤルインが普及している。

(4)ビル電話 高層ビルなどにおいて、集団的な電話需要がある場合に設備されるもので、電話局の交換機とは別のビル電話用の交換機または多重化装置を設置する。

(5)公衆電話 街頭、店頭その他の場所に設置され、だれでも利用できる電話。公衆電話は、街頭専用の青電話(10円硬貨のみ使用可)からはじまったが、現在はほとんどがテレホンカードと併用できるものに代わっている。そのほかに、店頭専用の赤電話、100円・10円硬貨併用の黄電話がある。

このほか、列車公衆電話、船舶公衆電話、自動車公衆電話、航空機公衆電話などがある。なお、一般の単独電話ではあるが、店頭等において客が利用できるようにしたピンク電話も公衆電話の機能をもつ。

5. 通話の種類

(1)区域内通話 単位料金区域内相互の通話であり、距離のいかんにかかわらず一律3分ごとの従量制料金(約10円/3分)となっている。単位料金区域とは、行政区画、通話の交流状況からみておおむね一体とみられる地域で、通常そのなかに数個の電話局ごとに定められている電話加入区域を含んでいる。

(2)区域外通話 単位料金区域相互間の距離が長くなるにつれて10円で通話できる秒数が逐次短くなるように定められている。この区域外通話については、事業者によって夜間割引、深夜割引、および土曜・休日割引など多様な割引制度が提供されている。

(3)国際通話 国際通話には、利用者が直接相手国利用者をダイヤルして接続する自動通話と、オペレーターを介して接続する半自動通話(発信国のオペレーターのみ介在)および手動通話(発信国と着信国双方のオペレーターが介在)がある。その料金は、自動通話は6秒ごとに課金され、半自動通話および手動通話は最初の3分以降1分ごとに課金されるのが普通である。事業者や地域によっては、夜間割引および休日割引など多様な割引制度がある。

6. いろいろな電話サービス

電話をいっそう便利に使うため、各種のサービスが行われている。おもなものは次のとおりである。

(1)プッシュホン ダイヤル速度のスピード化と音響による簡単なデータ送信をできるようにするため、ダイヤル部分をボタン式とした電話機である。データ送信機能を用いて、銀行の預金残高照会システム、新幹線の列車座席予約システムなどへアクセスし残高照会や座席予約などを行うことができる。

(2)ホームテレホン 電話回線1回線で電話機4台まで設置でき、どの電話機からでも発着信できる機能のほか、転送機能、相互通話機能、インターホンとの接続などの機能を付与した電話機である。

(3)ビジネスホン ボタンの操作により2個以上の電話機について電話回線の共通利用、電話機相互間の内部通話、通話中の回線保留などができる。ビジネスホンは交換手も交換室も不要であり、手軽でかつ費用が低廉であることから、小規模なPBXとして、またPBXやビル電話のサブシステムとして広く利用されている。

(4)キャッチホン 通話中に第三者からの着信があった場合に、電話機のフックボタンを押すことにより、先の通話を保留したまま第三者と通話ができるもので、話し中の多い加入者に便利に使われている。

(5)でんわばん 不在時や終業時に電話がかかった場合、発信者に対し、不在の事実や理由、または連絡先電話番号を自動的に案内する。

(6)転送電話 不在中に着信する電話をあらかじめ指定した電話へ自動的に転送する。

(7)留守番電話 不在中に着信があった場合、不在の旨を告げたのち相手の要件を自動的にテープ等に録音する。

(8)二重番号サービス 忙しいときや就寝時など必要な電話以外は受けたくない場合、あるいはいたずら電話対策に役だつもので、一つの電話機に対して通常の電話番号のほかにもう一つの電話番号(裏番号)を付与し、裏番号は近親者など特定の人以外は知らせないことにしておく。

(9)料金着信払通話サービス(コレクトコール) 外出先などから自宅や会社への通話を、発信側に課金せずに手動接続により着信者の同意が得られると着信側に料金を負担させるものである。

(10)着信課金サービス(フリーダイヤル) 特定の電話機に対するダイヤル通話について、これにかかわる料金を着信側で負担するサービスであり、通信販売会社等が料金を負担して消費者などからの商品注文等に応じたいという場合に用いられている。日本では〈0120〉から始まる特殊番号を用いているため、0120番サービスともよばれる。アメリカ、カナダをはじめ局番に〈800〉番を用いている国々では、同様に800番サービスとよばれる。

(11)クレジット通話サービス 通話料金の請求先としての加入電話をあらかじめ契約しておき、出張先などで行った通話の料金をその加入電話に課金するもの。外出先から全国どこへでも通話ができるので、あたかも自分の電話を持ち歩いているのと同様の効果がある。クレジット通話には手動サービスと自動サービスがある。

(12)電話会議サービス あらかじめ登録された会議招集者が他の会議参加者を呼び出すことにより、最大30人の音声会議ができるものである。また、これと同様なサービスに、一般加入者を対象とした「三者通話サービス」がある。

(13)移動体通信サービス 「いつでも、どこでも、だれとでも」通話したいという要望にこたえるため、各種の移動通信サービスがある。移動通信は、1980年代の初めころから自動車電話、船舶電話、列車電話やポケットベル(日本では2001年よりクイックキャストに名称変更)などのサービスが始まり、ほかに航空機電話(公衆のみ)などのサービスが提供されてきたが、1990年代に入ると端末の小型化が進み携帯電話が実現したこと、料金が低廉なPHSが出現したことなどで急速に需要が増大し、2000年以降は従来の電話加入数を上回る加入数となっている。

(14)福祉用機器 ひとり暮らしの高齢者や身体障害者が緊急ボタンを押すことにより特定の連絡先を呼び出せる「あんしん」、聴覚障害者用に相手の声を大きくできる「めいりょう」、相手の声を頭部の骨に伝え、その振動で聞く「ひびき」などがある。

これらのサービスは今後はさらに多様化すると予想される。

 参考文献
1.日本電信電話公社編『電信電話事業史』(1959・電気通信協会)

2.川中徳重編『電気通信年鑑1983』(1983・さんちょう株式会社)

3.日本電信電話株式会社編『日本電信電話公社社史』(1986・情報通信総合研究所)

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これは「歴史」のある、「日本で初めて」の通信です・・・パート5

続いてです。電信電話記念日を書いておりますが、先ほどは、「電信」、「電信符号」について書きました。続いては、「電話」について書きたいと思います。参考までです。

「電話の発明」から「電話を接続するための設備」まで書いていきます。

■電話

電話(でんわ)
telephone

電気通信の一種。音声を電気的信号に変え、離れた場所に伝達し、これをふたたび音声に戻して相互に通話できるようにした通信手段をいう。

1. 電話の発明

音を物理的方法で伝達しようとする研究は相当古くから行われていたが、それらは、糸や棒の両端に振動板をつけ、一端で受けた振動を機械的に他端に伝えるものであったため、実用化には至らなかった。電流によって音声を伝える現今の電話方式は1837年アメリカのページCharles George Page(1812―68)が原理を発見、これに基づきフランスのブールスールCharles Bourseul(1829―1912)が1854年に音声による可撓(かとう)振動板の振動を利用する着想を発表した。ドイツのライスJohann Phillip Reis(1834―74)は1861年にこの着想による実験を行い、電話の実現に向けて一歩を進めた。

このような研究をベースにして、実用的な電話機の発明は、1876年3月にアメリカ人のグラハム・ベルによって成し遂げられた。ベルの電話機は、音波振動にしたがった電流変化をつくりだし、その電流変化を伝えることによって音声を伝えるという方式であった。最初の実験で、助手のワトソンに話した“Mr. Watson, come here, I want you”(ワトソン君、用があるからちょっと来たまえ)は、電話機を通じた人類最初のことばとして有名である。ベルはそれまでの学問的な研究の域を脱し、電話の実用化を進めた点で「電話の父」とよばれている。ベルの製作した最初の電話機は、電磁石の前に振動片を置いた構造であり、受話・送話とも同じものが用いられた。

2. 日本の電話の沿革

ベルの発明した電話機は、発明の翌年の1877年(明治10)に早くも2台が日本へ輸入され、赤坂御所内の宮内省と赤坂溜池葵(ためいけあおい)町の工部省との間2キロメートルで実験が行われた。これが日本における電話の始まりである。最初は主として警察が電話を取り上げて、1878年ごろから東京、横浜、大阪などで官庁・警察の通信に利用した。1883年には交換機を使った官庁電話の交換が始まり、1890年には初めて東京、横浜において電話交換業務が開始された。当時の電話加入数は東京が155加入、横浜が42加入の計197加入であった。その後、電話の便利なことがわかり、加入者は次々と増えて1892年には1504加入となった。1943年(昭和18)には108万加入まで増加したが、第二次世界大戦により減少し終戦時には半分以下の46万にまで減少した。その後、戦後の復興に伴い日本電信電話公社(現NTT)発足時の1952年に155万加入であったものが、1968年には1000万加入、1972年には2000万加入、1975年には3000万加入、1985年には4500万加入、さらに1996年(平成8)にはNTTの電話加入数としては最大の6130万加入に達した。それ以降は、ISDN、携帯電話あるいはインターネットなどの新サービスへの移行によって電話加入数は減少を続けている。

3. 電話を接続するための設備

電話を接続するための設備は、電話機、交換機、交換機相互を結ぶ伝送路、交換機と電話機を結ぶ加入者線路の四つに大きく分類される。このうち伝送路については、使用する伝送媒体により、(1)有線(現在ではほとんどが光ファイバーケーブル)伝送、(2)地上無線伝送、(3)衛星通信の3種類があるが、伝送容量の大きい有線伝送が主体となっており、現用システムの故障や非常災害時の代替用として地上無線伝送や衛星通信が使われている。

◆電話機

ベルの電話機をもとに国産第1号の電話機が1878年(明治11)に製造されたが、その音声はすこぶる微弱であって、実用化にはほど遠いものであった。それまでの電話機の欠点を補う優れた電話機であったガワーベル電話機が1887年にイギリスから輸入され、1890年に電話交換業務が開始されたときにはこのガワーベル電話機が使われた。1896年には、ハンドルを回すデルビル磁石式壁掛電話機が、また1899年には長距離通話用のソリッドバック磁石式壁掛電話機が登場した。その後、手動交換方式から自動交換方式へ移行するのに伴い、ダイヤル式の電話機が登場した。1927年(昭和2)には2号自動式卓上電話機、1933年には3号電話機、1950年には4号電話機が実用化され、さらに1962年には600形電話機が実用化されて回転ダイヤル式電話機として完成の域に達した。また、プッシュ式の電話機は、1969年に登場しコンピュータへのアクセスが可能となったことで、電話機からの自動予約など電話サービスの多様化を可能にした。現在では、電話機とインターホンやファクシミリを組み合わせたり、コードレス機能を付加することで多種多様な機能、デザインをもった電話機が普及している。

一方、公衆電話は、1900年に新橋と上野に磁石式公衆電話機が設置されたのがその始まりである。その後、1953年には10円硬貨を使用する4号自動式公衆電話機が実用化され、このころから卓上形のものを赤電話、ボックス形のものを青電話として使い分けされるようになった。2002年(平成14)現在では、カード式公衆電話(緑色)、カード式ISDN公衆電話(グレー)およびIC(integrated circuits)カード式ISDN公衆電話が実用化されている。

◆交換機
日本における交換機は、1890年に東京と横浜を結んだ磁石式交換機がその始まりである。この最初の交換機は電話交換手が接続する手動交換機であった。その後、大量の通話を迅速、正確に接続するため、交換機は自動交換機へと移り変わった。自動交換機は、その初期のステップ・バイ・ステップ交換機に始まり、1950年代前半からはクロスバー交換機、さらには制御系にコンピュータを用いる電子交換機、1980年代になるとデジタル交換機へと、多機能かつ小型化されたものが導入されてきている。日本では1997年12月に、電話用の交換機はすべてデジタル交換機に置き換えられた。

◆伝送路

交換機相互間の電話回線を多重化して経済的にかつ一定の品質で結ぶ設備が伝送路である。アナログ回線の多重化には、3.4キロヘルツの帯域をもつ電話1回線の信号を4キロヘルツごとの周波数間隔で配列する周波数分割多重(FDM frequency division multiplexing)とよばれる方式が使われてきた。デジタル回線の多重化は、電話の音声信号を符号化した64キロビット/秒の符号列を単位として、多重化する符号列を8ビットの時間スロットに順次配列してゆく時分割多重(TDM time division multiplexing)とよばれる方式が使われている。デジタル伝送路は、日本では1960年代の初めから導入され始めたが、1997年12月には交換機とあわせてすべての伝送路はデジタル化された。

有線伝送路としては、最初は裸線によるものであったが、その後、無装荷ケーブル(1932)、同軸ケーブル(1956)へと順次広帯域のケーブルを用いることによって、多重伝送させてきた。同軸ケーブルを用いて1970年代には、アナログ方式では1万0800回線の多重伝送、デジタル方式では5760回線の多重伝送が実用化された。1981年には、光ファイバーケーブルが最初に導入され、当初は100メガビット/秒(電話1440回線相当)であったが、1995年には10ギガビット/秒(電話13万回線相当)のデジタル伝送が実用化されている。今日の光通信は、時分割多重とあわせて多数の波長を用いる波長分割多重(WDM wavelength division multiplexing)を併用しており、2000年代に入り数100ギガビット/秒ないし数テラビット/秒の伝送路が実現されている。

地上無線伝送路としては、4ギガヘルツ帯のマイクロ波を用いて1954年に東京、名古屋、大阪で実用化されたのが始まりである。このときの伝送容量は1システム当り360回線であった。その後、2ギガヘルツ帯(1957)、6ギガヘルツ帯(1961)、11ギガヘルツ帯(1961)、15ギガヘルツ帯(1967)と相次いで新しい周波数帯が開拓され、今日では4ギガ、5ギガ、6ギガヘルツ帯が長距離伝送用に、また2ギガ、11ギガ、15ギガヘルツ帯が中・短距離伝送用に、さらに20ギガヘルツ帯は主として短距離用に用いられている。無線伝送の伝送容量は利用できる周波数帯域が大きな制約となるが、20ギガヘルツ帯のデジタル方式では1システム当り5760回線が実現されている。

国内の衛星通信による電話については、1983年に通信衛星CS‐2を用いてサービスが開始され、離島や災害時の通信確保をおもな目的とした。その後、1988年からはCS‐3を用いて、地上ネットワークの混雑時に迂回路として衛星通信を利用する新たな用途を加えた。1995年(平成7)にはN‐STAR(エヌスター)衛星が打ち上げられ(1996年より商用サービス開始)、従来の用途に加え、日本の近海を航行する船舶などを対象とした移動通信用の回線としても利用されるようになった。

◆加入者線路

交換機と電話機とを結ぶ線路には、通信ケーブルおよびケーブルの敷設に必要な電柱、地下管路、マンホールなどが必要である。初期の段階は裸線によるものであったが、1893年より風水害等に強く、多数の銅線を収容できるケーブルが用いられるようになった。現在では絶縁物にはプラスチックが使用されており、最大の対数(1対は銅線2本)としては3200対のケーブルが用いられている。

 
 参考文献
1.日本電信電話公社編『電信電話事業史』(1959・電気通信協会)

2.川中徳重編『電気通信年鑑1983』(1983・さんちょう株式会社)

3.日本電信電話株式会社編『日本電信電話公社社史』(1986・情報通信総合研究所

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これは「歴史」のある、「日本で初めて」の通信です・・・パート4

続いてです。電信の「衛星通信システム」から「6.無線通信士の資格制度」まで書いていきます。

4. 衛星通信システム

これにかわる遭難通信システムとして、次のような衛星通信システムが考案された。それは、コスパス・サーサット衛星(コスパスはロシアの衛星、サーサットはアメリカの衛星でおのおの4個ずつ)を極軌道で低高度を周回させておく。すべての船舶には非常用位置指示無線標識Emergency Position Indicating Radio Beacon(EPIRB(イパーブ))を船外に取り付け、もし船舶が遭難して沈没し、そのEPIRBが海面下4メートルに達したときに水圧センサーが作動してEPIRBを浮上させ、121.5メガヘルツ、243メガヘルツ、406メガヘルツ等の電波を海面から発射する。この信号はデジタル信号であり、コスパス・サーサット衛星は自己の軌道上の運行によるドップラー効果(電波の発信源からの位置関係が急速に変化するために受信する周波数が変化する現象)を利用して遭難船舶の位置を測定し、位置情報を加えて陸上の受信局であるローカルユーザーズターミナル(LUT)に向けて1.6ギガヘルツ帯のデジタル信号電波で中継する。LUTは世界に30局を予定しており、航行する船舶は毎日1回、自船の位置情報を海域を担当する救難機関に無線を通じて連絡しておくようにする。衛星に中継された遭難通報を受信したLUTは、遭難船舶の付近を航行している船舶をリストから割り出して救助を依頼するというものである。

この制度は世界の大多数の国々の賛同を得て、「将来」の意味をもつ文字「F」をはずしGMDSSと称して1992年2月から順次新造船舶から実施に移された。一部の国々の反対は無視され、いわゆる先進国の利益を優先させることとなった。当初からGMDSSは1999年2月からの完全実施を目標としていたが、この時点でも開発途上国の多くは対応が遅れており、海岸局の設備もままならない状況にあった。しかし、IMOは構成員である先進諸国の意向を重視して、GMDSSを予定の期日に完全実施に移した。GMDSS船の通信担当者は、第一級総合無線通信士の資格を必要とせず、第三級海上無線通信士の資格でたりることになっており、航海士等がその資格をとれば、通信を行うことができる。

日本では海上保安庁の円海山通信統制事務所(横浜市磯子)がLUTとしての業務を行っており、受信された信号は東京霞が関の国土交通省合同庁舎内に設置されている海上保安庁の通信所(東京JNA)に接続されている。この無線局は大陸沿岸と北緯17度、東経165度の線によって囲まれる海域において発生する海難について統制する責任をもつことになっている。

GMDSSはコスパス・サーサット衛星とイパーブのみによって完成するのではなく、万一の場合を考えて二重化させる必要がある。それには、2183.5キロヘルツのSSB無線電話システムおよび、短波の周波数偏移方式のDSC(Digital Selective calling)で相手方を呼び出したあとに短波SSB無線電話、狭帯域直接印刷電信等に切り替えて遭難通報を送るケースを考慮して、一般通信のためのシステムをバランスよく選択するように指導しているのである。この場合、一般通信にモールス通信を選ぶ船舶はないと予想されるので、1999年以降は海上通信の世界からもモールス通信が消えると考えられていた。

5. システムの問題点と国際的責任

わが国では、NTTの長崎無線局が1999年(平成11)1月31日をもって一切のモールス信号による電気通信業務を停止した。遭難・緊急・安全に関する通信業務は、海上保安庁だけに委ねられた。開発途上国の未移行船舶の措置には先進国は関心を示さなかった。日本の近隣諸国の海岸局も未整備であり、日本政府の支援に依存しているが、完成は2年ほど遅れるという。

GMDSSについては、わが国も大きな問題を抱えており、漁業無線においては、遠洋漁船の無線機器の改装がほとんど進んでいない。その理由は、これまで遠洋漁船の通信士として勤務していた第三級総合無線通信士という資格の保有者は、完全移行後は同じ漁船の無線局にも乗船勤務できなくなるので、無線機器の改装を行っても、これを運用できる無線従事者が得られないからである。国際無線電話通信に使用できる言語は、英語のほかにフランス語、スペイン語、中国語であり、これ以外の言語は使用できない。英語により無線電話の通信ができる第三級海上無線通信士への資格の変更には、国家試験によって英語(会話を含む)が課せられるが、その出題レベルが最高資格の第一級総合(または海上)無線通信士と同等と規則に定められていて、きわめてハードルが高いのである。漁業界で不足する通信士の数は5000人を超え、その数に等しい漁船が遠洋海域で操業できなくなることが現実となった。日本の漁船はイパーブを除いてはほとんど新体制に移行できない状況にあるので、漁業界の対応が可能となる時期まで、官民了解の臨時措置により、陸上から海上に向けて送信されるすべてのデジタル情報(気象報、水路通報、航行警報など)を、漁業海岸局がモールス符号に翻訳して再送信するという条件で、第三級総合無線通信士の資格保有者が遠洋漁業の漁船の無線局に勤務することを認め、かろうじて操業を可能とさせている。このため、日本の漁業用海岸局の20局ほどと、所属漁船多数が当分モールス通信で運用している。操業の安全は従来どおり守られるが、国際的な責任は果たせる状況にない。この状況からいつになったら抜け出せるのかの保証もまったくない。

日本近海での移行後の現状は、韓国、中国、台湾の海岸局とその所属の船舶が、2000年10月現在もモールス符号で通信しており、ほかにもモールス通信を廃止しない国があるようである。もっとも懸念されるのは、イパーブの誤発射がきわめて多いと報告されていることで、海上保安庁において受信される衛星経由の遭難警報は、9割以上が遭難の事実を伴わない誤発射であり、DSC(短波およびインマルサットC)で中継される遭難信号も、9割以上が誤動作または誤操作によるものであると報告されている。そして世界中がこのような状況にあるのに、改善計画もたてないことは、主要国の主管庁の怠慢か悪意以外の何物でもなく、いまや(2000年10月現在)全世界で、このシステムが「狼少年」となってしまっている。IMOやITUが誠意をもって原因の究明、システムの改善についての具体的な検討に入らなければ、タイタニック号の悲劇を繰り返すことになると関係者は憂慮している。少なくとも、このままでよいはずはない。「誰でも何時でも何処とでも」という現在の通信技術への無責任な信頼は、海上通信においては思い上がりであり、もっと謙虚であるべきと思われる。

6. 無線通信士の資格制度

無線通信の通信操作は、無線局の種別と送信電力などによって定められたなんらかの無線通信士の資格をもつ無線従事者か、無線局に選任されている主任無線従事者の監督を受けなければ行ってはならないと電波法に定められている。

無線通信士の資格には、最高資格の第一級総合無線通信士をはじめとして、第四級アマチュア無線技士に至る16もの段階がある。

第一級総合無線通信士、第二級総合無線通信士、第三級総合無線通信士、第一級海上無線通信士、第二級海上無線通信士、第三級海上無線通信士、第四級海上無線通信士、航空無線通信士、第一級海上特殊無線技士、第二級海上特殊無線技士、第三級海上特殊無線技士、航空特殊無線技士、第一級アマチュア無線技士、第二級アマチュア無線技士、第三級アマチュア無線技士、第四級アマチュア無線技士。

なお、GMDSSにおける外航船舶の無線局に選任を必要とする通信士の資格は第三級海上無線通信士であり、国家試験においてモールス通信の実技試験を要求されない。技術能力は第三級総合無線通信士のレベルであるが、英語の試験は第一級総合無線通信士と同等の高レベルの能力を要求される。

続いてです。参考までに、「電信符号(でんしんふごう) 」というものについて書きたいと思います。

■電信符号

電信符号(でんしんふごう)

モールス通信に使用するモールス符号と印刷電信に使用する印刷電信符号をいう。

1. モールス符号

短点と長音(短点の3倍の長さ)の組合せによって文字や記号を表す符号で、電流や電波を電鍵(でんけん)で直接・間接に制御して送信を行う。モールス符号の自動的な送出装置も各種あって、放送業務や航法援助業務(無線標識局等)などの特殊な用途に使用されている。しかしモールス通信は、手によって電鍵を操作し、受信音響を耳で聴き判断するのが本来の姿である。和文と欧文の符号があり、欧文の符号は国際電気通信連合の電信電話世界主管庁会議の決議によって規定され、和文の符号は電波法の運用規則に明記されている。

2. 印刷電信符号

5単位符号と6単位符号の2種の符号があり、5単位符号は欧文の文字・記号のみを表すが、6単位符号は欧文・和文両者の文字・記号を表すことができる。欧文の6単位符号は前述の主管庁会議で第二国際電信アルファベットとして規定されている。6単位符号は和文の文字・記号を表すため6単位の組合せを必要とするが、同時に欧文の表示も可能である。しかしこの符号は文字と符号との関係がかならずしも一様ではなく、電信電話公社型、専用電信型、加入電信型など3種類ほどの異なった配列があるうえ、欧文との関係にも混乱があり不都合な点が多い。これは日本では公衆通信を日本電信電話公社(現、日本電信電話会社)が独占していたために生じた弊害と考えられ、早急に統一が望まれる。

参考までに記しました、ご了承下さい。

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これは「歴史」のある、「日本で初めて」の通信です・・・パート3

続いてです。今日は、「電信電話記念日」を書いております。続いてですが、「電信」とうものがどういうものなかまとまたものがございますので参考まで、書いていきたいと思います。

電信の「歴史」から「海上通信の変遷」まで書いていきます。

■電信

電信(でんしん)
.telegraph

電気通信における信号伝送方式の一種。伝送しようとする文言・画像などを電気的な符号や信号に変換して送信し、または受信する装置、およびこれを運用する行為、または送達された電報をいう。

1. 歴史

人類は1000年以上も前から、のろしやトムトム(太鼓)などを通信の手段としてきた。文章を送る必要があるときは早馬(はやうま)や伝書鳩(でんしょばと)などがその手段となった。1785年にフランスのクーロンCharles A. de Coulomb(1736―1806)によって帯電体または磁極の引力斥力の法則、いわゆるクーロンの法則が発見されたのち、多数の研究者が静電気、磁石、電流の磁気作用、電流による化学変化などを応用する通信方法を考案した。これらの一部は、イギリスの鉄道に採用されたが、ほとんど実用化されることなく推移した。

一方、1793年にフランスのシャップClaude Chappe(1763―1805)は、セマホールsemaphoreとよばれる腕木(うでぎ)通信によって、パリとリール間で230キロメートルに及ぶ遠距離高速通信に成功した。これは、約10キロメートルごとに設けた高い塔の上の腕木の形の変化を望遠鏡で観測して、これを中継するもので、類似の方式がイギリスでも実用化された。

電気を用いる電信といえるものは、イタリアのボルタCount Alessandro Volta(1745―1827)によって有名な「ボルタの電池」が発明されたあとに実用化されている。

イギリスのクックSir William F. Cooke(1806―79)とホイートストンSir Charles Wheatstone(1802―75)は1837年に五針電磁式電信機の特許をとり、1.5キロメートルの距離の通信実験を行った。これがグレート・ウェスタン鉄道に採用され、ロンドンのパディントンとウェスト・ドレイトン間21キロメートルの実用化に成功した。このシステムは1852年ごろにはイギリス内において6500キロメートルの電信路を完成するまでになっていた。

もう一つの偉大な発明は、アメリカのモースSamuel F. B. Morse(1791―1872)とベイルAlfred Vail(1807―59)によって1837年に成し遂げられた有名なモールス電信機である。

モースはアメリカの画家であり、1835年にニューヨーク大学の美術史の教授として迎えられた。32年にヨーロッパ留学を終えての船旅のおり、乗り合わせた船客に見せられた電磁石に大きな興味をもち、電信機の感応素子として利用できるという確信を得た。そしてモールス符号を考案し、ベイルのもつ機械についての能力と結び付くことによってモールス電信機が誕生した。1844年ワシントンとボルティモア間の64キロメートルに電線を敷いて行われた実験において最初に送られた電文は「神のなせし業(わざ)WHAT HATH GOD WROUGHT」であった。1963年にアメリカのケネディ大統領が通信衛星シンコムによるナイジェリアの総理大臣との7万2000キロメートルを隔てた最初の会話を、このことばで結んだという逸話が残っている。

日本でも、外国から電信機が渡来する前の1849年(嘉永2)、佐久間象山(さくましょうざん)が電信機をつくって実験している。日本に最初にモールス電信機をもたらしたのは、アメリカのペリーである。1854年(安政1)に横浜において1.6キロメートルの通信実演を行ったと伝えられている。最初の公衆通信は、1870年1月(陰暦明治2年12月)に東京と横浜間でブレゲー電信機によって開通し、9月には大阪と神戸間で開通した。当時世界では電信が実用期に入っており、ボンベイ(現ムンバイ)―スエズ間、ロンドン―コペンハーゲン間、パリ―ベルリン間、アデン―スエズ間、ロンドン―カルカッタ(現コルカタ)間、などに電信回線が開通していた。アメリカでも国内の回線の延長が1万2000キロメートルにも達していた。1858年には、延長3600キロメートルの大西洋海底電信線が完成したが、約1か月で不運にも不通となったといわれる。

◆無線電信

無線による電信はイタリアの青年マルコーニGuglielmo Marconi(1874―1937)によって1896年に発明された。マルコーニの発明はマクスウェルJames Clerk Maxwell(1831―79)の電磁波に関する理論と、ヘルツHeinrich Rudolf Hertz(1857―94)による電磁波の存在を示す実験を熟知してのうえで、共振現象とコヒーラー検波器を利用し、モールス符号を使用することによって達成された。翌年に行われたデモンストレーションの際、これを見守る科学者の前に送られてきた文字は“HEINRICH HERTZ”であったと伝えられているのも、この事情を物語るものである。

日本の無線電信の歴史のなかで特筆すべきものは、日露戦争での日本海海戦における活躍である。1905年(明治38)5月末、哨戒(しょうかい)艦信濃(しなの)丸は対馬(つしま)の沖に近づくロシアの大艦隊を発見し、有名な「敵艦見ゆ」という無線電信を発して大勝利の端緒を開いた。マルコーニが実験に成功してからわずか10年後のことであり、無線電信機は安中常次郎(あんなかつねじろう)(1871―1913)の手によって製作されたと記録されている。

その後、第一次、第二次の世界大戦では通信の戦争といわれるほどの技術的進歩をみるのであるが、真空管の発明は有線・無線を問わず電信の通達距離を飛躍的に延ばし、通信速度を10倍以上もあげることに役だった。各種部品の性能向上は、周波数の安定化、高周波化を可能とした。すべての科学技術や工業の発展が通信技術の発展につながり、通信機は兵器としての役割を強めていった。

第二次世界大戦後の50年間の技術の進歩は、枚挙にいとまがない。トランジスタ、IC(集積回路)、LSI(大規模集積回路)の登場によってデジタル信号の高速処理が可能となり、信号の多重化、自動化、記憶、変換など、先人たちが夢想だにしなかったようなレベルにまで到達した。

現在、日本からの対外通信は海底ケーブルと通信衛星とによって行われているが、広帯域回線を含み、KDDIや各通信事業者が帯域を分け合って有効に利用している。写真電送、ファクシミリ、データ伝送も電信の部類に含まれ、惑星観測衛星から送信される写真データも電信の部類に属するのである。

2. 電気通信業務における電信

電気通信業務は電信と電話に分けられている。電信は電報で知られるように利用者が文字で書いて送達を依頼した原稿を第三者が仲介し、符号化して目的地まで伝送ののち、復号して文字に直したうえで受信人に配達する形態の通信である。電話は利用者相互の対話であるが、電信は送信依頼の時刻と配達の時刻との間に通常いくらかの時間が必要である。この時間は短ければ短いほどよいが、電話のように即時性は要求されないから、通信回線の空き時間を利用できるため、その伝送能力を効果的に活用させるのに役だっている。

また電信は文書として記録に残される形態の通信であるから、重要な指令を正確に伝達するような場合に適した方式であるといえる。

■電信の運用

電信の符号にはモールス符号があり、印刷電信には五単位符号と六単位符号とがある。五単位符号は英文の伝送に、六単位符号は和文と英文の伝送に使用される。印刷電信の伝送路は周波数分割、時分割などの方法で多重化され広帯域伝送となっている。個々の利用者は日本電信電話会社(NTT)またはKDDIなどから回線と設備の提供を受け、これによって直接テレタイプ通信を行うことができる。これを加入電信とよび、特定の通信相手との間に専用の通信回線を借り受けて行う印刷電信を専用電信とよぶ。

1990年代に入るとモールス電信は先進国ではほとんど使用されなくなり、海上通信も印刷電信が二つの形態で運用されている。一つはARQ(automatic request for repetitionの略、自動誤字訂正方式)システムという短波を使用しての狭帯域直接印刷電信(NBDP)システムである。この通信方式は、フェージング(電波の受信状態が時間的に変化する現象)の激しい短波回線を利用するために発生する誤字・脱字を受信側で自動検出して再送要求するもので、欧米では1960年代から実用段階に入っているが、日本では1981年から試験的に英文だけの運用が始められた。この方式は誤字率も驚くほど低く、非常に実用性のある方式と考えられるが、インマルサット(国際海事衛星通信)による無線電話が好まれる日本ではほとんど普及していない。

衛星通信では主として電話と電信(テレックス)が使用されている。陸地相互の衛星中継はインテルサット衛星により、また陸地と船舶との間の衛星中継はインマルサット衛星によって行われる。海上では動揺する船舶上のパラボラアンテナをつねに対地静止衛星に向けておくための制御がかなり複雑であるが、高速印刷電信によって瞬時に船舶と陸上の加入電信設備とが結ばれ、船舶通信に革命的な進歩をもたらしたことは間違いない。

海上通信で普及の著しいものとして、模写電信システムがある。これは短波帯で運用されるファクシミリであり、1950年代の後半ごろから天気図や新聞を船上で受信し、航海の安全や乗組員の文化的生活の一助となっている。

3. 海上通信の変遷

印刷電信や衛星通信の発達にもかかわらず、モールス通信システムは海上通信において1999年1月まで最重要な通信方式として維持されてきた。無線電信がマルコーニによって発明されてまもない1912年には、イギリスの豪華客船タイタニック号の遭難事故が発生し、1500名を超える犠牲者を出したが、その原因が無線電信運用のまずさにあることが明白になり、船舶における無線電信の重要性が認識された。この認識にたって海上無線通信運用のための世界的な規則を定めるべく、国際無線電信連合の主管庁会議がロンドンに招集された。こうして海上人命安全条約や国際無線電信条約が結ばれ、海上通信、とくに遭難通信をすべての通信の疎通に対して優先させる理念が確立された。

1992年までの電気通信条約に付属する無線通信規則やわが国の国内法である電波法、船舶安全法などには、この理念が貫かれている。それによれば、遠洋航海に従事する大型の船舶には、もっとも理想的な通信設備として500キロヘルツの遭難周波数の電波でモールス符号による遭難信号を手動および自動で送出することのできる送信設備と、聴覚で遭難周波数のモールス信号を聞き取ることができる受信設備の設置が強制され、第一級または第二級の無線通信士の資格をもつ通信士を選任しなければならないことになっていた。この500キロヘルツの無線電信送信設備は昼間に190海里(約352キロメートル)以上の通達距離をもつことを証明しなければ、外国に向けて出航できないというきわめて厳しい条約になっていたのである。500キロヘルツのような中波帯の電波は、通達距離以内ではつねに安定に受信できるので、聴覚聴取と自動受信(オートアラーム)とを併用する遭難警報や緊急通信の受信体制は万全であり、190海里以内で発生する海難事故にはただちに対処できる体制で世界の船舶が航行していたことは確実であった。

しかし、技術の進歩により、モールス通信システムが崩壊する時期が到来した。世界の海運界では、国際海事機関(IMO)を中心として科学技術の進歩に適応する合理的な船舶運行のあり方を検討し、この研究を「将来の海上における遭難と安全に関する全世界的な制度Futures Global Maritime Distress and Safety System」(FGMDSS)と名づけた。このなかの海上無線通信の改革については、1975年ごろからIMOの無線通信部会、国際電気通信連合(ITU)の世界無線主管庁会議(WMRC)および国際無線通信諮問委員会(旧CCIR、現在はITU‐Rに統合)が研究してきた。そして、遭難通信については、500キロヘルツを使用する無線電信は、その通達距離が350キロメートル程度しかなく、今後は世界のどこで遭難しても瞬時に陸上で把握することが必要であるうえ、モールス符号の送受信には長時間の訓練が必要であり、特殊技能をもつ通信士以外は遭難通信が行えないのは不都合であるとの結論を下し、遭難通信にモールス無線電信を使用するのを取りやめることとした。

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これは「歴史」のある、「日本で初めて」の通信です・・・パート2

続いてです。続いては、電気通信省の前身である「逓信省」について書きたいと思います。参考までです。

●逓信省について

逓信省(ていしんしょう)とは、大日本帝国憲法下の日本に存在した、郵便や通信を管轄する中央官庁である。

内閣創設時から第二次世界大戦中の行政機構改革で統合されるまで、交通・通信・電気を幅広く管轄していた。第二次世界大戦後にも復活して1946年から1949年まで存在したが、この時期には通信事務のみを管轄した。現在の総務省、日本郵政(JP)、及び日本電信電話(NTT)は、1946年から1949年までの逓信省の後身に相当する。

逓信省(ていしんしょう)とは、大日本帝国憲法下の日本に存在した、郵便や通信を管轄する中央官庁である。

内閣創設時から第二次世界大戦中の行政機構改革で統合されるまで、交通・通信・電気を幅広く管轄していた。第二次世界大戦後にも復活して1946年から1949年まで存在したが、この時期には通信事務のみを管轄した。現在の総務省、日本郵政(JP)、及び日本電信電話(NTT)は、1946年から1949年までの逓信省の後身に相当する。

●沿革

・1885年12月22日、内閣創設に際して逓信省が発足。農商務省から駅逓局と管船局を、工部省から電信局と燈台局を承継。
 ・逓信省の名の由来は駅逓の逓と電信の信をあわせたものである。
・1891年8月16日、電気事業の監督行政を所管。
・1892年7月21日、内務省から鉄道行政を移管。
・1893年11月10日、水運事業・陸運事業の監督行政を所管。
・1908年12月5日、鉄道行政を内閣所属部局の鉄道院に移管。
・1923年4月1日、陸軍省から航空行政を移管。
・1928年11月5日、陸運事業の監督行政を鉄道省に移管。
・1938年1月11日、厚生省設置。簡易保険に関する経営管理業務は逓信省から厚生省の外局たる保険院に移管。
 ・逓信省には、簡易保険の契約募集、周知宣伝、資金運用などの第一線業務のみが残留。
・1941年12月19日、逓信省の外局として海務院を設置。逓信省内部部局の管船局と外局の燈台局は海務院に統合。
 ・地方部局においても、逓信局の海事部門を分離して、海務院の地方部局たる海務局を設置。
・1942年11月1日、簡易保険に関する経営管理業務を厚生省から逓信省に復帰させ一元化。
・1943年11月1日、逓信省と鉄道省を統合し、運輸通信省を設置。
 ・戦争中の海陸輸送体制強化を図るためである。
 ・逓信省の所管事務のうち、郵便・貯金・保険・電信・電話の事業は運輸通信省の外局たる通信院が所管。海務院の海事行政は運輸通信省海運総局が所管。航空行政は運輸通信省航空局が所管(ただし航空機製造業に関する行政は軍需省に移管)。電気行政は軍需省に移管。
・1945年5月19日、運輸通信省から通信院を分離し、内閣所属部局として逓信院を設置。これにより、運輸通信省は運輸省に改称。
・1946年7月1日、逓信院を廃止して逓信省を再設置。
 ・戦前の逓信省とは異なり海運・航空・電気は所管せず、通信事業のみの官庁となる。
・1949年6月1日、逓信省廃止。二省分離(郵電分離)により、郵政省電気通信省を新設。

●本省所在地の変遷

・第一期: 京橋区木挽町(中央区銀座)
工部省電信局として使用すべく現在の郵便事業株式会社銀座支店(旧銀座郵便局)用地に建設され落成したばかりの洋風2階建て煉瓦造の庁舎を、逓信省発足直後から本省として使用した。1907年1月の火災で焼失したあと、同地に煉瓦造3階建ての新庁舎が1909年6月完成し引き続き本省として使用した。

・第二期: 麹町区大手町(千代田区大手町)
木挽町の庁舎が1923年の関東大震災によって焼失したあと、逓信省は大手町の元印刷局跡地(現在の逓信ビル用地)に建てられた木造平屋の仮庁舎を本省として使用した。帝国議会の新議事堂が完成したあとに、仮議院が使用していた場所(現在、経済産業省旧館使用地)に逓信省の新庁舎を建設する計画だったが、新議事堂建設が長引いているうちに昭和恐慌や日中戦争が始まり新庁舎建設の機会を逸してしまった。

・第三期: 麻布区飯倉町(港区麻布台)
大手町の木造仮庁舎が余りにも長く続いたあと、1943年秋に、当時貯金局が使用中の飯倉庁舎(現在は日本郵政グループ飯倉ビル)を通信院の本庁舎として移転使用することとなった。この庁舎は、紀州徳川侯爵家の邸宅跡地に建設され、1931年から貯金局が使用していたものである。なお、この飯倉庁舎の所在地を俗に"狸穴"と呼ぶことが多く、そのためこの場所の旧町名も狸穴町であったものと混同されがちだが、狸穴町を旧町名としていた区域は飯倉分館とは道路を挟んで反対側のロシア大使館周辺である。
飯倉町の庁舎は通信院から逓信院を経て逓信省復活後も引き続き使用され、二省分離後も郵政省と電気通信省とが共用していた。電気通信省は日本電信電話公社への移行後しばらくして赤坂葵町(現虎ノ門)に仮移転したが、郵政省は1969年7月の霞が関移転まで長らく飯倉に本省を置いた。

●郵便

1871年4月20日の郵便創業時、郵便事業は宿駅制度をつかさどる駅逓司の所管であり、初代駅逓頭は浜口梧陵(7代目浜口儀兵衛 ヤマサ醤油創業家当主 「稲むらの火」のモデル)であるが、近代郵便事業の展開は第2代駅逓頭前島密(制度開始当時は駅逓権頭として英国視察中)の指導の下進められた。この駅逓司は民部省・大蔵省・内務省・農商務省と所属が変わる間に駅逓寮・駅逓局と昇格。1885年に逓信省が設立されるとその所属となった。

1887年には「〒」マークが制定された。これは逓信省の頭文字「テ」をデザイン化したものであるとされる(詳細は同項目参照)。1900年にはそれまでの郵便規則・郵便条例・小包郵便法などが統合され(旧)郵便法が制定された。1920年には貯金局と簡易保険局が設けられた。その後郵便事業は通信院・逓信院・復活した逓信省を経て、郵政省に受け継がれることになる。

●電信・電話

工部省の所管であった電信事業は逓信省に受け継がれ、1890年には電話事業も管轄するようになった。以降電信と電話の所管は一貫して逓信省(および通信院・逓信院)のものであったが、1949年に省が解体(郵電分離)されると電気通信省へと移った。なお電気通信省は1952年に日本電信電話公社に改組され、その監督は郵政省が行うこととなった。

●海事

民間船舶に関する事務は農商務省商務局管船課が行っていたが、1882年に管船局へと昇格した。1885年に内閣制度が創設されると逓信省の管轄とされた。1896年には海難審判制度を定めた「海員懲戒法」が公布され、翌年には海員審判所が設立された。太平洋戦争開戦直後の1941年12月19日、海運の国家統制を目的に、海事に関する業務は海務院へと移された。

●鉄道

1872年の新橋-横浜間鉄道開業の前年、工部省に鉄道寮が設けられた。その後鉄道局へと昇格したが、1885年に工部省が廃止されると内閣の直属となった。1890年には鉄道庁となり内務省の外局になったが、1892年には逓信省の外局とされ、その翌年には内局化され逓信省鉄道局となった。1897年に現業部門を外局として独立させ、鉄道作業局(1907年に帝国鉄道庁へと改組)としたため、鉄道局は監督行政のみを受け持つことになった。1908年に鉄道局と帝国鉄道庁を統合して内閣鉄道院が設立され、鉄道事業は逓信省の手を離れることとなった。

●電気

かつて、電気用品取締法が存在したとき、対象製品に付けるマークに「〒」が使われた。これもかつて逓信省が所管していたときの名残であった。 現在製造される製品にはこのマークは付いていない。

●航空

1923年陸軍省から航空局が移管され、逓信省の外局となった。1938年航空機乗員養成所を設置する。

●歴代の逓信大臣等

・明治憲法のもとでは、内閣総理大臣が交代しても各大臣の地位に影響はなく、何らの任免発令もないまま引き続き大臣の職にとどまることも可能だった。
・兼任の場合の表記は次のとおり区別した。
 ・「何々大臣による兼任」としたのは、他大臣が本官であり、逓信大臣が兼官の場合。
 ・「何々大臣を兼任」としたのは、他大臣が兼官であり、逓信大臣が本官の場合

逓信大臣(第1期)
1 榎本武揚 第1次伊藤内閣
黒田内閣 1885年12月22日-1889年3月22日
(1888年4月30日-1888年7月25日、農商務大臣を臨時兼任)
2 後藤象二郎 黒田内閣
第1次山縣内閣
第1次松方内閣 1889年3月22日-1892年8月8日
3 黒田清隆 第2次伊藤内閣 1892年8月8日-1895年3月17日
4 渡邊國武 第2次伊藤内閣 1895年3月17日-1895年10月9日
(1895年8月27日-1895年10月9日、大蔵大臣を兼任)
5 白根專一 第2次伊藤内閣
第2次松方内閣 1895年10月9日-1896年9月26日
6 野村靖 第2次松方内閣 1896年9月26日-1898年1月12日
7 末松謙澄 第3次伊藤内閣 1898年1月12日-1898年6月30日
8 林有造 第1次大隈内閣 1898年6月30日-1898年11月8日
9 芳川顯正 第2次山縣内閣 1898年11月8日-1900年10月19日
10 星 亨 第4次伊藤内閣 1900年10月19日-1900年12月21日
11 原 敬 第4次伊藤内閣 1900年12月22日-1901年6月2日
12 芳川顯正 第1次桂内閣 1901年6月2日-1903年7月17日
13 曾禰荒助 第1次桂内閣 1903年7月17日-1903年9月22日
大蔵大臣による兼任
14 大浦兼武 第1次桂内閣 1903年9月22日-1906年1月7日
15 山縣伊三郎 第1次西園寺内閣 1906年1月7日-1908年1月14日
16 原 敬 第1次西園寺内閣 1908年1月14日-1908年3月25日
内務大臣による兼任
17 堀田正養 第1次西園寺内閣 1908年3月25日-1908年7月14日
18 後藤新平 第2次桂内閣 1908年7月14日-1911年8月30日
19 林 董 第2次西園寺内閣 1911年8月30日-1912年12月21日
(1911年8月30日-1911年10月16日、外務大臣を臨時兼任)
20 後藤新平 第3次桂内閣 1912年12月21日-1913年2月20日
21 元田肇 第1次山本内閣 1913年2月20日-1914年4月16日
22 武富時敏 第2次大隈内閣 1914年4月16日-1915年8月10日
23 箕浦勝人 第2次大隈内閣 1915年8月10日-1916年10月9日
24 田健治郎 寺内内閣 1916年10月9日-1918年9月29日
25 野田卯太郎 原内閣
高橋内閣 1918年9月29日-1922年6月12日
26 前田利定 加藤(友)内閣 1922年6月12日-1923年9月2日
27 犬養毅 第2次山本内閣 1923年9月2日-1924年1月7日
(1923年9月2日-1923年9月6日、文部大臣を兼任)
28 藤村義朗 清浦内閣 1924年1月7日-1924年6月11日
29 犬養毅 加藤(高)内閣 1924年6月11日-1925年5月30日
30 安達謙藏 加藤(高)内閣
第1次若槻内閣 1925年5月30日-1927年4月20日
31 望月圭介 田中(義)内閣 1927年4月20日-1928年5月23日
32 久原房之助 田中(義)内閣 1928年5月23日-1929年7月2日
33 小泉又次郎 濱口内閣
第2次若槻内閣 1929年7月2日-1931年12月13日
34 三土忠造 犬養内閣 1931年12月13日-1932年5月26日
35 南弘 齋藤内閣 1932年5月26日-1934年7月8日
36 床次竹二郎 岡田内閣 1934年7月8日-1935年9月8日
37 岡田啓介 岡田内閣 1935年9月9日-1935年9月12日
内閣総理大臣による兼任
38 望月圭介 岡田内閣 1935年9月12日-1936年3月9日
39 頼母木桂吉 廣田内閣 1936年3月9日-1937年2月2日
40 山崎達之輔 林内閣 1937年2月2日-1937年2月10日
農林大臣による兼任
41 児玉秀雄 林内閣 1937年2月10日-1937年6月4日
42 永井柳太郎 第1次近衛内閣 1937年6月4日-1939年1月5日
43 鹽野季彦 平沼内閣 1939年1月5日-1939年4月7日
司法大臣による兼任
44 田邊治通 平沼内閣 1939年4月7日-1939年8月30日
45 永井柳太郎 阿部内閣 1939年8月30日-1940年1月16日
(1939年8月30日-1939年11月29日、鉄道大臣を兼任)
46 勝正憲 米内内閣 1940年1月16日-1940年7月22日
47 村田省藏 第2次近衛内閣
第3次近衛内閣 1940年7月22日-1941年10月18日
(1940年7月22日-1940年9月28日、鉄道大臣を兼任)
(1941年7月18日-1941年10月18日、鉄道大臣を兼任)
48 寺島健 東條内閣 1941年10月18日-1943年10月8日
(1941年10月18日-1941年12月2日、鉄道大臣を兼任)
49 八田嘉明 東條内閣 1943年10月8日-1943年11月1日
鉄道大臣による兼任

通信院総裁(運輸通信省)
  小松茂 東條内閣 1943年11月1日-1944年4月11日
  塩原時三郎 東條内閣
小磯内閣
鈴木(貫)内閣 1944年4月11日-1945年5月19日

逓信院総裁(内閣)
  塩原時三郎 鈴木(貫)内閣
東久邇宮内閣 1945年5月19日-1945年8月30日
  松前重義 東久邇宮内閣
幣原内閣 1945年8月30日-1946年4月8日
  (欠) 幣原内閣
第1次吉田内閣 1946年4月8日-1946年6月30日
新谷寅三郎逓信院次長が総裁心得を務める

逓信大臣(第2期)
50 一松定吉 第1次吉田内閣 1946年7月1日-1947年5月24日
51 片山哲 片山内閣 1947年5月24日-1947年6月1日
内閣総理大臣による臨時代理
52 三木武夫 片山内閣 1947年6月1日-1948年3月10日
53 冨吉榮二 芦田内閣 1948年3月10日-1948年10月15日
54 吉田茂 第2次吉田内閣 1948年10月15日-1948年10月19日
内閣総理大臣による臨時代理
55 降旗徳弥 第2次吉田内閣 1948年10月19日-1949年2月16日
56 小澤佐重喜 第3次吉田内閣 1949年2月16日-1949年6月1日

★逓信次官

・次官参照

● 関連項目

・電気通信大学
・逓信総合博物館

表・話・編・歴日本郵政グループ(JPグループ)

JP各社 日本郵政 - 日本郵便 - 郵便局 - ゆうちょ銀行 - かんぽ生命

前身 日本郵政公社 - 郵政事業庁 - 郵政省 - 逓信省

旧契約の引継 郵便貯金・簡易生命保険管理機構

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これは「歴史」のある、「日本で初めて」の通信です・・・パート1

皆さん、こんにちわ、更新です。今日は、10月23日です。10月23日は、「電信電話記念日」だそうです。電信皆電話記念日は、1869年(明治2年)の9月19日(新暦では10月23日)に、東京・横浜間に日本で初の公衆電信線の架設工事が始められたことに由来する。1950年(昭和25年)に日本電信電話公社が制定しました。

ということで、今日は、「電信電話記念日」について書きたいと思います。

●電信電話記念日について

電信電話記念日(でんしんでんわきねんび)は、1869年10月23日(旧暦明治2年9月19日)に、東京~横浜間の電信線架設工事に着手したことにちなむ記念日。10月23日。

1950年5月に当時の電気通信省が制定した。元々前身の逓信省においては逓信記念日が制定されており、逓信記念日は4月20日という日付自体は郵便事業の創業にちなんで選定されたものだが、記念日事業は電信電話を含む逓信事業全体を包括するものだった。ところが、1949年6月に従前の逓信省が郵政省・電気通信省の2省に分離した際に逓信記念日の4月20日は郵政記念日として郵政省に受け継がれたので、電気通信省独自の記念日が望まれるようになり、電信電話記念日が制定された。

当初は電気通信省の省名にあわせて電気通信記念日と称しており、1952年8月の日本電信電話公社移行後もそのままだったが、電信電話の呼称が次第になじんできた1956年からは日付は10月23日のままで電信電話記念日と改称された。

●関連項目

・日本の記念日一覧

続いてです。電信電話記念日は、1950年の5月に当時の「電気通信省」が制定したそうです。続いては、「電気通信省」について書きたいと思います。

●電気通信省について

電気通信省(でんきつうしんしょう)は過去に存在した日本の中央省庁。

●来歴

・1949年(昭和24年)6月1日、逓信省が二省分離(郵電分離)され、郵政省とともに電気通信省が設置された。
・1950年(昭和25年)6月1日、電気通信省の電波庁は廃止され、電波監理行政は総理府に新設された電波監理委員会が引き継いだ。
・1950年12月12日、電気通信省の航空保安庁は廃止され、運輸省に新設された航空庁に業務を引き継いだ。
・1952年(昭和27年)8月1日、電気通信省は廃止され、日本電信電話公社に移行した。総理府の電波監理委員会も廃止されたことにより、電気通信監督行政、電波監理行政は郵政省が引き継いだ。

●歴代の電気通信大臣等

・辞令のある再任は代として数え、辞令のない留任は数えない。
・臨時代理は空位の場合のみ記載し、海外出張等の一時不在代理は記載しない。

電気通信大臣
1 小澤佐重喜 第3次吉田内閣 1949年6月1日-1950年6月28日 郵政大臣兼任
2 田村文吉 第3次吉田内閣 1950年6月28日-1951年7月4日 郵政大臣兼任
3 佐藤榮作 第3次吉田内閣 1951年7月4日-1952年8月1日 郵政大臣兼任

●電気通信次官

・次官参照

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かつての此処は「都」が在り、古い「歴史」のある場所でした・・・パート7

続いてです。「平安遷都2009年」のイベント情報です。

◆平安遷都1300年祭イベント

2010年平城遷都祭は
春 … 4月24日(土)~5月9日(日)
夏 … 8月20日(金)~8月27日(金)
の宮跡事業に携わります。
いよいよ平城遷都1300年祭が来年に迫りました。平城遷都祭2010はさまざまなイベントを現在企画中です。事業の準備段階である企画推進から関わってくださる方を募集しています。実行委員となって、あなたも私たちと一緒に1300年祭を盛り上げましょう。

詳しくはこちらで参照できます。
http://www.sentosai.jp/

◆平安遷都1300年サイト

詳しくはこちらで参照できます。
http://www.1300.jp/

◆時代祭

時代祭は、平安神宮の創建と平安遷都1100年祭を奉祝する行事として、1895年(明治28年)に始まった行事。現在では祇園祭、葵祭とともに京都三大祭の一つに数えられている。
時代祭の特色は、何といっても時代風俗行列が行われること。時代風俗列は、実際は神幸祭のお供と位置づけられる祭列。しかし緻密な時代考証が重ねられた1万2000点にもおよぶ調度、衣裳、祭具は京都が都として培ってきた伝統工芸技術の粋を集めて復元されたもので、非常に見ごたえがある。
明治維新から延暦時代へさかのぼって再現される行列には平成19年より「室町幕府執政列」と「室町洛中風俗列」が室町時代列として新たに行列に加わった。
20列、2000人に達する行列が、4.5キロ間に一大時代絵巻を展開する。

会場 (行列巡行)京都御所建礼門前出発(12:00)~烏丸通御池通~河原町通~三条通~平安神宮
日時 2009/10/22(木) 当日の時間は、備考欄をご覧ください。
住所 平安神宮…京都市左京区岡崎西天王町
交通 平安神宮へ
JR京都駅・阪急河原町駅より
市バス5系統「京都会館・美術館前」下車
地下鉄東西線
東山駅より徒歩15分
京阪電車
三条駅、丸太町駅より徒歩15分

駐車場 平安神宮の近隣あり(市営岡崎公園地下駐車場(500台・普通車1時間500円 大型バス2500円)
料金 見学無料 ※有料観覧席あり 一席2000円 お問合せは京都市観光協会 075-752-0227 へ。
お問合せ先 平安神宮 075-761-0221

備考
当日のスケジュール
時代祭…7:00~
神幸祭…8:00~
行在所祭…10:30~
行列進発…12:00~
大極殿祭並還幸祭……16:00(全行列到着後)

ホームページ 平安神宮
http://www.heianjingu.or.jp/

●2009年10月10日~11月15日まで「平安秋祭」開催

詳しくはこちらで参照できます。
http://www.esashi-iwate.gr.jp/event_loca/event/2009/akimatsuri/index.html

●2009年10月31日~11月15日まで「菊花展」開催 

詳しくはこちらで参照できます。
http://www.esashi-iwate.gr.jp/event_loca/event/2009/kikkaten/index.html

◆時代祭展 第14回<神幸列> 

神饌講社列・前列・神幸列・白川女献花列・弓箭組列
じだいまつりてん だい14かい しんこうれつ しんせんこうしゃれつ ぜんれつ しんこうれつ しらかわめけんかれつ きゅうせんくみれつ

ジャンル 展覧会
開催地 京都市 京都伝統産業ふれあい館 ギャラリー
http://www.miyakomesse.jp/fureaika/event/index.html

開催期間 2009年11月14日~12月20日
※イベントの中止や開催期間の変更に関しては、「問い合わせ先」欄に掲載の連絡先までご確認ください。

開催時間 9:00~17:00(入館は16:30まで) ※会期中無休

料金 無料

主催者 平安講社特別委員会・(財)京都伝統産業交流センター
問い合わせ先 京都伝統産業ふれあい館 075-762-2670
概要 明治28年、平安遷都1100年の記念の年に始まった時代祭。京都三大祭の一つとして多くの人が訪れる伝統行事です。平安建都1300年へ向けて継承発展のため、全14回にわたり「時代祭」の衣装などが展示されます。最終回となる今回は、神幸列で、京都料理組合による「神饌講社列」、神幸列の「前列」として雅楽を演奏する伶人や胡蝶など、「神幸列」は平安神宮の御祭神である孝明天皇、桓武天皇の御鳳輦を中心に構成されています。「神饌講社列」や「白川女献花列」、「弓箭組」はパネル展示されます。約30点、小物などもあわせると100点程が展示されます。

その他イベント情報はこちらで参照できます
http://www.digistyle-kyoto.com/event/nenjugyoji.html
http://www.kokoro-maiko.com/ivent.html

いかがでしたでしょうか??「平安遷都の日」。平安遷都の日は、794(延暦13)年、桓武天皇が長岡京から山背国葛城郡宇太村の新京に移りました。「平安京」と命名されたのは、その年の11月8日でした。 平安遷都1100年を記念して1895(明治28)年に創建された平安神宮の例祭・時代祭はこの日に開催されます。

今日は、10月22日、「平安遷都の日」。皆さんは、どう過ごしますか??

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かつての此処は「都」が在り、古い「歴史」のある場所でした・・・パート6

続いてです。平安京についてまとまたものがございますので、参考までに書きたいと思います。

■平安京(へいあんきょう)

794年(延暦13)から始まる日本の古代宮都。山背(やましろ)(山城)国愛宕(おたぎ)・葛野(かどの)両郡にまたがる地(現京都市)に置かれ、形式的には1869年(明治2)の東京奠都(てんと)まで続いた。平安京の営まれる北部山背は、二つの点において注目される地域であった。第一は、地域としての先進性である。桂(かつら)川、賀茂(かも)川(鴨川)、宇治(うじ)川、木津(きづ)川や、さらにそれらが合流した淀(よど)川が流れており、水上交通の著しく発達した地域であった。陸上交通も同様で、山背道とよばれた北陸道、丹波(たんば)道と称された山陰道が通過していた。交通の利便は、古代宮都の備えるべき必須(ひっす)条件であるから、このような水陸交通の便のよさは平安京造営の原因の一つとなった。第二は、宮都の伝統である。平安京は結果として近代まで宮都であり続けるから、山城国・京都といえば平安京しか思い浮かばないことが多いが、その直前の長岡京はいうまでもなく、それ以前にも継体(けいたい)天皇の筒城(つつき)宮・弟国(おとくに)宮、聖武(しょうむ)天皇の恭仁(くに)京と、平安京に先行する四宮都をもっていた。この伝統のうえにたっての、平安京造営であった。なお、長岡京が、遷都の翌年に藤原種継(たねつぐ)暗殺事件を起こすなど、きわめて不安定な政治状況下で造営が進められたのに対して、平安京の場合は、793年1月に土地調査が行われ、翌年10月に遷都するまで事態はスムーズに運んでいる。

平面形態は、唐(とう)の宮都長安をモデルとして、これに日本独自の特色が加味されて設計された。中軸線をもつこと(左右対称型)、南北方向であること、宮域と京域が分離されていることなどは長安に類似するが、南北が長いこと、大きさは3分の1以下にすぎないことなど相違する点も多い。平安京は東西4.5キロ(1508丈)、南北5.3キロ(1753丈)を占めた。中央北寄りには宮域(大内裏(だいだいり))が位置し、その東・西・南面に京域が広がっていた。中央には幅84メートル(28丈)の朱雀(すざく)大路があって、平安京の正門ともいうべき羅城(らじょう)門と宮域の入口の朱雀門とを結んでいた。南面には城壁があったようで、これは長安城の四周を巡る羅城を模倣したものであるが、平安京には南側だけにしか築かれなかった。長安のように絶えず異民族の侵入にさらされるという軍事的状況が日本にはなかったからである。一条大路を北限とし、南限の九条大路間に11本の大路、東京極(きょうごく)大路を東限として西限の西京極大路間に9本の大路、この合計20本の大路が平安京の主要道路であり、これを基準として無数の小道が縦横に敷かれた。京域は左右の京職(きょうしき)が管轄し、畿内(きない)・七道といった一般行政区画とは異なった特別区とされた。内部は条・坊・保・町に区分され、最小の単位は戸主(へぬし)で、奥行10丈・幅五丈、すなわち30メートル×15メートルであった。戸主の文字が示すように、標準的な一戸の家族の居住地として設定されたものであって、平安京が宅地のみからなるものであったこと、つまり農地をもたない地域であったことを示している。

平安時代中期に至り、平安京は変化する。桂川に近く低湿であった右京が衰退し、左京のみが発達するようになった。さらに一条大路を越えて北野、東京極大路を越えて鴨川周辺へと、新たに市街が展開した。計画された一条・九条・東京極・西京極という規格が崩壊し始めたのである。宮都であるという点ではこれ以後の時代も同様であるが、政治都市としての平安京はここで終わったといえる。

 参考文献
1.井上満郎著『研究史平安京』(1978・吉川弘文館)

・マルチメディアデータ
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E5%B9%B3%E5%AE%89%E4%BA%AC/%EF%BC%BB%E7%94%BB%E5%83%8F%EF%BC%BD/00130085000101/

・平安京についてはこちらでも参照できます。
http://www.kyototsuu.jp/History/HeianKyo.html

続いてです。平安神宮について書きたいと思います。参考までです。

■平安神宮(へいあんじんぐう)

京都市左京区岡崎西天王町に鎮座。祭神は桓武(かんむ)天皇と孝明(こうめい)天皇。1895年(明治28)桓武天皇を祀(まつ)る官幣大社として創建された。同年は、794年(延暦13)桓武天皇によって平安京がひらかれて以来1100年にあたる。ついで1940年(昭和15)に平安京最後の天皇にあたる孝明天皇が増祀(ぞうし)された。

拝殿は平安京大極殿(だいごくでん)の8分の5の大きさで、応天門を模した神門とともに平安の昔をしのぶ丹(に)塗りの色彩鮮やかな建物である。この壮麗な社殿を囲んでいるのが約1万坪の神苑(しんえん)で、薄紅のしだれ桜は名高い。例祭は4月15日。有名な時代祭は、平安遷都を記念する10月22日。平安時代から明治維新に至る1000年間の時代風俗を再現する華麗な行列が繰り広げられる。

続いてです。時代祭りについて書きたいと思います。

■時代祭(じだいまつり)

京都市左京区岡崎にある平安神宮の祭礼。桓武(かんむ)天皇が平安京に遷都した日を記念して、10月22日に行われる。平安神宮は桓武天皇を祭神に(のち孝明(こうめい)天皇も合祀(ごうし))、平安奠都(てんと)1100年を記念して1895年(明治28)創建されたが、同年10月25日、その祝祭として、平安時代から明治に至る各時代の歴史的風俗を仮装行列に仕組んで神幸に供奉(ぐぶ)したのが、この行事の始めである。当初は市民によって組織された崇敬団体の「平安講社」が中心となって行われ、行列数も少なかったが、市域の拡大とともに増加して盛大となり、またその装具も研究整備されて、風俗資料としても価値ある華麗雄大な祭礼となった。現在、その行列順序は次のとおりである。まず、維新時代を代表する維新勤王隊列で、これに孝明天皇にちなんだ幕末志士列が続く。次に江戸時代の徳川城使上洛(じょうらく)列、江戸時代婦人列(和宮(かずのみや)、吉野太夫(だゆう)など)、ついで安土(あづち)桃山時代の豊公参朝列、織田公上洛列、吉野時代の楠公(なんこう)上洛列、鎌倉・室町時代の中世婦人列(大原女(おはらめ)、桂女(かつらめ)、静御前など)、鎌倉時代の城南流鏑馬(やぶさめ)列、平安時代の藤原公卿(くぎょう)参朝列、平安時代婦人列(巴(ともえ)御前、紫式部、清少納言(せいしょうなごん)など)、延暦(えんりゃく)時代の武官行進列および文官参朝列、神饌(しんせん)講社列、神幸列の前を進む雅楽の伶人(れいじん)らの前列、そして御鳳輦(ほうれん)を中心とする神幸の本列が続き、弓箭(きゅうせん)組列が押さえとなる。春の賀茂(かも)神社の葵(あおい)祭、夏の八坂(やさか)神社の祇園(ぎおん)祭とあわせて京都の三大祭の一つ。

参考までに書きました、ご了承下さい。

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かつての此処は「都」が在り、古い「歴史」のある場所でした・・・パート5

続いてです。続いては、平安神宮の例祭・「時代祭」について書きたいと思います。

●時代祭について

時代祭(じだいまつり)は、京都、平安神宮の祭り。その創建を祝うためのものであり京都三大祭りの一つである。

●起源

神宮の管理と保存のための市民組織として、平安講社が作られ、「祭り」はその記念事業として始まった。その中で祭りを盛大にするため、東京奠都以前の京都の風俗を、時代を遡って行列を行うことが提案されたので、この祭りが「時代祭り」と呼ばれるようになった。

初回は、創建されたばかりの平安神宮への参拝として明治28年(1895年)10月25日に行われ、その次の回からは、「祭神である桓武天皇と孝明天皇の二柱の御霊が、住まいであった御所から街の繁栄を見ながら行列のお供を従へて神宮へ行く」形となった。開催日も桓武天皇が長岡京から都を移し新しい都に入ったとされる日、すなわち京都の誕生日とも言える10月22日となった。祭り自体は10月15日の参役宣状祭(行列の役柄任命)から、23日の後日祭までの期間行われる。

●行列の編成

行列は7つの時代、18の列でそれぞれに時代を再現した衣装や道具を身につけた人々で行われ、最初は明治維新、ついで江戸、安土桃山、室町吉野、鎌倉、藤原、延暦と時代を遡って続く。参加人数は約2000人、長さは2kmに及び約3時間の行程となる。先頭の名誉奉行は京都府知事、京都市長らが務める。また時代行列の後には祭り本来の主役である神幸列などが続く。

行列前方、明治維新・維新勤王隊列の鼓笛隊は官軍の山国隊で、明治28年の第1回から大正時代までは生存していた元隊士が行列に参加していた。

また、明治以降、南朝を正統とする皇国史観や明治から終戦まで後醍醐天皇に叛き室町幕府を開いた室町幕府の初代将軍 ・足利尊氏を国賊としていた歴史的経緯などから、室町時代は除外されていたが、平成19年(2007年)より桓武天皇1200年記念大祭を機に室町時代列が新たに行列に加わった。

★名誉奉行ほか

・京都府知事
・京都市長
・京都市会正副議長
・時代祭協賛会会長
・京都商工会議所会頭
・時代祭旗
・総奉行 … 平安講社理事長

★明治維新時代

★維新勤皇隊列

平安講社第八社(中京区・朱雀学区)奉仕

★維新志士列

☆ 孝明天皇百年祭を記念して昭和41年より参加

京都青年会議所奉仕

・桂小五郎(木戸孝允)
・西郷吉之助(西郷隆盛)
・坂本龍馬
・中岡慎太郎
・高杉晋作

七卿落

・真木和泉
・久坂玄瑞
・三條実美
・三條西季知
・東久世通禧
・壬生基修
・四条隆詞
・錦小路頼徳
・澤宣嘉
・吉村寅太郎
・頼三樹三郎
・梅田雲浜
・橋本左内
・吉田松陰
・近衛忠熈
・姉小路公知
・三條実萬
・中山忠能
・平野国臣

★江戸時代

★徳川城使洛列

平安講社第六社(下京区・南区)奉仕

★江戸時代婦人列

京都地域女性連合会奉仕

・和宮
・太田垣蓮月
・玉瀾
・中村内蔵助の妻
・梶
・吉野太夫
・出雲阿国

★安土桃山時代

★豊公参朝列

平安講社第十社(伏見区)奉仕

★織田公上洛列

平安講社第五社(東山区・山科区、中京・下京区の一部)奉仕

・立入宗継
・羽柴秀吉
・丹羽長秀
・織田信長
・滝川一益
・柴田勝家

★室町時代

☆ 桓武天皇1200年大祭の記念事業として平成19年より参加

★室町幕府執政列

平安講社第九社(右京区・西京区)の中から学区輪番奉仕

・伊勢氏
・足利将軍
・細川氏
・山名氏
・二階堂氏

★室町洛中風俗列

深草室町風俗列保存会奉仕

★吉野時代
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%82%E4%BB%A3%E7%A5%AD

★楠公上洛列

平安講社第九社(右京区・西京区)奉仕

・楠木正成
・楠木正季
・侍大将

★中世婦人列(鎌倉 ・室町時代)

花街輪番奉仕

・大原女 … 大原農協婦人会有志奉仕
・桂女 … 桂 ・桂東婦人会輪番奉仕
・淀君(浅井長政娘 茶々)
・藤原為家の室
・静御前(源義経の室)

★鎌倉時代

★城南流鏑馬列

平安講社第四社(中京区・下京区)奉仕

★藤原時代

★藤原公卿参朝列

平安講社第三社(上京区・中京区)奉仕

★平安時代婦人列

花街輪番奉仕・京都地域女性連合会奉仕

・巴御前
・横笛
・紀貫之の女 紀内侍
・常磐御前
・清少納言
・紫式部
・小野小町
・和気広虫
・百済王明信

★延暦時代

★延暦武官行進列

平安講社第二社(北区・上京区・左京区・中京区の各一部)奉仕

★延暦文官参朝列

平安講社第一社(北区・上京区)奉仕

★神幸列

★神饌講社列

京都料理組合奉仕

★前列

平安講社第七社(左京区)奉仕

★神行列

総長 … 平安講社総長
列奉行 … 平安講社副理事長

★白川女献花列

白川女風俗保存会

★弓箭組列

南桑田郡(亀岡市) ・船井郡(南丹市)有志

詳しくは、こちらで参照できます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%82%E4%BB%A3%E7%A5%AD

●行列の順路

正午に京都御所を出発。丸太町通から烏丸通に入り南下、 御池通、河原町通 と京都の中心部を練り歩き、最後は三条通から神宮通に入って平安神宮に至る。約4.5キロ。

建礼門前行在所 ⇒ 堺町御門 ⇒ 烏丸丸太町 ⇒ 烏丸御 ⇒ 河原町御池 ⇒ 河原町三条 ⇒ 三条大橋 ⇒ 東山三条 ⇒ 三条神宮道 ⇒ 慶流橋 ⇒ 平安神宮

●年譜

・1895年(年)10 月25 日 : 第一回行列執行(平安講社設立第一社?六列)。
・1903年(明治36年) : 雨天順延。23 日に執行。
・1910年(明治43年) : コレラ発生の為、延期。11 月7 日に執行。
・1912年(明治45年) : 明治天皇崩御の為、諒闇中止。
・1915年(大正4年) : 大正天皇大礼の為、延期。11 月12 日に執行。
・1916年(大正5年) : コレラ発生の為、延期。11 月12 日に執行。
・19年17(大正6年) : 神宮道に観覧席を設置。
・1920年(大正9年) : 雨天懸念の為、順延。23 日に執行。
・1921年(大正10年) : これまで前列を担当していた新洞・錦林の二区が独立して第七社を、山国隊に代わり朱雀学区が第八社を組織し維新勤王隊となる。
・1923年(大正12年) : 関東大震災の為、中止。
・1928年(昭和3年) : 昭和天皇大礼の為、延期。11 月12 日に執行。
・1932年(昭和7年) : 第九社(楠公上洛列)、第十社(豊公参朝列)を増設。集合出発場所が京都市役所から京都御苑となり、行在所は富小路門内となる。
・1933年(昭和8年) : 昭和天皇行幸の為、延期。25 日に執行。
・1937年(昭和12年) : 日中戦争(日華事変)勃発の為、中止。
・1944年(昭和19年) : 太平洋戦争(大東亜戦争)の激化、及び終戦後の混乱等の為、1949年(昭和24 年)まで中止。
・1950年(昭和25年) : 時代祭復興。この年より、婦人列が加わる。
・1953年(昭和28年) : 婦人列を新編成。衣裳を整備。
・1954年(昭和29年) : この年より、新たに編成された婦人列が追加される。
・1958年(昭和33年) : 雨天順延。23 日に執行。
・1962年(昭和37年) : この年より、御池通りを通過するコースに変更。
・1966年(昭和41年) : 京都青年会議所奉仕による維新志士列が加わる。
・1971年(昭和46年) : この年より、名誉奉行として京都市長、及び京都市会正副議長が参加。
・1972年(昭和47年) : 雨天順延。23 日に執行。
・1974年(昭和49年) : 雨天順延。23 日に執行。
・1981年(昭和56年) : 雨天順延。23 日に1時間繰り下げて執行。
・1985年(昭和60年) : この年より、名誉奉行として京都府知事が参加。
1987年(昭和62年) : この年より、名誉奉行として時代祭協賛会会長、及び京都商工会議所会頭が参加。この年より、川端通を通るコースから河原町通を通るコースに変更。
・1988年(昭和63年) : 昭和天皇病床の為、御不例中止。
・1994年(平成6年) : 平安神宮・時代祭百年記念行列「平安京顕彰列」参加。この年のみ、婦人列に奏楽を加える。
・1998年(平成10年) : 京都市・パリ市友好姉妹都市40周年記念時代祭行列。パリにて7 月25 日巡行・ガリエラ古代美術館で「時代祭衣裳展」を開催。
・2000年(平成12年) : 江戸時代婦人列奉仕の花街に代わり、京都市地域女性連合会の奉仕始まる。時代祭百年に参加した百済王明信を復活させ、併せて奉仕。徳川城使上洛列目附頭役をこの年より、騎馬となる。
・2001年(平成13年) : 雨天順延。23 日に執行。江戸時代婦人列の和宮の衣裳を変更し、近世女房装束となる。
・2002年(平成14年) : 名誉奉行として京都府警本部長が参加。
・2003年(平成15年) : 馬奉行役として京都馬主協会が参加。
・2007年(平成19年) : この年より、室町時代列が参加。 第九社(室町幕府執政列)・深草室町風俗保存会(室町洛中風俗列)奉仕。

●その他、特記事項

祇園祭の山鉾巡行の際は、巡行コースを走っていた(横切っていた)京都市電は運休となり、電車の架線も巻き上げられていたが、時代祭りの際は、その祭礼コースを走っていた(横切っていた)京都市電、及び京阪電気鉄道京津線は運休とならず、祭礼行列と一緒に走っていた。

●関連事項

・京の三大祭り
 ・葵祭
 ・祇園祭
・鞍馬の火祭 : 同日の夜に行われる。
・京阪電気鉄道
 ・8000系 : 2階建て車両に時代祭行列絵図が描かれている(新塗装車では描かれていない)。
 ・三条駅 : 改札口の地下コンコースの壁面に時代祭行列絵図が描かれている。

●外部リンク (こちらは参考までです)

・平安神宮
http://www.heianjingu.or.jp/03/0101.html

・京都新聞社
http://www.kyoto-np.co.jp/kp/koto/jidai/jidai.html

・京都市観光協会
http://www.kyokanko.or.jp/3dai/jidai.html

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かつての此処は「都」が在り、古い「歴史」のある場所でした・・・パート4

続いてです。続いては、平安遷都1100年を記念して1895(明治28)年に創建された平安神宮について書きたいと思います。

●平安神宮について

平安神宮(へいあんじんぐう)は、京都府京都市左京区にある神社である。旧社格は官幣大社、勅祭社。現在は神社本庁の別表神社。

◆平安神宮◆

大極殿を模した外拝殿

所在地 京都府京都市左京区岡崎西天王町97
位置 北緯35度01分00秒
東経135度46分56秒
主祭神 桓武天皇
孝明天皇
社格等 官幣大社・勅祭社・別表神社
創建 1895年(明治28年)3月15日
本殿の様式 七間社流造
例祭 4月15日
主な神事 10月22日(時代祭)

●歴史

明治28年(1895年)3月15日に平安遷都1100年を記念して京都で開催された内国勧業博覧会の目玉として平安京遷都当時の大内裏の一部復元が計画された。当初は、実際に大内裏があった千本丸太町に朱雀門が位置するように計画されたが、用地買収に失敗し、当時は郊外であった岡崎に実物の8分の5の規模で復元された。博覧会の後は、建物がそのままにして、平安遷都を行った天皇であった第50代桓武天皇を祀る神社として創祀された。皇紀2600年にあたる昭和15年(1940年)に、平安京で過ごした最後の天皇である第121代孝明天皇が祭神に加えられた。平安神宮では、京都を守る四神の御守が授与されている。

昭和51年(1976年)1月6日、火災が発生し本殿・内拝殿など9棟が炎上、焼失した。創建が比較的新しく文化財指定を受けていなかったため、国からの補助金が見込めなかったが、全国からの募金により3年後に再建された。この火災は、後に新左翼活動家加藤三郎の犯行であることが判明した。

●社殿

社殿は平安京の大内裏の正庁である朝堂院八省院)を縮小(長さ比で約8分の5)して復元したものである。大きく赤く光る朱色が特徴的な正面の門は、朝堂院の應天門を模している。その内側の左右の殿舎は朝集堂の再現である。拝殿は朝堂院の正殿である大極殿(左右には蒼龍楼と白虎楼が付属する)を模している。

基本的にはこれらの建築様式は、平安時代後期(11〜12世紀)の第3次朝堂院を再現したものとなっている。ただ、大極殿と応天門の間には本来は会昌門と朝堂12堂が存在し、応天門の左右には翔鸞楼と栖鳳楼という楼閣が付属していたが、これらは平安神宮では復元されていない。また、平安神宮の社殿の瓦はすべて緑釉瓦となっているが、近年の研究によると平安時代の大極殿では軒先と棟部分だけにしか緑釉瓦は使われていなかったと推定されている。

参道の大鳥居は24.2mの高さがある。

敷地面積は約10,000坪の日本庭園である「平安神宮神苑」を含め、約20,000坪ほどある。神苑は明治から昭和にかけての名造園家である7代目・小川治兵衛(植治)が20年以上かけて造った名園で、国の名勝に指定されている。神苑には人里には少ないカワセミやオオタカなどの鳥類や、甲羅に草を生やすミノガメ、日本では非常に珍しいミナミイシガメなどが棲息している。

●祭事

創建を記念して、平安京遷都の日である10月22日に時代祭が行われるようになった。

●近隣施設

平安神宮の周辺は岡崎公園として整備されており、文化ゾーンになっている。大鳥居を挟んで西には京都府立図書館、京都国立近代美術館、京都会館、東には、京都市美術館、京都市動物園などがある。

●交通アクセス

・京阪鴨東線 神宮丸太町駅、および京都市営地下鉄東西線 東山駅下車。

●脚注

1. 旭川医科大学研究フォーラム 年表

●関連項目

・時代祭
・薪能
・ヤエベニシダレ(ヘイアンベニシダレ)
・平安神宮放火事件
・石川さゆり - 平安神宮で結婚式を執り行った。

● 外部リンク(こちらは参考までです)

・Heian Jingu Shrine - 平安神宮
http://www.heianjingu.or.jp/

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かつての此処は「都」が在り、古い「歴史」のある場所でした・・・パート3

続いてです。参考までに、「京都市平安京創生館」について書きたいと思います。

●京都市平安京創生館について

京都市平安京創生館(きょうとしへいあんきょうそうせいかん)は京都市中京区にある博物館施設で、京都市生涯学習総合センター(京都アスニー)1階に所在。2006年(平成18年)10月6日に開館した。

2005年(平成17年)4月開設当時は「平安京歴史ゾーン」と呼ばれており、平安京復元模型をはじめとする数点の展示内容だったものを大幅にリニューアル。従来の展示内容に加え、パネル展示による解説を新たに設けた他、多数の出土品を展示している。

現地には平安宮造酒司倉庫跡地があり、柱の穴の跡がタイル張りで残されている。この跡地は平成9年に京都市から史跡指定を受けている。

●展示内容一覧

★安京の概要コーナー

・平安京遷都、条坊制、大内裏などの復元図と解説パネルを設置。平安京に関連した事柄を中心に、平安京年表のパネルも展示。

★平安京再現コーナー

・平安京復元模型(1/1000,7.8m×6.6m:京域、鴨川、東山、北山部分)の展示
・上賀茂社、法勝寺、大覚寺、仁和寺、鳥羽離宮等の復元模型の写真パネルを展示(全22点)
・豊楽殿復元模型 (1/20) の展示。内部をライトアップ。

★平安時代のくらしコーナー

・平安時代の貴族と庶民の服装・食事・住居について解説パネルを展示。
・庶民の食事を再現したレプリカを展示。(鴨川の鮎を採取し、レプリカを製作)
・平安時代に使用されていた貨幣・下駄・くし・扇などの出土資料、約20点を展示。

★平安時代の信仰コーナー

・国宝北野天神縁起絵巻(承久本)のレプリカと解説パネルを展示。御霊信仰を中心とした平安時代の信仰の起こりと展開について解説。

★平安宮造酒司コーナー

・現在,京都市平安京創生館が所在する平安時代の役所「造酒司」について、発掘現場写真と復元図及び出土資料の展示と解説、また併せて発掘と平安京の解明について解説。

★平安京学習クイズパネル

・子どもの興味・関心が高まるよう、平安京に関したクイズパネルを設置。

●所在・アクセス
京都市中京区丸太町通七本松西入 京都アスニー1階

・京都市営地下鉄丸太町駅より京都市営バス93、202、204系統の丸太町七本松(京都アスニー前)下車すぐ
・山陰本線円町駅東に徒歩400m

● 周辺情報

・京都市中央図書館
・平安宮豊楽殿跡
・平安宮大極殿跡

●外部リンク (こちらは参考までです)

・京都市 平安京創生館
http://web.kyoto-inet.or.jp/org/asny1/top.html

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かつての此処は「都」が在り、古い「歴史」のある場所でした・・・パート2

続いてです。続いては、1869年(明治2年)に政府を京都から東京に移した。(東京遷都、事実上の東京遷都ともいう)「東京奠都」というものについて書きたいと思います。参考までです。

●東京奠都

東京奠都(とうきょうてんと)は、明治維新のとき江戸が東京とされ、都として定められたこと。京都との東西両京としたうえで、1869年(明治2年)に政府を京都から東京に移した。東京遷都、事実上の東京遷都ともいう(用語については後述#奠都と遷都の語義参照)。

●東京奠都までの経緯

★遷都の気運

幕末の京都は、大政奉還や王政復古により、政治の中心地となっていったが、京都の新政府内部から、新たに天皇親政を行なうにあたって遷都を行おうという声があがっていた。しかし、この時点では江戸の情勢が未だ安定しておらず、主に大坂がその地として意識されていた。

★大久保利通の大坂遷都案

鳥羽・伏見の戦い直後の明治元年(慶応4年)1月17日(1868年2月10日)、参与・大久保利通は、総裁・有栖川宮熾仁親王に対して、天皇が石清水八幡宮に参詣し、続いて大坂行幸を行なって、その後も引き続き大坂に滞在することを提言した。これにより、朝廷の旧習を一新して外交を進め、海軍や陸軍を整えることを図るとする。さらに同年1月23日には、太政官の会議において浪華遷都(大坂遷都)の建白書を提出するに至った。しかし、遷都を行えば千年の都である京都を放棄することとなるとして、これに抵抗の大きい公卿ら保守派の激しい反対を受け、同年1月26日に廃案となった。続いて大久保は、副総裁・岩倉具視を通して、保守派にも受け入れられやすい親征のための一時的な大坂行幸を提案し、同年1月29日これが決定した。

★大坂行幸と江戸城の開城

大坂行幸の発表により、これが遷都に繋がるのではないかと捉えた公家や宮中・京都市民から、反対の声が高まった。そのため、太政官も同時に移すという当初の計画は取り下げられた。明治元年3月21日(1868年4月13日)、天皇が京都を出発。副総裁・三条実美ら1,655人をともない、同年3月23日に大坂の本願寺津村別院に到着、ここを行在所とした。天皇は天保山で軍艦を観覧するなどして、40日余りの大坂滞在の後、同年閏4月8日京都に還幸した。

この間、遷都しなくても衰退の心配がない浪華(大坂)よりも、世界の大都市のひとつであり、帝都にしなければ市民が離散してさびれてしまう江戸のほうに遷都すべきだとする前島密による「江戸遷都論」が大久保に届けられた。同年4月11日には江戸城が無傷で開城されるなど、注目が大坂から江戸に移っていった。

●江戸から東京へ

★大木・江藤の東西両都案

明治元年(1868年)閏4月1日、大木喬任(軍務官判事)と江藤新平(東征大総督府監軍)が、佐賀藩論として「東西両都」の建白書を岩倉に提出した。これは、数千年王化の行き届かない東日本を治めるため江戸を東京とし、ここを拠点にして人心を捉えることが重要であるとし、ゆくゆくは東京と京都の東西両京を鉄道で結ぶというものだった。この意見も大久保が提案した「大坂行幸」と同じく、遷都ではないため保守派にも比較的受け入れられやすい案であった。

江戸に皇居を置き東京とするという構想は、江戸時代後期の経世家である佐藤信淵が文政6年(1823年)に著した『混同秘策』に既に現われており、これに影響を受けて大久保利通も東京奠都を建言したという。

★徳川氏の移封と東京の誕生

明治元年(1868年)5月24日、徳川氏が江戸から駿府70万石に移されることが決まると、大木・江藤の東西両都案も決され、政府は同年6月19日、参与・木戸孝允と大木に江戸が帝都として適しているかの調査にあたらせた。2人は有栖川宮・三条・大久保・江藤らと協議の上、同年7月7日に京都へ戻り、奠都が可能であることを報告した。これを受けて同年7月17日、江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書が発せられた。この詔書では、天皇が日本をひとつの家族として東西を同視するとし、江戸が東国で第一の大都市・要所であるため天皇がここで政治をみることと、そのために江戸を東京と称することが発表された。保守派や京都市民への配慮から、東京奠都を明確にはしなかったものの、東西両都の方針通り東京が誕生した。

★東幸と万機親裁の宣言

天皇は明治元年(1868年)8月27日、政情の激しい移り変わりにより遅れていた即位の礼を執り行ない、同年9月20日に京都を出発して、東京に行幸した(東幸)。岩倉、議定・中山忠能、外国官知事・伊達宗城らをともない、警護の長州藩、土佐藩、備前藩、大洲藩の4藩の兵隊を含め、その総数は3,300人にも及んだ。天皇は同年10月13日に江戸城へ到着、江戸城はその日のうちに東幸の皇居と定められ東京城と改称された。続いて同年10月17日には、天皇が皇国一体・東西同視のもと内外の政を自ら裁決することを宣言する詔を発した。そして東京の市民はこの東幸を盛大に祝った。

●東西両京の狭間で

★早期還幸の慎重論

東幸に続いて京都への還幸となったが、この還幸にあたって三条は独り賛成せず、今すぐに京都に戻れば関東の人心を失するとして早々の還幸を牽制する意見書を提出した。三条はこの中で、天皇に数千年も親しく恵みを受けてきた京都・大坂の人々の動揺と、徳川氏に300年恩恵を受けてきた関東の人々に恨みや失望を与えることの利害得失を比べ、関東の人心に京都・大坂の盛衰や国の興廃がかかっているのであり、京都・大坂を失っても地勢に優れる東京を失わなければ天下を失うことはないと述べた。

三条の意見により還幸の日が延びていたが、先帝(孝明天皇)の三年祭と立后の礼を行なう必要があるという岩倉の意見もあり、明治元年(1868年)12月8日、天皇はひとまず京都に還幸し同年12月22日に到着した。この還幸にあたり、東京市民に不安を与えないよう再び東京に行幸することと、旧本丸跡に宮殿を造営することが発表された。

★東京への再幸

明治2年(1869年)1月25日、東京への再度の行幸を前に岩倉は、天皇の意向を知らずに政府や民間で遷都があるかのように思っている者が少なからずいるために、京都や大坂の人々の動揺が大きくなっているとし、関東諸国は王化が行き届いていないため新政を施すための再幸である旨を十分に分からせるための諭令を出すよう求める建議を行なった。また、政府内でも遷都論を唱えるものがいるとし、天皇の考えによる遷鼎(遷都)の沙汰もなく、臣下の身でこれを唱えることは決して承知しないと遷都論に釘をさした。

同年3月7日、翌年の3月には京都に戻り冬に大嘗祭を行なうこととして、三条らを従えて再び東京への行幸が行われた(2度目の東幸、再幸)。天皇が同年3月28日東京城に入り、ここに滞在するため東京城を「皇城」と称することとされた。このとき「天皇の東京滞在中」とした上で太政官が東京に移され、京都には留守官が設置された。ついで同年10月24日には皇后も東京に移った。こうしてこれ以降、天皇は東京を拠点に活動することになった。

天皇・皇后の東京への行幸啓のたびに、公卿・諸藩主・京都の政府役人・京都市民などから行幸啓の中止・反対の声があがり、政府は「これからも四方へ天皇陛下の行幸があるだろうが、京都は千有余年の帝城で大切に思っておられるから心配はいらない」とする諭告(『告諭大意』)を京都府から出させ、人心の動揺を鎮めることに努めた。東京再幸の反対運動の騒動の際には、ときの情勢に乗じて名古屋遷都を画策するものまで現われた。

★首都機能の移転

京都では京都御所を後に残して、明治4年(1871年)までに刑部省・大蔵省・兵部省などの京都留守・出張所が次々に廃され、中央行政機関が消えていった。また留守官は明治3年5月に京都府から宮中に移され、同年12月に京都の宮内省に合併、明治4年(1871年)8月23日には廃され、東京への首都機能の移転が行われた。

★京都還幸の延期
明治3年(1870年)3月14日、東北の平定が未だに行き届かないこと、諸国の凶作、国費の欠乏など諸々の理由で京都への還幸を延期することが京都市民に発表された。翌明治4年(1871年)3月になって、結局大嘗祭は東京で行うことが発表され、同年11月17日に東京で行なわれた。

こうして京都を都として残す形をとりつつ、江戸も東京として新たに都とされ、政治の中心地が東京となった江戸の地に再び戻ることとなった。

●その後

・1872年6月(明治5年5月) - 天皇が京都に戻る際、「還幸」ではなく「行幸」とされる。
・1873年(明治6年)5月 - 東京の皇城で火災。赤坂離宮を仮皇居とする。
・1877年(明治10年)2月 - 天皇が京都の皇居(京都御所)の保存・旧観維持を指示。
・1888年(明治21年) - 東京で明治宮殿が完成。以降「宮城」と称する。
・1889年(明治22年) - 皇室典範で「即位の礼」と「大嘗祭」は京都で行うと規定。
・1891年(明治24年) - 京都御所を京都皇宮と改称。
・1909年(明治42年) - 登極令(昭和22年廃止)で大嘗祭の斎田は京都以東・以南を悠紀、以西・以北を主基の地方とされる。
・1915年(大正4年) - 大正天皇の即位の礼、大嘗祭が京都で行われる。
・1928年(昭和3年) - 昭和天皇の即位の礼、大嘗祭が京都で行われる。
・1947年(昭和22年) - 新皇室典範で単に「即位の礼を行う」とし、大嘗祭と場所は規定されなかった。
・1948年(昭和23年) - 東京の「宮城」の名称が廃され皇居と呼ばれる。京都皇宮は京都御所と呼ばれる。
・1990年(平成2年) - 即位の礼、大嘗祭が、史上初めて関東の東京で行われる。[7]

●奠都と遷都の語義
「東京奠都」と「東京遷都」の語の使い方を巡っては議論がある。一義的には「奠都」は都を定める事をいうのに対して「遷都」は都を移す事をいう。

中国にはかつて、北京と南京二つの都があった故事に倣う。

もともと奠都の語は、1895年(明治28年)に京都市が794年の平安遷都を「平安奠都千百年記念祭」と称して祝っているように、広く用いられる言葉である。1898年(明治31年)に東京奠都30周年を記念して出版された『奠都三十年』(『太陽』第4巻第9号臨時増刊)のなかでは、東京も京都も帝都であるとしつつ東京遷都という表現も同時に見られ、京都は依然帝都で、政治上の必要から江戸にも帝都を定めたのだから遷都と言うことは妥当ではないとする声(井上頼国)も紹介された。

その後、大正期に入った1917年(大正6年)、東京奠都の本格的な研究を岡部精一が初めて著し、そのなかで「東京の奠鼎(奠都)は遷都にあらず」とし、遷都の発表はなく、今日に至るまで都を東京に遷されたのではなく、東京は京都とともに並立して帝都の首都であることは明らかであるとした。続いて1919年(大正8年)、東京市役所の発行した『東京奠都』も、東京奠都は京都留守居官の廃止で完了したが、「その名義に於ては、いつまでも東西両京の並立で、遷都といふ事は、つひに公然発表せられたことはなく」、「京都も一の帝都であるが、事実に於て遷都の事はいつのまにか行はれてゐた」とした。これらの考え方によると、東京奠都に関しては都を移す「遷都」を語を避け、京都と2つ帝都としたのだから都を定める「奠都」と称すべきであるとされる。

現代では一般に「遷都」の語は首都移転の意味にも使われ、「首都が東京に移された」などとも表現される。『京都の歴史』第七巻は、2度目の東幸(明治2年3月)の際の太政官を東京に移す発表を事実上の遷都宣言とし、事実上の首都の座を東京にわたしたとしている。佐々木克(2001)では、「遷都」より「奠都」が実態を適切に表現するものであったかもしれないとし、京都は都であることを否定されなかったとしながらも、京都が政府機関の置かれる帝都(首都)として復活しなかったため、「奠都」よりも「遷都」が実態を正確に表現しているとしている(同書では首都移転を「遷都」として「東京遷都」が主張されている)。以上のように東京奠都を首都の問題と絡めて論じられることもあるが、現在に至るまで法令上「首都」の定義・規定がなされておらず(第142回国会衆議院特別委員会)、日本における従来の「みやこ」(都・京)と「首都」の関係は定かでない。→日本の首都参照

●脚注

1. 明治21年、織田完之訂『混同秘策』の寅賓居士(織田完之)による序(近代デジタルライブラリー)
http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40019717&VOL_NUM=00000&KOMA=4&ITYPE=0
2. 大正6年、東京市史稿 第4冊 第4篇(近代デジタルライブラリー)
http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40007934&VOL_NUM=00004&KOMA=43&ITYPE=0
3. 『東京百年史』第2巻では、政府が明治3年京都還幸を延期し、その後京都に立ち寄った際に「還幸」ではなく「行幸」と表現し、更に皇居の炎上で新たに造営された新宮殿を「宮城」と称したことによって、奠都の詔はなくとも「事実上の奠都」が行なわれたとしている。
 『江戸が東京になった日』では、後の詔書で「新置東京」との表現があり、単なる「改称」ではなく「江戸を東京と定めた」としている。
4. 御東幸万機御親裁ノ詔書(法令全書、明治元年第852。近代デジタルライブラリー)
http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40022968&VOL_NUM=00003&KOMA=213&ITYPE=0
5. 宮内省編『三条実美公年譜』(近代デジタルライブラリー)
http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40018469&VOL_NUM=00025&KOMA=14&ITYPE=0
6. 多田好問編『岩倉公実記』(近代デジタルライブラリー)
http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40018469&VOL_NUM=00025&KOMA=14&ITYPE=0
7. このとき大嘗祭の斎田は、新潟県・長野県・静岡県の線で日本を東西に分け、この3県を含む東方が悠紀、西方が主基の地方とされた(鎌田純一『平成大禮要話』)。

● 関連文献

・岡部精一 『東京奠都の真相』 仁友社、1917年。
・喜田貞吉 「帝都」『喜田貞吉著作集5 都城の研究』所収、平凡社、1979年。
・京都市編 『京都の歴史』第七巻、京都市史編さん所、1979年。
・佐々木克 『江戸が東京になった日 明治二年の東京遷都』 講談社、2001年。
・東京大学史料編纂所編 『復古記』全15冊、東京大学出版会、1974-1975年。
・東京都編 『都史紀要1 江戸から東京への展開 東京奠都の経済史的意義』 東京都、1953年。
・東京百年史編集委員会編 『東京百年史』第二巻、東京都、1979年。
・藤野敦 『東京都の誕生』 吉川弘文館、2002年。
・文部省維新史料編纂会編 『概観維新史』 維新史料編纂事務局、1940年。
・文部省維新史料編纂会編 『維新史』第五巻、維新史料編纂事務局、1941年。
・若一光司 『大阪が首都でありえた日 遷都をめぐる明治維新史』 三五館、1996年。

●関連項目

・明治維新
・明治天皇
・江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書
・江戸開城
・江戸
・東京
・京都
・大坂
・府県制

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かつての此処は「都」が在り、古い「歴史」のある場所でした・・・パート1

皆さん、こんにちわ。更新です。今日は、10月22日です。今日は、10月22日は「平安遷都の日」だそうです。平安遷都の日は、794(延暦13)年、桓武天皇が長岡京から山背国葛城郡宇太村の新京に移りました。「平安京」と命名されたのは、その年の11月8日でした。 平安遷都1100年を記念して1895(明治28)年に創建された平安神宮の例祭・時代祭はこの日に開催されます。

ということで、今日「平安遷都の日」について書きたいと思います。

●平安遷都の日について

★平安京について

平安京(へいあんきょう)は、794年(延暦13年)に桓武天皇により定められた日本の首都である。平安城ともいう。1869年(明治2年)に政府が東京に移転して実質的には首都機能を失ったが、その位置づけについては争いがある(詳細は東京奠都を参照)。

●概要

安京は現在の京都府京都市中心部にあたる、山背国葛野・愛宕両郡にまたがる地に建設され東西4.5km、南北5.2kmの長方形に区画された都城であった。都の北端中央に大内裏を設け、そこから市街の中心に朱雀大路を通して左右に左京・右京(東側が左京、西側が右京である)を置くという平面プランは基本的に平城京を踏襲し、隋・唐の長安城に倣うものであるが、城壁は存在しなかった。この地の選定は中国から伝わった風水に基づく四神相応の考え方を元に行われたという説もある。

平安京の範囲は現在の京都市街より小さく北限の一条大路は現在の今出川通と丸太町通の中間にある一条通、南限の九条大路は現在のJR京都駅のやや南の九条通、東限の東京極大路は現在の寺町通にあたる。西限の西京極大路の推定地はJR嵯峨野線花園駅や阪急京都線西京極駅を南北に結んだラインである。

京内は東西南北に走る大路・小路によって40丈(約120m)四方の「町」に分けられていた。東西方向に並ぶ町を4列集めたもの(北辺の2列は除く)を「条」、南北方向の列を4つ集めたものを「坊」と呼び、同じ条・坊に属する16の町にはそれぞれ番号が付けられていた。これによりそれぞれの町は「右京五条三坊十四町」のように呼ばれた。

道路の幅は小路でも4丈(約12m)、大路では8丈(約24m)以上あった。現存する京都市内の道路は、ほとんどの場所でこれよりずっと狭くなっている。朱雀大路に至っては28丈(約84m)もの幅があった。また、堀川小路と西堀川小路には並行して川(堀川、西堀川)が流れていた。

●歴史

桓武天皇は784年(延暦3年)に平城京から長岡京を造営して遷都したが、これは天武天皇系の政権を支えてきた貴族や寺院の勢力が集まる大和国から脱して、新たな天智天皇系の都を造る意図があったといわれる。しかしそれから僅か9年後の793年(延暦12年)の1月、桓武天皇は臣下を集め、再遷都を宣言する(理由は長岡京を参照)。場所は、長岡京の北東10km、二つの川に挟まれた山背国北部の葛野であった。事前に桓武天皇は京都市東山区にある将軍塚から葛野を見渡し、都に相応しいか否か確めたと云われている。日本紀略には「葛野の地は山や川が麗しく四方の国の人が集まるのに交通や水運の便が良いところだ」と桓武天皇の言葉が残っている。

平安京の造営はまず宮城(大内裏)から始められ、続いて京(市街)の造営を進めたと考えられる。都の中央を貫く朱雀大路の一番北に、どこからでも見えるように大極殿を作り、天皇の権威を示した。都の傍の川沿いには、淀津や大井津などの港を整備した。これらの港を全国から物資を集める中継基地にして、そこから都に物資を運び込んだ。運ばれた物資は都の中にある大きな二つの市(東市、西市)に送り、人々に供給される。このように食料や物資を安定供給できる仕組みを整え、人口増加に対応できるようにした。また、長岡京で住民を苦しめた洪水への対策も講じ、都の中に自然の川がない代わりに東西にそれぞれ、水量の調整ができる人工の「堀川」(現在の堀川と西堀川)をつくり、水の供給を確保しながら洪水を抑えようとした。そして長岡京で認めなかった仏教寺院の建立を認める。仏教の知識と能力に優れ、政治権力とは無縁の僧である空海たちを迎え、東寺と西寺の力で災害や疫病から都を守ろうと考えた。794年(延暦13年)10月22日に桓武天皇は遷り、翌11月8日に「この都を平安京と名付ける」と詔を下す。

810年(弘仁元年)、皇位をめぐる対立で平城京に都を戻そうという動きが起こるが、嵯峨天皇は平安京を残すことこそ、国の安定と考え、この動きを退ける。そして平安京を「万代宮(よろずよのみや)」と定める(永遠の都という意)。

右京の地は桂川の形作る湿地帯にあたるため9世紀に入っても宅地化が進まず、律令制がほとんど形骸化した10世紀には荒廃して本来京内では禁じられている農地へと転用されることすらあった。貴族の住む宅地は大内裏に近い右京北部を除いて左京に設けられ藤原氏のような上流貴族の宅地が左京北部へ密集する一方、貧しい人々は平安京の東限を越えて鴨川の川べりに住み始め鴨川東岸には寺院や別荘が建設されて市街地がさらに東に広げられる傾向が生じた。980年(天元3年)には朱雀大路の南端にある羅城門(羅生門)が倒壊し、以後再建されることはなかった。こうして次第に平安京の本来の範囲より東に偏った中世・近世の京都の街が形作られた。

平安京(京都)は、関東地方を基盤とする鎌倉幕府や江戸幕府の成立によって行政府としての機能を次第に失った。また明治維新の際には江戸を東京とすることにより遷都は避けられたものの、天皇の東京行幸で留守の都となった(→東京奠都)。以降、京都への還幸は延期されているが明治天皇の指示で皇居は保存され、天皇の在所を示す高御座も京都御所の紫宸殿に置かれている。

●名称

平安京は後世においては音読みの「へいあんきょう」と読むが、当初は「たいらのみやこ」と訓読みした。普通、京の名前は地名を冠するのが一般的であるため本来なら「葛野京」(かどののみやこ)としても良かった。しかし長岡京での騒動が原因のひとつとして、再び遷都された理由により新京では悪いことが起こらず、「平らかで安らかな都」、「平安」(訓読みは「たいら」)であって欲しいという意味が込められている。

●平安京全体図(仮)

・平安京全体図(仮)についてはこちらで参照できます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%AE%89%E4%BA%AC

●平安遷都記念事業

・平安神宮・時代祭(1100年記念、1895年(明治28年)))
・京都駅・京都市営地下鉄東西線・二条~醍醐間(1200年記念、1997年(平成9年))

●その他

・「鳴くよ(794)ウグイス平安京」の年号語呂合わせは有名。

●関連項目

・平安仏教
・条坊制
・大内裏
・内裏
・京都
・京都市
・京都市内の通り
・京都市平安京創生館
・四堺
・平安京エイリアン
・日本の首都

●外部リンク (こちらは参考までです。)

・平安京 - ウィキトラベル
・京都市 平安京創生館 - 平安京復元模型(1/1000)を展示。豊楽殿復元模型(1/20)、豊楽殿鴟尾実物大模型の他、平安時代の出土品を多数展示している。
http://web.kyoto-inet.or.jp/org/asny1/about/institution/honkan/heian3.html

・京都市埋蔵文化財研究所(京都市考古資料館を含む) - 平安京の遺跡の調査。京都市考古資料館では平安京出土遺物を展示。
http://www.kyoto-arc.or.jp/index.html

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インターネットもいいのですが、これは昔から身近ある「重要」なものです・・・パート10

続いてです。続いては新聞週間のイベント情報です。参考までです。

◆第62回 新聞週間記念の集い

日 時 平成21年10月15日(木)
【開場】午後5時30分 【開演】午後6時 【終演】午後9時30分(予定)

会 場 愛知県産業労働センター大ホール(旧中小企業センター) /客席数:801席 【所在地】 〒489-0044
名古屋市中村区名駅4-4-38


詳しくはこちらで参照できます。
http://www.nhk.or.jp/nagoya/event/1015shinbun-kinen.html

◆新聞週間

新聞界のメーンイベント、新聞週間は、毎年10月15日から1週間行われます。
週間中には新聞大会、新聞配達の日、新聞広告の日などの関連行事のほか、読者を対象にしたイベントも全国各地で開催されます。

第62回新聞週間(2009年)行事日程

新聞大会

 (敬称略)

10月15日(木)
 
<午前>

  大会式典(会場=静岡市民文化会館「中ホール」)

   記念講演:伊藤元重東京大学教授

<午後>
  昼食会(会場=ホテルアソシア静岡「駿府」)

   ランチョンスピーチ:渡辺英彦(富士宮やきそば学会会長)

  研究座談会(会場=静岡市民文化会館「中ホール」)
   基調講演:新聞に望むこと
           福原義春資生堂名誉会長(文字・活字文化推進機構会長)

   パネルディスカッション:新聞再構築への挑戦――持続するジャーナリズムのために

    コーディネーター
静岡新聞社常務取締役 北村 敏廣
    パネリスト 日本経済新聞社社長 喜多 恒雄
     秋田魁新報社社長 小笠原 直樹
     コラムニスト 歌田 明弘
  レセプション(会場=ホテルセンチュリー静岡「センチュリールーム」) 

10月16日(金)
近郊視察

新聞配達の日
10月18日(日)
新聞少年の日
全国各地で“新聞少年感謝の集い”などを開催予定

新聞広告の日
10月20日(火)

10月20日(火)

第52回「新聞広告の日」記念式典
会場=東京都・東京プリンスホテル

記念の集い
東京、大阪、名古屋、福岡の4地区で開催されます。
(各地区の日程、申し込み方法は9月中旬以降にご案内します。)

詳しくはこちらで参照できます。
http://www.pressnet.or.jp/info/shukan/09syukan.html

◆東海テレビイベントカレンダー

http://www.tokai-tv.com/event/

◆第5回NIE週間(2009年11月2~8日)
 

新聞財団は、NIE活動を幅広くPRするため、2005年から 「NIE週間」を設けています。期間は11月の第1月曜日から一週間(今年は11月2~8日)。週間中は全国各地でNIE関連のセミナーや公開授業などのイベントが開催されます

こちらで参照できます。
http://nie.jp/%82%8E%82%89%82%85%82%97%82%85%82%85%82%8B/nieweek_index.html

◆第62回新聞週間記念の集い

「新聞は地球の今が見える窓」を代表標語に、第62回新聞週間が10月15日から始まります。本社は在名各社、日本新聞協会と共催で「第62回新聞週間記念の集い」の入場者を募集します。参加無料

 10月15日午後6・00=愛知県産業労働センター大ホール(名古屋駅)

 トークショー 「心の叫び-明日のある今日を生きる」車いすプロランナーの伊藤智也氏。1963年三重県鈴鹿市生まれ。98年に多発性硬化症を発症。その後、車いす競技を始め、2005年、障害者として世界初のギリシャマラソン博物館の殿堂入り。08年北京パラリンピック400、800メートル各金メダル。800メートル世界記録保持者。現在、車いすプロランナーとして活躍するかたわら各地で障害者スポーツの育成や講演活動も行っています

 映画 「風が強く吹いている」(松竹配給、10月31日公開。上映時間133分)。漫画オタクやヘビースモーカーなど、陸上競技とは縁のなかった若者たちが、箱根駅伝出場を目指し、奇跡を起こします。大森寿美男監督。出演は小出恵介、林遣都、津川雅彦ら

 申し込み 往復はがきに住所と氏名(返信用にも)を明記し〒460ー8311 メ~テレ・イベント事業部「第62回新聞週間記念の集い」係へ。9月30日必着。応募多数の場合は抽選

共催 在名各新聞社、通信社、放送局19社、日本新聞協会

中日新聞社

こちらで参照できます。
http://www.chunichi.co.jp/article/release/CK2009091802000044.html

◆千家十職 大西清右衛門家の釜と金工 茶の湯工芸の伝統と創造

今秋、表千家北山会館では千家十職のなかで、釜を中心に金属工芸を担当する大西家に焦点をあて、特別展を開催します。大西家歴代の作品「釜」を中心に、伝統の技と美を紹介します。

会期
10月17日(土)~12月13日(日)午前9時30分~午後4時30分(入館は4時まで)。
月曜休館(祝日は開館し翌日休館)

会場
表千家北山会館(京都市北区上賀茂桜井町61)

入館料
一般1000円、高・大学生、20人以上の団体800円(呈茶を含む)※中学生以下は無料

主催
表千家北山会館、京都新聞社

後援
京都府、京都市、京都府教育委員会、京都市教育委員会、NHK京都放送局

こちらで参照できます。
http://info.kyoto-np.co.jp/event/?page=3&type=knp

◆心をひとつ ふるさと復興展
          ~新潟県中越地震から5年~
                                                         
会期 :

主催 :
2009年10月3日(土)~
     11月29日(日)
新潟日報社 日本新聞博物館 



「中越地震」(2004年)と「中越沖地震」(2007年)。 
 
2つの大波にほんろうされた新潟県と県民の姿、今も道のり半ばの復興への軌跡を、地域の新聞「新潟日報」の報道記事や写真などからたどります。

詳しくはこちらで参照できます。
http://newspark.jp/newspark/floor/info.html

その他、各地で新聞週間のイベントが開催されるようです・・・。

いかがでしたでしょうか??「新聞週間」。新聞週間は、アメリカで1930年代から行われていた新聞の重要性、必要性を多くの人々に知らせる運動が1940年には全米に拡大。日本では新聞の普及と教育のためにGHQが新聞週間を提唱し、1947年(昭和22年)に愛媛新聞が初めて実施し、日本新聞協会が翌年から実施。当初は10月1日からの1週間だったが、台風シーズンと重なってしまうために1962年(昭和37年)から現在の日程に変更されたのだそうです。

なお、新聞週間は、社団法人日本新聞協会が1948年(昭和23)から毎年10月、「1週間」にわたって催す年中行事です。
今日は、10月15日「新聞週間」。皆さんは、どう過ごしますか??

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インターネットもいいのですが、これは昔から身近ある「重要」なものです・・・パート9

続いてです。続いては、「新聞週間、春の新聞週間」について書いていきたいと思います。

新聞週間

新聞界のメーンイベントは毎年秋に行われる新聞週間関連行事です。
新聞週間は、毎年10月15日から1週間行われ、週間中には新聞大会が開催されます。
新聞大会では、新聞協会賞が授賞されるほか、新聞大会決議が採択されます。
また、10月20日は新聞広告の日、新聞週間中の日曜日は新聞配達の日で、それぞれ記念行事が開催されます。
新聞週間にあわせ、新聞週間標語、新聞配達の日標語の募集が行われるほか、全国各地で新聞週間記念の集いなどが開催されます。

新聞週間行事

・新聞週間行事日程
http://www.pressnet.or.jp/info/shukan/09syukan.html

・新聞週間大会決議一覧
http://www.pressnet.or.jp/info/shukan/ketugi.htm

・新聞週間標語、新聞配達に関する標語(旧名称:新聞少年の日代表標語)
http://www.pressnet.or.jp/info/shukan/hyogo.htm

・新聞協会賞
http://www.pressnet.or.jp/info/hyosho/kyokaisyozyusyo.htm

・新聞広告賞
http://www.pressnet.or.jp/adarc/

春の新聞週間

毎年4月6日から12日までの1週間を「春の新聞週間」、その初日の4月6日を「新聞をヨム日」として、無購読者に新聞の購読を呼びかける活動を集中的に展開しています。
2003年春から実施しているもので、全国各地でポスターやチラシによるPRのほか、試読紙の街頭配布キャンペーンやPRイベントなどが行われています。09年からは新聞の魅力を伝えるキャンペーンサイト、「見えないものが観えてくる。-新自聞スタイル-」(http://www.readme-press.com/46/)を開設しました。

http://www.readme-press.com/46/

こちらは、参考までです。ご了承下さい。

新聞週間については、こちらでも参照できます。
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/shinbunnsyuukann.htm

・日本新聞協会サイト
http://www.pressnet.or.jp/

こちらは、参考までです。ご了承下さい。

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インターネットもいいのですが、これは昔から身近ある「重要」なものです・・・パート8

続いてです。続いては、「オセアニアの新聞」から「中近東・アフリカ」まで順に書いていきます。

◆オセアニアの新聞

この地域の日刊新聞の数は合計114紙で、合計発行部数は600万部、人口1000人当りの部数は214となっている。

オーストラリアの新聞の特徴は、かつて宗主国であったイギリスの新聞づくりの伝統を受け継いでいることである。イギリス連邦の解体が事実上、進行するにつれて、国の外交の「イギリス離れ」と、アジア・アメリカ接近が目だってきているが、法体系などの新聞を取り巻く環境がイギリスの伝統を受け継ぐものだけに、新聞の編集、販売、広告といったさまざまな分野の活動のありようが、イギリスの影響を免れないまま今日に至っている。もう一つオーストラリアの新聞に特徴的なのは、新聞の所有がごく限られた者の手に集中し、その結果、数を減少させていることである。日刊新聞を所有する企業は、1920年代には21社であったが、80年代の前半にはわずか3社になり、98年時点では事実上、2社の寡占状態となっている。新聞数は1986年以降の10年間をみても、17の日刊紙および日曜紙が廃刊となっている。なお、新聞数は週刊紙や夕刊紙などをあわせると全国で約600紙あるといわれている。寡占状態を構成する新聞発行者の一つは、オーストラリア出身でアメリカに帰化したメディア王、ルパート・マードックが所有するニューズ・コーポレーション社である。同社は自国のみならず、イギリスにおける『タイムズ』や『サン』ほかの新聞の発行や、ヨーロッパ諸国を放送衛星を使ってカバーするスカイ・チャンネルの経営を手がけているのをはじめ、アメリカやタイ、香港の新聞、雑誌、放送、映画の有力企業を傘下に収める世界規模のマスコミ・コンツェルンで、『オーストレーリアン』(12万2500部)や『デーリー・テレグラフ・ミラー』(44万2000部)、『ヘラルド・サン』(61万3000部)などの日刊紙をオーストラリアで発行し、傘下の日刊紙の市場占有率は7割を超えている。いま一つの日刊新聞の所有者はジョン・フェアファックス・グループ社で、『シドニー・モーニング・ヘラルド』(27万部)や『エイジ』(23万7500部)といったいわゆる高級紙を中心に発行している。同社の主要株主はカナダやアメリカを中心にメディア・コンツェルンを構築しているカナダ人、コンラッド・ブラック。

ニュージーランドには69の日刊紙があるが、首都オークランドで発行されている『ニュージーランド・ヘラルド』(25万部)と『ニュージーランド・リスナー』(21万部)を除くと、ほとんどが発行部数1~2万部ないしはそれ以下の小新聞である。新聞グループによって所有されるものは少なく、ほとんどの新聞が独立している。複数紙を所有するグループとしては、フォース・エステート・ホールディングズ社とウィルソン・アンド・ホータン社があるが、小新聞をいくつか所有しているにすぎない。

◆アメリカ・カナダ

ベトナム戦争を分析した国防総省の秘密文書暴露事件や、大統領の犯罪を暴いたウォーターゲート事件報道は、日本でもよく知られている。これらは、アメリカの新聞が時の政権に敢然と闘いを挑み、勝利した輝かしい勲章といえよう。アメリカでは、国民ひとりひとりが新聞をはじめとする報道媒体の提供する情報に基づいて国家的決定に参加することを民主主義の前提としており、新聞が社会で果たすことを期待される役割はきわめて大きい。アメリカ合衆国憲法修正第1条は、言論・出版の自由なくしては、国民は他の諸権利、諸自由を行使できない、という認識にたち、「連邦議会は、言論および出版の自由を制限する法律を制定してはならない」と定めており、これがアメリカの新聞の強い力の源泉となっている。

他方、新聞をはじめとする報道媒体は司法、立法、行政と並ぶ「第四権」と一般に目されているが、国民は他の三権と比べて強すぎる新聞をかならずしも好ましいと受け止めていないこともあって、新聞は国民との間の「信頼関係の欠如」(クレディビリティ・ギャップ)をつねに意識せざるをえない立場にたたされている。名誉毀損(きそん)やプライバシーの侵害をめぐって新聞社を相手とする訴訟も数多く起こされており、新聞社が敗訴し、多額の賠償金の支払いを命ぜられるケースも少なくない。それだけに、新聞をはじめとする報道媒体の社内における、報道内容にかかわる事前チェックや報道媒体どうし、ジャーナリストどうしの相互チェックも厳しさを加えており、報道の質の向上に傾ける報道界の姿勢には真剣なものがある。

アメリカに1483あるといわれる日刊新聞の特徴の一つは、地域密着型で発行部数5万部以下の小新聞が全日刊紙数の84%を占めることと、これらの小新聞が買収や合併を通じて一握りの新聞グループの傘下に置かれるという形で、所有の集中化が進行していることである。21世紀の初めには放送事業や映画制作の企業を含め、ほとんどのマスコミ機関が15程度の企業の手に握られることになる、と懸念する声も出始めている。

2000年1月、複合メディアを所有するタイム・ワーナー社が、オンラインサービスの世界最大手のアメリカ・オンラインと合併を発表した。合併後の新会社は、全世界で2000万人の会員を擁するオンラインサービスのほか、ニュース専門のケーブルテレビのCNN、映画のワーナー・ブラザーズ、雑誌の『タイム』や『スポーツ・イラストレーテッド』などを所有することになる。

同年3月には、新聞グループ第11位のトリビューン社が第4位のタイムズ・ミラー社を買収すると発表した。この買収が実現すると、トリビューン社は『ロサンゼルス・タイムズ』など日刊新聞11紙、テレビ22局、ラジオ4局のほか、オンラインサービス会社を所有することになる。

もう一つの特徴は、日刊新聞の発行部数が1980年代の後半以降、ほぼ一貫して減少し続けていることと、それにもかかわらず新聞に対する広告費支出は約382億ドルを確保しており、媒体別のシェアにおいて、依然としてテレビやDM(ダイレクト・メール)を凌駕(りょうが)して首座を守り続けていることである。大量の広告を収容するため、アメリカの新聞はページ数が多いのも特徴で、大都市で発行される日刊紙の平日版平均ページ数は72、日曜版は折り込みも含めると265ページに達する。なお、年間の新聞用紙総消費量は1204億トンに達している。

新聞の経営は多くを広告に依存している。収入の70~80%(日本の新聞の場合は50%)が広告によるものだから、新聞は分厚くなるのも当然だ。その分、新聞代が安いという結果を生んでいる。通常、新聞は週日版が35セントから40セント、日曜版が1ドル50セントぐらいである。

アメリカでは1999年現在、1日当り4599万7367部の朝刊紙と998万1971部の夕刊紙が発行されている。ほかに8138銘柄の週刊紙が週当り約7445万7621部発行されている。『ユー・エス・エー・ツデー』(167万部)など74紙を発行するガネット社や『マイアミ・ヘラルド』(36万部)など31紙を発行するナイト・リッダー社などの主要新聞グループの傘下の発行する新聞の合計発行部数は、アメリカの日刊紙の総発行部数の約62%を占めている。おもな新聞としては『ニューヨーク・タイムズ』(109万部)、『ワシントン・ポスト』(76万部)、『ウォール・ストリート・ジャーナル』(175万部)、『ロサンゼルス・タイムズ』(108万部)、『シカゴ・トリビューン』(66万部)などがある。

カナダの新聞所有の集中はアメリカよりも深刻で、大部分の英字新聞がサン・メディア社、サウザム・グループ社、トムソン・ニューズペーパーズ社、ホリンガー・グループ社のいずれかに属し、フランス語の新聞はほとんどがル・ジュールノー・トランス・カナダ・グループ社かケベック・コミュニケーション社、またはホリンガー・グループ社の所有になる。アメリカおよびオーストラリアでも新聞産業に利権をもつコンラッド・ブラックの率いるホリンガー・グループ社は、新聞グループのなかで唯一、英語紙と仏語紙の両方を所有するものだが、1997年、それまでカナダ最大の新聞グループだったトムソン・ニューズペーパーズ社から33紙を買収するとともに、傘下の新聞の合計発行部数が最大のサウザム・グループ社の株式の58%を取得した。その結果、ホリンガー・グループ社は国内で発行される新聞108紙のうち58紙、総発行部数の40%以上を支配することになった。

おもな新聞としては、『グローブ・アンド・メイル』(38万1000部)、『ル・ジュールナル・ド・モントリオール』(32万部)がある。

◆中南米

かつて軍事独裁政権がいくつもの国を治め、新聞を弾圧した中南米諸国だが、1998年現在、革命によって政権が成立したキューバを除き、国民によって選出された政府が政権の座を占めている。そして、まがりなりにも言論の自由が保障される状況となっている。ただし、言論の自由が保障されているというのは、制度的にそうだということで、形式的なことである。中南米はいまだに、実質的に報道に対する非合法な迫害がもっとも多く発生しているところであり、日常的に多くのジャーナリストが殺害されている。

中南米諸国といっても国によってそれぞれ異なるところも少なくない。総じて共通しているのは、

(1)貧富の差が大きい、

(2)人口が増加しつつあり、とくに青少年が増えつつある、

(3)都市に人口が集中する傾向が認められる、

(4)義務教育が普及し始めており、教育水準があがりつつある、

(5)中産階級が増大しつつある、

ということである。共通項目のうち(1)を除く他の項目は、軍事独裁政権による新聞弾圧の消滅とともに、すべて新聞の発展には都合のよい要素である。実際、1990年代以降、中南米の新聞の発展は著しい。

おもな新聞としては、アルゼンチンの『クラリン』(週日版=70万部、日曜版=115万部)と『ラ・ナシオン』(週日版=63万部、日曜版=85万5000部)、ブラジルの『オ・グローボ』(週日版=27万部、日曜版=52万部)と『オ・エスタード・デ・サンパウロ』(週日版=123万部、日曜版=41万部)、チリの『エル・メルクリオ』、メキシコの『エル・ユニベルサル』、ペルーの『エル・コメルシオ』などがあげられる。

◆ヨーロッパ

ヨーロッパは、近代的な新聞の誕生の地であり、「プレスの自由」という概念を生み、育成した地でもある。それだけに、新聞の発生、発展、絶頂、衰退といったサイクルを、つねに他の世界諸国に先駆けて歩んでいるといえよう。ひと口にヨーロッパの新聞といっても、各国の新聞は、それぞれ長い文化的・歴史的背景を背負っており、互いに異なる面が少なからずある。一方、共通する面としては、

(1)新聞が経済の退潮に伴って合併や吸収される例が多く、所有の集中化が進行している、

(2)階級社会を投影して、紙面の内容から高級紙と大衆紙に分離している例が多い、

(3)新しい新聞の育成や、経営危機に直面した新聞を再建して言論の多様性を維持する目的で、政府が一定のルールのもとに、新聞の経営面に関与することが受け入れられている、

などがあげられる。

所有の集中化の例としては、次のような事実を指摘できよう。ドイツでは、アクセル・シュプリンガー・グループが『ディ・ウェルト』(1946創刊)など日刊新聞6紙を所有することにより同国の新聞総発行部数の約23%を、フランスでは、ロベール・エルサン・グループが全国新聞『フィガロ』などの所有を通じて同じく約20%を、さらにスウェーデンでは、ボニア財閥が同じく約20%を支配している。また、イギリスでも、ピアソン・アンド・ロングマン社(1888創刊の『フィナンシャル・タイムズ』ほかを発行)やニューズ・インターナショナル社(『タイムズ』ほかを発行)など八つの新聞グループが、同国の全国紙と地方紙のほとんどを所有する情勢となっている。

次に、高級紙と大衆紙の分化は、階級社会の発展に伴うものであり、階級間格差が縮小されれば両者の紙面格差も少なくなる。『タイムズ』が1967年にカナダの「新聞王」トムソン卿(きょう)に買収されて以降、写真を掲載するなど紙面の大刷新を行って部数の伸張を図ったように、現在は高級紙としても読みやすい紙面づくりを目ざすようになってきている。

政府の新聞に対する一定の介入が許されている例としては、イギリスやフランスなどにおける新聞所有の集中排除に関する法律に基づくものや、スウェーデン、スイスなどの新聞の助成に関する場合のそれなどがある。ただし、いずれのケースも政府の恣意(しい)的な介入を排する措置が講じられていることは留意すべき点である。

一般に西欧各国では、新聞を一種の公共機関として、その存続に手厚い保護措置を講じている例が多いが、一方、その新聞に他の一般産業よりも重い社会的責任を求める風潮が強まっている。新聞も、そうした社会の要請にこたえるべく、プレスのオンブズマン制(スウェーデン)やプレス評議会(スウェーデン)、プレス苦情処理委員会(イギリスその他)など、自主的な報道内容のチェックと、読者の苦情を処理する機関を整備しつつある。

◆ロシア・旧ソ連邦諸国

ロシアには1999年現在、日刊・非日刊あわせて登録している新聞が1万6993種ある。そして、これらの新聞の大半を支配しているのは、政府、共産党、新興資本の3勢力だといわれている。まず、政府だが、多くの出版社や印刷所、電子メディアの送信施設などが国家の所有となっており、これらを自由にできる政府は実質的に最大の勢力であるといわれている。

共産党は発行部数30万部(国内8位)の機関紙『ソビエツカヤ・ロシア』を中心に、全国規模の4種の出版物、700以上の地域出版物を支配しているという。共産党がいまなお強力な政治力を維持していられるのも、これらの新聞・出版物による世論への働きかけのおかげといえなくもない。

ソ連崩壊後、急速に新聞を含むメディアに対する支配力を拡大しているのは、新興の金融・産業資本のグループである。その第一は金融資本モスト・グループ総裁のウラジミール・グシンスキーが出資するメディア・モストである。中核のメディアは民間テレビであるNTVと発行部数5万部の日刊紙『セボードニヤ』。同グループは、アメリカの『ニューズウィーク』と提携して、政治週刊紙『イトーギ』を発行している。

第二の勢力は、自動車販売を通じて大富豪となったのち、前安全保障会議副書記長として政界入りしたボリス・ベレゾフスキーが率いるロゴバス・グループ。半官半民のテレビ局ORTの株式の16%、民間テレビ局TV6の株式の20%、風刺週刊紙『アガニョーク』の株式の50%を所有するほか、高級日刊新聞『独立新聞』『コメルサント』『新イズベスチア』を支配している。

第三の勢力は、オネクシム銀行総裁で第一副首相を務めたポターニンがとり仕切るインターロス・グループである。国内第2位の発行部数73万部の『コムソモリスカヤ・プラウダ』『イズベスチア』、雑誌『エクスペルト』などを支配している。

旧ソ連最高会議幹部会の機関紙だった『イズベスチア』は、かつての1000万を超える発行部数が、現在の26万4000部へと低迷している。1997年にチェルノムイルジン首相(当時)の蓄財問題を報じたフランスの『ル・モンド』の記事を転載したことに端を発し、大株主であるルークオイルとオネクシム銀行が介入し、ゴレムビオスキー編集長を解任。解任された編集長はロゴバス・グループの支援を得て『新イズベスチア』を創刊する、という事態となっている。

第四の勢力は、モスクワ市長Y・ルシコフが握るマスコミ・グループ。ロシア最大の発行部数を誇る『モスコフスキー・コムソモーレッツ』(120万部)、同第6位の『モスコフスカヤ・プラウダ』(42万部)のほか、テレビ局TVセンターなどを支配している。

ロシアの新興実業家の多くは、政治と結び付いて大をなしてきたいわば政商的な存在である。そうした人物が新聞を支配したらどうなるのか。たとえば1997年7月、ORTテレビのニュース番組が電信電話会社スビャジインベストの国有株式の競売で不正があったと報じた。落札したのはオネクシム銀行の海外子会社とアメリカの投資家の合同チーム。たちまち、各資本グループが、傘下のマスコミを動員して、互いに相手を「ブラトバ(マフィア)」「ゴキブリ」とののしりあう泥仕合を展開するという事態を引き起こしている。

先の『イズベスチア』の編集長の解任劇といい、ORTテレビの一件といい、はしなくも政治家と新興実業家、マスコミの三者の結び付きを浮き彫りにしている。ロシア経済の混乱がそのままマスコミにも投影しているのだ、とみることができよう。

2000年春、エリツィンからプーチンに大統領が交代して以来、新聞に対する政府の対応は厳しさを増している。同年5月、大統領選以来、プーチン政権批判を続ける事実上唯一のマスコミ・グループであるモスト・グループに連邦保安局の捜査が入った。2000人が動員されたこの捜査は、電話や無線の「非合法傍受」の容疑で行われたものである。政府の発表によると、モスト・グループは旧ソ連国家保安委員会(KGB)の職員など約2000人からなる保安部をもち、電話の盗聴を含む非合法手段を通じて、政治家やジャーナリストの動きを探っていたという。また、ロゴバス・グループも同様な組織を社内にもっているという。メディア・グループ側は、こうした政府発表を事実に反するとしており、真偽のほどは明らかでない。だが、政府とマスコミの関係が急速に悪化しつつあるのは事実である。

2000年6月、新聞・情報相レーシンは「すべての新聞、雑誌の発行を免許制にする」と表明した。出版活動は1998年に制定された法律で免許制とされたが、新聞・情報省は新聞に対してこの法律を適用せず、「活字報道機関を登録制にする」とする別の法律を適用してきた。98年の法律では、出版免許の取消しには裁判所の決定が必要とされているが、何らかの違反があった場合、新聞・情報省は、最長6か月の免許停止権限を有するとしている。

ウクライナ、カザフスタン、ウズベキスタン、キルギス、タジキスタンなどの旧ソ連邦諸国の新聞は、基本的にロシアのそれと同様の状態で発行されていると考えてよい。

◆中近東・アフリカ

中近東から北アフリカにかけての地域は、イラク、エジプト、モロッコなどのアラブ諸国と、イスラエル、イランといった人種、宗教、言語の違う20か国によって構成されている。これらのなかで、イスラエルは国民の識字率が90%と断然高く、新聞は、国防関係分野の報道に対する厳しい政府の管理下に置かれているものの、いちおう西欧型のジャーナリズムに基づいて発行されている。英字新聞『エルサレム・ポスト』(1932創刊)や、テル・アビブで発行されているヘブライ語新聞『マーリブ』(1948創刊)が有名である。また、イランでは、いわゆるイラン革命以後、新聞は1979年制定の憲法の定めにより、政府から免許を受けることを義務づけられるなど、厳しい制限下に置かれるようになった。その結果、革命前に多数あった新聞が過去5、6年間に激減している。

他方、アラブ18か国のプレスは一般に三つのカテゴリーに分類される。第一は総動員プレス(モービリゼーションプレス)といわれるもの。アルジェリア、スーダン、シリアのプレスがそれに該当する。いずれの国のプレスも、社会主義もしくは革命政権のもとで、それぞれの政権が目的を達成するための道具として位置づけられている。これら諸国のプレスのなかでもっとも有力と目されているのはエジプトの新聞で、『アル・アハラム』(1875創刊)や『アル・アクバル』(1944創刊)が有力である。第二は王党派プレス(ロイヤリストプレス)である。オマーン、カタール、アラブ首長国連邦、ヨルダン、サウジアラビアなどのプレスがそれで、大部分の印刷媒体は民間の所有にあるものの、一致して国王や首長の治政を支える機能を果たしている。第三は多様化プレスといわれるもので、モロッコやクウェート、それに内乱前のレバノンのプレスをさす。これらの諸国ではプレスは相当程度の自由を与えられ、新聞の種類も豊富である。

『ユネスコ文化統計年鑑』の1999年版によると、1996年現在、アフリカ諸国全体で日刊新聞の数は224紙、推定総発行部数は1200万部で、人口1000人当りの部数は16部となっている。アフリカ大陸は、このような新聞の発行状況からみる限り、いまのところ世界でもっとも後れているといえる。新聞の発展を妨げている要因は、

(1)使用言語が800から2000に上り、それらの80~95%が文字をもっていない、

(2)文字によって表記される言語の場合、その言語を使用する人口は少なく、新聞が営業できる基盤が小さい。また、旧植民宗主国の言語(英語、フランス語など)で新聞を発行しても読者が限定される、

(3)国民の所得、識字率がきわめて低い、

ことがあげられる。

比較的新聞の発達した国は、南アフリカ共和国、ナイジェリア、マダガスカル、モーリシャス、ケニアなどである。また、アフリカの新聞にとって特筆すべきは、1996年5月に成立した南アフリカの憲法である。第3章基本的諸権利の第16条は、「何人も表現の自由の権利を有する。この権利には、(1)印刷媒体およびその他のメディアの自由、(2)情報や意見を受け、伝える自由、(3)芸術活動の自由、(4)学問の自由および学術研究の自由が含まれる」としている。そして、第32条1項は「何人も諸権利の行使もしくは保護するために必要なすべての情報にアクセスする権利を有する」とアクセス権をも認める内容となっている。

■関連情報

◆マルチメディアデータ

http://100.yahoo.co.jp/detail/%E6%96%B0%E8%81%9E/%EF%BC%BB%E7%94%BB%E5%83%8F%EF%BC%BD/00123057001701/

http://100.yahoo.co.jp/detail/%E6%96%B0%E8%81%9E/%EF%BC%BB%E7%94%BB%E5%83%8F%EF%BC%BD/00123057002401/

 参考文献
1.城戸又一編『講座現代ジャーナリズム 新聞』(1973・時事通信社)

2.千葉雄次郎編『新聞』(1955・有斐閣)

3.F・S・シーバート、T・B・ピータスン、W・シュラム著、内川芳美訳『マス・コミの自由に関する四理論』(1959・東京創元新社)

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インターネットもいいのですが、これは昔から身近ある「重要」なものです・・・パート7

続いてです。続いては、「世界の新聞」についてです。「概観」から「アジア諸国の新聞」まで順に書いていきます。

4. 世界の新聞

◆概観

世界には、さまざまな新聞がさまざまな形で存在している。第二次世界大戦後、そうした各国の新聞の社会的、歴史的、経済的な位相を総括し、分析し、その結果をまとめた『プレスの四理論』(1956/邦訳『マス・コミの自由に関する四理論』)が、アメリカのマスコミ学者シュラムWilbur Schramm(1907―96)らの手により発表された。それによると、世界のプレスは、(1)権威主義理論、(2)自由主義理論、(3)社会的責任理論、(4)ソビエト共産主義理論、のいずれかによって活動が営まれているという。

ここでいう権威主義理論は、古くは絶対王権、新しくは全体主義政府や軍事政権の独裁に奉仕することをプレスに求めるものである。これに対し、自由主義理論は、ミルトンやJ・S・ミル、ジェファソンなどによって提唱、展開された考え方である。民主主義社会が機能するためには、その構成員である国民が各自に判断を下すうえで必要な情報をプレスを通じて入手できることが前提であり、この前提を実現するためには、プレスが取材・報道をするうえで広範な自由を与えられなければならない、というのが基本的な考えである。また、社会的責任理論は、自由主義理論のベースにたち、基本的な諸自由、諸権利が保障された社会にあっては、コマーシャリズムの弊害などを除去するなど、プレスがその社会的責任を十分に果たせるような環境を整備する面で、政府が積極的な機能を果たすべきことを提唱するものである。

ソビエト共産主義理論は、権威主義理論を共産主義と結び付け、独自のプレス理論を構築したものである。このプレス理論は、レーニンのいう「プロレタリアートには、権力のための闘いにおいて組織よりほかに武器がない」という基本的認識のうえに構築されているもので、その機能として「階級闘争における労働者階級ならびに世界共産主義の前進と、ソビエト権力の維持・向上に貢献する」ことを求められる。また、そのようなプレスを支配するのは「大衆を組織する力をもち、大衆の前衛および指導者として機能する」共産党と、共産党が組織する政府である。

旧ソ連の二つの憲法(1936年と77年制定)は「ソ連邦市民は、言論、出版、結社、集会の自由と街頭行進、デモを行う権利を有する」としていた。しかし、これらの権利と自由は、人民の利益に合致しつつ、社会主義体制の強化および発展と、共産主義建設の目的に沿うことを前提に、行使することを許されるという条件がついている。また、共産主義プレス理論に基づくニュースとは、需要と供給の法則によって支配される商品ではなく、「社会人として機能するのに必要な局地的、あるいは国際的な生活の全分野における論理的、複合的、合理的な知識を構成するもの」と定義されている。

現在、世界各国の新聞のあり方を、この四つの理論のいずれかに該当するものとして分類紹介することができようし、実際にそれを行っている研究書もある。しかし、ここ十数年間に開発途上諸国を中心に構築されてきたもう一つのプレス理論、いわゆる「開発ジャーナリズム」をいま一つの分類項に加えることもできよう。この理論は、プレスを国家建設、社会・産業開発を促進する政府の道具としようとするものである。その点では全体主義的であり、ソビエト共産主義理論との類似性が認められる。しかし、プレス所有の私有を認め、経済・社会の発展に伴ってプレスの自由の拡大をも認めていこうとする点では、自由主義理論をベースに置く社会的責任理論との類似性も認められるというユニーク性をもつ理論といえる。以下に紹介する世界各国の新聞は、このような4ないし5のいずれかの理論に基づくものと考えて差し支えない。

◆アジア・オセアニア

アジア、オセアニアは広大であり、人口も世界でもっとも多い地域である。経済的に他の地域よりも急速に伸張しているだけでなく、識字率向上のスピードも早く、それだけ新聞の普及も高まっている。アジア、オセアニア地域の各国は、人種、歴史、文化の面で複雑に関係しあう部分がある一方、まったく相いれない部分もあり、他の地域以上に一つの共通項でくくるのが困難である。

◆アジア諸国の新聞

人口の都市集中化が進んでおり、その結果、進学率、識字率が向上、新聞も発展する段階にある国が多い。また、男女平等の動きが活発化していることに伴って、女性の記者・編集者、読者が増えている。インドネシア、マレーシア、タイなどでは国語の制定と普及が進み、これら各国語の新聞の成長も見逃せない。また、1970年代以降の域内諸国の経済発展は急で、これに伴って新聞の販売・広告収入が伸び、新聞の経営基盤が固まった。旧共産圏諸国も北朝鮮を除き、経済開放政策を採用した結果、他のアジア諸国のなかでも目覚ましい経済発展を遂げつつあり、新聞も急成長の途上にある。『ユネスコ文化統計年鑑』1999年版によると1996年現在、この地域の日刊新聞の合計数は3010紙で、合計発行部数は2億2900万部。人口1000人当りの部数は66部となっている。

アジア諸国の新聞全体を見渡して、一つの特徴といえるのは、言論の自由が確保されていない、ということだろう。経済の自由化とその進展に伴って、言論の自由も実質的に拡大されていることは、紛れもない事実である。しかし、法制面で当局に報道を規制する権限を認めている諸国がほとんどである。アジア諸国のなかで、言論の自由が保障されているといわれるのは、日本を除けば、伝統的な民主主義を継承しているインド、良くも悪くも伝統的にアメリカ流のジャーナリズムを標榜(ひょうぼう)するフィリピンの新聞ぐらいである。

言論を規制している諸国は、

(1)現在、軍事政権下にあると否とにかかわらず、軍事政権下で導入された規制による制約を受けているタイやパキスタン、ミャンマー、カンボジアなどの諸国、

(2)経済の開放政策を採用したか否かにかかわらず、社会主義の政治体制を維持している中国やベトナム、北朝鮮などの諸国、

(3)開発ジャーナリズムを標榜しているインドネシア、マレーシア、シンガポールなどの諸国、

の三つのパターンに色分けできる。なお、イギリス統治下で言論の自由が保障されていた香港(ホンコン)では、1997年に中国に返還されたあとも、中国の一国二制度(一国両制)の政策のもとで、比較的自由な言論活動が営まれているといわれる。

しかし、1999年8月、香港の高官に随行して訪中した新聞記者が記者会見で、副首相である銭其(せんきしん/チェンチーツン)に「香港で、李登輝(りとうき/リートンホイ)・台湾総統(当時)の二国論を宣伝する報道をしてもよいか」と質問したのに対し、同副首相は「香港においても、二国論を宣伝する報道をしてはならない」と答え、中国政府の考える一国二制度の下の「言論の自由」には限界があることを示唆している。

また、2000年4月には香港のCATVのインタビュー報道で、台湾の副総統である呂秀蓮(りょしゅうれん/ルーシウリエン)が「大陸と台湾は地理的には近いが、血縁的には遠い親戚」と語ったことから、中国政府は激しく呂秀蓮を非難。同時に中国政府の香港代表部の副主任である王鳳超は「香港メディアは、台湾独立をあおるような報道を行ってはならない」と警告を発し、メディア側の鋭い反発を招く事態となった。

いま一つアジア諸国の新聞の特徴は、著しい経済成長に支えられた急成長だろう。とくに1980年代以降、中国、インドネシア、韓国、マレーシア、タイ、台湾、シンガポールなどでは、新聞製作の施設・設備が急速に整備されてきており、数十万部の発行部数を誇る日刊新聞が次々に登場している。その結果、アジア諸国の新聞の用紙消費量は急速に増大し、90年代の初めには世界規模での深刻な用紙不足とそれに伴う新聞用紙の高騰を招来した。

しかし、1997年に発生したタイのバーツの下落に端を発した通貨危機を契機として、東南アジア諸国のバブルは一気にはじけ、新聞社を取り巻く経済情勢は一変した。不況で広告収入が激減するとともに通貨の為替(かわせ)レートが下落したために、輸入に頼っていた新聞用紙を調達することがむずかしい情勢となった。こうして、多くのアジア諸国の新聞社が、経営面で窮地にたたされることとなった。一方、アジア諸国の用紙消費量が急激に縮小したため、逼迫(ひっぱく)していた世界の用紙需給は、一気に緩和されるところとなった。

他方、インド、スリランカ、バングラデシュ、パキスタンなどの新聞は多民族、多言語、宗教対立のほか政治的不安定と国家の外貨不足などに悩まされ続けており、東南アジア諸国の新聞ほどの急速な発展を実現するには至っていない。しかし、インドではイギリス領以来のジャーナリズムと新聞社経営の伝統が息づいており、『ステーツマン』(22万8000部)など依然としてアジアでもっとも質の高い新聞とみなされる新聞のいくつかが発行されている。

前述したとおり、東南アジア諸国を中心に政府主導のいわゆる「開発ジャーナリズム」が席巻(せっけん)している。これは経済成長や産業開発を推進する道具として、言論を統制・動員しようとするものである。「開発ジャーナリズム」を実現するために、制度をもっとも整備しているのはインドネシアである。その一端を紹介すると、まず、同国でジャーナリストとして働こうと思えば、インドネシア・ジャーナリスト協会(PWI)に加入を申請し、資格審査を受けて、免許を取得しなければならない。免許の更新は毎年なので、次の更新までの1年間の活動が次の審査の対象となる。政府の政策上の誤りや大統領一族の権益独占などについて記事を書くと免許の停止や取り消しになるかもしれないというのでは、ジャーナリストはまともな活動ができない。資格審査を行うのはジャーナリストの組織であって、行政機関ではない、また、PWIの代表は国会議員や情報大臣となり、ジャーナリストの見解を国政やメディア政策に反映させることになっている、したがって、メディア政策は民主的に運営されている、というのが従来のインドネシア政府の反論であった。だが、実体はPWIは政府の御用機関であって、ジャーナリストの組織による「自主的な」免許制度は、政府の政策に反対するジャーナリストを排除する仕組みとして利用されているにすぎない、との指摘があとを絶たなかった。94年には、PWIに不満をもつ有力なジャーナリストたちが独立ジャーナリスト同盟(AJI)を組織したが、翌年3月、警察はAJIが当局の許可を受けずに機関誌を発行したとして書記長ら5人の会員を逮捕し、組織つぶしに乗り出した。

だが、1998年の政変でスハルト政権が崩壊して以来、新聞を取り巻く状況は大きく変化した。情報省の自由放任政策により、出版物の発行許可が大幅に増加し、多数の新聞や雑誌が発行されるようになった。その結果、スハルト時代に289点だった新聞・雑誌の発行許可は、99年には1684点と5倍以上に増えたが、競争の激化と経済危機の進行に伴い、発行社の半数が倒産する事態となっている。政府は99年10月、ついに発行許可制を廃止し、通商産業省に登録しさえすれば、誰でも新聞を発行できるようにした。

また、PWIは従来のような機能を事実上失いつつあるといわれるが、存在し続けている。インドネシア政府の言論政策もマスコミ業界の対応も現在、混乱期にあるように見受けられる。今後、インドネシアの言論状況がどのような方向に向かうのかは、依然、不透明のままとなっている。

一方、シンガポールでは、1984年11月に政府の政策の一環として、すべての新聞社の株式を所有する持株会社、シンガポール・プレス・ホールディング社が組織され、前情報相が社長に就任。それまで独立した資本によって発行されていたほとんどの新聞社を吸収した。また、新社屋と印刷工場を建設し、それまで別々の社屋で編集され、製作されていた新聞をすべて同じ社屋で編集し、同じ工場で製作するという形で新聞の報道を徹底的に管理する方策がとられている。95年11月、独立系の新聞社として最後まで残っていたタミル語の新聞『タミル・ムラス』を発行するヒプロ・プリンティング社を買収した。これにより、すべての新聞を政府系にするというプロジェクトが完成している。

この地域のおもな新聞には、次のようなものがある。『タイムズ・オブ・インディア』(インド、142万部)、『マラヤラ・マノラマ』(同104万部)、『コンパス』(インドネシア、52万3000部)、『朝鮮日報』(韓国、196万部)、『東亜日報』(同215万部)、『ウトウサン・マレーシア』(マレーシア、24万部)、『ニュー・ストレーツ・タイムズ』(同17万8000部)、『ジャン』(パキスタン、75万部)、『マニラ・ブレチン』(フィリピン、26万5000部)、『ストレーツ・タイムズ』(シンガポール、39万2600部)、『聯合(れんごう)早報』(同20万5200部)、『タイ・ラート』(タイ、70万部)、『中国時報』(台湾、120万部)、『聯合報』(同120万部)。

社会主義体制の国の新聞は、もともとソビエト共産主義理論に基づいて発行されてきたものである。経済を開放した諸国においてもそうであって、新聞の発行主体は基本的に共産党、政府および生産単位であり、報道内容は共産党と政府の厳格な管理下に置かれてきた。しかし、これらの諸国では開放経済の拡大に伴って、報道面の自由化が表面化しつつあると指摘されている。

中国では、公式な新聞の役割は依然として、1985年2月に当時の胡耀邦(こようほう/フーヤオパン)総書記が中央書記局会議で述べた「党・政府の代弁人という基本的な性質をもっていることを忘れてはならない」というものであり、それ以外の役割が認められているわけではない。だが、1978年12月に開催された共産党第11期中央委員会第3回全体会議において経済建設を中心とした四つの近代化路線が採択され、中国がいわゆる改革開放に踏み出して以来、新聞はさまざまな面で大変容を遂げつつあるのも事実である。まず、新聞経営面の変化である。81年から党の機関紙は経営請負制に移行した。それに伴って、国家の経費補助が激減したため、各新聞発行体は販売上の競争力をつける必要に迫られた。その結果、読者サービスの強化が標榜(ひょうぼう)されるところとなり、たびたび紙面刷新も行われるようになった。広告が復活されたことも、経営を強化するうえで大きな力を発揮している。また、経営を強化するために、既存新聞社が競って読者の人気の高い週刊紙や小報(タブロイド紙)を発刊したため、新聞の数は爆発的に増え、それに伴って部数も飛躍的に増えた。改革開放前の1978年に253紙が年間合計5542万5000部を発行していたが、99年には実に2万2038紙(うち日刊紙384紙)が年間合計287億5900万部を発行するに至っている。また、新聞のページ数も劇的に増えつつある。改革開放前は、ほとんどの新聞が4ページだったものが、やがて8ページとなり、『北京晩報』のように36ページだての新聞すら登場してきている。このような動きに伴って、新聞の役割も単に「党・政府の代弁者」というものから、脱政治、脱イデオロギーかつ商業主義的な「娯楽の提供者」であったり、特定の個人の関心に向けた「専門知識の提供者」、現存する制度などを批評する「政論提供者」など多種多様なものが登場してきた。新聞の配達も従来の郵便による配達から、より迅速な配達を可能とするため、自前の配達網を整備する新聞社が相次ぐ状況となっている。改革開放後、政府や党の支出の削減を契機として、マスメディアへの国営企業資本、民営企業資本、個人資本の参入も始まった。

このような百花斉放的な動きが進行するなか、1996年以降、これに秩序をもたらす動きが出てきた。その一つが新聞の集団化である。96年1月に広東(カントン)省の『広州日報』に始まる集団化は、複数の新聞社間で経営を統合し、効率を高めようとするねらいをもつものである。共同工場で印刷することによって機器の稼働率を高めるとともに、販売・広告活動を共同化するなどしてスケールメリット(規模の利益)を拡大し、同時に人員の削減と収入増加を達成する目的で実施に移された。その後、この集団化は効果が実証されるのに伴い、各地に飛び火していった。

また、中国政府は1996年末に「治理治濫」の方針を示し、新聞の統廃合と創刊抑制策を実施した。99年7月には、「新聞・雑誌発行への非新聞出版機構参画の禁止に関する通知」を発令し、国家から批准を受けた出版事業体以外の者による新聞・雑誌発行事業への参加を禁じた。さらに、10月18日付け『新聞出版報』によると、政府は新聞の所有権に関し「中国の新聞・雑誌はすべて国有財産であり、国以外の第三者が投資したり、所有したりする対象とはなりえない」とする解釈を明らかにしている。

中国新聞協会は1999年12月、「中国新聞業自律公正規約」を定め、地域ごとに会員新聞間で締結することを開始した。同規約は、正確な発行部数の表示、広告効果の公表、虚偽報道や誇大広告の自粛、同業者を誹謗(ひぼう)中傷することや記事と紛らわしい広告の禁止などをうたっている。

一方、党や政府、企業の幹部の腐敗を排除するため、メディアによる社会監督が政府によって奨励されるようになった。このため、新聞の報道は、あたかも西側の新聞と同じように権力の腐敗にメスを入れているようにみえるが、実のところ政府の方針に基づき、政府の監督のもと、政府の定めたルールに従って行われているのである。

1999年3月に開かれた全人代(全国人民代表大会)で、首相朱鎔基(しゅようき/チューロンチー)は政府活動報告のなかで「正確な世論動向を堅持し、報道媒体の自律メカニズムを整えなければならない」と述べ、初めて「世論監督法」の制定準備に入ることを示唆した。2000年2月、広東省珠海(しゅかい/チューハイ)市は全国に先駆けて「世論監督試行条例」を公布。地方政府や企業は、国家の安全にかかわらない限り、「批判報道」の取材を拒否できないこと、事前検閲をしてはならないことなどを定め、報道機関の世論監督権を保障している。ただし、報道の範囲を、党書記や市幹部だけへの報告と、一般への公開に分けており、かならずしも新聞社の判断で取材内容のすべてを公開してもよいとはしていない。

中国のおもな日刊紙には『参考消息』(282万部)、『人民日報』(200万部)、『新民晩報』(169万部)、週刊紙には『中国電子報』(212万部)などがある。

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インターネットもいいのですが、これは昔から身近ある「重要」なものです・・・パート6

続いてです。続いては、「記者クラブのあり方」から「経営」まで書いていきます。

◆記者クラブのあり方

この問題は、そのまま日本の新聞界に固有の取材システムである記者クラブが抱える問題でもある。政府諸機関をはじめ、中央、地方のおもだった公共機関にはかならず記者クラブが存在し、各新聞社の記者が常時そこに出入りして、取材源と接触する。また、そこを取材の前線基地として、関係各方面への取材活動を展開する。実態的には、この記者クラブなしには日本の新聞の取材・報道体制は成立しないと思われるほどまでに大きな役割を果たしてきた。しかし、社会の変化、読者の情報欲求の変化は、記者クラブを中心とする取材活動に依存するのみでは把握できなくなっている。読者が求める情報は、記者クラブにいる記者の取材領域とは無縁のところから発生してくるということが多くなったのである。また、インターネットをはじめとして、そうした情報を発信することができるさまざまな形態のメディアが社会に出現、記者クラブに頼る新聞を脅かすようになった。このようにして、日本の新聞は、編集局の組織のあり方を見直すと同時に、取材現場の取材システムをも再検討しなければならないような時代環境のなかに入りつつあることを実感させられている。

取材システムとしての「記者クラブ」については、これまで、その制度的な位置づけや性格規定、情報源である公共機関との対応、取材上の調整機能や役割などをめぐって、多くの問題が指摘されてきた。たとえば、その一、二をあげると、(1)記者クラブは、情報源から一元的に流入する情報を独占する排他的なカルテル組織ではないか、(2)情報源による情報操作・情報統制の対象となっているのではないか、(3)情報源との関係が深くなることによって、過度の便宜供与や供応を享受し、癒着しているのではないか、(4)その存在が記者個人の自主的な取材活動を妨げ、ひいては紙面の画一的性格を形成する要因になっているのではないか、といった批判である。こうした批判の具体的な現れとして、たとえば、2001年5月、長野県は記者クラブに所属している記者によって専有されていた県の「記者室」をすべての「表現者」に開放するとの方針を公表した。

これまでの記者クラブの活動実態からすれば、前記のような批判をすべて否定し去ることは現実的ではない。クラブ運営の面においても、情報源との関係においても、改善すべき点が少なくないということは、ニュース・メディア組織においてほぼ共通の認識になっているといってよい。

日本新聞協会編集委員会(全国の主要な新聞、通信、放送の編集・報道責任者によって構成)は、1997年12月、記者クラブのあり方についての基本的な見解を公表した。在来の考え方を改め、時代と社会が記者クラブに求める役割を鮮明にすることがその目的であった。これによると、記者クラブは、公的機関が保有する情報へのアクセスを容易にする「取材拠点」であり、国民の知る権利にこたえる活動をするための「開かれた存在」であるべきだと規定している。その存在意義と役割を社会にアピールしたうえで、日常の取材・報道活動において、先にあげたような批判と問題点をいかに克服していくかが記者クラブに課せられた今日的課題であるといえよう。

◆自由と責任

日本は、アメリカと並んで世界でもっとも言論・表現の自由を享受している国といわれる。それをうたっている日本国憲法第21条は、報道の自由、さらには取材の自由をも広範に保障していると新聞界は理解しており、その理念を尊重しつつ、実践的には、日本新聞協会が定めた新聞倫理綱領の精神にのっとって取材・報道活動を行うことを共通の約束事としている。この倫理綱領は、第二次世界大戦後の1946年(昭和21)、GHQの指導と示唆のもとに作成され、長く日本の新聞界の自律的基準として機能してきたが、1980年代以降、マスコミによる人権侵害について批判が高まるなかで、新聞の報道、とりわけ犯罪に関する報道について、なんらかの改善を求める声が強くなった。犯罪報道が、事件の当事者ばかりでなく、関係者の名誉やプライバシーを侵して、個人の私生活を破壊してしまうおそれがあるという指摘である。事実、そのような指摘が現実のものとなる事例は枚挙にいとまがない。事件にかかわりのある人々の実名を出すべきかどうか、あるいは敬称をつけるべきかどうか、といった問題を端緒として、新聞の犯罪報道のスタイル、事件取材のあり方について深刻な議論が展開されてきた。未成年者の犯罪に伴う氏名の扱いなども、そうした問題の一つである。このような状況を受けて、2000年(平成12)6月、倫理綱領は改定された。この新しい倫理綱領のもとで、人権と取材・報道の自由の調和を図るための議論がいっそう活発化している。

◆製作

1980年(昭和55)9月に朝日新聞東京本社がトータル電算編集システムNELSON(ネルソン)を完成したのち、この方式は80年代を通じて各社に急速に普及し、90年代なかばになると、地方紙でも県域規模で有力な地位を占める新聞社は、ほとんどがこれを実用化するに至った。こうなると、第二次世界大戦前から80年代まで、新聞の長い歴史を支えてきたグーテンベルク的技術世界は完全に消失、1960年代以降、活版機械化の花形だった漢字テレタイプ=モノタイプの機械設備はおろか、その後の自動写真植字機まで完全に不要化した。新聞紙面製作は、記者がパーソナル・コンピュータで記事を執筆、その信号を通信回線でセンター・コンピュータに入力すると、編集者がそれらをレイアウト・ディスプレーの上によびだし、所定のフル・ページに組み上げる「編集者組み版」に変わった。あとはこれがフィルムの上に出力され、それからただちに印刷版に焼き付けられる。こうした革命的な製作方式の転換は、さらに大きな変革を招いた。

第一に、輪転印刷において、フィルムからの受版に適した平版オフセット版式が全盛となり、有史以来の活版術に伴って発達してきた凸版印刷方式が、完全に駆逐された。第二に、オフセット方式はファクシミリによる印刷版面の受信と輪転機の軽量化を促したため、新聞各社はその利点を生かし、競って各地に工場を増設、分散印刷体制を急速に拡大し、20世紀末、全国紙はそれぞれ、合計20前後の印刷拠点を有し、地方紙各社も軒並み販売域内に複数の製作地点を設けるまでになった。

第三として、下流=分散印刷工程に対する上流の電算編集システムのさらなる高度化が進んだ。すなわち、記者たちが記事執筆だけに終わらず、紙面の組み上げまでコンピュータで行う製作体制が実現するに至ったからだ。「出稿者組み版」とよばれる記者編集システムであり、朝日が1997年(平成9)、地方支局における地方版紙面製作で採用、先鞭(せんべん)をつけた。だが、読売はその後、大規模なネットワーク・コンピューティング方式でさらに操作が簡単な記者組み版方式を開発、全社規模でのこの方式の普及を急速に進めている。21世紀の初めには、新聞記者が自分の書いたものは自分で紙面にまとめあげるのが、多くの場合、普通の作業となる勢いである。

第四に、電算編集方式が副産物的につくりだした新聞社の記事データベースは、1990年代に入ってコンピュータ技術とデジタル電気通信技術に結び付けて利用されることになり、かつてのビデオテックスなどが騒がれたニューメディア・ブーム時とは比べものにならない本格的な電子メディア開発のチャンスが到来した。具体的には、94年のインターネット商用化に伴い、95年からホームページを利用した「電子新聞」ともいうべきオンライン・ニュース媒体の開発が、各社競いあうなかで始まった。まず、朝日のニュース・サイトである「アサヒ・コム」が口火を切り、これは97年から有料サービスも開始した。続いて、以前から専用端末による経済情報のオンライン・サービスを成功させていた日経の「ニッケイ・テレコン21」というテキストと映像を一体としたインターネットによる新しい情報サービス、シャープ・NTTとの提携による携帯型端末「ザウルス」と公衆電話回線をつないだ有料方式の「毎日ザウルス電子新聞」など、新しいタイプの「電子新聞」が実現した。さらに、20世紀末の1999~2000年、小型の液晶表示装置を備えた携帯電話機である「iモード」が爆発的な普及をみせると、一般紙・スポーツ紙・夕刊紙それぞれが、これへのニュース・各種情報の提供に乗り出し、ここにも「電子新聞」の有力な萌芽(ほうが)が出現した。

加えて2000年12月からは、BS(放送衛星)を利用し、デジタル・ハイビジョンを実現する衛星放送の実用化がスタート、さらに2001年秋には、BSとほぼ同じ静止軌道(東経110度)に位置するCS(通信衛星)、俗に「110度CS」と称される衛星を利用する多チャンネル・デジタルCS放送が実用化される。それらは、高画質化(ハイビジョン)のほか、高機能化(データ放送・双方向サービスなど)と飛躍的な多メディア化とを通じて放送のあり方を一変させるが、多数のデジタル・データ放送媒体の出現する可能性は、新聞に、また一つ新しい「電子新聞」創造の機会を提供することになった。すなわち、データ放送によるならば、操作性の難度が高いコンピュータ(インターネット)によらず、簡易な家庭用テレビを通じて、テキスト、音声、画像・映像を用いて多様な情報サービスを行うことが、新聞社にもできるようになるからだ。このため新聞各社は、BS・CS両方の衛星デジタル放送事業への参加に、系列放送会社との提携などを通じて、名乗りをあげている。

21世紀の初め10年ぐらいは、まだこれら「電子新聞」の揺籃(ようらん)期であろう。この時期を通過して、IT革命(情報技術革命)がさらに大きな媒体的世界の変革を招来するとき、新聞は紙の新聞のみで成り立つのでなく、デジタル電子メディアとしての部分をも大きく備えたものとなる。そのとき、新聞はサイバー・スペースのなかでも、ほかのメディアが追随できない独自のジャーナリズムの実践者としての地位を堅固に維持し、その発展を追求しうるものとして存在するのか、多様な電子情報サービス媒体のなかの、単なる一種として存在するにすぎないものに変わってしまうのか、その行方が注目される。

◆用紙

アメリカに次ぐ世界第2位の新聞用紙消費国である日本は、1999年(平成11)、約355万トンを使用したが、生産もこれを若干上回る程度あり、表向きは完全に安定した用紙自給体制を実現しているようにみえる。だが、新聞界は1980年代に分散印刷体制を拡充、増ページ競争を激化させ、さらにバブル期の人手不足下で新聞配達労働力確保の深刻な悩みにぶつかったとき、用紙の急激な軽量化を進め、そうした用紙を製造するためのパルプ原料を海外からの輸入に大きく依存する傾向を強め、原料調達面では脆弱(ぜいじゃく)さを増す結果を招いた。その体質は、その後も構造化して続いている。

日本の新聞用紙は1970年ごろまで、国内産の広葉樹材にパルプ原料の80%以上を仰ぎ、1平方メートル当り52グラムの重量をもつ紙として製造されていた。だが、新聞社が、印刷作業の適性や効率がよく、配達従業員1人当りの持ち部数も増やせる軽量紙の使用量を増加させるのに伴い、89年にはその使用量のほぼ全量が46グラムの紙となり、97年ともなると、消費量の9割近くが43グラムの超軽量紙となる事態となった。また、99年には40.5グラムの超々軽量紙(通称・XML紙)の実用化が始まった。こうした変化は、おもに北アメリカを産地とする良質の針葉樹材(おもに製材チップ)を製紙用パルプの原料とする必要性をもたらし、90年代なかばには、原木の約5割は海外から調達を仰がねばならなくなった。日本の新聞用紙は、アメリカの景気変動や人口稠密(ちゅうみつ)なアジアにおける用紙需要の変化などによって、原料・製品とも、需給・価格動向が大きく揺れ動かされる危険に、つねにさらされている。

◆販売

日本新聞協会加盟日刊紙の総発行部数(朝・夕刊セット部数、朝刊単独部数、夕刊単独部数の合計)の推移は、表に示すとおりである。2000年(平成12)のそれは、日本独特の朝・夕刊セットで1部とする方式で5371万部、二つを別々にカウントする外国方式で7190万部となり、人口・世帯当り普及部数と同じく、世界最高の水準に達している。ところが、その内実を詳細にみると、バブル崩壊の1991年以降、総発行部数の伸びは鈍化、停滞の傾向をしだいに強め、2000年総発行部数も99年のそれを下回る状態にある。各年の総発行部数は増えても、世帯数の増加をつねに下回り続け、1970年当時1.30部あった世帯普及部数が、2000年には1.13部にまで低落、主力部分であるべき朝・夕刊セット部数に至っては、1991年から連続10年間、前年実績を割る事態に逢着(ほうちゃく)している。多メディア・多チャンネル時代のなか、新聞は飽和から爛熟(らんじゅく)に向かい、さらに崩壊への危機に突入する様相を、色濃く示しつつある。

そこへもってきて、1994年以降の政府による規制緩和政策の流れのなかで、日本の新聞の高普及を達成、維持してきた戸別配達制度の根幹を揺るがしかねない制度的変化が、新聞界をみまおうとしている。すなわち、公正取引委員会・政府規制等研究会や政府の行政改革委員会・規制緩和小委員会が独占禁止法の特例規定、著作物再販制度(再販売価格維持契約制度)、いわゆる法定再販制度の見直しを進め、97年暮れ、当面は急激な変化の惹起(じゃっき)を回避、この制度の即座の撤廃は見送るとしたものの、長期的にはこれを廃絶すべしとする方向性を指し示したからだ。98年、政府はこれに従う政策的な対応姿勢を明らかにした。新聞界は再販制度維持のために強力なキャンペーンを展開し、この制度のもとで戸別配達システムを維持、どこに住む読者に対しても分け隔てのない形で新聞の文化的影響力を及ぼし、公共的使命を達成していくことは、憲法第21条の定める言論表現の自由の実践にほかならない、と主張してきたが、それはかならずしも大きな説得力を発揮し、読者の支持を得るに至ったとはいいがたい。

実際、全市場一律定価適用システムのなかで、内部補助メカニズムを利用し、過疎地の販売店に多めの手数料を供与することができたからこそ、全部数の93%以上(1999年実績)の宅配率を実現することができたのであり、その意味では、こうした定価制度を許してきた再販制度の意義はたいへん大きい。だが、それが読者の共感をもって理解され、支持されることにならない理由の多くは、一方で新聞社が、高額な景品をもって違法な販売拡張を行い、そのくせ、長期購読者には妥当な範囲の割引サービスさえも行わないという、身勝手な商法を続けてきた行為のなかに、求めることができる。

こうした状況のなかで1998年5月、公取委は、新聞販売に適用される景品告示の見直しを行い、原則禁止だった景品の使用について、月決め購読料3か月分の8%に相当する程度の金額のものは使用可、とする告示改正を行い、これに伴い新聞界は、原則的には景品が使えるという、これまでと原理がまったく異なるものとなった制度環境のなかで、新しい競争に突入した。それは、資力のある新聞社に公然と景品や懸賞を競争の武器として使うことを許し、読者の間に景品がもらえるか否かによる不平等感を生み、その面から定価制度=再販制度の崩壊を加速する危険を随伴している。2000年9月になると、景品額算出基準は、購読料3か月分から6か月分へと高められ、危機要因はいっそう増大した。2001年3月、公取委は、著作物再販制度を当面存置する、との結論を出したが、この制度を新聞界自らが揺るがしかねない、この危機的状況の基本的性格は、変わっていない。

◆広告

高度経済成長時代に、新聞経営における主収入の地位を確立した広告のあり方は、21世紀においても基本的には変わらないだろう。だが、媒体間の競争関係をみると、1974年(昭和49)に総広告費の33.7%を獲得、シェア第1位の座を占めていた新聞広告は、その年の石油危機に伴う不況のあおりを受けて、翌75年、その地位をテレビに奪われ(テレビ広告費34.0%)、その後、両者の格差は開いてゆくばかりであった。とくにバブルにより一時的膨張を経たのちの新聞広告費は、それが崩壊した91年(平成3)以降、3年続きという、ほかの媒体にはみられない長期の前年実績割れを強いられ、その結果、99年の広告費の獲得では、テレビの33.6%に対して新聞20.2%と、大きな後退を余儀なくされる事態に立ち至った。それは、販売面での媒体力の弱まりを反映しており、漫然とそれまでどおりの新聞広告に依存する限り、こうした減退傾向をたどることは、今後も不可避であろう。

ところで、新聞・雑誌・テレビ・ラジオの、いわゆるマスコミ4媒体を除くそのほかの広告媒体が、1974年は全体の22.7%の広告費しか獲得していなかったのに、99年に34.9%もの大きなシェアを占めるようになっている事実に、新聞としても関心を払わざるをえなくなっている。その内訳は、折込み、ダイレクトメール、交通広告や、電子的なニューメディアである。これらの広告は、元は新聞の小売り・案内広告に含まれていた特性を有する広告情報であり、新聞社が大企業の大型ディスプレー広告獲得にかまけている間に、それらは、セールス・プロモーション媒体にシフトしていってしまった、という経緯が存在する。また、97年からのインターネット広告の伸びはすさまじく、2000年代初頭の数年の間には、広告費総額が1000億円を超えると予測される。

こうした状況のなかで、1990年代になると、広告媒体としての活力をよみがえらせようとするさまざまな媒体開発の努力が、新聞各社で行われるようになった。第一は、新聞紙としての媒体力再開発。配布エリアごとにきめ細かく、異なった内容の広告紙面を露出すること、市井一般の人が多様な通知情報を低料金で掲載できる個人広告の発案、閲読率の異なる紙面ごとに料金を別々に設定する面別料金制度、EDI(電子データ交換)システムによる広告取引の標準化・迅速化、などである。第二は、広告としても「電子新聞」の取組みに積極的に参加し、インターネットのホームページなどのなかに広告媒体を創造していく取組み。オンライン情報ページのなかのディスプレー広告、バナー広告(広告の見出しをクリックすると広告主のホームページが開く仕組みの広告)など、すでに多様な形態・方式の電子広告が実施に移され、新たな可能性が模索されている。

◆経営
新聞経営が新聞発行事業にのみ没頭でき、国内の専業市場における同業他社との競争に気を使っていさえすればよかった間は、新聞各社は比較的安定した経営環境のなかに生息できた。だが、1990年(平成2)に冷戦構造消失、91年にバブル崩壊、93年に国内政治の五十五年体制消滅、95年にインターネット元年・マルチメディア時代到来、などの歴史的激変は、新聞経営の周辺環境を劇的に変え、新聞経営はかつて経験したことのない大きな困難に直面した。

第一は、同業他社との競争も、単なるバブル崩壊後の不況のみにとどまらないデフレの危機や、IT革命時代の内実をなす多メディア化のなかで、かつてない深刻な閉塞(へいそく)的環境のもとに置かれ、自社の業績をあげるためならば、なりふりかまわず他社の業務達成を妨害するなど、手段を選ばない苛烈(かれつ)なものとなる傾向をみせている点が指摘できる。具体的には、1998年5月からの販売拡張にかかわる景品規制緩和は、読売・朝日という業界の覇権を制する力をもつ企業の唱道により実現しており、これより劣位にあり、資力の乏しい社は、景品や懸賞の利用競争のなかで、部数を一方的に奪われる危険にさらされる。これら2社はじめ、いくつかの社がこのような方法で事業的に成功しても、業界全体の疲弊の度合いはいっそう深刻化するおそれが増大する。

第二に、IT革命のもとでのメディアのデジタル化の進展は、多メディア化・多チャンネル化の動きを加速・拡大し、新聞社にもサイバー・スペースにおけるオンライン・ニュース・メディアの開発を要請する一方、放送もそうした対応を迫られているため、従来の新聞・放送を貫く系列型の提携関係の緊密化とグループの拡大は、21世紀に入っていっそう進展するものと予想される。朝日は1997年、「メディア複合体」としての経営体制の構築理念を明らかにしたが、どの新聞社もそうした方向を熱心に追求するようになった。

その一つのあり方としては、1999年以降、読売が製作体制電子化のメリットを生かし、全国各地の小規模地域紙に記事配信を開始、2000年にはその数が11にも及ぶチェーン状の提携グループを成立させたのが注目される。また、同社は同じく1999年、出版の名門、中央公論社を事実上買収、複合メディア・グループとしての強みを増した。また、2000年のBSデジタル放送、2001年の110度CSデジタル放送の開始に伴い、有力各紙が放送会社と共同でこれら事業に乗り出しているのも、大きな特徴となっている。このような傾向は、21世紀が進むのにしたがい、より顕著となるであろう。

第三に、新聞もその一角に食い込もうとしているマルチメディア・ビジネスの世界が、1990年代後半以降、しだいにはっきりとした輪郭をみせるようになっているが、その主導権は、日本を代表する異業種の巨大企業や、アメリカに本拠を置く国際的なメガ・メディア・グループが掌握している事実も鮮明になっている。新聞は、これらにただ従属するのでは、事業的に成功しても言論報道機関としての独立と自由を失う心配がある。そうした問題点は、96年、テレビ朝日の株を世界のメディア王、ルパート・マードックが大量に買収、翌年、テレビ朝日の最大株主、朝日新聞がその株を買い戻した顛末(てんまつ)によく示されていた。また、96年から事業を開始した衛星デジタル多チャンネル放送、パーフェクTVや、その後身のスカイパーフェクTV(さらに2000年にディレクTVと合併、スカイパーフェクト・コミュニケーションズとなる)の株やチャンネルの主要部分が、伊藤忠、三井物産、ソニー、マードックのニューズ・コーポレーションなどによって占められることとなった事実も、こうした動向にいかに対処すべきかの問題を、新聞に投げかけている。

第四として、以上のような動きが政府の規制緩和政策によって生じており、すべての変化を市場メカニズムにゆだねようとする傾向が強まるなかで、新聞の公共性を確保するための制度的特典がしだいに失われようとしている動向に注意せざるをえない。法定再販制度の見直しはその典型的な例である。また、新聞がかかわりを強めている放送は、いまや既存放送事業者の制度的独占(限られた事業者に対する免許制)から切り離され、通信・放送の融合、通信ビッグバンなどの掛け声のもと、どんな事業者でも資本市場のメカニズムにのみ従って、自由に進出・参加できる事業に変えられつつある。放送会社の株式上場も進み、そうした状況が行きつくところでは、商法の特例によって、株主の範囲を社内関係者に限定できた日本の新聞事業に固有の社内株制度の特典も、見直されることとなる可能性がある。新聞事業の公共性をいかに守るかが、今後重要な経営課題とならざるをえない。

■関連情報

◆マルチメディアデータ

http://100.yahoo.co.jp/detail/%E6%96%B0%E8%81%9E/%EF%BC%BB%E7%94%BB%E5%83%8F%EF%BC%BD/00123057001701/

http://100.yahoo.co.jp/detail/%E6%96%B0%E8%81%9E/%EF%BC%BB%E7%94%BB%E5%83%8F%EF%BC%BD/00123057002401/

 参考文献
1.城戸又一編『講座現代ジャーナリズム 新聞』(1973・時事通信社)

2.千葉雄次郎編『新聞』(1955・有斐閣)

3.F・S・シーバート、T・B・ピータスン、W・シュラム著、内川芳美訳『マス・コミの自由に関する四理論』(1959・東京創元新社)

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インターネットもいいのですが、これは昔から身近ある「重要」なものです・・・パート5

続いてです。続いては、新聞について書きたいと思います。「総論」から「機能」まで順に書いていきます。

新聞(しんぶん)

newspaper [英語]
Zeitung [ドイツ語]
journal [フランス語]

1. 総論

新聞とは、一般的には、時事的なニュースおよび論評を、不特定の大衆読者に伝達販売することを主たる目的として、固有の題号のもとに、通常は日または週単位で定期的に発行される無綴(と)じの印刷物をいう。しかし、ここにあげた新聞の情報内容、伝達対象、定期性には幅があり、現実の新聞の態様は多様である。マス・メディアの一つ。ジャーナリズムと同義に扱われることもある。中国語で新聞はニュースの意。日本でも江戸時代の末1860年代のなかばころまではそうで、この前後からニュースを掲載する出版物すなわち新聞紙をさすことばになった。

◆種類

新聞には通常の一般紙のほかに多様な種類がある。内容・対象別では、政党紙、組合・団体の機関紙、産業分野別の業界紙、大学新聞や学校新聞など。狭い地域社会や小グループの成員を対象にしたミニコミ紙や、広告収入だけに依存し無料で配られるフリー・ペーパーもある。発行頻度別では、日刊紙、週刊紙、日曜紙、旬刊紙、半月刊紙などがある。一般紙では日刊紙が主力である。また、一般紙には取材ないし配付対象地域別に、国際紙、全国紙、ブロック紙、地方紙、県紙、地域紙などの区別がある。しかし、その違いはかならずしも絶対的とはいえない。一般日刊紙の種類については、さらに「日本の新聞」の〔分類〕で詳述する。

◆機能

新聞は近・現代社会における情報伝達・流通の社会的システムの基本的媒体である。しかし、このような新聞による情報伝達・流通に負荷される役割は、社会体制によって違う。自由主義社会では、正確公正なニュースの伝達と自由な論評活動による民主的な世論形成機能が重視されるが、旧ソ連や現代中国のような社会主義社会の新聞は、共産党などいわゆる前衛党の指導下に置かれた社会主義建設のための手段、集団的宣伝・扇動の機関として位置づけられる。また、独裁的国家の新聞は、政府発表や、政府に好都合な情報、ないし着色された情報のみを伝達し、権力の支配装置の一部として機能する。

■関連情報

◆マルチメディアデータ

http://100.yahoo.co.jp/detail/%E6%96%B0%E8%81%9E/%EF%BC%BB%E7%94%BB%E5%83%8F%EF%BC%BD/00123057001701/

http://100.yahoo.co.jp/detail/%E6%96%B0%E8%81%9E/%EF%BC%BB%E7%94%BB%E5%83%8F%EF%BC%BD/00123057002401/

 参考文献
1.城戸又一編『講座現代ジャーナリズム 新聞』(1973・時事通信社)

2.千葉雄次郎編『新聞』(1955・有斐閣)

3.F・S・シーバート、T・B・ピータスン、W・シュラム著、内川芳美訳『マス・コミの自由に関する四理論』(1959・東京創元新社)

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インターネットもいいのですが、これは昔から身近ある「重要」なものです・・・パート4

続いてです。続いては、「日本の新聞」について書いていきたいと思います。「概観」から「取材・編集過程」まで書いていきます。

3. 日本の新聞

◆概観

日本に新聞がいくつあるかを正確に記すことは不可能に近い。通常、人々が新聞というメディアを思い浮かべるのは、毎日定期的に家庭に配達されてくる一般日刊新聞であろうが、そのような日刊紙のほとんどは社団法人日本新聞協会に加盟しており、その会員数は2000年(平成12)11月現在で111紙である。しかし、この111紙をもって日本の新聞のすべてであるとはとてもいいきれない。それは以下のような事情による。

まず第一に、これは、東京、大阪などの主要都市に複数の発行本社をもち、日本全国を配布エリアとする新聞(全国紙)を、その発行本社ごとに1紙と数えている。第二に、これは一般日刊紙ばかりでなく、スポーツ紙、英字紙、経済専門紙、その他個別業界の専門紙などがいくつか含まれている。第三に、この111紙には、一般に郷土紙とよばれるごく狭い地域を配布エリアとする新聞は、わずかな例外を除いては、かりに日刊紙であっても含まれていない。また当然ながら、個別業界の専門紙もほとんどここに数えられていない。それらの大部分は日本新聞協会には加盟していないのである。ちなみに、前者の地域紙については社団法人日本地方新聞協会があり、日刊・非日刊を含めてその加盟社数はつねに変動して確定しがたいが、2000年10月現在で63社である。また、後者の業界紙とよばれる新聞の組織団体には社団法人日本専門新聞協会があり、日刊・非日刊あわせたその会員数は2000年10月現在で117社である。しかし、そのいずれもが、それぞれの新聞の総数を正しく反映したものではなく、その実数を明らかにする手だてはないに等しい。とはいえ、冒頭に記したとおり、人々の新聞イメージが、たいがいの場合、一般日刊紙であるとすれば、日本新聞協会に加盟している新聞をもってその主要なすべてであるといいきることは可能である。そして、その数はおよそ78紙と数えることができる。

◆分類

一般日刊紙は、主として発行規模から、先に記した全国紙と、それ以外の地方紙に大別され、その地方紙はさらにブロック紙、県紙、郷土紙に分けられる。全国紙とは、文字どおり全国全域を配布エリアとする新聞、そのすべてが東京に発行所在地をもっていることから中央紙とよぶこともある。現在の新聞界ではこれに該当する新聞として『読売新聞』『朝日新聞』『毎日新聞』『日本経済新聞』『産経新聞』の5紙がある(発行部数順)。地方紙のなかで県紙とよばれる新聞は、発行所在地が地方の都市(単一もしくは複数)にあり、配布エリアが特定地方に限定される新聞をいう。ブロック紙と通称される地方紙は、単一の県域を越えた広い配布エリアをもつ新聞であり、これにあたるのは『北海道新聞』『中日新聞』『西日本新聞』の各紙とされている(なお、これに『東京新聞』を加えることもあるが、これは中日新聞社が所有する)。県紙が一つの県域内を市場とし、郷土紙がさらにそれより狭いエリア内で普及している新聞をさすことはいうまでもない。いま改めて全国47都道府県を見渡すと、滋賀、和歌山な一、二の県を除いてほぼ全県に県紙が存在している。多くは1県1紙であるが、福島、福井、沖縄などの県では二つの県紙が共存している。

こうした発行規模による区別のほかに、先に触れたとおり、発行の間隔による区別(日刊・非日刊、定期・不定期)や報道内容による区別、すなわち、「一般時事」を報道する日刊紙と、それ以外のスポーツ・レジャー紙、英字紙、経済・工業・流通などの特定分野に関する専門紙、個別業界の動向を報ずる業界紙、といった分け方もある。

また、刊行形態による区別としては、セット紙、朝刊単独紙、夕刊単独紙という分け方が可能である。セット紙とは、同一題字で朝・夕刊を発行、これを1組(セット)として読者と購読契約を結び、配布する新聞である。日本の一般日刊紙の大部分はこのセット紙であるが、外国にはこうした発行形態をとっている新聞はない。全国紙、地方紙を通じて、朝・夕刊セットになった新聞づくりが原則であるが、夕刊を読者の手元に届けるにはあまりにも時間がかかりすぎる地域には、統合版(総合版)といわれる紙面が配布される。その名が示すとおり、朝刊と前日の夕刊の記事内容を統合し、改めて整理した新聞である。

セット紙の紙面はとりわけて、全国紙、ブロック紙の場合、時間の流れにしたがい、何度か更新される。すなわち版が改められ、それまでの版にはなかった新しいニュースが加わったり、すでに記事になっているニュースの内容が変化したりする。通常、全国紙のセット紙朝刊は4~6版、夕刊でも3版とられ、そのつど紙面は全面的にあるいは一部新しくなる。東京に発行本社をもつ全国紙でいえば、その最終版は14版、夕刊は3版である。各新聞の話合いによって、朝刊は午前1時35分、夕刊は午後1時30分までに入ったニュースを記事にすることとし、それ以降のニュースは掲載しない(俗にいう「降版協定」)。朝刊の最終版を14版とよぶのは、午前0時(12時)を過ぎて2時間、すなわち午前2時(前後)に降版してきた新聞界の長い慣行がいまに伝わっているからという。

以上は、いわば新聞をつくる側の視点からみた類別であり、現況であるが、読者の側にたてば、それぞれの身近にある新聞を「主読紙」と「併読紙」という区別でみることもできよう。主読紙とは、読者がもっとも主要な情報源として熱心に読む新聞、併読紙とは、主読紙から得られる知識・情報を補完したり、参考にしたりするために読む新聞ということができる。一般日刊紙と専門紙という組合せでは、前者が主読紙、後者が併読紙となるだろうが、読者によっては、地元の地方紙を主読紙、全国紙を併読紙と位置づけて読む情報行動もありうる。また、大都市在住の地方出身者にとっては逆のケースもありえよう。したがって、主読紙、併読紙の別は、新聞の種類、規模によって明らかになるのではなく、あくまでも読者の新聞閲読態様によって位置づけられるものである。極端にいえば、読者ひとりひとり異なり、しかも固定的ではありえない。

◆発行部数と普及率
一般日刊紙を中心とする日本の新聞は、いまどの程度発行されているのだろうか。2000年(平成12)10月現在の新聞協会加盟日刊紙(スポーツ紙を含む)の総発行部数は5370万8831部、1世帯当りの普及率1.13部である。普及率からみても、発行部数からいっても、日本が世界でも有数の新聞大国であることは間違いない。わけてもこの普及率は世界で最上位に位置する。

日本の新聞がこのように高い普及率を長く維持し続けている理由はなんであろうか。多くの識者が指摘するとおり、日本人のリテラシー(読み書き能力)の高さ、教育水準の高さ、旺盛(おうせい)な知識欲と好奇心、つまりはそうした読者の能力と欲求にこたえる良質な紙面内容、といった点によるところが大きいにしても、それ以上に大きく寄与しているのが、日本の新聞がつくりあげた戸別配達制度である。しかも、この制度は各新聞社が共有するものではなく、全国紙、地方紙がそれぞれ自社固有の配達システムとして配布エリア内に張り巡らしたネットワークである。すなわち、日本には規模の大小はあれ、それぞれの新聞社が膨大なコストと人手をかけてつくりあげた配達網が幾重にもできており、それを駆使しての激しい販売競争(後述)が日常的に展開されているわけで、高い普及率はそのような制度とそのような制度のもとにおける競争の所産であるといってもいい。その結果、戸別配達率は93%に達している。

また、独占禁止法における再販制によって、日本のいかなる地域においても同一紙、同一定価で購読されるという制度的特典を得ている点が普及にあずかって力があったという見方もある。再販制については、1990年代以降、規制緩和・競争政策をめぐる論議のなかで、それを維持することの是非が論じられてきたが、2001年3月に至って、公正取引委員会は、この制度を引き続き存続するとの結論をまとめた。これにより、再販制に関する議論はひとまず落着した。しかし、将来的には、なお撤廃に向けての検討が政府部内において加えられるものと予想される。

◆特徴と矛盾

以上を要約して、ここで、一般日刊紙の発行状況からみたおもな特徴を列記してみると、第一に、全国をあまねく市場とし巨大な部数を誇る全国紙、複数の県に市場をもつブロック紙、それぞれの県域内を配布エリアとする県紙が重層的に共存し競争しているという市場構造が指摘される。第二は、世界で有数の発行部数、世界一の高い普及率が完備した戸別配達システムによって支えられているということ。第三には、そのシステムが十分に機能しているがゆえに、朝刊と夕刊をセットにした紙面づくりとセールス体制が可能であるということ、などがあげられよう。

しかし、このような特徴が、現代の日本の新聞の構造的矛盾を内包していることもあわせて指摘しておかなければなるまい。長年にわたる激しい販売競争は、新聞界が自ら定めた公正競争規約を空文化し、読者の信頼を著しく損なうかのような状況を招いている。また、戸別配達システムはそれを維持するために巨額のコストを要し、その経費が新聞社の経営を恒常的に圧迫している。朝・夕刊セット体制は、久しい以前から「セット割れ」といわれる現象によって崩れかかっている。セット割れというのは、端的には、セット紙の夕刊が読まれなくなっていることで、それは、編集、販売、広告のすべての面で無視できない影響を及ぼしつつある。

次に、取材・報道の特質や状況を概観するに先だち、日本の新聞の紙面の基本的性格について触れておこう。欧米の新聞は、高級紙quality paperと大衆紙popular paperの二つに画然と分かれているといわれる。大衆紙はその多くがタブロイド判型であるがゆえに「タブロイド紙」ともよばれる。すべての国のすべての新聞がそうであるといいきることはできないが、おおよそその傾向にあることは事実である(後述)。前者が、主として政治、経済、国際、文化などの領域に関する報道と解説を中心とした紙面であるのに対し、後者は、犯罪、事故、スキャンダル、スポーツ、ショー・ビジネスなどの分野のできごとについて読者の興味をそそるようなスタイル(文体)で報道することに力点が置かれている。また、欧米の新聞のもう一つの特徴は、政治的・国際的・社会的争点については自紙の主義主張、立場を鮮明にすることが伝統になっている。

これに対して日本の新聞は、その大部分が高級紙の範疇(はんちゅう)にも大衆紙の領域にも分類できない。そのいずれでもなく、そのいずれでもある。両者の性格をあわせもっている。今日の社会に生きている普通の人が普通の生活を営むうえで必要とし、求めている知識、情報をまんべんなく、しかも過不足なく提供するというquality popular paper、いいかえれば「普通紙」common paperといってよいだろう。そうであるがゆえに、実態はともかく、それぞれの一般日刊紙がもっている基本的な編集綱領や信条には、一方に偏した立場や特定の思想にとらわれない「不偏不党」「中立公正」がうたわれ、品位と良識に基づいた報道を行うということが明らかにされている。

◆紙面構成

紙面の特徴をひとことでいえば、その総合性であろう。政治、経済、社会、文化、家庭、スポーツ、レジャー、芸能などの情報をきめ細かく伝える。そして、新聞の顔ともいうべき第一面に、総合編集という考え方から、それらの分野の記事のなかで、もっともニュース価値が高いと思われるものを掲載する。それは全国紙、地方紙の別なく、一般日刊紙である以上、読者にとっての「主読紙」であることを前提として、自紙だけ読んでいれば日常生活に必要な情報を過不足なく得ることができ、読者ひとりひとりの多様なニーズにこたえることができる、という方針のもとに紙面がつくられているからである。

通常のページ数(建てページ)は、新聞によって異なるが、1990年代においては、おおよそ朝刊が28~32ページ、夕刊が8~12ページである。このなかに、前記にあげた各分野の記事がそれぞれの新聞が定めた割付け(面割り)に従って整理される。通常は、総合編集されたフロント・ページのあとに政治、経済、国際などの硬派ニュースの面があり、社会・世相のできごとを報じた軟派記事は最終面かその前の両面に位置する。その間にフィーチャー記事(文化、女性、教育、生活など)、オピニオン(社説、投書など)、スポーツ、地域ニュースなどの面がある。地域ニュースを掲載する地方版は、全国紙にも地方紙にもきめ細かく設けられており、全国紙においては、県版と称する地方版は全国あわせて、毎日、150版あまりもつくられることがある。いずれにしても、このような面割りは、基本的には編集局の取材組織に対応しているといってよい。

◆取材・編集過程

新聞社の機構と新聞製作の流れを一つのモデルとして図示すると図のようになる。名称はそのまま取材分野もしくは機能を明らかにしている。また、これらの部以外にも、取材分野を細分化することによって、婦人部、芸能部などが設けられるほか、新聞社によっては、世論調査や記事審査を担当する部門、記事原稿について本・支社間の連絡をする部門などを編集局内に設けるところもある。

編集局長は、紙面づくりの最高責任者であり、紙面製作に伴ういっさいの権能を新聞の経営者からゆだねられていると考えられている。しかし、日常の具体的な紙面づくりの指揮は、通常、編集局次長がとり、さらにニュース価値の判断をもあわせて、実際の紙面製作は、整理部長とその指示のもとにある整理部デスクの権能のなかにある。編集責任者および編集局各部の部長、デスクらによる「編集会議」において日々の紙面づくりの骨格が議論され、それをもとに、どのようなニュースをどのように取り上げ、どのように読者に伝えるかの実質的な判断は整理部において行う。政治部から地方部に至る各取材部(いいかえれば出稿部)からの記事は、デスクを通じて整理部に回され、そこでニュース価値が判断されて、それぞれの面に割り付けられる。

ただ、ここで指摘しておかなければならないのは、1970年代以降、とくに顕著になった現象であるが、取材対象となる社会そのものがあらゆる領域で激しく変化し、それに応じて読者の関心の方向、情報の欲求の内容が著しい変化をみせてきたことから、そのような変化にこの伝統的な取材組織が十分に対応できなくなっているということである。とりわけ、国際的な冷戦構造の崩壊、国内的な政治環境の変容、経済と技術のグローバル化といった20世紀末に至ってあらわになった歴史的な変化によって、日本の新聞社は従来の報道姿勢、報道方針では日本社会の内外の動向をとらえることができなくなっていることに気づくようになった。社会部と政治部のはざま、政治部と経済部の中間に横たわる問題やできごとが頻発し、それぞれの部に属する記者が、どのような視点からどのように取材すべきかとまどうケースが数多く生まれてきた。さらにいえば、取材各部の記者が等しく見落としたり、気づかなかったりする問題がたくさん出てきたわけである。このようにして、21世紀を迎え、日本の新聞の編集局機構は、組織そのものの改編に至らないまでも、そのような新しい状況の変化に対応するための手直しを迫られている。

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インターネットもいいのですが、これは昔から身近ある「重要」なものです・・・パート3

続いてです。続いては、「日本」についてです。「発生期の新聞」から「今日の新聞界」まで順に書いていきます。

■日本

◆発生期の新聞

日本に新聞が誕生したのは江戸時代の末、1860年代のことで、まず、政治、商業の中心地である江戸、大坂、京都、それに開港場の長崎、横浜、兵庫などに新聞が出現した。これら初期の新聞は、大別すると、翻訳新聞、翻刻新聞、英字新聞(英字紙)をはじめとする外字新聞などに分かれる。

翻訳新聞には、幕府の蕃書調所(ばんしょしらべしょ)が、バタビア(現在のインドネシア)のオランダ総督府機関紙『ヤバッシェ・クーラント』Javasche Courantを抄訳して、1862年(文久2)正月に出した『官板バタヒヤ新聞』や『官板海外新聞』、ジョセフ・ヒコ(浜田彦蔵(ひこぞう))が横浜に入る英字紙の記事を抄訳して出した『海外新聞』、横浜発行の英字紙を翻訳、筆写して出した『日本貿易新聞』や『日本新聞』、外国人経営の『万国新聞紙』などがある。

翻刻新聞とは、中国で発行された漢字の新聞・雑誌のなかからキリスト教に関する記事を除いて開成所で翻刻、出版したもので、『官板中外新報』『官板六合叢談(りくごうそうだん)』『官板香港(ホンコン)新聞』『遐邇(かじ)貫珍』などが知られている。

英字紙の起源はもっと古く、1861年6月22日に長崎でイギリス人ハンサードA. W. Hansardにより『ナガサキ・シッピングリスト・アンド・アドバタイザー』The Nagasaki Shipping List and Advertiser(週2回発行)が創刊されている。この新聞は10月から横浜に移り『ジャパン・ヘラルド』The Japan Heraldとなって、1914年(大正3)9月まで存続した。そのほか兵庫、京都などでも英字紙が創刊されているが、横浜の『ジャパン・コマーシャル・ニュース』The Japan Commercial News、『ジャパン・タイムズ』The Japan Times(現在の『ジャパンタイムズ』とは別)の翻訳紙が、前記の『日本貿易新聞』『日本新聞』である。

本格的な「日本人による国内ニュース中心の新聞」が現れるのは慶応(けいおう)末期の1868年のことで、戊辰(ぼしん)戦争が起こると、江戸に佐幕派の新聞、上方(かみがた)に勤王派の新聞が続々と現れた。京都の『太政官(だじょうかん)日誌』、江戸で柳河春三(やながわしゅんさん)が発行した『中外新聞』、福地源一郎(福地桜痴(おうち))の『江湖(こうこ)新聞』、横浜でアメリカ人バン・リードVan Reedが発行した『横浜新報もしほ草』などは、なかでも有名であるが、官軍が江戸に入ると「人心ヲ惑」わす新聞を禁止したので、江戸の新聞は一時すべて姿を消すことになる。翌1869年(明治2)、新政府は新聞の発行を進んで許可する方針をとったため、新聞の創刊、復刊が相次ぐが、いずれも短期間で廃刊となっている。

◆日刊新聞の誕生

1871年1月28日(刊行当時は旧暦のため日付は明治3年12月8日)日本最初の日刊新聞が横浜に現れた。洋紙を使用した一枚刷りのこの『横浜毎日新聞』こそ、近代新聞の祖といってよい。72年になると現存の有力紙が現れる。東京最初の日刊紙『東京日日新聞』(現『毎日新聞』)、『郵便報知新聞』(現『報知新聞』)、現存最古の地方紙『峡中(こうちゅう)新聞』(現『山梨日日新聞』)が創刊されたほか、イギリス人J・R・ブラックの『日新真事誌』も発刊されている。この前後から地方の主要都市にもしだいに新聞発行の機運が高まってきている。

一方、漢文調の当時の新聞に対し、女性や子供、町人を対象にした平仮名で、漢字には振り仮名つき、政論よりも通俗的な社会ダネを重視した小型新聞も現れ(小(こ)新聞とよばれた)、人気を集めた。代表的なものが1874年(明治7)11月創刊の『読売新聞』で、79年1月大阪で創刊された『朝日新聞』もこの系統の新聞である。

1880年代に入ると、自由民権運動の高揚から政府部内が分裂、「明治十四年の政変」が起こり、政党が結成されると、新聞はほとんど政党の系列紙になる。しかし政府は、民党系の新聞に種々の弾圧を加えたため、しだいに政党色を脱する新聞が増えてくる。82年3月、福沢諭吉(ゆきち)による『時事新報』は、政党の外にたち「独立不羈(ふき)」を標榜(ひょうぼう)してこの時期に創刊されたものである。この後、政治色よりも個人、グループの思想・信条によって世間に訴える新聞が出てくる。日本精神の回復、発揚をうたった陸羯南(くがかつなん)の『日本』(1889創刊)、平民主義を唱えた徳富蘇峰(そほう)の『国民新聞』(1890創刊)、社会悪の撲滅を標榜した黒岩涙香(るいこう)の『萬朝報(よろずちょうほう)』(1892創刊)、同じく義侠(ぎきょう)を売り物にした『二六(にろく)新報』(1893創刊)などで、明治中期の政界、社会に大きな影響を及ぼしている。

◆近代新聞への発展

同時に政論中心から報道中心主義への転化も着々と進んでいる。日清(にっしん)、日露の両戦役は人々に速報の習慣を植え付けた。通信面では、電信(1869開始)に続き、電話が1890年から実用化し、速記も82年に発明されて新聞社に採用されている。最初の近代的通信社である時事通信社が設立されたのも88年1月のことである。印刷面では、輪転機が90年に『東京朝日新聞』に輸入されてから、徐々に普及、明治末期には地方の有力社もほとんど輪転機にかわっている。写真製版の技術も19世紀末に導入され、日露戦争(1904~05)のころから紙面に写真が登場する。

速報第一主義は、新聞社間の競争を生み出すことにもなる。号外合戦、紙面での論戦のほか、各種営業政策に基づく販売合戦も盛んになり、日清戦争(1894~95)後の日本の資本主義の成長に伴い、新聞も資本主義的企業として成立するようになった。新聞の広告も増えてきた。通信兼営の広告代理店日本電報通信社(現電通)が設立されたのが1901年(明治34)、また『時事新報』は、創立25周年記念号として、224ページという日本の新聞史上最多ページの新聞を、大部分を広告で埋めて07年3月に出している。

社会主義を唱える新聞が現れるのもこのころで、幸徳秋水、堺利彦(さかいとしひこ)らの週刊『平民新聞』(1903創刊)に続き、社会主義系の新聞、雑誌が次々に現れる。政府の新聞取締法もこの時期に完成、1909年5月に改正公布された新聞紙法は、45年(昭和20)の敗戦まで長く言論界を支配した。

◆新聞の地位の確立

大正期に入ると、第一次憲政擁護運動(1912)、シーメンス事件(1914)で、新聞は、政党、ブルジョアジーと組んで、藩閥を攻撃、言論機関として大きな役割を果たした。新聞が政権交替に力を発揮するということは、明治時代にはありえないことだった。しかし新聞の力が強くなると、権力者からの反発も強まる。1918年(大正7)に米騒動が起こると、寺内正毅(まさたけ)内閣は、暴動が広がるのは新聞が扇動するからだと、米騒動に関するいっさいの記事掲載を禁止、さらに、この措置に抗議する関西新聞通信社大会の記事を理由に、『大阪朝日新聞』8月25日夕刊(26日付け)を発売禁止処分にし、責任者を告訴した(白虹(はっこう)筆禍事件)。『朝日』は、社長が退陣、幹部は退社、改過状ともいうべき文を発表して難を免れたが、権力と対立する新聞を安寧秩序紊乱(ぶんらん)の名のもとに弾圧する方式が、このあと力を発揮する。

大正後期、新聞は反政友会系の政党と力をあわせ、普選獲得運動に乗り出す。1925年普通選挙制は実現(ただし男子のみ)したが、同時にこのとき成立した治安維持法は、国民の思想弾圧に大きな力を発揮した。新聞社の機構が整ってくるのもこの時期で、政治部や社会部の組織、取材方法も固まり、朝・夕刊制(1906年『報知新聞』で初めて成功)が普及し、東京・大阪紙の地方版体制も確立する。国際報道が盛んになり、有力社は欧米に常駐特派員を派遣しだす。『時事新報』の「日英同盟廃棄」の国際的スクープも、1921年12月のワシントン海軍軍縮会議のときに生まれている。

1923年9月に起こった関東大震災は、新聞界に大きな影響を及ぼした。東京、横浜の新聞は、『東京日日新聞』、『報知新聞』、『都(みやこ)新聞』(1884年創刊の『今日新聞』を改題。現『東京新聞』)、『ジャパンタイムズ』(1897創刊)を除き、すべて火災にあい、明治以来の伝統をもつ有名紙が次々と衰退の道をたどる。この機に勢力を伸ばしたのが大阪系の『朝日』『毎日(東京日日)』で、両社の全国紙への道はこのとき確立したものである。東京紙のなかでは『読売新聞』のみが、翌1924年から経営に乗り出した正力(しょうりき)松太郎の創意と努力で、第二次世界大戦前、関東第一の部数をもつ新聞に発展した。

◆言論統制時代

大正末期から昭和初期にかけての不況は、社会にさまざまな不安を引き起こした。同時に、政界、財界には不祥事が頻発、一方、中国大陸に対する干渉から台頭してきた軍部は、しだいに為政者に対する不満を強めてきた。このような情勢のなかで、まず新聞に攻撃を加えてきたのは民間の右翼団体で、皇室記事の誤植やときには論調を理由に、いやがらせを加える例が増えてきた。新聞も昭和初期のころまでは軍縮を唱え、軍部の政治関与を戒めていたが、1931年(昭和6)9月、満州事変が起こると、しだいに軍の行動をたたえる紙面が増えてくる。32年の五・一五事件のときは、まだ軍部の態度を強く責める新聞もあったが、政党内閣が倒れ、挙国一致内閣時代に入った33年になると、「思うことを率直にいいえない立場に置かれて」(長谷川光太郎『国民新聞』経済部長)きた、という新聞人が出てくる。五・一五事件のとき「敢(あえ)て国民の覚悟を促す」の社説を『福岡日日新聞』(現『西日本新聞』)に書いて軍を批判した菊竹六鼓(ろっこ)(菊竹淳(すなお))、33年に「関東防空大演習を嗤(わら)ふ」の社説を『信濃(しなの)毎日新聞』(8月11日付け)に書いて退社を余儀なくされた桐生悠々(きりゅうゆうゆう)(政次(まさじ))などは、数少ない新聞人の抵抗の一例である。

政府、軍の内部では、このころから革新官僚、中堅将校を中心に言論統制の方策が練られていった。まず取り上げられたのが、対外・対内ニュースを統一するため、当時の二大通信社、新聞聯合(れんごう)社(1927年、国際通信社を改組して設立)と日本電報通信社を統合しようとするものであった。この統合は有力地方紙の反対で難航したが、政府とくに逓信(ていしん)省の強い圧力により、1936年1月、同盟通信社が設立され、合併が成立した(6月両社の通信部門は同盟に、広告部門は電通に合併)。

この通信統合の案を出したのが、1932年9月に外務省内に設置された情報委員会である。この委員会は、時局宣伝の統一強化を図るため、外務、陸軍、海軍、文部、内務、逓信の各省から中堅クラスのメンバーをそろえて構成したもので、初めは非公式の委員会だったが、36年7月、官制による情報委員会に拡大、翌37年9月、内閣情報部に拡充される。40年になると、政府はもっと強力に国家的報道、宣伝の一元的統制を図ることになり、12月、内閣情報部を廃して、外務省情報部、陸軍省情報部、海軍省軍事普及部および内務省警保局図書課の事務を統合して、情報局を新設した。この情報局は「新聞通信、雑誌出版、放送に対する査閲」を明確にうたったもので、言論統制機構がここに完成した。

情報局は、1941年9月、新聞界の自主的団体として同年5月にできた社団法人新聞聯盟に新聞統合案を提案する。新聞界は論議のすえ、東京、大阪、北九州発行の全国紙を除き、県内新聞の統合を受け入れ、42年、統制団体日本新聞会を設立、県知事、警察の斡旋(あっせん)のもとに1県1紙制を完成した。現在の日本の地方紙の分布図はこのときにできたものである。このような統制機構の整備とともに、言論取締法規も次々と制定された。同時に戦時の人員、物資の欠乏から新聞のページ数もしだいに減少、44年3月からは夕刊も廃止され、国民は、政府、軍の宣伝、発表のほかは、最小限の情報しか得られないまま、45年(昭和20)8月の敗戦を迎えたのである。

◆占領下の新聞とその復興

敗戦とともに日本に進駐してきた連合国最高司令官総司令部(GHQ/SCAP(スキャップ))は、軍国主義の破壊と民主主義の確立を占領目的に掲げたが、その目的遂行のために、新聞、放送の活用を重視した。そのため民間情報教育局(CIE)を通じて記事・放送内容の指導を行う一方、参謀第二部(G2)に属する民間検閲部(CCD)が直接、検閲に乗り出した。占領軍および占領政策に対する批判や、軍国主義的発言は厳しく取り締まられたが、逆に、戦前・戦中の言論取締法規や統制機構はすべて撤廃され、戦前のタブーは解消したため、新聞は日本の民主化の前進に大きな役割を果たすことになった。

戦時中に活躍した同盟通信社は1945年10月に解散、11月1日新しく共同通信社と時事通信社が創立された。さらにGHQは、言論の独占排除を目的に、地方紙の助成と新興紙の育成を図ったため、46年には新興紙の創刊、復刊が相次いだ。わが国最初のスポーツ紙『日刊スポーツ』が創刊されたのもこの年3月のことである。既存の新聞社でも、戦時中の幹部が退陣、経済的要求と新聞の民主化を要求して労働組合が結成されるなど、民主化運動が進んだが、戦争責任追及の動きは、ドイツなど他の敗戦国ほど徹底しなかったのは事実である。さらに米ソの冷戦が激化するにつれ、反共イデオロギーが高揚するとともに、50年、報道界にもレッド・パージが行われたことは、言論人の心に大きな傷あとを残した。

1949年の終わりころになると、やや用紙事情も好転し始め、大新聞は夕刊を復活する。翌50年『朝日』『毎日』は名古屋印刷を再開、大阪の『産業経済新聞』(1933創刊。現『産経新聞』)は東京で印刷を開始した。51年、用紙統制が解除されると本格的な自由競争時代に入り、52年11月『読売』が大阪に進出し、有力紙が専売制を実施するころから、販売競争が激化し始めた。この年、『朝日』『毎日』『読売』3社が共同通信社を脱退(のち外信のみ再契約)したのも、全国紙と地方紙の競争の現れとみられる。取材面では、51年9月の講和条約調印ごろから海外自社取材が始まった。

◆製作工程の近代化

増ページ、部数拡張競争が始まると、印刷設備の改善・増設が必要になる。第二次世界大戦中から戦後にかけて老朽化した設備は、1950年代の後半から60年代にかけて一変した。まず大新聞が、明治以来の植字活版工程を漢字テレタイプ、モノタイプの連動によって完全に機械化した。59年6月から『朝日新聞』は、東京の紙面をファクシミリで札幌へ電送、印刷発行を始めたが、これは世界で初めての試みだった。60年代に入り、共同通信社が加盟社に漢テレ送信を開始、通信施設の機械化を強力に進めたことから、地方紙の技術革新が急速に進んだ。60年代後半には『佐賀新聞』がいち早く製作工程の全自動写植化に乗り出し、コールド・タイプ化に先鞭(せんべん)をつけたほか、色刷り印刷設備などにも地方紙は積極的に取り組んでいった。

1970年代に入ると、コンピュータの利用が進むが、とくに大新聞の大型コンピュータによる新聞製作の研究開発が進み、『日本経済新聞』が78年3月、活字鉛版方式に別れを告げ、電算写植機を中心とする新聞製作に切り替えた。ついで79年『信濃毎日新聞』が全ページ出力の電算写植システムを導入、80年には、朝日新聞東京本社が全面的な電子編集システムの築地新社屋に移転するなど、新聞製作工程は80年代に入って一変した(後述)。

◆開く企業間格差

経営面では、1960年代の高度経済成長により広告収入が激増、社会的な核家族化の進展による部数増、さらには東京オリンピック(1964)などの大イベントなどもあって、1950年代からテレビ、週刊誌などの新しいメディアの参入があったものの、新聞界は順調に発展した。しかし60年代後半ごろから高度経済成長に陰りが生じ、さらに73年秋に起きたオイル・ショックは、広告の減少、用紙・資材の暴騰、その結果として起きた購読料大幅値上げによる読者減などをもたらし、新聞経営に深刻な打撃を与えた。この危機を各社は企業内努力、紙面の特色発揮、新しい企画、さらには価格差などによって乗り切ったが、80年代に入って、部数増の鈍化、他媒体との広告獲得競争、新聞社間の販売競争などから、企業間格差(部数、収益など)が徐々に開き始めた。

◆報道の自由をめぐる論議

言論・報道面では、第二次世界大戦後、新聞の地位、役割が戦前とは比較にならないほど高まった。新聞は、政治悪、社会悪に対し、「黒い霧」「暴力追放」キャンペーンなどで立ち向かい、読者の信頼をかちえてきた。しかし60年安保闘争のころから、新聞に対する批判の声が国民の間から出てきた。一方、ベトナム戦争の報道、日中国交回復に至る中国報道に対し、アメリカや日本の関係者などから偏向報道との批判が起こり、報道の自由と国益をめぐる論議が起こった。また1972年4月には、沖縄返還交渉の過程で起きた外務省機密暴露事件で『毎日新聞』記者が逮捕、有罪判決を受けるという事態が発生した。この事件は、その前年に起こった『ニューヨーク・タイムズ』のアメリカ国防総省秘密報告書暴露事件と対比して、アメリカ人と日本人の「国民の知る権利」に対する考え方、対応の違いを強く印象づけることになった。

◆国際化

国際的な面では、日本の国際的地位の向上に伴い、日本の記者がしばしば国際的スクープを流すようになった。1967年11月の「ポンド14.3%切下げ」(共同通信社ワシントン支局)、69年1月の「イタリア 中国承認」(『日本経済新聞』)、82年11月の「ブレジネフ死去」(共同通信社北京(ペキン)支局)、90年2月の「ソ連共産党、独裁を放棄へ」(『産経新聞』)などはその一例である。本紙の海外印刷も始まり、『読売新聞』は1977年7月からニューヨークで、86年からは『朝日新聞』『日本経済新聞』『読売新聞』『日刊スポーツ』などが欧米で衛星版の印刷を開始、在留邦人を中心に配布している。

◆今日の新聞界

現在、新聞界は種々の変貌(へんぼう)を余儀なくされている。まず文字の面では1981年から「常用漢字表」を実施したほか、文字の大きさの拡大が進んでいる。これまで新聞は、記事を増やすために活字は視覚の限界まで小さくしてきたが、高齢化社会を迎えて、読みやすい紙面へと転換したわけである。

報道の面では、皇室報道の変化がある。これは1987年9月の昭和天皇発病スクープ(『朝日新聞』)に始まった天皇の病状に関する過剰報道、ついで92年(平成4)2月からほぼ11か月続いた「皇太子妃候補に関する報道協定」に対する批判と反省によるものである。

1988年6月に始まった『朝日新聞』のリクルート疑惑暴露報道は、調査報道の成果として高く評価された。さらに1982年4月に山形県金山(かねやま)町で始まった情報公開の動きは全国に広まり、99年(平成11)に情報公開法が成立(2001年4月実施)したが、法の目的に「知る権利」が明記されないなど課題が残っている。日本の官公庁取材の基本であった「記者クラブ制度」にも変革の兆しが現れ、単なる親睦(しんぼく)機関から取材の拠点へと明確に位置づけられることになり、外国人記者の入会も認められるようになった。一方、記者室を行政側主導の発表機関に変質させようとする動きも広がっている。

メディアに対する読者の批判、苦情に対処する姿勢が高まってきたのは日本だけではない。イギリスでも1991年からプレスに対する苦情処理委員会を発足させたが、『朝日新聞』は1989年から紙面審議会を設けて外部の有識者による紙面審査を始めたほか、21世紀に入り、多くの社が読者の苦情、疑問に対応する組織を社内に設け始めた。

20世紀末の大災害である1995年の阪神淡路大震災は、大きな被害を各界に与えたが、地元で被災した『神戸新聞』が『京都新聞』との協定により1日も発行を中断しなかったことは、報道各社に大きな教訓を与えた。以後、近隣の新聞、通信、放送各社の間で「災害時の援助協定」を結ぶ社が増えたことは日本の報道界で初めてのことである。

現在、新聞は、放送、雑誌、CATV、さらにはインターネットなどのニューメディアと競合しながら、ジャーナリズムの一翼を担っている。そのため、全国紙(スポーツ紙、一部の有力地方紙を含む)は地方都市における分散印刷で、速報競争に対処する一方、地域紙への記事・写真の配信を拡大したり、自社のもつ豊富な情報を生かして多角的な総合情報をサービスする機関に転身しようとする動きもある。とくに1996年ごろからは多くの新聞社がマルチ・メディア・サービスとしてインターネットにホームページを開設し、記事全文や速報、記事データベースのサービスを開始している。

21世紀を迎えて、新聞は、長年培った強い取材力と豊富な情報、さらに報道の基本であるニュースの質、正確性によって、読者の信頼と期待にこたえようとしている。

■関連情報

◆マルチメディアデータ

http://100.yahoo.co.jp/detail/%E6%96%B0%E8%81%9E/%EF%BC%BB%E7%94%BB%E5%83%8F%EF%BC%BD/00123057001701/

http://100.yahoo.co.jp/detail/%E6%96%B0%E8%81%9E/%EF%BC%BB%E7%94%BB%E5%83%8F%EF%BC%BD/00123057002401/

 

 参考文献
1.城戸又一編『講座現代ジャーナリズム 新聞』(1973・時事通信社)

2.千葉雄次郎編『新聞』(1955・有斐閣)

3.F・S・シーバート、T・B・ピータスン、W・シュラム著、内川芳美訳『マス・コミの自由に関する四理論』(1959・東京創元新社)

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インターネットもいいのですが、これは昔から身近ある「重要」なものです・・・パート2

続いてです。続いては、「新聞の歴史」について書いていきたいと思います。「外国」から「ロシア・東欧」まで書いていきます。

2. 新聞の歴史

■外国

◆前史

近代的な新聞が登場するのは、近世・封建社会末期から近代国家の形成期にかけてであるが、それ以前にも、社会的な情報伝達を目的としたさまざまの新聞類似物の存在が伝えられている。もっとも古くは、紀元前5世紀ごろのローマに、地方在勤者にニュースを送るための手書きのニューズレターnewsletterの作成者がいたといわれ、前60年、ローマ執政官カエサルは、政府発表事項を日報の形で毎日掲示する『アクタ・ディウルナ』Acta Diurnaをローマの市場forumに設けたといわれる。15~16世紀ころになると、中世ヨーロッパ社会の流動化過程で、商業情報を主とする新しい情報需要と情報流通が高まりをみせた。そのなかで、アウクスブルクの豪商フッガー家がヨーロッパ各地の手書きニューズレターをはじめ情報を組織的に収集していたことはとくに有名である。15世紀なかばのグーテンベルクによる活版印刷術の発明は、情報伝達技術に革命をもたらした。15世紀末には印刷物によるニュースの伝達流通が始まり、ドイツにフルーク・ブラットFlug Blattとよばれる活版印刷による一枚刷りの絵入りニュースの呼び売りが出現している。こうした不定期の手書きのニューズレターや印刷されたフルーク・ブラットが、やがて17世紀に入り週刊定期のニュース印刷物としての近代新聞に発展していく。

中国の新聞類似物の歴史も古く、唐の玄宗帝(在位712~756)時代に中央政府の布告、法令、人事などを地方諸侯・官僚に伝える『邸報』があり、宋(そう)代には『朝報』、清(しん)代には『京報(けいほう)』と称する類似の媒体があったとされている。

◆ヨーロッパ

週刊定期印刷刊行の最初の近代新聞は、1609年ドイツのアウクスブルクで創刊された『アビソ』Avisoとされ、2番目はオランダの『ティディング・エイト・フェルシェイデネ・カルティエーレン』Tydinghe uyt Verscheydene Quartieren(1618創刊)、ついでイギリスの『ウィークリー・ニューズ』Weekly News(1622創刊)、フランスの『ガゼット』La Gazette(1631創刊)と続く。日刊紙は1660年創刊のドイツの『ライプチガー・ツァイトゥンク』Leipziger Zeitungが最初(ただし短期間)。続いて1702年創刊のイギリスの『デーリー・クーラント』The Daily Courant。フランスでは1777年創刊の『ジュルナール・ド・パリ』Journal de Parisが最初とされている。ヨーロッパの新聞は、多くの曲折を経ながらも、1695年に特許検閲法が廃止されたイギリスを先頭に、19世紀後半までに発行許可制や検閲制度から離脱し、新聞の自由を獲得した。その過程で新しい新聞が次々に生まれた。1785年イギリスに出現した『デーリー・ユニバーサル・レジスター』The Daily Universal Registerは、1788年改題され『タイムズ』The Timesとなった。1789年大革命期のフランスには『ジュルナール・デ・デバ』Journal des dbatsが生まれている。

19世紀の中ごろからはヨーロッパ各国に廉価新聞が登場する。1848年創刊のオーストリアの『プレッセ』Die Presse、1855年創刊のイギリスの『デーリー・テレグラフ』The Daily Telegraph、1863年創刊のフランスの『プチ・ジュルナール』Le Petit Journalなどは代表例である。ついで1896年にはイギリスでA・ハームズワース(後のノースクリフ卿(きょう))が初の本格的大衆紙『デーリー・メール』The Daily Mailを創刊し、大衆紙時代の幕を開いた。以来、ヨーロッパの新聞では高級紙、大衆紙の併存構造が基本となった。

20世紀に入ると、新聞の急速な普及・発展と並行して、第一次世界大戦、ヒトラー独裁下のナチス体制、そして第二次世界大戦というように新聞の受難期が続いた。第二次世界大戦後、ドイツではナチス体制下の新聞が占領軍により一掃され、フランスでも大戦中の対ドイツ協力紙は姿を消した。第二次世界大戦後から最近のおもな国の主要紙の動向を概観してみると、イギリスでは『タイムズ』が経営難に陥り、1967年カナダ系のロイ・トムソンの新聞グループに譲渡され、続いて81年にはオーストラリア系のルパート・マードックの新聞グループに売却された。労働党系紙として著名だった『デーリー・ヘラルド』The Daily Herald(1912創刊)は1964年に廃刊して大衆紙『サン』The Sunがそれにかわった。その『サン』は69年ルパート・マードックの所有に移り、日刊大衆紙としてはイギリス最大の部数(約400万部、1998年現在)を数えるまでに発展した。このほか高級紙では、『ガーディアン』The Guardian(1821創刊。1961年からマンチェスターとロンドンで同時発行)、『デーリー・テレグラフ』(前出。1928年から高級紙化)が有力で、81年には新高級日刊紙『インディペンデント』The Independentが創刊された。大衆紙では、『サン』のほか『デーリー・ミラー』The Daily Mirror(1903創刊)、日曜大衆紙『ニューズ・オブ・ザ・ワールド』The News of the World(460万部、1998年現在)が知られている。

フランスでは、現存紙中最古の朝刊紙『フィガロ』Le Figaro(1854創刊)、夕刊高級紙『ル・モンド』Le Monde(1944創刊)、共産党系紙で有名な『ユマニテ』L'Humanit(1904創刊)などのパリ日刊紙、また地方紙ながらフランス最大の部数(約70万部)を誇る『ウェスト・フランス』Ouest-Franceなどが有力。ドイツでは、高級紙で『フランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥンク』Frankfurter Allgemeine Zeitung(1949創刊)や『ジュートドイッチェ・ツァイトゥンク』Sddeutsche Zeitung(1949創刊)、巨大マスコミ・グループのアクセル・シュプリンガー系『ディ・ウェルト』Die Welt(1946創刊)、大衆紙では同じくシュプリンガー系の『ビルト』Bild(1952創刊)が500万部近い大部数を擁して有名である。そのほか、スウェーデンの『ダーゲンス・ニーヘター』Dagens Nyheter(1864創刊)、イタリアの全国紙『コルリエーレ・デラ・セーラ』Corrire della Sra(1876創刊)、スイスの『ノイエ・チュルヒャー・ツァイトゥンク』Neue Zrcher Zeitung(1780創刊)などが有力紙。変わったところでは、パリのアメリカ系日刊英字国際紙『インターナショナル・ヘラルド・トリビューン』The International Herald Tribune(1967年『ヘラルド・トリビューン』を改題創刊)がパリ、ロンドン、香港(ホンコン)で印刷・発行されている。

◆アメリカ

アメリカ最初の新聞は、1690年イギリス植民地時代にボストンで創刊された『パブリック・オカレンセス』Public Occurrencesである。ただし、1号のみで発行禁止となった。18世紀に入ると、イギリス本国と植民地の利害が対立、1734年『ニューヨーク・ウィークリー・ジャーナル』New York Weekly Journal(1733創刊)の発行者J・P・ゼンガーが総督を批判して治安妨害的誹毀(ひき)罪に問われた筆禍事件は、ゼンガー事件として名高い。アメリカ独立戦争で植民地紙の大半は独立派の側にたった。合衆国独立後、議会は合衆国憲法修正第1条で言論・出版の自由を保障し、以来、アメリカでは独特の徹底した新聞の自由が発展していくことになった。19世紀に入り、1833年、1部1セントの廉価新聞『ニューヨーク・サン』The New York Sunが創刊され、大衆紙時代に道を開いた。1851年には現在の『ニューヨーク・タイムズ』The New York Timesが出現している。1890年代の後半から1900年代にかけてニューヨークで、ジョゼフ・ピュリッツァーの『ワールド』The Worldとウィリアム・R・ハーストの『ジャーナル』The Journalが、手段を選ばぬ常軌を逸した激しい部数獲得競争を演じた。色刷りの大見出し、どぎつい写真、針小棒大の大げさな記事など、このときの両紙の手法はイエロー・ジャーナリズムと称されて世間のひんしゅくを買った。

しかし20世紀には本格的な現代的大衆紙時代が展開した。1919年には、写真を重視した最初のタブロイド大衆紙『ニューヨーク・デーリー・ニューズ』The New York Daily Newsが創刊され、100万部を超える部数を獲得して話題をよんだ。アメリカでは、地理的な特殊事情もあって、個々の都市や地域を基盤にした地方紙が発達したが、全国紙は出現しなかった。そのかわり、巨大新聞資本が多数の新聞を所有または支配する新聞チェーンあるいは新聞グループが増加、ハースト系グループ、スクリップス・ハワード系グループなどがとくに有名である。また、各都市や地域では、独占化、寡占化の進展で競争紙が消滅し、1都市1新聞の傾向が強まった。こうした行きすぎた商業主義に対抗して、1940年、ニューヨークに、広告主の影響から独立して公正な新聞をつくるためと称して、ラルフ・インガソルが広告のないタブロイド日刊紙『ピーエム』PMを創刊して注目を集めたが、結局、長続きしなかった。

第二次世界大戦後のアメリカ新聞界は、製作コストの高騰やテレビの普及で経営事情が悪化し、その過程で1962年末、ニューヨークの新聞社で、印刷工などの賃上げ交渉の不調が原因でストライキが起こり、同市のすべての新聞が114日間も停刊するという未曽有(みぞう)の事態が発生した。1971年6月、『ニューヨーク・タイムズ』が国防総省のベトナム秘密報告書を暴露した。続いて72年6月から73年5月にかけての『ワシントン・ポスト』The Washington Post(1877創刊)がウォーターゲート事件を暴露し、ニクソン大統領を辞任に追い込んだ。この二つは、新聞史に残る報道として光った。また、経済紙『ウォール・ストリート・ジャーナル』The Wall Street Journal(1889創刊)が全米数か所に印刷基地を置いて全国紙化し、また国外でも印刷・発行を行い、さらに、新全国紙『ユー・エス・エー・ツデー』The USA Today(1982創刊)も、同様に全国分散印刷と同時に海外でも発行を開始するなど、全国紙化と国際化の新しい動きが注目を集めた。

◆アジア

アジア各国の近代新聞は、欧米より遅れて19世紀後半以降に出現した。中国では、清(しん)朝末期の1857年に香港の外国人経営の英字紙『デーリー・プレス』Daily Pressの中国語版として創刊された『香港舩頭貨価紙(せんとうかかし)』(週3回刊、のち『香港中外新報』と改題)が最初とされている。1873年の『循環日報』は中国人自身による成功した最初の日刊紙といわれている。1872年上海(シャンハイ)でイギリス人により創刊された『申報(しんぽう)』は、1912年中国人の手に移るが、国民党政府下でも屈指の有力紙と評された。第二次世界大戦後の1949年に中華人民共和国が成立すると、その前年に河北省で創刊されていた中国共産党中央委員会機関紙『人民日報』が北京(ペキン)に移されるとともに、同紙を頂点とし、中央・地方の党および政府行政機関の各レベルに対応した二重の新聞網が整備されていった。特殊な機関紙では、中国共産党軍事委員会の『解放軍報』(1956創刊)、中国共産主義青年団の『中国青年報』(1951創刊、66年文革で停刊、78年復刊)、中国全国総工会(労働組合)の『工人(こうじん)日報』(1949創刊、66年文革で停刊、78年復刊)などが有力である。文化大革命期には新聞も混乱、手書きの大字報(壁新聞)が話題をよんだりしたが、その後急速に回復、文革後の有力紙としては、『経済日報』(1982創刊、北京)、『文匯(ぶんわい)報』(1938創刊、上海)、夕刊紙では『新民晩報』(1903創刊、上海)、『羊城(ようじょう)晩報』(1957創刊、広東(カントン))がある。

韓国(大韓民国)の最初の近代新聞は1883年創刊の漢字紙『漢城旬報』で、ついで民族文字のハングル字紙『独立新聞』が1896年に、98年には最初の日刊紙『毎日新聞』が出現している。日本併合後の植民地時代には、民族系紙は厳しい統制下に置かれた。『東亜日報』(1920創刊)と『朝鮮日報』(1920創刊)は、1940年総督府により強制的に廃刊に追い込まれた。独立後、新聞が多数創刊され、活発な言論活動を展開したが、朝鮮戦争と政治不安による混迷下で政府による新聞統制が続いた。朴正煕(ぼくせいき/パクチョンヒ)政権下では国家再建最高会議布告第11号(1961)で新聞など言論機関の整理統合が行われたほか、引き続き厳しい言論統制が実施された。全斗煥(ぜんとかん/チョンドファン)政権下では1980年からさらに強力な新聞社統合が進められ、一般日刊紙はソウル6紙、地方10紙に減少した。また、1980年には言論基本法が公布されている。しかし、87年盧泰愚(ろたいぐ/ノテウ)大統領の民主化宣言の結果、言論基本法が廃止され、多くの新聞が復刊した。88年には、南北統一実現を目標に掲げ、国民一般から株を募って創刊された『ハンギョレ(一つの民族)新聞』Han Kyoreh Shinmunが出現するなど、自由な言論活動が再開された。有力日刊紙には『東亜日報』『朝鮮日報』『中央日報』などがある。北朝鮮では、労働党(共産党)中央委員会機関紙『労働新聞』(1945創刊)が主力紙である。

フィリピンでは、スペイン領時代の1846年に最初の日刊紙『エスペランサ』La Esperanzaが出現した。1997年現在の最大部数紙は英字紙『ピープルズ・ジャーナル』People's Journal(1978創刊、約40万部)である。タイの最初の近代新聞は、1840年代にアメリカ人宣教師が発行した『バンコク・レコーダー』The Bangkok Recorderといわれている。第二次世界大戦後はクーデターによる政権交替が続き、新聞は厳しい統制下に置かれてきた。最大部数紙は『タイ・ラート』Thai Rath(1958創刊。タイ語紙)。1965年の独立以来、独特の貿易経済政策で成功したシンガポールは、対内的には厳重な言論・情報管理政策が進められている。1982年の新聞社統合再編措置では、中国語日刊紙2紙が合併(1983)して『南洋・星洲聯合(れんごう)早報』1紙のみとなり、84年には、その発行社と、『ストレーツ・タイムズ』The Straits Times(1845創刊。英字紙)、および経済英字紙1紙、中国語夕刊紙1紙ならびにマレー語紙1紙の発行社の上部に、全新聞発行社の持株会社シンガポール・プレス・ホールディング株式会社が設立され、新聞ののど元を押さえる形ができあがっている。インドの最初の近代新聞は、イギリス植民地時代の1780年、イギリス人によってコルカタ(カルカッタ)で創刊された『ベンガル・ガゼット』The Bengal Gazetteだといわれている。1947年の独立後も低い識字率のため、『タイムズ・オブ・インディア』The Times of India(1838創刊)をはじめとする英字紙が優勢であったが、その後は民族語紙も台頭している。1997年現在インドの民族語紙で最大部数を誇っている新聞は、ヒンディー語紙の『ナブバラト・タイムズ』Navbharat Times(1922創刊、97年現在ニューデリー、ムンバイ=ボンベイの両都市で合計約85万部)である。

◆ロシア・東欧

ロシア最初の近代新聞は、ピョートル大帝下の1703年に創刊された『ベドモスチ』Vedomostiとされている。帝政末期、社会主義革命運動の展開過程で1912年にボリシェビキ派機関紙『プラウダ』Pravdaが創刊され、1917年ソビエト革命後、ソ連共産党中央委員会機関紙となり、また、17年にはソ連最高会議幹部会(政府)機関紙『イズベスチア』Izvestiyaが創刊された。旧ソ連時代はこの両紙が中心。しかし、1991年ソ連が解体、ロシア連邦を中核とする12共和国からなる独立国家共同体(CIS)となって以降、新聞地図は大きく塗りかえられた。100万部以上の新聞は『モスコフスキー・コムソモーレッツ』Moskovskiy Komsomolyets(1919創刊、旧モスクワ共産青年同盟機関紙、改革派系)、『トルード(労働)』Trud(1921創刊、旧ソ連労組中央評議会機関紙、改革派系)、『コムソモリスカヤ・プラウダ』Komsomolskaya Pravda(1925創刊、旧共産青年同盟機関紙、改革派系)の3紙で、旧『イズベスチア』は改革派系紙に転じ、旧『プラウダ』は現在も残存しているが部数は大幅に弱小化している。東欧諸国ではポーランドの新聞が古く、最初の近代新聞は1661年クラクフで創刊された『メルクリウス・ポリスキ』Merkuriusz Polskiだといわれている。ハンガリーでは1721年創刊のラテン語週刊紙『ノバ・ポソニエンシア』Nova Posoniensiaがもっとも早いとされ、チェコではボヘミア王国時代の1860年に最初の日刊紙『ナーロドニ・リスティー』Nrodoni Listが登場している。第二次世界大戦後、ソ連圏に組み入れられて共産党系政権ができて以後の東欧各国は、いずれもミニ・ソ連型の新聞構造になった。しかし、1989年東欧圏崩壊後は一変している。ポーランドでは、かつての統一労働者党(共産党)機関紙『トリブナ・ルドゥ』Trybuna Ludu(1948創刊)は民主派系となり、97年現在での最大部数紙は、新夕刊紙(1989創刊)『ガゼータ・ビボルチア』Gageta Wyborcza(97年現在約50万部)。チェコでも旧共産党機関紙『ルデ・プラボー』Rud Prvo(1945創刊)は後退し、最大紙は『ムラダ・フロンタ・ドエス』Mlada Fronta Dues(1945創刊、97年現在約50万部)。ハンガリーでも独立系の『ネープサバドシャーグ』Npszabadsg(1942創刊)にかわって『マジャール・ネムゼト』Magyar Nemzet(97年現在約39万部)が最大紙。旧連邦解体後の新ユーゴスラビアでは旧社会主義労働人民党機関紙『ボルバ』Borba(1922創刊)は弱小化し、かわって『ベチェルニエ・ノボスヂ』Vecernje Novosti(1953創刊、政府系、97年現在約32万部)が最大紙。旧東ドイツの旧労働者党機関紙『ノイエス・ドイチュラント』Neues Deutscheland(1946創刊)は、存続しているが弱小化し、東西ドイツ統一後はベルリンで旧西ベルリン発行紙に圧倒されている。

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インターネットもいいのですが、これは昔から身近ある「重要」なものです・・・パート1

皆さん、こんにちわ。更新です。今日は、10月15日です。10月15日は、「新聞週間」だそうです。新聞週間は、アメリカで1930年代から行われていた新聞の重要性、必要性を多くの人々に知らせる運動が1940年には全米に拡大。日本では新聞の普及と教育のためにGHQが新聞週間を提唱し、1947年(昭和22年)に愛媛新聞が初めて実施し、日本新聞協会が翌年から実施。当初は10月1日からの1週間だったが、台風シーズンと重なってしまうために1962年(昭和37年)から現在の日程に変更されたのだそうです。

ということで、今日は、「新聞週間」について書きたいと思います。

■新聞週間(しんぶんしゅうかん)

社団法人日本新聞協会が1948年(昭和23)から毎年10月、1週間にわたって催す年中行事。初め占領軍の示唆でアメリカの「ニューズペーパー・ウィーク」と呼応して催された。行事の主眼は、読者に新聞の重要性を知らせ、新聞と読者との結び付きを強化すること。同時に、新聞・放送に携わる者が「言論・報道の自由」を守り、いっそうの発展を期する覚悟を新たにすることを目標にしている。週間中、新聞紙面を通じ趣旨の徹底を図るほか、標語募集などを行う。また、新聞協会加盟各社の幹部が集まって全国新聞大会を開き、その年の重要問題について研究討議を行う。58年から「新聞広告の日」、62年から「新聞少年の日」が週間中に設けられている。

続いてです。続いては、「日本新聞協会(にほんしんぶんきょうかい) 」について書きたいと思います。参考までです。

■日本新聞協会(にほんしんぶんきょうかい)

日本のおもな新聞・通信・放送各社が組織する社団法人で、1946年(昭和21)7月23日に創立された。新聞倫理綱領を守り、新聞界共通の利益を擁護することを目的とし、そのため編集、業務、広告、経営、技術など新聞界内部の種々の問題について協議研究・調査を行うほか、新聞人の資質向上のための研修・講座の主催、新聞に関する専門図書や定期刊行物の発行、新聞関係資料の収集・整備保存などを行っている。また、毎年10月には新聞週間を開催し、多彩な行事を企画・運営している。国際新聞界との交流も年々盛んになり、WAN(世界新聞協会)やPFA(アジア新聞財団)などの国際新聞関係団体の主要メンバーとしてその役割を担う一方、諸外国との定期的な新聞人交流も活発に実施している。98年には、約110億円を拠出して日本新聞教育文化財団を設立した。同財団は、2000年に設立された日本新聞博物館(ニュースパーク)の運営主体となっているほか、NIE(Newspaper In Education)活動(学校の授業に新聞を利用する活動)の推進や、研究事業を行う。日本新聞協会の会員数は新聞108社、通信4社、放送29社(2006)。

 

 参考文献
1.本新聞協会編・刊『日本新聞協会五十年史』(1996)

続いてです。つづいては、「世界新聞協会(せかいしんぶんきょうかい) 」について書きたいと思います。参考までです。

■世界新聞協会(せかいしんぶんきょうかい)

World Association of Newspapers

略称WAN。1996年国際新聞発行者協会(Fdration Internationale des diteurs de Journaux et Publications 略称FIEJ)を改称。1948年西欧主要国の新聞発行者団体が集まって結成した国際団体。52か国55団体(1998)、日本からは社団法人日本新聞協会が加盟している。国際的に新聞の自由を擁護し、共通の利益を増進することを目的に、調査研究、資料収集を行い、毎年総会と各種セミナーを開催している。新聞の集中と発行部数の低下は先進諸国に共通する問題であるが、これに関連して新聞読者を開拓するため、青少年向けの新聞教育に力を注ぐほか、インターネット、オンラインサービスなどニューメディア対策を重視している。また、社会主義体制の崩壊以後、これらの諸国の新聞の自由と独立を促進する援助を行っている。新聞の自由のために貢献した人物に「自由のための金ペン賞」を毎年授賞、また5月3日を「新聞自由の日」とし、国連とともに世界的に啓蒙(けいもう)活動を行っている。本部はパリ。

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これは日本で初めて、それも歴史のあるひとつの「道」です・・・パート13

続いてです。続いては「鉄道記念日」ですので、「鉄道」に関するイベントの情報もあわせて書いていきたいと思います。参考までです。

★SL〈やまぐち〉号スタンプラリー
○期間:2009(平成21)年11月30日(月)まで
○場所:SL〈やまぐち〉号車内、山口市2箇所、阿東町2箇所、津和野町2箇所の計7箇所にポイントを設置
○主催:山口線SL運行対策協議会
○主な内容
 SL〈やまぐち〉号の車内や地元のポイントに設置されたスタンプを集めて応募すると賞品プレゼント

こちらで参照できます。
http://rail.hobidas.com/news/info/article/104083.html

◆JR東日本新潟支社では,新潟デスティネーションキャンペーン開催にあわせて,新潟新幹線車両センターの公開を,2009(平成21)年10月17日(土)に行ないます.
 当日は,国内最速となる320km/hで運転可能なE5系量産先行車を新潟県で初めて展示するほか,全部で6種類の新幹線車両を展示します.
 車両展示だけではなく,ミニSLの運行や鉄道模型の展示,バルーンショーやパントマイムショーイベント,縁日コーナーなどのお楽しみもご用意しています.

開催日時: 2009(平成21)年10月17日(土)10時〜15時
※入場は14時30分まで,雨天決行
会場: 新潟新幹線車両センター(新潟市東区寺山字長沢254)
会場への交通: JR白新線 大形駅下車,徒歩約15分
路線バスご利用の際は,新潟交通バスの牡丹山線(市役所〜古町〜牡丹山〜北高校)岡山跨線橋で下車.徒歩1分
※会場には駐車場はありませんので,公共交通機関をご利用ください.

※詳しいアクセス方法はJR東日本新潟支社のお知らせ(PDFファイル)をご覧ください.
内容: ■車両展示(14時30分まで)
 200系・E1系・E2系・E3系・E4系・E5系
■お楽しみコーナー
●ミニSL運行
●鉄道模型展示・走行
●お楽しみステージ
●縁日コーナー
■販売コーナー(鉄道グッズ・軽飲食)
※詳しい内容はJR東日本新潟支社のお知らせ(PDFファイル)をご覧ください.

ご案内: JR東日本新潟支社ホームページ
http://www.jrniigata.co.jp/

◆能勢電鉄では,2009(平成21)年10月17日(土)に平野車庫において,「のせでんレールウェイフェスティバル2009秋」を開催します.

開催日時: 2009(平成21)年10月17日(土)10時〜15時 ※雨天決行
会場: 平野車庫構内
会場への交通: 能勢電鉄 平野駅下車すぐ
内容: ■「100周年記念号」連結によるイベント列車の運行
※午前・午後各1列車運行,先着300名
■お子さまを対象にミニ電車の運行(無料)
■オリジナル紙製の名札「今日から君も運転士・・・!」プレゼント
■お子さまを対象に紙製のオリジナル駅長帽子のプレゼント(先着800名)
■運転シミュレーション・車掌体験
■グッズの販売など

ご案内:  能勢電鉄ホームページ
http://noseden.hankyu.co.jp/

◆豊橋鉄道T1000形「ほっトラム」は,2009年ローレル賞を受賞しました.豊橋鉄道では,これを記念して,2009(平成21)年10月25日(日)に受賞式並びに関連イベントを行ないます.

■2009年ローレル賞 受賞式
開催日時: 2009(平成21)年10月25日(日)11時~
会場: 豊橋鉄道市内線駅前停留場
■2009年ローレル賞 受賞関連イベント
開催日時: 2009(平成21)年10月25日(日)13時~14時(予定)
会場: 豊橋鉄道市内線赤岩口車庫
内容: 2009年ローレル賞の受賞を記念して,T1000形「ほっトラム」などの撮影会を行ないます.また撮影会当日に限り,赤岩口車庫でも記念乗車券・記念グッズを販売します. 
■受賞記念ヘッドマーク運行
 2009(平成21)年10月25日(日)から,T1000形「ほっトラム」に記念ヘッドマークをつけて運行します.
 受賞式当日の記念撮影会終了後,赤岩口を14時31分に発車する駅前行きの電車から一般営業運転します.

ご案内: 豊橋鉄道ホームページ
http://www.toyotetsu.com/

・2009年10月18日イベント情報。こちらで参照できます。
http://railf.jp/event/2009/10/18/

◆鉄道イベント情報

・秋田総合車両センターフェア2009
10月17日(土)
10:00-15:00 秋田総合車両センター 車両展示、ミニSLなど
※旧・土崎工場 
http://www.jreast.co.jp/akita/topics/train/index.html#1

・ちばモノレール祭り2009
10月17日(土)
10:00-15:00萩台車両基地 車両基地見学、運転室公開など
洗浄車両体験乗車は事前申し込み 10/7必着(往復はがき
http://www.chiba-monorail.co.jp/event/2009/festa2009.html

・新京成「電車基地見学・展示会」
10月17日(土)
10:00-16:00
くぬぎ山車両基地 全車種ラインナップ撮影会、モーターカーの展示・試乗、作業実演、運転台シミュレータ体験、鉄道模型運転会など
新京成電鉄サイト
http://www.shinkeisei.co.jp/index.html

イベント情報についてはこちらで参照できます。
http://ivent.supertrain.net/

◆2009年10月24日(土)
第16回「鉄道の日」記念イベント 2009鉄道まつりin難波

駅長になろう撮影会
(お子様用の制服を着用して記念撮影していただけます。カメラはお客様でご準備下さい。)
           
・鉄道模型走行会
           
・鉄道グッズの販売
           
・数量限定オリジナル記念台紙付き記念入場券の販売
[大阪難波駅2種類 各100部]

・数量限定オリジナル記念ポストカードの販売
[2種類 各100円(限定各100部)]

●時間/10:00~12:00

※近鉄五位堂検修車庫で実施の「きんてつ鉄道まつり2009」はこちら

開催場所 大阪難波駅西ラッチ内コンコース(グッズ類の販売は東ラッチ外コンコース)
お問合せ 大阪難波駅 06-6213-0821


※イベントの内容・日程等は変更される場合がございます。おでかけ前に確認されることをおすすめします。

詳しくはこちらで参照できます。
http://www.kintetsu.co.jp/event-hiking/event_info/event0005901.html

◆上毛電鉄 感謝フェアイベント2009

大胡駅電車庫の公開とイベント

平成21年10月18日感謝フェアイベント2009を開催いたします。 会場は大胡会場と西桐生会場です。

大胡会場では、大胡電車庫(大胡駅から徒歩1分)において電車庫公開およびデハ写真撮影会、ミニトレインの運行、軌道自転車&車両の洗&犬釘打ち体験のほか、各社の鉄道グッズ販売等色々な企画および新商品グッズを用意してお待ちしております。

上毛電鉄感謝フェアイベント2009 詳細

日時   平成21年10月18日(日)09:30~16:00

入場  入場無料

●大胡会場(大胡駅徒歩1分)

大胡駅電車庫の公開とイベント

・デハ101、デキ3021、デハ104写真撮影会

・電車庫見学会(登録有形文化財)

・鉄道グッズ販売(東武博物館、東急電鉄、上信電鉄、わたらせ渓谷鐵道、上毛電鉄)

・ミニトレイン運行(2015年の公共交通をつくる会)

・軌道自転車・人車体験乗車

・車両の戦車体験

・犬釘打ち体験

・制服撮影会

・上泉伊勢守コーナー

・東京スカイツリー(建設中)写真パネル展示

・東武鉄道旧57型車両台車展示

上毛電気鉄道株式会社
上毛電鉄ホームページ 
http://www15.wind.ne.jp/~joden/

公演名スターダストトレイン ―銀河鉄道の夜―
.ジャンル演劇

会場 倉敷市芸文館ホール
http://www.kcpf.or.jp/hall/geibu/
日程2009年10月31日(土)
2009年11月1日(日)
.開場時刻10/31(土) 18:00
11/1(日)  12:30
.開演時刻10/31(土) 18:30
11/1(日)   13:00
.主催者倉敷市民ミュージカル ファンタジア
.お問い合わせ先市民ミュージカルネットワーク事務局
082-255-5066.

http://arsk.jp/event/2009_jyu_stardust.html

◆鉾田駅保存会 鉾田駅跡地で最後のイベント開催

鉾田駅保存会では、10月31日(土)に保存会単独では最後となる鉾田駅跡地での車輌公開イベントを行う。

鉾田駅保存会が所有するキハ601およびKR-505は、11月1日(日)付けで鉾田市に寄贈され、2010年1月までに鉾田市の温泉施設「ほっとパーク鉾田」に移設して展示される予定となっている(なお、保存活動は継続して同会が行う)。そこで、同会単独では最後となる車輌公開イベント「いい日旅立ち! さよなら鉾田駅・秋空に列車の汽笛いつまでも」を開催する。
 イベントの概要は以下のとおり。
開催日時
2009年10月31日(土) 10:00~16:00
開催場所
旧鹿島鉄道鉾田駅跡地
イベント内容
キハ601およびKR-505の車内公開
鉾田駅保存会特製「いも煮会」(12:00頃より先着順)
面白トロッコ「テトロ」体験乗車
人力トロッコDD体験乗車
キハ601車内での鉄道模型運転展示(Nゲージ)
キハ601車内でのプラレールコーナー(子ども向け)
保存会特製かしてつグッズの販売
・保存会特製鹿島鉄道駅名票キーホルダー
・保存会特製鹿島鉄道駅名票携帯ストラップ
・ネバーギブアップかしてつ特製キーホルダー
・かしてつ写真(パネル入れも可能)
「舞」さん新刊本『キハ601のカケラ』および既刊本の販売
その他イベントの詳細企画中
その他
公開時間中にキハ601およびKR-505の機関の運転を行う。また、開場とその後2時間ごとに計4回汽笛の吹鳴を行う。
アクセス
JR常磐線石岡駅から旧鉾田駅まで鹿島鉄道代替バスが運行されている。なお、鹿島臨海鉄道新鉾田駅からは徒歩約15分。

鉾田駅保存会 ウェブサイト
http://homepage3.nifty.com/hokota-station/


◆泉北高速鉄道イベント

鉄道の日記念 小学生絵画展開催!
2009年10月1日(木)から11月25日(水)まで

http://www.semboku.jp/event/dt_86.html

◆トロッコ電車 「鉄道の日」記念イベント

10月14日は「鉄道の日」です。記念行事として、鉄道施設見学会などを開催いたします。

開催期間 2009年10月14日
開催場所 黒部峡谷鉄道 宇奈月駅ほか
交通アクセス ■車(マイカー)/北陸自動車道黒部I.C.から約20分
■公共交通/富山地方鉄道本線宇奈月温泉駅から徒歩3分
駐車場 300台(有料)
お問い合わせ 黒部峡谷鉄道(株)  TEL.0765-62-1800
http://www.kurotetu.co.jp

こちらでも参照できます。
http://www.unazuki-onsen.com/?p=555

市内線T1000形(LRV「ほっトラム」)2009年「ローレル賞」受賞式及び関連イベントについて 
豊橋鉄道で運行中の市内電車T1000形(LRV「ほっトラム」)が、鉄道友の会から贈られる2009年「ローレル賞」を受賞いたしました。同賞の受賞を記念して、平成21年10月25日(日)に受賞式並びに関連イベントを行います。

<2009年「ローレル賞」受賞式>
【日時】平成21年10月25日(日) 午前11時~
【場所】豊橋鉄道市内線駅前停留場

<2009年「ローレル賞」受賞関連イベント>
【日時】平成21年10月25日(日) 午後1時~同2時(予定)
【場所】豊橋鉄道市内線赤岩口車庫
【内容】「ローレル賞」の受賞を記念して、T1000形(ほっトラム)等の
     撮影会を行います。また撮影会当日に限り、赤岩口車庫
     でも記念乗車券・記念グッズを販売いたします。

http://www.toyotetsu.com/cgi/news/s_news.cgi?action=show_detail&txtnumber=log&mynum=165

<受賞記念ヘッドマーク運行>
平成21年10月25日(日)より、T1000形(ほっトラム)に記念ヘッドマークをつけて運行いたします。
受賞式当日の記念撮影会終了後、赤岩口を14時31分に発車する駅前行きの電車から一般営業運転いたします。

【お問合せ】
 
鉄道部 ☎0532-53-2136
  
<受付時間>09:00~17:00(平日のみ) 

その他、各地でイベントが催されているそうです。

いかがでしたでしょうか??「鉄道記念日」鉄道記念日は、1872年(明治5年)の9月12日(新暦では10月14日)日本で初の鉄道が、新橋~横浜間で開業したことを記念して、1922年(大正11年)に日本国有鉄道が制定した日です。

今日は、10月14日「鉄道記念日」。皆さんは、どう過ごしますか??

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これは日本で初めて、それも歴史のあるひとつの「道」です・・・パート12

続いてです。続いては、「鉄道改革」から「技術的展望」まで書きたいと思います。

■鉄道改革

第二次世界大戦後、モータリゼーション、航空輸送などの発達に伴い、競争的な交通市場が出現し、鉄道の独占性は失われ、多くの国の国営鉄道が経営難に陥った。こうした鉄道事情を救済するため、1970~90年代にかけて、鉄道改革が各国の重要な政策課題となった。鉄道改革に最初に着手したのは、北米(アメリカ合衆国、カナダ)である。北米では、1970年代に鉄道貨物輸送と鉄道旅客輸送を分離する形の鉄道改革が行われた。

わが国では、1987年(昭和62)4月に日本国有鉄道(国鉄)の分割・民営化による鉄道改革が実施され、国鉄は六つの旅客鉄道会社と一つの貨物鉄道会社とに分割され、JR新会社(JR北海道、JR東日本、JR東海、JR西日本、JR四国、JR九州、JR貨物)としてスタートした。

1990年代に入ると、ヨーロッパ連合(EU)の域内市場統合を達成したヨーロッパでも鉄道改革が実施された。こうして、20世紀最後の30年間に、主要先進諸国において相次いで鉄道改革が行われ、鉄道は新たな転換期を迎えたのである。

■鉄道改革の背景

各国の鉄道改革は、改革の時期や方法こそ異なるものの、改革の背景、経緯、事情には類似した現象があった。鉄道経営を取り巻く市場環境の変化は、国ごとに若干の相違はあるにしても一般的な傾向は共通している。たとえば、鉄道独占時代は、鉄道線路の整備と鉄道企業の独占的な行動に対する規制が主たる政策事項とされた。たとえば鉄道運賃は、企業による独占的な価格設定を防ぐため、政府によって規制された。また、事業からの撤退や新規参入も政府の認可を必要とした。しかしながら、モータリゼーションの進展や航空輸送の発達から市場が競争的になると、経営難に陥った鉄道を競争から保護することが、鉄道政策の主眼となった。このとき、鉄道の独占を容認する参入規制を課し、内部補助を援用することで、鉄道事業の存続を図る政策が採用された。

しかしその後、自由競争時代の到来に伴い鉄道の競争力を強化するためには、規制の緩和が必要となった。にもかかわらず、参入規制と内部補助型の施策に依拠した競争制限的な鉄道政策が継続された結果、有効な手だてが得られぬまま、各国の国鉄は未曽有(みぞう)の経営危機に直面していったのである。経営を維持するには、巨額の財政援助が必要とされたが、それは政府の財政を圧迫するものであった。このような事態が、深刻に認識されるようになったのは、1970年代後半のことである。この時期、世界は規制緩和の時代に向かいつつあり、ここに至り、鉄道のみならず、すべての交通機関の参入・価格規制を緩和ないし撤廃し、競争を促進させる政策への転換が図られたのである。

■北米の鉄道改革

1970年代にいち早く鉄道改革に着手したアメリカとカナダでは、第二次世界大戦前から都市間鉄道旅客輸送の需要は激減し、旅客輸送は鉄道会社の深刻な赤字部門となっていた。しかし、鉄道貨物輸送については、十分な需要が見込まれていた。そこで、アメリカでは鉄道会社から旅客輸送部門を切り離し、これを一手に引き受け、全国一元的に都市間鉄道旅客輸送を営む公企業として、1971年全米鉄道旅客輸送公社National Railroad Passenger Corporation(通称アムトラックAmtrak)が設立された。1977年にはカナダでも、同様の組織VIA(ビア)レール・カナダVIA Railroad Canada Inc.(略称VIA)が設立された。

アムトラックとVIAの設立により、赤字部門から解放された鉄道会社は、採算性ある貨物輸送に専念できるようになり、健全経営が可能になった。同時に、アムトラックとVIAの運営も、貨物鉄道会社の線路を借りて輸送事業を行うことで、鉄道線路の費用負担から大幅に解放された。ただし、都市間鉄道旅客輸送に対する需要は依然乏しく、アムトラック、VIAともに国からの多額の補助金に依存する経営から脱却できずにいる。とはいえ、市場競争力を失った北米の鉄道輸送も、旅客と貨物間の分離を通じて、少なくとも貨物輸送は復活し、健全経営を維持できるようになったといえる。

■日本の鉄道改革

日本の国鉄改革は、1987年4月国鉄の分割・民営化として実施され、現在JR各社による経営が行われている。2001年(平成13)現在、東京、大阪、名古屋など大都市圏を有する本州3社(JR東日本、JR東海、JR西日本)は、市場条件にも恵まれて経営は安定し、独立採算が可能となっている。一方、市場条件に恵まれているとはいえない3島会社(JR北海道、JR四国、JR九州)と鉄道貨物会社(JR貨物)は、厳しい経営を続けている。とくに、3島会社については、近年の低金利から経営安定基金の運用益が確保できず、苦しい状況に置かれている。

国鉄改革では、本州3社の好調な業績が注目されがちであるが、採算性ある事業分野(本州3社の営業領域)とそうでない事業分野(3島会社および貨物会社の営業領域)が峻別(しゅんべつ)された結果、国鉄改革後に明暗が分かれたといえる。かつての国鉄において、数度の経営改善計画がことごとく失敗に終わった理由は、採算性ある事業分野とそうでない事業分野を内部補助に依拠し、一様に再建を図ろうとしたことにある。

わが国では、新幹線鉄道保有機構(1987~91、新幹線鉄道の施設の一括保有および貸付けに関する業務を行う法人として設立された。また、整備新幹線建設の財源として日本鉄道建設公団に対する交付金の交付業務も行った)と本州3社の関係、整備新幹線における日本鉄道建設公団(現鉄道建設・運輸施設整備支援機構)と鉄道会社との関係、あるいは神戸高速鉄道や関西高速鉄道などの都市鉄道にもみられるような、上下分離(鉄道線路部門と鉄道輸送部門の分離)による鉄道整備方式がある。これら整備新幹線や都市鉄道にみられる上下分離方式は、鉄道線路の建設資金調達や投資リスクの分散を図ることを目的としている。また、鉄道線路の整備責任は公的部門、運営責任は鉄道企業とする公設民営方式も、鉄道整備の資金調達の円滑化と投資リスクの分散を図る上下分離方式の一種といえる。

■ヨーロッパの鉄道改革

鉄道の輸送密度が低く、比較的市場条件に恵まれないヨーロッパでは、1990年代に入って本格的な鉄道改革に着手した。1991年に発令されたEU共通鉄道政策の指令により、鉄道経営の基本方針として「上下分離」と「オープンアクセス」の導入が提示された。このEU指令には、鉄道経営の自主性の確保、鉄道線路と鉄道輸送の分離(すなわち上下分離)、第三者に対する鉄道線路の開放(すなわちオープンアクセス)など、鉄道の競争力を強化するための措置が規定されている。EU法の第一次法源としてローマ条約(1957)があるが、第二次法源として規制、指令、決定、勧告、意見がある。規制は国内法に優先して効力を発揮するが、指令と決定は拘束性はあるものの国内法に基づいて実施される。勧告、意見は方針を掲げるのみで拘束性はない。

ヨーロッパにおいて、本格的な鉄道改革に最初に着手したのは、スウェーデンである。1988年スウェーデン国鉄(SJ)は、鉄道線路施設を保有しこれを維持管理する公企業たるスウェーデン鉄道庁Banverket(略称BV)と、鉄道輸送事業のみを営むスウェーデン国鉄(SJ)とに分割された。新たにスタートしたSJは、BVの線路を借りて鉄道輸送事業を行う。また、オープンアクセスが導入され、必要な資格を満たした鉄道事業者は、SJと同様にBVの線路を借りて鉄道事業を営むことができるようになった。

ドイツでは、1994年1月に鉄道改革が実施され、ドイツ連邦鉄道Deutsche Bundesbahn(略称DB)と東ドイツ国鉄Deutsche Reichsbahn(略称DR)が、いったん統合されて連邦鉄道財産機構Bundeseisenbahnvermgen(略称BEV)となり、これが、連邦鉄道財産清算機構Rest-Bundeseisenbahnvermgen(略称Rest-BEV)、連邦鉄道庁Eisenbahnbundesamt(略称EBA)、ドイツ鉄道株式会社Deutsche Bahn AG(略称DB)に3分割された。

BEVは、長期債務の処理、要員対策、不動産の維持管理および売却などの業務を行う。EBAは、連邦の鉄道線路施設の建設計画、オープンアクセスに際しての新規参入事業者の認可、安全性の監督など行政的な業務を行う。DBは、鉄道事業を営む株式会社となったが、1996年に鉄道線路会社、長距離旅客輸送会社、鉄道貨物会社、近距離旅客輸送会社、駅サービス会社に5分割され、1994年からオープンアクセスを実施している。その結果、小規模の民間の鉄道会社が多数参入している。

イギリスの鉄道改革は、きわめて複雑な形をとった。かつてのイギリス鉄道公社British Rail(略称BR)は、1994年4月に25の鉄道旅客輸送会社Train Operating Company(略称TOC)と6の貨物鉄道会社に分割された。さらに、3の車両リース会社、14の信号・保守会社など、全部でおよそ100の組織に細分化された。また、政府系の規制機関として鉄道規制庁Office of Rail Regulator(略称ORR)、鉄道旅客輸送フランチャイズ庁Office of Passenger Rail Franchising(略称OPRAF)といった機関が設立された。鉄道運営の中心となる機関はレールトラックRailtrackである。レールトラックは、鉄道線路を一括して保有管理する会社である。TOCも貨物鉄道会社も、レールトラックから線路を借りて輸送を行っている。旅客輸送については、列車サービスの種別、運行系統別に分割されたTOCが、入札によって当該線区の輸送事業の免許を取得し、旅客輸送サービスを提供する。路線の大部分は、不採算路線であるため、政府補助を受けるが、その場合、もっとも少額の補助金額を提示した事業者に営業免許権が付与される免許入札制を採用している。

その他、フランス、イタリアなどEUのほとんどの国あるいは東欧諸国でも、鉄道線路と鉄道輸送を分ける上下分離の鉄道改革が実施され、あるいは実施されようとしている。このように、ヨーロッパでは主として鉄道線路事業を公共的領域に、鉄道輸送事業を企業的領域に区分する形の上下分離方式が採用されている。企業的な領域は市場機構にゆだね、オープンアクセスを導入するなど当該領域の可能な限りの規制緩和と自由化を進める一方、鉄道線路事業は公共的領域に属し、公的介入を認める形で当該機関に運営の責任が託される。なお、公共性を認めるべき領域についても、これを最小限に限定し、単純な公的規制、公的助成を行うのではなく、擬似的市場機構を設けたり、インセンティブ規制(事業者の経営効率・生産性の向上を促すような動機付け、刺激、奨励金などの提供を伴う、従来よりもゆるやかな規制)を導入するなど、市場メカニズム重視の鉄道政策を行っている。とくに、採算性がなくとも社会的に必要な鉄道輸送サービスの提供は、地域化(regionalisation)により、当該地方政府の判断と意思決定にゆだねられ、公的な費用負担が担保される。地域化とは、地域交通サービスの運営責任、意思決定を当該自治体に移管する地方分権化の一種である。地域化では、当該輸送事業者の選定を免許入札制にするなど、インセンティブ規制や競争原理の導入が図られている。

現代の鉄道改革においてみられる上下分離を含む鉄道事業の区分経営は、一方では市場に特化し、競争力を発揮させる事業領域を抽出する。また一方では市場の失敗に対処すべき公共的領域を明確化する方式といえる。その結果、異なる事業部門間の内部補助が回避される。とりわけ、鉄道線路の維持管理の費用に耐えられないほど輸送密度の低い市場環境下において鉄道事業そのものを維持していくための方策として、その有効性が認められる。ヨーロッパ型の上下分離は、鉄道運営における経営責任と鉄道線路整備に対する公的責任の領域を明示している。しかし、公共的領域に対する投資において安易に公的助成が増大したり、浪費的投資を誘発する危険性も指摘されている。

■技術的展望

鉄道の将来に対応すべく、技術的な革新も進んでいる。

一つはソフトウェア面で、列車の運行から電力、信号、転てつ器、さらには乗客の誘導までを中央の指令室で集中管理するシステムである。すでに一部の鉄道では無人運転も実用化されている。旅客サービスが必要で、かつ事故が人命に直結する交通機関の性格から、すべての鉄道での無人化が実現することはないであろうが、集中管理システムはローカル鉄道や小量短距離輸送用鉄道にまで普及してゆくであろう。

ハードウェア面では、列車の動力や車両案内方式の全面的な革新と、車両構造やレール、車輪などの改良である。まったく新しい鉄道としての磁気浮上方式は、超高速の幹線用交通機関として日本やドイツで実用車規模による実験が進んでいるし、建設費と低廉さと騒音の少なさから、地下鉄や高架での新都市交通システムとして注目されている。また、改良の例として、都市交通の新機軸としての軽快電車、小断面地下鉄、ゴムタイヤ地下鉄なども都市交通機関として登場しつつある。21世紀の鉄道は、飛行機、乗用車、バス、トラックなど他の交通機関との競合ではなく、有機的に構築された交通システムの一環として、新しい技術開発によって面目を一新してゆくであろう。

参考文献
1.日本国有鉄道編『日本国有鉄道百年史』(1974・交通協力会)

2.日本国有鉄道編『欧米諸国の鉄道と交通政策』(1979・運輸調査局)

3.E・ハミルトン・エリス著、秋谷宏訳『世界機関車大系』(1974・実業之日本社)

※参考までに書きました。ご了承下さい。

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これは日本で初めて、それも歴史のあるひとつの「道」です・・・パート11

続いてです。続いては、現代の鉄道と展望、「現代の鉄道」から「鉄道政策のあり方」まで書いていきたいと思います。

5. 現代の鉄道と展望

■現代の鉄道

世界各国の鉄道輸送量は、旅客、貨物ともに各国の地理的条件、産業立地、人口の集中と分散の度合いなどの条件に制約されながら、経済状況、人口の動態、モータリゼーションと航空機などほかの交通機関との関係を反映してさまざまな様相を示している。

■旅客輸送

第二次世界大戦後、イギリスとアメリカの鉄道旅客輸送量は衰退傾向をたどり、1990年代はほぼ横ばい、ドイツは横ばい傾向、フランスとイタリアは増加傾向となっている。旧ソ連は増加傾向を示していたが、ソ連崩壊後のロシアでは減少傾向にある。これらの諸国と比べた日本の鉄道旅客輸送量の特徴は、もっとも高い増加率を示していることである。1955年(昭和30)を基準にした日本の鉄道旅客輸送量は、82年に2.7倍、98年(平成10)には2.9倍となっている。日本の鉄道旅客輸送量の高水準は、モータリゼーションが欧米諸国に比べ遅れてスタートしたこと、日本の旅客流動が海岸線に沿った高密度の線形移動であること、大都市圏の居住密度が高いこと、鉄道輸送が効率的に行われていることによって説明されている。アメリカの鉄道輸送量の大幅な衰退の理由は、近・中距離輸送における乗用車とバス、中・長距離輸送における航空機の発達があげられる。

■都市間旅客市場

都市間旅客鉄道は、世界的にもインターシティIntercityとして位置づけられ、鉄道の機能と役割のうえで重要な部分を形成する分野である。1981年フランスのTGVは最高時速260キロメートルでパリ―リヨン間(434キロメートル)を2時間で結び営業を開始、成功を収め、その後、路線も増え最高速度もひき上げられた。イギリスでは、最高時速260キロメートルのAPT(Advanced Passenger Train)が1981年から営業運転を開始したが、装置のトラブルが発生するなど開発に失敗、86年には廃車となった。その他、開発が成功し営業中の高速旅客鉄道に、イギリスのHST、イタリアのペンドリーノ、ドイツのICE(イーツェーエー)、スペインのAVE(アベ)、スウェーデンのX2000などがある。これに匹敵するものは日本の新幹線である。東海道、山陽、東北、上越、北陸などの各新幹線は都市間鉄道として重要な役割を果たし、航空機や高速道路による輸送との競争でも有利さを発揮しており、新幹線網の整備に対する需要は大きい。ただし、新幹線の整備は、膨大な投資資金を必要とすることや、並行する在来都市間鉄道の需要減になることに留意しなければならない。新幹線という技術革新は、旧来の鉄道をスクラップ化する可能性をももっているのである。

■大都市圏旅客市場

大都市圏や主要地方都市における旅客鉄道の機能と役割も大きい。国際的にみても、都市の規模が大きくなるほど、都市の通勤・通学輸送のための集中的な大量交通機関として鉄道への評価が高くなる。アメリカのサンフランシスコのBART(バート)(Bay Area Rapid Transit、通勤高速鉄道)は有名である。日本の都市においても、鉄道(JR、私鉄、地下鉄、路面電車)の都市交通における役割は大きい。運輸省(現国土交通省)大臣官房監修『都市交通年報』によると、1998年度(平成10)の輸送人員でみて、首都交通圏では約55%、京阪神交通圏では約49%が鉄道のシェアとなっている。しかし、大都市圏以外の地方都市では、モータリゼーションの影響から鉄道のシェアは相対的に小さいものとなっている。

■地方鉄道市場

地方の旅客鉄道の機能と役割は世界的に衰退した。マイカーやバスの発達は、人口密度の低い地域での鉄道に歴史的な終止符を打ったといえる。イギリスでは1963年に「イギリス鉄道の再建」の名で知られるビーチング・プランBeeching Planが発表され、不採算閑散支線区の鉄道営業の廃止が進められ、大幅な鉄道の撤去が行われた。その後、68年の法律によって、社会的に必要とされる旅客鉄道については補助金の交付がなされることになったが、63年から68年までに約5000キロメートルの鉄道が撤去された。

日本の地方の旅客鉄道には中小私鉄と旧国鉄の地方交通線があったが、60年代後半から始まる日本のモータリゼーションの過程で、人口の過疎化現象を反映して、輸送量の減少がみられるようになり、鉄道の廃止が行われた。鉄道の廃止に積極的に取り組んだのは中小私鉄であった。中小私鉄は66年から74年までに1888キロメートルの鉄道を廃止したが、同じ期間における旧国鉄の地方交通線の廃止は218キロメートルであった。旧国鉄は80年の国鉄再建法(日本国有鉄道経営再建促進特別措置法)に基づいて、地方交通線問題に積極的に取り組むことになり、旧国鉄の地方交通線のうち、利用者の少ない路線を特定地方交通線として、バス転換などの対象とした。1981年から86年にかけて83路線の転換が申請され、そのうち45路線約1846キロメートルがバス転換され、38路線約1311キロメートルが第三セクターあるいは地方鉄道として存続することになった。これらの鉄道も含め、地方における鉄道の経営はかなり厳しい状況にある。なお、1987年4月国鉄は分割・民営化され、JR7社(旅客鉄道6社、貨物鉄道1社)となった。1989年度(平成1)~2000年度に、JR関係の地方線約210キロメートルが廃止されている。

■貨物輸送

鉄道貨物輸送量は、イギリスの衰退傾向、イタリア、ドイツの横ばい傾向のほかは、フランス、アメリカが増加傾向であったが、1980年代後半からはフランスも減少傾向となっている。日本の鉄道貨物輸送量が世界の鉄道貨物輸送のなかでもっている特徴は、旅客輸送にみられた高水準の伸びを示していないことである。1955年を基準にして、日本の鉄道貨物輸送量は、82年で24%減、99年では59%減と大幅に減少している。日本の鉄道貨物輸送が衰退している理由は、大量貨物輸送の分野で内航海運の役割が大きいこと、雑貨輸送の分野でトラックの伸び率が高いことがあげられる。アメリカの貨物輸送では、鉄道がトラックを上回っているのに対して、日本ではトラックが鉄道を大幅に上回っている。

鉄道の貨物輸送は、世界的に競争市場となっている。中・長距離輸送におけるトラックとの競争、大量貨物輸送の分野での内航海運との競争、高価品輸送における航空機との競争は、鉄道の貨物輸送を、ますます鉄道の特性を発揮できる分野に限定せざるをえなくしている。また、他の輸送機関との競争は、鉄道の貨物輸送に輸送方式の技術改革を迫ることになった。鉄道の貨物輸送の伝統的な特色であった操車場(ヤード)を廃止して拠点間直行方式の採用、鉄道輸送に適した貨物を輸送する物資別適合輸送の開発、コンテナを主体としたフレートライナーの開発などである。

■国鉄経営再建政策

日本の国鉄は、1980年(昭和55)の国鉄再建法に基づいて、1日1キロメートル当りの輸送量が8000人以上を幹線鉄道、8000人未満を地方交通線として位置づけ、4000人以上8000人未満の地方交通線を国鉄が維持することとし、4000人未満の鉄道については特定地方交通線とし、地元で協議会を設置して、(1)バス輸送に転換