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此の日は唯一、我が国だけだそうです・・・パート5

それでは、海の日に各地では、イベントが催されているそうです。参考までに、書きたいと思います。

★海の日名古屋みなと祭 -- 愛知県

夏の到来!! 名古屋みなと祭!
名古屋の夏の風物誌“海の日名古屋みなと祭”。名古屋港ガーデンふ頭では、名古屋市指定無形民俗文化財の筏師一本乗り大会をはじめ、地元中高生による、マーチングバンド、音楽隊パレード、ジャズコンサートが開かれる。 みなと祭のフィナーレを飾る花火大会は、東海地区屈指の花火大会で、スターマインや大玉連続打上げなど多彩な花火が打ち上げられ、音楽と花火がシンクロした大人気のメロディ花火がみなと祭を締めくくる。

問い合わせ先 問合せ先:海の日名古屋みなと祭協賛会 052-654-7894

開催地 名古屋市港区ガーデンふ頭一帯
住所 名古屋市港区港町ガーデンふ頭
アクセス 公共: 地下鉄名港線名古屋港駅 下車すぐ
駐車場: なし
備考 雨天決行(但し、荒天の場合中止)

URL http://www.nagoya-port-festival.com で見ることができます。

★Kiss SEASIDE BREEZE in 恋の浜

http://www.kiss-fm.co.jp/pc/event/event_index.php で見ることができます。

★「海の灯まつりinお台場2009」にて、招致を祈願する光のページェントを実施
平成21年7月15日
港湾局
東京港埠頭・テレポートセンターグループ
東京オリンピック・パラリンピック招致委員会

海の日に、お台場海浜公園内にペーパーランプとキャンドルを並べて地上絵を描く「海の灯まつり」。6回目を迎える本年のテーマは、「お台場発!2016年東京オリンピック・パラリンピック招致」を祈念して、招致ロゴやお台場を競技会場とするオリンピック競技の絵を描き、子供たちによるワークショップや点灯式を開催いたします。
光による地上絵ページェントのほか、カリビアン音楽のライブ、フラ・タヒチアンダンス、アカペラコーラスライブも実施されます。

http://www.metro.tokyo.jp/INET/EVENT/2009/07/21j7f100.htm で見ることができます。

★kobe love Portみなとまつり

http://eonet.jp/travel/family/ で見ることができます。

第8回 Kobe Love Port みなとまつり

港街・神戸ならではの夏恒例イベント!
毎年海の日に催される神戸の夏の恒例イベント。2002年7月から「港と海に感謝する」という趣旨のもと、地元神戸にこだわった多彩なイベントが繰り広げられる。2009年は神戸開港140周年にちなんで、港町・神戸としての側面をクローズアップ。国際都市として発展したこの街の、新たな魅力が発見できる内容となっている。

住所 メリケンパーク(兵庫県神戸市中央区波止場町)周辺
電話番号 078-303-0072
お問い合わせ窓口 みなとまつり実行委員会事務局(神戸青年会議所内)
開催日時 2009年7月19(日)・20日(月・祝) 時間はイベントにより異なる
料金 無料
交通アクセス 神戸市営地下鉄みなと元町駅から徒歩6分
備考 駐車場:有料あり

公式サイト http://www.minatomatsuri.jp/ で見ることができます。

★スカイウォークで海の日のイベント「スカイウォーク夏祭り」 /神奈川

横浜ベイブリッジ・スカイウォーク(横浜市鶴見区大黒ふ頭1、TEL045-506-0500)で7月20日、縁日風の模擬店イベント「スカイウォーク夏祭り」が開催される。(ヨコハマ経済新聞)

同イベントは、海の日のイベントとしてスカイウォークが企画したもの。輪投げ、花火セットくじ、水あめ屋、スーパーボールすくいなど模擬店6店が出展。

スカイウォーク担当の三上雅さんは「お子さんつれでも楽しめるイベントです。また、日が長くなり今はサンセットを楽しむのにちょうどいい季節。デートコースとしてもよくご利用頂いています」と話す。

スカイウォークは、自動車専用道路に併設した日本初の歩行者専用道路として1989年に開通した。防災設備を備えた高さ60メートルのエレベーター「スカイタワー」、展望室の「スカイラウンジ」、タワーとラウンジをつなぐ散策路の「スカイプロムナード」の3施設。横浜港から富士山、丹沢、新宿や房総半島までを一望できる。週末はライブも行われている。

「スカイウォーク夏祭り」は7月20日、10時~17時。

入場料は大人=600円、中学生以下=300円、65歳以上:300円。開館時間は月~木曜日と日曜日は10時~20時、金曜日と土曜日は10時~21時。

あと、これも、参考までですが、海の日の横浜国際花火大会がなくなるという情報です。
平成20年12月25日付 神奈川新聞の記事から抜粋です。

「横浜の夏の風物詩として七月の海の日に合わせて開催しているみなと祭国際花火大会について、主催の中核である横浜商工会議所が2009年から取りやめる方針を固めた事が(12月)24日分かった。
安全確保への懸念を主な理由としており、既に関係機関に意向を伝えている。
一方、半世紀以上にわたって市民に親しまれてきたイベントだけに主催者の変更や規模縮小などにより、別事業として再生させる計画案も浮上している。」

とのことです。

どうやら、中止の方向ではありますが、今後の状況によっては別の大会として復活する可能性も残されているようです。

安全上の懸念と言うのは、毎年約50万人が花火見物に訪れていますが2009年は横浜開港150周年イベントもあり、例年以上の混雑が予想されています。
兵庫県明石市の歩道橋事故のような大事故が起こる前に安全性を最優先させたとも記事にはありました。

だそうです。 

残念です・・。夏の風物詩がまた一つ減ってしまうのは寂しい気が致します・・・。

これらの情報は、あくまでも、参考です。時間があれば、行って見るのもいいと思います。

いかがでしたでしょうか??海の日は、海の恩恵に感謝するとともに、海洋国日本の繁栄を願う 日です。
それと、「海の日は」もとは、海の記念日だったそうです。

1876(明治9)年、明治天皇が東北地方巡幸の際、それまでの軍艦ではなく、灯台巡視の汽船「明治丸」によって航海をされ、この日に横浜港に帰着されました。 1941(昭和16)年、当時の村田省蔵逓信大臣の提唱により制定された。1996(平成8)年に国民の祝日「海の日」になった。

そうです・・。海の日には、各地でイベントが行われるそうです・・。もし、お時間がありましたら、行かれるのもいいかもしれません。

今日は、「海の日」。皆さんは、どう過ごしますか??

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此の日は唯一、我が国だけだそうです・・・パート4

それでは、続いては、海の日について、国土交通省は7月1日から7月31日までを「海の月間」として、全国各地で海に親しむためのレクリエーション、体験乗船、施設見学等の様々なイベントを展開します。
参考までに、記します。

平成21年「海の月間」の実施について
~7月は「海の月間」です~

7月1日から7月31日までを「海の月間」として、全国各地で海に親しむためのレクリエーション、体験乗船、施設見学等の様々なイベントを展開します。

 「海の恩恵に感謝し、海洋国日本の発展を願う日」として、毎年7月の第3月曜日を国民の祝日「海の日」としています。この「海の日」の趣旨を広く国民に理解していただくため、毎年7月1日から7月31日までの1ヶ月間を「海の月間」としています。
 平成19年に成立した「海洋基本法」の中で、「海の日」に広く海洋についての理解と関心を深めるような行事を実施すべきことが定められていることを踏まえ、行事の充実及び拡充に取り組んでいるところです。

 今年の「海の月間」期間中には、「海の日」を記念した関連行事として、内閣総理大臣表彰である「第2回海洋立国推進功労者表彰」の表彰式や「海洋立国・日本」をテーマにしたシンポジウム等を神奈川県横浜市で開催します。さらに同じ横浜市では開港150周年を記念したイベントと合わせて海や船に関する企画が盛りだくさんの「海フェスタよこはま」が開催されることとなっています。
 その他にも、レクリエーション体験、体験乗船、施設見学会など、海や船に親しむイベントが全国各地で展開されます。(別添資料を参照)

 国土交通省としては、関係省庁、地方公共団体や海に関わりの深い関係諸団体のご協力をいただき、様々な行事を通じて「海の日」の意義を広く国民に定着させていくための広報活動を進めていきます。

国土交通省のサイトは、こちらで見ることができます。

http://www.mlit.go.jp/index.html

あくまでも、「参考」までです。失礼いたしました。

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此の日は唯一、我が国だけだそうです・・・パート3

それではここで、海の日についてまとめてみたいと思います。

●海の日について

海の日は近年制定された休日です。1996年に「海洋国家として広く国民に海への理解と関心を求める日」として休日に定められました。

★海を感じる季節

7月は祝日が無い月ですが、海をもっとも感じる季節です。そのような理由から、海の仕事に従事している関係者の間で「海の記念日」を祝日にしようという運動が起こりました。現在7月の第3月曜日が「海の日」と制定されています。

●海の仕事に従事する人の運動

1876年に明治天皇が東北を巡られ、青森から横浜へ入港されました。これにちなみ、1941年に当時の逓信(※)大臣〔ていしんだいじん〕である村田省蔵氏の提唱により7月20日が「海の記念日」とされました。
その後、海の仕事に従事している人の運動によって、1996年に「海の恩恵に感謝し海洋国日本の繁栄を願う日」として「海の日」に指定されました。

※逓信…郵便・電信などを送り伝えて、届けることです。元々内閣には通信全般をつかさどる逓信省が存在していましたが、1949年郵政省と電気通信省とに分れ、廃止されました。

★海の日のイベント

海の日は成立して間もないのでイベントもまだあまり行われていません。しかしそれだけに今後の活動に期待が寄せられます。特に、「日本海事報道協会」は海の日の祝日化に力を入れていたため、現在も様々なPR活動を行っています。その代表的なPRの一環として、標語「みんなで海のことを考え、海に親しみ、海を大切にしましょう」があります。
その他には、子供に向けの船の体験教室やシンポジウム、全国一斉海浜清掃などの行事が開催されているようです。これには、子供たちに広く海のことを知ってほしいという思いが込められています。

海の日についてはこちらでも見ることができます。

http://www.kaijipr.or.jp/

あくまでも「参考」までです。ご了承下さい。

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此の日は唯一、我が国だけだそうです・・・パート2

海の日は、祝日化される前は海の記念日という記念日でした。1876年、明治天皇の東北地方巡幸の際、それまでの軍艦ではなく灯台巡視の汽船「明治丸」によって航海をし、7月20日に横浜港に帰着したことに因み、1941年に逓信大臣村田省蔵の提唱により制定されました。

それでは、続いては、その海の日の由来となった灯台巡視の汽船「明治丸」について書きたいと思います。

●明治丸について

明治丸(めいじまる)は日本の船舶。灯台巡視船として大日本帝国政府が発注し、御召し船や練習船としても使用された。国の重要文化財に指定されている。

●歴史

明治初頭、洋式灯台の建設に伴って、その測量やメンテナンスのために灯台巡視船が日本にも登場した。灯台の増加により新鋭船が必要となったため、大日本帝国政府はイギリスのグラスゴーにあるネピア造船所に明治丸を発注した。同船は1874年9月26日に進水し、同年11月24日に竣工している。翌1875年2月20日に横浜港に到着し、灯台巡視船の任に就いた。

一方、当時の日本国内における最優秀船であった[2]ため、御召し船としても用いられている。特に、1876年には明治天皇の北海道・東北地方への巡幸に供され、7月20日に横浜に無事帰港した事を記念して1941年にこの日が『海の記念日』(現在の海の日)に制定された[3]。1875年3月5日の、軍艦・清輝の進水式の際にも明治天皇は乗船している。また1879年の琉球処分の際には尚泰を乗せて東京まで航海し、1887年には高崎五六らの硫黄列島への探検航海に用いられるなどした。

その後、海軍省から譲渡された新発電丸が後任に就くと、明治丸は1897年9月に商船学校(現・東京海洋大学)に貸与された。さらに同年11月には同校に移管され、係留練習船として操帆訓練などに用いられた。1901年12月25日に現在の東京海洋大学・越中島キャンパスに移動し、1911年と1917年には台風や高潮でバウスプリットが折れるなどの被害を受けつつ、1923年の関東大震災や1945年の東京大空襲の際には数千人の罹災者を収容している。

1945年9月には学校とともにアメリカ軍に接収され、酒保になっていた。その後1951年に係船地で座礁したのを契機に接収が解除され、1952年には浮揚させて上甲板などの修理が行われたが、1954年に老朽化のため練習船の任務を解除された。その後も1975年頃までは結索実習などに船内が使われ、1978年5月31日には船として初めて国の重要文化財に指定されている。1988年1月29日に保存修理工事を終え、1989年5月16日からは一般に公開されている。

●構造

★外観

当初は外輪船とする計画だったが、2本マストのトップスルスクーナーとして建造された。1898年には品川にある緒明造船所で3本マストのシップに改造され、さらに1937年にはミズンマストの腐敗からバークになったが、1983年からの修復工事で再びシップ型に戻された。また、船首と船尾にはアカンサスの文様が描かれている。

★船内

甲板は2層構造で、主甲板は当初細かく区切られて客室が配置されていた。後に、明治天皇のための御座所として、公室・寝室・浴室の3部屋が右舷後方に設けられた。御座所内の板絵は戦後の接収の際にペンキを塗られたが、後に復元されている。また、主甲板の最後部にはサロンがあり、マホガニーのテーブルが展示されている。なお、1892年の修理で従来の操舵室が海図室となり、上甲板に操舵室が設けられた。

下甲板には石炭庫とレシプロ機関2機が設置されていたが、1927年に取り外され、技業練習場が設けられた。

●性能
1878年11月18日にグラスゴーで試運転が行われ、排水トン数1235トンで、速力12.66ノット、指示馬力(ihp)1450馬力を記録している。なお、速力や船のサイズなどについては、複数の記録で数値の食い違いが見られる。

●脚注

1.a b 庄司、2007年、P.1
2.庄司、1996年、P.52
3. a b c 庄司、1996年、P.53

●参考文献

・庄司邦昭『重要文化財 明治丸』「纜」、日本船舶海洋工学会、32巻、P.52-56、1996年
・庄司和民『明治丸要目考』「東京海洋大学研究報告」、東京海洋大学、3巻、P.1、2007年

明治丸について詳しいことは、こちらで見ることができます。

http://www.e.kaiyodai.ac.jp/facilities/meiji/index.htm

あくまでも、「参考」までです。ご了承下さい。

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此の日は唯一、我が国だけだそうです・・・パート1

皆さん、こんにちわ。更新です。今日は、7月20日です。今日は、海の日です。えっと、今年は、前日の19日が日曜日ということもあって、今日の祝日もあわせて、「連休」のかたもいらっしゃると思います。

ということで、今日は、「海の日」ついて書きたいと思います。

●海の日について

海の日(うみのひ)は、1996年に制定された日本の国民の祝日の1日である。制定当初は7月20日だったが、祝日法の改正(ハッピーマンデー制度)により2003年から7月第3月曜日となった。

国民の祝日に関する法律(祝日法)では「海の恩恵に感謝するとともに、海洋国日本の繁栄を願う」ことを趣旨としている。国土交通省の文書の記述などによると「世界の国々の中で『海の日』を国民の祝日としている国は唯一日本だけ」という。

●海の記念日

祝日化される前は海の記念日という記念日であった。海の記念日は、1876年、明治天皇の東北地方巡幸の際、それまでの軍艦ではなく灯台巡視の汽船「明治丸」によって航海をし、7月20日に横浜港に帰着したことに因み、1941年に逓信大臣村田省蔵の提唱により制定された。

明治丸はその後、東京商船学校(現東京海洋大学)の練習船として使用され、現在は東京海洋大学越中島キャンパスに保存されている。

●改正祝日法施行前の海の日

1996年から2002年まで

日曜日:1997年
月曜日:1998年
火曜日:1999年
水曜日:なし(7つの全ての曜日の中で唯一なし)
木曜日:2000年
金曜日:2001年
土曜日:1996年、2002年

●改正祝日法施行後の海の日

以下、2050年までの予定を含め記す(括弧内は予定)

・7月15日 - (2013年、2019年、2024年、2030年、2041年、2047年)
・7月16日 - 2007年、(2012年、2018年、2029年、2035年、2040年、2046年)
・7月17日 - 2006年、(2017年、2023年、2028年、2034年、2045年)
・7月18日 - 2005年、(2011年、2016年、2022年、2033年、2039年、2044年、2050年)
・7月19日 - 2004年、2010年、(2021年、2027年、2032年、2038年、2049年)
・7月20日 - 2009年、(2015年、2020年、2026年、2037年、2043年)
・7月21日 - 2003年、2008年、(2014年、2025年、2031年、2036年、2042年、2048年)

●関連

・日本の記念日一覧
・灯台記念日 - 海の日と並ぶ海に関する記念日。
・海上保安庁 - 海の日に各種祝賀行事を行う。
・灯台 - 参観灯台では海の日に各種祝賀行事を行う。
・海軍記念日 - 5月27日。1945年に廃止。
・オーシャンカップ競走 - 海の日誕生を記念して、1996年(平成8年)に競艇のSGに新設された競走。

脚注

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かつてはとても重要な「港(ばしょ)」だったそうです・・・パート15

それでは、大阪港祭りについてのイベント情報です。参考までです。

★大阪港みなとまつり

今年も「大阪港みなとまつり」を開催します!
大阪市では、大阪港開港記念日(7月15日)と海の日(7月20日)にちなんで、市民の海や港への関心を高め、また、親しんでいただけるよう「大阪港みなとまつり」を開催します。
平成21年7月19日(日)を中心に、大型フェリーによるクルーズ、誰もが気軽にセーリングを楽しめるアクセスディンギーヨットの体験乗艇や大阪港カッターレースなど様々なイベントが開催され、「海の御堂筋」の玄関口である大阪港一帯が大いに賑わいます。
この機会にぜひ皆様お誘いあわせの上、大阪港にお越しください。

大阪港みなとまつり行事一覧 行事名 開催日 問い合わせ
大阪港カッターレース 平成21年7月19日(日) 大阪市港湾局海務担当
 
電話:06‐6571‐1966
 
ファックス:06‐6571‐1992

大阪湾クルーズ 平成21年7月19日(日) 大阪市港湾局振興担当
 
電話:06‐6615‐7766
ファックス:06‐6615‐7769

大阪市長杯市民ヨットレース 平成21年7月19日(日) 大阪北港ヨットハーバー
 
電話:06‐6468‐3710
ファックス06‐6462‐0410

ヨット体験乗艇 平成21年7月19日(日) 大阪北港ヨットハーバー
 
電話:06‐6468‐3710
ファックス06‐6462‐0410

大阪市広報船「夢咲」による大阪港見学会 平成21年7月24日(金)~平成21年7月26日(日) 社団法人大阪港振興協会
 
電話:06‐6615‐7616
ファックス06‐6615‐7615

※事前申込が必要な行事がありますので、詳しくは行事名をクリックしていただくか、お問い合わせ先までご連絡ください。

大阪港祭りはこちらでも、見ることができます。

http://www.osaka-info.jp/jp/search/detail/event_8465.html

参考までです。

いかがでしたでしょうか??大阪港は、神戸港と同じで、「五大港」の一つとしてあげられているそうです。
「横浜」「長崎」「新潟」「函館」「神戸(大阪)」港・・・先日の「ぺリーが来航」記事にも書きましたが、長かった、「鎖国の時代」も終わり、新しい時代の幕開けとなりました・・。これが、本当の夜明けなのかもしれません・・・かつてはとても重要な「港(ばしょ)」だったそうです・・・

今日は、「大阪港開港記念日」。皆さんは、どう過ごしますか??

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かつてはとても重要な「港(ばしょ)」だったそうです・・・パート14

続いては、「西区」についてです。

●西区 (大阪市)について

西区(にしく)は、大阪市を構成する24区のうちの1つ。市の都心中西部に位置する。

西区
にしく 国  日本
地方 近畿地方
都道府県 大阪府
市 大阪市
団体コード 27106-3
面積 5.20km²

総人口 79,461人
(推計人口、2009年6月1日)
人口密度 15,280人/km²
隣接自治体
行政区 大阪市:北区、此花区、浪速区
港区、中央区、福島区
区の木 
区の花 サクラ、バラ
パンジー、コスモス

●概要

現在、西区は大阪市内でも職住近接に適した有数の良質な住宅地として再開発が進んでおり、特に新町~北堀江~南堀江にかけてのエリアでは小学校の教室が不足するなど人口の急増ぶりが際立っている。こういった事から、老年人口の比率が市内24区中最も低くなっている。中部を木津川が南流する。

「○○市西区」の中では元祖の行政区名である。

●歴史

1889年に誕生。1925年に西区の一部が分離して港区が新設された。

木津川より東の西船場・堀江は、江戸時代以来多くの堀川が整備され、蔵屋敷や魚市場、問屋街として栄え、船場商人が多数在住した。また、新町遊廓や堀江新地など遊興の場でもあった。木津川より西の九条は淀川河口の中洲だったが、江戸時代初期に農地として開発され「衢壌(くじょう)島」と名づけられ、後に九条と改められた。その川沿いは大坂に入港する大型船の船着場となった。

明治時代は九条の北の川口が、外国人居留地の設置(1868年 - 1899年)により大阪の文明開化の象徴となった。その木津川対岸の江之子島には大阪府庁・大阪市役所が建設されるなど、大正時代まで大阪の行政の中心地であった。川口居留地は川底が浅く大型商船が入らないため、外国商人は間もなく神戸に移っていったが、代わって中国商人が入り、日中戦争の激化までは中華街が存在した。一方、川口の南の松島には明治以降新町遊郭から遊郭が移転し松島遊廓となり、堀江新地も引き続き遊興地として繁栄した。松島に近い九条新道(九条商店街)は「西の心斎橋」と呼ばれた事もあった。

しかし、西船場の市場の機能はより大きな市場に集約されてゆく。靱の雑喉場(魚市場)は1931年の大阪市中央卸売市場開場により機能を失い、戦災で焼け米軍飛行場となった(現在は靱公園)。松島新地や堀江新地は戦後廃止された。また、御堂筋の開通により、かつての南北のメインストリートだった四つ橋筋は戦後相対的に地位が低下した。材木商、陶器商、機械金属商なども高度成長期以降、都心の渋滞を避けて郊外に移転し、流通の簡素化で問屋業が衰退するなど、かつて程の活気はなくなった。

しかし、近年の都心回帰により、堂島や中之島などの都心ビジネス街に隣接した住宅エリアとしての利便性が見直され、高層マンションの相次ぐ建設などで人口が急増すると共に、堀江・新町・靱公園周辺などがカフェ・レストラン・服飾店・インテリアショップ・雑貨店などファッショナブルな店舗の新しい集積地となった。また、江戸堀・京町堀・新町に数多く残る、大正~昭和初期築の近代建築や雑居ビルがギャラリーなど文化情報発信の拠点として活用され続けているなど、街への魅力から近年訪れたり店を開く若者が増加している。

2005年に実施された国勢調査において、人口増加率が隣接する中央区に次いで高い14.5%増を記録した。これは政令指定都市の行政区の中では大阪市中央区、横浜市都筑区に次いで3番目に高い数値である。1889年の市制施行時の東西南北4区のうち、東区と南区は合区して中央区になり、北区は北隣の大淀区と合区して新たな北区となったため、市制施行時から単体で存在する区としては西区が最古という事になるが、現在の西区は都心回帰による再開発によって関西の文化・流行の最先端を進む区に変貌しつつあり、進取の気風を重んじる大阪らしさを象徴する地域となっている。

●交通

★鉄道

かつて西区を経由する路線は大阪市営地下鉄のみだったが、2009年3月20日開業の阪神なんば線がこの区で初めての民営路線となった。

・大阪市営地下鉄
・四つ橋線
・肥後橋駅 - 本町駅 - 四ツ橋駅
・中央線
・九条駅 - 阿波座駅
・千日前線
・阿波座駅 - 西長堀駅
・長堀鶴見緑地線
・ドーム前千代崎駅 - 西長堀駅 - 西大橋駅
・阪神電気鉄道
・阪神なんば線
・九条駅 - ドーム前駅

★道路

・阪神高速道路
・3号神戸線
・西長堀出入口 - 中之島西出入口
・16号大阪港線
・阿波座出入口 - 西長堀出入口 - 九条出口 - 本田入口
・土佐堀通
・本町通(国道172号)
・中央大通
・長堀通(大阪府道173号大阪八尾線)
・新なにわ筋(大阪府道29号大阪臨海線)
・あみだ池筋
・なにわ筋(大阪府道41号大阪伊丹線)
・四つ橋筋

●教育

★高等学校

・大阪市立西高等学校

★中学校

・大阪市立西中学校
・大阪市立花乃井中学校
・大阪市立堀江中学校

★小学校

・大阪市立西船場小学校
・大阪市立日吉小学校
・大阪市立九条南小学校
・大阪市立九条東小学校
・大阪市立九条北小学校
・大阪市立本田小学校
・大阪市立堀江小学校
・大阪市立明治小学校

● 名所・旧跡・施設

・靱公園
・靱蹴球場(現在閉鎖)
・大阪科学技術館
・レーザー技術総合研究所
・京セラドーム大阪
・大阪市立中央図書館
・楠永神社
・金光教玉水教会(国登録有形文化財)
・土佐稲荷神社
・御霊神社堀江行宮
・あみだ池(和光寺)
・大阪厚生年金会館(ウェルシティ大阪)
・旧川口居留地
・日本聖公会川口基督教会(国登録有形文化財)
・川口アパート
・日本基督教団大阪教会(国登録有形文化財)
・日本キリスト教会大阪西教会
・山内ビル(国登録有形文化財)
・日生病院
・大野記念病院

★バファローズのお膝元

1997年に近鉄バファローズのホームスタジアムとして大阪ドーム(2006年・命名権取得のため「京セラドーム大阪」に改称)が完成すると、球場の最寄の商店街の一つである当区のナインモール九条商店街もバファローズのお膝元として地域に密着したチーム作りを応援する体制を整えるようになった。これをきっかけに「バファロード」なる愛称も付いた。

しかし、2004年シーズン中にオリックス・ブルーウェーブとの合併計画が発覚したことをきっかけに、同商店街では合併の撤回運動を展開したが、合併決定は覆らなかった。だが、2005年度以後もチーム名に(オリックス)バファローズが残ること、また、神戸スカイマークスタジアムとのダブルホームタウン(2005年、2007年は大阪、2006年のみ神戸が登録上のメイン)ながらも大阪ドーム(京セラドーム大阪)を本拠とする事から、今後も同商店街はバファローズのお膝元の商店街と位置づけて様々な応援キャンペーンを続けていく。

●西区に本社を置く企業

・大八洲
・ダイソー - 化学薬品製造の会社。100円ショップのザ・ダイソーを運営する会社ではない。
・フルベール化粧品
・大同生命保険
・石原産業
・長瀬産業
・栗本鐵工所
・山善
・杉本商事
・トラスコ中山
・立花エレテック
・アスワン
・大日本除虫菊 -金鳥ブランドで知られる。
・因幡電機産業
・大阪トヨペット
・日本総合研究所
・住友倉庫
・奥本製粉
・丸一鋼管
・東洋ゴム工業
・NTN
・銭高組
・大阪屋
・サカタインクス
・デイリースポーツ大阪本社
・オー・エム・コーポレーション
・また大阪瓦斯がここを発祥地としていた。現在、京セラ大阪ドームの近接地に「ドームシティーガスビル」という大阪ガス所有のビジネスビルがある。(写真)
・GIZA studio
・日本交通
・フーセンウサギ
・非破壊検査
・神戸生絲
・ACジャパン - ここが発祥の地。
・モンベル
・シティホーム建物管理
・ビューティーラボラトリー
・フジキン

●出身有名人

・藤山寛美(喜劇役者)
・山内久司(TVプロデューサー・朝日放送常任顧問)
・U.K. - ラジオDJ・タレント

これらの「五区」は参考のために書きました。ご了承下さい。

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かつてはとても重要な「港(ばしょ)」だったそうです・・・パート13

続いては、「住之江区」についてです。

住之江区(すみのえく)は、大阪市を構成する24区のうちのひとつ。

住之江区
すみのえく 国  日本
地方 近畿地方
都道府県 大阪府
市 大阪市
団体コード 27125-0
面積 20.77km²

総人口 127,740人
(推計人口、2009年6月1日)
人口密度 6,150人/km²
隣接自治体
行政区 大阪市:此花区、港区、大正区、
住吉区、西成区
堺市:堺区
区の木 
区の花 さざんか
区のマスコットキャラクター さざぴー

●歴史

1974年7月22日に住吉区から西部を分離して成立した。墨江、住之江と呼ばれた地域の中心は、かつては永らく南海本線の住吉大社駅や住ノ江駅近くの浜口東、浜口西、住之江、西住之江、安立などの地域であり、国道26号線や阪神高速15号堺線の東の住吉区に隣接した住吉区の歴史や文化と一体の地域だったが、住之江区の分区や1980年前後からの南港地区の埋め立てによる造成などにより、区の中枢は阪神高速15号堺線の西の御崎から新なにわ筋の住之江公園、さらには南港地区の方に移ったといえよう。

●交通機関

★鉄道

・大阪市交通局
・四つ橋線 : 玉出駅 - 北加賀屋駅 - 住之江公園駅(玉出駅は西成区との境界に立地。駅施設の大半は西成区にあるが、住所は住之江区になっている)
・中央線 : コスモスクエア駅
・南港ポートタウン線 : コスモスクエア駅 - トレードセンター前駅 - 中ふ頭駅 - ポートタウン西駅 - ポートタウン東駅 - フェリーターミナル駅 - ・・南港東駅 - 南港口駅 - 平林駅 - 住之江公園駅
・南海電気鉄道
・南海本線 : 住ノ江駅(粉浜~住吉大社では住吉区との境界部を走る。粉浜駅・住吉大社駅は住吉区に所在)
・阪堺電気軌道
・阪堺線 : 細井川(細江川)以南では住吉区との境界部を走っている。その間にある細井川駅、安立町駅、我孫子道駅は登記上全て住吉区内にある。

★道路

★高速自動車国道

・区内は路線なし。

★阪神高速道路

4号湾岸線:南港北出入口 - 南港中出入口 - 南港南出入口
5号湾岸線:南港北出入口
15号堺線:住之江出入口

★一般国道

・国道26号
・長居公園通(国道479号・大阪内環状線)

★主要府道

・南港通(大阪府道5号大阪港八尾線・大阪府道179号住吉八尾線)
・新なにわ筋(大阪府道29号大阪臨海線)

★一般府道

・大和川通(大阪府道179号住吉八尾線)

★大阪市道有料道路

・大阪港咲洲トンネル

★大阪市道幹線道路

・住之江通
・新木津川大橋

★港

・大阪南港
・フェリーターミナル
・国際フェリーターミナル
・コスモフェリーターミナル

★渡船

・木津川
・木津川渡 大正区船町二丁目 - 住之江区平林北一丁目 日中45分毎。

渡船については大阪市の公営渡船を参照。

●教育

★大学

・相愛大学
・森ノ宮医療大学 - 2007年開学

★高等学校

・大阪市立住吉商業高等学校
・大阪府立港南造形高等学校
・大阪府立咲洲高等学校
・金剛学園高等学校
(廃校)

大阪府立港南高等学校 - 大阪府立港南造形高等学校へ改編。
大阪府立住之江高等学校 - 大阪府立咲洲高等学校へ改編。

★中学校

・大阪市立住吉第一中学校
・大阪市立加賀屋中学校
・大阪市立住之江中学校
・大阪市立新北島中学校
・大阪市立南港北中学校
・大阪市立南港南中学校
・大阪市立真住中学校
・金剛学園中学校
(廃校)

・大阪市立南稜中学校 - 御崎4丁目にあった。1947年創立。真住中学校の新設(1993年)に伴い1993年3月に廃校。廃校後、跡地に住之江小学校が移転。

★小学校

・大阪市立粉浜小学校
・大阪市立安立小学校
・大阪市立敷津浦小学校
・大阪市立加賀屋小学校
・大阪市立住吉川小学校
・大阪市立北粉浜小学校
・大阪市立住之江小学校
・大阪市立平林小学校
・大阪市立加賀屋東小学校
・大阪市立新北島小学校
・大阪市立南港光小学校
・大阪市立南港緑小学校
・大阪市立南港桜小学校
・大阪市立南港渚小学校
・大阪市立清江小学校
・金剛学園小学校

★特別支援学校

・大阪市立住之江特別支援学校

●名所・旧跡・観光スポット・施設

・住吉公園
・霰松原
・大阪護國神社
・住之江公園
・大阪南港野鳥園
・大阪ワールドトレードセンタービルディング(愛称・コスモタワー)
・アジア太平洋トレードセンター(ATC)
・ATCオズ岸壁:帆船あこがれ専用岸壁
・なにわの海の時空館
・インテックス大阪
・Zepp Osaka
・住之江競艇場
・大阪市立住之江図書館
・ハイアットリージェンシー大阪
・MAG'Sスミノエ

●地価

・中加賀屋二丁目16-9(住宅地)26.2万円
・浜口西二丁目8-10(住宅地)25.7万円
・御崎五丁目14-9(住宅地)25.1万円
・西加賀屋三丁目17-12(住宅地)24.7万円
・粉浜西二丁目10-21(住宅地)25.5万円
・粉浜三丁目10-1(商業地)33.8万円
・粉浜西一丁目2-6(商業地)31.5万円
・北加賀屋五丁目7-26(準工業地)19.1万円
・新北島八丁目1-53(準工業地)24.4万円
・東加賀屋一丁目8-20(準工業地)25.1万円
・緑木二丁目4-30(工業地)12.4万円
・平林北一丁目2-27(工業地)10.2万円

1m²あたり・平成16年7月1日現在、国土交通省・平成16年9月21日発表

●住之江区に本社を置く企業

・日立造船
・ミズノ
・永大産業
・グルメ杵屋
・コクミン(薬局、ドラッグストアを展開)
・松岡製菓(焼菓子「満月ポン」の製造販売) 

●出身者

・大塚愛(歌手、シンガーソングライター)
・河合奈保子(歌手、1980年デビュー、1996年結婚、休業中)
・辰巳琢郎(俳優、タレント)
・小籔千豊(お笑いタレント、吉本興業)
・中山功太(お笑いタレント、吉本興業)
・間寛平(お笑いタレント、小学生の時に高知から移住)
・ハジメ(お笑いタレント、フォーリンラブ)
・ゆでたまご(漫画家)
・今井メロ(ハーフパイプ、トリノ五輪日本代表)
・成田童夢(ハーフパイプ、トリノ五輪日本代表)
・黒田博樹(アメリカ大リーグ、ロサンゼルス・ドジャーズ投手)
・田上秀則(プロ野球、福岡ソフトバンクホークス)
・三木肇(プロ野球、東京ヤクルトスワローズ)
・三木仁(プロ野球、元オリックス・バファローズ)
・高田繁(プロ野球、元北海道日本ハムファイターズGM、現東京ヤクルトスワローズ監督)
・野々口航太 - プロバスケットボール選手(bjリーグ・高松ファイブアローズ所属)

●関連項目

・咲洲
・南港
・大和川
・粉浜

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かつてはとても重要な「港(ばしょ)」だったそうです・・・パート12

続いては、「此花区(このはなく)」についてです。

●此花区について

此花区(このはなく)は、大阪市を構成する24区のうちのひとつ。

かつては淀川河口のデルタ地帯で多くの中洲があり、中でも伝法が漁村として栄えていたほか、仏教渡来の地とされ西念寺が大伽藍を誇っていた(廃仏毀釈で縮小した)。江戸時代以降は開発が進み新田が建設され近郊農村となった。島屋や常吉など現在の地名は、各新田の開発者の名前などにちなんだものが多い。また大坂市内まで川を遡れない北前船や菱垣廻船などの大型船は、大きな澪標(みおつくし)が立てられた伝法口の河口に停泊して荷下ろしをした。明治に入り新淀川開削で多くの土地を失う一方、田畑は重工業の巨大工場に変貌し、海沿いには大阪港(北港)が作られて、以後阪神工業地帯の中心となった。

戦後は激しい公害に見舞われたが、1980年代以降は産業構造の転換により重工業は振るわず、工場の地方・海外移転などが進み、貨物駅や工場が廃止された跡地が増えてきた。これに対し、一方ではハイテク製品生産への転換、一方では2001年開業のテーマパーク ユニバーサル・スタジオ・ジャパン (USJ)に代表されるアミューズメントエリア・ソフト産業地区への転換が模索されている。

2008年のオリンピック誘致(失敗)のために造成されたスポーツ公園地域、舞洲スポーツアイランドを持つ舞洲(まいしま)と住宅・工場などのベッドタウン化を目指す夢洲(ゆめしま)という二つの人工島がある。

区南西部の桜島からは、安治川対岸の天保山(大阪北港、港区築港三丁目)まで、無償の公営渡船が運航されている。

此花区
このはなく 国  日本
地方 近畿地方
都道府県 大阪府
市 大阪市
団体コード 27104-7
面積 16.24km²

総人口 64,896人
(推計人口、2009年6月1日)
人口密度 4,000人/km²
隣接自治体
行政区 大阪市:福島区、西区、港区
西淀川区、住之江区
区の木 
区の花 サクラ、チューリップ

●隣接している区

・住之江区
・港区
・西区
・福島区
・西淀川区

●歴史

・1925年に当時の北区及び西区の一部の合区で誕生。
「此花」の名はこの土地の古い地名にちなんだものではない。区の創設の際、『難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花』という和歌(難波津の歌)にちなんで命名された。
・1943年に福島区を分離、西淀川区の伝法、高見地区を編入。

地理

★河川

・淀川
・正蓮寺川
・六軒家川
・安治川
・北港運河

●交通

★鉄道

・JR西日本
・大阪環状線
・西九条駅
・桜島線(JRゆめ咲線)(全線区内)
・西九条駅 - 安治川口駅 - ユニバーサルシティ駅 - 桜島駅
・阪神電気鉄道
・阪神なんば線
・西九条駅 - 千鳥橋駅 - 伝法駅

★道路

・阪神高速道路
・2号淀川左岸線
・ユニバーサルシティ出口
・島屋出入口
・島屋東入口
・5号湾岸線
・北港西出入口
・国道43号(第二阪神国道)
・此花通
・北港通

★空港

舞洲ヘリポート

★その他 [編集]

・天保山渡船場

●教育

★高等学校

・大阪市立此花総合高等学校 - 酉島2-3-16(2008年募集停止。同年4月以降は咲くやこの花高等学校内に移転)
・淀之水高等学校 - 朝日1-1-9
・大阪市立咲くやこの花高等学校 - 西九条6-1-44(中高一貫校・2008年開校)
・大阪市立扇町高等学校(2008年募集停止。北区中之島から同校内に移転)

★中学校

大阪市立

・春日出中学校 - 春日出南1-2-8
・梅香中学校 - 春日出北3-11-33
・此花中学校 - 高見2-14-31
・咲くやこの花中学校 - 西九条6-1-44(中高一貫校・2008年開校)
・淀之水学院昇陽中学校-朝日1-1-9(中高一貫校・2009年開校)

★小学校

大阪市立

・西九条小学校 - 西九条4-3-41
・四貫島小学校 - 四貫島2-16-29
・島屋小学校 - 島屋2-9-36
・伝法小学校 - 伝法3-13-10
・梅香小学校 - 梅香3-17-29
・高見小学校 - 高見1-3-35
・酉島小学校 - 酉島2-5-12
・春日出小学校 - 春日出中1-13-23

●区内に本社を置く企業

・ハーマン
・大日本塗料

●観光スポット・名所・施設

・ユニバーサル・スタジオ・ジャパン
・正蓮寺
・西念寺
・安治川トンネル
・大阪市環境局舞洲工場(フリーデンスライヒ・フンダートヴァッサーにより設計)
・大阪市立此花図書館
・クレオ大阪西(大阪市立男女共同参画センター西部館)
・舞洲インフィニティサーキット

●出身有名人

・よゐこ(お笑いコンビ)
・森田幸一(元プロ野球選手)
・草川祐馬(俳優)
・横山裕(関ジャニ∞)
・中内功(ダイエー創業者)

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かつてはとても重要な「港(ばしょ)」だったそうです・・・パート11

続いては、「大正区」についてです。

●大正区について

大正区(たいしょうく)は、大阪市を構成する24区のうちのひとつ。

区民のおよそ4分の1が沖縄県出身者という地区であり、平尾などは特に多いことで有名。沖縄料理の店が多くあるほか、住宅の門にシーサーが設置されていたり、敷地内にゴーヤーが植えてある住宅も少なくない。

大正区
たいしょうく 国  日本
地方 近畿地方
都道府県 大阪府
市 大阪市
団体コード 27108-0
面積 9.43km²

総人口 71,071人
(推計人口、2009年6月1日)
人口密度 7,540人/km²
隣接自治体
行政区 大阪市:西区、港区、浪速区
西成区、住之江区
区の木 
区の花 つつじ

●地名の由来について

大正区の区名は、木津川に架かる大正橋(たいしょうばし)から命名された[1]。区名を制定するにあたり住民に区名を募集した際「大正橋区」を希望する声が多くあがり、「大正橋区」では長いとして最終的に大正区の名称に決定した。

また区内の各地域の地名には、以下のような由来がある。

三軒家の地名は、江戸時代初期の開発当時に3軒の民家があったことが由来となっている。三軒家は木津勘助(中村勘助)によって開発された。

北村および泉尾(いずお)の地名は、江戸時代にこの地を開発した北村六右衛門に由来する。北村は姓をそのまま取り、また泉尾は北村六右衛門の出身地・和泉国大鳥郡踞尾(つくの)村(現在の堺市西区津久野町)から、和泉国の「泉」と踞尾村の「尾」を組み合わせて命名された。

北恩加島(きたおかじま)・南恩加島(みなみおかじま)・千島・小林の地名は、江戸時代にこの地を開発した岡島嘉平次に由来する。北恩加島・南恩加島については、開発者・岡島嘉平次への敬意を示すため、この地を担当していた代官が「岡島」を「恩加島」の表記に変更した。また千島および小林は、岡島嘉平次の出身地・摂津国東成郡千林村(現在の大阪市旭区千林)からとっている。

平尾の地名は、江戸時代にこの地を開発した平尾与左衛門に由来する。

船町および鶴町の地名は、万葉集の和歌から町名がとられている。船町や鶴町など大正区南部については、明治時代以降に埋め立て・開発がすすめられた町である。なおこの地にはかつて鶴浜通・福町の地名もあり、これらの地名も万葉集からとられていたが、住居表示の実施によりいずれも鶴町に統合される形で姿を消している。

●地理

大正区は、かつての淀川水系と大和川水系により運ばれた土砂により出来た大阪湾の三角州の1つであり、運河により更に3つに分かれている。

北を頂点として、南の辺が約2.8km、南北の長さが約4kmの三角形の形をしている。東と南に木津川、西に尻無川が流れ、西端は大阪湾に接している。北端に、西日本旅客鉄道(JR西日本)と大阪市営地下鉄の大正駅がある。また、南北の目抜き通りに大正通り、東西に国道43号が通る。

●歴史

江戸時代初期には三角州が点在する河口であり、三軒家(かつては姫島と呼ばれ、家が三軒しかなかったところからそう名付けられた町名)と難波島(難波の沖にある島であるところから:難波町→現在の三軒家の一部)だけだったものが、江戸時代後期になると新田開発によりほぼ現在の形になる。新田開墾は願書を1698年8月(元禄11年)に提出、同年9月に許可された。町民(中村勘助、北村六右衛門、岡島嘉平次など)が行い、現在の町名はその開墾した人に由来する。工事としてはまず堤防予定地の内側を掘り下げて溝を造り、その上げ土で堤防を築いて海水の侵入を防ぐ。この後堤防内を新田に開拓する。新田の雨水などは、一時溝にためて、干潮のときは堤防の水門をあけて排水し、満潮のときは水門を通じて海水の侵入を防いだ。

1883年(明治16年)、三軒家にあった大阪紡績会社(現:東洋紡績)がイギリスより日本で初めての蒸気式の紡績機を輸入し、大阪を日本一の紡績工業都市へと押し上げ「東洋のマンチェスター」とも呼ばれるきっかけを作った。また堀江など長堀沿いにあった材木市場が手狭になり、千島や小林に大きな貯木場が作られた。鶴町(現在の鶴町1丁目、船町渡船場付近)にはゼネラルモーターズの自動車工場(1927年から1941年まで)が、船町には中山製鋼所の製鉄所や日立造船などの造船所も作られ、近郊農村は阪神工業地帯の重工業集積地に姿を変えた。また、こうした工場などでの労働のために、沖縄からの移住者が多く集まった。川沿いの工場には大きな船が着岸するため、大正区を取り囲む川には(区の北端の大正橋などを除いて)橋は掛けられず、渡船が対岸とを結んでいた。市内からは大正橋を通り市電が鶴町までを結んでいた。この大正橋は1915年(大正4年)に開通した。

大正区の区域は1897年(明治30年)に大阪市に編入し、当初は西区に属した。その後1925年(大正14年)西区から港区に区名変更し、1932年(昭和7年)に港区から分区され大正区が発足した。

第一次世界大戦時には、小林付近にドイツ軍捕虜を、第二次世界大戦時には新千歳にアメリカ軍捕虜を収容したと言われる収容所があった。第二次世界大戦時、大正区全域が大阪大空襲により壊滅的な被害を出したが、一方で現在の大正中央中学校(当時大正尋常高等小学校と言われていた[2] )[3]附近にあった高射砲陣地にあった砲は、B29を1機撃墜させるなどの戦果を挙げている。[4]

工業化による地下水くみあげのために地盤沈下が起こり、洪水や高潮に弱くなったほか浸水被害が深刻なため、第二次世界大戦後になって貯木場や市街地を削って川を広げ大正内港を作る一方、出た土砂で区内に盛り土を行い、大正運河なども埋め立てられた。1980年代以降、産業構造の変化で重工業が振るわず中小の工場も廃業するものが出る一方、その跡地に大型店舗が立地したり、川沿いの立地を生かしたレストランやマンションの用地として活用されているものもある。

・1930年(昭和5年) - 区内で初めての市バスが運行する。(野田阪神~鶴町)
・1934年(昭和9年) - 小林町に大正消防署を新設する。
・1940年(昭和15年) - 防潮堤が完成する。(尻無川・木津川)
・1941年(昭和16年) - 防潮水門九ヵ所完成する。
・1943年(昭和18年) - 泉尾警察署を大正警察署と改称する。
・1946年(昭和21年) - 大正区商店街連盟結成する。大正区防潮本部設置する。(水防団結成)
・1955年(昭和30年) - 洪水対策としての防潮堤竣工。
・1961年(昭和36年) - 天王寺 - 西九条間の国鉄大阪環状線開通する。大正駅開設される。
・1970年(昭和45年) - 国道43号線・阪神高速西大阪線開通する。
・1972年(昭和47年) - 大正(ごみプレス)工場完成する。
・1975年(昭和50年) - 第一回大正区民祭り開催される。
・1995年(平成7年) - なみはや大橋開通する。
・1997年(平成9年) - 大阪市営地下鉄長堀鶴見緑地線大正駅開通する。
・2003年(平成15年) - 千歳橋完成する。

●大阪府議会議員

大正区単独で1つの選挙区(大正区選挙区)を有し、定数は1人。

。小谷みすず(日本共産党・4期目)

●交通

前述のとおり、大正区は鉄道の便が悪く、区内には大正駅が北端に存在するのみである。そのため、大正区の交通手段は大阪市営バスの利用が主流である。南部の鶴町地区(鶴町四丁目停留所)と大正駅(大正橋停留所)との間は早朝から深夜まで高頻度の運行を確保している。昼間でも待たずに乗れるほどの本数を確保しており、特に朝ラッシュ時の大運橋通-大正橋間は、1分未満の間隔で運行している。これは、朝夕のラッシュ時でも双方向の需要が見込めること、大正区は南北に長く大正通がその中央を背骨状に通っており、バス路線を集約しやすいことがその理由である。なお、大正区のバスについては、大阪市営バス鶴町営業所を参照のこと。阪神なんば線は下りの木津川を一瞬だけ通過する。

なお、大阪市交通局では、長堀鶴見緑地線を鶴町地区まで延伸する計画がある。

●交通

★鉄道

・JR西日本
・大阪環状線
・大正駅
・大阪市交通局
・長堀鶴見緑地線
・大正駅

★道路

・阪神高速道路
・17号西大阪線
・大正東出入口 - 大正西出入口
・国道43号
・大浪通
・大正通
・海岸通(大阪府道5号大阪港八尾線)

★渡船

大正区は河川や運河などの水路に囲まれた地域であるため、公営渡船が数多く運航されている。歩行者及び自転車専用で、運賃は無料。港湾局による木津川渡以外は大阪市建設局による運航である(大阪市には全部で8箇所の公営渡船があるが、その内7箇所が大正区と関わりがある)。

渡船については大阪市の公営渡船を参照。

●施設

・昭和山(千島公園)
・大阪市立大正図書館
・IKEA鶴浜
・アゼリア大正
・千島ガーデンモール
・大正病院

★かつて存在した施設

・木津川飛行場 - 伊丹空港開業に伴い、機能の大部分を移転したが、のちに廃港。
・大阪俘虜収容所 - 第一次世界大戦時の1914年(大正3年)11月11日にドイツ軍捕虜760名が収容された。そののち、1917年(大正6年)2月に閉鎖され、似島(広島市南区)へ移転した。

●教育

★高等学校

・大阪市立泉尾工業高等学校
・大阪府立泉尾高等学校
・大阪府立大正高等学校

★中学校

・大阪市立
・大正東中学校
・大正中央中学校
・大正西中学校
・大正北中学校

★小学校

大阪市立ふとじ

・三軒家西小学校
・泉尾東小学校
・中泉尾小学校
・北恩加島小学校
・南恩加島小学校
・鶴町小学校
・泉尾北小学校
・平尾小学校
・三軒家東小学校
・小林小学校
・鶴浜小学校

●出身者

・市口政光 - レスリング選手、東京オリンピック金メダリスト
・大沢あかね - アイドル
・桂三枝 - 落語家(堺市生まれ、大正区育ち)
・具志堅幸司 - 体操選手、ロサンゼルスオリンピック金メダリスト
・桟原将司 - 阪神タイガース投手
・妹尾和夫 - ラジオパーソナリティ・俳優
・九十九一 - 俳優
・中田ボタン - 漫才師
・ぼんちおさむ - 漫才師
・前田日明 - プロレスラー
・萬田久子 - 女優
・柳本晶一 - 全日本女子バレー監督
・山田雅人 - タレント

●大正区にある企業

・丸十服装(業務用ユニフォームの製造・販売)
・中山製鋼所
・ショベル工業
・大阪製鐵
・ウエックス本社(各種自動販売機の管理運営など)

●出典

1. 大正橋西詰めの記念碑の記述より
2. 「大正区の歴史を語る」 大正区の歴史を語る会事務局編 発行 2005年p.68
3. 「大正区の歴史を語る」 大正区の歴史を語る会事務局編 発行 2005年p.43
4. 「大正区の歴史を語る」 大正区の歴史を語る会事務局編 発行 2005年p.68p.43

●参考資料

・「大正区の歴史を語る」 大正区の歴史を語る会事務局編 発行 2005年

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かつてはとても重要な「港(ばしょ)」だったそうです・・・パート10

続いては、大阪港は、港区、大正区、此花区、住之江区に位置しており、一部西区を含むそうです。それでは、港区、大正区、此花区、住之江区と西区について順次、書いていきたいと思います。

まずは、「港区」からです。

●港区 (大阪市)について

港区(みなとく)は、大阪市を構成する24区のうちのひとつ。

港区
みなとく 国  日本
地方 近畿地方
都道府県 大阪府
市 大阪市
団体コード 27107-1
面積 7.90km²

総人口 83,853人
(推計人口、2009年6月1日)
人口密度 10,610人/km²
隣接自治体
行政区 大阪市:此花区、西区
大正区、住之江区
区の木 
区の花 ヒマワリ、サクラ

●隣接している区

・此花区
・西区
・大正区
・住之江区

●歴史

かつては淀川河口の三角州であり無数の小島からなっていたが、江戸時代に八幡屋や湊屋といった商人らの手により新田として農地開発された。

明治以降、現在の港区はかなり早い時期に大阪市に併合され、天保山周辺において大阪港の開発が始まった。大阪港は紆余曲折の末昭和初期に完成、港の周辺や港へ伸びる市電沿線は新興市街地・工業地帯として栄え、遊園地や運動場など多くのレジャー施設も誕生した。

港区は戦前は大阪市でも最も多い人口を抱えていたが、大阪大空襲でもっとも被害の大きな地域にもなった。戦後は地下鉄中央線や国鉄大阪環状線が通り便利になった。大阪港はその機能を天保山から南港(咲洲)などに移したが、天保山周辺はウォーターフロント開発で海遊館などが誕生しレジャー地区に変貌しつつある。

・1925年 北区・西区から分離。
・1932年 大正区を分離。
・1943年 旧九条村を西区に分離。

●マスメディア

・ラジオ大阪(弁天一丁目)
●交通

★鉄道

・JR西日本
・大阪環状線
・弁天町駅
・大阪市営地下鉄
・中央線
・大阪港駅 - 朝潮橋駅 - 弁天町駅

★道路

・阪神高速道路
・4号湾岸線
・天保山出入口
・5号湾岸線
・天保山出入口
・16号大阪港線
・波除出入口 - 朝潮橋パーキングエリア - 天保山出入口
・国道43号
・みなと通(国道172号)
・中央大通
・海岸通・なみはや大橋(大阪府道5号大阪港八尾線)

★公営渡船

歩行者及び自転車専用で、無料。

・安治川
・天保山渡太字 港区築港三丁目 - 此花区桜島三丁目 日中30分毎。
・尻無川
・甚兵衛渡ふとじ 大正区泉尾七丁目 - 港区福崎一丁目 日中15分毎。

●教育

★高等学校

・大阪市立市岡商業高等学校
・大阪府立港高等学校
・大阪府立市岡高等学校

★中学校

大阪市立

・市岡中学校
・港中学校
・港南中学校
市岡東中学校
・築港中学校

★小学校

大阪市立

・市岡小学校
・磯路小学校
・三先小学校
・田中小学校
・八幡屋小学校
・波除小学校
・築港小学校
・南市岡小学校
・港晴小学校
・弁天小学校
・池島小学校

●名所・旧跡・観光スポット・施設

・海遊館
・サントリーミュージアム
・天保山 - 「日本一低い山」とされる。
・交通科学博物館
・大阪市立港図書館

●出身有名人

・坂田利夫
・安藤忠雄
・野茂英雄(元近鉄バファローズ投手)
・西川きよし(出生地は高知県高知市)
・河本栄得

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かつてはとても重要な「港(ばしょ)」だったそうです・・・パート9

続いては、中核国際港湾についてです。

●中核国際港湾について

中核国際港湾(ちゅうかくこくさいこうわん)とは、中枢国際港湾の機能を補完するとともに、地域のコンテナ輸送に対応した国際海上コンテナターミナルを有する港湾。北米・欧州などと結ぶ長距離基幹航路の航路実現性を有する港湾として重点整備されている。

特定重要港湾、重要港湾など法制上の裏づけを持った港格ではなく、旧運輸省(現国土交通省が1995年に策定した港湾政策「大交流時代を支える港湾」に明記された通称。3大湾・北部九州地域の中枢国際港湾と共に、コンテナだけを扱う埠頭の配置・整備計画を法定の港湾計画に記載することのできる資格を有する港湾を指す。

従って、中枢国際港湾・中核国際港湾以外の港湾では、コンテナを取り扱う埠頭・施設であっても、計画・整備面からは国際海上コンテナターミナルとはみさなれず、一般貨物も扱う多目的国際ターミナルという位置づけで、一定の差別化がなされている。

現在、下記の8地域・8港が指定されている。(コンテナ取扱個数は2008年速報値)

北海道

・苫小牧港(北海道)-174,583TEU(国内9位)

東東北

・仙台塩釜港(宮城県)-98,054TEU(国内14位)

北関東

・茨城港(茨城県)-13,581TEU(国内43位)

日本海中部

・新潟港(新潟県)-157,501TEU(国内12位)

駿河湾沿岸

・清水港(静岡県)-411,362TEU(国内8位)

中国

・広島港(広島県)-167,277TEU(国内10位)

南九州

・志布志港(鹿児島県)-72,433TEU(国内18位)

沖縄

・那覇港(沖縄県)-74,574TEU(国内16位)

※TEU(twenty-foot equivalent units) は20フィートコンテナ1個の換算値。詳しくは→コンテナを参照。

※上記8港中、仙台塩釜、清水の2港に、長距離基幹航路に就航するフルコンテナ船が定期寄港している。(2007年9月現在)

● 関連項目

・スーパー中枢港湾
・中枢国際港湾
・特定重要港湾
・重要港湾

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かつてはとても重要な「港(ばしょ)」だったそうです・・・パート8

先ほどは、特定重要港湾-重要港湾-地方港湾について書きました。つづいては、スーパー中枢港湾は、国家的見地でみた日本のコンテナ港湾の重要度を示す、中枢国際港湾-中核国際港湾の上位概念と位置づけられるそうです。
それでは、中枢国際港湾-中核国際港湾について順に書きたいと思います。

まずは、中枢国際港湾からです。

●中枢国際港湾について

枢国際港湾(ちゅうすうこくさいこうわん)とは、日本の中枢的な国際コンテナ港湾で、「国際ハブ港湾」とも呼ばれる。北米、欧州などと結ぶ長距離基幹航路など世界に巡らされた航路網を有し、高頻度の寄港サービスが提供される港湾で、大水深・高規格な国際海上コンテナターミナル群を各地域内に有する。

特定重要港湾、重要港湾など法制上の裏づけを持った港格ではなく、旧運輸省(現国土交通省が1995年策定の港湾政策「大交流時代を支える港湾」で明記された通称。全国8地域の中核国際港湾と共に、コンテナだけを扱う埠頭の配置・整備計画を法定の港湾計画に記載することのできる資格を有する港湾を指す。

その後、東アジア主要港の台頭により国内主要港の相対的な地位低下が止まらないため、国土交通省が「選択と集中」の観点から2004年に中枢国際港湾の一部を選抜する形でスーパー中枢港湾を指定。このため、現在は日本港湾における「国際ハブ港湾(としての可能性を国内で有する港湾)」としては、一般にスーパー中枢港湾のことを指すようになった。

●一覧

現在、下記の4地域・11港が指定されている(外貿コンテナ取扱個数・ランキングは2008年速報値)。

※TEU(twenty-foot equivalent units) は20フィートコンテナ1個の換算値。詳しくは→コンテナを参照。
※上記11港中、東京、横浜、名古屋、四日市、神戸、大阪、博多の7港に、長距離基幹航路に就航するフルコンテナ船が定期寄港している。(2007年9月現在)

東京湾

・東京港-3,727,300TEU(国内1位)(スーパー中枢港湾)
・横浜港-3,203,871TEU(国内2位)(スーパー中枢港湾)
・川崎港-30,189TEU(国内28位)

伊勢湾

・名古屋港-2,630,517TEU(国内3位)(スーパー中枢港湾)
・四日市港-166,492TEU(国内11位)(スーパー中枢港湾)

大阪湾

・神戸港-2,040,285TEU(国内4位)(スーパー中枢港湾)
・大阪港-1,950,006TEU(国内5位)(スーパー中枢港湾)
・堺泉北港-9,459TEU(国内46位)

北部九州

・下関港 -73,510TEU(国内17位)
・北九州港-452,670TEU(国内7位)
・博多港-716,215TEU(国内6位)

●脚注

●関連項目

・スーパー中枢港湾
・中核国際港湾
・特定重要港湾
・重要港湾

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かつてはとても重要な「港(ばしょ)」だったそうです・・・パート7

続いては、地方港湾について書きます。

●地方港湾について

地方港湾(ちほうこうわん)は、日本における港湾の一区分。港湾法第2条第2項において「重要港湾以外の港湾」が地方港湾と定義されており、2009年4月現在871港が存在している。1950年(昭和25年)の港湾法制定時に地方港湾の制度が新設された。

●概要

重要港湾が国際・国内海上輸送網の拠点として位置づけられているのに対し、地方港湾は当該地域の海上交通拠点(※)としての性格が強い。港湾整備の面から見ると、地方港湾は重要港湾よりも優先度が低いため、整備費用に係る国庫補助金は重要港湾のそれと比べて、低率に設定されている。

地方港湾が備えるべき港湾施設等は必ずしも法令等で明示されていないが、例えば係留施設を見ると岸壁(-4.5m超の係留施設)ではなく物揚場(-4.5m未満の係留施設)が主流となっている。

地方港湾の中には湖や河川内に所在するものがある。前者には青森県の子ノ口港、休屋港(十和田湖沿岸)、福島県の翁島港、湖南港(猪苗代湖沿岸)、茨城県の土浦港(霞ケ浦沿岸)、滋賀県の大津港、長浜港、彦根港、竹生島港(琵琶湖沿岸)が、後者には茨城県の潮来港、軽野港(利根川沿岸)や京都府の伏見港(宇治川沿岸)がある。

地方港湾のうち、法制上特定の機能、位置付けがなされている港湾には以下のものがある。

★避難港

暴風雨の際に小型船舶が避難のため停泊することを主目的とし、防波堤など外郭施設の整備で国の支援が手厚い港湾。2009年4月現在、全国に36港ある。

★56条港湾

港湾区域が設定されておらず、都道府県知事が水域を公告した港湾。地方港湾のなかでも特に小規模なものや、今後開発が見込まれるものなどが該当する。2009年4月現在、全国に61港ある。

●課題

地方港湾の中には、フェリー・定期貨物便の寄港地として、地域の海上交通拠点として機能している港湾もあるが、旅客船・貨物船がほとんど入港することなく、漁船の利用が中心となっている港湾も少なくない。このように、海上交通拠点として幅広い用途を持つ港湾としてというよりも、実質的に漁港として利用される傾向が強いという課題を地方港湾は抱えている。この背景には、港湾法制定時に港湾としての指定を判断した時点において、漁港よりも港湾の方が、国庫補助金による整備がしやすかったという事情があるとの指摘もある。

●統合への動き

そうした中、大分県は2006年、東国東郡の町村が合併して国東市として発足したことを契機に、東国東郡内の地方港湾8港を国東港1港に統合した。これが初の地方港湾統合の事例であり、地方港湾の統合を国土交通省が推進していることもあり、市町村合併の動きに対応して地方港湾の統合も進んでいる。地方港湾数は2005年度当初時点で951港あったので、2009年4月までの4年間で8%ほど数を減らしている。

●関連項目

・港湾
・特定重要港湾
・重要港湾
・避難港
・特定地域振興重要港湾

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かつてはとても重要な「港(ばしょ)」だったそうです・・・パート6

続いては、重要港湾について書きたいと思います。

●重要港湾について

重要港湾(じゅうようこうわん)は、日本における港湾の一区分。港湾法第2条第2項において「国際海上輸送網又は国内海上輸送網の拠点となる港湾その他の国の利害に重大な関係を有する港湾で政令で定めるもの」と定義されており、2009年1月現在126港が指定されている。昭和25年(1950年)の港湾法制定時に重要港湾の制度が新設された。

●概要

重要港湾は海上輸送網の拠点と位置づけられているが、後背地に工業地帯を有しているものが多く、日本の産業政策上、重要性の高い港湾が重要港湾とされる傾向が強いことを示している。重要港湾の整備を促進するため、整備費用に係る国庫補助金は地方港湾のそれと比べて、高率に設定されている。

重要港湾が備えるべき港湾施設等は必ずしも法令等で明示されていないが、例えば係留施設を見ると、地方港湾では物揚場(-4.5m未満の係留施設)が主流であるのに対し、重要港湾では物揚場もあるが岸壁(-4.5m以上の係留施設)が主体となっているように、一般により高スペックの港湾施設が重要港湾には必要だとされている。

重要港湾の中でも特に重要なものについては、特定重要港湾として指定を受けている。

新たな港湾開発などや港湾統合などで、港数は時代とともに変動している。近年では1999年6月に中津港(大分県)が地方港湾から重要港湾に昇格。逆に2000年4月には石狩港(北海道)、大湊港(青森県)、福井港(福井県)、八幡浜港(愛媛県)、青方港(長崎県)、水俣港(熊本)の6港が港格と利用実態との乖離などの理由で地方港湾に格下げされた。ただ、このときの格下げは地元の反発が強かったため、旧運輸省が特定地域振興重要港湾制度を創設、一定の配慮を示している。

●重要港湾一覧

★北海道

宗谷支庁

・稚内港(稚内市/1957年5月20日)

網走支庁

・網走港(網走市/1978年4月15日)
・紋別港(紋別市/1975年4月22日)

根室支庁

・根室港(根室市/1978年4月15日)

釧路支庁

・釧路港(釧路市/1951年9月22日)

十勝支庁

・十勝港(広尾町/1970年5月1日))

胆振支庁

・苫小牧港(苫小牧港管理組合/1963年4月1日)※特定重要港湾
・室蘭港(室蘭市/1951年1月19日)※特定重要港湾

渡島支庁

・函館港(函館市/1951年1月19日)

後志支庁

・小樽港(小樽市/1951年1月19日)

石狩支庁

・石狩湾新港(石狩湾新港管理組合/1973年4月16日)

留萌支庁

・留萌港(留萌市/1952年2月1日)

★東北

青森県

・青森港(青森県/1951年1月19日)
・むつ小川原港(青森県/1977年9月13日)
・八戸港(青森県/1951年1月19日)

岩手県

・久慈港(岩手県/1975年4月22日)
・宮古港(岩手県/1951年1月19日)
・釜石港(岩手県/1951年9月22日)
・大船渡港(岩手県/1959年6月11日)

秋田県

・能代港(秋田県/1975年5月26日)
・秋田港(秋田県/1951年1月19日)
・船川港(秋田県/1951年1月19日)

宮城県

・石巻港(宮城県/1964年4月11日)
・仙台塩釜港(宮城県/1951年1月19日)※特定重要港湾

山形県

・酒田港(山形県/1951年1月19日)

福島県

・相馬港(福島県/1974年4月23日)
・小名浜港(福島県/1951年1月19日)

★関東

茨城県

・茨城港(茨城県/1983年3月29日)
・鹿島港(茨城県/1963年4月1日)

千葉県

・木更津港(千葉県/1968年4月17日)
・千葉港(千葉県/1957年5月20日)※特定重要港湾

東京都

・東京港(東京都/1951年1月19日)※特定重要港湾、スーパー中枢港湾

神奈川県

・横浜港(横浜市/1951年1月19日)※特定重要港湾、スーパー中枢港湾
・川崎港(川崎市/1951年1月19日)※特定重要港湾
・横須賀港(横須賀市/1951年1月19日)

★中部

新潟県

・新潟港(新潟県/1951年1月19日)※特定重要港湾
・直江津港(新潟県/1951年9月22日)
・両津港(新潟県/1951年9月22日)
・小木港(新潟県/1974年4月23日)

富山県

・伏木富山港(富山県/1951年1月19日)※特定重要港湾

石川県

・七尾港(石川県/1951年1月19日)
・金沢港(石川県/1964年4月1日)

福井県

・敦賀港(福井県/1951年1月19日)

静岡県

・清水港(静岡県/1951年1月19日)※特定重要港湾
・田子の浦港(静岡県/1964年4月1日)
・御前崎港(静岡県/1975年4月22日)

愛知県

・名古屋港(名古屋港管理組合/1951年1月19日)※特定重要港湾、スーパー中枢港湾
・衣浦港(愛知県/1957年5月20日)
・三河港(愛知県/1964年4月1日)

三重県

・四日市港(四日市港管理組合/1951年1月19日)※特定重要港湾、スーパー中枢港湾
・尾鷲港(三重県/1967年6月1日)
・津松阪港(三重県/1971年4月1日)

★近畿

京都府

・舞鶴港(京都府/1951年1月19日)

大阪府

・堺泉北港(大阪府/1959年6月11日)※特定重要港湾
・大阪港(大阪市/1951年1月19日)※特定重要港湾、スーパー中枢港湾
・阪南港(大阪府/1968年4月17日)

兵庫県

・神戸港(神戸市/1951年1月19日)※特定重要港湾、スーパー中枢港湾
・姫路港(兵庫県/1951年1月19日)※特定重要港湾
・尼崎西宮芦屋港(兵庫県/1951年9月22日)
・東播磨港(兵庫県/1964年2月1日)

和歌山県

・和歌山下津港(和歌山県/1951年1月19日)※特定重要港湾
・日高港(和歌山県/1983年10月4日)

★中国

岡山県

・岡山港(岡山県/1964年4月1日)
・宇野港(岡山県/1951年1月19日)
・水島港(岡山県/1960年6月9日)※特定重要港湾

広島県

・福山港(広島県/1963年4月1日)
・尾道糸崎港(広島県/1951年1月19日)
・呉港(呉市/1951年1月19日)
・広島港(広島県/1951年1月19日)※特定重要港湾

鳥取県

・鳥取港(鳥取県/1975年4月22日)
・境港(境港管理組合/1951年1月19日)(港域は鳥取・島根両県に跨る)

島根県

・浜田港(島根県/1957年5月20日)
・三隅港(島根県/1982年11月9日)
・西郷港(島根県/1959年6月11日)

山口県

・下関港(下関市/1951年1月19日)※特定重要港湾
・小野田港(山口県/1960年6月9日)
・宇部港(山口県/1951年1月19日)
・三田尻中関港(山口県/1959年6月11日)
・徳山下松港(山口県/1951年9月22日)※特定重要港湾
・岩国港(山口県/1952年2月1日)

★四国

徳島県

・徳島小松島港(徳島県/1951年1月19日)
・橘港(徳島県/1965年4月1日)

香川県

・坂出港(坂出市/1951年9月22日)
・高松港(香川県/1951年1月19日)

愛媛県

・宇和島港(愛媛県/1960年6月9日)
・松山港(愛媛県/1951年1月19日)
・今治港(今治市/1951年1月19日)
・東予港(愛媛県/1964年4月1日)
・新居浜港(新居浜港務局/1951年9月22日)
・三島川之江港(愛媛県/1971年4月1日)

高知県

・高知港(高知県/1951年1月19日)
・須崎港(高知県/1965年4月1日)
・宿毛湾港(高知県/1986年6月17日)

★九州・沖縄

福岡県

・北九州港(北九州市/1951年1月19日)※特定重要港湾
・博多港(福岡市/1951年1月19日)※特定重要港湾
・苅田港(福岡県/1951年1月19日)
・三池港(福岡県/1951年9月22日)

佐賀県

・唐津港(佐賀県/1951年1月19日)
・伊万里港(佐賀県/1951年1月19日)

長崎県

・長崎港(長崎県/1951年1月19日)
・佐世保港(佐世保市/1951年1月19日)
・厳原港(長崎県/1951年9月22日)
・郷ノ浦港(長崎県/1959年6月11日)
・福江港(長崎県/1951年9月22日)

熊本県

・熊本港(熊本県/1974年4月23日)
・八代港(熊本県/1959年6月11日)
・三角港(熊本県/1951年1月19日)

大分県

・中津港(大分県/1999年6月4日)
・別府港(大分県/1951年9月22日)
・大分港(大分県/1951年1月19日)
・津久見港(大分県/1951年9月22日)
・佐伯港(大分県/1970年5月1日)

宮崎県

・細島港(宮崎県/1951年1月19日)
・宮崎港(宮崎県/1973年4月16日)
・油津港(宮崎県/1952年2月1日)

鹿児島県

・鹿児島港(鹿児島県/1951年1月19日)
・志布志港(鹿児島県/1969年4月1日)
・川内港(鹿児島県/1970年5月1日)
・西之表港(鹿児島県/1960年6月9日)
・名瀬港(鹿児島県/1954年7月2日)

沖縄県

・那覇港(那覇港管理組合/1972年5月15日)
・運天港(沖縄県/1972年5月15日)
・金武湾港(沖縄県/1974年4月23日)
・中城湾港(沖縄県/1974年4月23日)
・平良港(宮古島市/1972年5月15日)
・石垣港(石垣市/1972年5月15日)

●関連項目

・港湾
・特定重要港湾
・地方港湾
・避難港
・スーパー中枢港湾
・中枢国際港湾
・中核国際港湾

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かつてはとても重要な「港(ばしょ)」だったそうです・・・パート5

大阪港は、スーパー中枢港湾(スーパーちゅうすうこうわんということは先ほど書きましたが、法令上の呼び名は「指定特定重要港湾」だそうです。
それでは、続いては特定重要港湾-重要港湾-地方港湾という港湾法上の港格について書いていきたいと思います。
特定重要港湾-重要港湾-地方港湾と順に書いていきます。

まずは、「特定重要港湾」からです。

●特定重要港湾について

特定重要港湾(とくていじゅうようこうわん)は、重要港湾のうち国際海上輸送網の拠点として特に重要として政令により定められている港湾(港湾法2条2号)。全国の23港が指定されている。また国際コンテナ輸送上特に重要なものを「指定特定重要港湾」(スーパー中枢港湾)として指定している。

●特定重要港湾一覧

※カッコ内は港湾管理者/特定重要港湾指定年月日

北海道

・苫小牧港(苫小牧港管理組合/1981年5月26日)
・室蘭港(室蘭市/1965年4月1日)

東北

・仙台塩釜港(宮城県/2001年4月1日)

関東

・東京港(東京都/1951年9月22日) ※指定特定重要港湾
・川崎港(川崎市/1951年9月22日)
・横浜港(横浜市/1951年9月22日) ※指定特定重要港湾
・千葉港(千葉県/1965年4月1日)

北陸

・新潟港(新潟県/1967年6月1日)
・伏木富山港(富山県/1986年6月17日)

東海

・清水港(静岡県/1952年2月1日)
・名古屋港(名古屋港管理組合/1951年9月22日) ※指定特定重要港湾
・四日市港(四日市港管理組合/1952年2月1日) ※指定特定重要港湾

関西

・大阪港(大阪市/1951年9月22日) ※指定特定重要港湾
・堺泉北港(大阪府/1962年7月1日)
・和歌山下津港(和歌山県/1965年4月1日)
・神戸港(神戸市/1951年9月22日) ※指定特定重要港湾
・姫路港(兵庫県/1967年6月1日)

中国

・水島港(岡山県/2003年4月1日)
・広島港(広島県/1992年6月3日)
・徳山下松港(山口県/1965年4月1日)
・下関港(下関市/1951年9月22日)

九州

・北九州港(北九州市/1951年9月22日)
・博多港(福岡市/1990年7月20日)

●関連項目

・国土交通省
・重要港湾
・地方港湾
・スーパー中枢港湾
・中枢国際港湾
・中核国際港湾
・特定港

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かつてはとても重要な「港(ばしょ)」だったそうです・・・パート4

先ほどは、スーパー中枢港湾について書きました。続いては、阪府大阪市住之江区にある人工島、「咲洲(さきしま)」について書いていきたいと思います。

●咲洲(さきしま)

咲洲(さきしま)とは、大阪府大阪市住之江区にある人工島。

●概要

大阪港(大阪南港)に造成された埋立地で、総面積は937万m²。咲洲北部は「咲洲コスモスクエア地区」と呼ばれ、アジア太平洋トレードセンター(ATC)や、大阪ワールドトレードセンタービルディング(WTC)などの大規模な施設が集積している。

バブル全盛期の1988年に決定された「テクノポート大阪」計画に基づき、大阪市主体で数々の巨大施設が建設された。しかし、90年代の不景気でそのほぼ全てが破綻し、第3セクターによるムダ遣い、ハコモノ行政の象徴となった上、大阪市の財政に大きな負担を与えている。

2000年代に入ってから土地の定期借地権方式による分譲を導入し、コスモスクエア駅前では大規模なマンション建設されるようになり、商業施設や大学の進出も進んでいる。

●施設

★複合施設など

・アジア太平洋トレードセンター(ATC)
・インテックス大阪
・A-museum(2007年3月31日にライカビルに新設)
・おおさかフードアウトレット
・大阪ワールドトレードセンタービルディング(WTC、愛称:コスモタワー)
・カリヨンプラザ
・Zepp大阪
・なにわの海の時空館
・南港海水遊泳場
・南港ポートタウンショッピングセンター
・ふれあい港館

★宿泊施設

・ハイアットリージェンシー大阪
・ウェルサンピアなにわ(不振のため2008年2月末で閉鎖[1])

★公共施設

・大阪南港野鳥園
・コスモスクエア海浜緑地(シーサイドコスモ)
・南港魚釣り公園
・南港中央公園
・大阪市南港中央野球場
・港大橋緑地公園
・大阪港
・国際フェリーターミナル
・コスモフェリーターミナル
・ATCオズ岸壁(帆船あこがれ専用岸壁、付近はボードウォークとなっている。)
・咲洲運河(咲洲キャナル)
・法務省大阪高等検察庁研修施設(インテックス大阪近くの約2000m²の敷地に6階建ての建物(延べ床面積約2900m²)が建設される予定、2005・年度着工、2007年度完成予定。)
・法務省大阪入国管理局
・大阪府立咲洲高等学校
・大阪市港湾局咲洲緑地管理事務所

●その他

・森ノ宮医療大学(2007年4月に開設、学校法人森ノ宮医療学園が運営する4年制大学)
・金剛学園小学校・中学校・高等学校(2007年7月に移転、在日韓国人系の民族学校。)
・アートグレイス・ウエディングコースト
・コスモスクエア国際交流センター
・桜島神社
・ミズノ本社ビル

●交通機関

★公共交通機関

鉄道

・大阪市交通局 大阪市営地下鉄中央線
・大阪市交通局 南港ポートタウン線(ニュートラム)

路線バス

・大阪市営バス

船舶

・コスモライン(ユニバーサル・シティ・ポート行き客船) ※休航中
・大阪港(南港)
・国際フェリーターミナル
・コスモフェリーターミナル

★道路

・阪神高速道路 4号湾岸線・5号湾岸線
・南港大橋
・大阪港咲洲トンネル
・夢咲トンネル(2000年度着工、2009年8月開通予定)

●周辺

・大阪港
・築港(天保山地区)
・北港
・南港(大阪南港フェリーターミナルなど)
・堺泉北工業地域

●関連項目

・大阪港
・舞洲
・夢洲
・ウォーターフロント

大阪ベイエリアについては、こちらで

http://www.osakabayarea.com/

コスモスクエアについては、こちらで見ることができます。

http://www.cosmosquare-djc.jp/

あくまでも参考までです。ご了承下さい、

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かつてはとても重要な「港(ばしょ)」だったそうです・・・パート3

先ほどは大阪港について書きました。続いては、大阪港は、日本の主要な国際貿易港(五大港)のひとつで、スーパー中枢港湾の指定を神戸港と共に受けているそうです。
それでは、その「スーパー中枢港湾」というものについて書きたいと思います。

●スーパー中枢港湾について

スーパー中枢港湾(スーパーちゅうすうこうわん)とは、日本の特定重要港湾のうち特定国際コンテナ埠頭(次世代高規格コンテナターミナル)の形成により国際競争力の強化を図ることが特に重要なものとして政令により指定されている港湾。法令上の呼び名は「指定特定重要港湾」。

特定重要港湾-重要港湾-地方港湾という港湾法上の港格が、港湾施設整備における国費充当率の違いを規定するのに対し、スーパー中枢港湾は、国家的見地でみた日本のコンテナ港湾の重要度を示す、中枢国際港湾-中核国際港湾の上位概念と位置づけられる。従ってスーパー中枢港湾であっても、岸壁、航路、防波堤などの基本施設整備における国費充当率は、あくまで特定重要港湾としてのそれである。

●概要

細分化され、個別管理されているコンテナターミナルを民間事業者が一体的に運用することによって、国内主要港(五大港)の国際競争力を高めることが目的である。具体的には、管理棟や自動化・IT化された荷役機械を有する、水深15m以深の大水深岸壁を含む連続3バース以上(総延長1000m以上)、奥行き500m以上の規模からなる特定国際コンテナ埠頭(次世代高規格コンテナターミナル)を形成し、港湾コストを現状より3割低減、ターミナル内リードタイムを現状の3-4日から1日程度に短縮させることを目標にしている。

次世代高規格コンテナターミナルの認定運営者(メガターミナルオペレーター)に対しては、対象ターミナルを構成する国・地方公共団体の行政財産(岸壁およびターミナル用地)などの貸付制度や、認定運営者がガントリークレーンや高性能トランスファークレーンなどの荷役機械を調達する際の無利子資金貸付制度が創設されている。

上記のようにスーパー中枢港湾は、港全体を対象とした概念ではなく、あくまで主要港内に複数存在するコンテナターミナルのうちの一部を対象としている点に注意が必要。これは国土交通省が同政策の検討を開始した2002年当時、主要港の一部ターミナルで運営の大規模化、荷役機械・システムのIT化などを先導的・実験的に行うことで次世代高規格コンテナターミナルを育成し、その成果を他のターミナルに順次波及させることを狙いとしていたためである。

しかし、2007年現在、スーパー中枢港湾の対象に選ばれた次世代高規格コンテナターミナルは、2004年に指定された国内5港・5ターミナルのみであり、国内最大のコンテナポートである東京港ではいまだに対象ターミナルが存在しない。

このことは、スーパー中枢港湾関連の個別支援施策が注入されたターミナルが、現在のところごく一部にとどまっていることを意味する。特に日本の製造業・荷主と密接な関係のある日本船社が利用する、専用(埠頭公社)ターミナルへのテコ入れはほぼ皆無なのが現実であり、このため、同政策の実効性について疑問視する声は民間の物流関係者を中心に根強い。

●沿革

現在のアジア主要港(シンガポール港や釜山港)が規模の拡大、サービス向上、コスト低減を進める中、日本の国際コンテナ港湾が国際物流の大動脈たるコンテナ船の基幹航路ネットワークから外れる恐れが高まってきた。仮に基幹航路ネットワークから外れた場合、日本港湾は他国港湾を介した積み替え(トランシップ)による2次輸送(フィーダー輸送)の末端港と化し、リードタイムの増加、コストの上昇などにより、日本の産業競争力や輸入品における国民の生活水準が低下してしまう。

そこで、2002年5月7日に交通政策審議会(港湾分科会)の第1回「物流・産業部会」でスーパー中枢港湾構想の基本的考え方がはじめて提示され、同年11月29日に同分科会において提案された答申「経済社会の変化に対応し、国際競争力の強化、産業の再生、循環型社会の構築などを通じてより良い暮らしを実現する港湾政策のあり方」[1]でまとめられた。

これを受けて、2002年10月7日、国土交通省港湾局・海事局が設置した「スーパー中枢港湾選定委員会」の場で、対象港を選ぶための作業に着手。2次にわたる選考を経て、2004年5月6日の第5回委員会で下記3大湾・6港の指定を条件付きで適当とし、事実上の内定を出した。同年7月23日には指定港の港湾管理者に対し、国土交通大臣がスーパー中枢港湾指定書を交付。対象港内で次世代高規格コンテナターミナル育成に向けた取り組みが本格スタートした。

対象港の選定作業と平行して進められていた支援制度創設・関連法整備についても、2005年7月1日に「港湾の活性化のための港湾法等の一部を改正する法律」の一部(スーパー中枢港湾関係)が施行され、同年7月4日、港湾法第2条の2第1項の規定に基づき国土交通大臣によって指定特定重要港湾を指定。これによりメガターミナルオペレーターに対する行政財産貸付・無利子資金貸付が可能となった。

指定を受けたスーパー中枢港湾では、2007年度から2009年度にかけて上記の目標を達成することを目指している。

●スーパー中枢港湾一覧

・京浜港以下港名太字(東京港・横浜港) - 東京都・横浜市
・伊勢湾(名古屋港・四日市港 )- 名古屋港管理組合・四日市港管理組合
・阪神港(大阪港・神戸港 )- 大阪市・神戸市

指定に当たっては、各港からの要望合戦が熾烈化したため、国土交通省側が「港湾間の連携を重視する」という名目で、3大湾ごとに域内の別個の港を便宜上同一港とみなし、結果として五大港すべてをピックアップした。

このため「京浜港」「阪神港」という呼び名は単なる通称であり、法令上の港名とは別の概念である(たとえばスーパー中枢港湾としての「京浜港」に川崎港は含まれていない。大阪湾においては港則法施行令改正により大阪港・神戸港・尼崎西宮芦屋港の3港が一開港化され、2007年12月1日より港則法・関税法上は阪神港と称されることとなったが、こちらもスーパー中枢港湾としての「阪神港」に尼崎西宮芦屋港は含まれない)。また、近傍の港湾間連携が事実上の指定要件となったことから、博多港、北九州港、清水港、苫小牧港、広島港の各港よりも外貿コンテナ取扱個数が少ない四日市港が、名古屋港のパートナーに加えられ「伊勢湾スーパー中枢港湾」として指定されるといったイレギュラーも生じている。

各港湾の次世代高規格コンテナターミナルと目標取扱個数

・横浜港以下港名太字:本牧埠頭BC突堤地区 - 目標80-100万TEU
・名古屋港:飛島埠頭南側地区 - 目標100万TEU
・四日市港:霞ケ浦北埠頭地区 - 目標80万TEU
・神戸港:ポートアイランド第二期地区 - 目標120万TEU
・大阪港:夢洲地区 - 目標105万TEU

※東京港の次世代高規格コンテナターミナルは未指定(2007年9月現在)。

次世代高規格コンテナターミナルを一体的に運営する認定運営者については、メガターミナルオペレーター#日本への導入を参照

※TEU(twenty-foot equivalent units) は20フィートコンテナ1個の換算値。

TEUについて詳しくはコンテナを参照

●関連項目

・メガターミナルオペレーター
・中枢国際港湾
・中核国際港湾
・特定重要港湾

●出典
1. 経済社会の変化に対応し、国際競争力の強化、産業の再生、循環型社会の構築などを通じてより良い暮らしを実現する港湾政策のあり方(答申)PDF交通政策審議会
2. http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/0000724420.shtml 2007年10月30日付神戸新聞

スーパー中枢港湾については、こちらで見ることができます。参考までです。

http://www.mlit.go.jp/kowan/nucleus_harbor/nucleus_harbor2.html

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かつてはとても重要な「港(ばしょ)」だったそうです・・・パート2

続いては、おもな施設から順に書いていきます。

●おもな施設 について

★築港

最初に完成した港。現在は一部の定期客船・クルーズ客船や在来貨物船を除き、船の出入りは少ない。港湾関係の庁舎や税関などはほとんどが築港にある。安治川を横断する大阪市営渡船の乗り場が天保山公園脇にある。天保山埠頭に隣接してショッピングゾーン「天保山ハーバービレッジ」がある。

利用する施設にもよるが、アクセスは鉄道なら大阪市営地下鉄中央線大阪港駅、道路なら阪神高速道路16号大阪港線天保山出入口が近い。

現在は一帯の再開発が計画されており、高層マンションや商業施設建設の計画が予定されている。

★築港の主な施設

・天保山客船ターミナル
・外航クルーズ客船が寄航する岸壁
・天保山西岸壁(海遊館西はとば)
・キャプテンライン - ユニバーサル・シティ・ポート
・大阪水上バス「サンタマリア」 - 港内周遊
・天保山桟橋
・天保山渡 - 此花区桜島3丁目(USJ付近)
・第1突堤・第2突堤・第3突堤
・在来貨物船用の埠頭、倉庫や工場等

★北港

付近は大正時代から重化学工業地帯として開発され、工業港として整備された。現在は倉庫などが並ぶほか、沖に舞洲・夢洲の埋立地が建設されコンテナ港となっている。また舞洲はスポーツ施設やキャンプ場も人気がある。かつて誘致活動が行われた「大阪オリンピック」はこの二つの埋立地が会場・選手村となる予定だった。

主なアクセスは、鉄道ならJR西日本桜島線(JRゆめ咲線)桜島駅、阪神本線野田駅(大阪市営地下鉄千日前線野田阪神駅、JR東西線海老江駅と隣接)およびJR西日本大阪環状線・桜島線(JRゆめ咲線)西九条駅から大阪市営バス81系統。道路なら阪神高速道路5号湾岸線北港西出入口。

★北港の主な施設

・北港ヨットハーバー
・ライナー埠頭
・コンテナターミナル
・舞洲埠頭
・輸入青果品を主に取り扱うほか、舞洲スポーツアイランドが整備されている。

★南港

咲洲も参照のこと。

昭和初期に住之江沖に計画された埋立地には国際空港を作る構想もあった。埋め立ては戦後本格化し、大阪市が何度も誘致を試みた日本万国博覧会の会場に選定された。[要出典]大阪市の万博誘致計画は「海上の未来都市」がテーマ(後に神戸市がポートピア'81で踏襲)で、無人運転の電車などが想定されていた(ニュートラムはこの計画の名残である)。その後、万博の誘致には成功したものの、会場は大阪府が推す千里丘陵との争いに敗れ、港湾施設の拠点へと方針を変更。弁天埠頭に代わるフェリーターミナルやコンテナ埠頭を設けた。その後、「ポートタウン」の名称のもとで団地建設が進み、相愛大学などの学校、商業施設、公園、なにわの海の時空館がオープンした。

しかし、新たに追加された埋立地に計画された「コスモスクエア」の整備計画(大阪ワールドトレードセンタービルディングなど)は、バブル期に過大な規模にまで拡大された結果、テナントの撤退や土地の分譲不能など思惑がはずれ、その事業費が事業者である大阪市(港湾局)の大きな負担となっている。また橋下徹大阪府知事はワールドトレードセンタービルに大阪府庁の機能を移転することを示唆しており、そのことに関する可否が議論されている。現在は大規模マンション建設や森ノ宮医療大学の進出、法務局の移転など開発が進んでおり、天保山ハーバービレッジ等と合わせて再注目されている。

主なアクセスは、鉄道なら大阪市交通局地下鉄中央線またはニュートラム南港ポートタウン線。道路なら阪神高速道路4号湾岸線南港中出入口または南港南出入口。また築港方面からは大阪港咲洲トンネル、住之江方面からは南港大橋が利用できる。

★南港の主な施設

国際フェリーターミナル

交通:最寄り駅はコスモスクエア駅。
・KF-1 上海フェリー・中日国際輪渡有限公司(日中国際フェリー「新鑑真」)
・- 上海港(上海フェリー「蘇州號」)
・KF-2 パンスターライン
・- 釜山港

コスモフェリーターミナル

交通:最寄り駅はトレードセンター前駅。
コンテナ埠頭をフェリー埠頭に転換し、2008年7月8日から一部供用開始された。南港に従来からある各ターミナル周辺には商業施設が少ない(または皆無)のに対し、このターミナルはアジア太平洋トレードセンター(ATC)やワールドトレードセンター(WTC)などと直結しており、各施設の利用増などとの相乗効果を狙うものである[要出典]。
また、今後3バースを整備し、主に「かもめフェリーターミナル」(下記)に発着している航路が新ターミナルに移転する予定である[1]。

・R−5 ダイヤモンドフェリー・関西汽船
・- 別府国際観光港(関西汽船)
・- 松山観光港 - 大分港(両社による共同運航) ※出発便が利用
・- 坂手港(小豆島)(関西汽船) ※季節運航
・ATCオズ岸壁
・帆船あこがれ専用岸壁

大阪南港フェリーターミナル

交通:最寄り駅はフェリーターミナル駅。
愛媛県および九州各地へのフェリー航路が乗り入れており、その船舶数は日本一である。ニュートラム南港ポートタウン線フェリーターミナル駅に直結している(ただし、「かもめフェリーターミナル」へは大阪市営バス16系統利用。沖縄定航埠頭へは船会社が無料のシャトルバスを運行している)。

・大阪南港フェリーターミナル
・F1 関西汽船・ダイヤモンドフェリー
・- 松山観光港 - 大分港(両社による共同運航) ※到着便が利用
・F2 (なし)
・F3 四国オレンジフェリー(四国開発フェリー)
・- 新居浜港 - 東予港 ※昼便が利用
・- 東予港(夜便)
・F4 名門大洋フェリー
・- 新門司港 ※第2便が利用
・F5 名門大洋フェリー
・- 新門司港 ※第1便が利用
・F6 (なし)
・ドリームシャトルのりば(キャプテンライン)
・- ユニバーサル・シティ・ポート
・沖縄定航埠頭 ※乗船受付は「大阪南港フェリーターミナル」にて。
・A岸壁 マルエーフェリー
・神戸港 - 大阪南港 - 名瀬港(奄美大島) - 亀徳港(徳之島) - 和泊港(沖永良部島) - 供利港(与論島) - 那覇新港 ※週1-2便、斜字の港へは寄港しないことがある。
・かもめフェリーターミナル
・F7 ダイヤモンドフェリー
・- 志布志港
・F8 宮崎カーフェリー
・- 宮崎港

●脚注

1. 大阪南港コスモフェリーターミナル/一部供用を開始 - LNEWS(株式会社ロジスティクス・パートナー、2008年7月9日)

● 関連項目

表・話・編・歴指定特定重要港湾(スーパー中枢港湾)

「京浜港」(東京港・横浜港) - 伊勢湾(名古屋港・四日市港) - 「阪神港」(大阪港・神戸港)

・メガターミナルオペレーター
・中枢国際港湾
・大阪湾 - 環境問題はこちらを参照。
・咲洲・舞洲・夢洲
・アジア太平洋トレードセンター
・大阪ワールドトレードセンタービルディング
・なにわの海の時空館
・旧川口居留地
・ウォーターフロント

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かつてはとても重要な「港(ばしょ)」だったそうです・・・パート1

●大阪港について

大阪港(おおさかこう)は、大阪府大阪市にある港湾。日本の主要な国際貿易港(五大港)のひとつで、スーパー中枢港湾の指定を神戸港と共に受けている。

●概要

1868年開港。主に、港区、大正区、此花区、住之江区に位置しており、一部西区を含む。明治以降、国営の国際貿易港として建設された神戸港とは対照的に、大阪市自身が建設・運営に関わった都市港湾の伝統を有する。

日本最大のフェリーターミナルを擁する国際・国内航路の拠点港で、外航クルーズ客船が多数寄航する。阪神・淡路大震災の神戸港被災を契機に近畿圏の国際コンテナ拠点としての比重も高まり、2006年現在、外貿コンテナ取扱個数は191万TEUで国内第5位(2006年速報値)。震災後、国内首位から4位に後退した神戸港(198万TEU)とほぼ肩を並べるまでに成長した。

港則法・関税法上は神戸港・尼崎西宮芦屋港とあわせて阪神港と称されている。

●港勢

・貨物取扱量(平成16年)
・外貨 3,462万トン(うち、コンテナ2,664万トン)
・内貨5,853万トン(うち、コンテナ3,780万トン)
・係留施設(平成16年)
・外航 70バース
・内航 111バース
・面積
・臨港地区 1,892ヘクタール
・港湾地区 4,774ヘクタール
※これらのうち、埋め立て面積は1,867ヘクタール

●歴史

6世紀頃に 難波津(なにわのつ)、住吉津(すみのえのつ)として成立し、国際港として栄えた。平安時代から鎌倉時代には、 渡辺津(わたなべのつ)が淀川河口、船場付近で栄えた。 安土桃山時代に、豊臣秀吉によって 大坂の町割が作られ都市の基盤が築かれた。江戸時代にかけては北前船や菱垣廻船などの寄航地として栄え、日本最大級の港となった。

大坂の市街地は淀川を数kmさかのぼった場所にあったため、大型船は市内まで入らず木津川や淀川などの下流部や河口に停泊し、そこから小型船で貨物を運搬している。船が大阪へ上れるよう、また洪水を防ぐため、河川の改修や浚渫は江戸時代を通じて行われた。1683年(天和3年)には河村瑞賢が、曲がりくねって浅い淀川の水運と治水のため、安治川を開削。1704年(宝永元年)には大坂城の北で淀川に合流していた大和川が、堺の北で大阪湾に出るよう付け替えられ、安治川などへの土砂流入が減る。しかしなおも土砂で川が浅くなり続けたため、1831年(天保2年)には再度安治川の浚渫が行われた。この時に出た土砂により、天保山が築かれている。

1868年(慶応4年)に大坂は開港した。安治川をさかのぼった西区の川口に外国人居留地が開設され、隣接する富島に港湾が築造された。しかし安治川の狭さと浅さにより大型船が入れず、国際港機能は次第に神戸港へ移り、1876年(明治9年)を最後に外国船は大阪に入港しなくなった。

1873年(明治6年)、オランダ人技師G.A.エッセルとヨハニス・デ・レーケが来日し、大阪入りした。彼らは日本政府から、長年悩みの種であった淀川の治水および港湾機能回復の案を出すよう望まれ、現地調査のうえ淀川に放水路を開削し、天保山付近へ新港を建設するという解を出し、改修計画を作った。しかしこれらは政府の財政難のため実現していない。

1885年(明治18年)には大阪市内で淀川が大洪水を起こし、衛生状態が悪化した。外国船が入港しなくなったこともあり、大阪市民の間から淀川付け替えと国際貿易港の建設の声が高まるが、財政難の政府はデ・レーケ案のうち新淀川開削を優先して着工した。これに対して、大阪市は、独自にデ・レーケらと天保山付近での築港調査を開始する。特に、西風に起因する波に直面する淀川河口付近に港湾を作るため、河口を南北から挟み込むように大きな防波堤が構想された。1894年には築港計画が策定され、1897年(明治30年)、政府ではなく大阪市営のプロジェクトとして「大阪港第1次修築工事」が開始された。これは大阪港の復活を期する、当時の市予算の30倍の予算という大きな計画であった。

天保山付近(築港地区)の埋め立てと防波堤工事が進み、1903年(明治36年)には築港大桟橋と、花園橋から築港への市電が開通した(公営電気鉄道では日本初)。しかし当初大桟橋の利用が伸びず、大型船が来ない代わりに夕涼みと魚釣りの市民でにぎわう有様であった。1916年(大正5年)、市の財政難と、西風にあおられ地盤も弱い河口付近の難工事により、築港事業は中断してしまう。

しかし第一次世界大戦景気で大阪港の利用が増え、築港の完成を望む声が高まったため、市に代わり民間企業の資金協力・工事代行(完成後は出資業者が優先使用)により事業が続行された。1929年(昭和4年)にはついに築港事業(大阪港第1次修築工事)が完成し、続いて南港などを構想した「大阪港第2次修築工事」が開始された。1938年(昭和13年)から1939年(昭和14年)には貨物取扱量等が日本で最大となり、神戸・横浜と並ぶ日本三大港湾のひとつとなった。しかし戦争の激化で第2次修築工事は中断してしまう。

1944年(昭和19年)には中央突堤が完成したが、1945年(昭和20年)、大阪大空襲により大阪港一帯は壊滅的な被害を受けた。さらに同年9月、枕崎台風で高潮と浸水が起こった。大阪港周辺では戦前から地下水のくみ上げによる地盤沈下が問題となっており、これに対して戦前の大阪港第2次修築工事を改め、大阪港に注ぐ河川を拡幅して内港を作り、その土砂で海抜0メートル以下の此花区、港区、大正区を全面的に盛り土して区画整理するという大阪港復興計画が策定され、1947年(昭和22年)に開始された。1960年代までに、安治川、尻無川、大正区の運河地帯などは拡幅されて内港(弁天埠頭や大正内港)となり、盛り土や家屋の移築も完成する。また南港の埋め立ても開始され、大阪港の拡大が続いた。

・1948年(昭和23年) 海外貿易再開。
・1950年(昭和25年) ジェーン台風で高潮、浸水被害。
・1951年(昭和26年) 重要港湾、続いて特定重要港湾に指定される。
・1952年(昭和27年) 港湾法施行、大阪市が大阪港の港湾管理者となる。
・1958年(昭和33年) 南港(咲洲)地区の埋立造成工事開始。
・1961年(昭和36年) 中国との民間貿易再開。
・1965年(昭和40年) 弁天埠頭が完成、大阪の国内旅客船基地となる。
・1967年(昭和42年) サンフランシスコ港と姉妹港提携。
・1971年(昭和46年) 南港地区に大阪南港フェリーターミナル開業。
・1972年(昭和47年) 北港処分場の埋立工事開始。
・1973年(昭和48年) 日本最初のコンテナ船専用岸壁開業。
・1974年(昭和49年) メルボルン港と姉妹港提携。
・1974年(昭和49年)阪神高速道路4号湾岸線港大橋が開通。
・1979年(昭和54年) 南港地区に魚つり園、海水遊泳場開業。
・1980年(昭和55年) ル・アーヴル港と姉妹港提携。これを機に大阪港の紋章を制定。
・1981年(昭和56年) ニュートラムが開通。上海港と友好港提携。
・1983年(昭和58年) '83大阪世界帆船まつり開催、南港地区に大阪南港野鳥園開業、バルパライソ港と姉妹港提携。
・1985年(昭和60年)南港地区に国際展示場インテックス大阪開業、上海との間に国際フェリー就航、釜山港と姉妹港提携。
・1987年(昭和62年) 大阪港開港120年並びに大阪北港ヨットハーバーの完成を記念してメルボルン港をスタートとする太平洋縦断ヨットレース「メルボルン/大阪ダブルハンドヨットレース」開始(以後4年おきに開催)。
・1990年(平成2年) コンテナ化が進まず機能低下していた天保山地区で、アメリカの旧式港湾再開発手法(ウォーターフロント)にならい海遊館やサントリーミュージアムで構成される天保山ハーバービレッジが開業。
・1994年(平成6年) アジア太平洋トレードセンター(ATC)開業、帆船「あこがれ」就航、舞洲スポーツアイランド開業、サイゴン港と姉妹港提携。
・1995年(平成7年) 阪神・淡路大震災の影響で、室戸汽船などの神戸入港の船が一時利用した(室戸汽船はその後、売り上げ増加により正式に利用するようになった)。
・1997年(平成9年) 大阪港築港100周年記念帆船レースSAIL OSAKA '97開催。
・2000年(平成12年) 南港再開発地区になにわの海の時空館開館、帆船「あこがれ」世界一周航海達成。
・2004年(平成16年) スーパー中枢港湾の一つに指定される

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此の日が「本当の夜明け」かもしれませんネ・・・パート12

続いては、教育から順に書きます。

●教育

★小学校

2006年現在市立48校、私立1校が存在。少子化の進展に伴い、近年は少子化により市立校の再編が始まっている。

公立

・すべて横須賀市立。神奈川県小学校一覧#横須賀市を参照。
・1999年4月1日 坂本小学校(1929年設置)と青葉小学校(1954年、汐入小学校から分離)を統合し、桜小学校が開校。
・2006年4月1日 陽光小学校(1975年、市立鶴久保小学校から分離)を廃止し、鶴久保小学校(1908年設置)に統合。

私立

・横須賀学院小学校

★中学校

2006年現在市立25校、私立2校が存在。中学校についても市立校の再編が始まり、2007年4月に桜台中学校(1960年、坂本中学校から分離)を廃止し、坂本中学校(1947年設置)に統合された。

公立

・すべて横須賀市立。神奈川県中学校一覧#横須賀市を参照。

私立

・緑ヶ丘女子中学校
・横須賀学院中学校

★高等学校

公立

・神奈川県立海洋科学高等学校(旧・神奈川県立三崎水産高等学校)
・神奈川県立横須賀工業高等学校
・神奈川県立横須賀高等学校
・神奈川県立大楠高等学校
・神奈川県立津久井浜高等学校
・神奈川県立追浜高等学校
・神奈川県立横須賀大津高等学校
・神奈川県立横須賀明光高等学校
・横須賀市立横須賀総合高等学校

私立

・三浦高等学校
・湘南学院高等学校
・横須賀学院高等学校
・緑ヶ丘女子高等学校
・湘南文理高等学院 - 通信制サポート校

★特別支援学校

・筑波大学附属久里浜特別支援学校
・神奈川県立武山養護学校
・横須賀市立養護学校
・横須賀市立ろう学校

★大学・短期大学

・神奈川県立保健福祉大学
・神奈川歯科大学
・湘南短期大学

★学校教育以外の施設

・防衛大学校(防衛省の施設等機関)
・陸上自衛隊少年工科学校 (卒業生は高等学校卒業資格授与)
・関東自動車工科短期大学校(関東自動車工業が平成2年に開設した企業内の職業訓練施設)

●放送

・横須賀FM放送 (78.50MHz)

●交通

★鉄道

・東日本旅客鉄道(JR東日本)
・横須賀線:(逗子市)- 田浦駅 - 横須賀駅 - 相模金谷仮乗降場(1945年廃止) - 衣笠駅 - 久里浜駅
・京浜急行電鉄
・本線:(横浜市金沢区)- 追浜駅 - 京急田浦駅 - 安針塚駅 - 逸見駅 - 汐入駅 - 横須賀中央駅 - 県立大学駅 - 堀ノ内駅 - 京急大津駅 - ・馬・堀海岸駅 - 浦賀駅
・久里浜線:堀ノ内駅 - 新大津駅 - 北久里浜駅 - 京急久里浜駅 - YRP野比駅 - 京急長沢駅 - 津久井浜駅 -(三浦市)

★バス

・京浜急行バス
・衣笠営業所・久里浜営業所
・湘南京急バス
・堀内営業所
・横浜京急バス
・追浜営業所

★道路

・高速道路
・横浜横須賀道路:横須賀IC - 衣笠IC - 佐原IC - 浦賀IC - 馬堀海岸IC
・三浦縦貫道路

・一般国道
・国道16号、国道134号、国道357号(未開通)

・主要地方道

・県道24号 横須賀逗子線
・県道25号 横須賀停車場線
・県道26号 横須賀三崎線
・県道27号 横須賀葉山線
・県道28号 本町山中線(本町山中有料道路)

・一般県道

・県道208号 浦賀港線
・県道209号 観音崎環状線
・県道210号 浦賀港久里浜停車場線
・県道211号 久里浜港久里浜停車場線
・県道212号 久里浜港線
・県道213号 佐島港線
・県道214号 武上宮田線
・県道217号 逗子葉山横須賀線

★港湾

・横須賀港
・長浦港
・久里浜港
・浦賀港(浦賀の渡しがある。)
・東京湾フェリー
・シャトル・ハイウェイライン
漁港については#漁業を参照。

★姉妹港

・ロサンゼルス港、ロングビーチ港(アメリカ合衆国)
・1974年(昭和49年) 横須賀港と姉妹港提携。

★航空灯台

・横須賀 VOR/DME

●名所・旧跡等

★レジャー・観光

・猿島
・くりはま花の国
・観音崎
・ペリー公園
・三笠公園
・横須賀市しょうぶ園
・大楠山ハイキングコース
・追浜運動公園・横須賀スタジアム
・田浦梅の里
・塚山公園
・市役所前公園
・中央公園
・ヴェルニー公園
・海辺釣り公園
・うみかぜ公園
・走水ボードウォーク
・陸軍桟橋(西浦賀緑地)
・夏島貝塚
・衣笠城跡
・衣笠山公園(日本さくら名所100選)
・光の丘水辺公園
・大田和つつじの丘
・荒崎公園
・立石公園
・秋谷海岸
・長井海の手公園 ソレイユの丘
・どぶ板通り

★美術館・博物館

・横須賀美術館
・観音崎自然博物館
・横須賀市自然・人文博物館
・ヴェルニー記念館
・記念艦 三笠
・ペリー記念館

★祭り

・武山初不動(1月)
・田浦梅林祭り(2月)
・ドブ板バザール(2, 5, 7, 11月)
・よこすか開国祭(8月)
・よこすかシーサイドマラソン(11月)
・よこすかカウントダウン(12月)

横須賀を本拠地とするスポーツチーム [編集]
湘南シーレックス(横浜ベイスターズ二軍)
日産自動車硬式野球部(湘南シーレックスとも交流戦を行っていたが、2009年度で休部)
横浜F・マリノス(2005年度から横浜市に加えてホームタウンに認定。下部組織の練習会場に使用されている)

●出身有名人

★政界

・小泉純一郎(衆議院議員、第87 - 89代内閣総理大臣)
・田川誠一(元衆議院議員、自治大臣、新自由クラブ代表)

★マスコミ

・相川浩(元NHKアナウンサー)
・飯田浩司(ニッポン放送アナウンサー)
・石川顕(元TBSアナウンサー)
・大和田新(ラジオ福島アナウンサー)
・川添麻美(RKB毎日放送アナウンサー)
・近藤雄介(元フジテレビアナウンサー)
・鈴木秀喜(新潟総合テレビアナウンサー)
・高嶋ひでたけ(元ニッポン放送アナウンサー)
・冨田憲子(フジテレビアナウンサー)
・廣瀬隼也(福井放送アナウンサー)
・山ノ井友司(元FM横浜アナウンサー)

★芸能

・相澤秀禎(サンミュージックプロダクション創立者・会長)
・五十嵐恵(元チェキッ娘)※2004年に芸能界引退
・石川梨華(美勇伝、元モーニング娘。)
・石立鉄男(俳優)
・いとうあいこ(女優)
・伊藤一朗(Every Little Thing)
・井上喜久子(声優)
・岩間沙織(女優・元セイントフォー)
・上杉昇(歌手・元WANDS、al.ni.co)
・太田有美(タレント)
・加羽沢美濃(ピアニスト)
・上地雄輔(俳優)
・北乃きい(女優)
・窪塚俊介(俳優)※窪塚洋介の弟(次男)
・窪塚洋介(俳優)
・小泉孝太郎(俳優)※小泉純一郎の長男
・斎藤守也・斎藤圭土(兄弟ピアノデュオレ・フレール)
・坂詰美紗子(シンガーソングライター)
・桜井千寿(タレント・女優)
・真行寺恵里(歌手)
・鈴木飛雄(俳優)
・田原俊彦(俳優)
・田島令子(女優)
・東原亜希(タレント)
・hide(X JAPAN)
・深野晴美(元オナッターズ)
・堀内健(お笑い芸人:ネプチューン)
・松田亮治(シンガーソングライター)
・森田香央里(タレント)
・盛本真理子(俳優)
・矢沢透(アリス・ドラム)
・渡辺真知子(歌手)
・渡辺めぐみ(女優)
・BIG RON(ヒップホップシンガー)
・KENCHI(EXILE)
・TETSUYA(EXILE)

★芸術

・芦奈野ひとし(漫画家)
・遠藤俊介(写真家)
・川崎ヒロユキ(脚本家)
・久米田康治(漫画家)
・角田喜久雄(小説家)
・東山むつき(漫画家)
・平井和正(小説家)
・最上壽之(彫刻家)
・福本伸行(漫画家)

★スポーツ

★野球

・今関勝(プロ野球選手:元日本ハムファイターズ)
・高橋徹(プロ野球選手:福岡ソフトバンクホークス)
・竹之内雅史(プロ野球選手:元西鉄ライオンズ)
・内藤雄太(プロ野球選手:横浜ベイスターズ)
・坂田遼(プロ野球選手:埼玉西武ライオンズ)
・早坂圭介(プロ野球選手:千葉ロッテマリーンズ)
・水上善雄(プロ野球選手:元ロッテオリオンズ)
・森笠繁(プロ野球選手:横浜ベイスターズ)
・山本賢寿(プロ野球選手:元読売ジャイアンツ)

★サッカー

・石川直宏(プロサッカー選手:FC東京)
・大久保哲哉(プロサッカー選手:アビスパ福岡)
・鈴木達也(プロサッカー選手:柏レイソル)
・鈴木智子(女子サッカー選手:TASAKIペルーレFC)
・谷口博之(プロサッカー選手:川崎フロンターレ)
・寺田周平(プロサッカー選手:川崎フロンターレ)
・内藤友康(プロサッカー選手:モンテディオ山形)
・早坂優(女子サッカー選手:東京電力女子サッカー部マリーゼ)

★バスケットボール

・蒲谷正之 - プロバスケットボール選手(bjリーグ・富山グラウジーズ所属)
・君塚大輔 - プロバスケットボール選手(bjリーグ・大分ヒートデビルズ所属)
・立川真紗美(バスケットボール)
・町田洋介 - プロバスケットボール選手(bjリーグ・滋賀レイクスターズ所属)

★格闘技・武道・相撲

・荒若正啓(元大相撲力士)
・猪熊功(柔道家)
・宇野薫(総合格闘家)
・小谷直之(総合格闘家)
・新藤力也(DDTリング・アナウンサー)
・竹迫望美(プロレスラー)
・中尾受太郎(総合格闘家)
・廣川泰三(元大相撲力士)
・本田多聞(プロレスラー)
・大和心(元プロボクサー)
・横須賀享(プロレスラー)

★その他

・越谷章(バレーボール選手)
・高山樹里(ソフトボール)
・西山麗(ソフトボール)

★学究

・大澤裕(刑事訴訟法学者、東京大学教授)
・水越祐一(気象予報士)
・天達武史(気象予報士)

★その他の分野

・河口俊彦(将棋棋士)
・斎田晴子(女流棋士)
・大住良之(サッカージャーナリスト)
・小関順二(スポーツライター)

★横須賀に縁の有る有名人

・三浦按針(ウィリアム・アダムス) - 1600年に日本へ漂着し、後に江戸幕府の外交顧問となった。塚山公園に史跡指定となった墓がある。
・レオンス・ヴェルニー - 横須賀造兵廠建設責任者。JR横須賀駅近くにヴェルニー公園がある。
・楢崎龍 - 通称おりょう。坂本龍馬の妻。龍馬の死後、横須賀に移り住み、横須賀で没した。市内大津の信楽寺に墓所がある。
・團伊玖磨 - 作曲家。晩年横須賀市秋谷に暮らした。1967年横須賀市歌を作曲。
・立原正秋 - 作家。少年期を横須賀で過ごした。横須賀市立商業学校卒。
・小柴昌俊 - ノーベル物理学賞受賞者。少年時代を横須賀で暮らした。県立横須賀中学校卒業。横須賀市名誉市民第一号。
・山口百恵 - 幼少時に横須賀で暮らした。横須賀市立不入斗中学校卒業。

※1989年のドブ板通り改修に際し、これら出身者およびゆかりある人物18名の手形のレリーフが路面に埋め込まれた。

●横須賀を舞台にした作品

★ 映画

・豚と軍艦 (1961年、日活、今村昌平監督)
・メカゴジラの逆襲 (1975年、東宝、本多猪四郎監督)
・横須賀男狩り 少女・悦楽 (1977年、日活、藤田敏八監督)
・あの夏、いちばん静かな海。 (1991年、東宝、北野武監督)
・すももももも (1995年、パル企画配給、今関あきよし監督)
・竜馬の妻とその夫と愛人 (2002年、東宝、市川準監督)
・そのときは彼によろしく (2007年、東宝、平川雄一朗監督)
・ガマの油 (2009年公開予定、ファントム・フィルム、役所広司監督・主演)

★ 小説

・海の底 (2005年、有川浩)
・流星の絆(2006年 東野圭吾)

★テレビドラマ

・ポニーテールはふり向かない (1985年、TBS・大映テレビ)
・二十歳の約束 (1992年、フジテレビ)
・土曜ワイド劇場 警察署長 浮かばない死体の謎 (1997年、テレビ朝日・東映)
・L×I×V×E (1999年、TBS)
・ディア・フレンド (1999年、TBS)
・サスペンススペシャル 警察署長 殺意のウェディングベル (2001年、テレビ朝日)
・流星の絆(2008年、TBS)

★ご当地ソング

・横須賀ストーリー、I CAME FROM 横須賀、横須賀サンセット・サンライズ (山口百恵)
・港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ (ダウン・タウン・ブギウギ・バンド)
・ブルーライト・ヨコスカ (Mi-Ke)
・横須賀BABY (横浜銀蝿)
・よそゆき顔で (松任谷由実、歌詞に「観音崎の歩道橋」が登場する)
・タイガー&ドラゴン (クレイジーケンバンド)
・そんなヒロシに騙されて (サザンオールスターズ、高田みづえ)
・ヨコスカ・バーニング・ナイト、ヨコスカ・マンボ (上々颱風)

★テレビアニメ

・スカイガールズ (2007年、tvk)

★ ビデオゲーム

・シェンムー 一章横須賀 (1999年、セガ)
・つよきす (2005年、きゃんでぃそふと) - 作品の舞台「松笠市」のモデル

●横須賀が登場した作品

★映画

・ゴジラ (1954年、東宝、本多猪四郎監督) - ゴジラが日本に初上陸したのは、観音崎近くにあるたたら浜という海岸。現在、足跡の石碑が残っている。
・あぶない刑事 (1987年、東映、長谷部安春監督) - TVシリーズからの劇場3部作の1作目。横須賀EMクラブなどが登場。
・またまたあぶない刑事 (1988年、東映、一倉治雄監督) - TVシリーズからの劇場版3部作の2作目。ボートハウスが登場。
・あぶない刑事フォーエバー THE MOVIE (1998年、東映、成田祐介監督) - 日本テレビ開局45周年記念作品。あぶない刑事フォーエバーTVスペシャル'98の続き。サブタイトルは「爆発」。
・日本沈没 (2006年、東宝、樋口真嗣監督)

★アニメーション

・新世紀エヴァンゲリオン

★テレビドラマ

・あぶない刑事 (1986年、日本テレビ・セントラルアーツ)-横須賀EMクラブが登場。
・人間の証明 (2004年、フジテレビ)
・Mの悲劇 (2005年、TBS)
・おとなの夏休み (2005年、日本テレビ)
・探偵学園Q (2006年、日本テレビ)-猿島が登場。

★ビデオゲーム

・FRONT MISSION3 (1999年、スクウェア)

●関連項目

・旧軍港市転換法
・神奈川県の軍事拠点や軍事史跡

2009久里浜ペリー祭については。

ことしの久里浜ペリー祭は終了しましたが、■2009年三浦半島周辺花火大会情報です。
参考までです。こちらで見ることができます。

http://www.kurihama.net/

いかがでしたでしょうか??今日、7月14日は、ペリーによって開国し、長かった鎖国の時代に終わりを告げました。ペリーという人は、すごかったのでしょうか・・。これが、わが国の本当の夜明けかもしれませんね・・。

今日は、「ぺリー上陸記念日。皆さんはどう過ごしますか??

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此の日が「本当の夜明け」かもしれませんネ・・・パート11

続いては、経済から順に書いていきます。

●経済

★産業

東京湾・浦賀水道に面する市の東側では南部や北部で工業地が形成されている。横須賀港からは自動車が輸出され、ウランとマグロが輸入されている。また主要駅の周辺で商業機能の集積が見られる。市西部では農業や漁業が盛んである。

★主な立地企業等

日産自動車追浜工場、総合研究所、追浜専用埠頭 太字

全国でも有数の規模を誇る自動車工場となっている。電気自動車(EV)を追浜工場で生産する。年産5万台規模でスタートし、日米で販売。中国市場にも投入する方針。国内メーカーの本格的なEV販売は、三菱自動車、富士重工業に次ぎ3社目。カルロス・ゴーン社長は記者会見で「追浜をEVの主力工場にする」と述べ、量販に向け海外生産も視野に入れていることを明らかにした。市場拡大が期待される環境対応車としてEVの量産体制を早期に確立する。

関東自動車工業

トヨタ系の自動車組立メーカ。1990年代初めまで深浦で乗用車生産を行い、2006年8月まで開発部門などがおかれていた。現在、本社機能は残るがほとんどの機能が静岡県裾野市に移転している。

日本ビクター横須賀工場、久里浜技術センター

全国有数の研究機関であり、1980年代後半大ブームとなったVHSビデオデッキを開発した。

東京電力横須賀火力発電所

1957(昭和32)年に建設を開始し、1970(昭和45)年には8号機まで運転を開始した。1号機と2号機は既に廃止され、現在は3号機〜8号機が稼動、総出力213万kw となっている。三浦半島一帯及び首都圏への電力供給基地である。

財団法人電力中央研究所 (CRIEPI)

日本の発電技術の開発を担うシンクタンク兼研究機関。電力各社の共同出資により運営され、公益法人としては日本最大の研究機関でもある。電力中央研究所内の部門別組織である、電力技術研究所、エネルギー技術研究所、材料科学研究所がある。横須賀市以外にも、東京都千代田区大手町・東京都狛江市・千葉県我孫子市に研究拠点がある。数年内に他の研究部門を横須賀市に移転し、横須賀市を発電技術研究の中心地とすることが、2009年3月に横須賀市との間で合意された。

横須賀リサーチパーク (YRP)

日本の最先端の電気・通信事業の拠点。特に、NTTドコモの携帯電話の研究・開発拠点であり、国内外の情報通信研究をリードする機関である。NTTドコモのほかに、富士通、NEC、パナソニックモバイルコミュニケーションズ、沖電気工業、シャープなども進出している。

日本電信電話横須賀研究開発センタ(サイバーコミュニケーション総合研究所、サイバーソリューション研究所、サイバースペース研究所、未来ねっと研究所)

日本電信電話公社横須賀通信研究所として開設され、現在でもバス停留所等では「通信研究所」と表記されている。

グローバル・ニュークリア・フュエル・ジャパン(旧日本ニュークリア・フュエル)

国内における原子力発電用核燃料工場として重要な位置づけにある。

住友重機械工業横須賀製造所、技術開発センター

1853年(嘉永6年)のペリー来航の際、徳川幕府は大船建造禁止令を解いて浦賀造船所を設置。国内初の旅客兼車両渡船(鉄道連絡船)として青函連絡船「翔鳳丸」「飛鸞丸」を竣工。浦賀船渠の第1号ドック(通称浦賀ドック)は世界に4か所にしか現存していないレンガ積みドライドックのうちのひとつ。国内でも明治期のものは浦賀ドックと川間ドック跡しかなく、ともに貴重な文化遺産である。

岡村製作所追浜事業所
東邦化学工業追浜工場、追浜研究所
北辰工業横須賀工場
東京ファインケミカル横須賀工場
むらせ
ハリソン東芝ライティング横須賀事業所
丸大食品横須賀工場
ニチロ久里浜工場
パン市場・浜田分店

★農業

市内では都市部、工場地帯、山林が共存し、市の南部・西部を中心に農業活動が盛んに行われている。近年では減少傾向にあるものの、農地は市域の 4% 以上を占める。かつては水田も多く見られたが、平野部の低地は住宅地や工業地に転換し、近年では大部分が畑作地となっている。主な生産物はキャベツ、大根、カボチャ、メロンなど。農協業務は市全域に亘って JAよこすか葉山が執り行っている。

★漁業

市西部の相模湾側を中心に漁港が立地する。東部の東京湾側は軍港や商港の占める割合が高いが、漁港も残り漁業が行われている。

・北下浦漁港
・長井漁港
・佐島漁港
・秋谷漁港
・久留和漁港

★商業

近年横須賀市でも国道や主要地方道といった幹線沿いに多く立地するロードサイド店舗の進出が目立っている。そのため小規模小売店などは厳しい状態に追い込まれておりシャッター街状態の商店街が増え問題となっている。

一方横須賀中央や追浜、久里浜、衣笠など市内でも利用者が多い駅周辺には活気が残っている商店街も少なくない。ただ市内全体の人口は減少、高齢化が進んでおりローサイド店舗、商店街関係なく対策が求められている。

・さいか屋 横須賀店
・横浜岡田屋 モアーズシティ
・ダイエー ショッパーズプラザ横須賀店
・西友 横須賀店、LIVIN よこすか店、鷹取店、衣笠店、馬堀店
・京急ショッピングセンター ウィング久里浜
・ジャスコ 久里浜店
・島忠ホームズ
・エイヴイ (市内に多く所在)
・㈱コジマNEW横須賀店 (同社横須賀市初の店舗。同市平成町)
・サンビーチ追浜

★金融機関

・みずほ銀行 - 横須賀、衣笠、追浜各支店
・三菱東京UFJ銀行 - 横須賀支店
・りそな銀行 - 横須賀支店
・横浜銀行 - 計7支店
・スルガ銀行 - 横須賀、横須賀武山、久里浜各支店
・中央三井信託銀行 - 横須賀支店
・神奈川銀行 - 横須賀支店、長井支店
・三浦藤沢信用金庫 - 本店営業部ほか、計11支店
・湘南信用金庫 - 本店営業部ほか、計18支店
・中央商銀信用組合 - 横須賀支店
・中央労働金庫 - 横須賀支店

★国の施設

横須賀刑務所
久里浜少年院
陸上自衛隊武山駐屯地、久里浜駐屯地
海上自衛隊自衛艦隊司令部、横須賀地方総監部、横須賀教育隊
航空自衛隊第1高射群第2高射隊
技術研究本部艦艇装備研究所久里浜地区(旧・第5研究所)
海上保安庁東京湾海上交通センター、横須賀海上保安部

●姉妹都市・提携都市

★国内

・友好都市

・会津若松市(福島県) - 2005年4月17日に友好都市提携。
以前は旧倉渕村(群馬県、2006年1月23日付で高崎市に編入)とも友好都市の関係にあった。これは1981年(昭和56年)12月14日提携。横須賀製鉄所をつくるにあたり尽力した小栗上野介忠順が治めていたことによる。横須賀市民休養村「はまゆう山荘」があり、倉渕地区の交流拠点として高崎市へ譲渡された現在も横須賀市民は格安で宿泊可能。

★日本国外

コーパスクリスティ市  アメリカ合衆国

1962年(昭和37年)10月18日提携。基地があり、産業、港湾、観光の都市でもあり、横須賀市と類似点が多いことによる。

ブレスト市  フランス

1970年(昭和45年)11月26日提携。横須賀製鉄所や観音崎灯台をつくるにあたり尽力したヴェルニーの故郷であることによる。

フリマントル市  オーストラリア太字

1979年(昭和54年)4月25日提携。横須賀市を母港とする南極観測船「ふじ」の補給港であることによる。

メッドウェイ市  イギリス 太字

1998年(平成10年)8月26日提携。航海術や造船技術を日本に伝えたウィリアム・アダムス(三浦按針)の生誕地であることにより、1982年(昭和57年)に提携(当時、イギリスの都市が日本の都市と友好都市提携をするのは初)。その後、1998年(平成10年)年4月1日にジリンガム市とロチェスター市が合併しメッドウェイ市となった。

姉妹都市のほか、姉妹港提携を結んでいる港湾もある。

●地域

★地域区分

市内には、地方自治法に基づき市役所支所として行政センターが9箇所設置されており、市役所の窓口業務の一部を担当している。各行政センターの担当区域は以下の通り。

追浜

浦郷町、追浜町、追浜東町、追浜本町、追浜南町、湘南鷹取、鷹取、夏島町、浜見台

田浦

田浦泉町、田浦大作町、田浦町、田浦港町、長浦町、箱崎町、船越町、港が丘

逸見

安針台、西逸見町、東逸見町、逸見が丘、山中町、吉倉町

市役所本庁管内

稲岡町、不入斗町、上町、大滝町、小川町、楠ヶ浦町、坂本町、佐野町、猿島、汐入町、汐見台、新港町、田戸台、鶴が丘、泊町、日の出町、深田台、富士見町、平成町、平和台、望洋台、本町、緑が丘、三春町、安浦町、米が浜通、若松町

衣笠

阿部倉、池上、大矢部、金谷、衣笠栄町、衣笠町、公郷町、小矢部、平作、森崎

大津

池田町、大津町、桜が丘、根岸町、走水、馬堀海岸、馬堀町

浦賀

浦賀丘、浦賀、浦上台、小原台、鴨居、光風台、西浦賀、東浦賀、二葉、南浦賀、吉井

久里浜

岩戸、内川、内川新田、久比里、久村、久里浜、久里浜台、佐原、神明町、長瀬、ハイランド、舟倉、若宮台

北下浦

粟田、グリーンハイツ、津久井、長沢、野比、光の丘

西

秋谷、芦名、太田和、荻野、子安、佐島、佐島の丘、湘南国際村、須軽谷、武、長井、長坂、林、御幸浜、山科台
・「不入斗町」(いりやまずちょう)は、市内の難読町名。
・「ハイランド」は、全国で初めてのカタカナ町名。1975年3月1日の住居表示実施に伴い誕生した。

●主な医療機関

・横須賀北部共済病院 - 美しい緑の丘に囲まれた、二次救急病院の指定を始め、急性期医療の中核を担う医療機関。
・湘南病院
・自衛隊横須賀病院
・横須賀共済病院 - 明治39年に開設さる。外科系では整形外科、泌尿器科、産婦人科、耳鼻咽喉科、眼科、脳神経外科、形成外科など、手術症例はいずれの科も多く年間5075件。胃、大腸、食道、肝臓、膵臓、肺などの癌に対する手術件数は神奈川トップ3。各科とも内視鏡下手術など低侵襲治療に積極的に取り組む。
・横須賀市立市民病院
・横須賀市立うわまち病院(旧国立横須賀病院)
・聖ヨゼフ病院
・衣笠病院
・浦賀病院

※救急指定病院のみ

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此の日が「本当の夜明け」かもしれませんネ・・・パート10

続いては、ペリーが上陸した、久里浜は、神奈川の「横須賀市」というところにあります。それでは、その「横須賀市」について書いていきたいと思います。

●横須賀市について

横須賀市(よこすかし)は、神奈川県南東部の三浦半島に位置する都市である。東京湾と相模湾に面する国際港湾都市。中核市に指定されている

横須賀市
よこすかし 国  日本
地方 関東地方
都道府県 神奈川県
団体コード 14201-8
面積 100.68km²

総人口 420,996人
(推計人口、2009年6月1日)
人口密度 4,180人/km²
隣接自治体 横浜市、逗子市、三浦市、
三浦郡葉山町
市の木 オオシマザクラ
市の花 ハマユウ
市の鳥 カモメ

●概要

神奈川県南東部に位置する三浦半島の大部分を占め、市域の東側は東京湾(浦賀水道)、西側は相模湾に面する。日本最古の洋式灯台である観音崎灯台が建立される。また東京湾唯一の自然島である猿島も行政区域に含まれる。観光船で行く事もできる。

大楠山は標高242mで三浦半島の最高峰である。展望台に登ると、東京湾及び相模湾を一望でき、千葉県及び太平洋を望める為、ハイキング客が1年を通して全国から集まる。ハイキングコースが充実していて、登山時と下山時でコースを変えて楽しむ観光客も多い。それほど標高が高い山はないが、中央部は山間部や丘陵部(三浦丘陵)が中心で、平地は少ない。そのため古くから海岸線の埋め立てが行われており、現在の中心市街地もかなりの部分が埋立地にある。また、海岸沿いまで山が迫る地形のためトンネルが多いのも特徴で、神奈川県にある道路・鉄道トンネルのおよそ半数が市内に集中している。

政治・経済的都市機能が集中する東京湾岸には大工場や住宅群がひしめきあうが、相模湾岸には自然が多く残され、農業も盛んである。市内中心部から東京都心までは京急本線で約50分、JR横須賀線で約1時間20分。また横浜横須賀道路など地域高規格道路が整備されており、車では羽田空港まで約40分、都心へは1時間程度となっている。

ペリーが降り立った東京湾の入口に位置するため江戸時代から国防の拠点とされ、大日本帝国海軍横須賀基地を擁す軍港都市として栄えた。現在もアメリカ海軍第7艦隊横須賀海軍施設および海上自衛隊自衛艦隊・横須賀地方隊の基地が置かれている。

人口は横浜市・川崎市・相模原市に次ぎ神奈川県第4位となっており(1977年11月以降)、県下では横浜市に次いで2番目に市制を施行した。このため、公式文書で自治体を列挙する際には横浜市・川崎市・横須賀市の順で表記される(政令指定都市→市制施行順に表記されるため)。また横須賀市が県の政令市(保健所・水道事業等は中核市指定前から独自に行っている)ということもあり県から見ればトップ3の一角だが、2003年に中核市となった相模原市が人口増と市町村合併で政令指定都市への移行が確実視されていること、また藤沢市(保健所政令市)の人口急増に伴い、横須賀市は県内人口第5位に転落することがほぼ確実なことから、この情勢にも変化が見込まれる。

基幹産業が重厚長大産業であることや、地形が山がちという地理的要因から今後大きな人口増加は望めないため、「国際海の手文化都市」をスローガンに「交流人口」(仕事やレジャーでの流入人口)の増加、そして「また来てもらえる街」をめざしている。施策として横須賀リサーチパーク (YRP) 開設や高等教育機関(神奈川県立保健福祉大学、陽光小学校跡地への福祉系4年制大学)の誘致、海軍カレー、ヨコスカネイビーバーガー(ご当地バーガー)による街興し、ヴェルニー公園(1万メートルプロムナード計画の起点)、くりはま花の国、長井海の手公園 ソレイユの丘、横須賀美術館等観光施設の整備などが積極的に行われている。

以前「平成の大合併」を機に三浦市から合併を打診されたが、政令指定市に昇格できる見込みも無く、特段の利点が無いということで幹部レベルで断っている。もし三浦半島4市1町(横須賀市、鎌倉市、逗子市、三浦市、葉山町)で合併すれば政令指定市への移行が見込める人口75万規模の自治体になるが、各市町に強いプライドがあり(逗子市は逗子町時代に横須賀市に合併されたが、戦後すぐに離脱した過去がある)、合併を推進していた小林一也三浦市長が1期限りで落選したこともあり、現在周辺との合併の計画は今のところはない。また、三浦半島地域は共通の問題として高い高齢化率、ゴミ処理の共通化などがあって、広域行政施策を展開したいところだが、ゴミ処理の共通化では三浦市と進めていた協議会から葉山町が脱退(三浦市と協定を結ぶと同時に葉山町を告訴)するなど、各市町のプライドの問題があり、一枚岩とはなっていない。

また、基幹産業が景気に左右されやすい重厚長大産業であることが災いして、市民の所得水準が県内では三浦市についで低く(ただし、他都道府県の市町村と比べれば高めの方ではある)、多くの人口を抱えながら市民税の収入が県内でワースト3であり、市の財政は市債と地方交付税に頼らざるを得ない。また過去の市長がいわゆる「ハコモノ行政」を行ったことで市債償還が財政を圧迫しており、市の財政は非常に苦しいものとなっている。ただし、年間数千人単位の人口減にもかかわらず市税収入はYRP効果で法人市民税が増加し、上昇傾向にある。

●沿革

・江戸時代以前については三浦半島#歴史も参照。
約2万年前(後期旧石器時代)に三浦半島に人が住み始めたという説があり、縄文時代に入ると生活の跡である貝塚も市内に散見されるようになる。古墳時代には小規模ながら古墳がつくられ、奈良時代中ごろまでは相模国から上総国へと抜ける古東海道が通じていた。

市内公郷の宗元寺(曹源寺)は県内屈指の古刹であり、三浦郡の行政の中心地であったともいわれる。中世には三浦氏、後に相模三浦氏が一帯を支配するようになるが、戦国時代に北条氏により滅亡、その後徳川家康の領地となる。江戸時代に入ると海上からの首都の玄関口となり、燈明堂や奉行所がおかれた。1720年に浦賀奉行所が置かれて以降は浦賀が商業地として栄えた。

幕末には黒船来航の地となり、観音埼灯台の点灯、横須賀製鉄所や横須賀鎮守府設置、横須賀線の開通など、近代化や国防における要所として発展、県内では横浜市に次ぐ市制施行を果たした。昭和時代に入ると大日本帝国海軍の一大拠点となり、軍事施設を持つ周辺の町村を併合することでほぼ現在と同様の市域が形作られた(逗子町は後に分離)。このため横須賀市では昭和の大合併に伴う市町村合併は行われていない。

戦後はアメリカ軍や自衛隊が駐留する一方東京、横浜のベットタウンとして発展したが人口は1992年5月1日に437,170人と最高数を記録し、以降は減少に転じている。

●年表

・1063年:村岡為通が衣笠城を築き、三浦氏を名乗る。
・1180年:衣笠城が落ち、三浦大介義明が死ぬ(衣笠合戦)。
・1247年:三浦氏は北条時頼に滅ぼされるが、佐原十郎義連の子らが北条氏側につき、「三浦介」をつぐ。
・1253年:日蓮が米が浜に流れ着いたと伝えられる。
・1518年:新井城が北条早雲に攻められ、三浦氏一族滅亡。
・1590年:豊臣秀吉が全国を統一し、三浦半島は徳川家康の領地となる。
・1648年:浦賀と三崎に燈明堂が置かれる。
・1660年:砂村新左衛門が内川新田の開発に着手。
・1720年:浦賀に奉行所が置かれる。
・1842年:大津陣屋が置かれ、江戸湾(現在の東京湾)の守りが固められる。
・1853年:浦賀沖にマシュー・ペリーの率いる黒船が来航(中島三郎助が乗船)、久里浜に上陸。
・1860年:咸臨丸、浦賀港を出港。
・1864年:小栗上野介たちが造船工場をつくるために横須賀の海を調査。
・1865年:レオンス・ヴェルニーと小栗の尽力により横須賀製作所建設開始。
・1866年(慶応元年):江戸幕府により横須賀造船所が開設。
・1869年(明治2年):日本初の洋式灯台観音埼灯台が点灯。
・1870年(明治3年):西浦賀と東浦賀が合併、浦賀村となる。
・1873年(明治6年):ヴェルニー、走水の湧水を利用し、造船所への引水を計画する。
・1876年(明治9年):横須賀村と浦賀村が町制施行。
・1878年(明治11年):郡区町村編制法施行。現在の市域は全域が三浦郡となり、横須賀町に郡役所設置。
・1884年(明治17年):横須賀鎮守府が置かれる。
・1889年(明治22年):横須賀線(大船駅 - 横須賀駅)開通。
・1901年(明治34年):久里浜海岸でペリー提督上陸記念碑の除幕式が行われる。
・1905年(明治38年):横須賀電燈株式会社設立。
・1906年(明治39年):横須賀ガス株式会社設立。横須賀町と豊島町が合併。
・1907年(明治40年):2月15日、市制施行(当時の人口は 62,876人)。
・1908年(明治41年):水道が引かれる(市営走水水道)。
・1916年(大正5年):追浜に海軍航空隊開設。 
・1923年(大正12年):関東大震災で大きな被害を受ける。
・1925年(大正14年):横須賀線が電化される。
・1930年(昭和5年):湘南電気鉄道(黄金町駅 - 浦賀駅、現京急本線)運転開始。
・1931年(昭和6年):湘南電鉄黄金町駅 - 日ノ出町駅開通、京浜電鉄と乗入れ開始。
・1933年(昭和8年):衣笠村、田浦町を編入。
・1937年(昭和12年):久里浜村を編入。
・1942年(昭和17年):東急(同年京浜電鉄を合併)久里浜線(横須賀堀内駅〜久里浜駅、現堀ノ内駅 - 京急久里浜駅)開通。
・1943年(昭和18年):浦賀町、北下浦町、長井町、武山村、大楠町、逗子町を編入。
・1944年(昭和19年):国鉄横須賀線(横須賀駅 - 久里浜駅)延伸開通。
・1945年(昭和20年):連合国軍が上陸。
・1948年(昭和23年):横須賀港が重要港湾に指定される。
・1950年(昭和25年):旧軍港市転換法に関する住民投票実施。旧逗子町域が横須賀市より分離して逗子町となる。
・1952年(昭和27年):保安庁警備隊(後の海上自衛隊)横須賀地方隊が編成される。
・1962年(昭和37年):アメリカのコーパスクリスティ市と姉妹都市になる。
・1963年(昭和38年):京急久里浜線(京浜久里浜駅 - 野比駅、現京急久里浜駅 - YRP野比駅)延伸開通。
・1966年(昭和41年):京急久里浜線(野比駅 - 三浦海岸駅間)延伸開通。
・1967年(昭和42年):横須賀の歌がつくられる。
・1970年(昭和45年):フランスのブレスト市と姉妹都市になる。
・1974年(昭和49年):台風8号による豪雨で大きな被害を受ける(市内の死者13人)。
・1975年(昭和50年):横須賀新港開港。
・1976年(昭和51年):市の木と市の花が決まる。
・1979年(昭和54年):オーストラリアのフリマントル市と姉妹都市になる。
・1981年(昭和56年):群馬県倉渕村(現高崎市)と友好都市になる。
・1982年(昭和57年):イギリスのジリンガム市(現在のメッドウェイ市)と姉妹都市になる。横浜横須賀道路が衣笠ICまで開通。
・1984年(昭和59年):新市庁舎と教育研究所ができる。
・1987年(昭和62年):市制80周年記念として、倉渕村に「はまゆう山荘」ができる。
・1988年(昭和63年):久里浜緑地(現くりはま花の国)コスモス園開設。
・1989年(平成元年):「核兵器廃絶・平和都市宣言」をする。
・1990年(平成2年):横浜横須賀道路衣笠IC - 佐原IC間開通。
・1992年(平成4年):本町山中有料道路開通。平和モニュメントができる。
・1993年(平成5年):ベイスクエアよこすか、総合福祉会館ができる。
・1994年(平成6年):2月に横須賀芸術劇場、5月に湘南国際村開設。
・1995年(平成7年):よこすかの新しいイメージを考える協議会が「国際海の手文化都市」を提言。
・1997年(平成9年):「国際海の手文化都市」を都市像とする横須賀市基本構想を策定。横須賀リサーチパーク (YRP) オープン。
・1998年(平成10年):イギリスのメッドウェイ市と姉妹都市になる(4月にジリンガム市とロチェスター市が合併しメッドウェイ市となった)。かながわ・ゆめ国体秋季大会開催。
1999年(平成11年):商工会議所、海上自衛隊と協力して「カレーの街」を旗揚げ。
2000年(平成12年):三浦縦貫道路第1期区間開通。
2001年(平成13年):湘南新宿ライン久里浜駅まで延伸。中核市に指定される。横須賀市市民憲章制定。臨海公園をヴェルニー公園として改修。
・2004年(平成16年):湘南新宿ライン乗り入れ廃止。
・2005年(平成17年):長井海の手公園 ソレイユの丘完成。
・2007年(平成19年):市制施行100周年。横須賀美術館完成。
・2009年(平成21年):横浜横須賀道路佐原IC - 馬堀海岸IC間開通

●人口

1980年 421,107人 
1985年 427,116人 
1990年 433,358人 
1995年 432,193人 
2000年 428,645人 
2005年 426,178人 

行政 [編集]
神奈川県議会
横須賀市選挙区(定数5)
衆議院
神奈川県第11区{横須賀市、三浦市}

●歴代市長

・初代 鈴木忠兵衛(1907年5月17日〜1909年4月18日)
・2代 鈴木福松(1909年9月14日〜1911年1月9日)
・3代 田辺男外鉄(1911年7月15日〜1917年7月14日)
・4〜6代 奥宮衛(1917年10月6日〜1924年8月16日)
・7代 石渡坦豊(1924年12月6日〜1927年5月26日)
・8代 岡田三善(1927年7月4日〜1927年12月12日)
・9代 小栗盛太郎(1928年3月12日〜1930年5月30日)
・10代 高橋節雄(1930年9月22日〜1932年3月2日)
・11代 大井鉄丸(1932年3月22日〜1933年5月15日)
・12代 三上文太郎(1933年5月26日〜1934年4月18日)
・13代 小泉又次郎(1934年5月15日〜1935年11月15日)
・14代 鈴木斎治郎(1936年1月22日〜1938年8月10日)
・15代 久野工(1938年9月27日〜1941年1月17日)
・16,17代 岡本伝之助(1941年2月13日〜1943年4月17日)
・18代 梅津芳三(1943年5月9日〜1947年1月3日)
・19代 太田三郎(1947年4月8日〜1949年6月13日)
・20代 石渡直次(1949年7月19日〜1953年6月24日)
・21代 梅津芳三(1953年7月12日〜1957年7月9日)
・22〜25代 長野正義(1957年7月10日〜1973年7月9日)
・26〜30代 横山和夫(1973年7月10日〜1993年7月9日)
・31〜33代 沢田秀男(1993年7月10日〜2005年7月9日)
・34代 蒲谷亮一(2005年7月10日〜2009年7月9日)
・35代 吉田雄人(2009年7月10日〜)

★市組織

総務部、企画調整部、財政部、市民部、健康福祉部、こども育成部、病院管理部、環境部、経済部、都市部、土木みどり部、港湾部、上下水道局業務部、上下水道局施設部、消防局、市議会事務局、教育委員会事務局管理部、教育委員会事務局生涯学習部、選挙管理委員会事務局、監査委員事務局

★市議会

・議員定数:43(法定上限数は46)

会派名 計
計 43
新政会 9
公明党 7
研政よこすか市民連合 7
自由民主党 7
ニューウィング横須賀 4
日本共産党 3
無会派 5
欠員 1

★消防

・横須賀市消防局
・中央消防署(出張所3)
・北消防署(出張所2)
・南消防署(分署1、出張所3、派遣所1)
・総合訓練センター

★警察

・神奈川県警察
・横須賀警察署、田浦警察署、浦賀警察署

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此の日が「本当の夜明け」かもしれませんネ・・・パート9

続いては、7月14日は、ペリーが上陸した日です。その上陸した久里浜に「ペリー公園」というところがございますので、参考までに書きたいと思います。

●ペリー公園について

ペリー公園(ぺりーこうえん)とは、神奈川県横須賀市にある公園であり、横須賀・西武パートナーズが指定管理者をつとめる。 1853年(嘉永5年)に黒船を率いて同市の浦賀に来航したマシュー・ペリー提督の上陸の地である久里浜に整備された。 園内にはペリー来航を記念して1901年(明治34年)7月14日に米友協会が建立した上陸記念碑を中心に、ペリー記念館、児童広場がある。 なお、上陸記念碑の碑文「北米合衆国水師提督伯理上陸紀念碑」は伊藤博文の揮毫によるものである。

●ペリー記念館

ペリー記念館は、横須賀市の市制80周年を記念して1987年に開館したペリーの足跡を記念する記念館である。 建物は2階建てで、館内は1階が受付と黒船来航当時の久里浜周辺の地形と黒船を再現したジオラマ模型の展示、 2階がペリーの久里浜上陸図や当時の絵図といった資料の展示室となっている。

●施設概要

・開館 1987年(昭和62年)5月1日
・延床面積 256.34 m2
・階数 地上2階建て
・開館時間 9:00~16:30
・休館日 月曜日(祝日の場合はその翌日)、年末年始
・入館料 無料

●イベント

久里浜ペリー祭(7月中旬)

●アクセス

鉄道

・JR横須賀線久里浜駅・京急久里浜線京急久里浜駅から徒歩20分。

バス

・久里浜駅・京急久里浜駅からバス10分、「ペリー記念碑」下車。

・東京湾フェリー久里浜港から徒歩10分。

●周辺

くりはま花の国

●関連項目

・日本の歴史公園100選
・黒船来航
・戸田伊豆守(ペリー記念館の前に胸像がある

久里浜について詳しいことは、こちらで見ることができます。
あくまでも参考です。

http://www.yokosuka-benri.jp/db/sisetu/fc00000435.html

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此の日が「本当の夜明け」かもしれませんネ・・・パート8

黒船来航の地であ、ペリー艦隊の一行が上陸した場所として知られる、浦賀は現在の久里浜だそうです。続いては、その「久里浜」について書きたいと思います。

●久里浜について

久里浜(くりはま)とは神奈川県横須賀市の東部にある地名。狭義には横須賀市久里浜。広義には明治の大合併で誕生したかつての三浦郡久里浜村(現在の横須賀市久里浜行政センター管轄内。)

黒船来航の地である浦賀に岬を隔てて隣接し、ペリー艦隊の一行が上陸した場所として知られる。

●人口

★久里浜行政センター管内

55,409人(2008年4月現在)

★久里浜 [編集]

15,702人(2008年4月現在)

●歴史

★江戸時代前

★江戸時代

平作川の河口に位置する久里浜は、もともと沼地であまり人も住まない地であったが、1660年(万治3年)に砂村新左衛門が8年間かけ新田(内川新田)を開発した。難工事だったらしく地元には人柱伝説も残っている。(外部リンク参照[1])しかし工事のおかげで飛躍的に石高が上昇したという。

嘉永6年(1853年)6月3日浦賀にある浦賀奉行が協議の結果 来航したペリー艦隊の陸戦隊300人と交渉し、この地でアメリカ側の国書を受け取った。当時の久里浜はただの漁村だったというが、岬を隔てて浦賀に隣接し、大人数が集結するに適した浜があったため上陸の地に選ばれた。

★明治~敗戦

維新後は帝都防衛の要として横須賀の他の地域同様軍事施設が多く作られた。昭和13年に現在の久里浜駐屯地の前身にあたる海軍通信学校が開校した。1942年(昭和17年)に東京急行電鉄(大東急)により、久里浜駅(現在の京急久里浜駅)が開業する。2年後の1944年(昭和19年)に軍事目的で建設された横須賀線久里浜駅が開業する。

★戦後・現在

敗戦後、旧日本軍施設は米軍に接収されたのち返還され、法務省、国土交通省、自衛隊など国の施設・研究所、文教施設、工業団地などに生まれ変わった。埋め立て地には3本煙突がランドマークとなっている横須賀火力発電所が立地し、東京湾フェリーの就航によって房総半島への玄関口としての役割も担うようになった。残っていた田畑は姿を消し、平野だけでなく丘陵部にも宅地開発が進んだ。このため東京、横浜のベットタウン化が進み人口は急激に増加した。またくりはま花の国やペリー公園など観光施設の整備、『久里浜ペリー祭』といったイベントの開催など、『開国の街』として魅力的な町づくりが進められてきた。現在の久里浜は、横須賀市内では本庁地区についで発展した街並みとなっている。

●久里浜にある施設

★教育

・横須賀市立横須賀総合高等学校
・神奈川県立横須賀明光高等学校(神奈川県立久里浜高等学校と神奈川県立岩戸高等学校が統合し誕生)
・横須賀市立久里浜中学校
・横須賀市立神明中学校
・横須賀市立久里浜小学校
・横須賀市立明浜小学校
・横須賀市立神明小学校
・筑波大学附属久里浜特別支援学校

★公園

・くりはま花の国
・ペリー公園
・神明公園

●交通

・京浜急行電鉄 - 京急久里浜線 - 京急久里浜駅
・JR東日本 - 横須賀線 - 久里浜駅
・横浜横須賀道路 - 佐原インターチェンジ
・国道134号
・神奈川県道27号横須賀葉山線
・神奈川県道210号浦賀港久里浜停車場線
・神奈川県道211号久里浜港久里浜停車場線
・久里浜港 - 東京湾フェリー - 東海汽船

●商業

・ウィング久里浜
・久里浜商店街
・イオン横須賀久里浜ショッピングセンター - ジャスコ久里浜店
・テックランド久里浜店
・ケーヨーデイツー(D2)久里浜店
・カインズホーム横須賀久里浜店
・ニトリ横須賀店

●その他

・東京電力横須賀火力発電所
・陸上自衛隊久里浜駐屯地
・海上自衛隊久里浜基地
・潜水医学実験隊
・防衛省技術研究本部艦艇装備研究所久里浜地区
・国土交通省国土技術政策総合研究所横須賀庁舎
・独立行政法人港湾空港技術研究所
・独立行政法人国立病院機構久里浜アルコール症センター(日本最高峰のアルコール依存症治療施設)
・独立行政法人国立特別支援教育総合研究所
・横浜刑務所横須賀刑務支所
・久里浜少年院
・久里浜工業団地(比較的小規模な工場が平作川沿いに連なる)
・グローバル・ニュークリア・フュエル・ジャパン本社工場
・久里浜テクノパーク
・京浜急行電鉄久里浜車両管理区
・京急ファインテック久里浜事業所

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此の日が「本当の夜明け」かもしれませんネ・・・パート7

今日は、ペリーが上陸した記念日です。続いては、そのペリーが黒船で来航した、「浦賀」について書きたい思います。

●浦賀について

浦賀(うらが)は、神奈川県横須賀市東部にある地域。狭義には横須賀市浦賀またはそこに西浦賀町・東浦賀町を加えた区域、広義には町村制による明治の大合併で誕生したかつての三浦郡浦賀町付近を指す。アメリカのマシュー・ペリーが黒船で来航したことで有名な地である。

●概要

三浦半島の東部に位置し、東京湾の湾口部、浦賀水道に面する。南南東から北北西へと深く海が切れ込み、浦賀港として利用されている。湾の入り口には住民の便のため市道の一部として東西を結ぶ渡し舟が運行されている。

旧浦賀町域については、標高の高い山は無いものの山がちな地形で、海岸近くの平地に市街地が形成されている。しかし近年は京浜地域のベッドタウンとして発展し、山の上に住宅団地が造られている。

かつては住友重機械工業浦賀造船所(通称:浦賀ドック)があり、海上自衛隊の艦船の製造や修理が行われていたが、2003年3月に閉鎖された。現在、跡地は野外ミュージアムとして整備される計画である。

●歴史

半島の中では比較的早くから発展した地域であり、江戸時代には江戸湾の入り口に位置することから廻船問屋や干鰯問屋が軒を連ねた。さらに1720年には江戸湾の警備の為に浦賀奉行が置かれ、万が一の事態に備えて砲台(浦賀砲台)も整備された。浦賀は、湾に出入りする船が必ず寄港する要衝となり隆盛を極めた。

1853年には沖合にペリー率いる艦隊が来航し(黒船来航)、浦賀奉行が応対に当たった末に近隣の久里浜(現横須賀市。当時は小さな漁村)に上陸することとなった。このためぺりー上陸の記念碑や記念館は久里浜にあるが、一般に来航地は浦賀とされる。その後1860年には咸臨丸が浦賀港より出港して、太平洋を横断した。

●史跡

・燈明台(観音埼灯台が建設される前に浦賀水道を照らしていた。)
・東叶神社・西叶神社
・為朝神社
・走水神社
・浦賀奉行所跡
・浦賀ドック跡
・陸軍桟橋

●交通

・京浜急行電鉄 - 京急本線 - 浦賀駅
・駅からは京急久里浜駅・観音崎方面へ京急バスが発着する。
・横浜横須賀道路 - 浦賀インターチェンジ
・神奈川県道208号浦賀港線
・神奈川県道209号観音崎環状線
・神奈川県道210号浦賀港久里浜停車場線
・浦賀の渡船(横須賀市道2073号)
・浦賀港

●関連項目

・浦賀道

参考までですが、浦賀について「浦賀についての歴史や散策ルート」というものがございます。
こちらで見ることができます。

http://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/uragaws/

これは、あくまでも参考までです。ご了承下さい。

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此の日が「本当の夜明け」かもしれませんネ・・・パート6

続いては日本國米利堅合衆國和親條約付録についてです。参考までです。ご了承下さい。

■日本國米利堅合衆國和親條約付録について

日本國之合衆國よりの使節提督ペルリと、日本大君の全権林大学頭井戸対馬守伊沢美作守都筑駿河守鵜殿民部少輔竹内清太郎松崎満太郎、両國政府の為、取極置候条約附録、

第一ヶ條
一、下田鎮台支配所の境を定めんが為、関所を設くるは、其の意の儘たるべし、然れども、亜墨利加人も、亦既に約せし日本里数七里の境、関所出入りするに障ある事なし、但日本法度に悖る者あらば、番兵是を捕へ其の船に送るべし、

第二ヶ條
一、此の湊に来る商船、捕鯨船の為、上陸場三ケ所定置き、其一は下田、其一は柿崎、其一は港内の中央にある小島の東南に当る沢辺に設くべし、合衆國の人民必日本官吏に対し丁寧を尽くすべし、

第三ヶ條
一、上陸の亜墨利加人、免許を請ずして、武家町家に一切立寄るからず、但寺院市店見物は勝手たるべし、

第四ヶ條
一、徘徊の者休息所は、追て其為旅店を設くるまで、下田了仙寺、柿崎玉泉寺二ヶ寺を定置べし、

第五ヶ條
一、柿崎玉泉寺境内に亜墨利加人埋葬所を設け、麁略ある事なし、

第六ヶ條
一、神奈川にての条約に、箱館において石炭を得べきとあれども、其地にて渡し難き趣は、提督ペルリ承諾いたし、箱館にて石炭用意に及ばざる様其政府に告ぐべし、

第七ヶ條
一、向後両國政府に於て、公顕の告示に蘭語訳司居合はざるの外は、漢文訳書を取用ふる事なし、

第八ヶ條
一、港取締役壱人、港内案内者三人定置べし、

第九ヶ條
一、市店の品を撰求むるに、買主の名と品の価とを記し、御用所に送り、其価は同所にて日本官吏に弁じ、品は官吏より渡すべし、

第十ヶ條
一、鳥獣遊猟は、都て日本に於て禁ずる所なれば、亜墨利加人も亦此制度に伏すべし、

第十一ヶ條
一、此度箱館の境、日本里数五里を定置き、其地にての作法は、此条約第一ヶ條に記す処の規則に倣ふべし、

第十二ヶ條
一、神奈川にての条約の書翰を差越し、是に答ふるには、日本君主に於て誰に委任あるとも意の儘たるべし、

第十三ヶ條
一、茲に取極置く処の規定は、何事によらず、若神奈川にての条約に違ふ事あるとも又是を変る事なし、

 右条約附録エゲレス語、日本語にて取認め名判致し、是を蘭語に翻訳して、其書面を合衆國並日本全権双方取替すもの也、

嘉永七年五月廿二日、下田に於て、

林大学頭        花押
井戸対馬守       同
伊沢美作守       同
都筑駿河守       同
鵜殿民部少輔      同
竹内清太郎       同
松崎満太郎       同

※参考までに申し上げました。

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此の日が「本当の夜明け」かもしれませんネ・・・パート5

それでは、日米和親条約について少し詳しいものがございますので、参考までに書きたいと思います。

■日米和親条約について

安政元年(嘉永七年)甲寅三月三日(西暦千八百五十四年第三月三十一日)於神奈川調印
安政二年乙卯正月五日(西暦千八百五十五年第二月二十一日)於下田批准書交換※

※安政五年(西暦千八百五十四年三月三十日)條約十二條ニ「安政元年三月三日取替シタル條約ノ中此條々ニ齟齬スル廉ハ取用ヒス」トアリ亞墨利加合衆國と帝國日本兩國の人民誠實不朽の和睦を取結ひ兩國人民の交親を旨とし、向後可守箇條相立候ため、合衆國より全權「マッゼウ、カルブレス、ペルリ」(人名)を日本に差越し、日本君主よりは全權林大學頭井戸對馬守伊澤美作守鵜殿民部少輔を差遺し、勅諭を信して雙方左之通取極候

Signed at Kanagawa,March 31st,1854 (3rd day of 3rd Month, 7th year of Kayei). Ratifications exchanged at Simoda, February 21th, 1855 (5th day of 1st month, 2nd year of Ansei).

THE United States of America and the Empire of Japan, desiring to establish firm, lasting, and sincere friendship between the two nations, have resolved to fix, in a manner clear and positive, by means of a treaty or general convention of peace and amity, the rules which shall in future be mutually observed in the intercourse of their respective countries; for which most desirable object the President of the United States. Has conferred full powers on his commissioner, Matthew Calbraith Perry, special ambassador of the United States to Japan; and the August Sovereign of Japan has given similar full powers to his commissioners, Hayashi, Daigaku-no-kami, Ido, prince of Tsus-Sima, Izawa, prince of Mimasaki, and Udono, member of the Board of Revenue. And the said commissioners, after having exchanged their said full powers and duly considered the premises, have agreed to the following Articles: -

第一條

日本と合衆國とは其人民永世不朽の和親を取結ひ場所人柄の差別無之事

ARTICLE 1.

ARTICLE 1. There shall be a perfect, permanent, and'universal peace, and a sincere and cordial amity, between the United States of America on the one part, and the empire of Japan on the other part, and between their people respectively, Without exception of persons or places.

第二條

伊豆下田松前地箱館の両港は日本政府に於て亜墨利加船薪水食料石炭欠乏の品を日本にて調侯丈は給候為め渡来の儀差免し候尤下田港は約条書面調印の上即時にも相開き箱館は来年三月より相始候事

給すべき品物直段書の儀は日本役人より相渡し可申右代料は金銀銭を以て可相辧候事

ARTICLE 2.

The port of Simoda, in the principality of Idzu, and the port of Hakodade, in the principality of Matsmai, are granted by the Japanese as ports for the reception of American ships, where they can be supplied with wood, water, provisions, and coal, and other articles their necessities may require, as far as the Japanese have them. The time for opening the first named port is immediately on signing this treaty; the East named port is to be opened immediately after the same day in the ensuing Japanese year.

Note: A tariff of prices shall be given by the Japanese, officers of the things, which they can furnish, payment for which shall be made in gold and silver coin.

第三條

合衆國の船日本海浜漂着の時扶助いたし其漂民を下田又は箱館に護送し本國の者受取可申所持の品物も同様に可致候尤漂民諸雑費は両國互に同様の事故不及償候事

ARTICLE 3.

Whenever ships of the United States are thrown or wrecked on the coast of Japan, the Japanese vessels will assist them, and carry their crews to Simoda, or Hakodade, and hand them over to their countrymen appointed to receive them; whatever articles the shipwrecked men may have preserved shall likewise be restored, and the expenses incurred in the rescue and support of Americans and Japanese who may thus be thrown upon the shores of either nation are not to be refunded.

第四條

漂着或は渡来の人民取扱の儀は他國同様緩優に有之閉籠候儀致間敷乍併正直の法度には服従いたし候事

ARTICLE 4.

Those shipwrecked persons and other citizens of the United States shall be as free as in other countries, and not subjected to confinement, but shall be amenable to just laws.

第五條

合衆國の漂民其他の者共富分下田箱館逗留中長崎に於て唐和蘭人同様閉籠窮屈の取扱無之下田港内の小島周り凡七里の内は勝手に徘徊いたし箱館港の儀は追て取極候事

ARTICLE 5.

ARTICLE V. Shipwrecked men and other citizens of the United States, temporarily living at Simoda and Hakodade, shall not be subject to such restrictions and containment as the Dutch and Chinese are at Nagasaki, but shall be free at Simoda to go where they please within the limits of seven Japanese miles (or ri) from a small island in the harbor of Simoda, marked on the accompanying chart hereto appended; and shall in like manner be free to go where they please at Hakodade, within limits to be defined after the visit of the United States squadron to that place.

第六條

必用の品物其外可相叶事は雙方談判の上取決候事

ARTICLE 6.

If there be any other sort of goods wanted, or any business which shall require to be arranged, there shall be careful deliberation between the parties in order to settle such matters.

第七條

合衆國の船右兩港に渡来の時金銀錢並品物を以て入用の品相調候を差免し候尤日本政府の規定に相從可申且合衆國の船より差出候品物を日本人不好して差返候時は受取可申候

ARTICLE 7.

It is agreed that ships of the United States resorting to the ports open to them shall be permitted to exchange gold and silver coin and articles of goods for other articles of goods, under such regulations as shall be temporarily established by the Japanese government for that purpose. It is stipulated, however, that the ships of the United States shall be permitted to carry away whatever articles they are unwilling to exchange.

第八條

水食料石炭並缺乏の品を求る時には其地の役人にて取扱すへく私に取引しへからさる事

ARTICLE 8.

Wood, water, provisions, coal, and goods required, shall only be procured through the agency of Japanese officers appointed for that purpose and in no other manner.

第九條

日本政府外國人ヘ當節亞墨利加人ヘ不差免候廉相免し候節は亞墨利加人へも同樣差免許可申右に付談判猶豫不致候事

ARTICLE 9.

It is agreed that if, at any future day, the Government of Japan shall grant to any other nation or nations privileges and advantages which are not herein granted to the United States and the citizens thereof, that these same privileges and advantages shall be granted likewise to the United States and to the citizens thereof, without any consultation or delay.

第十條

合衆國の船若し難風に逢さる時は下田箱館兩港の外猥に渡來不致候事

ARTICLE 10.

It is agreed that if, at any future day the government of Japan shall grant to any other nation or nations privileges and advantages which are not herein granted to the United States and the citizens thereof, that these same privileges and advantages shall be granted likewise to the United States and to the citizens thereof, without any consultation or delay.

第十一條

兩國政府に於て無據儀有之候時は模樣に寄リ合衆國官吏の者下田に差置候儀も可有之尤約定調印より十八箇月後に無之候ては不及其儀候事

ARTICLE 11.

There shall be appointed, by the government of the United States, consuls or agents to reside in Simoda, at any time after the expiration of 18 months from the date of the signing of this treaty: provided that either of the two governments deem such arrangement necessary.

第十二條

今般の約条相定候上は両國の者堅く相守可申尤合衆國主に於て長公会大臣と評議一定之後書を日本大君に致し此事今より後十八ヶ月を過き君上許容之約条取替し候事

右の条日本亜美利加両國の全権調印せしむる者也

 嘉永七年三月三日
    林 大学頭  花押
    井戸対馬守  同
    伊沢美作守  同
    鵜殿民部少輔 同
    マツゼウ、カルブレズ、ペルリ  手記

ARTICLE 12.
The present convention having been concluded and duly signed, shall be obligatory and faithfully observed by the United States of America and Japan, and by the citizens and subjects of each respective power; and it is to be ratified and approved by the President of the United States, by and with the advice and consent of the Senate thereof, and by the August Sovereign oil Japan, and the ratifications shah be exchanged within 18 months from the date of the signature thereof, or sooner if practicable.

In faith whereof, we, respective plenipotentiaries of the United States of America and the Empire of Japan aforesaid, have signed and sealed these presents.
Done at Kanagawa, this thirtieth day of March, in the year of, Our Lord Jesus Christ, one thousands eight hundred, and of Kayei the seventh year, third month, and third day.

    (I.S.)(S.d.) M. C. Perry.
     〃  〃  Hayashi Daigaku no Kami .
     〃  〃  Ido Tsushima no Kami .
     〃  〃  Udono Minbushoyu .

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此の日が「本当の夜明け」かもしれませんネ・・・パート4

わが国は、ペリーによって開国し、鎖国時代は終わりを告げたといわれています。それでは、日本の鎖国政策が崩壊する発端となった、江戸幕府とアメリカ合衆国が締結した条約、「日米和親条約」ついて書いていきたいと思います。

●日米和親条約について

日米和親条約(にちべいわしんじょうやく)とは、1854年3月31日(嘉永7年3月3日)に江戸幕府とアメリカ合衆国が締結した条約で、日本の鎖国政策が崩壊する発端となった。神奈川条約とも[1]。日本側全権は林復斎(大学頭)、アメリカ側全権は東インド艦隊司令長官のマシュー・ペリーである。

●概要

幕末の混乱期から明治初頭にかけ、日本が列強と結ぶことを余儀なくされた不平等条約の一つである。この条約の締結によって日本は下田と箱館(現在の函館)を開港し、鎖国体制は崩壊した。

条約の日本語批准書原本は、幕末の江戸城火災により焼失した。オランダ語によって書かれた批准書原本のうち、アメリカ合衆国が持ち帰った物については、アメリカ国立公文書記録管理局で保管されており、現存する。2004年(平成16年)には、日米交流150周年を記念して、アメリカから日本へ条約批准書のレプリカが贈られた。

日米の、日は日本。米はメリケン(米利堅)で、条約の正式名は、日本國米利堅合衆國和親條約(にほんこくめりけんがっしゅうこくわしんじょうやく)である。

●経緯

1806年(文化3年)にアヘン戦争による清国の敗北もあり、江戸幕府は異国船打払令から薪水給与令に改めた。この変更も開国など鎖国体制を崩壊させることを意味せず、諸外国には穏便に帰国してもらうことが目的であった。

1853年(嘉永6年)にペリーは艦隊(黒船)を引き連れて、フィルモア米大統領の開国・通商を求める親書を持って、幕府に開国・通商を求めたが、幕府側が1年の猶予を求めたため一時退去した。(黒船来航)

翌年2月13日(嘉永7年1月16日)に再び来日して江戸湾(東京湾)へ入港した。幕府は、武蔵国久良岐郡横浜村字駒形(神奈川県横浜市中区の神奈川県庁付近、現横浜開港資料館所在地)に応接所を設置し、約1ヶ月にわたる協議の末、全12箇条からなる日米和親条約を締結した。

その後伊豆国下田(現静岡県下田市)の了仙寺へ交渉の場を移し、同年5月25日に和親条約の細則を定めた下田条約(全13箇条)を締結した。なおペリー艦隊は同年6月1日に下田を去り、帰路琉球へ立ち寄り、琉球王国とも通商条約を締結させている。(琉米修好条約)

●アメリカ側の目的

アメリカがその時代には貴重な燃料として使われていた鯨油として利用するため、太平洋に鯨を捕りに行くと大量の燃料が必要になるから、それを日本で補給して燃料代を浮かせようとした、のが目的であったといわれる。

また、別の目的には食料と水の補給補給確保である。特に、穀類は別としても、冷蔵庫もしっかりした保存食も無い時代において、脚気や壊血病の防止、また乗組員の満足できる味と量の食事のためには生野菜や肉類の補給は必要であった。また、清をはじめとする東アジアとの貿易のための補給港としても重宝された。

●条約内容

日米和親条約では次のような内容が定められた。

・アメリカに物資を補給(薪水給与)するために下田、函館を開港(条約港の設定)すること。(第二條)
・漂流民の救助、引き渡し。(第三條)
・アメリカ人居留地を下田に設定する。(第五條)
・片務的最恵国待遇(第九條)
また下田条約では次のような細則が定められた。

・アメリカ人の移動可能範囲は下田より7里、函館より5里四方に限り、武家・町家に立ち入る事を禁ず。
・アメリカ人に対する暫定的な休息所として了仙寺・玉泉寺に置き、米人墓所は玉泉寺に置く。
・アメリカ人が鳥獣を狩猟する事を禁ず。
※全文についてはウィキソースを参照してください。

●脚注

1. 大辞林 日米和親条約
2. 日米和親条約の原文より

●関連項目

・日本史の出来事一覧
・条約の一覧
・日米修交記念館

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此の日が「本当の夜明け」かもしれませんネ・・・パート3

先ほどは、「黒船来航」ついて書きました。続いては、その黒船に乗ってやってきたというペリー(マシュー・ペリー)について書きたいと思います。いったい、マシュー・ペリーとはどんな人だったのでしょう・・・。

●マシュー・ペリーについて

マシュー・カルブレイス・ペリー(英: Matthew Calbraith Perry, 1794年4月10日 - 1858年3月4日)は、アメリカ海軍の軍人。エリー湖の戦いにおけるアメリカ海軍の英雄であるオリバー・ハザード・ペリーの弟。日本の江戸時代に艦隊を率いて鎖国をしていた日本へ来航し、開国させたことで知られる。

来航当時の幕府はオランダ語通訳を使用していたため、当時の文書にはオランダ風発音の「ペルリ(漢字では彼理)」で表記された。

水兵や海兵隊員、他の士官たちからペリーの威張った態度、挨拶や合図の声が熊のように大声で聞こえるので「熊おやじ」と隠れてあだ名されていた。

●経歴

ロードアイランド州ニューポートでアメリカ海軍私掠船長のクリストファー・レイモンド・ペリーと妻セーラの間に三男として生まれる。兄はクリストファー・レイモンド・ペリー、オリバー・ハザード・ペリー。1809年に自身も海軍に入り、1812年からの米英戦争に2人の兄とともに参加する。1833年にブルックリン海軍工廠の造船所長となり、1837年にアメリカ海軍最初の蒸気船フルトン号を建造する。同年海軍大佐に昇進し、1841年には同海軍工廠の司令官となった。蒸気船を主力とする海軍の強化策を進めると共に、士官教育にあたり、蒸気船海軍の父とたたえられた。

1852年3月に東インド艦隊司令長官に就任、日本開国の指令(ただし発砲は禁止された)を与えられた。同年11月フィルモア大統領の親書を携えてバージニア州ノーフォークを出航した。フリゲート艦ミシシッピ号を旗艦とした4隻の艦隊はカナリア諸島・ケープタウン・シンガポール・香港・上海・琉球(沖縄)・小笠原諸島を経由し、嘉永6年6月3日(1853年7月8日)、浦賀に入港した。6月9日(同7月14日)、幕府側が指定した久里浜に護衛を引き連れ上陸、戸田氏栄・井戸弘道に大統領の親書を手渡した。ここでは具体的な協議は執り行われず開国の要求をしたのみで、湾を何日か測量した後、幕府から翌年までの猶予を求められ、食料など艦隊の事情もあり、琉球へ寄港した。

太平天国の乱がおこり、米国での極東事情がうつろう中、嘉永7年1月16日(1854年2月13日)に旗艦サスケハナ号など7隻の軍艦を率いて現在の横浜市金沢区の沖に迫り条約締結を求め、3月3日(新暦3月31日)に神奈川で日米和親条約を調印した(詳しくは黒船来航参照)。またその後、那覇に寄港して、同年(新暦7月11日)、琉球王国とも琉米修好条約を締結した。

帰国した後は遠征記などを記す。晩年は鬘を着用していた。1858年3月4日ニューヨークで死去、64歳だった。墓所はロードアイランド州アイランド墓地にある。

●人物

・ペリーは浦賀来航の際に幕府に旗を二本贈っているが、旗の種類及び贈った目的は不明。高麗環文書では、「開国か降伏か」を迫る文書を同時に渡したとされている。ペリーの交渉態度が高圧的かつ恫喝的と見られたせいか、砲艦外交と呼ばれる。ただし同文書に記載された内容は当時の状況と矛盾する点が多く、日本史の専門家からは一部の人を除き偽書と判断されている。
・ペリーは日本に初めて電信をもたらした。電線を1km程引き、公開実験をおこなった。このとき、「YEDO, YOKOHAMA」(江戸、横浜)と打った。
大変家族思いで、子供たちが兄弟ケンカをしないよう強く戒める手紙を書き残している。
・ペリー上陸の地である神奈川県横須賀市久里浜には「上陸記念碑」と「ペリー記念館」が建てられている。
・ペリーは日本に行く前に日本の研究を行い、「日本人は自分たちの事を世界で一番優秀な民族だと思っているようだから、その鼻をへし折るような交渉の仕方が効果的だろう」と結論を下している。

●ペリー艦隊

永6年6月3日(1853年7月8日)に江戸湾の浦賀沖に姿を現したペリー率いるアメリカ海軍東インド艦隊の4隻の軍艦。日本人はこれを「黒船」と呼んだ。

日本語では「ペリー艦隊」であるが、「フリート」 ( Fleet ) ではなく「スコードロン」 ( Squadron ) であるため、細かい訳では「小艦隊」が正しい[1]。

来航した黒船のうち蒸気船は2隻のみであり、
『太平(たいへい)の 眠りをさます 上喜撰(じょうきせん)
 たった四杯(しはい)で 夜(よる)も眠れず』
の狂歌に詠まれたような、四杯(4隻)すべてが蒸気船という表現は誤りである[2]。

・旗艦:「サスケハナ」(USS Susquehanna) 1850年12月24日フィラデルフィア海軍工廠で竣工
・外輪式フリゲート:水線長76メートル、満載排水量3,824トン、乗員300名。
・装備 10インチ砲3門、8インチ砲6門
・「ミシシッピ」(USS Mississippi)
・外輪式フリゲート
・「プリマス」(USS Plymouth)
・帆船
・「サラトガ」(USS Saratoga)
・帆船

●著作の訳書

・『ペルリ 日本遠征記』 土屋喬雄、玉城肇訳 岩波文庫全4巻 初版昭和27~30年(1952年~1955年)
・『ペリー提督日本遠征記』 大羽綾子訳 法政大学出版局 初版昭和28年(1953年) 
・『ペリー艦隊日本遠征記』 上・下 オフィス宮崎編訳 万来舎 平成21年(2009年)
原著は『Narrative of the Expedition of an American Squadron to the China Seas and Japan.』 <アメリカ合衆国第33議会第2会期中特殊刊行物第97>1856年

・サミュエル・ウィリアムズ 『ペリー日本遠征随行記』 <第1期新異国叢書8> 雄松堂出版 艦隊の通訳官
・『ペリー日本遠征日記』 <第2期新異国叢書1> 雄松堂出版 ペリー自身の日記の訳書
・『スポルディング 日本遠征記』 <第3期新異国叢書4> 雄松堂出版 ポーハタン号の書記官 
・『ペルリ提督琉球訪問記』 神田精輝訳著 国書刊行会 平成9年(1997年)
・『ペリー提督日本遠征日記』 木原悦子抄訳  <地球人ライブラリー>小学館 平成8年(1996年)
・『ペリー日本遠征記図譜』 <豆州下田郷土資料館編>京都書院アーツコレクション 平成11年(1999年) 文庫版

●その他

幕府へ電信機と模型機関車を献上した。エンボッシングモールス電信機は逓信総合博物館に伝わる。模型機関車は、1872年に工部少輔の山尾庸三が京都博覧会で展示するため、正院に払い下げを求め、調査の結果、幕府海軍所が保存していた時代に火災によって失われたことが判ったという。

●脚注

1.杉浦昭典著 「蒸気船の世紀」 NTT出版 平成11年(1999年)6月28日初版第一刷発行 ISBN 4-7571-4008-8
2. 「天下泰平が続き、すっかり眠りこけていた役人どもが、たった4杯の上等なお茶を飲んだだけで夜も眠れなくなった」、と、普段の威厳はどこへやら、わずかな外国船の来航にすら慌てふためく江戸幕府を庶民が揶揄したもの。「上喜撰」とは高級日本茶「喜撰」の上物のことで、「蒸気船」と、「四杯」は湯飲みのお茶と船の数え方が同じであること、それぞれの掛詞(駄洒落)。高級茶は安物に比べ、覚醒効果が高いと言われていた。
3. 沢和哉「日本の鉄道 100年の話」(築地書館、1972年)7頁。

●関連項目

・黒船来航
・日米修交記念館
・幕末の人物一覧
・膳所茶

●参考文献

・猪口孝 『猪口孝が読み解く 「ペリー提督日本遠征記」』 NTT出版 平成11年(1999年) ISBN 475714010X
・三谷博『ペリー来航』 日本歴史叢書新装版 吉川弘文館 平成15年(2003年)
・大江志乃夫『ペリー艦隊大航海記』立風書房 1994年 、朝日文庫 平成12年(2000年)
・サミュエル・エリオット・モリソン 座本勝之訳 『伝記ペリー提督の日本開国』双葉社 平成12年(2000年)
・小島敦夫 『ペリー提督  海洋人の肖像』 講談社現代新書 平成17年(2005年) ISBN 4061498223
・曾村保信 『ペリーは、なぜ日本に来たか』 新潮選書 昭和62年(1987年)

これは、参考までです。

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此の日が「本当の夜明け」かもしれませんネ・・・パート2

続いては、嘉永7年来航から順に書いていきます。

●嘉永7年来航

嘉永7年1月(1854年)、ペリーは琉球を経由して再び浦賀に来航した。幕府との取り決めで、1年間の猶予を与えるはずであったところを、あえて半年で決断を迫ったもので、幕府は大いに焦った。ペリーは香港で将軍家慶の死を知り、国政の混乱の隙を突こうと考えたのである。ここに彼の外交手腕を見て取ることもできる。

1月14日(同年2月11日)に輸送艦「サザンプトン」(帆船)が現れ、1月16日(同年2月13日)までに旗艦「サスケハナ」、「ミシシッピー」、「ポーハタン」(USS Powhatan 以上、蒸気外輪フリゲート)、「マセドニアン」、「ヴァンダリア」、「レキシントン」(以上、帆船)の巡洋艦六隻が到着した。なお、江戸湾到着後に旗艦は「ポーハタン」に移った。2月6日に「サラトガ」、2月21日に「サプライ」(両帆船)が到着して計九隻の大艦隊が江戸湾に集結し、江戸はパニックに陥った(一方で、やはり浦賀には見物人が多数詰め掛け、観光地のようになっていた。また、勝手に舟を出してアメリカ人と接触する市民もいた。吉田松陰が外国留学のため密航を企てポーハタン号に接触したのはこの折である)。

まず、アメリカ側が船上でフランス料理を振舞った。日本人は鯛を喜ぶ、という情報を仕入れていたアメリカ側は鯛を釣って料理する、などの日本側を意識した部分が料理にあった。一方、日本側の招待された面々は、十手と孫の手をナイフとフォークに見立てて作法の練習をしたという。アメリカ側の記述によると、最後に本来ならメニューを持ち帰るべきところを料理その物を懐紙に包んでもって帰り、しかも、様々な料理を一緒くたに包んでいた事に驚いた、という(本膳料理には『硯蓋』という揚げ菓子があり、それを持って帰るのが作法である)。その応饗として、横浜の応接所で最初の日米の会談が行われた後、日本側がアメリカ側に本膳料理の昼食を出した。料理は江戸浮世小路百川が2000両で請負い、300人分の膳を作った。2000両を現代の価値に計算すると約1億5千万円近く、一人50万円になる。最上級の食材を使い、酒や吸い物、肴、本膳、二の膳、デザートまで百を超える料理が出された。しかし、肉料理が出ないのは未開だから、という偏見や、総じて生ものや薄味の料理が多かったのと、一品当たりの量がアメリカ人にとっては少なかったようで、ペリーは「日本はもっといいものを隠しているはずだ」と述懐している。ただし、「日本は出来る限りの事をやった」と述べたアメリカ側の人物もいる。その後、日本側は何かにつけてアメリカ側に料理を食べに行ったとされる。

約1ヶ月にわたる協議の末、幕府は返答を出し、アメリカの開国要求を受け入れた。3月3日(3月31日)、ペリーは約500名の兵員を以って武蔵国神奈川の横浜村(現神奈川県横浜市)に上陸し、全12箇条に及ぶ日米和親条約(神奈川条約)が締結されて日米合意は正式なものとなり、徳川家光以来200年以上続いてきた、いわゆる鎖国が解かれた。その後、伊豆国下田(現静岡県下田市)の了仙寺へ交渉の場を移し、5月25日に和親条約の細則を定めた全13箇条からなる下田条約を締結した。

ペリー艦隊は6月1日に下田を去り、帰路に立ち寄った琉球王国とも正式に通商条約を締結させた。ペリーは米国へ帰国後、これらの航海記『日本遠征記』(現在でもこの事件の一級資料となっている)をまとめて議会に提出したが、条約締結の大役を果たしたわずか4年後の1858年に64歳で死去した。その後、米国は熾烈な南北戦争に突入し、日本や清に対する影響力を失い、これらの国は結局、英国やフランス、ロシアが勢力を拡大してしまった。ちなみに、昭和20年(1945年)9月2日、東京湾の戦艦ミズーリ艦上で日本の降伏文書調印式が行われた際、この時のペリー艦隊の旗艦「ポーハタン」号に掲げられていた米国旗が本国より持ち込まれ、その旗の前で調印式が行われた。

●白旗伝説

ペリーは浦賀来航の際に幕府に旗を二本贈っているが、旗の種類及び贈った目的は不明。高麗環文書では、「開国か降伏か」を迫る文書を同時に渡したとされる。二本の旗のうちひとつは白旗であり、降伏の際に用いる旗であると説明されていたという。ただし同文書に記載された内容は当時の状況と矛盾する点が多く、日本史の専門家からは一部の人を除き偽書と判断されている。

●砲撃戦

ペリーの『日本遠征記』によると、2度の来航で100発以上の空砲を祝砲、礼砲、号砲の名目で撃っており、日本側史料には、これが大混乱を巻き起こしたことが記録されているが、いずれも被害は無く、実戦は行っていないはずである。ところが、1月16日に結集した「ポーハタン」以下七隻の内、蒸気船二隻と帆船三隻が安房国(千葉県)洲崎を砲撃した、と日本側の古文書にある。

事件は嘉永7年1月23日(1854年2月21日)丑の下刻、洲崎を警護する備前岡山藩陣地への砲撃であった。艦船の砲弾は陣地の手前10メートルほどの海中に落下した。備前藩は非常召集を行って大砲5門を以って砲撃、蒸気船二隻は逃走したが、帆船三隻に命中した。備前の守備隊は舟艇で帆船への乗船を試み、反撃を受けて300名ほどが死傷したが、三隻を「御取り上げ」(拿捕)した。しかし、この事件は2月1日(2月27日)の記録を最後に途絶えている。また、他に一切の情報が無い為に、文章の信憑性が疑われている。

●関連項目

日米関係史 帝国主義時代

・アヘン戦争
・アロー戦争
・グレート・ホワイト・フリート

●脚注

1.岩下哲典『予告されていたペリー来航と幕末情報戦争』洋泉社 平成18年(2006年)

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此の日が「本当の夜明け」かもしれませんネ・・・パート1

皆さん、こんにちわ。更新です。今日は、7月14日です。今日、7月14日は、何の日??と申しますと、「ペリー上陸記念日」だそうです。皆さんも歴史の授業でも習った記憶があると存じます。ペリーは、わが国が鎖国の時代、開国を要求したことでも知られていますね・・。

ということで、今日は、この「ペリー上陸記念日」ついてお話をしたいと思います。

※ペリー上陸記念日
1853年(嘉永6年)にアメリカの4隻の黒船艦隊が江戸湾の浦賀沖に現れ、ペリー提督が久里浜に上陸して将軍への親書を渡した。翌年来航したペリーとの間で「日米和親条約」が結ばれ、日本の鎖国が終わった。

それでは、このペリーの来航でもおなじみの、「黒船来航」について書いていきたいと思います。

●黒船来航について

黒船来航(くろふねらいこう)とは、嘉永6年(1853年)にアメリカ合衆国の海軍所属の東インド艦隊艦船が、日本の江戸湾浦賀(神奈川県横須賀市浦賀)に来航した事件。マシュー・ペリー提督によってアメリカ合衆国大統領国書が江戸幕府に渡され、日米和親条約締結に至った。日本では一般に、この事件から明治維新までを「幕末」と呼んでいる。

●背景

欧米による帝国主義時代・開港による植民地化を目的とした寄港拠点の確保

産業革命を迎えた西ヨーロッパ各国は、大量生産された工業品の輸出拡大の必要性から、インドを中心に東南アジアと中国大陸の清への市場拡大に急いでいたが、後にそれは熾烈な植民地獲得競争となる。競争にはイギリス優勢のもとフランスなどが先んじており、インドや東南アジアに拠点を持たないアメリカ合衆国は、西欧との競争のためには、清を目指するうえで太平洋航路の確立が必要であった。

アメリカの思惑の本質・捕鯨船の物資補給を目的とした寄港地の確保

産業革命によって、欧米の国々は日本沿岸を含み世界中の海で、「近代捕鯨」を盛んに行なっていた。これは、夜間も稼動を続ける工場やオフィスのランプの灯火として、主にマッコウクジラの鯨油を使用していたからである。太平洋で盛んに捕鯨を操業していたアメリカは、太平洋での航海・捕鯨の拠点(薪、水、食料の補給点)の必要に駆られていた。

★ジョン・万次郎

実際にアメリカが、日本近海で捕鯨を目的とした操業を行っていた例として、ジョン・マンこと中濱万次郎は、高知沖で、遭難し無人島の鳥島に仲間といたところ、アメリカの捕鯨船に救助された。当時15歳だった万次郎は、捕鯨船の船長の養子同然となり、その後アメリカにて修学し、アメリカで近代捕鯨の捕鯨船の船員となった。しかし、望郷の念は強く、カリフォルニアの金鉱で働き得た資金により、捕鯨船を確保し、ハワイに残された土佐の清水中浜村の漁師仲間と共に、日本に帰るべく出航した。

当時の薩摩藩琉球にたどり着いたとき万次郎は25歳であった。その後、紆余曲折はあったが、日米和親条約の平和的締結に向け、通訳やアメリカの思惑や情勢を詳しく知る者として、時には裏方として尽力した。これら万次郎が幕府に徴用されたのは、英語話者やアメリカ滞在者としての経歴だけでなく、アメリカの目的が捕鯨基地であり、万次郎自身がそのアメリカの捕鯨船船員であったことも無視できないだろう。

●嘉永6年来航

★ペリー艦隊出航

1852年11月24日、58歳のマシュー・カルブレース・ペリー司令長官兼遣日大使を乗せた巡洋艦「ミシシッピー」を旗艦とする東インド艦隊は、一路アジアへと向かった。ペリーはタカ派のフィルモア大統領(ホイッグ党)から、琉球の占領もやむなしと言われていた。

艦隊は大西洋を渡って

・マデイラ島(12月11日~15日)
・セントヘレナ島(1853年1月10日・11日)
・南アフリカのケープタウン(1月24日~2月3日)
・インド洋のモーリシャス(2月18日~28日)、
・セイロン(3月10日~15日)、
・マラッカ海峡からシンガポール(3月25日~29日)、
・マカオ・香港(4月7日~28日)
を経て、上海に5月4日に到着した。

このとき、すでに大統領は民主党のピアースに変わっていて、彼の下でドッピン長官は侵略目的の武力行使を禁止したが、航海途上のペリーには届いていなかった。

★琉球来航
上海で巡洋艦「サスケハナ」に旗艦を移したペリー艦隊は5月17日に出航し、5月26日に琉球王国(薩摩藩影響下にある)の那覇沖に停泊した。ペリーは首里城への訪問を打診したが、王国側はこれを拒否した。しかし、ペリーはこれを無視して、武装した兵員を率いて上陸し、市内を行進しながら首里城まで進軍した。王国は仕方なく、武具の持込と兵の入城だけは拒否するとして、ペリーは武装解除した士官数名と共に入城した。ペリー一行は北殿で茶と菓子程度でもてなされ、開国を促す大統領親書を手渡した。さらに場所を城外の大美御殿に移し、酒と料理でもてなされた。ペリーは感謝して、返礼に王国高官を「サスケハナ」に招待し、同行のフランス人シェフの料理を振舞った。

しかし、王国が用意したもてなしは、来客への慣例として行ったものに過ぎず、清からの冊封使に対するもてなしよりも下位の料理を出すことで、暗黙の内にペリーへの拒否(親書の返答)を示していた。現在でも多くの国が来客に対して使う手法である。友好的に振舞ったことで武力制圧を免れたものの、王国はこの後もペリーの日本への中継点として活用された。

この当時の記録は琉球側がまとめた『琉球王国評定所文書』に詳細に記されている。

★小笠原探検

ペリーは艦隊の一部を那覇に駐屯させ、自らは6月9日に出航、6月14日から6月18日にかけて、まだ領有のはっきりしない小笠原諸島を探検した。このとき、ペリーは小笠原の領有を宣言したが、即座に英国から抗議を受け、ロシア船も抗議の為に小笠原近海へ南下したため、宣言はうやむやになった。後に日本は林子平著『三国通覧図説』の記述を根拠として領有を主張し、八丈島住民などを積極的に移住させることで、列強から領有権を承認されることになる。

6月23日に一度琉球へ帰還し、再び艦隊の一部を残したまま、7月2日に3隻を率いて日本へ出航した。

★来航

嘉永5年6月5日(1852年)、オランダ商館長のヤン・ドンケル・クルティウスは長崎奉行に「別段風説書」を提出。その内容は以下の通り。

1.アメリカ合衆国が日本との通商を求めペリー提督の艦8隻が出航、次の年の3月に江戸へ来る
2.拒否は戦争となる
3.長崎でアメリカと貿易すべき
通商条約の内容
4.アメリカ合衆国の開国意向文書概要報告
阿部正弘は同年10月に海岸防禦御用掛(海防掛)に意見を聞き11月に海防掛はこれは疑わしく長崎奉行に聞くべきと答えた。長崎奉行はオランダ人は信用できないとした[1]。そのため幕府の対応は三浦半島の防備を強化する為に彦根藩の兵を増やした程度であった。アメリカ海軍の東インド艦隊はかつて来航したことがあったが、そのときはイギリス海軍やロシア海軍艦艇のように帰ったため、今回も同じだろうと考えていた。しかし、島津斉彬がアメリカ海軍東インド艦隊の琉球来訪以降の動静を老中阿部正弘に報告し、両者は危機感を持ったが幕府内では少数派であった。

嘉永6年(1853年)クルティウスの「別段風説書」にあった3月は何事もなく過ぎた。しかし、6月3日(7月8日)に浦賀沖に現れ日本人が初めて見た艦は、それまで訪れていたロシア海軍やイギリス海軍の帆船とは違うものであった。黒塗りの船体の外輪船は、帆以外に外輪と蒸気機関でも航行し、帆船を1艦ずつ曳航しながら煙突からはもうもうと煙を上げていた。その様子から、日本人は「黒船」と呼んだ。

浦賀沖に投錨した艦隊は旗艦「サスケハナ」(蒸気外輪フリゲート)、「ミシシッピー」(USS Mississippi 同)、「サラトガ」(USS Saratoga 帆船)、「プリマス」(USS Plymouth 同)の巡洋艦四隻からなっていた。大砲は計100門あり、臨戦態勢をとりながら、勝手に江戸湾の測量などを行い始めた。さらに、アメリカ独立記念日の祝砲や、号令や合図を目的として、湾内で数十発の空砲を発射した。無論、日本を脅す為に意図的に行ったものであり、最初の砲撃によって江戸は大混乱となったが、やがて空砲だとわかると、町民は砲撃音が響くたびに、花火の感覚で喜んでいたようだ。

浦賀は見物人でいっぱいになり、勝手に小船で近くまで繰り出し、上船して接触を試みるものもあったが、幕府から武士や町人に対して、十分に警戒するようにとのお触れが出ると、実弾砲撃の噂と共に、次第に不安が広がるようになった。このときの様子は「太平の眠りをさます上喜撰 たった四はいで夜も寝られず」(蒸気船と茶の上喜撰、4隻を4杯、茶で眠れなくなる様子を、黒船の騒ぎとかけた皮肉)という狂歌に詠まれている(ただし、同時代史料においては類似した句が見られるのみで、主に明治11年(1878年)の『武江年表』や大正3年(1914年)『江戸時代落書類聚』など、明治以降に出典が見られることから、後世に喧伝された歌である可能性も指摘されている。また、上記のとおり、黒船4隻中、蒸気船は2艦のみである)。

幕府は、船上のペリーに対してまず浦賀奉行所与力の中島三郎助を派遣し、ペリーの来航が将軍にアメリカ合衆国大統領親書を渡すことを目的とすることを把握したが、ペリー側は幕府側の与力の階級が低過ぎるとして親書を預けることを拒否した。続いて同じく香山栄左衛門が訪ねたが対応は変わらず、親書は最高位の役人にしか渡さないとはねつけられた。香山は上司と相談する為に4日の猶予をくれるように頼んだが、ペリーは3日なら待とうと答え、さらに親書を受け取れるような高い身分の役人を派遣しなければ、江戸湾を北上して、兵を率いて上陸し、将軍に直接手渡しすると脅しをかけた。

このとき第12代将軍徳川家慶は病床に伏せていて、国家の重大事を決定できる状態には無かった。老中首座阿部正弘は、6月6日(同年7月11日)に国書を受け取るぐらいは仕方ないだろうとの結論に至ったため、嘉永6年6月9日(1853年7月14日)にペリー一行の久里浜上陸を許し、浦賀奉行の戸田伊豆守・井戸石見守がペリーと会見した。ペリーは彼等に開国を促すフィルモア大統領親書、提督の信任状、覚書などを手渡したが、幕府は将軍が病気であって決定できないとして、返答に1年の猶予を要求したため、ペリーは返事を聞く為、1年後に再来航すると告げた。艦隊は6月12日(同年7月17日)に江戸を離れ、琉球に残した艦隊に合流して香港へ帰った。

それからわずか10日後の6月22日(同年7月27日)に将軍家慶は死去すると、13代将軍に家定が就いたが、彼は病弱で国政を担えるような人物ではなかった。しかし老中等にも名案は無く、国内は異国排斥を唱える攘夷論が高まっていたこともあって、老中首座の阿部は開国要求に頭を悩ませた。そこで彼は、広く各大名から旗本、さらには庶民に至るまで、幕政に加わらない人々にも、外交についての意見を聞こうとしたが、これは開幕以来初めてであった。国政に発言権の無かった外様大名はよろこんだが、名案は無かった。これ以降は国政を幕府ではなく合議制で決定しようという「公議輿論」の考えだけが広がり、幕府の権威を下げるものであった。

阿部はとりあえず、諸大名へ江戸湾警備を増強すべく、砲撃用の台場造営を命じたほか、11月14日に持ち場の変更を行わせた。

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一年に一度のロマンスです♪・・・パート11

それでは、続いては、七夕のお祭りは各地で行われるそうです。参考までに、「星田妙見宮(ほしだみょうけんぐう)」と「機物神社(はたものじんじゃ)」について書いていきたいと思います。

●小松神社 (交野市)について

小松神社(こまつじんじゃ)は大阪府交野市星田に鎮座する神社である。正式名は小松神社である。別名は星田妙見宮(ほしだみょうけんぐう)。

天之御中主大神を主祭神とし、高皇産霊大神・神皇産霊大神を祀る。祭神は、江戸時代までは、仏教では北辰妙見大菩薩、陰陽道では太上神仙鎮宅霊符神であるとされた。

●由来

生駒山系に残る数少ない岩座信仰の霊場のひとつである。

伝承によれば、平安時代、嵯峨天皇の弘仁年間(810~823)に、弘法大師が交野に来たおり、天上より七曜の星が降り、それが地に落ちた三ケ所のうちのひとつがこの地であるという。平安時代には「神禅寺」と称されており、河内長野の天野山金剛寺の古文書には、「嘉承元年(1106年)9月23日 星田神禅寺」との記載がある。明治39年11月、住吉三神を祀る星田神社の境外摂社とされた。

●祭日

・2月8日 星祭り
・7月7日 七夕祭
・7月23日 星降り祭

●アクセス

・西日本旅客鉄道片町線星田駅下車、2.5Km徒歩30分
・JR星田駅、京阪交野市駅より京阪バス17,17A乗車、『妙見口』バス停下車。一の鳥居まで徒歩約15分

●機物神社について

機物神社(はたものじんじゃ)は、大阪府交野市にある神社。七夕に関する伝説で知られる神社である。祭神の天棚機比売大神は織姫にあたる。

●由緒

この神社の創建年代等については不詳であるが、卜部兼倶が奉幣した記録があることから室町時代にはすでに格式ある神社として認識されていたと考えられる。

●境内

・本殿
・拝殿
・前拝殿

●境内社 [編集]

・東宮
・西宮

●参考文献 [編集]

・機物神社由緒略記(社務所にて頒布のもの)

参考までに機物神社では、七夕祭りが行われるそうです。それでは、最後に、機物神社七夕祭り(はたものじんじゃたなばたまつり)について書きたいと思います。

機物神社七夕祭り(はたものじんじゃたなばたまつり)について

2009.07.06(月)~07.07(火)

織姫の原型になったといわれる天棚機比売(あまのたなばたひめ)大神を祭神とする機物(はたもの)神社で行われる七夕の祭り。6日は宵宮、7日が本宮で、七夕飾りで彩られた境内には多数の露店も出る。7日は神輿が繰り出すほか、19時から神事などを執り行う。竹笹に結ばれた短冊は、夜も更けた23時30分から天の川に流される

機物神社七夕祭り データ

会場機物神社 住所大阪府交野市 交通JR津田駅から徒歩15分
ドライブ車でのご来場はご遠慮ください
料金無料
問合せ先072-891-4418(機物神社)

詳しいことはこちらで見ることができます。

http://murata35.chicappa.jp/index.html

参考までに申し上げました。

いかがでしたでしょうか??七夕の起源、いきさつ、物語、お祭りといろいろなことがわかりました。
七夕は、一年に一度、織姫と彦星が逢う大切な時間・・でも、実際の両星は14.8光年も離れているそうです。
でも、織姫と彦星のお話にはロマンを感じますね。

いずれにいたしましても、今日は、「七夕」。皆さんは、どう過ごしますか??

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一年に一度のロマンスです♪・・・パート10

七夕に行われるお祭りを書いていますが、仙台の七夕祭りは、旧暦を意識して新暦の月遅の8月7日前後に行われているそうです。
それでは、続いては、その「仙台七夕祭り」について書きたいと思います。

●仙台七夕について

仙台七夕(せんだいたなばた)または仙台七夕まつりとは五節句の1つ「七夕」に因んで宮城県仙台市で毎年行われている年中行事および祭である。地元では「たなばたさん」とも呼ばれる。

●概要

仙台七夕まつりは例年7月7日の月遅れである8月7日を中日として、8月6日から8日の3日間にわたって行われる。大規模な飾り付けがされるのは一番町や中央通りなどのアーケード街、仙台駅周辺などであるが、それ以外の商店街組織ごとの飾り付けや店舗や家庭など個別の飾り付けなど市内各地至るところに小から大まで合計3000本と言われる飾り付けがなされ[1]、街中が七夕一色になる。東北三大祭りの1つに数えられ、例年200万人以上の人が訪れる。

仙台市周辺の自治体各地の商店街などでも同時に大小さまざまな七夕飾りがなされるため、市境を越えて広がりを持つ。また、国内各地の七夕まつりに影響を与えてきたこともあって首都圏などの企業や駅や空港の七夕飾りを作成する業者も存在しており、その豪華な飾り付けが各地に移出され続けている。

●歴史

江戸時代初期、仙台藩祖の伊達政宗が婦女に対する文化向上の目的で七夕を奨励したため当地で盛んな年中行事の1つになったともされるが、詳細は不明のままである。年中行事としての七夕は江戸時代中期頃から全国各地で行われている。1783年(天明3年)には、天明の大飢饉発生による荒廃した世俗の世直しを目的に藩内で盛大に行われた。1873年(明治6年)の新暦採用を境にして年々七夕の風習は廃れ始め、第一次世界大戦後の不景気以降はそれに拍車がかかった。

1927年(昭和2年)、この状況を憂えた商店街の有志らによって大規模に七夕飾りが飾られた。すると、大勢の見物客で商店街は賑わった。翌1928年(昭和3年)には旧暦開催を新暦日付の月遅れ(8月6日・7日・8日)に開催することとし、東北産業博覧会と関連して「飾りつけコンクール」も行われ以降、華麗な飾りつけが発達するようになった。このようにして、「七夕」という庶民の風習は「七夕祭り」という昼間の商店街で行われるイベントへ転換した。しかし、第二次世界大戦の戦局の悪化とともに規模は縮小された。

戦後の1946年(昭和21年)、仙台空襲で焼け野原となった街に52本の竹飾りで仙台七夕は復活した。翌1947年(昭和22年)の昭和天皇巡幸の際、沿道に5000本の竹飾りを並べて大規模な飾りつけの「七夕祭り」が復活した。1949年(昭和24年)には七夕協賛会が発足した。高度経済成長以降は、「東北三大祭り」の1つに数えられたことで日本各地から団体旅行客が集まる祭りへと変化した。1970年(昭和45年)からは「動く七夕パレード」(現「星の宵まつり」)が始まり、夜のイベントが加わった。1983年(昭和58年)からは「夕涼みコンサート」(現「Starlight Explosion」)が始まり、無料の屋外音楽イベントの面も持ち合わせるようになった。

●七夕飾り

仙台七夕では、7種類の七夕飾りが飾れる。それぞれの飾りに意味がある。

・短冊…学問や書の上達を願う。
・紙衣…病や災いの身代わり、または、裁縫の上達を願う。
・折鶴…長寿を願う。
・巾着…富貴と貯蓄、商売繁盛を願う。
・投網…豊漁を願う。
・くずかご…飾り付けを作るとき出た裁ち屑・紙屑を入れる。清潔と倹約を願う。
・吹き流し…織姫の織り糸を象徴する。

この内、吹き流しが現在の飾りつけの中心となっているが他の6種類の飾りも諸所に見られる。吹き流しにはくす玉が付く例が多い。

その他に特徴的な飾りとして、「からくり七夕」がある。これは数体の糸操り人形がのった小型舞台で、一定の動きが自動で繰り返される。また、仙台七夕まつりの初日である8月6日が原爆の日であることから「平和七夕」が行われている。これは全国から寄せられる100万羽もの折鶴から18万羽を5本の吹流しにして飾られるもので、その他の折鶴は花輪状にして観光客に平和のメッセージとともに贈られる[2]。

飾りの設置は、まず商店街内に店舗を構える各事業所が滑車をつけた10m以上の竹を道に埋め込んである専用の差し入れ口に差し込んで立てる。次に滑車に通した紐に吹流しなどの飾り付けをつけ、紐を引っ張って飾り付けを引き上げる。最後に紐を固定する。この方法により、道の中央にアーケードのない一番町四丁目商店街では急に雨が降ってきた場合に吹流しを降ろしてビニールを被せることが出来るようになり、適宜天候に合わせた展示が出来るようになった。また他の全天候型アーケードのある商店街も含め、夜になると一度飾り付けを降ろして折り畳むかビニール袋などに包んで小さくし通行人が触れられないほど高くに引き上げている。これによって、深夜・早朝において飾り付けの破壊行為をされるのを防いでいる。

●七夕花火祭

七夕まつりの前日(8月5日)に花火大会が行われる。雨天の場合は8月9日に順延される。例年1万発を超える花火が打ち上げられており(2007年は1万6000発、2008年も同発を予定)、仙台市や宮城県のみならず他県から50万人以上の見物客が訪れる。

打ち上げ場所は広瀬川沿いの広瀬川仲ノ瀬緑地運動公園(仲の瀬橋西南側の河川敷)であり、西公園を中心に市内各地から見ることが出来る。主催は仙台青年会議所。運営費などは募金で賄われている。

また打ち上げ場所近くにある西公園ではステージが設置され、花火祭当日の午後にゆかたクイーン&キングコンテスト、ミニライブ、花火カウントダウンライブなどのイベントが開催される。ここのステージのカウントダウンで、19:30から花火が打ち上がる。

●付随イベント

仙台七夕には秋田竿燈や青森ねぶたのような熱気はなく従来、飾り付けを見て商店街の七夕セールや露店をひやかすというものであったため、「期待外れでつまらない」という感想を持つ観光客が多いとされる。そのような観光客の不満を解消する目的もあり、以下のような付随イベントが開催されている。

星の宵まつり

定禅寺通りにて、本祭り期間中の17:00~19:30に行われるパレード。以前は「動く七夕パレード」と言っていた。踊りに使用される曲は「七夕おどり」と「星の宵まつりサンバ」。2006年は、conomi(ローカルアイドル)の「CATCH A SHOOTING STAR」が応援ソングとなった(公式・非公式は不明)。人出は3夜合計で15万人以上。

夕涼みコンサート

勾当台公園の野外音楽堂にて行われる無料の音楽イベント。本祭り期間中3日間連続で昼から夜まで続き、人出は20万人以上に上る。2007年で第24回目の開催。近年は「Date fm スターライト・エクスプロージョン」[3]という名称が使われている。詳細は夕涼みコンサートを参照。

七夕ヴィレッジ

勾当台公園の時の広場(円形公園)の出店ブースおよびステージの総称。本祭り期間中3日間連続で昼から夜まで開催される。ステージでは、ラジオ3主催の公開録音やミニライブなど各種イベントが行われる。

瑞鳳殿七夕ナイト

伊達政宗らの霊廟である瑞鳳殿において開催されるイルミネーションイベント。瑞鳳殿の参道から境内まで、竹灯籠が点される。

●作品の舞台として

仙台七夕がドラマ、映画、小説の舞台となったもの

『新日本珍道中』(1958年、映画)
『東北四大祭り殺人事件』(1998年、小説・2時間ドラマ。小林久三作)
『天花』(2004年、NHK朝の連続テレビ小説)
『千の風になって (映画)』(2004年、映画)
『東北三大祭り殺人事件』(2004年、小説。木谷恭介作)
『星に願いを~償い』(待機作、映画)

●仙台から他地域へ

仙台以外で開催される「仙台七夕」を冠したイベントとして、「サンパウロ仙台七夕祭り」がある。1979年(昭和54年)からブラジル・サンパウロ市中心部のリベルダージ地区で始まり、現在はサンパウロ市のイベントカレンダーに載るほどの規模になっている。例年7月下旬から8月上旬の開催である。またブラジル各都市にも広がりを見せ、南半球にあるブラジルにとっては「冬の風物詩」として定着している[4][5]。

またフランスのパリ市では「仙台七夕まつり IN パリ」[6][7]が行われるなど仙台市のシティセールスでも用いられている。その他、仙台市が海外での七夕普及も行っており、仙台七夕国際交流実行委員会(市民組織)などが各国での七夕飾り付けを行っている。

日本国内においても2007年(平成19年)に仙台七夕で使用された七夕飾りが鹿児島県鹿児島市に運ばれ、同市の中心部商店街である天文館の11の通りに計90個飾り付けられ「奥州仙台夏飾り[8]」が開催された。さらに同県薩摩川内市の中心部商店街にも仙台七夕の飾りを5体寄贈し、仙台の七夕工房の職人が薩摩川内に赴いて七夕飾りの作り方を指導した。仙台七夕の飾りは川内花火大会(2007年(平成19年)8月16日)の際に飾られた。また2008年(平成20年)からは、薩摩川内市民が作る仙台式と川内式の双方の七夕飾りが「川内七夕まつり」で飾られる。

●余録

・仙台七夕のテーマソングは決まっていないが、本祭り前から期間中にかけて福耳の『星のかけらを探しに行こう Again』が(特にDate fmで)よく流れる。また島倉千代子の『七夕おどり』も会場内では今でもよく流れる。
・地元の暴走族がいわゆる七夕暴走と呼ばれる期間限定の暴走行為を行うことがある。基本的に祭り期間中の夜に郊外から広瀬通りを目標にやって来るのだが、仙台市都心部に入る前に警察が検挙してしまうこともあり毎年広瀬通りに至るわけではない。
・直接の関係はないが、7月の中旬には青森県八戸市でも「八戸七夕祭り」がある(仙台七夕以前にはいろんな地区で七夕祭りが行われたりする)。
・「本祭り期間中、一度は雨が降る」というジンクスがある。
・実際、2007年は3日間とも雨が降った。

●交通

8月初旬は東北三大祭りなどを巡る観光バスが日本各地から東北地方に集まってくるため、一般道路及び各公共交通機関は非常に混雑する。仙台七夕開催期間中はそれらが仙台に集中するため、観光バスに限って一時的に路上駐車禁止が解除される区間やその他の交通規制が敷かれる。また、JRや仙台市交通局が祭り期間中に列車やバスの臨時便を運行している。

都心部への鉄道によるアクセスには、次の駅が最寄駅となる。

・JR東日本:あおば通駅・仙台駅
・仙台市地下鉄南北線:仙台駅・広瀬通駅・勾当台公園駅

●脚注

1. 周辺部七夕バスツアー(仙台七夕まつり イベント情報)
2.第32回目 平和七夕(みやぎ生活協同組合)
3.MJQ WEDDING presents Date fm STARLIGHT EXPLOSION '07
4. ブラジル宮城県人会館新会館が完成しました(仙台市)
5. エッセイ5 「異国に定着した七夕祭り」(JICA東北)
6.仙台NEW
7. 「仙台七夕まつり・INパリ」の開催状況等について(仙台市)
8. 奥州仙台夏飾り

●関連項目

・七夕
・仙台市
・楽都仙台
・ベガルタ仙台
・SENDAI光のページェント(仙台の「星祭り」の双璧)

詳しくは、こちらで見ることができます。あくまでも、参考までです。

http://www.sendaitanabata.com/index.html

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一年に一度のロマンスです♪・・・パート9

続いては、秋田市の竿燈(かんとう)です。

●竿燈について

竿燈(かんとう)は、毎年8月3日~6日に秋田県秋田市で行われる祭り。竿燈全体を稲穂に、連なる提灯を米俵に見立て、額・腰・肩などにのせ、豊作を祈る。大若(おおわか)は提灯が46個、重さが約50kg。

重要無形民俗文化財に指定されており、青森のねぶた祭り、仙台の七夕まつりと並んで東北三大祭りの1つとされる。

●歴史・概要

・ねぶり流し行事として行われている竿燈であるが、宝暦年間には原型があったといわれている。
五穀豊饒や除災、技芸上達を願って、旧暦の7月7日にあわせて行われる七夕行事とともに、旧暦7月15日のお盆を迎え入れるために一連の行事として現在の形になったとも言われている。
大きさや重さは、次の通り。
大若(大人用)で重さ50kg、長さが12m、提灯の数が46個と非常に重い。
・小若(小学生高学年~中高生用)で重さ15kg、長さが7m、提灯の数が24個である。女性が両手で持つのは厳しい重さである。
・幼若(小学生低学年以下用)で、重さ5kg、長さが5m、提灯の数が24個。こちらは大人なら誰でも持てそうな重さ。
・上記の若を、差し手が流しから平手、額、肩、腰などにのせてバランスをとり、上達してくると、扇子を仰ぎながら行っているのも見られる。
・人によっては、顎にのせる人がいたり、町内によっては「鳩」を仕掛けたりとユニークなものもある(纏)。

・提灯の絵柄は、「兎の餅つき」の図柄で「上米町一丁目」という様に絵とその町内の文字などで分かることが多い。
提灯には、雨によって貼った和紙が溶けないように、油が表面に塗られており、堤燈台も倒れたときのために、下部が両脇に空気を通すための穴がある。

・今では、殆どが1町内に1つのスポンサーが入り竿燈が行われている。
・開催場所は秋田県道26号秋田停車場線の竿燈大通り(かんとうおおどおり)といわれている「二丁目橋」交差点~「山王十字路」の区間。ここに、約200近くの企業や学校などが参加し、終了時間近く(20:30(JST)ころ)には「ふれあい竿燈」のコーナーがあり体験できる。期間外でも「ねぶり流し館」に行けば竿燈の歴史や体験もできる。竿燈の明かりは電球ではなくすべて火をともしたロウソクであり、強風であおられたり演技失敗により倒れるなどした場合消えたり、ごく稀に燃え上がる事がある。観覧席付近は倒れても被害が出ないようロープを張るなどしているので安全は確保されている。
途中、秋田中央道路(秋田都市計画道路1・4・2号)の出口(山王ランプ)もこの付近にあり、7月下旬~8月9日までの18:00~21:30頃閉鎖する予定。
以前は、秋田市役所前(現在の秋田中央警察署付近)や、広小路でも行われており、本数が多くなるにつれて、場所が変更になった経緯がある。

・8月4日~6日の日中には別の会場(2007年現在は、中土橋)で『妙技会』が行われており、差し手の技を見ることも出来、成績が発表され、各町内会の腕が競われている。
・雨天時は、秋田市八橋の「秋田市立体育館」で本数は限られるが行われる。
・近年では、出張竿燈(臨時出竿)を開催しており、海外でも竿燈が上げられている風景が見られる。

・鳥取県米子市で1973年から行われている「がいな祭り」のうちの「がいな万灯」(1989年から)は、「米子竿灯(のちに万灯(=まんとう))」と名乗っている。これは、自衛隊米子駐屯地が秋田駐屯地の研修の一環として参加し、それをお土産として中心になって勝手に始めたものであるため、秋田の竿燈会が存在を知り抗議を行い、念書として「海外公演をしない」などの制約をした条件で、現在もなお続けられているものである。[

・2000年までは8月4日~7日の日程で開催されていたが、東北地方の他の祭と日程が重なりやすく、主催者にとっては観光客の減少が悩みで、観光客にとっては他の祭との移動に悩んでいた。このため2001年から1日前倒しして、現在の日程となった。

・平成20年度の高円宮殿下記念地域伝統芸能賞大賞を、秋田市竿灯会が受賞した。これに伴い、2008年10月12日(日)に、さいたまスーパーアリーナで実施された「日本のまつり・The MATSURIサミット」(咲いたまつりと同時開催)で妙技が行われた。また、そのプレイベントとして、前日の2008年10月11日(土)には、浦和パルコ前で妙技が行われた。

●竿燈妙技会

戦後に、竿燈の技術を保存させるために開催された。

直径6mの円の中で、基本演技が忠実かつ安定しているかを競う。
メーンとされている、夜竿燈よりも差し手は気合が入っており、「保戸野鉄砲町竿燈会」は4連覇を2回制し、いまだにこれを超える竿燈会は存在しない。
また妙技会個人戦では室町竿燈会が最多5人の現役チャンピオンを輩出している。

●アクセス

★鉄道 [編集]

竿燈大通りまで

・JR奥羽本線(秋田新幹線)秋田駅西口から徒歩10分。

竿燈妙技会会場まで

・同駅西口から徒歩15分。

★道路

・秋田自動車道経由
・秋田南ICから国道13号で10分、「茨島交差点」を右折(秋田市街方面へ)。秋田県道56号秋田天王線で、「山王十字路」で右折して、秋田県道26号秋田停車場線の「二丁目橋」までの間の区間。
・秋田中央ICから秋田県道62号秋田北野田線を進み、「城東十字路」を右折。秋田県道28号秋田岩見船岡線交点を左折。秋田県道26号秋田停車場線の交点を右折し、道なりに進むと二丁目橋向から西側が会場となる。
・2008年から秋田中央ICから秋田県道62号秋田北野田線・秋田中央道路「旭北ランプ」出口。各駐車場へ。 秋田中央道路は、「駅東出入口は18:00」「旭北出入り口は18:15」から開放時まで全区間閉鎖。

★秋田空港から

・秋田空港からリムジンバスに乗って、北都銀行前か、交通公社前下車(所要:50分)。

★秋田港から

・フェリーターミナルから路線バスで「山王十字路」「大町二丁目」「交通公社前」のどちらかで下車。
・車で、国道7号経由(臨海十字路・県庁前経由)で20分程度

●関連項目

・秋田県道26号線
・秋田放送 - 毎年、スポンサー竿燈としてアナウンサーが参加している。
・秋田テレビ - 2007年に参加。
・NHK秋田放送局 - 開始年不明であるが、参加している。
・がいな祭り

●脚注

1.山陰中央日報08年5月22日付より
2.秋田魁新報08年5月18日付より

竿燈についての詳しいことは、こちらで見ることができます。

http://www.kantou.gr.jp/index.htm

参考までに申し上げました、ご了承下さいませ。

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一年に一度のロマンスです♪・・・パート8

続いては、弘前ねぷたについてです。

●弘前ねぷたについて

弘前ねぷた(ひろさきねぷた)は、青森県弘前市で開催される弘前四大まつりのひとつである夏祭り。

大勢の市民が「ヤーヤドー」の掛け声とともに、武者人形や武者絵が描かれた山車を引いて市内を練り歩く。 扇ねぷた(扇型)と組ねぷた(人形型)をあわせると約80台ものねぷたが運行される。

昭和55年(1980年)には国の重要無形民俗文化財に指定された。

●起源・歴史

ねぷたまつりの由来はさまざまあるが、

・(伝説)平安時代の初期、征夷大将軍・坂上田村麻呂が、敵をおびき出すために大きな人形を作った。
・(伝承)文禄2年(1593年)7月に藩祖為信が京都滞在中に盂蘭盆会で二間四方の大燈籠を出した。
・(定説)江戸時代元禄期の後半からの「七夕祭りの松明流し・精霊流し・眠り流し」や「盆灯籠」などが融合変化し、現在の華麗なねぷた発展してきた。
語源は、「眠り流し」→「ねむた流し」→「ねむた」→「ねぷた(ねぶた)」と転訛。(表記は佞武多、禰ふたと様々ある) 「眠り流し」は日本各地で行われている。農作業の激しい夏期に襲ってくる睡魔を追い払うための行事として、厄災・邪悪を水に流して村の外に送り出す行事のひとつ。

士族の子供らが作り練り歩くねぷたでは、他の町会と出くわすと相手のねぷたに石を投げつけるなど喧嘩したため、何度も「ねぷた禁止令」が出されたことがある。これを「けんかねぷた」という。 (その名残が「石打無用」という言葉になってねぷたの肩部分などに記されているものもある)

●開催状況

・例年8月1日から7日にかけて行われる。最終日7日(午前運行)のことを「なぬか日」と呼ぶ。
・企業主催のねぷたは少なく、町会・集落単位でのねぷたが多かったが、近年は任意に仲間たちが集まって参加しているグループねぷたが増加傾向にある。それゆえここ10年で10数団体増えており、2008年は81団体の参加となった。

弘前市の友好姉妹都市である、群馬県太田市(旧・新田郡尾島町、8月14,15日)と北海道斜里郡斜里町(7月中下旬)でもねぷた運行がされており、弘前ねぷたまつりに特別参加する年もある。

・期間中、1日平均約50団体が参加するが、土・日などの開催日には参加団体が多い場合がある。平成18年(2006年)の場合、木曜日の8月3日に59団体、土曜日の5日には62団体と集中したため、両日は出発時間を30分早い、午後6時半からとした。また、平成20年(2008年)には、日曜日の8月3日に63団体、駅前運行初日の5日には61団体が参加している

●参加団体数と人出(まつり本部集計)

開催年 参加団体数 人出
1965年(昭和40年) 87団体 
1966年(昭和41年) 35団体 
1967年(昭和42年) 44団体 
1968年(昭和43年) 76団体 
1969年(昭和44年) 43団体 
1970年(昭和45年) 47団体 
1971年(昭和46年) 67団体 
1972年(昭和47年) 61団体 
1973年(昭和48年) 40団体 
1974年(昭和49年) 37団体 
1975年(昭和50年) 51団体 
1976年(昭和51年) 59団体 
1977年(昭和52年) 67団体 
1978年(昭和53年) 67団体 
1979年(昭和54年) 67団体 
1980年(昭和55年) 61団体 
1981年(昭和56年) 64団体 
1982年(昭和57年) 58団体 
1983年(昭和58年) 64団体 
1984年(昭和59年) 63団体 
1985年(昭和60年) 64団体 
1986年(昭和61年) 60団体 
1987年(昭和62年) 60団体 
1988年(昭和63年) 61団体 
1989年(平成元年) 67団体 
1990年(平成2年) 64団体 
1991年(平成3年) 61団体 
1992年(平成4年) 59団体 
1993年(平成5年) 62団体 
1994年(平成6年) 63団体 
1995年(平成7年) 65団体 
1996年(平成8年) 68団体 
1997年(平成9年) 65団体 
1998年(平成10年) 64団体 
1999年(平成11年) 67団体 
2000年(平成12年) 66団体 
2001年(平成13年) 68団体(大型扇:52団体、大型組:6団体、小型扇:9団体、担ぎ:1団体) 136万人
2002年(平成14年) 68団体(大型扇:50団体、大型組:7団体、小型扇:9団体、担ぎ:2団体) 148万人
2003年(平成15年) 69団体(大型扇:51団体、大型組:7団体、小型扇:10団体、担ぎ:1団体) 173万人
2004年(平成16年) 75団体(大型扇:51団体、大型組:7団体、小型扇:15団体、担ぎ:2団体) 161万人
2005年(平成17年) 74団体(大型扇:53団体、大型組:7団体、小型扇:13団体、担ぎ:1団体) 144万人
2006年(平成18年) 75団体(大型扇:56団体、大型組:6団体、小型扇:12団体、担ぎ:1団体) 166万人
2007年(平成19年) 78団体(大型扇:58団体、大型組:7団体、小型扇:12団体、担ぎ:1団体) 168万人
2008年(平成20年) 81団体(大型扇:59団体、大型組:6団体、小型扇:15団体、担ぎ:1団体) 169万人

●運行コース

・8月1日~4日 土手町コース(午後7時運行開始)
・8月5日~6日 駅前コース (午後7時運行開始)
・8月7日    土手町コース(午前10時運行開始)

●ねぷたに使われる題材・構造

・表面の鏡絵や人形の部分では、三国志、水滸伝、津軽為信などがあるが、世相を風刺したものも登場する。裏面中央の見送り絵には虞美人のような女性、左右には袖絵が描かれる。表面と裏面の絵をつなぐ真横の部分は肩と呼ばれ、町内会・団体名などが書かれる。鏡絵や人形の下にある三角形(台形)の開きと呼ばれる部分はねぷたを支える受け皿の役割をしており、弘前藩の家紋である牡丹の花が描かれる。開きの下にある(四角形)の額の正面には天の川を意味する「雲漢」と書かれる。左面・右面・後面には武将の絵が描かれ、左・右面の絵の武将の眼は進行方向を向いている。使用される紙は「ねぷた和紙」等のロール状の紙が用いられる。

●弘前ねぷたの運行

1団体につき、先頭に町内会名や団体名を記した前灯籠・町印、その次に大型ねぷたの前座である前ねぷた(角灯籠や小型ねぷた)、ねぷた本体につないだ綱を引く曳き手、そして大型ねぷた(扇や組)、太鼓・笛などの囃子方という順番で運行されるのが一般的である。 ねぷた囃子は、進行・休み・戻りの3種類がある。掛け声は、進行がヤーヤドー、戻りがねーぷたーのもんどりこ、ヤーレヤレヤーレヤー。 変わったものとしては、津軽じょっぱり太鼓とよばれる1車線半ほどの幅を持つ太鼓を運行している。 弘前ねぷたと同様のまつりで比較的大きなものとしては黒石ねぷたが、7月30日から行われている。

また、弘前高校のように文化祭(弘高祭)時に各ホームルーム単位で弘前市内を運行する弘高ねぷたや保育園・幼稚園、小・中学校の行事で園内・校内を運行するなど学校単位で運行する場合もある。

また現在では会員の高齢化や後継者不足、財政不況、少子化による参加者不足等の理由であまり見られなくなったが、集落内で組織をつくりその集落を運行するねぷた(『村ねぷた』と呼ばれる)など、集落の祭りとして価値も高い。 現在もごく僅かではあるが、合同運行には参加せず近隣集落や町内を回る『村ねぷた』は存在し、20年以上続いている団体もある。

友好姉妹都市との交流で運行していたものが、地域の祭りとして変化したものもあり、太田市尾島地区(旧・尾島町)では、尾島ねぷたとして当地で運行されており、毎年8月14日・15日に開催され、弘前市も参加している。また、斜里町では、しれとこ斜里ねぷたとして毎年7月21・22日に開催され、大小約15台の扇ねぷたが町内約2.5kmを運行している。

●青森ねぶたとの違い

・弘前のねぷたが「neputa」であるのに対し、青森のねぶたは、「nebuta」と発音が違うが、これは昭和55年(1980年)の国の重要無形民俗文化財に指定されてから。

・弘前ねぷたは1日開始なのに対し、青森ねぶたは2日開始であるのは、弘前は「出陣」で、青森は「凱旋」であるためで、順序は青森が弘前の後になる、と言われている。(この、弘前は出陣、青森は凱旋というのは近代になってからの祭りのイメージであって、祭りとはまったく関係無い)

・形状としては、弘前は扇型が主体で、青森は人形の灯籠となるが、弘前のねぷたでも人形(組ねぷた)のものが相当数の割合で見られる。また、弘前の組ねぷたの場合、見送り絵と開きの部分がある。かつては弘前も組ねぷたが多かった。

・運行区間が城下町特有の道路の狭さゆえに、おおむね、幅は1車線分か2車線分しか取れない。また、電線に引っかからないように、扇ねぷたでは、扇の最も高い部分である、ためと呼ばれる部分を外側に折り曲げたり、扇部分を上下に可動するようにして運行出来るようにしている。さしまたと呼ばれる電線を持ち上げる道具も使用される。

●弘前四大まつり

・弘前さくらまつり(4月下旬~5月上旬)
・弘前ねぷたまつり(8月1日~7日)
・弘前城菊と紅葉まつり(10月中旬~11月上旬)
・弘前城雪燈籠まつり(2月中旬)

●関連事項

・ねぶた
・尾島ねぷた(太田市、(旧:新田郡尾島町))
・しれとこ斜里ねぷた(斜里郡斜里町)
・黒石ねぷた(黒石市)
・青森ねぶた(青森市)
・五所川原立佞武多(五所川原市)
・大湊ネブタ(むつ市)
・ローソクもらい

こちらのねぷたについて詳しいことは、こちらで見ることができます。

http://www.hirosaki.co.jp/

参考までです。ご了承ください。

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一年に一度のロマンスです♪・・・パート7

先ほどは、平安時代の歌人・在原業平について書きました。その中で、七夕には各地で日本古来の七夕祭りが行われるそうです。
それでは、続いては、その七夕祭りについて書いていきたいと思います。
青森市の「ねぶた」。弘前市の「ねぷた」、秋田市の「竿灯(かんとう)」と順に書いていきたいと思います。

まずは、青森市の「ねぶた」です。

●青森ねぶたについて

青森ねぶた(あおもりねぶた)、または、青森ねぶた祭(あおもりねぶたまつり)は、青森県青森市で、8月2日~8月7日まで開催される夏祭りである。毎年、延べ300万人以上の観光客が訪れる。ねぶた祭の中では最も観光客を集めており、東北三大祭りの一つに数えられる。青森ねぶた祭に関する資料等を有する、「青森自然公園 ねぶたの里」内の「ねぶた会館」には、享保年間(1716年~1735年)の頃に、現在の青森市油川で、ねぶた祭が行われたと記録されている。1788年に、江戸定府藩士が記した「奥民図彙」と言う図版では、京都・祇園祭の山車に似たねぶたが描かれ、人が山車を曳く様式が確認できる。1800年初頭に、人を模った人形型ねぶたが登場し、人が山車を曳くねぶたの他、ねぶたを台座に置き、担ぐ形式も登場するようになり、その後、ねぶた祭は、青森県内の各地で独自の発展を遂げて行く。また、市制施行60周年を迎えた、1958年に「青森ねぶた祭」と正式に命名され、1980年には、国の重要無形民俗文化財に指定された。

実際の祭りでは、囃子方、ハネト、ねぶたを先導する扇子持、ねぶたを動かす曵き手と言う順番に、22~23の団体がねぶたを中心に、町内を練り歩く形式で行われる。ハネトは「跳ね人」が由来とされ、独特の衣装を纏った「ハネト」と呼ばれる踊り手が、「ラッセラー」と言う掛け声と共に、跳ねる様に舞うのが特徴。そのハネトを躍らせ、ねぶたを生き物の様に舞わせるのが囃子方である。囃子方は、明治初期に「正調囃子」を復興させる活動が実行に移され、現在は凱立会と言う組織が中心となって、講習会等を行っている。凱立会は、祭りでは独立した囃子方として参加するが、普段は、正調囃子の普及と、楽器演奏の技術力向上に努めている。

●起源・歴史

以前、起源としてよく知られていたのは、のちに征夷大将軍となる坂上田村麻呂が陸奥国の蝦夷征討(三十八年戦争・第3期)の戦場において、敵を油断させておびき寄せるために、大蟷螂・笛・太鼓ではやし立てたことを由来とするものである。このため、青森ねぶた祭りの最優秀団体に与えられる賞として、1962年に「田村麿賞」が制定された(現在では「ねぶた大賞」と名称変更されている。後述)。しかし、田村麻呂が現在の青森県の地で征討活動をしたとは考えられず、ねぶたの起源とされたものも田村麻呂伝説の一つと見られる。現在では、日本全国にある土着の七夕祭りや眠り流しの行事(禊祓い)が変化したものと考えるのが主流である。

このほかにも「ねぶた」という言葉の語源から推察した仮説も存在する。 かつて東北に追われた原住民であった蝦夷を組織化し、征東大将軍紀古佐美の率いる五万の大軍を北上川で全滅させ、鉄武器を奪って田子の浦まで攻め込んだ阿弖流為という王が東北にはいた。その後、大陸の援助で鉄武器を大量に補給された坂上田村麻呂らと12年に渡って戦ったが、最後には制圧されて蝦夷は滅びた。 阿弖流為は今の大阪府の杜山まで連行され朝廷に謁見後、斬首、さらし首にされたが、東北に残っていた妻子や残党は、大きな穴を掘らされて生きながら埋められ惨殺されたとされている。その生き埋めの上に土をかけ、その土を素直に降伏し奴隷となった者らに踏みつけさせた。これが今の東北三大奇祭のねぶた(根蓋)の起こりであるとされている。 つまり『根』(死)の国へ追いやるための土かぶせの『蓋』ということである。踏んづける恰好をする踊りに坂上田村麻呂の山車を担ぎ踊る様は、その時のエピソードを表現しているとされている。

藩政時代や明治時代、特に明治時代には、大型の灯籠を担いで町中を練り歩く行為に対し、しばしば禁止令が出された。戦時中も禁止されたが、戦況が悪化した1944年には、戦意高揚の為に解禁されている。戦後は企業がねぶた運行の主体となり、観光の側面が強くなるようになった。人形型ねぶたは、元々は竹を曲げて骨組みを作り、指等の細かい部分は、その上に貼った和紙に筆で描いていた。昭和30年代に、北川啓三氏(後に、ねぶたの神様)と評されるねぶた師が、針金を用いて指を1本づつ作ったり、複雑な造作のねぶたを作ったことによって、ねぶた界に革命が起こる。針金が登場した当時、一部では反発があったと言われている。

北川氏によって、ロウソクだった内部の明かりを蛍光灯に替え、台座にバッテリーを乗せ、明るく輝くねぶたを作ることに成功し、より芸術性と完成度を高め、後に「ねぶたの神様」と評される。北川氏は既に他界しているが、現在の主流となっているねぶたの磯は、北川氏が築いたと言える。ねぶた作りは、1,主題の決定、2,設計図となる下絵作り、3,パーツとなる細部の製作、4,パーツ類を配置する為の骨組み、5,明かりを灯す為の電気配線、6,針金の表面を覆う紙貼り、7,紙の上に黒いフチや線を描く書割、8,着色時の色の混濁を防ぐロウ書き、9,白地に彩色する色付け、10,持ち上げて台座に設置する台上げと言う、これらの10の工程を経て完成する。この長い工程の内、立体になる前段階の作業が最重要だと言う。現在では最大サイズとして、幅9m,奥行き7m,高さ5mと言う規定がある。

●題材

神仏、日本や中国の伝説、歴史上の人物、歌舞伎などを題材にすることが多いが、近年では地元の伝説や偉人、テレビ番組(特にNHK・大河ドラマ)などを題材にすることもある。

●開催状況

毎年8月2~7日まで開催される。このうち8月2~6日が夜間運行である。7日は昼間運行であるが、夜に海上運行と花火大会が催される。

青森のねぶたには大型ねぶた、子供ねぶた、地域ねぶたがある。子供ねぶた、地域ねぶたは主に町内会が主流となって運行するねぶたであり、大きさも普通の大型ねぶたより一回り小さい。子供ねぶたは8月2・3日の二日間運行される。大型ねぶたは開催期中必ず運行されるが、奨励金の関係か2日と3日は大型ねぶたの運行台数が少ない。

●青森市以外のねぶた・ねぷた

★青森ねぶたの遠征

恒例となっているもの太字

・「函館いか踊り」への参加
「青函ツインシティ交流」を結んでいる北海道函館市の「函館いか踊り」との間で、隔年で「ねぶた」と「いか踊り」の相互派遣が行われている。2006年は8月7日のねぶた昼間運行の先頭に「いか踊り」が登場し、2007年は函館に「ねぶた」が派遣された。
・「センター街ねぶたまつり」
2005年より、毎年9月に東京都渋谷区・渋谷センター街で開催。

現時点で単発開催のもの太字

・2005年9月 韓国ソウル特別市鐘路区大学路(日韓友情年)
・2007年8月 アメリカ合衆国ロサンゼルス市リトルトーキョー「二世週日本祭」に参加(米本土初)

★各地のねぶた

詳細は「ねぶた#各地のねぶた一覧」を参照

青森県内では、大小さまざまなねぶた・ねぷたが、合わせて約30市町村で作られている。以下は主なもの

・弘前ねぷた - 弘前市
・立佞武多 - 五所川原市
・黒石ねぷた - 黒石市
・大湊ネブタ - むつ市大湊地区

青森県外では、ねぶたが祭りの一部に組み込まれている例が見られる。

●運行コース

青森市内の国道4号、新町通り、県庁通り、平和公園通りで囲まれたエリアが運行コースとなる。

かつては(1982年まで)国道4号線県庁通り交差点から1台ずつ出発し、コースを右回りで回っていた。しかし、祭りが佳境にはいったころ車幅の狭い新町通りにねぶたが入り、ハネトで通りが一杯になり、ねぶたがいつまでたっても前に進めないという問題点が指摘された。このため1983年に左周りにコースが改められた。

その後(1992年に)ねぶた団地(ねぶたの車両基地のようなところ)が観光物産館付近のラッセランドに移されスタート地点が新町通りと柳町通り付近の交差点となった。

しかし、祭りが高潮するとハネトであふれかえるためゴール地点は常に渋滞し、祭りそのものがなかなか終了しないという問題は相変わらずであった。ねぶた祭りは青森市内の幹線道路を2本も通行止めにするので、時間通りに祭りが終了しないと市民生活に与える影響も大きい。またこの頃から、増大するカラス族(後述)の問題が無視できなくなってきた。祭りがだらだらと運行されると、カラス族が最後尾に集合し、祭りそのものが、彼らの格好の餌食にされてしまう。

そこで、2001年にはあらかじめねぶたを配置し、花火の合図で同時にスタートし花火の合図で同時に終了するという手法に改められ、コースも右周りとなった。これにより、ねぶたの列の始めと終わりがなくなり、運行もスムーズになった。また、祭りを破壊しに来るカラス族を少なくさせることにも成功した。

一方で、花火の合図と同時に最高潮にある祭りが蜘蛛の子を散らすように終了するのは見ていて寂しいものがある。

なお最終日の7日に限り、現在でもねぶたが1台ずつ出発している(吹き流し)。

●ねぶた祭りへの参加

ねぶたの運行に関して基本的な運営(ねぶたの隊列、山車の運行、囃子方)は各出陣団体によって賄われる。それ以外の重要なファクターとしてねぶたをロープで引っ張る子供(現在は形式だけで実際に引く団体は稀)、ハネトがある。特にハネトに関しては正式な装束をまとってさえいればどの団体のねぶたに参加しても自由である。居住地に関しての制限も無い。一般の観光客が参加しても構わない。衣装は県内のスーパーやデパートなどで花笠を除いて一式5000円程度で販売されている。また、ねぶたの運行ルート上には衣装のレンタルを行っている所もある。こういった所では衣装の着付けもしてくれるので気軽にハネトとして参加することができる。

●ねぶた大賞

最優秀のねぶた運営団体には「平成○年ねぶた大賞」(○にはその年度の数字が入る)が贈られる[1]。

また、この賞は1962年より「田村麿賞」の名称で制定されたが、坂上田村麻呂は東北地方から見れば征服者であるという見解により「賞名に征服者の名前を使うのはおかしい」という批判もあり、各界各層の意見や世論を踏まえた結果として、1995年より現在の賞名に変更された。

●「カラス族」問題

カラス族(カラスハネト)とは、ねぶた祭りで傍若無人な振る舞いをする者達である。彼らは、ハネトの正式な衣装ではなく、黒装束などの衣装でねぶたに参加し、それがカラスのように見えると言うことで「カラス族」または単に「カラス」と呼ばれるようになった。

「カラスハネト」とも言われるが、彼らの振るまいは祭りにそぐわないもので、そもそも「ハネト」の名に値しないとして、地元メディアでは、「カラス族」として表現されることが多い。徒歩暴走族の分類とされる。

カラス族は1986年あたりからねぶた祭りに現れ始めたといわれる。当初はそれほど問題視されてはいなかったが、平成に入ると暴走族などがグループの中心となるようになり、次第に悪質凶悪な集団となっていった。この問題はしばしばマスコミ等で取り上げられたが、それがかえって全国からカラス族の集団を呼び集める「逆効果」を引き起こすこととなった。 青森市にとってねぶた祭りは貴重な観光資源であり、祭りの安全かつ正常な運営は避けて通るわけにはいかない。そこで、青森市など主催者側はカラス族を監視、統制するためにカラス族を一か所にまとめてねぶたを運行するという対策を1996年に行った。しかし、この対策はカラス族を肯定することとなり、逆にカラス族を増長させるという結果になった。

この危険な集団は2000年には1万人にも増え、仲間同士の抗争、観客や警察への暴行と凶行がエスカレートし、もはや正常な祭りとは言えないような状況になった。

そこで主催者側は2001年、ねぶたの一斉スタート、一斉終了という作戦を導入した。同年、県も迷惑行為等防止条例を施行し、事件にならなければ手が出せなかった警察も事件が起きる前に摘発、排除できるようにした。結果、祭りとしては盛り上がりに欠けるものになったが、カラス族対策には効果があり、事件の件数は激減した(五所川原に移動しただけとの見方もある)。しかし特に以前の祭の盛り上がりを懐かしむ人の間ではこれに反対する声も根強い。

現在ではねぶた祭りの治安はかなりよくなっている。これも、市、警察、ボランティアの人々の努力の賜物である。

近年では正装であるたすきをかけずに祭りに参加する女性が増加している。カラス族が減少している今、第二のカラス族とも言うべき、たすきをかけずに、まるで振袖のような格好の「クリオネ族」なるものも登場している。いずれにせよ、祭りに参加する者のモラルの低下が見受けられる。

暴走族を「珍走団」と呼ぶことで格好の悪いイメージを持たせるのと同様に、カラス族にも格好の悪い名称を付けることが期待されている。

●ねぶたが出た映画

・「トラック野郎 御意見無用」(1975年)東映{舞台 東北}

●その他

・北海道の七夕には、青森県のねぶたが伝播・変化して根付いた「ローソクもらい」という子供たちの行事がある。

脚注

1.各賞紹介(青森ねぶた祭オフィシャルサイト)

●関連項目

・夏祭り
・東北三大祭り
・弘前ねぷた
・五所川原立佞武多
・黒石ねぷた
・大湊ネブタ
・カラスハネト

ねぶたについてはこちらでご覧になることができます。

http://www.nebuta.or.jp/

参考までです。ご了承ください。

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一年に一度のロマンスです♪・・・パート6

先ほどは、旧暦について書きました。今度は、平安時代の歌人、在原業平は七夕について歌を残しています。

在原 業平(ありわら の なりひら、天長2年(825年) - 元慶4年5月28日(880年7月9日))は、平安時代初期の貴族。従四位上・蔵人頭・右中将。歌人であり、六歌仙、三十六歌仙のひとり。また『伊勢物語』の主人公とみなされています。

それでは、続いては在原業平と七夕について書いていきたいと思います。

★在原業平と七夕について

七夕に水を使う風習は日本固有のものですが、それはお盆の前に清める機織女儀礼に由来します。現在も各地で七夕船や七夕竹を作って川に流したり、水浴びをしたり、牛や馬を川に洗うといった水に関わる慣習が、農村を中心に数多く残されています。
また、青森市の「ねぶた」。弘前市の「ねぷた」、秋田市の「竿灯(かんとう)」は、名前から想像しにくいですが、実は、これらもすべて日本古来の七夕祭り、つまり、機織女儀礼に起源を持ちます。「ねぶた」「ねぷた」とは、「眠り流し」を語源として、祓のために、形代(かたしろ)(紙で作った人形(ひとがた)を川に流す神送り行事が厳しい農作業の妨げとなる夏の眠気を追い払う行事として発展したものです。こうした「眠り流し」の行事は、富山県をはじめ全国各地でも見られます。

一方、町全体が七夕伝説で彩られた場所もあります。こちらは「機織」ではなく、ロマンチックな星伝説の方です。それぞれが、大阪府枚方市(ひらかたし)から交野市(かたのし)にかけて広がる交野が原を流れる、その名も「天野川」(あまのがわ)です。この川は、生駒山地田原を源流に北へ流れ、淀川に注ぎます。上流にあった風化花崗岩(かこうがん)が流れたため、かつての川原は白砂で白く覆われていました。それが銀河系の「天の川」」を彷彿とさせ、この名がつけられたといいます。また、この川には仙女が水浴びに降りてきたという伝説があって、天上の神が地上を訪れる際の道になった川とされています。そのためか、桓武天皇(かんむてんのう)など多くの宮廷人が訪れ、美しい七夕伝説のイメージをこの地に見出したとされています。

『伊勢物語』によると、平安時代の歌人・在原業平(ありわらのなりひら)も、狩りでこの地を訪れた際、七夕伝説の機織女(織女)と天野川にちなみ「狩暮らし 棚機津女に宿からむ 天の河原に われは来にけり」(狩りをして日が暮れてしまったので、今夜は織姫_(おりひめ)の家に泊まろう。天の川辺に来てしまったのだから」という歌を残しています。
天野川に架かる橋には、「鵲(かささぎ)橋」「天津(あまづ)橋」「逢瀬(おうせ)橋」と呼ばれるものがあって、周辺には、星田妙見宮(ほしだみょうけんぐう)や機物神社(はたものじんじゃ)など、七夕がらみの名所も点在します。天空を見上げて七夕伝説に想いを馳せのもいいですが、伝説の息づく場所も訪れてみるのも一興かもしれませんね・・・。

江戸時代後期から真夏の病魔や邪気を祓うねぶり流し行事として行われてきた秋田市の「秋田竿灯祭り」。国の重要無形民俗文化財で、長い竿を十文字に構え、それに灯火をつけて町を練り歩く。2009年度は8月3日~6日に行われます。

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一年に一度のロマンスです♪・・・パート5

先ほどは、七夕には、願い事を書く理由について書きました。それでは、七夕はどうして「7月7日」なのでしょうか。
続いては、七夕の7月7日の日付けについて書いていきたいと思います。

★7月7日の秘密について

縁起物で笹竹を飾り、願い事を書いた5色の短冊を枝に飾ります。素麺も用意して、七夕の準備は万端とばかりに、夜空を見上げると、曇っていて何も見えない・・・。そればかりか、雨の日も少なくありません。
七夕の7月7日は、梅雨の最中」です。一年の一度の逢瀬(おうせ)なのに、これでは天の川も氾濫して、織女と牽牛が逢えないのではないか?と心配する人も中にはいらっしゃるのではないでしょうか。
実は、本来、七夕は現在の7月7日ではありませんでした。明治5(1872)年、政府が太陽暦(グレゴリオ暦)を採用したために、旧暦(太陰太陽暦)とずれてしまったのです。

かつての7月7日は、現在の8月20日頃です。本来は、夏真っ盛りの時期だったのです。夜空には、天の川を隔てて織女星と牽牛星が鮮やかに輝き、月は上弦(じょうげん)の月となります。上弦の月は上が欠けた半円で、まるで船のように見えたため、『万葉集』には、「天(あめ)の海に 月の船浮け 桂楫(かつらかぢ) かけて漕ぐ見ゆ 月人壮士(つきひとをとこ)」など、七夕と月を題材にした歌も数多く残っています。半円の月に牽牛が乗り、織女に逢いに行くように見えたのでしょう。星祭りにふさわしい夜だったことがわかります。

仙台の七夕祭りは、今も旧暦も意識してか、新暦の月遅れである8月7日前後に行われます。このように、今も8月に七夕を行う地域は少なくありません。しかし、一般的な七夕はやはり、7月7日でしょう・・・。気候と行事の日取りとが合わなくなってしまったのが、現在の七夕なのです。

今年は、旧暦の日取りに沿った8月20日頃に、夜空を見上げてみてはいかがでしょうか。例年とは違う織女星と牽牛星が見られるかもしれませんね。

あと、七夕は現在の暦ではなく、旧暦の七夕だったという話はいたしました。それでは、続いては、この旧暦について書いていきたいと思います。

★月の満ち欠けと四季を重視した日本の旧暦について

現在、私たちが使っている暦は、16世紀にローマ教皇・グレゴリウス13世が制定した太陽暦のひとつ、「グレゴリオ暦」です。日本では明治5年に採用され、それ以前の暦は「旧暦」と呼ばれるようになりました。しかし、現在までに日本の暦は10回も変えられていて、一般に「旧暦」という場合は、今の暦のひとつ前の「天保暦」を指します。これは、太陰太陽暦でした。
太陰太陽暦とは、365日周期の太陽の動きを基にした「太陽暦」と、29日半周期の月の満ち欠けを基にした太陽暦を組み合わせた暦です。月の周期や四季を大切にする日本人にとって、太陽暦だと月の周期と季節が合わなくなります。一方、太陰暦では、1年に10日以上ずれ、17年経つと季節が逆転してしまいます。
そこで、太陰暦に閏月を加え、季節のずれを調整した太陰太陽暦が使われてきたのです。四季の移ろいを感じられる旧暦は、今も占いや伝統行事の世界に息づいています。

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一年に一度のロマンスです♪・・・パート4

先ほどは、七夕の伝説でも馴染みの「織女星」とと「牽牛星」のことについて書きました。七夕に短冊に願い事を書くという風習がありますね。それでは、続いては、短冊に願い事を書く理由について書いていきたいと思います。

★短冊に願い事を書く理由について

♪「笹の葉さらさら  軒端(のきば)にゆれる
  お星さまきらきら  金銀砂子(きんぎんすなご)

  五色(ごしき)短冊  私が書いた
  お星さまきらきら  空から見てる」

(権藤(ごんどう)はなよ・林 柳波(りゅうは)作詞
下総晥一(しもふさかんいち)作曲『たなばたさま』
〔昭和 16年作〕より

全国に七夕祭りはいろいろとありますが、七夕といってすぐに思い出されるのは、この唱歌とともに、願い事を書いた短冊を笹の枝に飾ることではないでしょうか。でも、なぜ、織女(しゅくじょ)と牽牛(けんぎゅう)に、願いをかけるようになったのでしょうか。
それは、中国で七夕伝説を基に生まれた儀式「乞巧奠(きこうでん)」に由来します。織女が機織(はたお)りが巧みだったことにちなんで。裁縫の上達を祈るというもので、この儀式は、唐の時代に、玄宗皇帝が楊貴妃とともに織女と牽牛を祀って遊宴したのが始まりとされています。
7月7日の夜、女性たちは、庭の台に置いて酒肴(しゅこう)、瓜、果物、菓子などを供え、7本の針に5色の糸を通して祭壇に供えたといいます。5色とは青、赤、黄、白、黒で、中国の陰陽五行説(おんみょうごぎょうせつ)に基づく色です。

日本にもこの儀礼が伝わって、孝謙(こうけん)天皇の天平勝宝(てんぴょうしょうほう)7(755)年に、初めて宮中で行われたとされています。平安時代になると宮中行事として定着します。裁縫だけでなく、和歌の上達も祈って笛や笙(しょう)を奏で、古人の和歌を朗詠(ろうえい)しました。
そして、天の川に見立てた銀白色の布をはさんで、参列者たちが即題の歌を詠んで交換したといいます。

この「七夕歌合(うたあわせ)」をはじめ、「七百首和歌」「七十韻連歌」「七調子の管弦」「七献(しちけん)の酒」など「七遊(ななあそび)」と呼ばれる遊びも行われました。

江戸時代には、幕府が七夕を五節供のひとつと定めたため、武家や庶民の間でも、七夕行事が盛んに行われるようになりました。願い事を5色の短冊に書いて笹の葉に飾るのも、この時代に定着したもので、7月6日の夕べから竹を立てたといいます。竹には5色の短冊はもちろん、吹流しや薬玉(くすだま)、紙衣(かみごろも)、瓢箪(ひょうたん)、そろばん、千両箱、鯛などを験(げん)を担いで飾りつけました。
また、江戸時代の書物には、七夕に素麺(そうめん)を食べると病気にならないとも記されています。本来は、小麦粉と米粉に塩を混ぜて縄のようにねじり上げた唐菓子・索餅(さくべい)と食べるとされていましたが、次第に、この索餅が素麺へと形を変えたとされています。

古来、受け継がれてきた代表的な七夕飾りには、裁縫の上達するよう願う「きぬこ」、豊年うを祈願する「棚飾り」、金運アップを願う「巾着」、そして表に願い事を書いて、こよりで結ぶ「5色の短冊」です。正式ににはピンクの代わりに黒の短冊を飾りました。

江戸時代に各藩の行事について記した『諸国風俗門状(しょこくふうぞくもんじょう)』によると、七夕の日に、竹に詩歌を書いた短冊を飾り、瓜、西瓜、果物などを供え、素麺を食べる風習があったといいます。

京都の冷泉家では、今も「乞巧奠(きこうでん)」が行われています。旧暦7月7日の夜、庭に祭壇「星の座」を設け、瓜、茄子、蒸蚫(むしあわび)、鯛といった、海幸、山幸を2組ずつ供える。さらに琴や琵琶(びわ)、5色の布や糸、星を映して眺めるための水を張った角盥(つのたらいなどを並べ、七夕の夜を祝います。

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一年に一度のロマンスです♪・・・パート3

この七夕のお話には欠かせない、織女星(織姫)と牽牛星(彦星)。二人の恋物語、なんともロマンを感じます・・。さて、この織女星と牽牛星はどいうものなのでしょうか??織女星は、こと座・ベガ、牽牛星は、わし座・アルタイルですね。これは、皆さんもよくご存知です。

それでは、つづいては、この織女星と牽牛星ついて書いていきたいと思います。

まずは、織女星(ベガ)からです。

Vega
こと座のα(アルファ)星の固有名。アラビアで、こと座のζ(ゼータ)星とε(イプシロン)星とあわせて「落ちる鷲(わし) Al Nasr al Waki」とよんでいたが、その名称の後半部が変形した。漢名は織女(しょくじょ)星、和名は織姫(おりひめ)といい、天の川を挟んで相対する牽牛(けんぎゅう)星(アルタイル)とともに、古来から、七夕(たなばた)の星として日本人には親しみ深い。日本では織姫のほか、棚機(たなばた)、棚機津女(たなばたつめ)ともよばれていた。夏の夜空で、わし座α星のアルタイル、はくちょう座α星のデネブと結んで「夏の大三角」をつくる。平均の実視等級は0.03等であるが、周期0.19日で0.09等以下の幅の変光を示している。天球上の位置は、2000年分点の座標で、赤経18時37分、赤緯プラス38度47分。地球からの距離は牽牛星の17光年よりはやや遠く、25光年ある。スペクトル型はA0型の主系列星。表面温度は約9500Kで、青白い光を放っている。質量、半径とも太陽の約3倍で、牽牛星(質量は太陽の1.7倍、半径1.8倍)よりはかなり大きい。毎秒14キロメートルで地球に近づきつつある。ベガで注目されるのは、塵(ちり)の雲が半径140天文単位もの円盤状に広がって取り囲んでいることである。これらの塵の雲はベガが星間雲から誕生したときに、星になりきれなかった塵粒子が大量に残されたためと考えられている。この塵雲のなかに惑星の存在の可能性を指摘する天文学者もいる。

牽牛星(アルタイル)です。

Altair
わし座のα(アルファ)星の固有名。アラビアで、わし座のβ(ベータ)星、γ(ガンマ)星とあわせて「飛ぶ鷲(わし)Al Nasr al Tair」とよんでいたが、現在の固有名はその後半部に由来する。夏の夜空で、こと座α星のベガ、はくちょう座α星のデネブと結んで「夏の大三角」をつくる。漢名は牽牛(けんぎゅう)星、和名は彦星(ひこぼし)といい、天の川を挟んで織女星(ベガ)と相対し、古来から、七夕(たなばた)の星として日本人には親しみ深い。中国では、β星、γ星とともに「河鼓(かこ)三星」と名づけ、アルタイルを大将軍、β星を左将軍、γ星を右将軍ともいう。実視等級は0.77等。天球上の位置は、2000年分点で赤経19時51分、赤緯プラス8度52分。太陽からの距離は17光年。スペクトル型A7の主系列星。表面温度は7500K。質量は太陽の1.7倍で、赤道半径は1.8倍と推定される。アルタイルは高速自転をしており、赤道表面の自転速度は少なくとも秒速240キロメートルに達する。赤道半径は遠心力のために極半径よりも14%ほど膨らんでいる。占星術では災いをおこす星とされている。

7月の夜、天の川をはさんで、わし座のアルタイルこと、「牽牛星(彦星)」とこと座のベガこと、「織女(織姫)」が輝きます。二つの星に、天の川の中ほどで輝く、はくちょう座のデネブを加えると、「夏の大三角」になりますね。

参考までです。

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一年に一度のロマンスです♪・・・パート2

続きです。

「七夕伝説」は、中国周代(前1050頃-前256)に書かれた同国最古『詩経(しきょう)』に初出する古い伝説です。二つの星が、天の川を隔てて東岸と西岸に対峙していることから物語が連想され、民間伝承として作りあげたとされています。
その話とは、こうです。

「天の川の東岸に暮らす天帝(古代中国における天地・万物を支配する神)の娘・織女は、毎日ひとりで機織りに励んでいました。天帝はそんな娘を不憫に思って、天の川の西岸に住む牽牛という牛飼いの若者と結婚させました。しかし二人は仲が良すぎて仕事を怠けるようになります。怒った天帝は、二人を再び天の川の両岸に引き離し、年に一度、7月7日の夜だけ、川に鵲(カササギ)の橋をを架けさせ、逢うことを許しました。」
この伝説は、奈良時代に日本に伝えられたとされていて、『万葉集』には、七夕を主題にした句が132首残されています。中でも、遣唐使として唐に渡って、中国から「七夕伝説」を持ち帰った一人とされる山上憶良(やまのうえのおくら)は、もっとも多く七夕の歌を詠みました。

「牽牛(ひこぼし)」の 嬬(つま)迎え船 漕ぎ出(づ)らし 天の川原に 霧の立てるは」(牽牛が妻を迎えに船を漕ぎ出したらしい。天の川沿いに霧が立っているのはそのせいか」

愛し合いながらも、一年にたった一度しか会えない二人―。この哀れにも美しい恋物語は、日本でも共感を呼んで、古来、愛され続けてきたのでしょう・・・。

今では、日本人の誰もが知っている「七夕伝説」ですね・・・。

七夕の伝説はなんともロマンチックです。それでは、続いては、このお話にも出てきます、「天の川」。天の川について、こんなお話がございます続いては、この「天の川」について、書いていきたいと思います。

●天の川について

天の川(あまのがわ、あまのかわ)は、夜空を横切るように存在する雲状の光の帯である。銀河。

●概要

『万葉集』では、大伴家持の歌に、天漢(あまのがわ)とも記されている。この光の帯は天球を一周しており、恒星とともに日周運動を行っている。天の川の実体は膨大な数の恒星の集団である。我々の地球を含む太陽系は「天の川銀河」と呼ばれる銀河の一員であり、我々はこの銀河を内側から見ているために天の川が天球上の帯として見える。天の川銀河の中心は射手座の方向にある。

「銀河」は本来天の川を指す言葉であるが、現在では一般的な天体としての銀河(galaxy)全般を表す言葉として使われている。天体としての天の川銀河を特に「銀河系」とも呼ぶ。英語の Milky Way (ミルキーウェイ)は文脈によって「天の川」と「銀河系」の両方を指す。

日本では、夏と冬に天の川が南北に頭の上を越える位置に来る。これをまたいで夏には夏の大三角が、冬には冬の大三角が見える。他の星も天の川の周辺に多いので、夏と冬の夜空はにぎやかで、これに対して春と秋の夜空には目立つ星座が少ない。

なお、天の川のあちこちに中州のように暗い部分があるのは、星がないのではなく、暗黒星雲があって、その向こうの星を隠しているためである。

●神話

ギリシャ神話での天の川のエピソードを説明する。ゼウスは、自分とアルクメネの子のヘラクレスを不死身にするために、女神ヘラの母乳をヘラクレスに飲ませようとしていた。しかし、嫉妬深いヘラはヘラクレスを憎んでいたため母乳を飲ませようとはしなかった。一計を案じたゼウスはヘラに眠り薬を飲ませ、ヘラが眠っているあいだにヘラクレスに母乳を飲ませた。この時、ヘラが目覚め、ヘラクレスが自分の乳を飲んでいることに驚き、払いのけた際にヘラの母乳が流れ出した。これが天の川になったとされる。英語での名称 Milky Way はこの神話にちなむ。

中国・日本など東アジア地域に伝わる七夕伝説では、織女星(こと座のベガ)と牽牛星(わし座のアルタイル)を隔てて会えなくしている川が天の川である。二人は互いに恋しあっていたが、天帝に見咎められ、年に一度、七月七日の日のみ、天の川を渡って会うことになった。詳細は七夕の項目を参照のこと。

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一年に一度のロマンスです♪・・・パート1

皆さん、こんにちわ。更新です。今日は、7月7日です。皆さんもご存知のとおり、今日は、「七夕(たなばた)」です。でも、この「たなばた」、どうして七夕と書いて、「たなばた」というようになったのでしょう。もともとは、たなばたとは一体、そして、その、たなばたに関する様々な成り立ちや祝い方・・案外知られていないこともあるかも知れません・・。

それでは、今日は、七夕ついて書いていきたいと思います。

―夏の夜空を彩る天の川・・・その両岸で輝くのが、「七夕伝説」で知られる織女星と牽牛星です。伝説や成り立ちや七夕の祝い方など、案外と知られていないことも多い、「七夕」をここで書いていきますね。

●棚機女の伝説について

七夕は端午の節供などとならぶ、「五節供」のひとつで「しちせき」とも呼ばれます。でも何故、七夕の文字が「七夕」読まれるようになったのでしょうか??実は、中国からこの伝説が伝わる以前に、「たなばた」という儀礼が日本に存在していました。
「古事記」「日本書記」によると、7月7日の夜は、遠来の神(稀人まれびと)を迎えるため、不浄な地面から離れた水辺に棚(小屋)を設けて織機を置き、穢れを知らない乙女が神の衣を織る儀礼がありました。衣は魂を包むものとして神聖であり、霊魂のシンボルとされていました。
乙女は神と一夜を過ごすことで、穢れを神に託して持ち去ってもらう役割がありました。つまり、日本における七夕は本来、祖先の霊を祀る前の禊(みそぎ)行事で、盆行事の一環とされていました。
この乙女を「棚機女(たなばたつめ)、あるいは「乙棚機(おとたなばた)」と呼んでいたことから、平安時代の頃に、「七夕」の文字に「たなばた」という読みを当てたとされています。

また、この儀礼には畑作の収穫祭の意味もあり、神の乗り物として収穫された胡瓜(きゅうり)で馬を、茄子(なす)で牛を作ってお供えしました。祖先の霊が現世に来る時は馬で一刻も早く、あの世へ帰る時には牛でゆっくりと、という願いが込められています。これが後に盆踊りへと引き継がれました。

現在知られている七夕は、棚機女儀礼である盆迎えの祓(はら)え信仰の収穫祭、中国伝来の星伝説、そしてそれにまつわる儀礼(後述します乞巧奠(きこうでん)が習合されて、形作られていったのです。

それでは、続いてです。七夕といえば、「織女と牽牛の恋物語」はよく知られています。それでは、続いては、その「織女と牽牛の恋物語」について書いていきたいと思います。

●織女と牽牛の恋物語について

夜空を南北に流れる星の大河「天の川」。西洋では、女神ヘラの母乳が流れ出たという、ギリシア神話に基づき、「ミルキー・ウェイ(乳の道)」と呼ばれ、中国では揚子江の支流・漢水(かんすい)につながっていると考えられ、「銀漢(天漢ぎんかん・てんかん)」と称されいます。
一方、アメリカ先住民の間では、死者が天に上るための「魂の道」といわれるなど、「天の川」は世界各国で崇敬され、さまざまな神話や伝説の源泉されてきました。
この雲のような光の帯が、無数の星(恒星)の集合体であるとわかったのは、17世紀のことです。イタリアの天文学者ガリレオ・ガリレイ(1564-1642)が、手作りの望遠鏡で観測して判明したのでした。天の川とは、数千億個の星が集まってできた銀河系で、地球を含む太陽系もまた、この銀河系の一部なのです。私たちは、銀河系を内側から見ているので、天の川が天球上の帯のように見えます。
天の川は一年中見られますが、とくに夏の天の川は、明るい星が集まった銀河系の中心近くににあるため、強く輝いて見えます。天の川を南から北へと辿(たど)ると、ちょうど頭上のあたりに目を引く星があります。
それが、こと座の1等星・ベガとわし座の1等星・アルタイル、そしてはくちょう座の1等星・デネブです。この3つの星は、夏の第三角として知られていますが、とくにベガとアルタイルは、それぞれ、織女(織り姫)、牽牛星(彦星)とも呼ばれて、馴染み深い「七夕伝説」の主役として語り継れています。

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この記念日は、記念日でも、「歴史」に残る一大イベントですね・・・パート12

続いては、今日は、アメリカ独立記念日ということですが、独立記念日に各地でイベントが催されるそうです。参考までに書きたいと思います。

2009年

7月

◆ファーストフライデー
日時: 2009年7月3日(金) 17:00~21:00
場所: ダウンタウン
毎月第1金曜日の夜に開催されるカルチャーイベント。各ギャラリーでは絵画や写真の作品展、ライブミュージックなどが楽しめます。また、この日はダウンタウンの多くのレストランやショップが営業時間を延長しています。
問い合わせ:(808) 739-9797
ウェブサイト: http://www.firstfridayhawaii.com

◆アラモアナセンター独立記念日花火イベント
日時: 2009年7月4日(土) 17:00~21:00
場所: アラモアナセンター海側2階駐車場
7月4日はアメリカ独立記念日の祝日。アラモアナセンターではこの日、午後5時からライブエンターテイメント、午後8時半からは毎年恒例の祝賀花火の打ち上げが開催されます。アラモアナパークの夜空に広がる色とりどりの花火はハワイ最大と言われ、夏ならではの大イベントとして地元でも有名です。
問い合わせ: (808) 955-9517
ウェブサイト: http://www.alamoanacenter.com

◆第2回 オハナ・デイ
日時: 2009年 7月4日(土) 10:30~21:00
場所: ウェッティン・ワイルド・ハワイ (元 ハワイアン・ウォーターズ・アドベンチャー・パーク)
コニシキキッズ・ファンデーションの独立記念日のファンドレージング・イベント。ダンスコンテストやフォトコンテスト、お楽しみ抽選会などに加え、コニシキやフィジー、ラガ・サヴェア、タイマネ・ガードナーをはじめとするハワイの有名ミュージシャン達によるライブコンサートが開かれます。イベントの最後は、花火の打上げで独立記念日を祝います。
チケットは一律25ドル(2歳以下は無料)で、流れるプールや各種スライダーなどで一日遊べるパークの入園料が含まれます。通常の入園料よりも安い上に、イベントまで楽しめ、大変お得です。
なお、チケットの売上げの一部は、リワード地区の教育支援活動に役立てられます。
ウェブサイト: http:/jp.konishikikids.com/

◆ファイヤーワークス・クルーズ
日時: 2009年 7月3日(金) 18:15~21:15、4日(土) 18:15~21:15
場所: アロハタワー・マーケットプレイス・ピア6出発 - ワイキキ沖
アメリカ合衆国独立記念日にちなんだナバテック I号の特別ディナークルーズ。独立記念日を祝う花火をワイキキの洋上という特等席から観賞。ワイキキの夜空を彩る花火と船上のポリネシアン・ショーで盛り上がります。
ウェブサイト: http://www.atlantisadventures.jp/navatek/

◆パケレライブ チャリティーコンサート
日時: 2009年 7月9日(木) 18:00~20:00
場所: アラモアナホテル パケラウンジ
DRPLAというタイプの脊髄小脳変性症と闘う14歳の少女・塩沢クリちゃんと、同じ病気を持つクリちゃんの父・塩沢千秋さんのためのチャリティーコンサート。
クリちゃんと千秋さんはDRPLAタイプの脊髄小脳変性症で、その病気は痴呆、発達障害、人格変化、精神障害をももたらすことがあり、現在のクリちゃんは自分で歩く事はできるが転びやすく、階段などは介助が必要。他にも嚥下障害(物を飲み込もうとするとむせる)、睡眠障害などが出ています。
コンサートには、ハーブ・オオタ・ジュニア、ウォルト・ケアレ、ジョン・ヤマサト、ジェニファー・ペリ、ブラッド・カワカミ、ケン・ライクスなどのミュージシャンがボランティアで出演。コアロハ・ウクレレのチャリティーオークションなども行います。
入場料は無料。
パケレライブ ウェブサイト: http://www.pakelelive.com/

◆第8回 コリアン・フェスティバル
日時: 2009年 7月11日(土)
場所: カピオラニパーク
韓国の文化や食べ物を紹介するカルチャーイベント。カピオラニパークのバンドスタンドでは韓国の伝統舞踊や武道のデモンストレーションほか、民芸品や韓国料理の販売もあります。
問い合わせ: (808) 792-9321
ウェブサイト: http://www.koreanfestivalhi.com

◆第32回 プリンスロット・フラフェスティバル
日時: 2009年7月18日(土) 9:00~16:00
場所: モアナルアガーデン
30年以上にわたり毎年7月の第3土曜日に開催されているフラの祭典。ハワイ各地のクムフラとフラダンサーがそれぞれの踊りを披露するイベントで、競技形式をとらないため、終始和やかな雰囲気で進行する。古典フラ、現代フラの両方が楽しめるほか、会場では記念Tシャツや食べ物も販売しています。入場料は寄付として5ドル 。
問い合わせ: (808) 839-5334
ウェブサイト: http://www.mgf-hawaii.org

◆ハレイワ・アート・フェスティバル
日時: 2009年7月18日(土) 10:00~18:00、19日(日) 10:00~17:00
場所: ハレイワビーチパーク
ノースショア ハレイワの海沿いで開催される毎年恒例のアートフェスティバル。会場にはハワイのアーティストの作品が展示され、子供向けのアートアクティビティ、エンターテイメントなどが予定されています。
問い合わせ:(808) 596-8885
ウェブサイト: http://www.haleiwaartsfestival.org

◆ハワイ・オールコレクターズ・ショー
日時: 2009年 7月18日(土)、19日(日)
場所: ニール・ブレイズデル・センター/エギジビションホール (777 Ward Ave.)
ハワイ最大のコレクタブル&アンティーク展示即売イベント。会場にはハワイはもちろん、米本土、日本から約180のベンダーがブースを並べます。アロハシャツ、切手、コイン、コア家具、ファイヤーキングの食器などコレクターには見逃せない内容です。
問い合わせ: (808) 941-9754
ウェブサイト: http://www.ukulele.com

◆ハワイステート・ファームフェア
日時: 2009年 7月18日(土) 9:00~20:00、19日(日) 9:00~17:00
場所: ビショップミュージアム
ハワイ農務局主催によるイベント。会場ではハワイの農業に関する展示や新鮮な野菜などを売るファーマーズ・マーケット、ハワイの農産物を使った食べ物の販売などがあります。
入場料は大人5ドル、4~12歳は3ドルで、ビショップミュージアム入館料が含まれます。会場へはワイキキのDFSギャラリア前より9:40amから毎時間運行するトロリーが便利(有料)です。
問い合わせ: (808) 922-4032

◆第39回ウクレレ・フェスティバル
日時: 2009年 7月19日(日) 9:30~13:30
場所: カピオラニパーク、バンドスタンド
ワイキキに近いカピオラニパークのバンドスタンド(ステージ)にて開催される恒例のウクレレイベント。ウクレレの第一人者として知られるハワイのロイ・サクマ氏がプロデュースし、ハワイ、米本土などからウクレレ奏者が出演する。見所はサクマ氏の教え子によるウクレレ・アンサンブル。
ウェブサイト: http://www.ukulelefestivalhawaii.org

◆ホノルル・ファミリーフェスティバル
日時: 2009年 7月30日(木)~8月2日(日)
場所: アラモアナパーク内マジックライランド
ホノルル市が主催するファミリー向けイベント。アラモアナパークの先端にあるマジックアイランドを会場に、EKフェルナンデスのカーニバルライド、各種エンターテイメント、食べ物の販売などがあります。入場は無料。カーニバルライドは会場にてスクリプト(回数券)購入が必要です。
問い合わせ: (808) 924-1907
ウェブサイト: http://www.honolulufamilyfestival.com

◆ムーンライトメレ
日時: 2009年 7月30日(木)18:00pm 開場
場所: ビショップ・ミュージアム中庭 (1525 Bernice Street)
バンク・オブ・ハワイの提供による夏の恒例コンサートシリーズ。ビショップ・ミュージアムの芝生の中庭でハワイの星空を眺めながらライブミュージックが楽しめます。
問い合わせ: (808) 847-3511
ウェブサイト: http://www.bishopmuseum.jp/

このことは、こちらで見ることができます。http://www.visit-oahu.jp/event/event0907.php

あと、こちらでも詳しく今日のイベント情報を見ることができます。

http://event.uruma.jp/event/20090704/

※参考まです。ご了承下さいませ。

いかがでしたでしょうか??アメリカ独立記念日に際して、各地では様々なイベントが催されるそうです。
しかし、早いものです、時が過ぎるのは・・もう、一年の折り返しを過ぎました。

今日は、「アメリカ独立記念日」・・。皆さんは、どう過ごしますか??

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この記念日は、記念日でも、「歴史」に残る一大イベントですね・・・パート11

続いては、「軍事=産業=学術の複合」から順に書いていきます。

●軍事=産業=学術の複合について

「軍産複合体」も参照

20世紀、合衆国議会、工業製造者、大学の研究室および、軍事組織が複合的に結束し、技術の進歩の速度が上がった。この関係は一般に「軍事=産業複合」として知られており、軍隊固有の技術需要、資本の集中、大規模な適用および高度に集中化された管理によって技術革新を生む主流となった。医学、物理学、化学、電子計算、航空学、物質科学、造船学および金属学などの基本的な進展は軍事目的の基礎研究と応用研究に負うところが大きい。

★ 大学の研究

アメリカで初めての大学はイギリスのオックスフォード大学、ケンブリッジ大学およびセント・アンドリューズ大学の自由な教育課程をモデルとしており、職業的技術の教育や科学的な研究を行うよりも聖職者や法律家を教育する意味合いが強かった。1811年に創設された陸軍士官学校は既成の大学や士官学校の伝統を破り、その初期の教育課程の中に実際の工業的な科目を含んだ。19世紀の半ばまでに、科学技術大学の数が増え、複雑さの増す機械類を設計、製造および運転するための科学と技術を学生に教えた。1824年、ステファン・バン・レンセラーはアメリカで最初の技術的科目で学士号を取得できる専門学校を設立し、1850年代にはアイビー・リーグの大学も科学分野の研究コースを始めた。

連邦議会の政治家はこれら東部の科学技術大学の重要性と普及率が増すことを認識し、1862年にモリル・ランドグラント・カレッジ法を通して、広範な土地を戦術、工学および農学を教える教育施設の設立と資金に充てることとした。アメリカの顕著な研究系大学はこのランドグラント・カレッジに起源がある。1900年から1939年にかけて、中等教育を受けてこれらの大学に入学した者の数は238,000人から1,494,000人に増加した。高度の教育が与えられるようになると、以前は職業学校や中等教育程度の学歴で良かった科学、工学および政府の職にカレッジの学位が求められるようになっていった。

第二次世界大戦後、復員軍人援護法によって大学入学者が増え、多くの復員軍人が学位を取得した。

★世界大戦

この時代の著名な技術革新

・ルチャード・ガトリング - ガトリング砲を開発
・ジョン・トンプソン - トミー・ガンを開発

戦闘に飛行機を導入したことは戦争のやり方を急速に変化させた要因の一つであった。航空史は数百年に及ぶものがあり、初期の飛行機械の区分は複雑なものであるが、1903年12月、ライト兄弟が持続し有人で空気より重いものを制御して飛ばした。ライト兄弟は政府や軍隊から予算を取れなかったが、1914年に第一次世界大戦が始まった後、飛行機は戦術的に重要であることが急速に認識された。アメリカ政府は1917年に6億4千万ドルの予算を確保して2万機の戦闘用飛行機を購入し、空中偵察、ドッグファイティング(戦闘機同士の戦闘)および空からの爆撃に使われた[57]。1918年に戦争が終わると、アメリカ政府は航空郵便や航空諮問委員会のような飛行機の平和利用に予算をつけ続けた。1920年代から1930年代を通じて、産業界、学界および軍隊は飛行機の出力増強、操縦性および信頼性に関する研究を続けた。1927年にチャールズ・リンドバーグが無着陸大西洋横断飛行を成し遂げ、ウィリー・ポストは1931年に9日間で世界を1周した。ハワード・ヒューズは最高速度記録を更新し続けた。1930年代、ケリー法の結果として乗客を載せる航空路線が流行し、州政府や地方政府は航空路線を呼ぶために飛行場を造った。連邦政府は航空交通管制を始め、航空事故の調査を始めた。

★冷戦と宇宙開発競争

詳細は「宇宙開発競争」を参照

アメリカ人ロバート・ゴダードはロケット推進システムの実験を行った最初の科学者の一人であった。マサチューセッツ州ウースターのその小さな研究室で、液体酸素とガソリンを使ってロケットを飛ばし地球の大気圏外に到達させるための実験を行い、1926年に世界で初めての液体燃料ロケットを12.5メートルの高さまで打ち上げた。次の10年間で、ゴダードのロケットは2 km近い高さまで達するようになり、ロケット工学に関する興味はアメリカ、イギリス、ドイツおよびソビエト連邦で高まることになった。

第二次世界大戦の終了時、アメリカ軍とロシア軍はヴェルナー・フォン・ブラウンのようなドイツのトップクラスの科学者を採用または連行して連れ帰り、防衛関連の研究を続けさせた。消耗品であるロケットは人工衛星の打ち上げ手段となり、さらに有人宇宙船の打ち上げにも使われることになった。1957年ソビエト連邦は最初の人工衛星スプートニク1号を打ち上げ、アメリカは1958年のエクスプローラー1号で続いた。最初の有人宇宙船は1961年早くに、ソビエトの宇宙飛行士ユーリ・ガガーリンによって行われ、その後アメリカの宇宙飛行士アラン・シェパードが続いた。

これら初期の実験的な段階から1969年のアポロ計画による月面着陸、今日の繰り返し使用されるスペース・シャトルまで、アメリカの宇宙開発計画は応用科学の息を飲むような見せ場を造った。通信衛星は計算機データ、電話、ラジオ、テレビの送信に利用されている。気象衛星は大きな嵐などの早期警報を出すために必要なデータを集めている。

★コンピュータとネットワーク

過去80年間、アメリカは一貫して情報通信技術に確固とした基盤を築いてきた。例えば、AT&Tのベル研究所はLED、トランジスター、C言語およびUNIXなど一連の新規開発でアメリカの技術革新の先頭を走ってきた。シリコンバレーのSRIインターナショナル、ゼロックスのパロアルト研究所はパーソナルコンピュータを生み出し、ARPAとNASAはARPANETとインターネットの開発に貢献した。

●サービス産業

★健康管理とバイオテクノロジー

物理学と化学の分野では、第二次世界大戦以降、アメリカはノーベル生理学・医学賞をほとんど独占してきた。生物医学の研究では民間会社が中心となっており、その業績のキーとなってきた。2000年時点でアメリカの医学研究予算のうち、民間企業が57%、民間の非営利企業7%、政府出資のアメリカ国立衛生研究所36%となっている。私企業の予算は1994年から2003年の間に102%増加した。

アメリカ国立衛生研究所 (NIH)は24カ所の研究所からなっており、疾病と身体障害について予防、発見、診断および治療にあたっている。NIHの承認したプログラムでアメリカ国内や海外で35,000人の基礎研究者が働いている。1971年から1991年の間に、心臓病による死亡者は41%減少し、脳卒中によるものは59%減少した。今日、癌を患った子供の70%以上が完治している。

分子遺伝学とゲノミクスの研究は生医学の分野を革新した。1980年代および1990年代、初めて人に対する遺伝子治療が試みられ、現在ではヒトゲノムの多くの遺伝子の機能を位置を確認し、同定し、記述することもできる。

大学、病院および企業による研究も疾病の診断や治療の改良に貢献してきた。NIHは例えばエイズの基礎研究に予算を付けたが、この病気の治療に使われる薬品はアメリカの製薬業界の研究室から生まれた。これらの薬品は国中の研究所で試験されている。

★人

上記の分野に入らない発明をした人々。

・エリシャ・オーチス - 人荷用エレベーターの開発。結果的に高層ビルを可能にした。
・ウィリス・キャリア - 空調
・チャールズ・グッドイヤー - 加硫ゴム、タイヤの開発
・エリアス・ハウ - 縫製機
・キング・ジレット - 使い捨てカミソリ刃

●脚注

1. "Industrial Production Index". National Bureau of Economic Research. 2007-08-03 閲覧。
2. このような石器を持つ文化の代表例としてクローヴィス文化が挙げられる。
3. Cowan, Ruth Schwartz (1997), A Social History of American Technology, New York: Oxford University Press, ISBN 0-19-504606
4. プエブロ文化として12〜14世紀頃に全盛を迎えた。代表的な遺跡として、世界遺産にもなっているメサ・ヴェルデやチャコ・キャニオンのプエブロ・ボニートの両遺跡が挙げられる。
5.これは、単純に字義通りの森林地帯のみならず、ウッドランド文化期の意味も含意している。前期及び中期ウッドランド文化の代表的なものとしては、アデナ文化、ホープウェル文化が挙げられる。先史時代の北米大陸も参照。
6 英語版にはミシシッピ文化についてのリンクがあるように単純にミシシッピ川流域という地域的な意味に限らずミシシッピ文化についての意味も含意している。ミシシッピ文化の担い手は、アデナ、ホープウェル文化の担い手とともにマウンドビルダーとも呼称され、テンプルマウンド(神殿塚)文化とも呼ばれたこともあった。代表的な遺跡としては、セントルイス郊外にある世界遺産のカホキア、アラバマ州のマウンドヴィル、ジョージア州のエトワーなどが挙げられる。
7.Cowan 1997, pp. 10
8. Cowan 1997, pp. 30
9. Cowan 1997, pp. 40-43
10. Cowan 1997, pp. 63-65
11. Cowan 1997, pp. 77
12.12.Cowan 1997, pp. 80
13. Cowan 1997, pp. 81-82
14.Cowan 1997, pp. 83
15. Cowan 1997, pp. 87
16.Cowan 1997, pp. 94
17.Cowan 1997, pp. 98
18. Johnson, Allen (1915), Union and Democracy, Cambridge, Massachusetts: Houghton Mifflin Company
19. Cowan 1997, pp. 102
20.Cowan 1997, pp. 104
21.Cowan 1997, pp. 104
22 Johnson 1915, pp. 256
23. Johnson 1915, pp. 309-310
24. Johnson 1915, pp. 319-320
25. Cowan 1997, pp. 108
26. Cowan 1997, pp. 110
27. Burke, John G. (1997), "Bursting Boilers and the Federal Power", in S. Cutcliffe & T. Reynolds, Technology and American History, Chicago: University of Chicago Press, ISBN 0226710289
28. Burke 1997, pp. 105-106
29. Cowan 1997, pp. 113
30. Cowan 1997, pp. 115-117
31. Cowan 1997, pp. 154
32. Cowan 1997, pp. 58
33. Cowan 1997, pp. 152
34. Cowan 1997, pp. 152
35. Cowan 1997, pp. 160
36. Cowan 1997, pp. 161
37.Cowan 1997, pp. 158
38Cowan 1997, pp. 158
39. Cowan 1997, pp. 158
40. Cowan 1997, pp. 158
41. Eric Weisstein's World of Scientific Biography. "Benjamin Franklin (1706-1790)". 2007-03-09 閲覧。
42. American Institute of Physics. "Benjamin Franklin 1706-1790". 2007-03-09 閲覧。
43. Cowan 1997, pp. 163
44. Cowan 1997, pp. 163
45. Cowan 1997, pp. 164
46. Cowan 1997, pp. 229
47. Cowan 1997, pp. 230
48.Cowan 1997, pp. 236
49. Cowan 1997, pp. 237
50. Cowan 1997, pp. 166
51. Cowan 1997, pp. 170
52. Cowan 1997, pp. 166
53. Cowan 1997, pp. 212
54.政府の土地30,000エーカー (120 km2)、地続きであると否とを問わず。1860年の国勢調査に基づく連邦議会の代議員一人当たり 90,000エーカー (360 km2)以上。 "Backgrounder on the Morrill Act". International Information Programs, U.S. Department of State. 2007-03-17 閲覧。
55."No. HS-21. Education Summary?High School Graduates, and College Enrollment and Degrees: 1900 to 2001". 2007-03-18 閲覧。
56. Cowan 1997, pp. 140-141
57 Cowan 1997, pp. 252
58. "The Benefits of Medical Research and the Role of the NIH". 2007-03-19 閲覧。
59. Neil Osterweil (September 20, 2005). "Medical Research Spending Doubled Over Past Decade". MedPage Today. 2007-03-19 閲覧。

●関連項目 [編集]

・産業革命

● 参考文献

・Cowan, Ruth Schwartz (1997), A Social History of American Technology, New York: Oxford University Press, ISBN 0195046056
・Cross, Gary & Rich Szostak (2004), Technology and American Society, New York: Prentice Hall, ISBN 0131896431
・Cutcliffe, Stephen H. & Terry S. Reynolds (1997), Technology & American History, Chicago: University of Chicago Press, ISBN 0226710270
・Hindle, Brooke & Steven Lubar (1986), Engines of Change: the American Industrial Revolution, 1790-1860, Washington: Smithsonian Institution Press, ISBN 087474539X
・Hughes, Thomas Parke (1989), American Genesis: A History of the American Genius for Invention, New York: Penguin Books, ISBN 0140097414
・Marcus, Alan I. & Howard P. Segal (1998), Technology in America, New York: Wadsworth Publishing, ISBN 0155055313
・McGaw, Judith A. (1994), Early American Technology: Making and Doing Things from the Colonial Era to 1850, Charlottesville: University of North Carolina Press, ISBN 0807844845
・Mowery, David C. & Nathan Rosenberg (1998), Paths of Innovation: Technological Change in 20th Century America, Cambridge, Eng., New York: Cambridge University Press, ISBN 0521646537
・Pursell, Carroll (1995), The Machine in America: A Social History of Technology, Baltimore: Johns Hopkins University Press, ISBN 0801848180
・Smith, Merrit Roe & Gregory Clancey (1996), Major Problems in the History of American Technology, Boston: Houghton Mifflin, ISBN 0669354724

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この記念日は、記念日でも、「歴史」に残る一大イベントですね・・・パート10

続いては、技術と基幹施設から順に書いていきます。

●技術と基幹施設について

南北戦争後の時代は、工業化の程度と範囲が急速に拡がり、それに付帯して鉄道、電信・電話、内燃機関のような技術の進歩がおこり、アメリカ合衆国の場合は、辺境と産業や財政及び政治の中心であった東部とを繋ぐことで、西部への拡張と経済発展が促された。アメリカ人は鉄道、電力および電気通信システムなどの基幹施設を経済と社会の活動に無くてはならないものとするようになっていった。

★ 鉄道

1820年から1830年にかけて、多くの発明家や起業家が勃興する蒸気船の技術を、陸上を走るものにも適用しようとし始めた。最も初期の提案は1813年のオリバー・エバンスによるもので、ニューヨークとフィラデルフィアを鉄道で結び、「蒸気機関で牽引する客車」という概念であった。多くの個人や会社がアメリカ合衆国で最初の鉄道を敷くべく名告りを上げたが、1830年代中頃まで幾つかの会社は軌道の上を走る客車を動かすために蒸気機関車を使っていた。1840年から1860年にかけて、鉄道の総延長は3,326マイル (5,320 km)から30,600 (49,000 km)マイルまで伸びた。大きくて嵩張る物を運ぶ鉄道の効率性は、市場へ運ぶ商品のコストをさらに下げることで証明されたが、そうすることでそれ以前の有料道路や運河の利益を圧迫し、中には破産したり荒廃するにまかされる所もあった。しかし、初期の鉄道は統一性がなく、数百の競合する会社が異なる軌間の線路を使っていたので、都市間の輸送では度々荷物の積み替えが発生した。1869年、最初の大陸横断鉄道が全通し、利益や効率に対する要求から激しい統合の波が押し寄せ、技術的な標準化が進んだが、その後の50年間を要した。1920年までに総延長254,000マイル (406,000 km)の鉄道が標準軌となり、わずか7社が運行するか管理することになった。列車の運行スケジュールを同期化させる必要があり、また地方時間のある都市では非効率な面があったため、1883年には運行会社によって標準時間が導入された。

★製鉄と製鋼

鉄は純粋な金属としては自然界に存在しないため、不純物を取り去り強度を上げるために熔解精錬しなければならない。植民地時代は塊鉄炉が普通であり、少量の鉄の塊を生産し、土地の需要に合わせて鍛冶屋が製品にした(馬蹄、斧の刃、鋤)が、輸出や大規模製品(銃、造船、車輪)には向かなかった。17世紀半ばには大規模の自給自足プランテーションに銑鉄を作る溶鉱炉が現れてこれらの需要に応えたが、生産した鉄は高価であり、重労働を必要とした。溶鉄炉、加熱炉および水車を造る必要があり、森を伐り払って木材を木炭にし、鉄鉱石と石灰石を掘り出して輸送する必要があった。18世紀の終わりまでに、森林破壊を恐れたイギリスは石炭から得られる燃料のコークスを使用して炉を燃やすようになり、これが後にアメリカでも採用された。この転換で希少になりつつあった木材を大量に扱う必要が無くなり、鉄の価格を下げることができた。

鋼は鉄の一形態であるが、歴史的に鋼と鉄の製造上は異なる製品と考えられ、鋼は錬鉄よりも高い価格になった。18世紀と19世紀初期を通じて、イギリスの製鋼業者は浸炭鋼やるつぼ鋼を生産し、精錬炉やパドル炉のような特殊装置を必要としたために英トン(1英トン=1,016 kg)当たり50ポンド以上のコストになった。18世紀に蒸気船、鉄道および銃などの技術革新が鍛鉄と鋼の需要を高めた。1850年代、アメリカ人のウィリアム・ケリーとイギリス人のヘンリー・ベッセマーが別々に溶融鉄に空気を吹き込む方法を発見し、その温度を上げて不純物を取り出すことを容易にした。この「ケリー=ベッセマー法」は、送風に必要なコークスの量を減らしたので最終製品の質を向上させ、高品質鋼の大量生産の道を開き、鋼価格を劇的に下げたので、その用途も拡がった。

1868年アンドリュー・カーネギーは最近開発されたケリー=ベッセマー法と新しいコークス製造法を統合して、鉄道用のレールを供給する機会を見出した。1872年、カーネギーは幾つかの鉄道幹線が集まるペンシルベニア州アレゲニー郡ブラドックに製鋼所を造った。カーネギーはこの垂直統合を始めたことで莫大な利益を得た。ミネソタ州には鉄鉱石鉱山を所有し、五大湖の輸送用蒸気船、炭坑とコークス炉、および石炭や鉄鉱石をペンシルベニアの製鋼所まで運ぶ鉄道も所有した。1900年までにカーネギー製鋼会社はイギリス一国よりも多くの鋼を生産した。1901年、カーネギーはJ・P・モルガンのU.S.スティールに事業を譲渡し、個人的に4億8千万ドルを手にした。

●電信・電話

長距離でも素早く情報を伝える能力は、ジャーナリズム、銀行および外交など様々な分野で大きな衝撃を与えることができた。1837年と1844年の間に、サミュエル・モールスとアルフレッド・ヴェイルが、「短い」電流と「長い」電流を送ることのできる送信機を開発し、これが電磁受信機を動かしてdot(トン)とdash(ツー)で信号を記録できる用にした。モールスはまず1844年にボルチモアとワシントンの間の電信線を開通させ、5年後の1849年までにはミシシッピ川から東の州に電信が行えるようになった。1850年と1865年の間に、電信事業は急速に集中化が進み、1866年に設立されたウエスタンユニオンがほぼ独占する形となり、22,000カ所の事務所を抱え、電信線の総延長は827,000マイル (1,320,000 km)となった。電信によって米墨戦争の前線からニューズが送られ、南北戦争では北軍の連係に使われた。市場間で株や商品の価格と注文が取り交わされ、1866年の大西洋横断ケーブルが敷設された後は外交交渉にも使われた。

アレクサンダー・グラハム・ベルは1876年に人の声を電線で送り再生する装置の特許を得た。ベルはその「電話」の大きな可能性を認識して、ベル電話会社を設立し、電話機と交換器の製造から利用者やオペレーターに機材をリースすることまで、システム全体を管理した。1877年から1893年まで、この期間はベルの特許が有効であった期間であるが、ベルの会社から貸し出された電話機の数は3,000台から26万台まで伸びた。ただし、利用料が比較的高かったので、当時の利用者はほとんどが事業か政府の事務所に限られていた。ベルの特許が切れた後は、無数の独立オペレーターが参入し、中流階級や下層階級の家庭さらに田舎の農夫まで競争してサービスを開始し、利用料を著しく下げた。1920年までに1,300万台の電話機が普及し、農家の場合は39%、非農家の場合は34%が家庭用電話を引いた。

★石油
1859年、ペンシルベニア州西部で石油が発見され、1849年のカリフォルニアのゴールドラッシュを再現する「オイルラッシュ」が起こり、南北戦争の前夜には有用な資源であることが確認された。原油は有用な燃料油を抽出するための蒸留精製が必要なので、直ぐに石油精製がその地域の主要産業になった。しかし、このペンシルベニアの産油地域は田園と山岳であったので、産地での精製経済性や抽出した油の鉄道による輸送効率が悪かった。1865年からは産油地と鉄道あるいは製油所とを繋ぐパイプラインが建設され、この地形的な障害を緩和したが、数多い樽類製造者や荷車運搬手を失業させた。送油パイプライン網が拡がるに連れて、鉄道や電信系統とも一体化され、生産、計画、値付けなどで大きな連係が図られた。

ジョン・D・ロックフェラーはアメリカ石油産業の強力な統合推進者であった。1865年以降、ロックフェラーは製油所、鉄道、パイプラインおよび油井を購入し、その会社スタンダード・オイルの競争者を情け容赦も無く切り捨てた。1879年までにアメリカで精製された石油の90%を支配した。スタンダード・オイルは鉄道のタンク車に積み卸しするよりも、ニュージャージー、クリーブランド、フィラデルフィアおよびボルチモアの製油所とペンシルベニアの生産地を直接パイプラインで結び、効率と利益を大きくすることができた。スタンダード・オイルのネットワークの規模が予想もしていなかったくらい大きくなったので、会社は管理、財務および組織に新しい手法を開発していった。会社法は州を跨る事業の可能性を制限していたので、スタンダード・オイルは中央のトラストの利用を始め、それが各州にある構成会社の所有と管理を行った。他の産業でもトラストを使うことは、1890年のシャーマン反トラスト法の成立で競争を抑制し独占価格を引き出すものとして規制された。1911年、「ニュージャージー州スタンダード・オイル対アメリカ合衆国事件」の判決で、最高裁はスタンダード・オイルのトラストを解散し、競合する会社に分割することを命じた。この結果、エクソン(ニュージャージー州スタンダード・オイル)モービル(ニューヨーク州スタンダード・オイル)およびシェブロン(カリフォルニア州スタンダード・オイル)ができた。

石油製品に対する需要は世紀の変わり目頃に急増した。家庭では暖房や照明用に灯油を使い、産業では機械用の潤滑油に、利用が進んだ内燃機関ではガソリンの需要が高まった。1880年から1920年の間、年間製油量は2,600万バレル (400万キロリットル)から4億4,200万バレル(7,000万キロリットル)まで上昇した。20世紀初期には、テキサス州、オクラホマ州、ルイジアナ州およびカリフォルニア州で大規模の油田が発見され、「オイル・クレイズ」を引き起こして、これらの州の急速な工業化にも貢献した。これらの州は元は農業主体の西部州であり、スタンダード・オイルの生産と精製のネットワークの範囲外にあったので、ロングビーチ、ダラスおよびヒューストンのような都市が、スノコ、テキサコおよびガルフ・オイルといった会社の元で、主要な石油精製と油田管理の中心地として浮上した。

★電気 [編集]

「電流戦争」も参照

ベンジャミン・フランクリンは初めて陽電荷と負電荷について記述することで電気の研究を始め、電荷の保存の原理まで進めた[42]。フランクリンは雷が鳴る中で凧を飛ばし、雷が電気の一形態であることを示し、家を守るための避雷針を発明したという作り話で良く知られている。ハンフリー・デービーのような初期の物理学者はある条件下で電気が光を生み出せることを示したが、当時の電池は長い時間必要な電流を維持できなかった。1831年、イギリス人マイケル・ファラデーは電気と磁力の関係を示し、磁石を回転させて電流を発生させる発電機を作り上げた。発電機はイギリスとフランスで直ぐにアーク灯に使われたが、高温を発し火花が飛ぶので、広く使われることは無かった。

1880年、トーマス・エジソンはそれまでの多くの発明家の仕事を元に長寿命の白熱電灯を開発し特許を取った。ベルと同様に、エジソンは直ぐに抜け目の無い事業計画を立ててその発明の商品化に取り掛かった。その計画は「電球」が必要とする技術系全体を製造するものであり、発電機(エジソン機会会社)、電線(エジソン電気管会社)、発電所と配電(エジソン電気照明会社)、ソケットおよび電球を作る会社であった。当時の他の産業と同様に、これらの会社は複合企業体であるゼネラル・エレクトリック (GE)に吸収されることで大きな効率化を生み出した。照明は広く普及され、1882年から1920年の間に、アメリカの発電所はマンハッタンの1カ所から4,000カ所近くまで増えた。初期の発電所は消費者の近くに建てられたが、1900年までには長距離を送電できる発電所もできるようになった。1920年までに電力は石油系の照明を凌ぎ、20世紀を支配するものになった。

照明に加えて、電動モーター(発電機を逆転させる発想、すなわち電流で磁石を回転させ仕事をさせる)が産業分野で大変重要な物になった。1883年、セルビアからの移民でエジソンの弟子であったニコラ・テスラは、交流モーターを発明して電動モーターの構造を簡略化し、特許を取ってその発明をウェスティングハウス社に使用許諾した。電動モーターは、複雑な力伝達機構が不要であり、蒸気ボイラーのように運転のために水を供給することも必要ではなかったので、工場の蒸気機関に急速に置き換わっていった。以前、エジソンの所で働いていた電気技師フランク・スピローグは、1888年にモーターを使って電力で動く路面電車を開発した。

エジソンの直流発電機と照明に関する特許は当初の配電に関して市場の独占ができた。しかし、直流電流の送電は産業用の場合と家庭や商業用の場合とでは電圧が異なり、その変圧が難しいことと送電効率が悪いことのために問題があった。1887年、テスラは交流発電機、変圧器、モーター、送電線および照明からなる仕組みを開発し、容易な電圧変換と高い送電効率を生み出し、ジョージ・ウェスティングハウスがこの発明を商業化することを許諾した。テスラの仕組みが明らかに優れていたが、エジソンのGEは、交流電流を使った動物の屠殺の例(電気椅子の発明に繋がった)、交流電流での感電事故の告知、および州議会への圧力によって、競合する交流電流の仕組みを貶めるキャンペーンを始めた。1893年、ナイアガラフォールズ委員会はその水力ダム発電に関する契約で、GEからの反対を抑えてテスラとウェスティングハウスの仕組みを採用した(J・P・モルガン、ロスチャイルド卿およびジョン・ジェイコブ・アスター4世の後ろ盾があった)。これによって交流電流の発電と送電が大規模な物となり、周波数60ヘルツが標準となった。

★自動車

自動車を生み出すための技術は1870年代と1880年代のドイツに現れた。ニコラウス・オットーは4サイクル内燃機関、ゴットリープ・ダイムラーとヴィルヘルム・マイバッハはオットーのエンジンを改良して高速を出し、カール・ベンツは電気点火装置を開発した。デュリエー兄弟とハイラム・パーシー・マクシムが、1890年代にアメリカでは初めて「馬の無い客車」を製造したが、これら初期の自動車は重くて高価であった。

ヘンリー・フォードは製造ラインに互換性のある部品を採用して自動車の製造工程を革新し、工業的大量生産の始まりとなった。1908年、フォード・モーター会社はモデルTを発売した。このモデルは出力が20馬力、軽量で修理も容易であった。自動車の需要は非常に高く、1912年には組み立て工場をミシガン州ハイランドパークに移転しなければならなかった。新しい工場は当時の生産効率追求のモデルとなった。採光や換気が良く、製造ラインに沿ってあるコンベアで部品を運び、作業者の位置は製造ラインに沿って規則正しく配置された。製造ラインの効率の良さによって、フォードは大きな利益と高い生産性を確保できた。1912年には約900ドルで6千台の自動車を売ったが、1916年までに360ドルで577,000台のモデルTを売れた。製造ラインの作業者は熟練していなくても繰り返し作業を行えば良かったので、フォードは急速に生産を拡大できた。フォードはヨーロッパからの移民、アフリカ系アメリカ人、前科者および身体障害者を雇い、比較的高い賃金を払ったが、労働組合あるいは急進的政治組織に入った者は直ぐに解雇した。

アメリカの自動車の利用は拡大したものの、都市や田舎の道は新しい交通機関にとってお粗末なものであった。地方の自動車クラブがアメリカ自動車協会を設立し、市、州および連邦政府に圧力を掛けて既存の道路の幅を拡げ舗装し、有料の幹線道路を建設させた。1910年代と1920年代には幾つかの連邦政府道路補助金法案が成立し(アメリカ国道1号線や66号線の建設に繋がった)、道路の範囲や質が著しく変わった。世界恐慌の時の公共事業促進局は道路建設に多くを投資した。自動車の所有者数は世界恐慌の時に減少したが、第二次世界大戦の時は戦時配給と軍事物資の生産のために製造できる自動車の数が制限されたためにやはり減少した。フォード、GMおよびクライスラーといった大企業のみが苦しい時代を生き延びることができた。戦後、家族のサイズが大きくなり、生活が豊かになり、また退役軍人には政府援助のローンのしくみなどもあり、大都市の郊外に一戸建てを造ることがブームになった。これら郊外居住者が自動車のオーナーになった。住宅の開発は既存公共交通機関では賄えない範囲に及び、広く分散していたので、行き先によっては歩くしかなかった。自動車の利用により市街地、郊外および田園地帯の道路は混雑し、新しく州の予算でできた有料道路や世界恐慌時代の古い道路などは設備が悪くて、都市間や州間の交通には向かなかった。1956年、連邦議会は連邦補助高速道路法を成立させ、国中に張り巡らす無料高速道路41,000マイル (66,000 km)の建設予算を認め、現代アメリカの幹線道路システムの法的および基幹施設の基礎となった。

●工業化の効果

★農業生産

1840年代、西部の諸州が次々と合衆国に加盟するにつれて、多くの貧困層と中流のアメリカ人がこれら広大な未開発地域に自由な土地を求めて扇動するようになった。ジョージ・ヘンリー・エバンスやホレイス・グリーリーによるホームステッド法の成立努力については、南部諸州が自由な土地で南部のプランテーション経済を脅かされると思い妨害した。反対していた南部諸州が脱退した後の1862年にホームステッド法が成立した。この法では、その土地に5年間住んだ農夫に160エーカー (65 ha)の土地所有を認めるか、6ヶ月後に1エーカー当たり1.25ドル ($3/ha)で購入することを認めるものだった。

アメリカの西部への拡張の結果、4億エーカー (1,600,000 km2) 以上の新しい土地が耕作可能となったが、1870年から1910年に掛けて、農業や農業労働に携わるアメリカ人の数は3分の2に減少した。新しい農業技術や機械化によりこれが補われた。サイラス・マコーミックの刈り取り機(1834年発明)は、手作業を機械で置き換えることで収穫の効率を4倍にした。ジョン・ディアーは1837年に鋼製鋤を発明し、土が鋤にくっつかないようにし、肥沃な中西部の平原での農耕を容易にした。刈取り機、結束機および刈り取り脱穀機はさらに大きな効率を生んだ。1866年に小麦農家が生産した量は1エーカー当たり9.9ブッシェル(35リットル)であったが、1898年には1エーカー当たり15.3ブッシェル(540リットル)まで上昇し、作付け面積も3倍になった。

鉄道によって収穫物を早く市場に運び、冷凍技術で新鮮な肉や魚を遠い市場まで運べるようになった。食料の物流もハインツやキャンベルのような会社が、以前は傷みやすい食料を缶詰にしたり、水分を蒸発させたりして運び機械化された。商店のパン屋、醸造所および肉屋はその土地が雇用する運転員が取って代わり、生鮮農産物の需要を喚起した。需要は増え続けたが生産量も増えて価格は下がったので、農夫の間には実質的な不満が生まれた。農民共済組合や農夫連盟のような組織ができて、保守的金融政策、鉄道の規制および保護関税を要求した。

★ 都市化

1865年から1920年までの期間は、都市部で人口、政治力および経済活動が集中するようになったことで特徴付けられる。1860年、人口10万人以上の都市は9つに過ぎなかったが、1910年には50市になった[52]。これら新しい大都市は、従来のニューヨーク、ボストンおよびフィラデルフィアのような港湾市ではなく、内陸にあって新しい輸送経路にあった(デンバー、シカゴおよびクリーブランド)。アメリカ合衆国の最初の12人の大統領はすべて農業社会から出てきていたが、1865年から1912年までの大統領は実業界や都市を代表する経歴があった。

工業化と都市化は互いに補い合い、都市域は次第に混雑してきた。不衛生な生活環境の結果として、コレラ、赤痢および腸チフスのような疫病が拡がる頻度が上がった。都市は道路を舗装し、下水道を造り、水を浄化し、家を建て、公共交通機関を作った。

★労働問題と移民

国民と技術との関わりが深まるに連れて、古い様式の職人や技能者は「不要」になっていき、職人が数時間あるいは何日もかかって完成していた者を、機械を使って数分あるいは数時間で複製してしまう特化された作業者や技師に置き換えられた。フレデリック・W・テイラーは製造ラインに生まれる非効率性に注目し、製品の各部品を製造するために必要な動作と工程を分析し、作業者の回りの工場と製造工程を認識し、作業者に部品当たりの生産速度を課すことで、大きな生産効率上昇に繋がると提案した。これは「科学的管理」あるいは「テイラー理論」として知られるようになり、直ぐに進歩的な都市政庁が採用して都市域の効率化に応用し、婦人参政権論者は家庭の経済に応用した。

工業化の進行は有能な労働者あるいは危険で低賃金で将来のない仕事に進んで働く労働者の供給を上回った。しかし、熟練度をあまり要しない仕事への需要は賃金を押し上げ、アイルランド、イタリア、ポーランド、ロシア各国の人やユダヤ人の移民を惹き付けた。彼らは故国で働くよりもアメリカなら高い給与を稼げた。

初期の労働組合は南北戦争の前に、年季の明けた大工、石工などの職人で構成されるギルドとして現れ、労働時間の改善や賃金の改善を親方に要求してストライキを打った。政府のあらゆる部局は一般に労働者が組合を結成したりストライキを打つことを止めさせようとした。

★金融と貿易

この時代に要求された大規模事業の資金を手当てするために、株式会社が実業組織の形態として主流になった。会社はトラストを組むことで拡がり、競合する会社が一つになる、いわゆるモノポリで拡大した。

実業界の指導者は自由放任主義の政府政策を応援した。高い関税はアメリカの工場と労働者を外国の競争者から守った。鉄道に対する連邦政府の補助金は投資家、農夫および鉄道の労働者を豊かにし、無数の町や都市を造った。

アンドリュー・カーネギー、ジョン・ロックフェラーおよびジェイ・グールドのような強力な工業資本家は、集合的に「泥棒男爵」とも言われ、巨大な富と権力を保持した。

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この記念日は、記念日でも、「歴史」に残る一大イベントですね・・・パート9

先ほどは、アメリカ合衆国の歴史について書きました。続いては、「アメリカ合衆国の技術と産業の歴史」というものがございますので、参考までに、書いていきたいと思います。

●アメリカ合衆国の技術と産業の歴史について

アメリカ合衆国の技術と産業の歴史について概説する。アメリカ合衆国が急速な工業化を果たしたのには、様々な要因、条件が貢献しており、例えば、広大な土地と労働力、気候の多様性、航行可能な運河・川・海岸水路の多様で豊富な存在、安価なエネルギーを得ることを可能とする豊かな天然資源、迅速な輸送力および資本力が上げられる。

多くの歴史家に拠れば、経済と技術が大きく発展したのは18世紀の終わりから20世紀初頭の間に起こったということで一致している。この期間、国全体が原始的な農業経済から世界の工業生産の3分の1以上を生み出すような最大の工業国にした。このことを総工業生産量の指数で表示すると、1790年の4.29に対し1913年の1975(1850年の総生産量を100とした)と実に460倍の成長となっていることからも明らかである。

アメリカの植民地が独立を確実なものにした1781年、工業生産やその連係において大きな変化が起きており、伝統職人から陶芸工に至るまで第一次産業革命の始まりとなった。南北戦争までに輸送基幹施設が発展し、技術革新が集中した結果、組織の拡大と事業の連係が進み、第二次産業革命となった。20世紀への変わり目頃、アメリカ合衆国の工業力はヨーロッパの諸国を経済的に凌駕し、さらにその軍事力も誇るようになった。世界恐慌によってその技術力にも陰りが見えたが、第二次世界大戦以降は世界の2大超大国の一つになった。20世紀の後半は、政治、経済および軍事の分野でソビエト連邦との冷戦と競争の時代であったが、政府主導による科学技術の研究開発によって、宇宙工学、電子計算機およびバイオテクノロジーなどの分野で最先端を維持してきた。

科学技術と工業はアメリカの経済的成功を十分に形作っただけでなく、その明確な政治の仕組み、社会構造、教育制度および文化的な同一性の形成に貢献してきた。アメリカ的な能力主義社会、起業家精神、および自給自足といったことは初期の先駆的技術の進歩の遺産から出てきたものである。

●ヨーロッパ人到来以前の技術

北アメリカにはおよそ紀元前1万年以来人類が住んでいた。初期の住人はベーリング地峡を渡ってきた移動性の狩猟採集民であった。これら最初の先住民は、打製石器の槍先、原始的な銛を用い、加えて極地方では、狩猟を行うための動物の毛皮で覆われた小舟を使っていた。先住民が大陸内に分散するにつれて、太平洋岸北西部、中央大平原、アパラチアの森林および乾燥した南西部など様々な気候帯に遭遇し、そこで定住を始めた。太平洋岸北西部に住んだ住人は木の家を建て、網や梁を使って魚を獲り食料を保存するようになったが、実質的な農業は発展していなかった。大平原に住んだ住人は大部分移動性の狩猟採集民のままであり(時代によっては農業も営まれた)、バイソンなどを狩猟しながら皮革の加工技術が巧みになった。一方、南西部の乾燥地帯に住んだ住民は、日干しれんがの家を建て、陶器を焼き、綿花を育て、織物を織った。東部の森林地帯やミシシッピ川渓谷に住んだ住民は、広大な交易網を発展させ、ピラミッドのような塚を造り、実質的な農業を行った。アパラチア山脈や大西洋岸に住んだ住民は高度に持続可能な森林農業を行い、木材加工では専門性が高くなった。しかし、これら先住民の人口は少なく、技術的な変化の速度は遅かった。北アメリカの先住民は、ユーラシア大陸の民族のように動物を飼い馴らしていわゆる畜産とか酪農を行なったり、牛馬を使って耕したりすることはなく、文字を書いたり、青銅や鉄を使った道具を生み出すこともなかった。

●ヨーロッパ人の探検と開拓

15世紀と16世紀のヨーロッパ人探検家による「新世界」の発見とそれに続くコロンブス交換の結果、北アメリカの技術的発展の方向が大きく変わった。スペインのコンキスタドールのように国に抱えられた探検家達が先住民族の知らなかった技術を持って新世界に到着した。例えば、キャラベル船、飼い馴らされた馬、鉄製の鎧および剣であった。

★農業

17世紀、ヨーロッパでの宗教的迫害から逃れてきたピルグリム、ピューリタン、クエーカーなどが耕作具、銃および牛や豚のような家畜をもたらした。これらの移民やヨーロッパ人植民者は当初、トウモロコシ、小麦、ライムギ、エンバクなど生存のための穀物を栽培し、交易用に炭酸カリウムやメープルシロップを精製した。より温暖な南部にあっては、大規模のプランテーションで、サトウキビ、米、綿花およびタバコなど労働集約的換金作物を生産し、それを維持していくために先住民族やアフリカから輸入された奴隷の労働力を必要とした。初期のアメリカ農夫は自給自足ではなく、他の農夫、特化した技能職人、および商人に道具、収穫の方法を頼り、さらに市場への作物の運搬も頼っていた。

★職人技

植民地の職人技は、アメリカにおける厳しい旅行や生活条件のために、ヨーロッパの熟練した技能者が大西洋を越えて技術や道具をもたらすことを躊躇わせたので、ゆっくりとした発展であった。しかし、このためにアメリカの技能者は、ヨーロッパのギルドのような様々な長期間の忠誠といった束縛から解き放たれ、その自給自足経済の中から静かな技術進歩を遂げていった。アメリカの職人技は若者の教育と雇用のために独特の徒弟奉公制度を発展させた。重商主義的な輸出に頼った経済が活気のある自立経済の出現を損なったのも事実だが、これらの職人や商人がその交易のために相互依存性を高めていった[10]。18世紀の中頃、イギリスが課税という手段で植民地を従わせ管理しようとしたことが、ボストン、ニューヨーク、およびフィラデルフィアなど都市部の職人や商人の間の不満を強め、イギリス支配からの独立の声を高めていくようになった。

●初期の工業化

アメリカの工業化はその特徴有る地形的、社会的および経済的要因の集中で促進された。独立後のアメリカはヨーロッパに比較して人口が少ないままであり、手作業による労働の必要性から労働集約的作業の機械化の強い動機が生まれた。アメリカ合衆国の東海岸には無数の川が大西洋に流れ込んでおり、工場や初期工業化に必要な基幹施設を造るために潜在的に可能な場所が多くあった。さらにアメリカ合衆国は永続的に労働力の供給を制限しており、天然資源が多く供給されたためにヨーロッパの国々にあった工業化の主要障壁が排除された。

1783年の独立戦争終戦の後、新政府は強い財産権と固定されない階級構造を造った。特許を発行するという考え方は17、8世紀に移住したイギリス、フランスおよびオランダの人々によって北アメリカにもたらされ、アメリカ合衆国憲法第1条第8節に取り込まれて、議会が「一定期間、著者と発明者にその著作や発見について排他的権利を与えることで、科学と有益な芸術の発展を促進する」ことを承認した。

★工場

1780年代中頃、オリバー・エバンスは穀物揚重機とホッパーを発明し、これが伝統的な製粉所と置き換わった。世紀の変わり目には、エバンスが最初の高圧蒸気機関の一つを開発し、これら人気のある発明の製造と修繕を行う機械工場のネットワークを作り始めた。1789年、ナサニエル・グリーン将軍の未亡人がイーライ・ホイットニーを採用して、短繊維の綿花の種を綿の繊維から取り除く機械を開発させた。その結果生まれた綿繰り機は基本的な大工仕事で造られたものであったが、必要な労力を50分の1にさせ、南部の綿花生産者の巨大な利益を生んだ[11]。ホイットニーはその発明から得られる財政的成功を認識していなかったが、政府との契約でライフルなどの武器の製造を始め、「迅速、均一および正確」に製造できるようにしたため、これが部品の互換性に対する基本概念となった。

1800年と1820年の間、製品の品質と製造の効率を急速に上げる工業用の道具が出現した。シメオン・ノースは、分業制を採用して拳銃の完成品ができるまでの速度を上げることを提案し、1798年にはフライス盤を開発した。1819年、トマス・ブランチャードが旋盤を開発し、武器製造時に必要とされるような不規則な形状にも対応できるようになった。1822年までに、ジョン・H・ホール大尉が特殊機械、分業および非熟練工員を使って後装式のライフル銃を生産する仕組みを開発し、この仕組みはアメリカでは「アーモリー・プラクティス」(アーモリーは武器庫)と呼ばれ、イギリスでは「アメリカ式製造システム」と呼ばれた。

繊維産業は当初、労働集約的な生産方法に頼っていたが、これも機械化による効率化の可能性が高いものであった。18世紀遅くに、イギリスの繊維産業がジェニー紡績機、水動力紡績機およびミュール精紡機が採用され、紡績産業の効率と品質を大きく改善したが、イギリス政府が機械の輸出を禁じるかその技術に詳しい人の移民を禁じる方法で技術の流出を止めた。サミュエル・スレイターはイギリスでも最大規模の繊維工場の徒弟であったが、アメリカの諸州が綿糸製造の知識を持っているイギリス人渡航者に報奨金を出しているということを知って、1789年にアメリカに移住した。スレイターはモーゼス・ブラウンと共に、ロードアイランド州ポータケットで、アメリカでは初めての繊維工場を設立した。スレイターは、ニューイングランド中に綿糸と毛糸の工場を幾つか建てたが、労働力不足に直面した時に、労働者やその家族のために工場に隣接する土地に家屋、店舗および教会を建てる手段に訴えた。この独立した工場と付設集落というスレイターのビジネスモデルは、イギリスの自動織機を模倣したフランシス・カボット・ローウェルのさらに効率的な仕組みによって1820年代までに置き換えられた。このローウェルの織機は紡績と機織りが組み合わされており、高度に機械化され、特化した雇員によって運転され、未婚の若い女性(ミル・ガールズ)を雇い、会社に所有されていた。それまでの労働形態(徒弟、家内あるいは奴隷化年季奉公)とは異なり、「ローウェルの仕組み」は、雇用者との契約の元にその労働を売る賃金労働者の概念を世に広めたものであり、現代の国や産業にも続く社会経済システムになった。

●有料道路と運河

アメリカ合衆国の13州はローマ帝国の凋落以降のヨーロッパでのどの国よりも広い地域(ニューハンプシャー州からジョージア州まで)を管理していた。1803年までにケンタッキー州、テネシー州およびオハイオ州の加盟で地域はさらに拡大しており、これら内陸の西部州と海岸地域の間の輸送手段は徒歩、動物あるいは船に頼っていた。ローマ帝国が国を束ねるために造ったローマ街道の成功例に倣い、アメリカ合衆国の政界や実業界の指導者が国の遠隔地を繋ぐ道路と運河の建設を始めた[16]。

初期の有料道路は、建設資金を集めるために株を売った共同持ち株会社によって建設され所有された。例えば、1795年に造られたペンシルベニア州のランカスター・ターンパイク会社がある。

1808年、アメリカ合衆国財務長官アルバート・ギャラティンの「共和国の道路と運河に関する報告書」では、連邦政府が州間の有料道路と運河の建設予算を確保すべきと提案した。多くの民主共和党員が連邦政府にそのような役割を託すことに反対したが、米英戦争の時にイギリスによる海上封鎖によって、軍事行動や一般の通商のためにもそのような内陸の道路に頼っていることが明らかになった[17]。アメリカ国道の建設は1815年メリーランド州カンバーランドから始まり、1818年にはバージニア州ホィーリングに届いたが、その後の政争によってミシシッピ川方面に西に伸びることが妨げられていた。それにも拘わらず、道路はアパラチア山脈を抜ける主要な内陸導線となり、南北戦争前には数多くの西へ向かう開拓者の道筋になった。

多くの運河会社も認可されたが、多くの運河が計画された中でわずか3本のみが米英戦争の始まった1812年までに完成していた。バージニア州のディズマル・スワンプ運河、サウスカロライナ州のサンティー運河およびマサチューセッツ州のミドルセックス運河であった。内陸との交流に新時代を開く先駆けとなったのは1817年に承認されたニューヨーク州のエリー運河であった。この西部との交易のための大胆な計画は、それでなくてもアメリカ国道の完成でボルチモアへの交通の大半を取られる怖れのあったフィラデルフィアの商人に警告を与えた。1825年、ペンシルベニア州議会は一連の運河を計画することでこの問題に取り組んだ。それはその大きな海港と西はピッツバーグ、北はエリー湖と上部サスケハナを結ぶものであった。

有料道路と同様に、初期の運河も私設の共同出資会社によって建設され所有され運営されたが、後に大きな計画は州の予算で行われるようになった。ニューヨーク州知事デウィット・クリントンが提案したエリー運河は、地方債の発行によって公共のリスクで予算化され、公共の利益として計画された最初の運河であった。この計画が1825年に完成されたとき、エリー湖とハドソン川が繋がれ、閘門の数は83カ所、前兆は363マイル (584 km)となった。エリー運河の成功は国中の運河建設ブームを呼び、1816年から1840年の間に総延長で3,326マイル (5,322 km)の人口水路が出来上がった。ニューヨーク州のシラキュースとバッファロー、オハイオ州のクリーブランドなど大きな運河沿いにあった小さな町が、大きな産業と交易の中心に成長し、一方でペンシルベニア州、オハイオ州およびインディアナ州などの州は熱狂的な運河建設のために破産寸前までいった。

しかし、内陸部との交易が拡大するにつれて輸送に関わる問題の大きさは、個別の州や私設の会社で対処できる限界を越えていた。1807年には既に、アルバート・ギャラティンが東部と西部を繋ぐ巨大内陸水路システムの建設を提案していたが、その予算は2千万ドルと見積もられていた。しかし、ジェファーソンの時代に連邦政府が内陸部の改良に果たしたというものは、1806年の予算で見れば、オハイオ州の公有地販売額の2%に過ぎず、アメリカ国道をそれが通る州の了解を得て建設するために使われた。1818年までにこの道路が開通しメリーランド州カンバーランドとウエストバージニアのホィーリングとを結んだ。

1816年、米英戦争の体験を受けて、この問題に関する情報を仕入れた政治家は国の問題として黙っているわけにはいかなかった。マディスン大統領ですら、「包括的な道路と運河のシステム」を建設する必要性について議会の注目を喚起した。議会が招集されると直ぐに、内陸部の改良に1,500万ドルの予算化を提案するジョン・カルフーン作成の法案が議論された。この予算は国立銀行によって政府に支払われた金で賄われたため、この法案は一般に「ボーナス法案」と呼ばれた。しかし、マディスン大統領は任期満了の前日に、その法案が違憲であるとして拒否権を発動した。連邦政府による内陸部改良の政策は、最後のバージニア出身支配者の憲法に対する罪の意識で頓挫した。アメリカ合衆国下院は、合憲性についてはあまり配慮しておらず、裁決の結果も接近したもので、道路と運河の建設予算を承認したが、それを実行する権限は無かった。その結果、連邦政府で拠出した内陸部改良のための予算は、様々な費目を合わせてもカンバーランド道路のための約150万ドルにしかならなかった。

1819年の恐慌に続いての不況から国全体が回復するに連れて、内陸部改良の問題が再び全面に出てきた。1822年、カンバーランド道路で通行料を集めることを承認するための法案はモンロー大統領に拒否された。モンローは内陸部改良に関する合憲性についてその見解を、念を入れた随筆で表明した。モンローは、議会が予算化することを認めたが、国の仕事として実際に建設することも、それが法に適っているとも見ていなかった。内陸部改良に国が大きく関わるという考えは暫くの間停滞した。2年後、議会は大統領が交易や軍事目的で必要と考えるならば道路や運河のための調査を行う権限を大統領に与えた。ヘンリー・クレイ以外に連邦政府の機能についてより大きな概念を雄弁に説明できる者はいなかった。クレイは大西洋岸の調査や灯台に対して成されている事項に聴衆の注意を惹き付け、国の内陸部がいかに無視されているかを訴えた。他の大統領候補の中でも、アンドリュー・ジャクソンは上院で一般測量法案に賛成票を投じた。ジョン・クィンシー・アダムズは大衆の心の中に疑いを残さず、この問題に関するその党派の狭い了見には影響されなかった。ウィリアム・クロウフォードは南部ではどこでも声の上がっている違憲性を感じ取り、国による内陸部改良を認める憲法修正という古い手段に拠ろうとした。

アダムズが大統領になって最初に議会に伝えたことは、道路と運河を建設することだけでなく、天文台や国立大学を造ることも提案することだった。ジェファーソン元大統領は1806年に既に議会に対し、憲法に対する必要な修正を考慮するよう促し、これらのことも推奨していた。アダムズは憲法の制限を忘れていたように見えた。ジェファーソンはマディスンに対し、1798年に遡り、内陸部改良の法案に反対する方向に向けられた決議案について、新しい決議案をバージニア州が採択することが望ましいと何度も警告していた。1826年3月、合衆国議会は以前の決議の原則全てが、議会によって製造者を保護しさらに内陸部改良を推進する法案を通すことができるとみなされる権限に全力で反対すると宣言した。アダムズの政策は議会の反対にあって過去の遺物になった。

★蒸気船

有料道路や運河の導入で交通の効率は上がったものの、これらの経路での旅行はまだ時間も金も食うものであった。蒸気ボイラーと推進機構を組み合わせるというアイディアは、1780年代遅くに蒸気船の特許あるいは独占状態を申請したジョン・フィッチとジェイムズ・ラムゼーが最初だとされている。しかし、これら初期の蒸気船は複雑であり、重く、高価であった。ロバート・リビングストンが土木技師のロバート・フルトンと経済的な蒸気船の開発について契約したのはおよそ20年後であった。フルトンの外輪船「ノース・リバー・スティームボート」は、1807年8月17日にニューヨーク市からオールバニ市までを遡る処女航海を行った。1820年までに、大西洋岸の航行可能な川やチェサピーク湾で蒸気船が運航された。底の浅い船はミシシッピ川やオハイオ川の航行に適してもおり、1817年の17隻から1855年には727隻まで増えた。蒸気船の速度によって海岸の港から上流の都市までの所要時間は週の単位で削減され、商品を運ぶ費用も90%が削減された。

蒸気船は連邦政府、州政府および私設の経営者との関係を大きく変えた。リビングストンとフルトンはニューヨーク州内での蒸気船運航を独占する権利を得たが、ニュージャージー州で競合するフェリーを運航したトマス・ギボンズは、独占の名目でニューヨーク州の水域に入ることを禁じられた。1824年、アメリカ合衆国最高裁判所は「ギボンズ対オグデン事件」に判決を下し、憲法の商業条項に従い連邦議会は商業と輸送を規制できるとした。これによってニューヨーク州は他州からの蒸気船運航を認めることを強いられた。

ボイラーについては、構造的な欠陥があり、金属学的知識があまり無かったために、1810年代から1840年代にかけて、多くのボイラー爆発事故が起こり、数百人の人が亡くなった。1838年、規制が強化され、運転者の運航免許取り消しの権限ももつ政府の代理人によるボイラーの検査が義務付けられ、そのような事故からおきる訴訟の可能性を減らした。アメリカ人は如何なる政府も私有財産を規制する権限が無いと長く抵抗してきたが、この新しい規則は私有財産権が市民権に勝るものではないことを認めさせることになり、その後の連邦政府による安全規則に受け継がれることになった。

★南北戦争 [編集]

南北戦争の頃の技術革新

・サミュエル・コルト - リボルバー拳銃を開発。
・ジョン・ブラウニング - 銃の開発

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この記念日は、記念日でも、「歴史」に残る一大イベントですね・・・パート8

続いてです。続いては、冷戦後期 から順に書いていきます。

●冷戦後期 (1969-1989)

ジョンソンの後を受けたリチャード・ニクソン(共和党)は、泥沼化したベトナムからの撤退を模索し始めた。アメリカ軍はベトナムからの段階的な撤退をはじめ、ついに1973年、ベトナムからの完全撤退を完了した。ベトナムでの死者は5万人以上に上り、心身ともに傷ついた帰還兵の社会復帰と市民からの蔑視が社会問題化した。ニクソンはその他にも、中華人民共和国との関係改善を図ったり、アポロ計画やベトナム戦争によって悪化した財政を立て直すため、ドルと金の兌換を停止するなど、外交、経済面においていくつかの新機軸を打ち出したものの、ウォーターゲート事件により辞任に追い込まれ、大統領の権威の低下、政治不信が始まった。

ニクソンの跡を継いだジェラルド・R・フォード(共和党)がニクソンに対して恩赦を与えたことや、さらにこれに続くジミー・カーター(民主党)の政権運営が弱腰と批判された事から、70年代を通じて政治不信は解消されなかった。特に、イラン革命の際に占拠された大使館を救出する作戦が失敗し、数十名の海兵隊員を死なせた事は、国民の米軍に対する信頼を裏切ることとなった。さらには、この大使館問題が解決される際、裏取引があったことが後に明るみに出て大問題となった(イラン・コントラ事件)。

国内ではベビーブーマー後の世代によるモラルの低下が著しく、また高所得者と低所得者の格差が急激に開いていった。ケネディによって市民権を獲得した黒人も、白人による差別感情は短期間で拭えるものではなかった。高級職業につくことは難しく、貧しい生活が続いた。これらの要因によって市街地で犯罪が増加し、主だった大都市の中心ではことごとく低所得者や黒人・プエルトリコ人の暮らすスラム街が形成され、治安は最悪となった。高所得の白人は郊外の住宅地に移転し、都市のドーナツ化現象が進んだ。こういった米国の負の特徴は「アメリカ病」と呼ばれ、アメリカの影響下にある先進諸国共通の問題となっていった。政府は問題を改善する為に福祉に力を入れざるを得なくなり、70年代に福祉国家へ生まれ変わった。

こうした中で保守派、福音主義(en:Evangelicalism)、キリスト教根本主義、キリスト教右派団体の期待を背負って登場したのがロナルド・レーガン(共和党)である。レーガンはソ連を「悪の帝国」と規定し、それに対抗するためにSDI(スターウォーズ構想)をはじめるなど、それまでの柔軟な外交政策を強硬的なものに変更した。おりしもソ連がアフガニスタンへの侵攻を開始したため、冷戦は新たな高まりを見せた。そのためこの時期を「新冷戦」と言う。このような強攻策はレーガン政権に入り込んだ新保守主義(ネオコン)の影響が強く働いている。ネオコンはリベラルな民主党で勢力を伸ばしていたが、70年代の民主党の支持率低下によって見切りをつけ、大挙して共和党へ流れ込んだ。

レーガンは、軍事では中米紛争に介入し、ニカラグア、エルサルバドル、グアテマラの内戦で反共を掲げる政府軍や、ニカラグアの反革命傭兵軍団コントラを支援した。また、グレナダ侵攻を成功させ、ベトナムとイランで傷ついた軍の威信も取り戻したが、すぐにレバノン内戦で大使館と海兵隊が襲われ、200名以上の死者を出したことから、地上作戦には消極的になった。レーガンは中央アメリカでは、人権侵害を行う反共組織の支援に徹したが、こうした姿勢が仇になり、イラン・コントラ事件というスキャンダルを巻き起こした。リビアのカダフィ政権とは長く対立し、戦闘機同士の空中戦や、旅客機爆破事件(パンアメリカン航空103便爆破事件)の報復攻撃などを行った。また、イギリスや日本といった同盟国との関係を重視し、これらの国とは蜜月の関係となった。オイルショック以来、奇跡的な経済成長を遂げた日本・西ドイツを影響下に置きながら、政治・経済・軍事を西側先進国の合議によって運営しようとするサミットが開催されるようになったが、1985年のプラザ合意でその影響力が発揮された。内政ではローマ・カトリックとキリスト教右派団体の主張にしたがって妊娠中絶を規制するなどした。この時代は60年代末までのニューディール絶頂期から保守的な時代へと大きく転換した時代である。

産業面では、半導体を用いるコンピュータを中心とした先端工業が発達し、シリコンバレーと呼ばれる半導体工業地帯が登場し、ハイテク草創期において技術がほぼ独占状態となった。一方、70年代から80年代にかけ、経済成長によって大国となった日本や西ドイツが自動車、家電、オーディオ機器などを次々に米国で展開した。特に日本製の製品は大衆的で高品質低価格として非常に人気となり、日本製自動車が全米の保有台数の4分の1から3分の1に迫るまでになった。また、米国の独占が続いたハイテク産業においても、80年代後半には日本企業が急成長してシェアを奪い、米国企業の危機感を煽った。このため、商務省と財界は日本に対して貿易不均衡の是正として様々な圧力をかけ、牛肉や柑橘類の自由貿易を認めさせたが、日本側も様々な手段で抵抗した為、すさまじい貿易摩擦へと展開した。米国内では、国民の不満を日本へ向けるための煽動報道が繰り返し行われ、90年代前半にかけ、「ジャパンバッシング」(日本叩き)と呼ばれる反日運動が国内を覆った。

レーガンの跡を継いだジョージ・H・W・ブッシュ(共和党)は積極的な強硬政策を採り、パナマ侵攻と湾岸戦争を成功させ、軍の威信と信頼を取り戻した。また、上記のような反日感情を反映し、日本に対しては様々な圧力外交を行った。この露骨な圧力政策は、日本のバブル経済が崩壊する90年代半ばまで続いた。さらにブッシュの時代、ロス暴動をきっかけとして、国内に根強く残る人種差別感情や人種間対立が浮き彫りとなった。

1989年11月9日、冷戦の象徴であったベルリンの壁が崩壊し、それを受けて12月3日のミハイル・ゴルバチョフとのマルタ会談では「冷戦の終結」が宣言された。そしてソ連崩壊、こうしてアメリカのみならず、世界は新しい時代の幕開けを迎える事になる。

●冷戦後 (1989-2000)

冷戦の終了後、まず最初に直面した問題は中東問題である。1991年イラクがクウェートに侵攻したことに対してアメリカ軍を中心とした多国籍軍が編成され、クウェートをイラクから解放することに成功した。これが湾岸戦争である。湾岸戦争はその現在まで続く中東問題の端緒ともなった。また、ソ連の崩壊は、自由主義陣営の中心であるアメリカの勝利を意味していたが、強硬姿勢を維持しつづけるために軍事予算は膨張し、アメリカの経済は双子の赤字(財政赤字と貿易赤字)と呼ばれる状態に苦しめられていた。

ブッシュの後に登場したビル・クリントン(民主党)はこうした経済的不況を解消することに努力し、クリントンが大統領職を去るときにはこの状況は完全に解消され、アメリカはこれまでに無い好景気を謳歌することができた。これには副大統領のアルバート・ゴアが主張する情報スーパーハイウェイ構想など、IT産業を積極的に後押しした事もその助けとなっている。アメリカは1980年代から軍事目的として電話回線を使用した情報網の整備を行っており、1990年代にパソコン通信やインターネットが民間によって急速に広がる下地となった。マイクロソフトやアップルコンピュータといった米国企業が急成長し、ハイテク技術の独占が進んだ。

クリントン時代にはファーストレディであるヒラリー・クリントンの影響から女性の権利を大幅に認めるなど、ブッシュまでの保守的な状況から、ある程度リベラルな方向へ巻き戻す試みがなされた。対外的には、ソマリアの国連平和維持活動が地元民兵に襲撃されて米兵に多数の犠牲を出した事件によって、海外派兵を控える意見が大きくなり、またコソボ紛争によるユーゴスラビア連邦共和国や、イラクへの空爆、アフガニスタン・スーダン攻撃は地上軍を伴わない比較的小規模な戦闘で、大きな対外軍事行動による出費がなかったこともクリントン政権には幸いした。

好景気によって繁栄を謳歌したクリントンの時代は、世界が米ソの二極状態から、米国を中心とした一極世界へ向かうものと想像されていた。

●現代 (2001-)

次に政権に就いたのは、ネオコンサバティブや、キリスト教右派、ローマ・カトリック、キリスト教根本主義に支持されていたジョージ・W・ブッシュ(先のブッシュ大統領の息子)であった。ブッシュの支持率は当初から低かったが、アメリカ市民は20世紀から21世紀の世紀転換期を、平和と好景気とリベラルの中で謳歌していた。そんなアメリカの目を覚ます出来事が起こる。2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件(nine eleventh、September eleventh)である。ブッシュ政権はこの事件を期に支持率を拡大、アフガニスタン侵攻、イラク戦争と言った対テロ戦争をはじめ、大きく保守化の方向へ舵を切った。

こうしたアメリカの強硬な外交政策はユニラテラリズムと呼ばれ、冷戦後に欧州で発言力を増したドイツやフランスなどから批判を受けている。一方、対テロ戦争を契機にイギリスや日本といった国は米国への追従を強め、戦争へ協力するとともに、米国との蜜月関係を築いた。また、ロシアや中国もテロ対策に賛同したが、イラク戦争によって対立へと変わった。2004年に再選されたブッシュは、アフガニスタンやイラクのほかにもイラン、北朝鮮を「テロ支援国家」「悪の枢軸」と規定しているが、イラク戦争が泥沼化し、国内のハリケーン災害が後手に回ったこともあり、強行外交の見直しと軍の再編が行われている。

クリントンによって解決された双子の赤字問題は、ブッシュの強硬な外交政策による軍事費増加によって、まず財政赤字が急速に増加した。また、中国の急成長や、イラク戦争後の統治失敗に伴う中東の不安定化による原油価格の急騰によって貿易赤字も増大している。景気はクリントン時代のITバブルが崩壊して一時的に鈍化したが、続いて住宅人気による宅地造成・建設ラッシュが好景気を招いた。しかし、今後はこの住宅バブルの崩壊が危惧されている。かつて世界一を誇った工業力も、企業が工場の海外移転を進め、また、投資事業や金融に力を入れた結果、産業の空洞化が起こっている。イラク駐留による軍事力の疲弊も重なり、米国の国際力は長期的に衰退する可能性がある一方、産業移転と投資によって中国やインドは工業的に急成長し、原油高によってロシアの経済力も回復した。ドイツ・フランスの周辺国への影響も増しており、冷戦に続く米国の一極構造は崩れつつあるという見方もある。強硬な反米姿勢で知られるベネズエラのウゴ・チャベス大統領は「我々は世界の新しい秩序を築きつつある。一極支配はすでに崩壊した。アメリカ帝国の力は瓦解しつつある」と述べている。

国家を形成する人種構成も20世紀末から大きく変化した。ラテンアメリカからのスペイン語系移民(ヒスパニック、ラティーノ)が土着し、それまでの白人・黒人のどちらにも属さない新たなコミュニティを形成している。貧しいラテンアメリカから豊かに見えるアメリカ合衆国への人々の流れは増加の一途にあり、黒人人口を上回る地域も発生した。この事象はメキシコと国境を接する各州共通の問題であるが、ヒスパニックが低賃金の新たな労働資源となっていることや、ラテンアメリカ系の商品売買による新たな経済活動の機会となっているため、単純な同化政策を採りづらくなっている。しかし、同化政策の遅れは言語分断を招くなど大きな問題となっている。どちらにしてもヒスパニックは今後のアメリカを左右する重要な勢力になると思われる。米国政府の推測では、2006年10月に人口が3億人を超えたが、これはヒスパニックの流入と、アメリカの合計特殊出生率が安定していることなどによる自然増が要因と考えられている。

2000年代以降、長らくあった黒人差別を解消の象徴ともいえる出来事が起こり、アフリカ系アメリカ人のコリン・パウエル、コンドリーザ・ライスが第65代、第66代国務長官に就任し、そして史上初のアフリカ系初の大統領のバラク・オバマとそのファーストレディのミシェル・オバマが登場した。バラク・オバマ大統領就任式はアメリカの有名人も多く参加するほどの盛り上がりであった。これによりアメリカは白人優位の体制が崩れてきている事がわかる。

2008年の南オセチア紛争や2000年代後半以降の東欧ミサイル防衛構想でロシアと対立が始まっており、親米のイスラエルが反米のベネズエラやボリビアから国交を断絶され、反露のグルジアがロシアと国交を断絶し親米化を進めた。さらにウクライナは親米派、親露派に分かれ、ブラジル、アルゼンチン、ペルーなども反米化し、かつての親米国が反米国に変わっている。東側諸国のBRICsのロシアと中国は超大国化し、反米国と友好関係を深めている。また、中ロは人権弾圧国家も支援しているためにアメリカを含む西側と対立している。2000年代以降、急速に世界での影響力を増したロシア、中国を筆頭とする、アメリカ一極支配を否定し、アメリカと政治思想も異なる東側陣営との新たなる冷戦(新冷戦)が幕を開けたのである。

新冷戦の始まりと同時に、アメリカ発の金融危機が世界経済に深刻な打撃を与えている。西側諸国に限らず、ロシア・中国も事実上の資本主義体制であるため、経済に深刻な打撃を受けている。中国では2009年6月現在まで2000万人が失業したとされる。アメリカの同盟国である日本も非正規労働者を中心に多くの失業者が出た。ロシアは世界で最も経済にダメージを受けた国と言われ、失業者は公式統計でも200万人に上り、労働争議が多発し、メドベージェフ・プーチン政権の支持率が低下している。ロシアのメドベージェフ大統領は「世界不況はアメリカによる一極支配が原因」とアメリカを批判している。しかし、中国・ロシアともに不況下にあっても軍事力の増強・近代化は強力に推し進めており、アメリカの一極支配を脅かしている。

●領土の変遷

「アメリカ合衆国領土の変遷」も参照

★大陸領土の拡大

・1776年 - 13州がアメリカ独立宣言を発表
・1783年 - イギリスより北西部植民地を割譲(ミシシッピ川以東)
・1803年 - フランスよりルイジアナ植民地を買収(ミシシッピ川以西)
・1818年 - イギリスより割譲(現ノースダコタ州)
・1819年 - スペインより買収(現フロリダ州)
・1842年 - イギリスより割譲(現メーン州北部)
・1845年 - テキサス国併合
・1846年 - オレゴン併合(現オレゴン・ワシントン・アイダホ州)
・1848年 - メキシコより割譲(現カリフォルニア・ネバダ・ユタ・アリゾナ州など)
・1853年 - メキシコより買収(現アリゾナ州南部)

★太平洋・カリブ海への進出

・1857年 - ハウランド島・ベーカー島・ナヴァッサ島を領有
・1858年 - ハワイとジョンストン島を共同統治、ジャーヴィス島領有
・1867年 - ロシアよりアラスカ購入(現アラスカ州)、ミッドウェー諸島領有
・1889年 - ジャーヴィス島をイギリスへ割譲
・1897年 - パルミラ環礁領有
・1898年 - ハワイ王国併合、スペインよりフィリピン・グアム・プエルトリコ各植民地を割譲
・1899年 - ドイツと分割して西サモア獲得、ウェーク島領有
・1903年 - パナマよりパナマ運河地帯を、キューバよりグァンタナモ湾を永久租借
・1905年 - ドミニカ共和国を保護領とする。
・1915年 - ハイチを保護国とする。
・1917年 - デンマークよりヴァージン諸島を購入
・1922年 - キングマン・リーフを領有
・1926年 - ドミニカ共和国自立
・1934年 - ハイチ自立
・1935年 - ジャーヴィス島を再領有

「アメリカ合衆国の海外領土#歴史」も参照

●戦後統治・信託統治

・1945年 - 南洋諸島・沖縄・奄美・小笠原諸島信託統治、日本占領統治、ドイツ・オーストリア・朝鮮半島分割占領統治。
・1946年 - フィリピン独立
・1948年 - 大韓民国独立
・1952年 - 日本主権回復
・1953年 - 奄美諸島を日本へ返還
・1955年 - 西ドイツ独立・オーストリア主権回復
・1966年 - イギリスよりディエゴガルシア島を50年間租借
・1968年 - 小笠原諸島を日本へ返還
・1972年 - 沖縄を日本へ返還
・1979年 - 南洋諸島信託統治領にミクロネシア連邦結成
・1982年 - マーシャル諸島と自由連合を結成し信託統治終了
・1986年 - ミクロネシア連邦・マーシャル諸島独立、北マリアナ諸島は自治領となる。
・1994年 - パラオ独立、ベルリンをドイツへ返還
・1999年 - パナマ運河地帯をパナマへ返還
・2003年 - イラク占領統治
・2006年 - イラク主権回復

●脚注

1. My crazy rev war life

● 関連項目

・アメリカ合衆国
・アメリカ合衆国大統領:歴代大統領一覧
・アメリカ合衆国の経済史
・アメリカ合衆国の技術と産業の歴史

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この記念日は、記念日でも、「歴史」に残る一大イベントですね・・・パート7

続いては、「第一次世界大戦」から順に書いていきます。

●第一次世界大戦 (1914-1918)

1914年、セルビアの凶変によって第一次世界大戦が勃発すると、ヨーロッパの各国に武器、車両を輸出して外貨を獲得することができ、経済が非常に潤った。すぐに終わるといわれた戦争は長期化し、ヨーロッパはドイツ・オーストリアを挟んで東と西の戦線で非常に荒廃した。イギリスはアメリカの参戦を要望したが、孤立主義の看板を掲げたアメリカは応じることはできなかった。1917年、自国商船ルシタニア号がUボートに撃沈される事件が発生、さらにツィンメルマン電報も要因となり、国民世論は派兵賛成へ展開し、ようやく出兵した。こうしたドイツへの軍事的圧力は、1918年のドイツ革命やドイツ敗戦を導いた一要因であると考えられる。これによって、アメリカは国際的な威信を高めることになった(一方で、ヘミングウェイらに代表される失われた世代も登場した)。また、ロシアで革命が起こり、ソビエト連邦が発足すると、チェコ軍団の救出のため、日本と共にシベリア出兵を行った。米国は終戦とともに撤兵したが、日本が侵攻を継続した為、日本に対する疑念が深まった。

●史上最高の繁栄と没落 (1918-1939)

詳細は「狂騒の20年代」、「世界恐慌」、「ニューディール政策」をそれぞれ参照

大戦後はウッドロウ・ウィルソン大統領の主導によって国際連盟を設立、国家間の争いを防ごうと積極的に整備を進めたが、孤立主義を守ろうとする保守的な議会の決議によってアメリカは不参加と言ういびつな機構となってしまった。ウィルソンによって掲げられた高い理想の達成が失敗すると、アメリカは再び孤立主義を選択することとなる。また、1919年のパリ講和会議での人種差別撤廃案を廃案に追いやった。国内ではレッドサマー1919、シカゴ人種暴動、オマハ人種暴動、エレイン人種暴動などの人種暴動が勃発した。

経済は、消耗したヨーロッパに変わって世界の工場として輸出を拡大、国際的にも大戦に消極参加だったアメリカと日本が大国として存在感を増し、両国は史上初めての繁栄を謳歌した。米国内では、戦争から帰還した若者を中心に刹那的な文化が台頭し、急速に消費社会に移行した。大都市では高層ビルが建設され、ニューヨークなどは摩天楼と呼ばれる高層都市となった。トーマス・エジソンによって早期に電気が普及したことから、夜間でも明るい街は人間の活動時間を飛躍的に拡大した。グラハム・ベルによって普及した電話は遠く離れた人と直接交流できる手段となり、ビジネスをより効率的に、効果的に発展させることに寄与した。さらに、ラジオ・新聞の発達によるマスメディアの成長によって、市民はリアルタイムで新しい情報を仕入れることが可能となり、成長を常に新しい情報に頼る社会(情報化社会)のさきがけとなった。

1920年代前半は大規模なストライキなどが頻発し、アメリカで最も労働運動が盛んに行われた時代でもある。しかし、賃上げなどを要求することよりも、企業の国有化を求めるものが大半であった。これは共産主義革命に成功したソビエト連邦に影響を受けたものとも取られて、企業活動に影響を与える労働運動を弾圧する動きが司法庁を中心に盛んに行われ、マルキストや共産主義者とされた人々のソ連への追放が行われた。この活動には捜査局BOI(現FBI)長官フーヴァーによる司法支配が背景にある。彼は1924年の就任以降、死までの約50年にわたり長官の座に就き、FBIの権限・能力強化に尽力した反面、自らは冷戦前半にかけて「影の大統領」と呼ばれるほどの強大な権限を手にして、アメリカの数々の内外政策に関与した。

またこのころ、リンドバーグが大西洋無着陸横断飛行に成功したり、ベーブ・ルースやルー・ゲーリックなどの野球スターが登場、市民を熱狂させ、大資本によるハリウッド映画が製作された。また大衆市民が手軽に株や土地を売買し、情報網の発達に伴って大都市を中心に流行したが、これは株価や地価を異常に高騰させる理由となった(バブル景気)。しかし、アメリカが人類史上最高の「富」を手にしていることは、世界の誰が見ても真実のようであった。

一方、農村部では大戦中の食物増産によって土地が疲弊し、その後の農業政策に失敗したことから、南部の小農家がさらに没落し、離農して西部を目指すものが多く現れた。大都市が繁栄を謳歌する傍らで、農家は貧しさを味わうと言う、非常に偏った「富」であったことも事実である。

豊かになった大都市では、富を目当てに群がるユダヤ人やカトリックなどの新移民に対して差別感情が蔓延した。アルコール依存症患者が増加したためとの名目で禁酒法が制定されたが、実際は新移民に酒造業を営むものが多かったことへの排斥感情に基づいているとも言える。他にも黒人の反乱が地方都市で頻発したこともあり、クー・クラックス・クラン(KKK)などの人種差別団体が公然と組織され、黒人や新移民を弾圧した。また20年代には日本人による移民が急増したが、これら日系アメリカ人が社会的に成功する様に危機感を抱いた勢力によって、日本人の脅威を煽る積極的な反日キャンペーンが繰り広げられ、日本製品のボイコットなどが行われた。日系移民の多いカリフォルニア州を中心に排斥運動は高まり、排日移民法が制定されるなど、人種差別が公然と行われる時代であった。日系人排斥運動は隣国カナダへも飛び火した。

やがてヨーロッパの自力復興によって、アメリカの輸出経済に陰りが生じ、1929年9月の最高値を境に、株価はじわじわと値を下げ始めていた。しかし熱狂した市民はそれに注意することも無く、株や土地の売買を続けた。1929年10月24日の所謂「暗黒の木曜日」を境に、遂に株価が一斉に大暴落し、史上最高の繁栄を誇ったアメリカはここに破綻した。アメリカの破綻は「世界の工場アメリカ」に経済依存していたヨーロッパ諸国や日本に波及し、1930年代を取り巻く世界恐慌となった。

資本家は一斉に労働者の首切りをはじめ、大都市は失業者で溢れた。食糧の配給には長蛇の列ができ、浮浪者や犯罪者が増加して社会不安が蔓延した。農家の没落はもはやとどまるところを知らず、彼らが逃れた西部にも、彼らを受け入れる余地はどこにも無かった。そこにかつての繁栄を誇ったアメリカはどこにも存在しなかった。

この社会不安の中、大戦恩給の前払いを求めて退役軍人が首都ワシントンで大規模なデモを起こした。陸軍士官ダグラス・マッカーサーはこれを共産主義者に煽動された暴挙とし、彼らを戦車を主体とする軍事力で弾圧、流血の事態となった。このころ失業者のデモや闘争が相次いでおり、革命が公然と叫ばれるようになっていたが、これらを共産主義者が煽動していることは十分に考えられることであった。どちらにしろ、この後に共産主義者を大量に検挙することに成功し、アメリカでの共産主義運動は沈静化した。

この不景気によって自国経済から外国を締め出そうと、欧州の多くの国で民族主義や帝国主義を色濃く含んだ国家主義、いわゆるファシズムが台頭、すでに植民地を持つ国では、宗主国と植民地の間での地域内経済(ブロック経済)によってある程度復興したが、持たざる国ではそうもいかなかった。そして植民地を持たない国は、領土拡大・植民地獲得のための侵略でしか国家生存の道は残されていなかった。

一方、フランクリン・ルーズベルト大統領は、国が率先して主導する大規模公共事業を中心としたニューディール政策によってこの難局を乗り切ろうとするが、経済は一時的に回復したのみで、1930年代後半には再び危機的状況に陥った。

●第二次世界大戦 (1939-1945)

1939年9月、アドルフ・ヒトラー率いるナチス・ドイツのポーランド侵攻によって第二次世界大戦が勃発、短期間で西ヨーロッパの大部分はドイツに占領され、イギリスも執拗な攻撃によって疲弊した。イギリスのウィンストン・チャーチルは再三にわたってアメリカに参戦を求めたが、世論の支持を得られないと考えた大統領ルーズベルトは難色を示し、中立法を遵守するとした。ドイツは頑強に抵抗するイギリスの攻略を諦め、1941年にはソビエト侵攻に移った。三国同盟によってドイツと同盟関係にある日本は、中国大陸への軍事侵攻を行っており、アメリカは西欧と共に経済制裁を行っていたが、効果は大きく、1941年7月の南部仏印進駐は、東南アジアの油田に対する侵攻準備と受け取られた。アメリカはこれに対して「ハル・ノート」として知られる強硬な要求を突き付け、12月に日本がハワイ真珠湾を攻撃した。ルーズベルトは即座に参戦を表明、枢軸国に対して宣戦布告した。

この頃、欧州戦線はドイツがスターリングラードでの戦いに敗れ、形勢が逆転した。ドイツが防戦となる中で、米英両軍はフランスのノルマンディーへ上陸した。また、ドイツ軍が発展させた都市無差別爆撃の戦法を英米軍も採用し、ドイツの主要都市をことごとく破壊して国家機能を奪った。同盟国イタリアは政権転覆によって降伏、ドイツは東西両軍から挟み込まれる形となり、ついに自国領内への侵攻を許し、連合国の勝利は決定的となった。

日本は開戦と同時に東南アジア植民地を次々に占領、欧米の統治体制を一時的に崩壊させた。アメリカもフィリピンとグアム、アリューシャン列島の数島を奪われたが、ミッドウェー諸島の占領を阻止(ミッドウェー海戦)し、ガダルカナル島上陸によって戦況は逆転、太平洋の島々で両軍は世界戦史に残る壮絶な死闘を繰り広げた。マキン・タラワ両島や硫黄島では最大の戦死者を出し、サイパンやフィリピン、沖縄では住民を巻き込んだ悲惨な戦争となった。北マリアナ諸島を占領した米軍は、無差別爆撃を日本でも行ったが、木や紙を多用する日本家屋の構造を考慮した焼夷弾を使用して、主要都市を人口の多い順に焼き払い、日本の国家機能は破壊された(太平洋戦争)。

また、米国内の日系アメリカ人を敵性国民として、残らず砂漠地帯に建設した強制収容所に送った。このため、日系人の若者は信頼を回復する為に軍へ志願入隊し、欧州戦線の激戦区に送られた。日系人部隊の戦いぶりは他の部隊を凌駕し、大戦で最多の勲章を受章した。この活躍により、米国での日系人の信用は徐々に回復して行った。日系人や在住日本人はカナダやペルーなどの国でも同様に収容所へ送られ、終戦まで過ごした。このような措置は、イタリア系やドイツ系の国民に対しては行われず、あからさまな人種差別感情が背景にあった。

ルーズベルトは戦争中にもチャーチル、ソ連のヨシフ・スターリン、中国の蒋介石と密接に会談(テヘラン会談、カイロ会談、ヤルタ会談)、ルーズベルトは戦後の処理についてこの頃から路線を決定していたが、1945年5月のドイツ降伏後に急死する。跡を継いだハリー・トルーマンはポツダム会談によって戦後の路線を明確にし、日本の広島と長崎に対して世界初の原子爆弾を使用した。原爆はマンハッタン計画と称した極秘計画によって、巨額の費用と最高の能力を投じて開発した最終兵器であり、後には「核」と呼ばれ、終戦後の世界を支配する力を持つものであった。アメリカは日本に2発の原爆攻撃を与え、ソ連もヤルタ会談の約束どおり参戦して、日本を降伏に追いやった。

戦後世界の復興は、まずアメリカ・イギリス・ソ連の3カ国によって主導権が握られた。欧州では、枢軸中心国ドイツとオーストリアは英米仏ソ4国によって分割統治、イタリアは領土割譲と高額の賠償金を承諾して講和し、植民地も保障された。枢軸国となった東欧諸国はソ連の影響圏に置かれ、南欧は英ソ両国が影響力を持った。日本は本土をGHQ SCAPが統治、沖縄・奄美・小笠原・南洋諸島をアメリカが信託統治、朝鮮半島は米ソで分割、南樺太・千島はソ連が領有、台湾は中国が領有した。しかし、日本が占領していた東南アジアは宗主国が復帰したものの、ベトナムやインドネシアでは独立戦争が勃発し、インドでも反英暴動が起こるなど、戦前の帝国主義が崩壊した新たな時代の幕開けとなった。

●冷戦前期 (1945-1969)

世界の盟主を自負していたイギリスは、戦争の痛手と植民地の相次ぐ反乱によって急速に衰退し、代わってアメリカとソ連が世界の覇者となった。かねての構想であった国際連合を設立、戦後世界の構築を進めた。しかし、思想が異なるソ連との連合は不可能なことであり、戦後すぐに双方は離反した。アメリカはマーシャル・プランによって西ヨーロッパを経済援助することを基本路線に掲げ、対するソ連は東ヨーロッパの周辺中小国を共産化したことから、欧州大陸は東西に分裂した。いわゆる冷戦である。双方はベルリン問題で対立を深めたが、朝鮮戦争(1950年-1953年)によって遂に熱い戦争となった。アメリカは欧州を防衛する為、集団防衛組織として北大西洋条約機構 (NATO) を設立し、ソ連と東欧を封じ込める戦略を採った。また中東条約機構 (METO) の成立に寄与し、東洋では東南アジア条約機構(SEATO)・ANZAS条約・日米条約・米韓条約・米華条約・米比条約をそれぞれ締結して、ソ連と中華人民共和国を包囲した。さらに、対外情報機関を統合したCIAが設置され、東側との情報戦や諜報戦など工作活動が盛んに行われ、また西側諸国も影響下に置くべく監視した。CIA長官は強大な権限を与えられ、これ以降、数々の国外活動にCIAは関与するようになり、1954年には早くもグアテマラの容共的な政権を転覆するためにPBSUCCESS作戦が実行された。

国内では戦争が終わった安堵感と、若い兵士が帰国したことから結婚と出産が急増し、1945年から数年間で幼児人口が増加した(ベビーブーム)。いわゆる「ベビーブーマー」(日本では団塊の世代)と呼ばれる世代の登場である。戦争を潜り抜けた若い家族は、戦前の家族制度に縛られず、両親とは離れた郊外に一戸建てを購入して生活することが多くなり、核家族化が急速に進んだ。この背景には、安くて高性能・しかも若者受けするスタイルの自動車が多数販売されたこと、高速自動車道路網の整備が急速に行われたことが大きく影響している。さらに、家庭用電化製品(家電)の発明と普及が、核家族化の進んだ家庭を助けた。郊外の宅地整備ラッシュ、自動車と家電製品の製造、さらには戦争で再び荒廃した西欧へ製品を輸出したことにより、米国経済は非常に活性化し、1950年代には大好況となった。テレビ、レコードなどの新たな娯楽が普及し、エルビス・プレスリーなどのミュージシャンが登場した。また、ハリウッド映画の黄金期と呼ばれるのもこの時代で、長編の大作映画が次々に製作された。

一方、冷戦の急速な緊張の高まりにより、1940年代末期にジョセフ・マッカーシー上院議員が中心となった反共運動が国民の支持を拡大、FBIも共産主義者の取締りを強化し、公民問わず様々な場所で、共産主義者と見られた人々の排斥が行われた。それは民間企業から官公庁、果ては軍隊へ至り、労組の力が強かったハリウッドでは、数々の作家や俳優が共産主義者として排斥された。この中でチャップリンなどは国外亡命に追いやられて、国内外に衝撃を与えた。これらはマッカーシズムや、魔女狩りに例えて赤狩りと呼ばれ、マッカーシーが失脚する1950年代前半まで大きな動きとなった。この運動によって公職を追放された者は数知れないが、一方で米国内の共産主義運動の芽を摘んだと評価する者もいる。なお、連合国の占領下にあった日本においても、レッドパージとして同様の排斥運動が盛んに行われたが、これは反共のマッカーサー司令官の意思が大きい。

世界では1960年代までに脱植民地化の潮流から植民地からの独立が相次ぎ、西欧の帝国主義的な覇権は終焉を迎え、独立国が資本主義的国家ならばアメリカが、社会主義国家ならばソ連が支援するという二極世界が誕生した。そしてお互いは核兵器、大陸間弾道ミサイル、原子力潜水艦という具合に、この間に相手を何万回も殺せる兵器を持つに至った。大気圏内での核実験を相次いで実施し、核戦争に備える対策が全国で取られた。また両国は軍事的優位に立つために宇宙開発競争に乗り出した。航空宇宙局(NASA)が設立され、人工衛星、有人宇宙船を次々に宇宙空間に送り出したが、ソ連が常に先を行っていた。ジョン・F・ケネディ大統領(民主党)はソ連より先に人類を月へ送り込む計画を打ち出し、NASAの事業はこの目的の為にほぼ一本化されていった。

そんな時、「アメリカの裏庭」と称していたカリブ海のキューバで革命が起こり、これを阻止すべく、亡命キューバ人を中心とした侵攻軍を組織したが、この計画は失敗した。このピッグス湾事件によってカストロ政権はキューバ革命が社会主義革命であることを宣言し、防衛力強化のために共産化したキューバはソ連と親交を深め、アメリカを狙う弾道ミサイルを配備しようとしたため、ジョン・F・ケネディはソ連と核戦争瀬戸際の外交戦を展開した。これがキューバ危機(1962年)である。この危機的状況を打破した米ソ首脳は、緊張の緩和を目指すことで一致し、この後は米ソの直接的な激突は避けられた。

国内では、社会的に保障されず、差別に悩む黒人が公民権を獲得する為の運動(公民権運動)を行い、急速に盛り上がっていた。特に、1963年は南北戦争の奴隷解放宣言から100周年であり、黒人のデモが相次いで白人と衝突し、銃撃戦に発展する地域もあったが、指導者的存在であるキング牧師はインドに学んだ非暴力闘争を主張し、支持を拡大した。この公民権運動に加え、フランスを中心に拡大した大学生による大学自治運動(学生運動)が飛び火し、学生によるストライキやデモによって、ほとんどの都市が騒然とした状態となった。ケネディは黒人への公民権付与や大学自治の拡大を認め、解決への道筋をつけた。しかし、以前からアメリカ政府が取り組んでいたベトナム政策を転換しようとした矢先に暗殺された。

ケネディの後を継いだリンドン・B・ジョンソン(民主党)は、拡大しつつあった「貧困との戦い」と、公民権運動の最終的な解決を目指した「偉大な社会」計画を実行し、一方ではベトナムへ積極的な介入を行い、トンキン湾事件を引き金としてベトナム戦争(1965年-1975年)へ発展した。北ベトナムへ地上軍を進めることの出来ない米軍は圧倒的な物量を背景に北爆や枯葉剤の散布を行ったが、北から次々に侵入する共産軍や、南ベトナムの共産ゲリラに苦しめられ、戦闘は泥沼化した。死傷者が続々と増える中で、欧米や日本では大学生を中心に共産主義運動が流行しており、これは公民権運動と結びついた反戦運動となった。これらの運動は「ベビーブーマー」が主体となっており、既存の文化・社会体制に反感を持ったヒッピーなどに代表される、反社会的な若者文化によっていっそう盛り上がった。長引く戦争に対して国民の支持が得られなくなったジョンソンは退任に追い込まれたが、大統領選に出馬しようとしたロバート・ケネディ(ジョンの弟)や、公民権運動の立役者であるキングは相次いで暗殺され、社会は危機的状況となった。

アメリカの1960年代は、黒人と白人、若者と大人、さらには戦争に送られる下層市民と徴兵を逃れる上流市民、傷ついた帰還兵と一般市民が、互いに対立しあう、混沌とした社会であった。その最後の年である1969年、アポロ11号によってアメリカ人は月面に降り立ち、米国民の心を慰め、世界にとっても希望となった。

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この記念日は、記念日でも、「歴史」に残る一大イベントですね・・・パート6

先ほどは、アメリカ合衆国について書きました。続いては、「アメリカ合衆国の歴史」というものがございますので、書いていきたいと思います。

●アメリカ合衆国の歴史について

アメリカ合衆国の歴史(アメリカがっしゅうこくのれきし)ではアメリカ合衆国の歴史について述べる。

●植民地時代以前(先コロンブス期)

北アメリカ大陸に最初に住んだ人々はアジア系のモンゴロイドである。氷河期であったおよそ3万年前から1万年前にかけて、凍結したベーリング海などを渡ってシベリアからアラスカを経由して広大な南北アメリカ大陸各地に分散していった。彼らは独自の文化を育んだが、農業などは行わず、もっぱら狩猟などで生活を営んでいたため、広大な土地に比べ、人口はごくわずかであった。酋長とよばれた長を中心とした村をつくって社会を形成したが、人口が少なく農業も行わなかったため、村同士で争いあうことも少なかった。これにより先住民による統一したアイデンティティは発生せず、北アメリカ大陸で独自の国家は遂に生まれなかった。なお1000年頃ノルマン人(ヴァイキング)が北米へ達し、アメリカを「発見」しているが、その後の植民地活動はすべて失敗している。今日に置いて彼等の活動は、認知されることとなったが、クリストファー・コロンブスほどの正当な評価を受けていない。

近世まで北米には中南米に匹敵する文明が存在しないと思われていたが、近年発掘が進み、マウンド(土塁)群と呼ばれていた遺跡が、8世紀から16世紀頃まで続いたとされるミシシッピ文化の存在と確認された。そのうちもっとも大規模なものはイリノイ州セントルイス郊外のカホキアと呼ばれる大遺跡で、最盛期で1万人に達したとされている。この超巨大遺跡は、1982年に「カホキア・マウンド州立史跡」として世界遺産に登録された。

●植民地時代 (1493-1776)

詳細は「イギリスによるアメリカ大陸の植民地化」を参照

「スペインによるアメリカ大陸の植民地化」、「フランスによるアメリカ大陸の植民地化」、「オランダによるアメリカ大陸の植民地化」、「スウェーデンによるアメリカ大陸の植民地化」、および「ロシアによるアメリカ大陸の植民地化」も参照

イタリア半島を中心としたヨーロッパでルネサンスが花開いたこの時代、ポルトガルとスペインはいち早く遠洋航海技術を身に付け、大航海時代が幕をあけた。イタリア(ジェノヴァ)人クリストファー・コロンブスはスペイン女王の承諾を受け、大西洋周りによるアジア発見を志したが、1492年に西インド諸島を発見した。これに引き続き、英国人ジョン・カボットが北米大陸の東海岸を探検し英国が領有(ニューイングランド植民地)、フランス人ジャック・カルティエがセントローレンス川を遡ってフランスが領有化(カナダ植民地)するなど、西欧人による南北アメリカ大陸の探検と開拓がはじまった。

現在のアメリカ合衆国における植民地としての開発は、当初から多民族国家となる運命を辿るかの様な植民地活動が行なわれた。主となる民族はイギリス人とフランス人だが、ヴァージニアやカロライナにはイギリス人(ニューイングランド)が、ルイジアナにはフランス人が(フレンチルイジアナ)、ニューヨークやニュージャージーにはオランダ人(ニューネーデルラント)が、デラウェアにはスウェーデン人(ニュースウェーデン)が、フロリダにはスペイン人(ヌエバ・エスパーニャ)が、それぞれ思い思いに今日のアメリカ合衆国の範囲に植民地を築いた。アメリカ東部には、すでに17世紀半ばに現在のアメリカ文化に繋がる欧米文化が移植されていたのである。

宗教的にも、当初の移民はカトリックであったが、16世紀に欧州でプロテスタント(新教徒)出現と宗教改革、続いて宗教戦争が起こると、ピューリタン(清教徒)による1620年の移民(メイフラワー号)をきっかけとして、新天地を求めた新教徒が相次いで入植し、先発のカトリックや先住民と敵対しながら勢力を伸ばした。1620年の移民は、現在でもアメリカの新教徒の間で偉業として称えられている。

西欧人は植民地で砂糖、コーヒー、綿花、タバコなどの農作物を農園で作り出したが、労働者の不足に悩まされた。西欧人はこれと同じ時期にアフリカ大陸の大西洋沿岸にも進出し、現地のアフリカ人有力者に住民の徴発を命じて、それを買い取り、南北アメリカ大陸に輸出した(奴隷貿易)。それと交換に進んだ火器や、当時進出していたインド産の木綿をアフリカ人有力者に売った。ただ、誤解が多くあるが、植民地時代の奴隷需要はカリブ海地域および中南米が圧倒的であり、北米への奴隷輸出は多くない。奴隷制度によって維持されるアメリカ南部の広大なプランテーション農業が盛んになったのは、19世紀に入ってからである。

(参考:黒人奴隷クンタの20年間 =「世界商品」の生産と黒人奴隷制度=)

英国からの植民団はニューイングランド植民地を建設したが、カナダに植民するフランスとの対立が生じ、17世紀から18世紀にかけて英仏がヨーロッパにおいて戦争をするたびに、植民地でも戦争が起こったため、一連の北米植民地戦争が続いた。この抗争は1700年のスペイン継承戦争によって端を発し、七年戦争・フレンチ・インディアン戦争によって英国が勝利する1763年まで続いたが、この戦争中に英国は次々とフランス・スペインの植民地を獲得、また南部に広がるスペイン植民地への奴隷専売権を得た。こうして英国は北米大陸の大西洋沿岸をほぼ全て手中に収め、イギリス海上帝国、つまり大英帝国の礎を築き上げた。

北米東海岸を一手に握った英国は、先住民インディアンを駆逐して領土を西へ拡大した。この段階で13州の植民地を建設し、州によっては白人の人口が先住民を上回る地域が生まれた。18世紀にはいると、寒冷で比較的農業に向いていなかった北東部で醸造、造船、運輸などの産業が発達し、英国本国の経済を圧迫するようになった。元々、新教徒が多数派を占める植民地とイギリス国教会の本国は軋轢があったが、この頃には精神的に本国と分離しており、経済的にも自立できる力を持っていた。

英国はかねてから「羊毛品法」や「鉄法」によって植民地での工業発展を妨げ、英国以外との独自貿易を禁じてきたが、ここで重商主義政策をしいてさらに圧迫した。また、フランスとの長い戦争中に自国軍の駐屯費や戦費を拠出するため、植民地住民に対して重税を課し、「印紙法」によって貿易独占を企てた。住民は反課税と印紙法廃止を主張して1765年に激しい反対運動を展開したため、英国は翌年これらを撤廃したが、「茶法」によって茶の貿易を独占しようとした。対して住民は1773年にボストン港を襲撃、ボストン茶会事件となった。

茶会事件に衝撃を受けた英国はボストン港を閉鎖、住民に対して強硬な姿勢を示した。ここにおいてアメリカ大陸13州の住民代表者はフィラデルフィアで史上初めての大陸会議を開き、植民地の自治権を求めて英国に対して反抗、1775年4月、英国の駐屯兵と住民有志による民兵が衝突(レキシントン・コンコードの戦い)し、アメリカ独立戦争となった。住民代表者は第2次大陸会議を開催、ジョージ・ワシントンを戦争の総司令官に任命して大陸軍を結成、1776年7月4日の大陸会議において、トーマス・ジェファーソンが起草し、プロテスタント的思想を体現して近代民主主義の原点となったアメリカ独立宣言を発表した。

●独立戦争と国家建設 (1776-1789)

アメリカ独立戦争はフランス、スペインの軍事的支援を受けたアメリカ軍の優勢で進んだ。またロシア帝国エカチェリーナ2世皇帝は他のヨーロッパ諸国に呼びかけ、武装中立同盟を結んだ。このために英国は外交的にも軍事的にも孤立、次第に劣勢は明らかとなり、1781年にヨークタウンの戦いで敗れると、独立容認を叫ぶ声が自国内でも高まり、1783年にアメリカに対してパリ条約を結んだ。これによって大陸13州は完全に独立し、ミシシッピー川以東の広大な英国領ルイジアナ植民地を獲得した。

しかし13州合衆国はまだ緩やかな連合体に過ぎず、内外に対する政策は州ごとに異なって混乱をきたした。そこで強力な統一政府を作ろうという運動が起こり、1787年にフィラデルフィアで憲法制定会議が開催された。ここにおいて主権在民の共和制、三権(立法・司法・行政)分立、連邦制を基本とするアメリカ合衆国憲法が制定され、現代に至るアメリカ合衆国(首都ワシントン)が誕生した。しかし、この憲法に対する批判運動が各州に起こり、憲法容認の連邦派と憲法反対の反連邦派が抗争を繰り返すこととなったが、これが後の政党となった。憲法に基づいた最初の大統領選挙によって、1789年、初代アメリカ合衆国大統領にジョージ・ワシントンが就任した。なお、日本語で大統領と訳されるプレジデントは、当時はアメリカ合衆国議会の前身である連合会議議長の肩書きとして使われていたものであり、執行権の無い親分的な意味合いしかないものだった。ワシントンは新しい共和国がヨーロッパの帝国の模倣にならないよう国王や皇帝との違いを表す為に、ミスタープレジデントという呼称を好み、最高執行権者となった大統領にそのような特別な権威がないことを印象付けさせたものである 。

●西方への領土拡大 (1789-1861)

詳細は「アメリカ合衆国の歴史 (1789-1849)」を参照

★建国初期

1790年、首都がニューヨークからフィラデルフィアに移された。それでも南部住民の間には首都が北に偏りすぎているという批判があった。そのため、この年に当時の合衆国の中央部にあたるメリーランド州とバージニア州の州境にあるポトマック川流域に新首都を建設する事を決めた。1801年に新首都が完成して政府機関はこの地に移された。新首都はこの直前に死去した初代大統領ジョージ・ワシントンにちなんで「ワシントン市」と命名された。

★米英戦争への道 [編集]

1803年、ナポレオン・ボナパルトからミシシッピー川以西のフランス領ルイジアナを買収したことにより、広大な西部の土地を得るだけでなく、西部に住む農民たちが国境ではなくなったミシシッピ川を物流路として自由に使えるようになった。

ルイジアナ買収の数週間後、ナポレオン・ボナパルト率いるフランスとイギリスは戦争状態に入った。合衆国は、ヨーロッパへの農産物の輸出によって得る外貨にたよる状態であった。アメリカは、中立の態度を取り、両陣営と両陣営の持つカリブ海沿いの植民地に対しての農産物や原材料輸出を行った。両陣営とも、利益になる場合の貿易は許可したが、不利益になる事に関しては拒んだ。
1805年、トラファルガーの海戦でフランスが敗れると、イギリスはフランスの海上封鎖を実施した。またイギリスはアメリカの貿易政策に対しても緩い海上封鎖を実施し、報復を行った。

イギリスがアメリカ以外の国からの農産品輸入を当てにしないだろうと考えたアメリカ議会とジェファーソン大統領は、イギリスの海上封鎖解除を狙い、1807年に外国との貿易を停止した。しかし、イギリスは他からの農産物輸入に切り替えてしまう。アメリカの農産品輸出は大きな打撃を受けた。そこで1812年、イギリスがミシシッピ西部とカナダの先住民を支援していることを口実とし、南部と西部出身の議員が中心となりイギリスへの宣戦布告がなされ、米英戦争となった。

南部と西部の人達は、先住民の土地を得ることや農産物輸出の拡大を期待して、戦争を熱心に支援した。それに対して、北部の連邦主義者たちは戦争には反対であった。しかし、アメリカの初期の勝利でそれらの反戦論は霞んでいった。しかし、次第にアメリカにとって苦しい戦いとなり、1815年、ベルギーで締結されたガン条約により停戦となる。米英の領土は戦前に戻された。この米英戦争中に欧州との関係が途絶え、経済的・文化的に孤立することとなったため、アメリカ人としての精神的自立を促した。これによってナショナリズムが高まり、保護関税を図って自国内の工業を発展させた。

また、ラテンアメリカ諸国で独立運動が盛んに行われるようになると、モンロー大統領は1823年に欧州大陸とアメリカ大陸の相互不干渉を唱えるモンロー宣言を発表、これは後にモンロー主義となり、アメリカ大陸の孤立化(アメリカ合衆国の孤立主義)を図った。これはその後100年近く続くアメリカの孤立主義という外交方針となった。モンロー主義はヨーロッパへの相互不干渉と同時に、ラテンアメリカへの政治的・軍事的介入を行うことの理論的根拠となった。

1830年代、ジャクソン大統領は選挙権を拡大、民主政治が発達した。家柄にとらわれることなく政治家となることができた一方、大量に選挙人がいることは、被選挙人が大規模な選挙活動を行うこととなり、被選挙人が当選した際には活動協力者に役職を提供するなど、猟官制度が登場した。この政策に賛成する親ジャクソン派は民主党を、反ジャクソン派はホイッグ党を結成し、後の共和党となった。
ジャクソンの時代、アメリカも産業革命を迎え、鉄道や航路が発達し、国内市場が拡大した。また、工業などに従事する人口が少なかったことも、産業革命を全面的に受け入れる土壌となったので、1850年代までに北東部を中心に重工業化が進んだ。労働者が大量に暮らす大都市圏が登場、企業経営を行う経営者や企業に出資する資本家が台頭し、資本主義社会となった。

★領土の拡大とフロンティア

米英戦争によってヨーロッパ政治への介入に懲りたアメリカは、自国の領土拡大へ方針を転換した。1818年にイギリスと旧仏領ルイジアナの一部と英領カナダの一部を交換、スペインからは1819年に南部のフロリダを購入した。これによって1マイル四方に人口(白人人口)が2人以下という開拓前線、いわゆるフロンティアが誕生した。

米英戦争直後からアメリカ国民は大挙してルイジアナ植民地へ移住した。その中心はオハイオ川流域であったが、1840年ごろから太平洋沿岸の新天地オレゴンを目指すようになった。このオレゴンを目指す道はやがてオレゴン街道と呼ばれ、西部開拓が盛んになった。移民たちはインディアンなどに襲われないよう、幌馬車で隊列(コンボイ)を組んで移動した。

1844年に領土膨張主義を主張するポークが大統領に就任すると、翌1845年には、メキシコから独立していたテキサスを併合、1846年にオレゴンを併合して領土は太平洋に到達した。また同年に英国と協定を結び、メキシコとの間で米墨戦争を行って勝利した。これによって1848年にメキシコ北部ニューメキシコとカリフォルニアを獲得、1858年にさらにメキシコ北部を買収した。編入された領土ではメキシコ時代に廃止された奴隷制が復活した。

1848年に旧メキシコ領カリフォルニアで金鉱脈が発見されると、一攫千金を狙った多くのアメリカ人が移住した。いわゆるゴールド・ラッシュである。時にインディアンや流れ者と戦いながら開拓し、生活用品は豊富な森林から自分で生み出すと言う移住者には、共通する開拓者精神、いわゆるフロンティア・スピリットが生まれ、これがアメリカ人としてのアイデンティティとなって現在まで受け継がれている。広大な西部は西欧人をひきつけ、アメリカの人口はイギリス植民地時代の旧移民の自然増加と、欧州からの新移民によって急増した。新移民の多くは英国人やドイツ人の農民、英国人の搾取に苦しむアイルランド人であった。このときに流入した白人の人口比は、現代アメリカ白人の人口比とほとんど変わっていない。

外政では、当時多くが西欧の植民地であった東南アジアに対抗して、まだ西欧諸国の手が伸びていなかった東アジアに対して積極的に強圧外交を行い、1800年代に大国清やその属国朝鮮に接近、1853年に日本に上陸し、翌年に江戸幕府を開国させることに成功した。だが、その後発生した南北戦争によって東アジア外交は一時滞ることとなる。

●南北戦争 (1861-1865) およびその起源

アメリカは西部へ領土を拡大する段階で、北部は産業革命を迎えて工業化が進んだが、南部は綿花生産を主産業としていた。北部工業地帯は欧州との工業製品輸出競争の兼ね合いから、自国産業保護を訴えて関税をかけるなどの保護貿易を求めた。一方、南部農業地帯は自由に綿花を輸出したいため、自由貿易と関税撤廃を求めた。こうして南北の対立が非常に深まった。

また、重工業化の進んだ北部では労働者が不足する事態となったので、19世紀初頭に続々と黒人奴隷を解放して、労働者として使用した。これら解放された奴隷の一部はアフリカ大陸への帰還を希望し、アフリカ西海岸にリベリアが成立した。一方、南部では19世紀半ばを過ぎても黒人を奴隷として使用し、広大なプランテーション農業を行っていたが、北部の工場を経営する資本家はこの豊富な黒人労働力を必要としていた。しかし、英国からの綿花需要が拡大し、南部ではますます黒人奴隷に頼る産業構造となった。

領土が西部に広がり、植民地の人口が増加したことにより、これらの植民地を州に格上げすることとなったとき、これらの新州に奴隷制を認めるかで南北対立となった。1854年、北部を中心に奴隷制反対を訴える共和党が結党され、農民の支持が多かった民主党と対立した。

1860年に大統領となったのが共和党エイブラハム・リンカーンである。彼は黒人奴隷解放を政策とし、北部の資本家から喜ばれた。すると南部の奴隷州は反発しアメリカ南部連合を結成して離反した。当然合衆国の認めるところではなく、南北戦争という形で火を吹いた。南軍有利で戦争は進んだが、北軍は海上封鎖などで対抗、1863年にリンカーンは奴隷解放宣言を発表すると急速に支持を拡大、ゲディスバーグの戦いで北軍が勝利を収めると南軍の勢力が弱まった。1865年、南部連合は降伏してアメリカは統一した。

リンカーンは憲法を改正して奴隷制廃止を明文化し、黒人に市民権が与えられたが、彼は俳優で南部過激派のジョン・ウィルクス・ブース John Wilkes Boothに射殺された。黒人は奴隷制から解放されたものの、社会的な差別や人種差別主義者からの迫害からは守られることはなく、クー・クラックス・クラン等による私刑は20世紀半ばを過ぎても多くの黒人の命を奪い続けた。

奴隷解放後、南部のプランテーション農家の多くは産業の基盤を失って没落したが、中には解放奴隷を小作人として雇い入れ、南北戦争前と実質的にほとんど変わらない経営を続けた大農家も多く存在した。

「アメリカ合衆国の奴隷制度の歴史」および「アフリカ系アメリカ人#アフリカ系アメリカ人の歴史」も参照

●西部開拓時代 (1865-1890)

領土は太平洋へ到達したとは言え、東西交通は馬車か船舶での移動に頼っていた。地上を行く馬車は移動に半年を要する上に、大平原やロッキー山脈を越えなければならず、インディアン(ネイティブ・アメリカン)の襲撃などもあって、危険な交通手段であった。船舶は基幹の大量輸送交通であったが、南米大陸の南端を回る為、移動に4ヶ月を要し、さらに南米南端の海域は常に荒れて事故が多発した。こうした交通網の未整備により、ゴールドラッシュによって人口が急増したとは言え、西部には基幹産業も無く発展が遅れ、陸の孤島のような有様であった。これは、南北分裂の上に、西部まで分裂する可能性を含んだ問題であり、リンカーン大統領は南北戦争中から、東西交通の機関となる大陸横断鉄道の建設を進めた。

鉄道建設は苦難の連続であった。西側からは新参の中国人移民が駆りだされ、シエラネバダ山脈で低賃金の労働をしたが、爆薬としてニトログリセリンを、安全性を軽視したまま使用させたことにより、多数の死者を出した。東側からは食詰めの貧困白人が駆り出され、鉄道沿線に労働者街を形成したが、この新たな街は法秩序が確立されておらず、流入したアウトローのギャング・盗賊行為が頻発したため、労働者は自ら武装して、戦いながら線路を建設した。また、無法者を裁判無しで処刑できる、いわゆる「リンチ法」が制定され、一定の抑止力となった。さらに、生活圏を脅かされることを恐れたインディアンが線路沿いで蜂起し、白人労働者を殺戮したため、政府は2000人の軍を沿線に投入して制圧した。1869年に最初の横断鉄道が開通したことを皮切りに、次々に開業した。南北戦争の残務処理も終わり、アメリカは実質的にも精神的にも、国土が一つとなった。

横断鉄道の完成によって西部との物流・交流が活発になり、西部開拓時代が到来した。広大な西部では放牧が盛んに行われるようになった。牛を追いかけて生活するカウボーイは西部を象徴するものとなり、テキサスから国土を縦断して鉄道駅まで牛を追うロングドライブといった生活方式も生まれた。農業は、少ない人口で効率よく生産するため機械化が進み、大規模農業をすることができた。鉄道・道路網の拡大によって西部との一体化が進み、国内市場の拡大は工業産業を飛躍的に高めた。しかし法秩序が確立されていなかった西部では、ギャングや盗賊によって治安が悪化し、これを防ぐために保安官が登場した。

太平洋に達したアメリカの領土だが、1868年に北部アラスカをロシア帝国から安値で購入した。西部の人口はさらに増加し、急速に生活圏を奪われたインディアンは、1860年代にから1870年代にかけて、各部族による一斉蜂起を行った。これがインディアン戦争であり、米軍との間で20年以上争い続けた。結局、蜂起は次々に鎮圧されてゆき、ほとんどは居住区へ移されて部族のコミュニティも壊滅、人口も減少していった。掃討作戦も最終段階に入っていき、1890年にフロンティアの消滅が宣言された。

●帝国主義時代 (1890-1918)

西部開拓時代の終焉によって、アメリカ人は更なるフロンティアを海外へ求め、「外に目を向けなければならない」という意識が起こった。1889年にパン・アメリカ会議が開催され、この力がアメリカのラテンアメリカ進出を促した。とはいえ、モンロー主義に基づくアメリカ合衆国の伝統的な外交政策は引き続き重視されていたため、植民地獲得については消極的であり、もっぱら棍棒外交やドル外交に基づいた経済的進出を狙いとしていた。

アメリカ人はこぞって太平洋上の島々へ移住していった。1898年にハワイ王国をなし崩しに併合、領土を太平洋上まで拡大した。さらに同年、スペイン領キューバの独立戦争に便乗し、軍船「メイン号」爆発事件を契機として、スペインとの間で米西戦争を起こした。この開戦には、当時普及していた新聞が大きな役割を果たした。すなわち、米国民の反スペイン感情を煽動する報道を繰り返し行った。これは新聞によって煽動された大衆が戦争を要求した最初の例であり、米国政府はこの情報戦略を積極的に利用し、後の戦争のほとんどに活用された。

米西戦争とそれに続く米比戦争に勝利すると、中米の多くの国からスペイン勢力を駆逐して経済植民地(バナナ共和国)とし、プラット修正条項によってキューバを保護国に、プエルトリコやフィリピン、グアム島などを植民地化した。さらに、西欧列強と日本によって中国分割が進もうとしているときに、1899年と1900年に清の門戸開放・機会平等・領土保全の三原則を提唱し、中国市場への進出を狙った。また、1905年に日露戦争の調停役を申し出るなど、国際的な立場向上を目指した。

一方、日露戦争に日本が勝利を収めたことから、西欧諸国はアジア人に対する恐怖を抱き、それまで大量の移民を輩出する中国人に向けられた黄禍論の矛先が日本に向けられたが、米国も同様であり、「オレンジ計画」と呼ばれる対日戦争計画を進めることになる。また、日本は戦後にロシア帝国と和解、イギリスやフランスと関係強化に乗り出したことから、利権を侵されることを恐れた米国は日本と対立し、一時は西欧メディアが開戦必至と報じるほどに緊張が高まった。同時に、ドイツ、イギリス、メキシコとの戦争計画も持っており、周辺の大国を潜在的な敵国と判断して外交を行うようになった。

カリブ海地域を勢力圏にするために、カリブ海政策を推し進め、これらの地域で反乱などが起こるたびに武力干渉した(棍棒外交)。また、国内東西物流の安定を目的としたシーレーンの確保を目的に、パナマ運河建設権を買収し、2万人以上の死者と長期間の工事を経て、果ては工兵まで投入して完成させた。さらにコロンビアから分離独立させたパナマから運河地帯の永久租借権を獲得した。

またこのころ、石油や電力を中心とした第二次産業革命が起こり、豊富な石油資源を持ったアメリカの工業力は英国を追い抜いて世界一となった。そして強力な企業連合体や独占体が成長し、エクセル、カーネギー、モルガン、ロックフェラーは一代で巨大企業にのし上がり、巨万の富を得た。その後のアメリカ経済は彼ら財閥によって動かされることとなる。

19世紀後半からヨーロッパで人口が急増し、食糧難が頻発した。このため新天地アメリカを目指して多くの移民が発生した。1880年代からは南欧や東欧からの移民が増加し、彼らは都市部で未熟練労働者として働いたため、低所得者として都市中心部でスラム街を形成した。彼ら新移民はカトリック・正教会やユダヤ教信者であったため、それ以前からの旧移民との間で偏見と摩擦が起こり、しばしば抗争に発展した。こういった新移民にフォード・モーターが技術・言語教育を施し、大量生産方式に組み入れていった。また、清や日本からも移民が発生した。急増した日本移民は低所得労働者として都市各地で活動したため、人種差別感情に基づいた、彼らに対する排斥運動が起こった。

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この記念日は、記念日でも、「歴史」に残る一大イベントですね・・・パート5

続いては、経済から順に書いていきます。

●経済について

詳細は「アメリカ合衆国の経済」を参照

経済規模は 国内総生産(GDP)で世界第1位である。しかし、1人当たりのGDPに換算すると、世界第4位である。大きな経済規模を持ち、その技術開発力と生産力、消費力で世界経済を引っ張る存在である反面、アメリカ文化が資本主義社会の基本である「大量生産・大量消費」の側面を強く持っており、他の先進国と比べても1人当たりの資源消費量が格段に大きいこともあり、「地球環境問題や健康問題の深刻化をもたらした」などと批判されることも多い。アメリカの環境問題と環境状況と環境政策と歴史についてはアメリカの環境と環境政策を参照。

自動車や航空機、コンピュータなど主な工業品の生産、販売数で長年世界一を保っており、その消費量の多さのため世界中の企業が進出している。また、これらの企業が上場するニューヨーク証券取引所は世界最大の取引高を誇っている。その為世界経済に与える影響力は非常に大きいものがある。アメリカの経済問題と経済状況と経済政策と歴史についてはアメリカの経済と経済政策を参照。

軍需産業や重工業だけでなく、小売やサービス業に至るまで多くの大企業が軍を大きな顧客とするという誤認により、軍産複合体の影響力が諸外国への頻繁な軍事介入の理由だと、検証可能性を示さない解説が広く流布されているが、現実は、2008年時点のアメリカ合衆国の人口3億1400万人に対して軍人は140万人であり、軍は大口顧客でも主要な顧客でもない。現代においては大規模で長期間の戦争が起これば、一時的には軍需産業への葉中が増えるが、軍事介入の規模が大きく期間が長いほど国家財政の負担になるので、長期的には軍需産業の利益にも国家や社会全体の利益にもならないことは過去の戦争時の経済や財政の統計により実証されている。アメリカ合衆国の軍需産業・軍需経済・軍事政策の関連性と歴史と国の経済に対する比率や影響力についてはアメリカの軍需経済と軍事政策を参照。

訴訟社会としても知られ、国内に弁護士が約90万人もおり、人口比では日本の25倍になる。アメリカ人自身からも行き過ぎによる弊害がたびたび指摘され、いわゆるマクドナルド・コーヒー事件はその代表例として有名になった。これは国民が多文化・多宗教の混合であるため、共通する価値判断基準が法律以外にないからだという意見がある。日本では制限されている弁護士の宣伝広告活動が認められていることから、弁護士本人が出演するCMがテレビで放送されることもある。営業活動に熱心な弁護士を揶揄するアンビュランス・チェイサー(なにかの事故で負傷者が出ると、搬送先の病院で賠償請求訴訟を起こすよう勧めるため救急車を追いかける弁護士の意)というスラングがある。

1981年に大統領となったレーガンは、インフレの抑制、減税による投資促進、規制緩和の促進などにより、経済の供給サイドの強化を図る「レーガノミックス」を行った。インフレ抑制は前政権から続いていたマネーサプライに照準を合わせた金融政策により成果をあげたものの、国防費の増大と大幅減税により財政収支が悪化、また高金利からドルレートが上昇し、経常収支の赤字が拡大した(双子の赤字)。金融が緩和する過程で株価は上昇をはじめM&Aがブームとなったが、ブラックマンデーにより株高経済は一旦調整した。

1990年代は、日本の経済が長期低迷に陥り、「失われた10年」と呼ばれたのとは対照的に、アメリカ経済は非常に良好なパフォーマンスを示すようになり、「ニューエコノミー」と呼ばれた。低インフレと高成長を両立し、労働生産性も上昇したことから、アメリカ経済は新たな局面に入った、と言われた。1991年3月の景気の谷の後、2001年3月まで10年にわたって景気拡大を続け、世界経済の牽引役となった。

2000年代の初期に入ると、ITバブルの崩壊によって、好調だったアメリカ経済は減速する。2001年9月11日には同時多発テロが発生し、アメリカ経済の減速に拍車をかけた。1980年代から続いている資産膨張を背景にした消費増大はアメリカ経済の根幹となり2007年夏頃まで安定した成長を続けていたが、サブプライムローン問題を発端に、不動産価格の下落から深刻な世界金融危機が起きている。

●国民

アメリカ合衆国は元々先住民族であるネイティブ・アメリカンが住んでいた土地に、16世紀からはヨーロッパからの植民者が、17〜19世紀には奴隷貿易によりアフリカからの黒人奴隷が、19世紀からはアジアからの移民が入って来て、さらに人種間で混血が起ったため、「人種のるつぼ」と呼ばれてきたが、実際には異人種が融け合って生活する社会が形成されるよりも、「ゲットー」と称されるアフリカ系アメリカ人居住地域やチャイナタウンが代表するように、むしろ人種による住み分けが起きていることから、近年ではアメリカ合衆国を色々な野菜が入ったサラダに例えて「人種のサラダボウル」と呼ぶことが多くなった。

こうした中で人種差別問題、特にヘイトクライムと呼ばれる人種差別主義者による凶悪犯罪が頻繁に発生し、大きな社会問題となっている他、南部や中西部を中心にKKKなどの人種差別的な団体が未だ半ば公然と活動している地域も存在する。また、アフリカ系の死刑執行率がヨーロッパ系に比べて極端に高いなど、裁判制度の不公平性も問題となっている。

現在も合法違法を問わず移民が多いことに加え、アメリカの合計特殊出生率は2.0〜2.1前後で横ばいに推移しており非常に安定している。2005年度の合計特殊出生率は2.05と先進国の中ではトップクラスである(移民層の出生率が2.71と高いが、アメリカ合衆国で生まれた女性の出生率も1.98、白人女性に限っても1.85と先進国の中では高い)。以上のことから、人口は自然増、社会増双方の要因により増加し続けている。2006年には総人口が3億人を超えたと公式に発表された。

★人種

世界でも有数の多民族国家である。2005年の人口統計によると、白人(ヨーロッパ系、北アフリカ系、中東系、中央アジア系、ラテン系)74.7%(2億1530万人)、サハラ以南のアフリカ系(黒人)12.1%(3490万人)、アジア系(東アジア、東南アジア、南アジア系)4.3%(1250万人)、アメリカン・インディアン0.8%(240万人)、太平洋地域の先住民系0.1%(40万人)、2つ以上の人種を祖先とする国民1.9%(560万人)、その他6%(1730万人)。ヒスパニック系(全ての人種)は14.5%(4190万人)となっている。

アメリカは英語圏であるためにイギリス系が多いと思われがちだが一番多いのはドイツ系でその次はアイルランド系である。歴代大統領にはイギリス系以外にアイルランド系やドイツ系とオランダ系とギリシャ系が就任しており、そして2009年時点の現職はアフリカ系である。

アメリカにおける各人種系統ごとの人口(2004年)

順位    系統    人口
1 ドイツ系アメリカ人 42,800,000
2 アイルランド系アメリカ人 30,520,000
3 イギリス系アメリカ人 24,510,000
4 アメリカ人 20,190,000
5 メキシコ系アメリカ人 18,380,000
6 イタリア系アメリカ人 15,640,000
7 ポーランド系アメリカ人 8,980,000
8 フランス系アメリカ人 8,310,000
9 インディアン 7,880,000
10 スコットランド系アメリカ人 4,320,000
11 オランダ系アメリカ人 4,540,000
12 ノルウェー系アメリカ人 4,480,000
13 スコットランド系アイルランド人 4,320,000
14 スウェーデン系アメリカ人 4,000,000
15 白人 3,830,000
16 プエルトリコ系アメリカ人 2,650,000
17 ロシア系アメリカ人 2,650,000
18 ヒスパニック系アメリカ人 2,450,000
19 フランス系カナダ人 2,350,000

順位     系統    人口
20 中国系アメリカ人 2,270,000
21 スペイン系アメリカ人 2,190,000
22 フィリピン系アメリカ人 2,120,000
23 ヨーロッパ系アメリカ人 1,970,000
24 ウェールズ系アメリカ人 1,750,000
25 アジア系インディアン 1,550,000
26 デンマーク系アメリカ人 1,430,000
27 ハンガリー系アメリカ人 1,400,000
28 チェコ系アメリカ人 1,260,000
29 韓国系アメリカ人 1,190,000
30 アフリカ人 1,180,000
31 ポルトガル系アメリカ人 1,170,000
32 ギリシャ系アメリカ人 1,150,000
33 日系アメリカ人 1,100,000
34 キューバ系アメリカ人 1,100,000
35 英国人 1,090,000
36 ベトナム系アメリカ人 1,030,000
37 スイス系アメリカ人 910,000
38 ドミニカ系アメリカ人 910,000

言語
主記事:Languages of the United States

アメリカ合衆国には法で定められた公用語はないが、建国の歴史から英語が事実上の国語となっている。2003年には、約2億1500万人(5歳以上の全国民の82%)が家庭で英語のみを使用している[21]。 英語を母語としない国民でもほとんどが英語を日常的に使用している。高齢者を除き、基本的な英語の知識は市民権取得の必須条件である。スペイン語の話者は英語についで多く、国内でもっとも学習者の多い外国語でもある。。 近年増加傾向にある中南米スペイン語諸国からの移民であるヒスパニックには、英語を不自由なく喋ることのできない者も多いため、銀行のATMやスーパーマーケットのセルフレジなどではスペイン語が選択できるようになっているものも多い。長年にわたる先住民の同化政策の結果、先住民の言語を話せる人口は非常に少なくなっており、中には絶滅した言語もある。

アメリカ人の中には英語を連邦の正式な公用語とすることを希望する者が多く、現在30州が英語を公用語に指定している[24]。また、ニューメキシコ、ルイジアナ、メイン、ハワイの4州では行政上英語以外の言語が事実上の第二言語とされている。ハワイ州では州憲法によりハワイ語が公用語とされており、ルイジアナ州とメイン州ではフランス語が行政上の第二言語である。合衆国加入当時からスペイン(メキシコ)系住民の多いニューメキシコ州は常にスペイン語を非公式な第二公用語としてきた 。

★宗教

プロテスタント58%、カトリック21%、など(2003年現在)。キリスト教信仰者の比率は、1990年調査時の86.2%から2003年調査時の79%へと年々減少傾向にある。2001年の宗教分布は、プロテスタント 52%、カトリック 24.5%、ユダヤ教 1.3%、その他、イスラム教、仏教、不可知論、無神論、ヒンドゥー教、ユニテリアン (Unitarian Universalist) がそれぞれ0.5%から0.3%である。無宗教は13.2%。なお、アメリカ合衆国の現代キリスト教も参照。

米国憲法修正条項第1条は国教の制定を禁じている。しかし、大統領就任式の際に聖書を手に宣誓を行うなど(これまでの大統領が全てキリスト教徒だったからであるが)、米国社会ではキリスト教、特にプロテスタントの存在が非常に大きい。宗教的な理由から進化論を否定する者が多く、「公立校で進化論を教えるなら創造科学も合わせて教えるべき」とするキリスト教系宗教団体が州の教育委員会を相手取り論争を起こした例が数件ある。

ギャラップ調査2007年5月の調査によると、アメリカ人は、「神を信じる」と答えた人が86%、「天国を信じる」と答えた人が81%という結果が出た。

教育

詳細は「アメリカ合衆国の教育」を参照

アメリカの教育の特徴は、個人の尊重とプラグマティズムである。

★治安

合衆国の犯罪発生率は、地域、州によって大きく異なる。例えば、凶暴犯罪(殺人、強姦、強盗、加重暴行)の2002年時点の発生件数をみると、人口10万人あたりの合衆国平均は495人だが、州ごとの分布はノースダコタ州の78人から、コロンビア特別区の1633人まで、20倍以上のばらつきがある。日本やイギリス、ドイツなどの他の先進諸国と比べて、都市部、地方にかかわらず銃や麻薬による犯罪が蔓延しているイメージがあるが、統計的にこれは誤りである。

アメリカ合衆国憲法修正条項第2条により民間人も自衛のために銃の使用が許可されている国(ただし、この条項は民兵の武装を認めているだけで、ごく普通の一般市民の武装について言及しているわけではない、という学説もあることに留意)とはいえ、街中に銃砲店が普通にあり比較的簡単に銃を、またスーパーマーケットでも実弾が購入出来るという現実は「銃社会」を助長させている。

歴史的な経緯から全米ライフル協会は強力な政治的発言力を持つ事実上の圧力団体であり、銃規制につながる立法を再三阻止している。なお、過去数度に渡り何人もの大統領が銃によって暗殺されているほか、銃犯罪による死者の数が、2000年以降に限っても毎年年間10,000人を大きく超えるなど、世界でも例を見ない「銃犯罪大国」である。

成年者による銃犯罪だけでなく、中学校や高等学校において生徒が銃を乱射し死傷者を出す事件が毎年のように発生する事態を招いている。このため銃を購入できる年齢を18歳から21歳に引き上げたり、一部の学校では校舎に入る際に金属探知機による保安検査を行ったりしている。しかし、それでもコロンバイン高校銃乱射事件やバージニア工科大学銃乱射事件など学内における銃乱射事件は防ぎきれていない。また、幼い子供が家族の所有する、安全装置を解除された銃で遊んでいるうちに誤って自分や友人、家族を撃ち殺してしまう事故も後を絶たない。

ギャングの抗争による殺人事件や人種差別を元にした殺人事件も多く発生する他、外国人観光客や駐在員、留学生などが犯罪に巻き込まれ死亡するケースが毎年のように起きているなど、銃による脅威を受けるのは一時滞在の外国人も例外ではないため、観光客の誘致にも悪影響を与えている。

近年では家庭内における暴力的・性的な過激シーンを含む映画・漫画・ゲームなどが未成年の子供に悪影響を与えているとして規制しようという動きもある。 なお2008年現在、同国は武器貿易条約を採択していない。

★所得格差・資産格差

他の先進国と比べて、所得税、贈与税、相続税(遺産税)率の累進性やキャピタルゲインへの税率が低く、資産格差を拡大させている。等価可処分所得を基にしたジニ係数は0.372(2004年、ルクセンブルク所得研究所調べ)で、主要先進国中最高である。

公的な国民健康保険制度が整備されておらず(クリントン政権時代に国民健保がヒラリー・クリントンによって提案されたが立ち消えになった)、大半の国民は民間の医療保険に頼っているが、近年では保険料が高騰し零細自営業者や中小企業に雇用されている労働者は良質の医療保険に入ることが大変難しく、約4700万人の国民が医療保険に入っていないといわれている。高額の保険料は米国の国際競争力にも悪影響を及ぼしている。しかし、オバマ大統領は国民皆保険を目指し、2009年以内の法制定を目指している。医療保険の恩恵を受けることのない低所得者層を中心に、ファーストフードの過剰摂取や運動不足、栄養学の知識の欠如により肥満になっている国民が先進国の中で最も多く(2003-2004年度には未成年の17.1%が太り気味で、成年の32.2%が肥満という調査結果が出ている)、社会問題化している。

クレジットカード会社による入会審査の基準が緩く、しばしば大学生などを対象に強引な勧誘が行われていることもあり、クレジットカードを入手するのが非常に簡単である。その結果、恒常的にカードローンに依存するワーキングプアが増えている。逆に然るべき期間のカード利用歴(クレジット・ヒストリー、信用情報)がないと商取引で信用されず、住宅を購入する際などに融資を受けられないことがある。

高度な学歴社会であり、アメリカン・ドリームを達成できるごく少数の個人を除いて職業や収入、社会的地位は学歴に大きく依存する。自治体の教育関係の予算は学区の税収と予算案に対する住民投票によって決定され、質の高い教育を提供できる教師の確保にも影響するため、公立学校の教育レベルは学区により大きな違いがあり、公立学校で良好な初・中等教育を受けるためには、都市圏の教育に関心が高い裕福層が住む地区に居住する必要がある。私立学校の入学金・授業料は非常に高額で、入学には親の社会的地位や学歴、家柄、寄付金も選考要件となる。低所得層の子女が私立学校に通学できるように教育バウチャーを支給している自治体もあるが、その効果は激しく議論されている。このように、良好な教育を受ける機会は親の収入・資産に依存しており、所得・資産格差が学歴社会を通して次の世代の所得格差に受け継がれることになる。

●文化

第二次世界大戦以前より今日まで、世界を席巻する主要な大衆消費"文化"の母国としてより強く認識されている。大量に供給され短期間に消費される音楽やテレビ番組、ハリウッド映画などの娯楽、自動車、ファストフードやコカ・コーラ等に代表される大量消費文化が、世界のどの国にもまして他国にも良くも悪くも影響力を及ぼし得る国である。

また、近年においては、国内において禁煙運動が進みタバコの消費量が減ったことから、アメリカのタバコ製造会社が、中南米や東欧諸国、中華人民共和国などの発展途上国を中心とした市場開拓を積極的に行っていることや、ナイキなどの大手衣類メーカーが製造コスト低減のために、同じく発展途上国において未成年の労働者を大量に使っていたことなどが大きな批判を浴びている。

また、これらの大衆消費文化は、多くの国で知識階層からは「低俗で画一的」として嫌悪されているものの、これらの娯楽・消費文化は、言葉どおり良くも悪くも経済活動と密接に繋がっているため、各国において消費意欲を喚起し、その結果アメリカ経済ひいては各国の経済を牽引する存在となっていることも事実である。

★先住民の文化

先住民はしばしば開拓者や建国初期のアメリカ人が新大陸で生き延びるのに多大な貢献をしてきた。ポカホンタス、スクァント(Squanto)、マサソイト酋長、サカガウィアらはアメリカの建国神話に欠かせない存在である。初期の開拓者の男性たちは未知の土地で生存するためにしばしば先住民のサバイバルの知恵を身につけた。彼らの中には先住民の女性を妻とした者が少なくなく、結果として多くのアメリカ人が先住民の血を引いている。

アメリカの重要な作物であるトウモロコシ、カボチャやウリ、インゲンマメは先住民族が昔から栽培していたものである。現代の防寒着アノラックやパーカは北極圏のイヌイットやエスキモーの防寒着を元にしており、カヤックやカヌーは現在でも先住民族の使っていたもののデザインを忠実に受け継いでいる。大平原の先住民族の伝統的な携帯保存食のペミカンは世界各国の南極探検隊にも採用された。 ニューヨーク州立大学バッファロー校のドナルド・A・グリンド・ジュニア博士(Donald A. Grinde Jr.)をはじめとする歴史学者らは、アメリカ合衆国の民主制度はイロコイ連邦の民主制度がモデルとなっていると主張している。

先住民族はしばしばアメリカのロマンティックなシンボルとして用いられてきた。先住民族に由来する名前は、アメリカの地名や野生動物の名称によく見られる。ニューヨークのタマニー・ホール(Tammany Hall)という民主党マシーンは先住民の言葉を政治に好んで用いた。近年になって差別的という意見が大多数を占めるまでは、大学や高校などがスポーツチームのマスコットに先住民族のキャラクターを採用することも珍しくなかった。

しかし先住民族の存在が国家の利益の障害であると見なされると、彼らの人権は近代化の名のもとに踏みにじられてきた。1960年代に入り、公民権運動を通して人種差別に対する国民の意識が高まり、心霊主義や環境主義に対する関心が高まってようやく、先住民族の文化が再評価されるようになった。

★食文化

詳細は「アメリカ料理」を参照

★世界の料理

アメリカの国民は先住民の他、世界各国からの移民とその子孫によって構成されているため、都市部では世界各国の料理やそれらをアメリカ風にアレンジしたものを気軽に楽しむことが可能である。イタリア料理や中華料理、メキシコ料理(テクス・メクス料理)などが非常にポピュラーなものとして日常的に楽しまれている他、1980年代以降は寿司や照り焼きをはじめとする日本料理が都市部を中心に人気を博しており、日本料理のレストランで食すことができるだけでなく、スーパーマーケットなどで豆腐や醤油、麺類などの食材を調達することも可能である。

★ファストフード

高度にマニュアル化されたファストフードチェーンにより提供されるハンバーガーやホットドッグ、タコスなどのファストフードや、冷凍食品などのインスタント食品が安価かつ手軽な事実上の「国民食」として広く食されているものの、脂肪分や塩分、糖分の多さなどから上記のように低所得者層を中心に肥満や心臓病などの原因となっており、これらのチェーン店の従業員の低賃金と合わせて深刻な社会問題となっている。

★ベジタリアニズム

社会的、宗教的および心霊主義的な理由からベジタリアニズムを奨励する運動は19世紀から存在したが、1960年代に環境主義や東洋思想への関心が国内で高まるのと同時にベジタリアニズムへの関心もかつてない高まりを見せた。現在、1%から2.8%のアメリカ人が肉、家禽、魚を全く食べないと回答している。普通米国でベジタリアンというと卵と乳製品は摂るオボ・ラクトベジタリアニズムを指すことが多いが、中には動物性の食品を一切摂らないヴィーガンもいる。ベジタリアンは西海岸と東海岸に比較的多く、中西部や南部には比較的少ない。また、ベジタリアンの人口は都市部に集中している。ベジタリアンが多い地域では、ベジタリアン向けの料理をメニューに明記しているレストランやベジタリアン料理専門のレストランも見られる。

アメリカ人の成人のベジタリアンを対象とした2002年のアンケート[35]によると、ベジタリアンになった最も大きな理由の内訳は「健康のため」が32%、「食肉に添加された化学物質やホルモンを避けたいから」が15%、「肉が嫌い」が13%、「動物が好きだから食べられない」が11%、「動物の権利のため」が10%、「宗教上の理由」が6%、「環境に配慮して」が4%、「減量のため」が3%、「世界の飢餓問題を解消するため」が1%だった。

★有機食品

近年、他の先進国と同じくアメリカ合衆国でも有機食品への関心が高まっている。アメリカ合衆国で生産される食料の約2%は有機農法に従って生産されている。アメリカ国内での過去10年間の有機食品の売り上げは年率20%の成長率を見せている。2005年の有機食品の総売上は128億ドルを計上した。 また、有機農法を用いている農地の増加率はアメリカが世界一である。

★メディア

新聞太字

全米で約1500紙が発行されている。但し、多くの地方紙の内容は市町村の広報紙やフリーペーパーレベルであり、大手紙からの転載が多い。USAトゥデイ(227万部)、ウォールストリート・ジャーナル(206万部)が発行部数2強と呼ばれる。ニューヨーク・タイムズ(112万部)、ワシントン・ポスト(69万部)、ウォールストリート・ジャーナルの3紙が全米で最も影響力のある高級紙とされる。1985年の総発行部数は約6000万部、2006年が5000万部である。人口1000人当たりの普及率は約270部で、先進国では最低レベルである。

アメリカの新聞発行部数ランキング(アメリカ新聞協会調べ、2006年1月〜2007年3月発行部数)
1.USAトゥデイ(ガネット) 227万部(前年同期比△0.2%増)
2.ウォールストリート・ジャーナル(ダウ・ジョーンズ; ニューズ・コーポレーション傘下)206万部(前年同期比△0.6%増)
3.ニューヨーク・タイムズ(ニューヨーク・タイムズ)112万部(前年同期比▼1.9%減)
4.ロサンゼルス・タイムズ(トリビューン)81万部(前年同期比▼4.2%減)
5.ニューヨーク・ポスト(ニューズ・コーポレーション)72万部(前年同期比△7.6%増)
6.ニューヨーク・デイリー・ニュース(ニューヨーク・デイリー・ニュース)71万部(前年同期比△1.4%増)
7.ワシントン・ポスト(ワシントン・ポスト)69万部(前年同期比▼3.5%減)

・USAトゥデイを発行するガネット社は、80以上の地方紙を傘下に納めている。USAトゥデイと合わせた総発行部数は700万部以上である。

★音楽

様々な国から来た移民たちが持ち寄った楽器やリズムを組み合わせ発生した、古くはカントリーミュージックやジャズ、近年ではロックンロールやヒップホップなどの様々なジャンルの音楽の発祥地、本場として知られており、世界的に著名なアーティストを多数輩出している。また、これらの音楽と踊りを組み合わせたショーであるミュージカルの本場としても有名である。

また、これらの音楽を楽しむためにレコードやジュークボックス、ドルビーやiPodなどの様々な音響機器、技術を生み出している他、MTVやクラシックチャンネルなどの音楽専用ケーブルテレビチャンネルも生み出すなど、音楽とその関連業種は現在においても大きな外貨獲得元となっている。

★アニメーション

ウォルト・ディズニーが創始したウォルト・ディズニー・カンパニーによる長編アニメーション映画が世界的に有名で、過去には世界のアニメーターの多くに影響を与えた。他にも、米国製テレビアニメーションザ・シンプソンズやファミリー・ガイ、サウスパークは日本でもテレビ放映されている。

ケーブルテレビにアニメーション専用のチャンネルがあり、日本製アニメも頻繁に放映されている。ポケットモンスターなどは低年齢の子どもを中心としての人気が吹き替え版が出回るほど非常に高く、また社会的にも受け入れられている。美少女戦士セーラームーンやドラゴンボールも過去にテレビ放映された。ただしサスペンス要素の高いものは、テレビ放映前に差し替えられたりカットされたりしている。日本のアニメは若年層を中心にファンが多く、ファンがサブタイトルをつけた米国未発表の作品の海賊版もネット上に出回っている。また、アニメを通して日本文化に興味を持つ若者も多い。

★スポーツ

詳細は「アメリカ合衆国のスポーツ」を参照

スポーツマンをアメリカ社会のメインストリーム(花形)と捉える国民性(ジョックも参照)もさることながら、学生スポーツにおいて季節ごとに行うスポーツを変えるシーズン制が定着していることなどから、国民が様々なスポーツに触れる機会が非常に多くなっており、アメリカ合衆国は世界最大のスポーツ大国となっている。娯楽産業に占めるスポーツ観戦の割合も高いため、複数の大規模なプロスポーツリーグが共存・繁栄している世界的にも稀な国である。

アメリカ国内発祥のスポーツが大衆的人気を得ているのが特徴で、アメリカンフットボール、野球、バスケットボール、アイスホッケーは4大スポーツと呼ばれている。NFL(アメリカンフットボール)、MLB(野球)、NBA(バスケットボール)、NHL(アイスホッケー)の4大プロリーグはいずれも非常に人気が高い。これらのリーグは観客動員・収益共に莫大な数字であり、スター選手は高額の年俸を手にしている。日程上、常に少なくとも1つのリーグがオンシーズンになっているため、年間を通してスポーツ熱が高い。また、カレッジスポーツ(特にカレッジフットボールとカレッジバスケットボール)もプロリーグに勝るとも劣らない人気である。他にもプロレス(WWE)や総合格闘技(UFC)、モータースポーツ(NASCARやインディカー)、ゴルフなども人気が高い。

反面、サッカーや、フォーミュラ1、ラリーなど、欧州を中心に世界の広い地域で人気の高いスポーツが大衆的人気を得ていないのが特徴である。また、ラグビーやクリケットといったイギリス発祥のチームスポーツは全般的にマイナースポーツの地位に甘んじている。

競馬も非常に盛んでサラブレッドの生産頭数は世界一である。とくにケンタッキーダービーやブリーダーズカップ(BC)は有名である。(詳しくはアメリカ合衆国の競馬を参照。)

なお、近年はメジャーリーグやプロレス、モータースポーツなどで日本人選手が多数活躍しており、イチロー(シアトル・マリナーズ)に代表されるように、新人賞やその他の賞を獲得するほど活躍している選手も多い。

ハワイ州と西海岸を中心にサーフィンの人気も高い。特にカリフォルニアには良質の波がたつポイントも多く、多くのサーフィンインダストリーが点在している。

★科学技術

「アメリカ合衆国の技術と産業の歴史」および「アメリカ合衆国の建築」も参照

軍や軍需産業による先端技術開発への投資が活発な他、大学などの研究機関が行う各種研究に対しての企業による寄付なども盛んに行われていることから、先端技術や種々の学問においては世界的に見て1、2を争うものが多い。
また、第二次世界大戦前後、ユダヤ人であるためナチスに迫害を受けた(アルベルト・アインシュタインなど)、また祖国が戦火で荒廃した(フォン・ブラウン等)などの理由でヨーロッパの科学者や技術者が多くアメリカに移住したため、戦後はアメリカがヨーロッパに取って代わり世界の先端的な科学技術や学問の中心になった面もある。

アメリカの大衆・大量消費文化や、先端的な医療、軍事、航空宇宙、情報・通信(IT)などのテクノロジーは、保有する基礎科学・応用科学の力に支えられて実現しているものであり、現代の科学技術文明を牽引する主要な国家であることは特筆すべきことであろう。
アメリカはメートル条約に加盟しているが、自然科学の分野以外ではヤード・ポンド法が広く用いられている。ヤード・ポンド法を現在も使用している国はリベリア、ミャンマーとアメリカだけである。ジェラルド・フォード政権下の1975年にメートル法移行法(Metric Conversion Act)が可決されたが、ロナルド・レーガン政権が発足すると移行政策は頓挫した。市販される商品のパッケージなどには、ヤード・ポンド法とメートル法の並記が普通に行われている。航空分野などのアメリカが強い力を持つ産業分野では、国際的にもヤード・ポンド法を用いて計量することが多い。

●祝祭日

アメリカ合衆国の祝祭日は、州によって異なる。下記は最も一般的な祝祭日を記載したものである。日本における祝祭日と比べると必ずしも全ての祝祭日が休日となるとは限らない傾向にある。

祝祭日に関しては、こちらを参照して下さい。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E5%90%88%E8%A1%86%E5%9B%BD

●関連項目

・アメリカ合衆国関係記事の一覧
・アメリカ合衆国の地方行政区画
・アメリカ合衆国51番目の州
・アメリカ合衆国大統領
・CIA (中央情報局)
・NSA (国家安全保障局)
・FBI (連邦捜査局)
・北大西洋条約機構
・北米自由貿易協定
・全米ライフル協会
・アメリカの人権と人権政策
・アメリカ合衆国の人種差別
・イロコイ連邦
・汎アメリカ主義
・アメリカ帝国
・パクス・アメリカーナ
・覇権主義
・死の部隊
・ハクトウワシ(国鳥)
・メリカ合衆国の首相

●脚注

1.a b c d IMF Data and Statistics 2009年4月27日閲覧([1])
2.小麦粉はメリケン粉とも呼ばれるが、これも同様に"American"に由来する
3. 中国語での正式な表記は美利堅合眾國であり、日本語の「合衆国」の表記と同じである
4. 憲政の政治学 坂野 潤治・小林 正弥・新藤 宗幸 (編集) 東京大学出版会 2006/01 ISBN 4130301381
5.国家と人種偏見 ポール・ゴードン・ローレン著 大蔵雄之助訳 阪急コミュニケーションズ 1995/09 ISBN 4484951126
6. Morse, Larry E., et al, Native Vascular Plants, Our Living Resources, U.S. Department of the Interior, URL accessed 14 June 2006.
7. National Biological Service, Our Living Resources, URL accessed 14 June 2006.
8. Raven, Peter H. & Linda R. Berg. Environment, 5th Edition. John Wiley & Sons, Inc., Hoboken, NJ, US. ISBN 978-0-471-70348-6.
9. National Park Service, National Park Service Announces Addition of Two New Units, National Park Service News release (28 February 2006), URL accessed 13 June 2006.
10.Republican Study Committee, Federal Land and Buildings Ownership, (19 May 2005), URL accessed 13 June 2006.
11. Vidal, John, and David Adam (2007-06-19). "China Overtakes US as World's Biggest CO2 Emitter". Guardian. 2007-06-27 閲覧。
12.[USGOVERMENTSPENDING.COM>Budget>1901年~1919年 http://www.usgovernmentspending.com/budget_gs.php 2009年5月21日閲覧]
13. [USGOVERMENTSPENDING.COM>Budget>1920年~1940年 http://www.usgovernmentspending.com/budget_gs.php 2009年5月21日閲覧]
14. [US GPO Access>Budget of the United States Government>Browse the FY10 budget>Historical Tables>Table 3.1 OUTLAYS BY SUPERFUNCTION AND FUNCTION 1940 ~ 2014 http://www.gpoaccess.gov/usbudget/fy10/pdf/hist.pdf 2009年5月21日閲覧]
15.[US Bureau of Economic Analysis>Gross Domestic Product (GDP)>GDP and the National Income and Product Account (NIPA) Historical Tables>All NIPA Tables>Table 1.1.5. Gross Domestic Product http://www.bea.gov/national/nipaweb/TableView.aspSelectedTable=5&ViewSeries=NO&Java=no&Request3Place=N&3Place=N&FromView=YES&Freq=Year&FirstYear=1929&LastYear=2008&3Place=N&Update=Update&JavaBox=no#Mid 2009年5月21日閲覧]
16. [US GPO Access>Budget of the United States Government>Browse the FY10 budget>Historical Tables>Table 3.2 OUTLAYS BY FUNCTION AND SUBFUNCTION: 1962 ~ 2014 Continued http://www.gpoaccess.gov/usbudget/fy10/pdf/hist.pdf 2009年5月21日閲覧]
17. [Stockholm International Peace Research Institute>SIPRI data on military expenditure>The 15 major spender countries in 2007 http://www.sipri.org/contents/milap/milex/mex_major_spenders.pdf 2009年5月21日閲覧]
18. [US Office of the Secretary of Defence>DoD Summary Budget Materials Budget Links>National Defense Budget Estimates for the FY 2009 Budget (Green Book)>Table 7-5 DOD MANPOWER FY 1940 TO FY 2009 http://www.defenselink.mil/comptroller/defbudget/fy2009/FY09Greenbook/greenbook_2009_updated.pdf 2009年5月21日閲覧]
19. http://www.cis.org/articles/2005/back505.html
20. [2]
21. "U.S. Census Bureau, Statistical Abstract of the United States: 2006, Section 1 Population" (pdf) (English) 59 pages. U.S. Census Bureau. 2006-10-16 閲覧。
22. United States Census Bureau, Statistical Abstract of the United States: page 47: Table 47: Languages Spoken at Home by Language: 2003
23. Foreign Language Enrollments in United States Institutions of Higher Learning, MLA Fall 2002.
24. [3]
25. The Constitution of the State of Hawaii, Article XV Section 4, 7 November 1978.
26. Louisiana State Legislature
27. New Mexico Statues and Court Rules Unannotated
28. 「ジニ係数」「国の所得格差順リスト」の項を参照
29. http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20090306-OYT1T00889.htm
30. Ogden C, Carroll M, Curtin L, McDowell M, Tabak C, Flegal K. Prevalence of Overweight and Obesity in the United States, 1999 - 2004. JAMA 2006;295:1549-1555. PMID 16595758
31. Vegetarian Resource Group, 1997, How Many Vegetarians Are There? in Vegetarian Journal, Sep/Oct 1997, Volume XVI, Number 5
32. Vegetarian Resource Group, 2000, How Many Vegetarians Are There? in Vegetarian Journal, May/June 2000
33.Vegetarian Resource Group, 2003, How Many Vegetarians Are There?
34. "How Many Vegetarians Are Vegetarian?", Vegetarian Journal, 2006, Issue Four
35. TIME/CNN POLL: Reasons for choosing a vegetarian lifestyle [4]
36. Organic Farming Research Foundation - About Organic | Frequently asked questions about organic food and farming
37 [5][リンク切れ]
38. サッカーは子供にはポピュラーなスポーツであるが、成長するにつれて4大スポーツに人気を奪われてしまう。一方女子サッカーは男子サッカーよりも人気がある。高校、大学には女子フットボールのプログラムが無いためか、女子プロサッカーおよびサッカー選手は男子よりも評価が高い。また、男子サッカーアメリカ代表はFIFAランキングで上位にランクされている

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この記念日は、記念日でも、「歴史」に残る一大イベントですね・・・パート4

続いては、地方行政区分から順に書いていきます。

●地方行政区分について

詳細は「アメリカ合衆国の州」、「アメリカ合衆国の地方行政区画」をそれぞれ参照

アメリカ合衆国は、50の州 (state) 、1の地区 (district) で構成されるが、その他に、プエルトリコなどの海外領土(事実上の植民地)を有する。 独立当時、13の植民地にそれぞれ州が置かれた。1959年にハワイ州が州に昇格されるまでの間、各地方の割譲、侵略、買収、併合を経て、現在は50州を持つ。なお、星条旗の帯は独立当時の13州を、星は現在の50州を示している。

・アーカンソー州
・アイオワ州
・アイダホ州
・アラスカ州
・アラバマ州
・アリゾナ州
・イリノイ州
・インディアナ州
・ウィスコンシン州
・ウェストバージニア州
・オクラホマ州
・オハイオ州
・オレゴン州
・カリフォルニア州
・カンザス州
・ケンタッキー州
・コネチカット州
・コロラド州
・サウスカロライナ州
・サウスダコタ州
・ジョージア州
・テキサス州
・テネシー州
・デラウェア州
・ニュージャージー州
・ニューハンプシャー州
・ニューメキシコ州
・ニューヨーク州
・ネバダ州
・ネブラスカ州
・ノースカロライナ州
・ノースダコタ州
・バージニア州
・バーモント州
・ハワイ州
・フロリダ州
・ペンシルベニア州
・マサチューセッツ州
・ミシガン州
・ミシシッピ州
・ミネソタ州
・ミズーリ州
・メイン州
・メリーランド州
・モンタナ州
・ユタ州
・ルイジアナ州
・ロードアイランド州
・ワイオミング州
・ワシントン州

★連邦政府直轄地

・ワシントンD.C.

海外領土
「アメリカ合衆国の海外領土」も参照

アメリカ合衆国の海外領土には、準州(テリトリー)、直轄領と自治領の他に、自由連合州(コモンウェルス)という形態がある。

ハワイ諸島周辺(オセアニア) 太字

ミッドウェー諸島(直轄領) - ハワイ諸島の北西
ウェーク島(直轄領) - ハワイ諸島の西
ジョンストン島(直轄領 / 無人島) - ハワイ諸島の南西

ミクロネシア(オセアニア) 太字

北マリアナ諸島(自由連合州)
グアム(準州)

ポリネシア(オセアニア)
アメリカ領サモア(準州) - サモア諸島東部
ハウランド島(直轄領 / 無人島) - サモア諸島の北西
ベーカー島(直轄領 / 無人島) - サモア諸島の北西
パルミラ環礁(直轄領 / 無人島) - サモア諸島の北東
ジャーヴィス島(直轄領 / 無人島) - サモア諸島の北東
キングマン・リーフ(直轄領 / 無人島) - サモア諸島の北東

カリブ海 太字

プエルトリコ(自由連合州)
アメリカ領ヴァージン諸島(属領)
ナヴァッサ島(直轄領 / 無人島) - ハイチとジャマイカの間

★主要都市
詳細は「アメリカの主な都市人口の順位」、「アメリカの都市圏人口の順位」をそれぞれ参照。

●地方区分

・アメリカ東海岸
・アメリカ西海岸
・ニューイングランド
・ディープサウス
・アメリカ合衆国北西部
・アメリカ合衆国北東部
・アメリカ合衆国南西部
・アメリカ合衆国西部
・アメリカ合衆国北部
・アメリカ合衆国南部
・アメリカ合衆国中西部
・サンベルト
・グレインベルト
・コーンベルト
・ライスベルト
・ラストベルト
・バイブル・ベルト
・ブラックベルト

●政治

詳細は「アメリカ合衆国の政治」、「アメリカ合衆国大統領選挙」をそれぞれ参照。

50州とコロンビア特別区で構成される連邦制。それぞれの州は高度な自治権を持っているが、連邦政府の有する権限は非常に強大である。連邦政府は、立法、行政、司法の三権分立制をとるが、その分立の程度が徹底しているのが大きな特徴である。元首であり、行政府のトップである大統領は、間接選挙で大統領選挙人を介し、選出される。任期は4年で3選は禁止。行政府は、大統領と各省長官が率いる。

議会は、上院と下院から構成される両院制(二院制)である。上院は、各州から2議席ずつの計100議席、任期は6年で2年ごとに3分の1ずつ改選。下院は、各州の人口を考慮した定数の合計435議席(その他に投票権のない海外領土の代表など5人)からなり、任期は2年。一般的に、上院は上流層の意見を反映し、下院は中流下流層の意見を反映しているとされている。大統領は上下両院のバランスをとる役割を期待されている。

議席は歴史背景から共和党と民主党による二大政党制が確立している。なお、基本的に東西両海岸沿いに民主党支持者が多く、中部に共和党支持者が多いと言う地域的特色があると言う調査結果が出ている。他にも少数政党はいくつか存在するが二大政党を覆す程には至らず、時折選挙戦で注目を浴びる程度である。アメリカの選挙の歴史も参照。

★外交

アメリカの戦争と外交政策の関連性と影響力と歴史についてはアメリカの戦争と外交政策を参照。

アメリカは経済、政治、軍事において膨大な影響力を保持しており、その外交方針は世界的な関心を集める。国際連合本部はニューヨークに置かれ、国連における最高意思決定機関安全保障理事会の常任理事国として強い権限を握る。他に主な加盟機関として、北大西洋条約機構、太平洋共同体、米州機構があり、主要国首脳会議構成国でもある。親密な関係を有する国としてはイギリスやオーストラリア、ニュージーランド、イスラエル、日本、韓国、台湾、またNATO加盟国があり、中でもイギリスとは「特別な関係」と呼ばれる強固な絆で結ばれ、軍事上や核兵器の情報、技術共有も行われている。

米西戦争以前は、モンロー主義に代表されるような孤立主義政策だったが、米西戦争以後は、後発帝国主義国として外国への軍事介入や傀儡政権を樹立して間接支配する外交政策を繰り返した。20世紀初期から第二次世界大戦までの期間に、キューバ、パナマ、ニカラグア、ドミニカ共和国、ハイチ、メキシコに軍事介入し、メキシコ以外の前記の諸国に傀儡政権を樹立した。

第二次世界大戦後は戦勝国となった上に国土に殆ど被害を受けなかったこともあり、大戦後に起きた冷戦において、ソビエト連邦を盟主とする共産主義陣営に対抗する、日本やイギリスなどの資本主義陣営の事実上の盟主的存在として、「自由と民主主義の保護」の名の下、朝鮮戦争やベトナム戦争など世界各地の紛争に介入している。冷戦中は「反共」またはアメリカ合衆国の外交に協力的という理由で、キューバ、パナマ、ニカラグア、ドミニカ共和国、ハイチ、グアテマラ、ホンジュラス、エルサルバドル、チリ、ブラジル、アルゼンチン、ウルグアイ、ボリビア、ベネズエラ、韓国、フィリピン、南ベトナム、カンボジア、イラン、イラク、ザイールなどの各国に傀儡政権を樹立または軍政や王政やその他の独裁政権を支援し、その結果、それらの国の国民に対して政治的不安定と経済的貧困を与えることになった。アメリカ合衆国が樹立し間接支配していた傀儡政権は、革命や民主化運動により崩壊が続き、1990年のチリのピノチェト大統領の辞職を最後に全て崩壊した。

中東においては、1947年のパレスチナ分割決議と1948年のイスラエル建国以後、ユダヤ系アメリカ人やイスラエル系ロビイストの影響力からイスラエルの戦争や武力行使による民間人殺傷や占領を正当化または黙認し、中東のイスラム文化圏の国民から反米感情をもたれるようになった。1989年の冷戦終結と1991年のソ連崩壊後は、唯一の『超大国』となり、強大な軍事力を背景にパナマ侵攻やソマリア内戦、イラク戦争など、各国の紛争や戦争に積極的に派兵し、またその当事国となった。1979年のイスラム革命後のイラン、1991年の湾岸戦争後のイラクなどの中東のイスラム系国家を対立視することが多いことから、イスラム系国家の国民から多くの反発を買うことになった。

米西戦争以来繰り返してきた、超大国であるが故の、他国に対する認識や理解が貧弱で、他国の立場や利益に対する配慮が乏しく、国際協調を軽視して、アメリカの覇権主義的・帝国主義的な利益追求に反しない範囲内でしか他国と協力せず、国連において採択されている人権・環境・軍縮などの多国間条約にも非加盟な事例が多々ある、アメリカ合衆国の外交姿勢は、イスラエル以外の大部分の国から批判され、国際協調を尊重し、世界各国と利益を共有する中で自国の利益を追求する外交姿勢に転換することを求められている。

テロ支援国家
一般に、テロ支援国家と言えばアメリカ国務省により発表されている「Patterns of Global Terrorism」に記されている、北朝鮮、シリア、スーダンなどの国家を指すが、実はアメリカ自身も積極的にテロリストを支援している国家と言われる。アメリカによるテロ支援は、主にCIAにより秘密裏に実施されていると言われ、実際にCIAによりテロ活動の教育を受けたと言う報告もある。なお、アメリカ政府は自身が支援している武装集団に対しては「テロリスト」と呼ばず、「自由の戦士」などと呼ぶ[要出典]。

冷戦時代のアメリカはラオス、アフガニスタン、キューバ、ニカラグアなどで主に反共闘争を行う軍事組織に対しての直接的または間接的な支援を実施していた。特にニカラグア内戦でのコントラ支援は有名であり、イラン・コントラ事件という汚名を残すことになった。皮肉にも、アフガニスタンで米国が支援していたムジャーヒディーンの一つが、後にアメリカ政府にとっての最大の脅威となるテロ集団アルカーイダである。
冷戦終結後もアメリカの経済的な利益を目的としてフィリピン、パナマ、ハイチ、ベネズエラ、イランなどで、反米政権に対するクーデターの支援などが行われたという説がある。また、クーデターではないが旧東欧圏の「色の革命」には米国が積極的に関与したと言われる。

★日本との関係

日米関係史および駐日大使参照

日本との外交関係は、アメリカの建国が18世紀末と比較的近年であったこともあり、その歴史こそ浅いが政治的にも経済的にも非常に緊密である。

★黒船来航と国交樹立

19世紀に日本で明治維新を起こすきっかけの一つとなった、1854年2月のアメリカ海軍のマシュー・ペリー提督率いる「黒船」の来航を経て、同年3月に日米和親条約を締結し正式な国交を樹立した。その後1859年6月に日米修好通商条約を結んだことにより、両国間の本格的な通商関係も開始された。

★緊密化と開戦

その後20世紀に入り、日露戦争の後の1905年9月に行われたポーツマス条約締結時の仲介などを経て、両国間においての貿易、投資や人事的交流が急増するなどその関係を深める。また、第一次世界大戦時には、イギリスなどとともに連合国同士としてドイツに対して共に戦った。

しかしその後アメリカでは、急速にその存在感を増す日本に対しての、黄色人種に対する人種差別的感情を元にした警戒感が強まり、1920年代に、アメリカで日本人移民を狙い撃ちにした人種差別法案である排日移民法が施行された。他にも、1930年代に行われた日本の中国大陸進出政策に対するフランクリン・D・ルーズヴェルト政権による反発や、第二次世界大戦勃発後の1940年6月にフランスのヴィシー政権がドイツと休戦したことに伴い、日本軍が仏領インドシナに進出したことに対して不快感を示し、同政権が対日禁輸政策を取るなどその関係は急速に冷え込んだ。

その後両国間の関係が冷え込んだことを背景に、1941年12月7日に日本海軍により行われたハワイののオアフ島にあるアメリカ軍基地に対する攻撃、いわゆる「真珠湾攻撃」以降、両国は枢軸国と連合国に別かれ敵対関係になり、主に太平洋戦線において戦火を交えることになった。

★同盟関係の構築

1945年8月の日本の連合国に対する敗戦に伴い連合国の主要な占領国として参加し、1951年9月に交わされたサンフランシスコ講和条約の発効までの間、イギリスやフランスなどの連合国とともに日本の占領統治を行った。

以降2国間で同盟関係(日米安全保障条約、日米同盟)を構築して旧ソ連や中華人民共和国などの軍事的脅威に対して共同歩調をとり続けるなど、友好的な関係を築いている。なお、日本にとって、アメリカは軍事的同盟を正式に結んでいる唯一の国でもある(アジアには集団安全保障体制が存在せず、中華民国や大韓民国などの中華人民共和国と北朝鮮を除く各国が個別に、アメリカと軍事同盟関係を締結している)。

★問題点

一方で、この強力な同盟関係の下で日本が自主的な外交、軍備を怠ってきたことや、冷戦時代にアメリカが起こしたベトナム戦争やその後のイラク戦争などにおいて、嘉手納基地や横田基地などの日本国内のアメリカ軍基地が出撃基地として利用されてきたこと、日本国内のアメリカ軍基地周辺において在日アメリカ軍兵士による日本人女性に対するレイプや強盗、殺人事件が多発しているが、日米地位協定により日本側に被疑者の身柄の拘束を最初に行うことが拒否されるケースがあることなどから、同盟関係に対する批判も存在する。現在、地位協定の改善に向けて協議が進んでいる。

★緊密な関係

冷戦が終結した現在もなお日米関係は国際政治や経済活動において不動の地位を築きつつあり、両国間の貿易や投資活動はその規模の大きさから両国経済だけでなく世界経済に大きな影響力を持つ。2006年10月に発生した北朝鮮の核実験における対応や、同国による日本人拉致事件でもある程度は共同歩調をとっている。2007年7月30日、アメリカ合衆国議会は、日本政府によって性奴隷にされた慰安婦への謝罪や歴史的責任などを日本政府に要求するとしたアメリカ合衆国下院121号決議を出している。

●法律

★州法

各州が独自の立法機関を設置し独自の憲法と州法を有する。連邦法は全州にわたって効力を有するものとして上位に位置するものではあるが、各州の自治が歴史的に尊重されていたこともあり、日本における地方自治体の条例に比べると、各州法の地位はかなり高く、「United States」の名のとおり、独立国にも比する強大な自治権を認められている。

合衆国憲法により、連邦法を制定することができる分野は、国家としての対外的な規律に関わる問題や、州を跨ぐ通商に関連する事項等に限定されていることから、会社法や刑法などの一般的法律も州法において規定されている。これらの影響により現在も禁酒法がところにより残っている。

★法の下の平等

独立宣言には『すべての人民は法のもとに平等である』と謳われており、全ての国民は国家との法的権利義務において等しく扱われ、人種、信条、性別によって不当な扱いを受けないという原則を示している。この原則はアメリカ合衆国憲法修正第14条に端的に現れている。しかし実際のところ、女性、黒人奴隷および先住民が真の法の下の平等を勝ち取ったのは建国から200年近くも後のことである。アメリカ合衆国で女性参政権が認められたのは1920年であり、アフリカ系アメリカ人と先住民族が法のもとに他の人種と同等の権利を保証されるようになるまでには20世紀半ばの公民権運動の勃興を待たねばならなかった。

19世紀後半以降にアメリカ合衆国への移民が増加するに従い、アングロ・サクソン系以外の移民を制限するための法律が連邦議会で次々に可決された。1882年に中国人(当時の国名は清)の移民を禁止する中国人排斥法(Chinese Exclusion Act)が制定され、1924年には日本で「排日移民法」として知られているジョンソン・リード移民法が制定されて、新たに移民できる外国人の数を合衆国内にすでに居住している同じ人種の人口によって決めることで実質的にアジアと東欧および南欧からの移民を制限した。連邦レベルで移民の人種的制限が完全に撤廃されたのは1965年のハート・セラー移民帰化法においてである。

第二次世界大戦が勃発すると、米国西海岸に居住する日系アメリカ人は米国の市民権を持つアメリカ人であるにもかかわらず「敵性外国人」として市民権を剥奪され、強制収容所に送られた(詳しくは日系人の強制収容を参照)。また同じ理由から、アメリカの影響下にあったラテンアメリカ13カ国の日系人もアメリカに強制連行された。この一連の強制収容により多くの日系人が財産や生活の基盤を失い、戦後7年が過ぎた1952年の移民国籍法の施行まで市民権は回復されなかった。

その他
また「自由の国」を自称しているとはいえ、上記のように法の上での人種差別が近年まで残っていた上、現在も人種差別はあらゆる場面にみられる。また、ピューリタニズム・宗教保守派の考えの影響から性に関する問題には厳しいところもあり、州によっては婚前交渉や同棲が認められておらず、刑罰の対象となる場合もある。また妊娠中絶を合法化すべきかどうか、死刑制度を認めるかどうかなどの点で宗教的価値観などの多様性を背景とした国家レベルでの議論が繰り返されている。

・英米法-独立の経緯からイギリスの法思想の影響が大きい
アメリカの人権問題と人権状況と人権政策と歴史についてはアメリカの人権と人権政策を参照。

●軍事

詳細は「アメリカ軍」、「アメリカの軍需経済と軍事政策」をそれぞれ参照

アメリカ合衆国の経済において、軍需産業は最大の産業または基幹産業または主要な産業であるとの、検証可能性を示さない伝聞情報が広く流布されているが、アメリカ合衆国政府が公開している経済統計や財政統計を検証すると事実ではない。軍需産業は他の産業と異なり、軍隊が唯一の消費者であり、社会全体を消費者とする産業と比較すると市場規模は限定される。軍需産業は高度な付加価値の素材や部品や機器やシステムを統合する産業であり、科学技術と素材や部品や機器やシステム産業の基盤が無いと成り立たない産業である。軍需産業に対する発注はアメリカ合衆国の経済や社会の状況と国際情勢と軍事政策に影響され、軍が望む予算や武器の購入は連邦議会で審議され、連邦議会が承認して可決し大統領が署名した予算分だけしか発注されない。

アメリカ合衆国のGDPに対する軍事費の比率は、1901年~1917年は1%未満で推移していた。第一次世界大戦に参戦して大規模な軍拡をして、GDPに対する軍事費の比率は、1918年は8.0%、1919年は13.9%に増大し、20世紀以後では三番目に大きな比率になった[12]。

第一次世界大戦終結後は大規模な軍縮が行われ、GDPに対する軍事費の比率は、1920年~1921年は2%台、1922年は1%台、1923年~1931年は1%未満、1932年~1933年は1%台、1934年~1935年は1%未満、1936年~1940年は1%台で推移し[13]、第二次世界大戦以前は平時にはGDPに対する軍事費の比率が小さい国だった。

第二次世界大戦への参戦を想定しイギリスとソ連に武器を供給した1941年はGDPに対する軍事費の比率は5.6%、第二次世界大戦中に参戦して20世紀以後では史上最大の軍拡が行われ、GDPに対する軍事費の比率は1942年は17.8%、1943年は37.0%、1944年は37.8%、1945年は37.5%に増大し、20世紀以後では最大の比率になり[14]、著しい軍事偏重体制になり、軍産複合体が政治に影響力を行使する恐れがあると批判されるようになった。

第二次世界大戦終結後は大規模な軍縮をしたが、冷戦体制になり、GDPに対する軍事費の比率は第二次世界大戦以前の状態には減少せず、軍事費の比率が大きい状態が継続した。朝鮮戦争に介入して軍拡をして、1953年のGDPに対する軍事費の比率は14.2%になり、20世紀以後では二番目に大きくなった。朝鮮戦争停戦後の1954年~1960年は軍縮をしたが、冷戦初期の軍拡競争が激しい時代で、GDPに対する軍事費の比率は13.1%~9.3%で推移し、20世紀以後では四番目に大きな比率になった。ベトナム戦争に介入して軍拡して、GDPに対する軍事費の比率は1961年~1968年は9.4%~7.4%で推移し、20世紀以後では五番目に大きな比率になったが、1960年代は経済成長率が高く経済成長率が軍事費の増加率より大きかったので1950年代よりは比率は減少した。1969年以後はベトナムからの軍の撤退が進み大規模な軍縮をして、ベトナムから全軍撤退した1974年にはGDPに対する軍事費の比率は5.8%に減少し、冷戦の軍事対立緩和により軍縮が進んだ1979年には4.6%に減少した。1980年代は冷戦時代最後の米ソ軍拡競争になり、1986年にはGDPに対する軍事費の比率は6.2%に増大した。

冷戦終結後は大規模な軍縮をして、GDPに対する軍事費の比率は著しく減少した。1998年~2000年のGDPに対する軍事費の比率は第二次世界大戦後では最小の3.0%になり、1999年~2001年のGDP  に対する軍事費のうちの武器購入費(=軍需産業の市場規模)の比率は0.5%であり、軍需産業は最大の産業でも基幹産業でも主要な産業でもなくマイナーな産業である。

2002年以後はアフガニスタンとイラクでの戦争のために軍拡をして、GDPに対する軍事費の比率は2008年には4.3%に増大したが、アフガニスタンとイラクでの戦争終結後は軍縮をすると予想され、GDPに対する軍事費の比率は冷戦終結後の1990年~2001年までの比率よりもさらに減少すると予測されている。

第二次世界大戦後から2009年現在にいたるまで、アメリカ合衆国の経済を構成する産業の多様化と、政府の行政サービスの多様化の結果、GDPと連邦政府支出に対する軍事費の比率と、経済に対する軍需産業の比率は、単年度や数年間の増減はあっても、第二次世界大戦時をピークとして長期的には減少傾向が継続し、今後も継続すると予想されている。

ストックホルム国際平和研究所の統計によると、2007年の世界の総軍事費に対して、アメリカ合衆国の軍事費は45%を占め[17]、世界最大の軍事力大国・軍事費大国・軍需産業大国・武器輸出大国である。

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この記念日は、記念日でも、「歴史」に残る一大イベントですね・・・パート3

今日は、アメリカ独立記念日について書いています。それでは、続いては、そのアメリカ独立記念日の主旨である、アメリカという国について書いていきたいと思います。これは、あくまでも「参考」までです。

●アメリカ合衆国について

アメリカ合衆国(アメリカがっしゅうこく、英:United States of America)、通称アメリカまた合衆国(合州国)、米国(べいこく)は、北アメリカ大陸および北太平洋に位置する連邦共和国。

イギリスの北米植民地が1776年に独立して成立した国家である。独立宣言において全ての人民の権利と平等をうたい政府をその保障手段と明確に位置づける等、かつては奴隷制のような矛盾を抱えつつも、ロックらの人権思想を理念的基盤として歩んできた歴史を有する。少数のネイティブ・アメリカンと呼ばれる先住民以外の国民は、主にユーラシア大陸からの移民もしくはアフリカ大陸から奴隷貿易によって強制連行された者の子孫である。そのため、その母体になった国々や、その他多くの国家の特徴を経済的、政治的、軍事的、そして文化的にも合わせ持っている。資本主義、民主主義、共和制、大統領制、二院制を採用している連邦国家の1つである。

国土は、北アメリカ大陸中央部の大西洋と太平洋に挟まれた本土(48州と連邦政府直轄地である首都ワシントンD.C.)、大陸北西部のアラスカとアリューシャン列島(アラスカ州)、太平洋のハワイ諸島(ハワイ州)。さらに本国の他に、プエルトリコやグアム島などの海外領土を領有する。アラスカとハワイを除く本土は、北はカナダ、南はメキシコと隣接。アラスカ州はベーリング海峡を挟んでロシアと接する。

国の標語 : E pluribus unum (1776年 - 現在)
(ラテン語: 多数から1つへ)
In God We Trust (1956年 - 現在)
(英語: 我ら神を信ず)
国歌 : 星条旗

公用語 無し(州単位では27州が
        英語のみを、3州が
        英語に加えて別の言語を公用
        語に定めている。)
首都 ワシントンD.C.
最大の都市 ニューヨーク
政府
大統領 バラク・オバマ
首相等 無し

面積
総計 9,372,615km²(4位)
水面積率 4.9%

人口
総計(2008年) 314,659,000人(3位)
人口密度 31人/km²

GDP(自国通貨表示)
合計(2008年) 14兆2,646億USドル ($)

GDP(MER)
合計(2007年) 14兆2,646億ドル(1位)

GDP(PPP)
合計(2008年) 14兆2,646億ドル(1位)
1人当り 46,859[1]ドル

独立
- 宣言
- 承認 イギリスより
     1776年7月4日
     1783年9月3日
通貨 USドル ($)(USD)
時間帯 UTC -5 から -11
     (DST: -4 から -9 または 無し)
ccTLD  US .EDU .GOV .MIL .UM
国際電話番号 1

注: この表のデータは、50州とワシントンD.C.のみで、属領を含まない。

●国名

正式名称は、United States of America。 通称は、United States、略称は、U.S. または USA。口語ではAmerica または The States と呼ぶ場合もある。

日本語での正式名称は、アメリカ合衆国。通称は、アメリカ、合衆国(がっしゅうこく)、米国(べいこく)となっている。幕末や明治初期にはアメリケン(メリケン)と呼ばれた。"American" の発音がそのように聞こえたためと考えられる。このため、メリケンの漢字表記「米利堅」の最初の一文字を取って米国と略称され始める。ただし、日本語でのより一般的な漢字表記は亜米利加であり、これが由来だとする説もある。中国語では「美国」と表記される。「美国」より以前には「花旗国」と呼ばれていた。これはアメリカの国旗(星条旗)を見た中国人が、そのデザインを気に入り「花のように美しい旗の国」と表現したためである。たとえば1902年に上海に支店を出したシティバンクは花旗銀行と呼ばれている。

国名の America は、アメリカ大陸の名、すなわち、イタリア人の探検家アメリゴ・ヴェスプッチのラテン語名から付けられた。その詳細については、アメリカ州を参照のこと。日本語の「合衆国」という表記の由来や意味については、合衆国を参照のこと。「アメリカ合衆国」の代わりに、より正確な訳であるとして「アメリカ合州国」を使用する人たちや「連邦政府」という呼称があることから「アメリカ合衆国連邦」と呼ばれることもある。

●歴史

詳細は「アメリカ合衆国の歴史」を参照

★新大陸の発見

イタリア(ジェノヴァ)人のクリストファー・コロンブスはスペイン女王イサベル1世の承諾を受け、大西洋周りによるアジア諸国の「発見」を志したが、1492年に現在の西インド諸島にたどり着いた。当初は、東アジアの一部と考えられていたが、現在の大陸名の由来ともなるイタリアの探検家アメリゴ・ヴェスプッチの主張を元に新たな大陸とされた。その後、ドイツの地図製作者マルティーン・ヴァルトゼーミュラーがアメリカ大陸と命名。その名が定着していった。

これをきっかけに、ヨーロッパ諸国によるアメリカ大陸への入植が始まった。イタリアのジョン・カボットが北アメリカ大陸の東海岸を探検し、イギリスがニューイングランド植民地の領有を宣言し、フランスもジャック・カルティエがセントローレンス川を探検した後、その一帯をヌーベルフランス植民地とするなど、南北アメリカ大陸の探検と開拓の歴史がはじまった。

後にアメリカ人は「明白な天命(マニフェスト・デスティニー)」をスローガンに奥地への開拓を進め、たとえ貧民でも自らの労働で土地を得て豊かな暮らしを手に出来るという文化を形成して「自由と民主主義」理念の源流を形作っていった。またその成功が誇張も含めて旧大陸に伝わり、さらに各地からの移民を誘発する事ともなった。それは同時に先住民であるネイティブ・アメリカンと協調・交易したこともあったが、虐殺、追放して彼らの土地を奪っていったことも伴っていた。

★アメリカ独立

北米大陸がヨーロッパ諸国の植民地支配を受ける中、イギリスと13植民地との間で経済・租税措置をめぐり、対立が生じた。1775年にアメリカ独立戦争が勃発すると1776年に独立宣言を発表し、イギリス優位を崩すためにフランスと同盟を締結した。13植民地が勝利すると1783年にパリ条約が結ばれ、「アメリカ合衆国」として正式に独立し、独立した13州に加えてミシシッピ川以東と五大湖以南をイギリスから割譲された。

1787年9月17日には、連合規約に代えてさらに中央集権的な合衆国憲法が激論の末に制定される。1789年3月4日に発効され、同年に初代大統領として大陸軍司令官であったジョージ・ワシントンが就任した。
アメリカは、自由と民主主義を掲げたことから、当時としては珍しい民主主義国家であった。しかし、アフリカ大陸から連れてこられた奴隷やアメリカ先住民の権利はほとんど保障されなかった。結果、奴隷制度と人種差別が独立後のアメリカに長く残ることとなる。

★西部開拓と南北戦争

北西インディアン戦争勝利により、1795年に北西部を手に入れる。未開の地であった西部の勢力拡大を目指し、1803年のフランス領ルイジアナ買収を行なった。しかし、イギリスが西部開拓を阻んだため、1812年に米英戦争が勃発するも1814年にガン条約を締結して事態は収拾し、西部進出を進めていった。入植時から続いていた先住民との戦争を続けながらも、1819年のスペイン領フロリダ買収、1830年のインディアン移住法によりインディアンを西部に移住させると、1836年のメキシコ領テキサスでのテキサス共和国樹立と1845年のアメリカへの併合、1846年の米墨戦争によるメキシコ割譲により、西海岸にまで領土は達した。現在のアメリカ本土と呼ばれる北米大陸エリアを確立したのである。

また、この頃から遠洋捕鯨が盛んになり、太平洋にも進出を始めた。1850年代、鎖国状態だった日本を食料や燃料調達のために米軍艦を派遣。二つの不平等条約を締結し、開国させた。以後、アジア外交にも力を入れるようになっていく。

1861年、奴隷制廃止に異を唱えて独立宣言を発した南部の連合国と北部の合衆国の間で南北戦争が勃発し、国家分裂の危機を迎えた。これを受けて1862年にエイブラハム・リンカーン大統領によって奴隷解放宣言が発表され、1865年に南北戦争は合衆国の勝利で終結し、連合国は解体された。だが、法の上でのアフリカ系アメリカ人や先住民など、その他の少数民族に対する人種差別は、その後も100年以上に渡って続くことになる。

南北戦争後、鉄道網の発達と共に本格的な西部開拓時代に突入した。19世紀後半には、鉄鋼業や石油業が繁栄し、アメリカ経済が大きく躍進した(金ぴか時代)。また、エジソンなどの発明家によって、白熱電球や電話など、現代文明に欠かせない発明が次々に行なわれ、黄金時代を迎える基礎を築いた。

★海外進出と世界恐慌

南北戦争後も諸外国との戦争などを通して、海外領土の拡大が続けられた。1867年には、アラスカをロシアから購入し、1898年にはハワイ王国が併合され、スペインとの米西戦争に勝利してグアム、フィリピン、プエルトリコを植民地にし、キューバを保護国に指定した。これにより、現在の北米・太平洋圏でのアメリカ領土が確立した。1899年-1913年にかけて米比戦争を行いフィリピン独立を鎮圧する。1900年には義和団の乱平定に連合軍として清に派兵する。また、1910年代から外国人土地法を徐々に施行し、有色人種に対する締め付けを強化した。1914年にヨーロッパで勃発した第一次世界大戦では当初中立を守る一方、1915年にハイチ、1916年にドミニカ共和国に出兵して占領し、軍政を敷くなどの西半球における権益確保政策を採った。ルシタニア号事件などの影響もあり、次第に連合国(イギリス、フランス、イタリア、日本など)に傾き、1917年には連合国側として参戦した。また、1918年には共産主義の広まりを警戒してシベリア出兵を行なった。

大戦後は、1919年のパリ講和会議でウッドロウ・ウィルソン大統領の主導によって国際連盟設立と人種差別撤廃案阻止に大きな役目を担ったが、モンロー主義を唱えてヨーロッパへの不干渉およびラテンアメリカに対する権益を維持しようとする上院の反対により連盟への加盟はしなかった。しかし、他の戦勝国とともに5大国の一員として注目されることになる。国内では首都ワシントンを始めとする多くの都市でレッドサマー1919などの人種暴動により数万人が死傷者した[5]。1924年には排日移民法を施行するなど人種差別政策を強めていった。1927年に出兵していたニカラグアでサンディーノ将軍に率いられたゲリラが海兵隊を攻撃したため、1933年にアメリカ軍はニカラグアから撤退し、従来の政策から善隣外交に外交政策をシフトした。

続く1920年代のバブル経済に基づく空前の繁栄「轟く20年代」(Roaring Twenties)が起こるが、1929年10月29日ウォール街・ニューヨーク証券取引所で起った株の大暴落「暗黒の木曜日」がきっかけとなり、1939年まで続く世界恐慌が始まった。この世界恐慌によって、労働者や失業者による暴動が頻発するなど大きな社会的不安を招いたが、フランクリン・ルーズベルト大統領のニューディール政策により経済と雇用の回復をめざしたが1930年代末期まで経済も雇用も世界恐慌以前の水準には回復せず、第二次世界大戦の戦時経済によって世界恐慌以前の水準を上回る、著しい経済の拡大と雇用の回復が実現された。一方でドイツ、イタリア、日本などで軍国主義やファシズムが台頭し始め、後に起こる第二次世界大戦の引き金になっていった。

★第二次世界大戦

1939年9月にヨーロッパで第二次世界大戦が始まると、中立政策は維持していたものの、1941年にはレンドリース法の施行により、イギリス・ソビエト連邦・自由フランス・中華民国に大規模な軍需物資の支援を行った。1941年12月には、日本による真珠湾攻撃が行なわれ、イギリスやソ連などが中心となって構成された連合国の一員として参戦した。開戦後まもなく、日系アメリカ人や南米諸国の日系人のみを強制収容所に連行した(日系人の強制収容)。日系人男性はアメリカ兵として忠誠を示すために戦った。日本海軍機によるアメリカ本土空襲などの、数回に渡る西海岸への攻撃はあったものの、本土への被害はほとんどなく、事実上の連合諸国への軍事物資の供給工場として機能し、併せて日本やドイツなどの枢軸国との戦闘でも大きな役割を果たした。1943年頃からは、ヨーロッパや南太平洋において本格的な反攻作戦を開始し、ドイツや日本に対する戦略爆撃を実施した。

1945年8月には、イタリアやドイツなど枢軸国からの亡命科学者の協力を得て原子爆弾を完成。同年、世界で初めて日本の広島と長崎に投下した。1945年5月にはドイツが、続いて8月15日には日本も降伏し、第二次世界大戦は終戦となった。
第二次世界大戦以前は非戦争時にはGDPに対する軍事費の比率は1%未満~1%台で、GDPに対する軍事費の比率が低い国だったが、第二次世界大戦で史上最大の軍拡(後述)を行い、著しい軍事偏重状態になり、軍産複合体が政治に影響力を行使する恐れがあると批判されるようになった。

連合国の戦勝国の1国となった上に、主な戦場から本土が離れていたことから国土に殆ど被害を受けなかった。戦勝国として日本の信託統治領であったマーシャル諸島、マリアナ諸島、カロリン諸島などの太平洋の島々を新たな信託統治領として手に入れるとともに、占領国や進駐国に大規模なアメリカ軍基地を造り、共産圏を除く世界を影響下に置くこととなった。また、1946年からマーシャル諸島でクロスロード作戦などの大規模な原水爆実験を繰り返して核大国としての地位を固める。
以後、世界最強の経済力と軍事力を保持する超大国として、「自由と民主主義」の理念を目的もしくは大義名分として冷戦期及びそれ以後の外交をリードする事になる。

★ソ連との冷戦

二次大戦後は、連合国として共に戦ったソ連との冷たい戦争が始まった。一時、ジョセフ・マッカーシー上院議員らに主導された赤狩り旋風(マッカーシズム)が起きるなど、世論を巻き込んで共産主義の打倒を掲げた。
冷戦においては、ソ連を盟主とした共産主義陣営に対抗する資本主義陣営の盟主として、西ヨーロッパ諸国や日本、韓国、台湾などに経済支援や軍事同盟締結などで支援した。朝鮮戦争、ベトナム戦争、グレナダ侵攻など世界各地の紛争に介入している。核兵器の製造競争などもあり、ジョン・F・ケネディ大統領の時にソ連との間でキューバ危機が起こるなど、核戦争の危機も度々発生した。

冷戦中に「自由と民主主義の保護」の理念を掲げたが、国益追求も一つの目的でもあった。実力行使で理念と矛盾する事態すら引き起こし、ベトナムへの介入は西側、東側諸国を問わずに大きな非難を呼び、国内世論の分裂を招いた。また、「反共産主義」であるという理由だけでアジアやラテンアメリカ諸国をはじめとする世界の右派軍事独裁政府への支援や軍人に対してもパナマの米州学校で「死の部隊」の訓練を行なった。こうして育てられた各国の軍人は母国でクーデターを起こし、母国民に対して政治的不安定と貧困を与える結果となっていった。
同時に、大戦の後遺症に苦しむ西欧諸国や日本、韓国、中華民国など同盟国への支援と安全保障の提供は、経済成長をもたらす一因ともなって東側との大きな生活水準格差をうみだし、後に東欧革命の原動力の一つになった。

★人種差別と公民権運動

民主主義国家」であるアメリカであったが、1862年の奴隷解放宣言以降や第二次世界大戦後に至っても南部を中心に白人による人種差別が認められており、1960年代にはこの様な状態に抗議するキング牧師を中心としたアフリカ系アメリカ人などが、法の上での差別撤廃を訴える公民権運動を行なった。これらの運動の結果、1964年7月にリンドン・ジョンソン大統領の下で公民権法(人種・宗教・性・出身国による差別禁止)が制定された。

しかしその後も差別撤廃のための法的制度の整備は進んだものの、現在に至るまで先住民やユダヤ系移民、非白人系移民とその子孫(アフリカ系、ヒスパニック、日系など)などの少数民族に対する人種差別問題は完全には解消していない。それは就職の際の格差等から、警察官が人種を理由にアンフェアな扱いをしたといった問題としてロス暴動のような大きな事件の原因となる事すらある。アフリカ人への奴隷貿易や先住民虐殺については、連邦政府としては未だに謝罪をしていない。

★貿易赤字と世界の警察

石油ショック以降の原油の値上がりによって基幹産業の1つである自動車産業などが大きな影響を受け、1970年代以降は日本などの先進工業国との貿易赤字に悩ませられることとなる。
1980年代に入ると、日本との貿易摩擦が表面化し、議員がハンマーで日本製品を壊すという現象(ジャパンバッシング)も生まれた。近年は、中華人民共和国に対する貿易赤字が膨張している他、インドなどへの技能職の流出が問題となっている。

1989年の冷戦終結と1991年のソ連崩壊によって、名実共に唯一の超大国として「世界の警察」を自認し、アメリカ中心の世界(パクス・アメリカーナ)となっていった。その後も日本、韓国、サウジアラビア、ドイツなど国外の戦略的に重要な地域に米軍基地を維持し続け、パナマ侵攻や湾岸戦争など各国の紛争や戦争に介入した。
また、経済のグローバル化や冷戦時代に軍事用として開発されたインターネット・ITが民間に開放され、流行した。1992年からの民主党政権下では、ITバブルと呼ばれる程の空前の好景気を謳歌した。

★テロとの戦い

21世紀になったばかりの2001年9月11日に発生したアメリカ同時多発テロ事件を境にして世界の情勢は劇的に変化し、各国間の関係にも大きな変化がおこるきっかけとなった。同年、ジョージ・W・ブッシュ大統領は、テロを引き起こしたとされるアルカーイダをかくまったタリバーン政権を攻撃するため、10月にアフガニスタン侵攻を開始した。また、米国愛国者法が制定されたが、これをきっかけにアメリカは、警察国家の様な傾向があると言われている。

2002年には、イラン、イラク、北朝鮮を「悪の枢軸」や「テロ支援国家」と名指しで非難し、世界規模での「テロとの戦い」を宣言した。2003年3月には、イラクをテロ支援と大量破壊兵器保有を理由にイラク戦争に踏み切ったが、大量破壊兵器は見つからず「石油を狙った侵略行為」と批判する声があがった。
2005年には、テロ対策を目的に連邦情報機関が大統領令に基づき、具体的な法令的根拠・令状なしに国内での盗聴・検閲等の監視を行えるようになった。しかし、報道の自由やプライバシーの権利に違反するとして批判の声もあがっている。

★一極支配の弱まり

国際連合の意向の無視や、アメリカ同時多発テロ後からイラク戦争に至るまでの強引な姿勢は、世界中で反米感情を引き起こす要因となった。イラクやアフガニスタン情勢も泥沼化し、友好国だけでなく米国民ですらアメリカの強引な姿勢に否定的な考え方を示した。これにより、強硬路線を見直す方向に動き、2008年に北朝鮮へのテロ支援国家指定を解除するなど、世界における影響力は冷戦終結直後に比べ弱くなっている。

また、新興国と呼ばれるBRICSの台頭やアメリカ経済の混乱が発端の世界金融危機により、ソ連崩壊直後から続いてきたアメリカの一極的な支配は限界を迎えているとの見方もある。
2009年に「変革」と「国際協調」を訴えたバラク・オバマ大統領が就任した。人種差別のさらなる解決や国民皆保険の整備、グリーン・ニューディール等の政策を通じた金融危機、環境問題、国際情勢の改善に積極的に取り組むことが今後のアメリカに期待されている。

●地理

アメリカ合衆国は本土の48州と、飛び州のアラスカとハワイの2州、連邦直属の首都ワシントンD.C.から構成される。さらに、海外領土としてプエルトリコ、アメリカ領サモア、グアム、ヴァージン諸島などがある。

国土面積は、長らく936.4万 km2とされ、日本(37.8万 km2)の約25倍とロシア、カナダ、中華人民共和国に次ぐ、世界第4位の面積とされてきた。

本土は北アメリカ大陸の中央部と北西にあり、東側は大西洋、南側をメキシコ湾とメキシコ合衆国、西側を太平洋、そして北側をカナダで囲まれる。北側に隣接するカナダとは、北緯49度線、五大湖とセントローレンス川で国境線が引かれ、カナダを挟んで北西にさらに進むと飛び地としてアラスカがある。南側はリオグランデ川を介してメキシコと接する。大陸の東側に南北にアパラチア山脈、大陸の西寄りには南北にロッキー山脈があり、山岳地帯となっている。アパラチア山脈とロッキー山脈の間は大平原になっており、農業や牧畜業が盛んである。大陸の南東端にはフロリダ半島がある。また北西部のカナダとの国境地域には五大湖と呼ばれる湖がある。

アパラチア山脈の東側はニューヨーク、ワシントンD.C.、ボストンなどの都市があり人口集中地帯になっている。また、ロッキー山脈の西側の太平洋沿岸にもロサンゼルス、サンフランシスコ、シアトルなどの大都市がある。五大湖沿岸にはシカゴやデトロイトなどの大都市があるが、大陸の中西部には大都市が比較的少ない。

★気候

アメリカの気候は広い国土のために極めて多様である。最北部が北極圏に属するアラスカは、年間を通じて冷涼な気候である。一方、太平洋上の諸島であるハワイは温暖な気候で、ビーチリゾートとして人気がある。本土では、北東部から北にかけて湿潤大陸性気候が占め、冬は寒いが、夏はかなり暑い。東部から中央部は亜寒帯湿潤気候だが、グレートプレーンズ周辺や、カナダとの国境部では暑くなる日も多い。南東部から南部は温暖湿潤気候で、フロリダ南端ではサバンナが見られる。西部は一般的に乾燥していてステップが広く見られ、メキシコ国境付近では砂漠が確認できる。さらに、太平洋岸南部は地中海性気候だが、太平洋岸北部へ進むとアラスカ南東端と同じく西岸海洋性気候となる。 自然災害には、メキシコ湾岸の集中豪雨、メキシコ湾岸と大西洋岸南部のハリケーン、中央部の平原に多い竜巻、カリフォルニア州の地震、南カリフォルニアの夏の終わりのスモッグと山火事、五大湖地域その他の大雪などがある。

★自然環境

アメリカ合衆国では、在来種だけで約17,000種の植物が確認されており、カリフォルニア州だけで5,000種の植物が現存する。 世界で最も高い木(セコイア)、最も大きな木(セコイアデンドロン)、最も古い木(ブリッスルコーンマツ)は同州に存在する。動物界では400種以上の哺乳類、700種以上の鳥類、500種以上の爬虫両生類、90,000種以上の昆虫が確認されている。

ベーリング海峡でユーラシア大陸と、パナマ地峡で南アメリカ大陸とつながっているため、旧北区と新熱帯区とは同じ種や近縁の種を共有している。ロッキー山脈は低地の生物にとって遺伝子流動の障害となっており、ロッキー山脈の東と西では異なる種の動植物が分布する。熱帯から北極圏にまたがる国土のため、アメリカは多様な動植物相を持つ。ハワイ諸島とカリフォルニア州は世界的な生物多様性のホットスポットである。しかし、約6,500種の外来種が作為的あるいは非作為的に持ち込まれて帰化しており、少数の侵略的外来種が固有の動植物の生存を脅かし、甚大な経済的被害をもたらしている。

★自然保護

アメリカにおける動植物の保護の歴史は長い。1872年にイエローストーン国立公園が世界初の国立公園に制定されて以来、連邦政府は57の国立公園とその他の国有地を保護してきた。一部の地域では、人の影響を受けていない環境を長期的に保存するために保護区としての原生地域が指定されている。連邦政府は国土の28.8%にあたる総面積1,020,779マイル(2,643,807 km²)を保護しており、大部分は国立公園や国定森林として保護されているが、一部は原油や天然ガス、その他の鉱産資源の採掘や牛の放牧のために賃貸されている。1973年には固有の動植物と生息地を保護するために絶滅の危機に瀕する種の保存に関する法律が制定された。この法律に従って絶滅危惧種と絶滅危機種の現状を観察し、種の存続に不可欠な生息地を保護する機関が魚類野生生物局(The U.S. Fish and Wildlife Service)である。また、個々の州も独自に種と生態系の保全を行っており、連邦と州の協力を促す制度も存在する。魚類野生生物局や国立公園局、森林局などを統括する内務長官は大統領に任命されるため、生態系の保全も行政の他の部門と同じく政権の優先事項に大きく左右される。

2007年現在、アメリカ合衆国の化石燃料の消費による二酸化炭素の排出量は中華人民共和国に次いで世界第2位であるが、国民一人あたりの排出量は依然として世界第1位である。

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この記念日は、記念日でも、「歴史」に残る一大イベントですね・・・パート2

今日は、アメリカ独立記念日です。続いては、「アメリカ独立宣言」というものがございますので、書いていきたいと思います。

●アメリカ独立宣言について

アメリカ独立宣言(-どくりつせんげん、The Unanimous Declaration of the thirteen United States of America)とは、イギリス(グレートブリテン王国)によって統治されていた13の植民地が、独立したことを宣言する文書である。1776年7月4日大陸会議(the Continental Congress)によって採択された。このため、7月4日はアメリカ合衆国の独立記念日として毎年盛大に祝われる。

●沿革

1763年2月、フレンチ・インディアン戦争が終結すると、イギリス国王ジョージ3世とグレンビル内閣は、植民地アメリカへの課税と支配を強化した。この本国政府による植民地圧迫策は、次第に植民地住民の本国に対する不満を鬱積させ、本国からの離反機運の醸成をもたらす(詳細は、アメリカ合衆国の歴史の項目と、アメリカ独立戦争の項目を参照)。

それぞれに独自の発展を進めていた13植民地は、1772年11月、連絡組織として通信連絡委員会を発足させる。この委員会は、1774年9月、第1回大陸会議(ジョージア植民地を除く12の植民地代表の集会)に発展し、本国政府との和解策を練った。1775年4月、レキシントン・コンコードの戦いで、イギリス軍と植民地民兵隊の間に銃火が交えられ、独立戦争の火蓋が切られた。翌5月、第2回大陸会議が開かれ(全13植民地代表がそろう)、ここ武力衝突に至っても本国政府との和解の道を探っていた。しかし、情勢は日増しに悪化し、翌1776年1月、独立論を訴えるトマス・ペインの著書『コモン・センス』が刊行されてベストセラーになると、住民の間でも植民地代表者の間でも、独立論は最高潮に達した。

同年6月7日、バージニア植民地代表のリチャード・ヘンリー・リーは大陸会議に『独立の決議』を提案し、これに基づいて同月10日、独立宣言起草委員会が発足した。この委員会は、トーマス・ジェファーソン、ジョン・アダムズ、ベンジャミン・フランクリン、ロジャー・シャーマン、ロバート・R・リビングストンの5人で構成されたが、ジェファーソンが宣言案を起案(起草)し、フランクリンとアダムズがわずかに修正して委員会案とされた。委員会案は大陸会議に提出されて、さらに多少の推敲がなされた。そして、1776年7月2日、リチャード・ヘンリー・リーの『独立の決議』がまず可決され、『アメリカ独立宣言』は7月4日に採択された。

●内容

独立宣言は、基本的人権と革命権に関する前文、国王の暴政と本国議会・本国人への苦情に関する28ヶ条の本文、そして独立を宣言する結語の3部から成る。

中でも、「全ての人間は平等に造られている」と唱い、不可侵・不可譲の自然権として「生命、自由、幸福の追求」の権利を掲げた前文は、アメリカ独立革命の理論的根拠を要約し、後の思想にも大きな影響を与えた。

この理論は、名誉革命(1688年から1689年)を理論的に正当化したジョン・ロックの自然法理論の流れを汲む。

●日本への影響 について

宣言公布当時、日本は江戸時代の鎖国中であったため、直接の影響は見られない。

★学問ノススメ

江戸時代末期から明治時代にかけて、西欧文明が押し寄せてくるのに先立ち、福澤諭吉はその著書『西洋事情』で、「千七百七十六年第七月四日亜米利加十三州独立ノ檄文」としてアメリカ独立宣言の全文を和訳して紹介した。

天ノ人ヲ生スルハ、億兆皆同一轍ニテ之ニ附與スルニ動カス可カラサルノ通義ヲ以テス。即チ通義トハ人ノ自カラ生命ヲ保シ自由ヲ求メ幸福ヲ祈ルノ類ニテ他ヨリ如何トモス可ラサルモノナリ。人間ニ政府ヲ立ル所以ハ、此通義ヲ固クスルタメノ趣旨ニテ、政府タランモノハ其臣民ニ満足ヲ得セシメ初テ眞ニ権威アルト云フヘシ。政府ノ処置此趣旨ニ戻ルトキハ、則チ之ヲ変革シ、或ハ倒シテ更ニ此大趣旨ニ基キ人ノ安全幸福ヲ保ツヘキ新政府ヲ立ルモ亦人民ノ通義ナリ。是レ余輩ノ弁論ヲ俟タスシテ明了ナルヘシ

– 『西洋事情』初編 巻之二

このうち、冒頭の章句および思想は、後の『学問のすすめ』初編冒頭、に引用され、人々に広く知られるところとなった。

●日本国憲法

1946年に公布された日本国憲法の第13条にも、その影響は見られる。

第十三条  すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

●関連項目

・アメリカ合衆国憲法
・アメリカ独立戦争
・独立記念館 (アメリカ)
・アメリカ合衆国建国の父

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この記念日は、記念日でも、「歴史」に残る一大イベントですね・・・パート1

皆さん、こんにちわ。更新です。今日は、7月4日です。7月4日は、もう皆さんも知っていると思いますが、今日、7月4日は、「アメリカ独立記念日」です。早いものです、一年は・・・。
それでは、今日は、この「アメリカ独立記念日」について書いていきたいと思います。

●アメリカ独立記念日について

アメリカ独立記念日(-どくりつきねんび、 英語: Independence Day)は、1776年にアメリカ独立宣言が公布されたことを記念して、毎年7月4日に定められているアメリカ合衆国の祝日。アメリカでは単に「7月4日」(Fourth of July)と言うことが多い。

独立記念日には各地でパレード、バーベキュー、ピクニック、野球などのイベントが開かれる。また独立記念日恒例の打ち上げ花火は1777年以来の伝統行事である。

●歴史

・1777年 - フィラデルフィアで独立宣言一周年の祝典が開かれる
・1779年 - 7月4日が日曜日と重なったため翌7月5日に祝賀が行われ、以後これが慣例となる。
・1781年 - マサチューセッツ州州議会が初めて独立記念日を公認
・1870年 - 連邦議会が7月4日を公務員の祝日に制定

●関連項目

・世界の建国記念日一覧
・独立記念館 (アメリカ)
・インデペンデンス・デイ(映画)
・7月4日に生まれて(映画)
・ネイサンズ国際ホットドッグ早食い選手権

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天まで通じて、高いってスゴイですね・・・パート10

それでは、続いては、通天閣で行われるイベントがいくつかございますので、参考までに書きたいと思います。

★浴衣で来てや通天閣
1日から七夕割引

通天閣(大阪市浪速区)で、七夕にあわせて7月1~7日、幸福の神様・ビリケンさんと女性スタッフが浴衣姿で来場者を迎える。衣服通信販売会社・サルース(同市中央区)が浴衣15着を提供。売店などで接客するスタッフが着用し、ビリケンさんは赤い法被を作り替えた浴衣をはおる。

また、浴衣の客の展望台入場料を割り引くイベント「通天閣でYOU勝った(ゆーかった)チャンス」も開催。展望台入場料は大人600円だが、浴衣で来場すると窓口でサイコロを振り、「5」で500円、「4」で400円になる。大学生や中高生、子ども(500~300円)も浴衣で来れば、通常料金以下になるようサービス。問い合わせは通天閣観光(06・6641・9555)へ。

★入場料「1円」で笑って!松竹芸能が通天閣劇場1周年で

松竹芸能は28日、大阪・通天閣地下での演芸興行「通天閣劇場TENGEKI」が開始1周年を迎える7月5日に、入場料1円の記念公演を行うと発表した。
正午と午後2時からで、各回先着196人。1円硬貨のみ受け付ける。出演は漫才の正司敏江・玲児、酒井くにお・とおる、シンデレラエキスプレスら。

普段、同興行は入場料2000円で、昨年5月末で閉館した大阪・道頓堀「B1角座」に出演していた漫才師、落語家らを中心に、毎週土、日曜に1日2回公演を行っている。同社では「出血サービス。暗いニュースを笑いで吹き飛ばしてもらいたい」としている。

★入場料なんと1円!「通天閣劇場」が1周年

松竹芸能の寄席「通天閣劇場」が、1周年を記念して、7月5日に1日限定で入場料を1円にすることになり28日、漫才コンビ「酒井くにお・とおる」が会見した。通天閣劇場は大阪・通天閣の地下にある劇場で毎週土曜、日曜に漫才、落語を上演。7月5日は2回公演で定員の約200人に達し次第、入場を締め切る。とおるは「昔、角座がなくなったときに若手が『10円寄席』をやったことがあるけど、1円は初めてですわ」。ギャラは「コンビで1円」という冗談に、くにおは「どうやって割るの?」と笑わせた。

あと、参考でですが、サイトをご紹介したいと思います。

ビリケンさんの公式サイトです。

http://www.billiken.jp/

通天閣のオフィシャルサイト

http://www.tsutenkaku.co.jp/

新世界のサイト

http://www.shinsekai.ne.jp/

です。

これは、あくまでも、「参考」です。ご了承ください。

いかがでしたでしょうか??今日は、7月の3日、「通天閣開業記念日」。1912年の今日、開業しました。でも、今の通天閣、「二代目」だったのですね・・私も存じておりませんでした。。いや、お恥ずかしい限りです・・。まだまだ、私も勉強不足・・。

今日は、「通天閣開業記念日」。皆さんは、どう過ごしますか??

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天まで通じて、高いってスゴイですね・・・パート9

先ほどは、「新世界の歴史」ついて書きました。続いては、「通天閣の歴史」というものがございますので、「参考」までに書きたいと思います。

★その歴史  初代通天閣編

現在の通天閣は二代目。初代通天閣は明治45年(1912)、第5回内国勧業博覧会の跡地の西半分に開業した新世界ルナパークの中心に建てられたパリのエッフェル塔と凱旋門を組み合わせた(なんとも大阪的だ、、)高さ64mの塔だった。当時、東洋一の高さを誇り、「針金渡り」と呼ばれたロープウェイ乗り場を台座部分に備えるなど、奇抜な趣向で大いに人気を博した。

そもそもルナパークとはニューヨークのコニーアイランドにならった遊園地で80人を乗せて波動回転するサークリングウェーブの他、不思議館、美人探検館(なんのこっちゃ?)などのパビリオン、活動写真館や演芸場が立ち並ぶ大歓楽街だった。ハチャメチャな趣向が受けたのか(?)、低俗との批判を受けつつも、当初は連日の大入り満員の大盛況だったという。
 しかし、その人気も長続きすることなく、大正末期には早くも人気は凋落。繁華街として別の路線に転向を余儀なくされてしまう。その中でも約700坪の敷地に作られた噴泉浴場は円形大浴場をはじめとしてサウナ風呂、演芸場、理容師付の化粧室、温水プールなど、健康ランドの走りともいえる設備で戦災で焼失するまで人気があった。

太平洋戦争が勃発すると空襲の目標とされるということで全体を迷彩色に塗装されたりもした初代通天閣だったが、昭和18年(1943)1月、塔脚の部分にあった映画館「大橋座」より出火、全焼の憂き目にあってしまう。そして、同年2月、解体の上、約300tの鋼材として大阪府に供出されてしまった。この出火に関しては軍部の放火説があったり、また、供出された通天閣の鋼材が終戦時も赤錆にまみれて明石の岸壁に放置されたままだった等の話もあるが、あくまでも噂の域を出ない・・・。

★その歴史  二代目通天閣

昭和20年3月の空襲で一面焼け野原となった新世界地区だが、終戦とともに復興の歩みが始まった。東映・東宝・松竹・日活・大映等大手映画会社の封切館が一式そろっていたこの地区は、映画を中心とした娯楽産業の隆盛とともに、第2期の繁栄期を迎えた。 そのころから「なにわのシンボル通天閣をもう一度!」の声が高まり、昭和31年10月再建、開業の運びとなった。設計者は内藤多仲早稲田大学教授。この人、実は通天閣に遅れる事2年の後に完成したあの「東京タワー」の設計者でもある。高さは初代を上回る103m円形のエレベーターを備え、落成時にはそれなりにモダンな建物だったようだ。

★ビリケンさん

展望台に安置された一見奇妙な顔立ちの像(なんと呼んだらいいんだろ?)。これは明治末頃アメリカの女流美術家が夢にみて作り上げた幸運を呼ぶ神様なのだ。案内によればアメリカで大流行し、新世界に上陸、通天閣解体の折、行方不明になっていたが1980年になってどこからともなく発見され、再び通天閣に祭られることになったという。「どこまでほんと?」と突っ込みたくなる話だけど、通天閣の「福の神」として映画にもなったビリケンさん。通天閣に上ったときにはやはり忘れずにお参りしておきたいもの。ちなみに足の裏をさすりながら願い事をしないと思いは伝わらないというそうです。。。

★屋上ネオンの天気予報

通天閣のてっぺんの円筒状のネオンがその色で天気予報を表しているのは有名な話。ただ、どの色がどの天気を現すのかはすぐに忘れてしまうのがたまにキズ(笑) ・・・ちなみに正解は上下二段に分かれたネオンを晴れ(白)、雨(青)、曇り(赤)の三色を組み合わせることによって様々な天気が表示されている。

パンフレットの案内によると、昭和54年4月の設置以来、日立のエレクトロニクス技術(!)が気象協会と通天閣を専用回線で結び、この天気予報を実現しているという・・・・。

通天閣の屋上ネオンについてはこちらで見ることができます。参考までです。

http://www.tsutenkaku.co.jp/neon/neon.html

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天まで通じて、高いってスゴイですね・・・パート8

それでは、続いては、新世界の歴史-昭和時代の新世界~新世界の歴史 - 二代目「通天閣」開業 について書いていきます。

★新世界の歴史 - 昭和時代の新世界

1943年(昭和18年)1月 通天閣の下の「大橋座」から失火、通天閣にも燃え広がり、鉄骨が危険なほどむきだしになりました。当時、戦争下の日本は次第に追い詰められ、鉄骨資材に事欠く時でしたので、結局「通天閣」は解体されて、大砲や砲弾に供出されました。

1945年(昭和20年)3月の大阪大空襲で、新世界一体は戦災を受け、跡形もなく焼け落ちました。

1945年8月 終戦のあと、新世界も復興の道のりをたどりました。中でも映画が一大ブームとなってからは、東映・東宝・松竹・日活・大映等の封切館を中心に、娯楽場としての新世界は、第2期の繁栄期を迎えようとしていました。

戦後の建築ブームによる大量の日雇建設作業員の必要から、釜が崎が発生し、その人々の一日の疲れを癒すのに、安くて気さくな町として人気を集めていきます。「庶民の町」ともてはやされだしたのは、この頃でした。

そのころ訪れた、作家の林扶美子が小説『めし』のなかで、ジャンジャン横町のことを書いて、それがジャンジャン町を全国人気に押し上げてくれました。

通天閣の再建が、人々の口に登りだしたのもこの頃です。

★新世界の歴史 - 二代目「通天閣」開業

1956年(昭和31年)10月26日 二代目「通天閣」が開業します。

ウェスト閃光電球2万個による同時発光の撮影会が催された。10月28日に竣工のはこびとなりました。初代にくらべていろんな仕掛けが施され(それは訪れてのお楽しみ)高さも随分と高くなりました。映画界の最盛期の時期とも重なり、新世界の絶頂期となりました。

当時、新世界には邦画封切館として、東映・松竹・東宝・日活・大映そして、新東宝等がすべてそろっており、入場者も多かった。その上、洋画の上映館もあり、映画の街といった感がありました。

しかし 繁栄は長くはなかったのです。テレビが家庭に入り、人々の足が映画館から遠ざかっていったのです。新世界の人気も、次第に一部の人々だけとなり、低迷期に入りました。

1969年(昭和44年)
地下鉄堺筋線開通(御堂筋線は 昭和8年に部分開通、昭和26年天王寺~昭和町開通でほぼ完成する。)
1970年(昭和45年)
日本万博開幕。新世界にも各国からの人で賑わう。
1987年(昭和62年)
天王寺博覧会開幕。万博の賑わいほど新世界には、人々入れなかった。その跡地に 新しく天王寺公園を整備、開園する。
1995年(平成7年)1月
阪神大震災
1996年(平成8年)~1999年(平成11年)
新世界大改造・・・通天閣本通商店街及び南陽通商店街(ジャンジャン横町)のアーケード新設しました。又新世界各通りの新カラー舗装化も完了しました。
1996年(平成8年)10月~平成9年4月まで
NHKで「ふたりっ子」放映された。天下茶屋が新世界の隣にあるような、若干つじつまの合わない点はあるにしても、主人公を演じた三倉佳奈・茉奈(長じて演じたのは岩崎ひろみ・菊地麻衣子)の人気が爆発的で、このテレビのお蔭で、新世界は全国人気になり、再び活況をていするようになる。新世界でも長期ロケをし、特に通天閣や今は歌謡劇場になっているかつての将棋センター等でのロケには、多くの人達が見物した。その歌謡劇場で実際に歌っていた叶麗子がモデルの河合美知子の歌も大フィーバーしたのはつい最近のこと。。

1997年(平成9年)
「フェスティバルゲート」「スパワールド」開設。旧市電車庫跡地に、都市型遊園地ができた。「フェスティバル・ゲート」と世界の大温泉である「スパワールド」です。大正時代の初代通天閣を中心とした、ルナパークやラジウム温泉の再現を思わせるものがあります。家族づれをはじめ若い男女が、日一日遊べる娯楽場としての新世界の象徴となってきている。
2000年(平成12年)3月
新世界のインターネットホームページ開設新世界の商店街の青年部が、新しい世界を目指して新世紀の「New World」建設に取組みます。

参考までに書きました、ご了承下さいませ。

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天まで通じて、高いってスゴイですね・・・パート7

先ほどは、新世界についてお話をしました。それでは、続いては、その「新世界の歴史」というものがございますので、書きたいと思います。これは、あくまでも、参考です。

★新世界の歴史 - 博覧会の跡地をめぐって

「通天閣」完成

1908年、市電東西線・南北線が開通し、梅田から恵美須町までの市民の足が確保された。(堺筋線は、1912年開通)。

1909年(明治42年12月)念願の「天王寺公園」が開園された。博覧会の跡地東側のうち8万坪( 約26万平方キロ強)に建設された。残った土地(2万2千坪)を「大阪土地建物」(明治44年8月設立)に一括払い下げる事となった。「大土地」は第1期、第2期と工事を進めていくことになった。

まず「新世界」を一大勧楽地に開発し、北半分を「パリ」をモデルにした街づくりにした。通天閣の足元から、道路を三方向の放射状に「恵美須通」「玉水通」「合邦通」と延ばして、それぞれには、誘致すべき業種を想定して造られていた。

南半分は、アメリカはニューヨークの「コニーアイランド」に模して造られた。都市型遊園地空間として設定され、中央は「ルナパーク」と名付けた。この目玉として、当時は流行っていた、展望台を造ることにした。「眺望閣」や「凌雲閣」等が人気を博していたのに、目をつけて、花のパリにある「エッフェル塔」に似せて、通天閣(高さ75メートル ※)を設計した。
《※一説によると64mとも言われている》

1912年(明治45年)7月「通天閣」を完成 開業しました。(命名者は儒学者の藤沢南岳氏です。)「新世界」開幕の日です。大阪市民にとって新世界は、正に New World でありました。

通天閣を中心に、南にルナ・パーク、芝居小屋や映画館等が軒を列ねて建ち、恵美須通には、飲食店が多く営業し、恵美須駅から人々の波が絶えませんでした。一帯はさながら世界各国のミニチュアの如く、アメリカ、フランスを始め東欧からアジアまでの雰囲気が味わえました。今のテーマパークの先駆けとなった言えます。
当時の書物には書かれています。
「観よ、巍然(ギゼン)として雲セツを磨するエツフエル式高塔通天閣を。・・」と興奮気味にオーバーに語っている。

当時としては、75メートルもの高さのうえに、下部が凱旋門の様に造られ、しかも、その天井はきれいな絵が書かれていた。浪速っ子でなくても、人々は、大いに感激したのでした。
ルナパーク内の遊びの仕掛けは、多種多彩でした。「サークリング・ウエーブ」と言う、上下動しながら回転する乗り物や、「音楽堂」。様々なアトラクションを上演する「清華殿」と言う大衆演舞場、「不思議館」等もあった。

中でも今にも伝わる特異なのが、「ビリケンさん」だった。実は、1908年アメリカ生まれの人形なのだが、10年ごろには日本に渡って来て、 ルナパーク内のホワイトタワー内に祭られ、福の神のようにもてはやされた。一時行くえ知れずであったが、最近1980年になって、再び通天閣内で復活して、鎮座している。

ルナパークの以外にも、ろんな興行が催されていた。とり囲むように、映画(当時は、活動写真と言った)・演劇を主とした興行街を造る工事は、開業と平行して、どんどん進んでいった。
1913年(大正2年から) 第2期工事に入り「噴泉浴場」が建てられた。円形で人が泳げる程の、広さと深さのある外側と、中央から滝のように湯が落ちてくる内側の、二重の円形浴場であった。また、「ラヂューム」を使った湯が、大人気となり、浴場の事を「ラヂューム温泉」と呼ばれるようになった。

ルナパークの内は「天王寺勧業博」で得た遊具建設・運営技術にさらに新しい工夫をこらして、かってない洋風の異空間をつくりだしていた。いま一つは、通天閣からルナパークヘ、特に短い距離ではあるが『ロープ・ウエィ』をつけ「楽園を横断し」「飛行機の快をむさぼる」と言うルナパーク内を見下ろす仕組みになっていた。

1908年(明治41年)
天王寺美術館のそばには、慶沢園(けんたくえん)がある。もと住友本邸の庭で 庭師小川治兵衛が築造した。
1921年
茶臼山南面に住友吉左衛門の邸があったが、1926年、回りの土地と一緒に住友家から大阪市に寄付されている。
1915年(大正4年)
天王寺動物園1月に開業。ここに、大阪でも数少ない庶民の一大勧楽地が完成した。そして、大阪市民はこぞってここを訪れた。
1920年(大正9年)
ライオン本舗との契約も成立し、通天閣の側面に電光文字で、ライオン歯磨きの広告がまぶしく点灯しました。新世界の繁栄も決して一本調子でではありませんでした。
1923年(大正12年)
早くもルナパークは閉園しました。

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天まで通じて、高いってスゴイですね・・・パート6

続いては、通天閣のある、大阪市浪速区恵美須東一丁目から三丁目にある歓楽街界隈の「新世界」というところについて書いていきたいと思います。

●新世界について

新世界 (大阪)

新世界(しんせかい)は大阪府大阪市浪速区恵美須東一丁目から三丁目にある歓楽街。界隈に通天閣やジャンジャン横丁がある。

●歴史

明治以前は葱畑がある程度の荒地で、人跡も稀であった。1903年(明治36年)、天王寺及び現在の新世界で催された第5回内国勧業博覧会が、新世界の基礎といわれる。そういう点で新世界は、門前町の性格を持つ東京の浅草や名古屋の大須に比べ、より人工的な繁華街である(大阪で浅草や大須に近い性格を持つのは法善寺の門前町である千日前)。「内国」とはあるものの、国内外からの先端技術が寄せられた博覧会であり、一種の万博と言えなくもない。博覧会は5か月で入場者530万人という大盛況の内に幕を閉じた。

博覧会から5年経った1908年(明治41年)、大阪市電が恵美須町から梅田まで開通、次いで1911年(明治44年)には南方の堺へ阪堺電気軌道(旧)が開業した。また、博覧会会場の南方には既に1889年(明治22年)5月、大阪鉄道(初代。関西鉄道を経て現・JR関西本線)が通じており、最寄駅は天王寺駅だった(新今宮駅は戦後の開業)。

1909年(明治42年)、天王寺公園が博覧会跡地東側に設営され、西側の土地2万2000坪が、大阪財界出資の大阪土地建物に一括払い下げされた。払い下げ用地の北半にはパリに見立てた放射状3方向の通りを配し、中央部にエッフェル塔を模した塔を立てることになった。塔は儒学者である藤沢南岳により「通天閣」と名付けられた。一方で用地南半にはコニーアイランド(ニューヨーク)に似た遊園地を開くこととし、「ルナパーク(月の園)」と命名した。

通天閣及びルナパークの開業により、新世界界隈には芝居小屋や映画館、飲食店が集まり出し、国技館も建設され(フェスティバルゲートのやや北あたり)、歓楽街の様相を呈するようになった。一方周辺地域でも1915年(大正4年)に市立天王寺動物園が、1918年(大正7年)には飛田遊廓( - 1958年)が開業するなど、一帯は一大歓楽地帯として認識されるようになる。そんな中でルナパークは振るわず、1923年(大正12年)に閉園となった。

第二次世界大戦中の1943年(昭和18年)1月、通天閣が脚下の大橋座の火災に巻き込まれて焼失。翌月2月、軍の金属類回収令により解体することとなり、鉄材は戦時供出に付された。加えて1945年(昭和20年)3月13日の大阪大空襲で新世界も被災・壊滅した。

1947年(昭和22年)、ジャンジャン横丁が先ず復興し、1956年(昭和31年)10月28日には二代目通天閣(現行のもの)が開業した。

●現状

庶民的な歓楽街として親しまれてきた新世界だが、大手私鉄のターミナルに位置しないこと、観光の多様化などに伴い、近年までは衰退していた。しかし、皮肉にも、発展していない「昔の繁華街」の雰囲気が、現在は却って観光資源になっている面もある。

かつての新世界は、その独特の雰囲気で人々を惹きつけ、多くの小説・漫画の舞台ともなったが、一方で「街娼に声をかけるな」の貼り紙がそこここにあるなど、一般人はおいそれと立ち入り難い側面もあった。

1997年(平成9年)、新世界では久々の大規模施設としてフェスティバルゲートとスパワールドが、大阪市所有の市電車庫跡地に開業したものの、2004年(平成16年)6月にはフェスティバルゲートは経営破綻している。

近年では、NHKの連続テレビ小説「ふたりっ子」の舞台として登場するなど、ドラマの舞台になり、他にもバラエティ番組でも紹介され、関西地区以外の人々にも広く知られるようになり、週末になると数多くの観光客が詰め掛け、通天閣や、今や懐かしい手書きの派手な映画看板などをバックに写真を撮ったり、スマートボールに興じている様子が見られる。2000年代前半まではパチンコ店・ゲームセンターや、成人向けビデオショップ・アダルトショップなどが目立ったメインストリートは、串カツ店を主とした飲食店が目立つようになり、串カツ店には小さな子供を連れた家族連れを含めた観光客が列を作るなど、かつての歓楽街の雰囲気から脱し観光地の様相を呈している。この地区の北側に日本橋、南側にあいりん地区がある。

●主な劇場

新世界東映 

新世界日劇経営。ルナパーク開設時にできた「日本倶楽部劇場」を前身とする。1980年代までは開館当時の外観が残っていたが、建替えによりマンションを併設した複合ビルとなった。劇場壁面に「日本倶楽部劇場」時代の社章が残されている。東映封切館だったが、近年は新作・旧作を織り交ぜた名画座となっている。「日劇会館」「日劇シネマ」を併設した「元祖シネコン」。

日劇会館 

新世界東映に併設。東京の「新宿昭和館」、神戸の「福原国際東映」と並ぶ東映仁侠映画・実録映画の専門館。新宿昭和館が閉館し福原国際東映が成人映画館となった今では貴重な存在。

日劇シネマ 

新世界東映に併設。成人映画封切館。新世界東映改築前は地下にあり、「日劇地下OPK」という名称だった。

新世界国際劇場 

洋画名画座。新世界大弥興行経営。元南陽演舞場跡で外観は演舞場時代のまま残っている。

新世界国際地下劇場 

新世界国際劇場内。成人映画上映。

新世界日活 

橋本土地興行経営。成人映画上映。

新世界公楽劇場 

邦画名画座だったが、成人映画館の「新世界シネマ」となった後閉館。

新世界公楽シネマ 

公楽劇場同様に邦画名画座から成人映画館「新世界ローズ」を経て閉館した。

新世界座 

先述した2館を経営していた公楽興行の拠点館。劇場の屋根に「新世界座」の文字が大きく記されていたため、通天閣の展望台からもよく目立った。先述2館の閉館後、「新世界公楽劇場」と改称。2階席まである映画全盛期を彷彿させる映画館だったが、老朽化に勝てず閉館。

新世界グランド劇場 

吉本興業が新世界で唯一経営していた劇場。晩年は成人映画館だった。閉館して10数年経つが外壁など一部が残っている。

新世界大映 

大映封切館だったが、他館同様、最後は邦画名画座となり閉館。現在は宮原書店が入居している。外壁など建物の一部が残っている。

温泉映画劇場 

ジャンジャン横丁にあったストリップショウの「温泉劇場」に併設していた。成人映画館だったが1981年に閉館。87年に3階建てのビルとなり新装開館。邦画名画座「新世界温劇」と成人映画館「温劇シネマ」に生まれ変わった。「新世界温劇」では主に日活映画を上映していた。90年に再び閉館。

新花月 

上述の「温泉劇場」に併設していた演芸場で、芸人の配給は松竹芸能が行っていた。(新花月の項を参照のこと。)

朝日劇場

大衆演劇を上演する劇場。新世界日活同様、橋本土地興行が経営。映画館が少なくなった新世界の核的存在ともいえる大衆演劇の殿堂。

新世界ヌード劇場 

ストリップ劇場。朝日劇場の横にあった。

浪速クラブ 

大衆演劇を上演。朝日劇場と違い「芝居小屋」の雰囲気が残る。

STUDIO210

通天閣観光所有の多目的ホール。通天閣地下に所在。松竹芸能の主催で、毎週土曜日及び日曜日に「通天閣劇場TENGEKI」の名称で演芸興行が、毎週月曜日に「通天閣歌謡劇場」[3]の名称で演歌主体の歌謡ショーが、それぞれ開催されている。

●交通

・JR西日本関西本線・大阪環状線 新今宮駅
・南海本線・高野線 新今宮駅
・大阪市営地下鉄御堂筋線 動物園前駅
・大阪市営地下鉄堺筋線 恵美須町駅・動物園前駅
・阪堺電気軌道阪堺線 恵美須町駅・南霞町駅

●関連項目

・通天閣
・ジャンジャン横丁
・串カツ
・どて焼き
・浅草
・大須
・大阪国技館

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天まで通じて、高いってスゴイですね・・・パート5

今回は、通天閣のお話をしていますが、通天閣は、大阪市の浪速区(なにわく)というところにあります。続いては、その通天閣のある「浪速区」ついて、書いていきたいと思います。

●浪速区について

浪速区(なにわく)は、大阪市を構成する24区のうちのひとつ。

浪速区
なにわく 国  日本
地方 近畿地方
都道府県 大阪府
市 大阪市
団体コード 27111-0
面積 4.37km²

総人口 58,927人
(推計人口、2009年5月1日)
人口密度 13,480人/km²
隣接自治体
行政区 大阪市:西区、大正区
天王寺区、西成区、中央区
区の木 
区の花 なでしこ

●地理

一帯は上町台地西側の平地で、北辺では西道頓堀川が、西辺では木津川が区境となっている。また区東部には江戸時代に難波新川または難波入堀川と呼ばれる運河が開削されたが、1958年に埋め立てられた[1]。

日本一面積の小さな行政区でもある。(最も大きいのは静岡市の葵区)

●歴史

・1925年 - 南区(現在の中央区南部)から分区によって誕生。
・1943年 - 南区・西区・天王寺区との間で区の境界を調整し、現在の区域となる。
1925年に南区から分区によって誕生した。旧西成郡(難波村・今宮村・木津村・西浜町)の地域を中心にしている。区名は、王仁が詠んだと伝えられる古歌「難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花」(難波津の歌)からとられた[2]。1943年、日本橋筋の一部が南区から、日東地区が天王寺区から、幸町が西区からそれぞれ編入され、また難波地区の一部を南区へ分離して現在の区域となった。

難波村は古くから農村であり、特に大坂の街が大きくなった江戸時代以降は、市内に野菜を供給する一大近郊農村として繁栄した。特にねぎが有名で、「なんば」はねぎの代名詞となった。これらの野菜は天満の青物市場に持ってゆく決まりであったが、農民達は市を建てたり自前で売ろうとして、天満商人と対立した。

明治時代以後は1885年に阪堺鉄道(後の南海鉄道)の難波駅が、1889年には大阪鉄道(後の関西鉄道、現在の西日本旅客鉄道)の湊町駅(現在のJR難波駅)が開通し、奈良や和歌山の木材や農産物などが集まった。木津には大きな市場(現在の木津地方卸売市場)ができ、日本橋以南の堺筋は松坂屋ほか商店、古物商や古本屋が軒を並べる繁華街となった。また1903年の第5回内国勧業博覧会以後は新世界がレジャーセンターになるなど遊興地としても栄えた。一方、市街地の拡大に伴い、大正時代には堺筋の裏側に長町スラムが広がっていたため、当時の大阪市は画期的な鉄筋アパート[3]を建設するなどこの地域の社会改善、住宅改良に力を入れた。スラムは西成区釜ヶ崎に移転し、現在のあいりん地区となった。

戦後は日本橋(恵美須町)が焼け野原から電気街として繁栄したが、産業構造の変化などに伴い中小企業や工場主体の地域の活力は落ち始めた。この地域にあった大阪球場やクボタの工場、湊町駅の貨物駅などが相次いで再開発の対象となった。バブル崩壊後、これらの再開発は足踏みしたが、2000年代には超高層マンション群や大規模店舗群に変わりつつある。また中小工場の廃業が相次いだほか、日本橋に対して郊外の大規模電気店・梅田へのヨドバシカメラ出店などが地域全体を揺さぶったが、日本橋もソフト販売・開発の町に変わりつつあるなど変化への対応も見られる。新世界は繁華街としてはすっかり老朽化したが、戦後の雰囲気を色濃く残すため観光に来る人も多い。

また比較的地価が安いため、アジア・ヨーロッパ・アメリカ・オセアニアなどからの出稼ぎ労働者やホステス、外国語教師など外国人の居住が多いほか、若い単身者向けのワンルームマンションも多い。区の人口は1940年に約15万人いたが、その後の空襲による市街地の破壊やドーナツ化現象、生活環境の著しい悪化などに伴い長く減少傾向にあった。しかし近年再開発によりマンション建設が進み、都心回帰によって再び増加傾向にある。特に単身男性の転入が加速しており、浪速区の性比(女性を100とした時の男性の比率)は大阪市95.0に対して104.8とかなり男性の割合が高い。なおこの数値は南隣の西成区に次いで大阪市内第2位である。

こうした浪速区の都心再開発プロジェクトにはOCAT、湊町リバープレイスを中心として高層マンション群と産経新聞社などを誘致したルネッサなんばプロジェクト、南海なんば駅前、大阪球場跡を再開発した商業施設と高層マンションの複合体なんばパークス等がある。

●交通

★鉄道

・中心となる駅

・難波駅(中央区)
・JR難波駅
・新今宮駅

・JR西日本

・大阪環状線:芦原橋駅 - 今宮駅 - 新今宮駅
・関西本線(大和路線):JR難波駅 - 今宮駅 - 新今宮駅

・南海電気鉄道(登記上、南海電鉄の新今宮駅は西成区、南海難波駅は中央区に所在)

・南海本線:今宮戎駅(高野線の各駅停車のみ停車)
・高野線(汐見橋線):汐見橋駅 - 芦原町駅

・阪神電気鉄道
・阪神なんば線:桜川駅

・大阪市営地下鉄(登記上、御堂筋線・四つ橋線・千日前線ともに難波駅は中央区に所在)

・御堂筋線:大国町駅
・四つ橋線:大国町駅 - 難波駅
・千日前線:桜川駅
・堺筋線:恵美須町駅

・阪堺電気軌道(登記上、南霞町駅は西成区に所在)
・阪堺線:恵美須町駅

★道路

・阪神高速道路
・1号環状線:夕陽丘出入口 - えびす町入口 - なんば出口 - 湊町出入口
・15号堺線:湊町出入口 - 汐見橋入口 - 芦原出口
・千日前通
・大浪通
・国道25号
・国道43号
・新なにわ筋(大阪府道29号大阪臨海線)
・あみだ池筋
・なにわ筋(大阪府道41号大阪伊丹線)
・四つ橋筋
・堺筋
・松屋町筋

●教育

★」高等学校 [編集]

・大阪府立今宮高等学校 - 戎本町2-7-39

★中学校

・大阪市立難波中学校 - 塩草1-1-59
・大阪市立日本橋中学校 - 日本橋西1-7-6
・大阪市立木津中学校 - 戎本町1-3-46

★小学校

・大阪市立立葉小学校 - 立葉2-1-15
・大阪市立栄小学校 - 木津川2-3-30
・大阪市立大国小学校 - 大国1-9-3
・大阪市立恵美小学校 - 恵美須西2-13-9
・大阪市立日東小学校 - 日本橋東3-1-23
・大阪市立日本橋小学校 - 日本橋3-2-27
・大阪市立敷津小学校 - 敷津東3-9-32
・大阪市立塩草小学校 - 塩草1-4-31
・大阪市立難波元町小学校 - 元町1-5-30

・統廃合による小学校の閉校
・大阪市立難波小学校、大阪市立元町小学校 - 1985年に統合で難波元町小学校となる。
1874年に難波小学校が創立。1901年に元町小学校が「難波第四小学校」として開校。戦災により1946年に両校は一時統合して「元町小学校」となった。その後1954年に元町小学校難波分校を設置し、1956年に難波小学校が再分離。児童数減少により1985年に再統合して旧元町小学校敷地に「難波元町小学校」を設置。旧難波小学校跡地はその後、大阪市立浪速スポーツセンターとなっている。

★特別支援学校
・大阪市立難波特別支援学校 - 塩草1-4-29

●マスメディア

★新聞社

・産経新聞(産業経済新聞社)大阪本社(湊町二丁目)
・サンケイスポーツ大阪本社(湊町二丁目)
・夕刊フジ大阪本社(湊町二丁目)

★放送局

・FM大阪(湊町一丁目)

●浪速区に本社を置く企業

・ニコニコのり
・クボタ
・上新電機
・モリサワ
・ニッタ
・日本気象
・ダイカイフード
・ピクセラ
・フジ医療器
・日コン連企画
・富士珈機
・山崎産業
・森田電工

●名所・旧跡・文化・観光施設

・なんばパークス
・ウインズ難波
・湊町リバープレイス
・なんばHatch
・浪速神社
・難波八阪神社
・今宮戎神社
・願泉寺
・新世界
・通天閣
・ジャンジャン横丁
・スパワールド
・フェスティバルゲート
・でんでんタウン(日本橋電気街)
・大阪府立体育会館
・大阪市立浪速図書館
・大阪人権博物館
・朝日劇場

●出身有名人

・富士ヶ根全陽(大相撲親方・元小結大善(だいぜん)二所ノ関部屋所属)本名:高橋徳夫
・望桜将太(大相撲現役力士・(みざくら)宮城野部屋所属)本名:近藤将太
・折口信夫 - 歌人・国文学者
・高橋和巳 - 作家
・渚ゆう子 - 歌手
・浜田雅功 - お笑い芸人

●脚注

1. 埋め立て後の旧河道には阪神高速道路1号環状線が建設された。
2. 浪速区ウェブサイトより。ちなみに同じ大阪市内の此花区の区名も同じ歌に由来する。
3. 下寺住宅・日東住宅などの通称「軍艦アパート」。

●関連項目

・中嶋の戦い

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天まで通じて、高いってスゴイですね・・・パート4

続いては、博物館施設からです。

●博物館施設

博物館

・イトーキ史料館
・江崎記念館
・エル・シティ館
・大阪科学技術館
・大阪企業家ミュージアム
・大阪くらしの今昔館(住まいのミュージアム)
・大阪国際平和センター(ピース大阪)
・大阪市下水道科学館
・大阪市立科学館(夢宙ときめき館)
・大阪市立環境学習センター(生き生き地球館)
・大阪市立自然史博物館
・大坂城天守閣
・大阪人権博物館(リバティ大阪)
・大阪府立上方演芸資料館(ワッハ上方)
・大阪歴史博物館
・大林組歴史館
・キッズプラザ大阪
・くすりの道修町資料館
・交通科学博物館
・水道記念館
・造幣博物館(造幣局)
・高島屋史料館
・適塾(重要文化財)
・直木三十五記念館
・なにわの海の時空館
・はりきゅうミュージアム
・ふれあい港館ワインミュージアム

美術館

・大阪市立東洋陶磁美術館
・大阪市立美術館
・大阪市立近代美術館(仮称)心斎橋展示室
・大阪府立現代美術センター
・上方浮世絵館
・国立国際美術館
・コヤノ美術館
・サントリーミュージアム(天保山)
・日本工芸館
・藤田美術館
・湯木美術館

動物園・植物園・水族館

・大阪市立長居植物園
・咲くやこの花館
・海遊館
・天王寺動物園
・花と緑と自然の情報センター

●名所・文化観光施設

※施設名の後の「重要文化財」は国指定の重要文化財を示す

★レジャー施設・高層建築物

・大阪アメニティパーク
・オオサカガーデンシティ
・大阪ビジネスパーク
・インテックス大阪
・天保山ハーバービレッジ
・なんばパークス
・ユニバーサル・スタジオ・ジャパン
・アジア太平洋トレードセンター
・ATCオズ岸壁:帆船あこがれ専用岸壁
・大阪ワールドトレードセンタービルディング
・梅田スカイビル
・キリンプラザ大阪
・通天閣(登録有形文化財)
・フェスティバルゲート

★史跡

・大坂城
・旧川口居留地
・適塾(重要文化財)
・難波宮跡
・平野郷
・堀城

★公園・庭園

・靱公園
・扇町公園
・中之島公園
・大阪城公園
・城北公園
・桜之宮公園
・淀川河川公園
・花博記念公園鶴見緑地
・天王寺公園
・長居公園
・大阪南港野鳥園
・慶沢園

★古代建築

・住吉大社本殿(国宝)

★近代建築

・梅田周辺

・大阪中央郵便局 - 中央電気倶楽部 - 大江ビルヂング - 大阪市交通局曽根崎変電所

・中之島

・大阪市中央公会堂(重要文化財) - 大阪府立中之島図書館 (重要文化財) - 日本銀行大阪支店旧館 - 朝日ビル - ダイビル本館(大阪ビルヂィング)

・大坂城周辺

・旧造幣寮鋳造所正面玄関(旧ユースアートギャラリー)(重要文化財) - 泉布観(重要文化財) - 旧大阪砲兵工廠化学分析所 - 大坂城天守閣(登録有形文化財) - 旧大阪市立博物館(旧第四師団・中部軍管区司令部庁舎) - 大阪市水道局大手前排水場 - 大阪府庁舎

・北船場、南船場

・北浜レトロビルヂング(登録有形文化財) - 大阪証券取引所 - 三井住友銀行大阪本店(住友ビルディング) - 新井ビル(登録有形文化財) - 中村健法律事務所 - 大阪市立愛珠幼稚園(重要文化財) - 日本生命保険本社ビル - 八木通商大阪本社(旧大阪農工銀行) - 大阪倶楽部(登録有形文化財) - 旧大阪市中央消防署今橋出張所(今橋ビルヂング)(登録有形文化財) - 三井住友銀行大阪中央支店 - 高麗橋野村ビルディング - シェ・ワダ高麗橋本店(高麗橋ビルディング) - 日本基督教団浪花教会 - 青山ビル(登録有形文化財) - 伏見ビル(登録有形文化財) - 芝川ビル(登録有形文化財) - 旧小西儀助商店社屋(重要文化財) - イトーキクレビオビル - 武田薬品工業道修町ビル(旧武田長兵衛商店本館) - 大阪瓦斯ビルヂング(登録有形文化財) - 生駒ビルヂング(登録有形文化財) - 旧東京貯蓄銀行大阪支店 - 小川香料 - 船場ビルディング(登録有形文化財) - 清水猛商店 - 岸本瓦町邸(登録有形文化財) - 綿業会館(重要文化財) - 明治屋ビル - 三木楽器本店開成館(登録有形文化財)- 堺筋倶楽部(旧川崎貯蓄銀行大阪支店) - 原田産業

・西船場

・日本基督教団大阪教会(登録有形文化財) - 山内ビルヂング(登録有形文化財) - 江戸堀コダマビル(登録有形文化財)

・心斎橋・難波

・大丸心斎橋店 - 高島屋大阪店(南海難波) - 高島屋東別館(旧松坂屋大阪店) - 三木楽器本店開成館(登録有形文化財)

・大阪港・川口

・築港赤レンガ倉庫 - 住友倉庫築港支店 - 商船三井築港ビル(大阪商船) - 天満屋回漕店 - 住友倉庫川口支店川口町倉庫 - 日本聖公会川口基督教会(登録有形文化財) - 三井倉庫 - 岩出建設大阪支店 - 旧鴻池組本店本宅
(旧三菱銀行九条支店) - 大阪市交通局(大阪市電気局庁舎) - 郵全倉庫

★劇場・ホール

・いずみホール
・梅田芸術劇場
・NHK大阪ホール
・大阪厚生年金会館
・大阪国際会議場
・大阪国際交流センター
・大阪四季劇場
・大阪城ホール
・国立文楽劇場
・ザ・シンフォニーホール
・シアターBRAVA!
・松竹座
・新歌舞伎座
・Zepp Osaka
・天満天神繁昌亭
・なんばグランド花月
・フェスティバルホール

★体育施設・スタジアム

・扇町プール
・大阪市立中央体育館
・大阪府立体育会館
・大阪プール
・京セラドーム大阪
・長居スタジアム
・舞洲スポーツアイランド

★宗教施設

神社

・住吉大社
・大阪天満宮
・今宮戎神社
・綱敷天神社
・杭全神社
・生國魂神社
・高津宮
・安倍晴明神社
・露天神社
・綱敷天神社

寺院

・四天王寺
・四天王寺本坊庭園(極楽浄土の庭)
・愛染堂(勝鬘院)
・大念仏寺
・大聖観音寺(あびこ観音)
・一心寺
・太融寺
・法善寺

教会

・日本基督教団大阪教会
・大阪カテドラル聖マリア大聖堂
・日本聖公会川口基督教会
・日本基督教団大阪福島教会
・日本基督教団浪花教会

●祭事・イベント

・愛染まつり
・聖霊会
・住吉祭
・天神祭
・十日戎
・大阪国際女子マラソン
・大阪ヨーロッパ映画祭
・御堂筋パレード
・OSAKA光のルネサンス

●文化・芸術活動

芸能太字

近世以来の伝統芸能としては、人形浄瑠璃(文楽)、歌舞伎、能楽、それに上方落語が有名である。

このうち、人形浄瑠璃は戦後に一時衰亡の危機を迎えたが、文楽協会の努力や行政の支援もあり、国立文楽劇場を中心に現在まで公演が続けられてきた。2003年には、「人形浄瑠璃文楽」としてユネスコの世界無形遺産に指定されている。

歌舞伎は、現在道頓堀の松竹座が中心の舞台である。

能楽の舞台としては、大阪能楽会館、大槻能楽堂、山本能楽堂がある。

上方落語は、戦後に一時廃れたが、桂米朝をはじめとする「四天王」の活躍が実って復活した。2006年には、市民の寄付によって60年ぶりの定席となる天満天神繁昌亭が開場し、話題を集めている。

戦後は、落語に代わって漫才や新喜劇が大きな人気を得た。現在でも吉本興業や松竹芸能出身の多くの芸人が全国区で活躍している。

演劇

大阪には、扇町ミュージアムスクエア や近鉄小劇場をはじめ、小劇場が多く存在し、多数の個性的な劇団が生まれた。近年では、それらの閉館による劇場文化の衰退が問題視されているが、精華小劇場等の新たな舞台も生まれている。また、近年誕生した梅田芸術劇場や大阪四季劇場などの大規模な劇場では、宝塚歌劇団や劇団四季などの有名劇団の公演が行われている。

音楽

大阪市内またはその周辺には複数の楽団が本拠を置き、市内にはザ・シンフォニーホールをはじめとする有名な音楽ホールが存在する。近年では、市民へのクラシック音楽の浸透を目指した動きが活発であり、「大阪クラシック」(大阪フィルハーモニー交響楽団)などのイベントが成功を収めている。

・大阪フィルハーモニー交響楽団
・関西フィルハーモニー管弦楽団
・大阪市音楽団
・いずみシンフォニエッタ大阪
・コレギウム・ムジクム・テレマン(日本テレマン協会)

文芸

近世では、井原西鶴が有名。 近代以降も、庶民の生活や大阪の街の風景を生き生きと描いた織田作之助や直木賞の由来となる直木三十五をはじめ、多数の作家を輩出している。戦後では、とくに司馬遼太郎が有名。また、大阪文学学校 からは、田辺聖子や玄月らが輩出された。

・雑誌『関西文学』(関西文学会)

美術

近世には、文人木村兼葭堂の周辺で大坂画壇と呼ばれる画家たちが活躍し、戦前まで引き継がれた。近代の洋画家としては、佐伯祐三が大阪出身者として有名であり、大阪市がコレクションを所蔵している。現代美術の分野では、前衛画家吉原治良らの具体美術協会が、中之島に本拠を置いていた。おもな美術館は、大阪市立美術館、国立国際美術館、大阪府立現代美術センターなどである。

活動支援施設

・大阪市立芸術創造館

顕彰事業

・大阪文化賞
・大阪文化祭賞
・咲くやこの花賞
・三好達治賞
・織田作之助賞

大阪文化関連雑誌太字

・大阪人(財団法人大阪市都市工学情報センター)
・大阪春秋(新風書房)
・上方芸能(『上方芸能』出版部)

●スポーツチーム

・オリックス・バファローズ(プロ野球)
・大阪ロマンズ(プロ野球マスターズリーグ)
・セレッソ大阪(Jリーグ)
・シュライカー大阪(Fリーグ)
・大阪エヴェッサ(bjリーグ)

●市を舞台とした作品

小説

・『清二郎 夢見る子』(宇野浩二)
・『夫婦善哉』(織田作之助)
・『木の都』(織田作之助)
・『日本三文オペラ』(開高健)
・『反橋』(川端康成)
・『その街の今は』(柴崎友香)
・『井原西鶴』(武田麟太郎)
・『私の大阪八景』(田辺聖子)
・『道頓堀の雨に別れて以来なり』(田辺聖子)
・『春琴抄』(谷崎潤一郎)
・『細雪』(谷崎潤一郎)
・『真空地帯』(野間宏)
・『めし』(林芙美子)
・『砂の器』(松本清張)
『道頓堀川』(宮本輝)
・『泥の河』(宮本輝)
・『白い巨塔』(山崎豊子)
・『花のれん』(山崎豊子)
・『ぼんち』(山崎豊子)
・『しぶちん』(山崎豊子)

文楽

・『曾根崎心中』(近松門左衛門)
・『心中天網島』(近松門左衛門)

映画

・『夫婦善哉』
・『大阪物語』(1957年)
・『道頓堀川』
・『野獣刑事』
・『どついたるねん』
・『ブラック・レイン』
・『大阪物語』(1999年)

漫画

・『どついたれ』(手塚治虫)
・『紙の砦』(手塚治虫)
・『じゃりン子チエ』(はるき悦巳、西成区)
・『大阪豆ゴハン』(サラ・イイネス)

唱歌

・『鉄道唱歌』(第一集東海道篇、作詞:大和田建樹・作曲:多梅稚、1900年5月)
・作詞者の大和田建樹は全66番の東海道篇において、三府の一つに数えられた大阪市には、京都市や近江八景程ではないが力を入れ、4番を割いて歌った。豊臣秀吉のことのみでなく、奈良時代以前の難波京や四天王寺についても記している。
56.送り迎(むこ)うる程もなく 茨木吹田うちすぎて はや大阪につきにけり 梅田は我をむかえたり
57.三府の一に位して 商業繁華の大阪市 豊太閤のきずきたる 城に師団はおかれたり
58.ここぞ昔の難波の津 ここぞ高津の宮のあと 安治川口に入る舟の 煙は日夜たえまなし
59.鳥も翔(かげ)らぬ大空に かすむ五重の塔の影 仏法最初の寺と聞く 四天王寺はあれかとよ
・『大阪市街電車唱歌』(作詞:大和田建樹・作曲:田村虎蔵、1908年7月)
・大阪市電を用いて、梅田から天保山までその市街を全21番で歌っている。

歌謡曲

・『大阪ラプソディ』(作詞:山上路夫・作曲:猪俣公章、1976年)
・『月の法善寺横町』(作詞:十二村哲・作曲:飯田景応、1960年)

●市に関連する有名人

★大阪市出身者

政財界

・赤松良子(元文部大臣)
・磯村隆文(第16代大阪市長)
・岩本栄之助(株式仲買人)
・佐治敬三(実業家、元サントリー会長)
・關淳一(第17代大阪市長)
・中馬弘毅(政治家、元国務大臣)
・鳥井信治郎(実業家、サントリー創業者)
・中内功(実業家、ダイエー創業者)
・福井俊彦(第29代日本銀行総裁)
・藤田田(実業家、日本マクドナルド創業者)

学術

・有馬朗人(物理学者・元文部大臣)
・安藤忠雄(建築家)
・磯部琇三(天文学者)
・井上達夫(法哲学者)
・江崎玲於奈(物理学者)
・大塩平八郎(陽明学者)
・岡潔(数学者)
・折口信夫(民俗学者)
・川北稔(歴史学者)
・木村兼葭堂(博物学者)
・小林俊行(数学者)
・谷沢永一(書誌学者・評論家)
・筒井嘉隆(動物学者)
・富永仲基(思想家)
・成田龍一(歴史学者)
・萩原雄祐(天文学者):南区(現中央区)
・間重富(天文学者)
・橋爪紳也(建築史・都市文化論)
・橋爪節也(美術史家)
・福井康雄(天文学者)
・藤枝晃(東洋学者)
・前田恵一(物理学者)
・松田卓也(宇宙物理学者)
・丸山眞男(政治学者)
・宮原秀夫(情報工学者・前大阪大学総長)
・安岡正篤(陽明学者)
・山根徳太郎(考古学者)
・脇田修(歴史学者・大阪歴史博物館館長)

文化・芸術

・秋田実(漫才作家)
・有栖川有栖(作家)
・安藤忠雄(建築家)
・池田理代子(漫画家)
・石川晃治(版画家)
・井原西鶴(作家)
・稲垣足穂(作家)
・岡田誠三(作家)
・織田作之助(作家)
・小野十三郎(詩人)
・小田実(作家)
・大栗裕(作曲家)
・開高健(作家)
・梶井基次郎(作家)
・川端康成(作家)
・河野多恵子(作家)
・金秀吉(映画監督)
・黒岩重吾(作家)
・玄月(作家)
・小出楢重(画家)
・小松左京(作家)
・五味康祐(小説家)
・佐伯祐三(画家)
・堺屋太一(作家)
・阪田寛夫(詩人・作家)
・サトウサンペイ(漫画家)
・柴崎友香(作家)
・朱川湊人(作家)
・庄野潤三(作家)
・司馬遼太郎(作家)
・須藤秀澤(写真家)
・高橋和巳(作家)
・高村薫(作家)
・武田麟太郎(作家)
・竹村健一(評論家)
・田中啓文(作家)
・田辺聖子(作家)
・筒井康隆(作家)
・直木三十五(作家)
・永田文夫(音楽評論家・訳詞家)
・中村滋延(作曲家)
・西本智実(指揮者)
・服部良一(作曲家・作詞家)
・東野圭吾(作家)
・富岡多恵子(作家)
・三田誠広(作家)
・三好達治(詩人)
・森村泰昌(美術作家)
・安井仲治(写真家)
・山崎豊子(作家)
・梁石日(作家)
・与謝蕪村(画家、俳人):都島区
・吉原治良(画家)
・和久峻三(推理作家)
・上田秋成(作家)

芸能・報道機関

・相川七瀬(歌手)
・赤井英和(元プロボクサー・俳優):西成区
・井津葉子(高知放送アナウンサー)
・逸見政孝(元フジテレビアナウンサー、タレント):阿倍野区
・井上俊次(キーボーディスト、レイジー、ランティス代表取締役社長):住吉区
・上田正樹(歌手・シンガーソングライター)
・大塚愛(歌手):住之江区
・岡田圭右(ますだおかだ)
・岡田唯(美勇伝):住之江区
・岡村隆史(ナインティナイン):東淀川区
・小野坂昌也(声優):住吉区
・影山ヒロノブ(歌手、JAM Project・レイジー):東住吉区
・柏原芳恵(歌手):西成区
・桂小米朝(落語家)
・桂ざこば(落語家):西成区
・桂春団治(落語家)
・桂文枝(落語家):北区
・桑名正博(ミュージシャン、俳優)
・剣太郎セガール(俳優)
・小谷真生子(フリーアナウンサー)
・笑福亭鶴光(落語家):東住吉区(現平野区)
・鎌田香奈(チューリップテレビアナウンサー)
・沢井孝子(女優)
・笑福亭鶴瓶(落語家):東住吉区(現平野区)
・笑福亭仁鶴(落語家)
・SHINGO☆西成:西成区
・高崎晃(ギタリスト、LOUDNESS・レイジー):東住吉区
・田中宏幸(ベーシスト、元LOUDNESS・レイジー):東住吉区
・谷村新司(元アリス):東住吉区
・鳴尾健(福井街角放送代表取締役、元福井放送アナウンサー)
・二井原実(歌手、LOUDNESS)
野田順子(声優)
・遥洋子(タレント、作家、フェミニスト)
・久本雅美(タレント):平野区
・藤田幸也(ボーカリスト)
・藤谷文子(女優)
・藤山寛美(喜劇俳優)
・堀内孝雄(元アリス):阿倍野区
・三倉茉奈・佳奈(女優):平野区
・宮迫博之(雨上がり決死隊):西淀川区
・森田祐理子(元山口放送アナウンサー)
・ヤナギブソン(ザ・プラン9)
・やしきたかじん(歌手):西成区
・山下昌良(ベーシスト、LOUDNESS):東住吉区
・八幡篤範(四国放送アナウンサー)
・横山裕(アイドル、関ジャニ∞)
・吉本大樹(歌手、doa)
・分林里佳(四国放送アナウンサー)
・蓮 -REN-(ベーシスト)
・和田アキ子(歌手、タレント):生野区

スポーツ

・岡田彰布(阪神タイガース監督):東区(現中央区)
・岡田武史(サッカー日本代表監督)
・亀田興毅(ボクシング選手):西成区
・中村紀洋(野球選手)
・野茂英雄(野球選手)
・矢野輝弘(野球選手)
・川辺泰三 - プロバスケットボール選手(bjリーグ・京都ハンナリーズ所属):中央区
・中村友也 - プロバスケットボール選手(bjリーグ・東京アパッチ所属):淀川区
・野々口航太 - プロバスケットボール選手(bjリーグ・高松ファイブアローズ所属):住之江区

●市にゆかりのある有名人

・大伴金村(大伴氏の政治家。継体天皇を擁立。晩年は住吉(住吉区)の館に住む。住吉区の帝塚山古墳は大伴金村とその子のものといわれる)
・坂上広野(平安時代の坂上田村麻呂の子。摂津国平野庄[現平野区])の領主。平野殿と呼ばれ平野郷の豪商末吉氏の祖となる。
・渡辺綱(平安時代の嵯峨源氏の武士。源頼光の四天王筆頭で渡辺党の棟梁。現中央区渡辺付近に住む)
・安倍晴明(平安時代の陰陽師。摂津国阿倍野(現阿倍野区)で誕生したという説が大和国出身説と共に最有力である。阿倍野区の誕生伝承地には現在、安倍晴明神社がある)
・良忍(融通念仏の祖。平野に融通念仏の総本山の大念仏寺を建立)
・時任三郎(俳優):大阪市、松原市在住時期あり。
・石井郁子(日本共産党副委員長・衆議院議員):元大阪教育大学助教授。大阪市平野区在住。
・水木しげる(漫画家):住吉区生まれ。鳥取県境港市出身。代表作ゲゲゲの鬼太郎
・福澤諭吉(教育者):北区生まれ。大分県中津市出身。慶應義塾創立者

脚注
[ヘルプ]
1.平成17年度県民経済計算について(内閣府)
2. PWC 世界の主要都市の経済についてのレポート
3.マスターカードワールドワイドによるレポート 2008年6月
4. 月ごとの平年値 気象庁
5.NHKオンライン 2009年4月19日 [1] 大阪市によれば、今年2月時点で市内の生活保護対象者は12万1193人で、前年同月比5.6%増。人口比4.57%
6.大阪市役所ホームページ 大阪市財政の現状 H20年度予算
7. 朝日新聞 夕刊 2009年2月19日 大阪市内版:人口比4.47%、12万人速報値、2443億円(21年度予算)
8. 2008年から大阪市北区に修士課程教授拠点を開設予定[2]

●関連項目

・大阪市の建築物・観光名所
・関西
・近畿
・大阪
・大阪府
・大阪市長
・大阪市役所
・大阪市電
・中嶋の戦い
・市営モンロー主義
・大阪市の公営渡船
・大阪府出身の人物一覧
・大阪市問題
・カラ残業
・全国市町村一覧
・御堂筋パレード

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天まで通じて、高いってスゴイですね・・・パート3

続いては、姉妹都市・友好都市 などから順に書いていきます。

●姉妹都市・友好都市 など

姉妹都市

・サンフランシスコ(アメリカ合衆国カリフォルニア州)
・サンパウロ市(ブラジル連邦共和国)
・メルボルン(オーストラリア連邦)
・ サンクトペテルブルク(ロシア連邦)
・ミラノ(イタリア共和国)
・飯山市(長野県)- スポーツ交流スキー姉妹都市提携

友好都市

・シカゴ(アメリカ合衆国イリノイ州)(パートナーシティ)
・ハンブルク(ドイツ連邦共和国)
・上海(中華人民共和国)

友好協力都市

・ブエノスアイレス(アルゼンチン共和国)
・ブダペスト(ハンガリー共和国)

ビジネスパートナー都市(BPC) 太字

・香港
・シンガポール
・バンコク
・クアラルンプール
・マニラ
・ジャカルタ
・ソウル
・上海
・ホーチミン
・ムンバイ
・メルボルン
・天津

姉妹港

・サンフランシスコ(アメリカ合衆国)
・メルボルン(オーストラリア連邦)
・ル・アーヴル(フランス共和国)
・バルパライソ(チリ共和国)
・釜山(大韓民国)
・サイゴン(ベトナム社会主義共和国)

友好港

・上海(中華人民共和国)

●国家機関

★領事館

総領事館

・在大阪・神戸アメリカ合衆国総領事館
・在大阪カナダ総領事館
・在大阪イタリア総領事館
・在大阪英国総領事館
・在大阪・神戸オランダ総領事館
・在大阪スイス総領事館
・在大阪・神戸ドイツ連邦共和国総領事館
・在大阪・神戸フランス総領事館
・在大阪オーストラリア総領事館
・在大阪インド総領事館
・在大阪インドネシア共和国総領事館
・在大阪シンガポール共和国総領事館
・在大阪タイ王国総領事館
・在大阪大韓民国総領事館
・在大阪中華人民共和国総領事館
・在大阪・神戸フィリピン共和国総領事館
・在大阪ベトナム社会主義共和国総領事館

名誉総領事館

・在大阪オーストリア共和国名誉総領事館
・在大阪セルビア共和国名誉総領事館
・在大阪フィンランド共和国名誉総領事館
・在大阪ポーランド名誉総領事館
・在大阪ポルトガル名誉領事館
・在大阪ネパール名誉総領事館
・在大阪パキスタン・イスラム共和国名誉領事館
・在大阪ニュージーランド名誉総領事館
・在大阪ボリビア共和国名誉総領事館

名誉領事館

・在大阪ウズベキスタン共和国名誉領事館
・在大阪スペイン名誉領事館
・在大阪デンマーク王国名誉領事館
・在大阪ベルギー王国名誉領事館
・在大阪ルーマニア名誉領事館
・在大阪ルクセンブルク大公国名誉領事館
・在大阪カンボジア王国名誉領事館
・在大阪モンゴル名誉領事館
・在大阪チリ共和国名誉領事館
・在大阪パナマ共和国名誉領事館
・在大阪メキシコ合衆国名誉領事館
・在大阪イスラエル国名誉領事館
・在大阪ウガンダ共和国名誉領事館
・在大阪タンザニア連合共和国名誉領事館
・在大阪チャド共和国名誉領事館

★国連機関

・国際連合環境計画 国際環境技術センター(UNEP-IETC) 大阪事務所

●経済

大阪市内に本社を置く主な企業

・旭化成
・朝日新聞社
・朝日放送
・アサヒペン
・荒川化学工業
・伊藤忠商事
・石原産業
・イトーキ
・岩谷産業
・江崎グリコ
・エディオン
・大阪ガス
・大阪製鐵
・大阪放送
・大林組
・小野薬品工業

・カプコン
・関西金網
・関西テレビ
・関西電力
・関西ペイント
・キーエンス
・近畿日本鉄道
・近鉄百貨店
・近鉄不動産
・倉敷紡績
・京阪電気鉄道
・京阪神不動産
・江綿
・コニシ
・コクヨ
・小林製薬

・参天製薬
・サントリー
・塩野義製薬
・シャープ
・松竹芸能
・積水化学工業
・積水ハウス
・住友生命
・住友電気工業
・象印マホービン
・そごう

・ダイキン工業
・大同生命保険
・大日本住友製薬
・大日本除虫菊
・大日本塗料
・タカラスタンダード
・田辺製薬
・大丸
・大和ハウス
・高島屋
・武田薬品工業
・竹中工務店
・田辺製薬
・タビオ
・椿本チエイン
・帝人
・デジタル
・テレビ大阪
・東洋炭素
・東洋紡績

・ナカバヤシ
・長瀬産業
・中山製鋼所
・南海電気鉄道
・西日本高速道路
・西日本電信電話
・西日本旅客鉄道
・日清食品
・日東電工
・ニプロ
・日本圧着端子製造
・日本生命
・日本駐車場開発
・日本ハム
・日本ペイント

・ハウス食品
・ハリマ化成
・阪急阪神ホールディングス
・日立造船
・非破壊検査
・フジキン
・ぼんち

・毎日放送
・三菱ウェルファーマ
・森下仁丹

・ヤンマー
・ユニチカ
・吉本興業
・淀川製鋼所
・讀賣テレビ放送

・りそなホールディングス
・レンゴー
・ロート製薬
・ロックペイント

●地域

1980年 2,648,180人 
1985年 2,636,249人 
1990年 2,623,801人 
1995年 2,602,421人 
2000年 2,598,774人 
2005年 2,628,811人

●行政区

・都島区 (27102) - 1943.04.01 北区と旭区より分区
・福島区 (27103) - 1943.04.01 北区と此花区と西淀川区より分区
・此花区 (27104) - 1925.04.01 北区と西区より分区
・西区 (27106) - 1889.04.01 北区・東区・南区とともに市制施行
・港区 (27107) - 1925.04.01 北区と西区より分区
・大正区 (27108) - 1932.04.01 港区より分区
・天王寺区 (27109) - 1925.04.01 東区と南区より分区
・浪速区 (27111) - 1925.04.01 南区より分区
・西淀川区 (27113) - 1925.04.01 設置
・東淀川区 (27114) - 1925.04.01 設置
・東成区 (27115) - 1925.04.01 設置
・生野区 (27116) - 1943.04.01 東成区と住吉区より分区
・旭区 (27117) - 1932.04.01 東成区より分区
・城東区 (27118) - 1943.04.01 旭区と東成区と東区より分区
・阿倍野区 (27119) - 1943.04.01 住吉区と東成区より分区
・住吉区 (27120) - 1925.04.01 設置
・東住吉区 (27121) - 1943.04.01 住吉区と東成区より分区
・西成区 (27122) - 1925.04.01 設置
・淀川区 (27123) - 1974.07.22 東淀川区より分区
・鶴見区 (27124) - 1974.07.22 城東区より分区
・住之江区 (27125) - 1974.07.22 住吉区より分区
・平野区 (27126) - 1974.07.22 東住吉区より分区
・北区 (27127) - 1989.02.13 大淀区が北区に合区
・中央区 (27128) - 1989.02.13 東区と南区が合区

(カッコは全国地方公共団体コード)

★主な繁華街・ターミナル

・キタ - 大阪駅・梅田駅近辺。桜橋周辺の歓楽街を北新地と称する(梅田、北新地駅も参照)。
・大阪駅、梅田駅、東梅田駅、西梅田駅(大丸、阪急百貨店、阪神百貨店、ヨドバシカメラ、阪急三番街、HEPファイブ、HEPナビオ、イーマ、オオサカガーデンシティ、ハービスOSAKA、ホワイティうめだ、ディアモール大阪、ドージマ地下センター)
・ミナミ - 道頓堀を挟んで、心斎橋筋・戎橋筋から難波駅までの一帯。
・難波駅、大阪難波駅(高島屋、なんばパークス、なんばウォーク、なんなんタウン、なんばCITY、ビックカメラ、ヤマダ電機Labi1、なんばマルイ)
・心斎橋駅(大丸、そごう、OPA、東急ハンズ、心斎橋筋商店街、クリスタ長堀)
・淀屋橋駅
・天王寺駅、あべの橋駅(近鉄百貨店、天王寺MIO、ステーションプラザ天王寺、HOOP、あべのルシアス、あべのアポロ)
・京橋駅(ダイエー、京阪モール)
・大阪上本町駅(近鉄百貨店、うえほんまちハイハイタウン)
・阪神電鉄野田駅、野田阪神駅、海老江駅(ジャスコ、ヤマダ電機)
・天満橋駅(京阪シティモール)
・新大阪駅
・天神橋筋六丁目駅(天神橋筋商店街)

●教育

大学・短期大学
かつては大阪市内にも大学は数多くあったが、市域が狭い上に、工場等制限法の影響も受け、大きなキャンパスのために郊外へ移転した大学が多く、他の大都市に比べて、市内に大学は少ない。最近になり大学の誘致・連携を推進する大阪市は、大阪府内45大学の連合組織大学コンソーシアム大阪、それに関西社会人大学院連合との間で連携協定を結び、2007年10月から大阪駅前第2ビル内に活動拠点「キャンパスポート大阪」を提供している。

国公立大学

・大阪教育大学(天王寺キャンパス)
・大阪市立大学

私立大学

・LCA大学院大学
・大阪経済大学
・大阪工業大学
・大阪女学院大学
・大阪成蹊大学
・大阪総合保育大学
・関西大学(天六キャンパス)
・関西学院大学(大阪梅田キャンパス)
・相愛大学
・宝塚造形芸術大学(大阪梅田キャンパス)
・東京リーガルマインド大学(大阪キャンパス)
・常盤会学園大学
・名古屋商科大学(大阪梅田キャンパス)
・森ノ宮医療大学
・放送大学(大阪学習センター)

短期大学

・大阪キリスト教短期大学
・大阪芸術大学短期大学部
・大阪工業大学短期大学部
・大阪城南女子短期大学
・大阪女学院短期大学
・大阪女子学園短期大学
・大阪信愛女学院短期大学
・大阪成蹊女子短期大学
・相愛女子短期大学
・常盤会短期大学

★大学サテライトキャンパス

23の大学が、社会人への講義のために、便利な大阪都心にサテライトキャンパスを設置している。

・キャンパス・イノベーションセンター大阪
・大阪大学
・兵庫教育大学
・上越教育大学
・鳴門教育大学
・岡山大学
・奈良女子大学
・徳島大学
・広島大学
・大阪商業大学
・桃山学院大学
・帝塚山大学
・高知工科大学
・大阪市立大学(梅田)
・大阪府立大学(難波)
・神戸大学(中之島)
・関西大学(中之島)
・大阪産業大学(梅田)
・大阪経済大学(北浜)
・大阪工業大学(梅田)
・阪南大学(淀屋橋)
・同志社大学(梅田)
・立命館大学(北浜)
・慶應義塾大学(中之島) 

★海外大学の拠点

・同済大学(淀屋橋)
・カーネギーメロン大学エンターテイメントテクノロジーセンター
・復旦大学 

★専修学校

大阪市立3校、私立163校(うち休校7校)の専修学校がある。Category:大阪府の専修学校も参照。

小学校・中学校・高等学校

大阪市の小学校・中学校・高等学校の数は、以下の表の通り(2006年度学校基本調査による)。

設置者    小学校         中学校         高等学校
大阪市立  297校(4分校) 127校(1分校) 22校
国立          2校                2校                1校(2校舎)
大阪府立 - -                                         39校
私立          7校               21校(うち休校1校) 37校

※このほか、大阪市外に設置している大阪市立学校として、小学校2校・中学校2校・高校1校がある。
学校名のリストおよび各学校の記事については、各区記事および大阪府小学校一覧・大阪府中学校一覧・大阪府高等学校一覧を参照。

・大阪市立小学校では第二次世界大戦終戦直後に戦災を理由に大幅な統廃合がおこなわれた。その後人口の増加に伴い、統合された学校の分離再開校や学校の新設がおこなわれた。しかし1980年代以降は北区・中央区などの都心部を中心に、児童数減少に伴う小学校の統廃合がおこなわれている。
・大阪市立中学校では2007年度末をもって学校給食が全廃された。給食を実施していた学校はいずれも校区に同和地区がある学校・もしくはその周辺の学校で、廃止は同和行政の見直しや財政難に伴う措置である。なお給食実施時でも、実施していた学校が127校中12校のみ(2007年度)と、実施率は全国平均と比較して低い水準にあった。
・大阪市立の高等学校では、現在の23校を18校程度に統合する計画が進んでいる。いずれも既存校の統廃合を前提に、2008年度には大阪市立の中高一貫校(大阪市立咲くやこの花中学校・高等学校)が設置されたほか、大学との連携で7年教育をおこなう新商業高等学校の設置、および工業高等学校の改編による「総合技術高校」設置の構想もある。

★特別支援学校

国立1校、大阪府立4校・1分校、大阪市立9校の、合計14校・1分校の特別支援学校がある。

・大阪教育大学附属特別支援学校
・大阪府立堺支援学校大手前分校
・大阪府立中津支援学校
・大阪府立視覚支援学校
・大阪府立生野聴覚支援学校
・大阪市立生野特別支援学校
・大阪市立思斉特別支援学校
・大阪市立光陽特別支援学校
・大阪市立平野特別支援学校
・大阪市立難波特別支援学校
・大阪市立西淀川特別支援学校
・大阪市立住之江特別支援学校
・大阪市立視覚特別支援学校
・大阪市立聴覚特別支援学校
※このほか貝塚市に大阪市立貝塚養護学校があったが、2009年3月31日に閉校となった。

★図書館

・大阪市立図書館 - 各区に1カ所
・大阪府立中之島図書館 - 大阪の歴史関連・ビジネス関連の資料。

●メディア

新聞・通信社 太字

・朝日新聞社大阪本社
・産経新聞大阪本社
・ザ・プレス大阪(大阪日日新聞)
・日本経済新聞社大阪本社
・毎日新聞大阪本社
・読売新聞大阪本社
・日本工業新聞社(フジサンケイビジネスアイ)
・スポーツニッポン新聞社大阪本社
・大阪日刊スポーツ新聞社
・報知新聞社大阪本社
・共同通信社大阪支社
・時事通信社大阪支社
・ロイター通信社大阪支局
・ブルームバーグ大阪支局

放送

※Aはアナログテレビ放送、Dは地上デジタルテレビジョン放送、Rはラジオ放送のことをさす。
全局とも本社は大阪市内にある。

・NHK大阪放送局
・NHK総合(A2ch・D24ch)
・NHK教育(A12ch・D13ch)
・ラジオ放送(666KHz・828KHz・88.1MHz)
・毎日放送(A4ch・D16ch/R1179KHz)
・朝日放送(A6ch・D15ch/R1008KHz)
・関西テレビ(A8ch・D17ch)
・読売テレビ(A10ch・D14ch)
・テレビ大阪(A19ch・D18ch)
・ラジオ大阪(1314KHz)
・FM大阪(85.10MHz)
・FM802(80.20MHz)
・FM COCOLO(76.50MHz)
・エフエムちゅうおう(78.10MHz)
・FMキタ(78.90MHz)

出版

・イグザミナ(総合雑誌『イグザミナ』発行)
・和泉書院
・解放出版社
・京阪神エルマガジン社
・清文堂出版
・創元社
・東方出版

●電話番号

市外局番

原則として06が使用されるが、東住吉区と平野区の一部(大和川以南に食い込んでいる部分)は主として河内・阪南地域で使われる072の市外局番が使われる。

市内局番

急激な電話加入者の増加で、従来の3桁の局番では対応しきれなくなったことを考慮し、日本では東京都都心23特別区(市外局番03地域)に次いで2番目の市内局番4桁化を、1999年1月1日午前2時より行った(携帯電話・PHS番号の11桁化と同時)。その際、CMでは桂三枝が「あたまに『6』を付けまして」という周知キャンペーンを行なった。

●交通機関

★鉄道

・西日本旅客鉄道(JR西日本):
・大阪環状線 - 大阪駅(北区)~天王寺駅(天王寺区)~大阪駅
・桜島線(JRゆめ咲線) - 西九条駅~ユニバーサルシティ駅~桜島駅(此花区)
・東海道本線(JR京都線) - 大阪駅から京都市の京都駅を経由して滋賀県長浜市の長浜駅方面や湖西線経由で北陸方面を結ぶ。
・東海道本線(JR神戸線) - 大阪駅から兵庫県神戸市の三ノ宮駅を経由して姫路市の姫路駅方面を結ぶ。
・福知山線(JR宝塚線) - 大阪駅から兵庫県宝塚市の宝塚駅、三田市の三田駅を経由して京都府福知山市の福知山駅を結ぶ。(大阪~尼崎間は東海道本線直通)
・JR東西線 - 尼崎駅(兵庫県尼崎市)~北新地駅(北区)~京橋駅(都島区)
・片町線(学研都市線) - 京橋駅~木津駅(京都府木津川市)
・おおさか東線 - 放出駅(鶴見区)~(東大阪市を経由)~新加美駅(平野区)~久宝寺駅(八尾市)
・関西本線(大和路線) - 浪速区のJR難波駅から天王寺駅、平野駅(平野区)を経由して奈良方面を結ぶ。
・阪和線 - 天王寺駅から堺市駅を経由して関西国際空港・和歌山県方面を結ぶ。

※注 路線名の()内は愛称。

・大阪市交通局:

・御堂筋線 - 江坂駅(吹田市)~中百舌鳥駅(堺市)※北大阪急行電鉄と直通運転。
・谷町線 - 大日駅(守口市)~八尾南駅(八尾市)
・四つ橋線 - 西梅田駅(北区)~住之江公園駅(住之江区)
・中央線 - コスモスクエア駅(住之江区)~長田駅(東大阪市)※近鉄けいはんな線と直通運転。
・千日前線 - 野田阪神駅(福島区)~南巽駅(生野区)
・堺筋線 - 天神橋筋六丁目駅(北区)~天下茶屋駅(西成区)※阪急京都線、千里線と直通運転。
・長堀鶴見緑地線 - 大正駅(大正区)~門真南駅(門真市)
・南港ポートタウン線 - コスモスクエア駅~住之江公園駅(住之江区)
・今里筋線 - 井高野駅(東淀川区)~今里駅(東成区)

・阪急電鉄:

・神戸線 - 梅田駅(北区)~三宮駅(神戸市)
・宝塚線 - 梅田駅~宝塚駅(宝塚市)
・京都線 - 梅田駅~河原町駅(京都市)※大阪市営地下鉄堺筋線と直通運転。
・千里線 - 天神橋筋六丁目駅~北千里駅(吹田市)※大阪市営地下鉄堺筋線と直通運転。

阪神電気鉄道:

・阪神本線 - 梅田駅~元町駅(神戸市)
・阪神なんば線 - 大阪難波駅~尼崎駅

・京阪電気鉄道:

・京阪本線 - 淀屋橋駅(中央区)~三条駅(京都市)※京阪鴨東線出町柳駅まで直通運転。
・中之島線 - 中之島駅(北区)~天満橋駅(中央区)※京阪本線京都方面に直通運転

近畿日本鉄道:

・奈良線 - 大阪難波駅(中央区)~近鉄奈良駅(奈良市)
・大阪線 - 天王寺区の大阪上本町駅(一部の特急は大阪難波駅)から柏原市の河内国分駅、奈良県橿原市の大和八木駅を経由して三重県の伊勢・志摩方面、伊勢中川駅から名古屋線に入り津駅、四日市駅を経て名古屋方面を結ぶ。
・南大阪線 - 阿倍野区の大阪阿部野橋駅から羽曳野市古市駅を経て、飛鳥・吉野方面を結ぶ。

・南海電気鉄道:

・南海本線 - 難波駅(中央区・浪速区)から関西国際空港・和歌山市駅方面を結ぶ。
・高野線 - 難波駅~極楽橋駅 高野山方面
・汐見橋線 - 汐見橋駅(浪速区)~岸里玉出駅(西成区)

・阪堺電気軌道:

・阪堺線 - 恵美須町駅(浪速区)~浜寺駅前駅(堺市)
・上町線 - 天王寺駅前駅(阿倍野区)~住吉公園駅(住吉区)

広域な連絡

・東海道新幹線
・山陽新幹線

主要駅

・大阪駅・梅田駅・東梅田駅・西梅田駅・北新地駅
・新大阪駅
・大阪上本町駅
・難波駅・大阪難波駅
・天王寺駅・大阪阿部野橋駅
・淀屋橋駅
・京橋駅
・鶴橋駅
・本町駅
・心斎橋駅
・天満橋駅

★バス

・大阪市営バス
・阪急バス
・阪神バス
・京阪バス(市内東端部及び北東部のみ)
・近鉄バス
・日本城タクシー

また、広範な連絡として、大阪駅と名古屋駅を結ぶ名神ハイウェイバスや、首都圏などと大阪市内(梅田、難波地区など)を含む京阪神地区を結ぶ高速路線バス、ツアー形式の貸切バス(ツアーバス)が多数運行されている。

高速路線バスについては、市内では以下のような地点に発着する。

・キタ地区

・JR大阪駅(JRバス系)
・東梅田駅(近鉄バス系)
・阪急三番街(阪急バス系)
・ハービスOSAKA(阪神バス系)
・ユニバーサル・スタジオ・ジャパン

・ ミナミ地区

・天王寺駅(阿部野橋)(近鉄バス系)
・なんば高速バスターミナル(南海バス系)
・大阪シティエアターミナル(JR・近鉄・南海バス系)

道路

市内の幹線道路は、南北に走る路線を「筋(すじ)」、東西に走る路線を「通(とおり)」の愛称が付いている。大阪市内の筋・通一覧を参照。

・代表的な「筋」

・なにわ筋 - 大阪府道41号
・四つ橋筋 - 大阪市道南北線
・御堂筋 - 国道25号、国道176号
・堺筋 - 大阪府道102号
・谷町筋 - 大阪府道30号

・代表的な「通」

・曽根崎通 - 国道1号、国道2号
・土佐堀通 - 大阪府道168号
・中央大通 - 大阪市道築港深江線
・長堀通 - 国道308号、大阪府道173号
・千日前通 - 大阪府道702号、国道308号

高速道路・有料道路太字

・阪神高速道路
・菅原城北大橋
・大阪港咲洲トンネル
・なみはや大橋
・近畿自動車道

一般国道

・国道1号
・国道2号
・国道25号
・国道26号
・国道43号
・国道163号
・国道165号(大阪市内は国道25号と重複)
・国道172号
・国道176号
・国道308号
・国道309号
・国道423号(新御堂筋)
・国道479号(大阪内環状線)

都道府県道

主要地方道

・大阪府道2号大阪中央環状線
・大阪府道5号大阪港八尾線
・大阪府道8号大阪生駒線
・大阪府道10号大阪池田線
・大阪府道14号大阪高槻京都線
・大阪府道15号八尾茨木線
・大阪府道16号大阪高槻線
・ 大阪府道24号大阪東大阪線
・大阪府道26号大阪狭山線
・大阪府道28号大阪高石線
・大阪府道29号大阪臨海線
・大阪府道30号大阪和泉泉南線
・大阪府道41号大阪伊丹線

一般府道

・大阪府道101号大和田千舟線
・大阪府道102号恵美須南森町線
・大阪府道159号平野守口線
・大阪府道161号深野南寺方大阪線
・大阪府道168号石切大阪線
・大阪府道173号大阪八尾線
・大阪府道186号大阪羽曳野線
・大阪府道702号大阪枚岡奈良線

主要地方道に指定されている大阪市道太字

・大阪市道赤川天王寺線
・大阪市道大阪環状線
・大阪市道上新庄生野線
・大阪市道九条梅田線
・大阪市道四天王寺巽線
・大阪市道築港深江線
・大阪市道天神橋天王寺線
・大阪市道中津太子線
・大阪市道浪速鶴町線
・大阪市道難波境川線
・大阪市道南北線
・大阪市道浜口南港線
・大阪市道福島桜島線
・大阪市道福町浜町線

★船舶

・大阪港 - 主に、外航クルーズ客船・帆船等が入港する築港(天保山岸壁)、コンテナ船の北港、フェリーの南港の3つがある。スーパー中枢港湾指定。
・渡船 - 市建設局及び港湾局が、市南西部で8箇所の渡船を無償で運航している。大阪市の公営渡船を参照。

★航空

神戸市や福岡市と異なり、市内には空港は存在しないが、近隣には関西三空港が存在する。三空港のうち、最寄は北摂にある国内線の基幹空港の大阪国際空港(伊丹空港)。泉州沖には、国際線の発着する関西国際空港がある。神戸沖には神戸空港があり、国内線の一部幹線が就航している。

市内局番では新規加入のものは4・ないしは7で始まる4桁、既存分は6で始まる4桁が割り当てられているが、今後増える可能性がある。

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天まで通じて、高いってスゴイですね・・・パート2

通天閣(つうてんかく)は、大阪府大阪市浪速区にある新世界界隈の中心部に建つ展望塔である。国の登録有形文化財。大阪のシンボルの一つとして親しまれています。
続いては、この通天閣があります、「大阪市」と「浪速区」そして、「新世界」と順について書きたいと思います。

まずは、「大阪市」についてです。

●大阪市について

大阪市(おおさかし)は、日本の関西地方、大阪府のほぼ中央に位置する市で、同府の府庁所在地である。政令指定都市に指定されている。

大阪市
おおさかし 国  日本
地方 近畿地方
都道府県 大阪府
団体コード 27100-4
面積 222.30km²
※境界未定部分あり
総人口 2,659,015人
(推計人口、2009年5月1日)
人口密度 11,960人/km²
隣接自治体 北
豊中市、吹田市、摂津市
兵庫県尼崎市

門真市、大東市、東大阪市
守口市、八尾市

堺市、松原市
市の木 サクラ
市の花 パンジー

●概要

大阪市は、近畿地方および西日本の行政・産業・文化・交通の中心都市であり、市域を中心として、大阪都市圏および京阪神大都市圏が形成されている。大阪市の2005年(平成17年)の市内総生産は約22兆円で、政令指定都市中最大であり、2倍から3倍の人口を擁する埼玉県や北海道、兵庫県の県内総生産より多い。また、京阪神大都市圏の圏内総生産は、国内では首都圏に次ぎ、世界的にも上位にある。人口(夜間人口)は、東京都区部、神奈川県横浜市に次いで全国3位の約265万人(ただし、大阪市は面積が狭いため、人口密度だけを見ると横浜市を抜いて全国2位)、昼間人口は東京都区部に次いで全国2位の約358万人である。近年では都心回帰が顕著で、中心部三区を中心に増加傾向にある。

古代から瀬戸内海・大阪湾に面した当時の国際的な港である住吉津や難波津などのある外交に関連した港湾都市として栄え、古代の首都としての難波宮、難波京などの都城も造営された。中世には、浄土真宗の本山であった石山本願寺が置かれ、寺内町として発展した。近世初期には豊臣秀吉が大坂城を築城し、城下町が整備された。江戸時代には天領となり、江戸をしのぐ経済・交通・金融・商業の中心地として発展。天下の台所と称され、豊かな町人文化を育んだ。明治時代に入ると、繊維工業を中心とした工業都市となり、「東洋のマンチェスター」、「煙の都」と称された。

第二次世界大戦後には、重化学工業の比重が高まり、今日も阪神工業地帯の中核を担う。他方で、卸売業を中心に商業活動も活発で、道修町(薬種)、松屋町(玩具)、本町(繊維)など市内各所に問屋街が発達している。また中之島や北浜界隈には、金融街が形成されている。市役所の所在する中之島から大坂城にかけての地域には、官公庁や公的機関が数多く立地し、近畿圏はもとより西日本の行政の中心地となっている。 マスターカード社が発表する世界のビジネス都市環境のランキングで19位にランクされるなど、世界的にも経済活動が盛んな都市と評価されている。

●地理

大阪市は、淀川の河口に開けた古くからの港湾都市で、瀬戸内海と京を繋ぐ水運の要を担い、西日本の物流の中心として栄えてきた。

また、近畿圏最大の都市として、近隣の政令指定都市である神戸(兵庫県神戸市)・京都(京都府京都市)とあわせて三都、京阪神と称する。市域の西部は大阪湾に面し、沿岸北西部にかけて阪神工業地帯が広がる。市内経済総生産は約22兆円に達し、近畿経済圏の中心地である。

●気候

大阪府を含め市内全域が瀬戸内海式気候に属し、年間を通して温暖で過ごしやすい。近年は都市化によるヒートアイランドの影響で、郊外に比べ夜間の気温が低下しにくく、冬日の減少・熱帯夜の増加が顕著である。また、降雪日数は同緯度地帯では平均的に発生するが、1センチ以上の積雪日数は本土で最も少ない。

●歴史

・縄文海進により大阪湾が発生、南部から突き出た上町台地を砂嘴とする半島ができ、東部は河内湾となる。弥生時代になると半島は砂州となり河内湾は淡水化、やがて河内湖となる。河内湖周辺は自然環境に恵まれており、農耕の発展により大規模集落が出現し、海運や大陸との交易の拠点となる。

古代 太字
 大阪湾の奥、淀川・大和川の河口に突き出た上町台地が大阪の町の原点である。5世紀には難波高津宮、7世紀には難波長柄豊崎宮と、政治の中心(の1つ)が置かれた。また、後には難波京が置かれるなど、奈良盆地の政治勢力の瀬戸内海における外港として、古代では度々政治的な拠点となった。

・211年 - 神功皇后・田裳見宿禰により住吉大神鎮祭(住吉大社の起源)。
・313年 - 仁徳天皇、難波の高津宮に都を定める。
住吉津(墨江の津)が定められる(場所は、住吉大社の南に流れる細江川の地域)。
・593年 - 日本仏教の最古の官寺として、聖徳太子により四天王寺が創建される。
・645年 - 大化の改新により大阪市域の難波長柄豊埼宮(難波宮)が日本初の本格的な首都となる。
・794年 - 首都機能が平安京に統合され副都として存続した難波京が最終的に廃止される。
・949年 - 村上天皇の勅により大阪天満宮が創建される。

中世 太字
 中世には京都に政治の拠点が移動したため、その瀬戸内海の外港の地位も大輪田泊や神崎などに移ったが、その間も四天王寺や住吉大社周辺は宗教的な要地として、また渡辺津は熊野や住吉巡礼の拠点・淀川河口の拠点としてある程度栄えていた。その後蓮如により上町台地突端に石山本願寺が開かれ、全国の浄土真宗の総本山となった。その寺内町では商工が発展した。

・1496年 - 蓮如が大坂に石山道場(のちの石山本願寺)を建立、広大な寺内町で商工業が発展する。

近世 太字
 織田信長によって破壊された石山本願寺の跡地には、豊臣秀吉が大坂城を築いて政治の中心となり、同時に大規模な城普請で人と物資が集まって経済の中心地となった。しかし、1615年の大坂夏の陣で大坂城は落城し、豊臣氏も滅ぼされた。1619年、大坂城下は江戸幕府の天領となり復興、幕府の派遣した大坂町奉行が支配するところとなる。江戸はまだ出来たばかりで商品生産力がない上、参勤交代で大名・家来などによって大消費地となったため、当時の工業都市である京などから大坂を経由して菱垣廻船・樽廻船で江戸へ物資が運ばれた。さらに各藩の蔵屋敷が集積し、北前船も入港して、大坂は「天下の台所」として経済・商業の中心的役割を担った。付随して、裕福になった町人により、文楽を始めとした様々な文化が生み出された。また河川・運河とそれに架かる橋の多さから、江戸の「八百八町」や京都の「八百八寺」に対して「八百八橋」と称された。

・1570年 - 石山合戦(~1580年)、織田信長により石山本願寺が壊滅する。
・1583年 - 豊臣秀吉が石山本願寺の跡に大坂城を築く。
・1612年 - 道頓堀が完成。
・1615年 - 大坂夏の陣で大坂城下は焦土となる。
・1619年 - 大坂城下は天領となり復興、大坂町奉行所が管轄。以降日本の物流の中心地として繁栄し、「天下の台所」と呼ばれる。
・1684年 - 道頓堀に竹本座開館。元禄文化の担い手である竹本義太夫、近松門左衛門らによる人形浄瑠璃が人気を得る。
・1730年 - 堂島に世界初の近代的な商品先物取引所たる堂島米会所が開かれる。
・1837年 - 大塩平八郎の乱。
・1838年 - 緒方洪庵が船場に適塾を開設。

近代(明治~第二次大戦) 太字
 明治時代から昭和時代初期は、政府が造幣局や砲兵工廠を置き、金属工業や繊維産業を中心に商社・卸売・新聞など様々な商工業が発展し「東洋一の商工地」と称され、多くの企業が勃興した。メセナが活発に行われた「阪神間モダニズム」と呼ばれた時代には、六大都市の1つとして日本の中心の1つとなった。特に関東大震災後には、東京からの移住者も加わって大阪市は日本最大の都市となり、世界でも第6位となった。そのため、「大大阪」と称されたこともあった。しかし、昭和10年代より政府が戦時統制をしき、文化・芸術・教育・産業その他あらゆる分野の中枢を東京に集めたことで、相対的地位は低下していった。

・1868年 - 明治新政府が大阪府を置き大坂市街地を管轄させる。川口に外国人居留地設置(川口居留地)。
・1873年 - 岩崎弥太郎が三菱商会(後の三菱財閥)を西区堀江に設立。
・1879年 - 大坂市街地を北区、西区、東区、南区に分割し郡区町村編制法施行。
・1889年 - 大阪府下4区を大阪市とし市制施行、特例により大阪府知事が市長を兼任する。
・1898年 - 特例が廃止され、大阪市庁が府庁から独立する。
・1903年 - 第五回内国勧業博覧会開催、シンボルタワーである通天閣(初代)竣工。日本初の市営電車(大阪市電)が部分開業。
・1913年 - 中央公会堂が竣工。
・1921年 - 住友合資会社(住友財閥)が設立される。
・1929年 - 世界初のターミナル百貨店、阪急百貨店が梅田駅に開業。
・1931年 - 大坂城天守閣再建。
・1933年 - 大阪市営地下鉄が部分開業(梅田-心斎橋間、日本初の公営地下鉄)。
・1945年 - 大阪大空襲。

現代(第二次大戦後) 太字

・1953年 - 大阪市営トロリーバスが開業。
・1956年 - 政令指定都市に移行。
・1961年 - 難波宮の存在確認(山根徳太郎らの発掘調査による)。
・1969年 - 大阪万博が吹田市で開催される事に伴い、都市計画により地下鉄延伸を代わりとして市電が全廃。
・1970年 - トロリーバス廃止。
・1982年 - 日本初のクラシックコンサート専用ホールザ・シンフォニーホールが杮落し。
・1983年 - 大阪世界帆船まつり開催。日本初の国際級室内陸上競技会開催可能なアリーナ大阪城ホール開業。
・1984年 - 国内4番目の国立劇場として国立文楽劇場開館。
・1986年 - 大阪ビジネスパークにTWIN21竣工。
・1989年 - 東区と南区が合併し、中央区が発足。北区と大淀区が合併し、現在の北区となる。
・1990年 - 鶴見緑地で「国際花と緑の博覧会」開催。天保山ハーバービレッジに海遊館開業。
・1995年 - アジア太平洋経済協力会議 (APEC) 開催。
・2001年 - 大阪オリンピック招致に失敗。ユニバーサル・スタジオ・ジャパン全面開業。
・2002年 - FIFAワールドカップが開催され、大阪市も会場の一つとなる。
・2004年 - 国立国際美術館が吹田市から中之島に移転・開館。
・2007年 - 世界陸上大阪大会が開催される。
・2007年 - 第9回世界華商大会開催

●行政

※ 行政組織と庁舎については「大阪市役所」を参照。
※ 歴代市長については「大阪市長」を参照。
・市長 平松邦夫(ひらまつ くにお 第18代 当選1回)。
・副市長 森下暁(もりした あきら)
・副市長 柏木孝(かしわぎ たかし)
・元助役に大平光代(おおひら みつよ)がいた。

2004年から2006年にかけて、大々的にメディアで報じられた、市の不祥事や問題から改革にいたるまでのことについては、大阪市問題を参照。

市章 太字

・澪標(みおつくし)が市章として、明治27年4月に制定された。
・大阪市交通局・大阪市消防局の章にも澪標が取り入れられている。
・大阪市章を元に、高槻市市章・阪急電鉄社章・京阪電気鉄道社章にも澪標が用いられている。

市歌 太字

・大正10年4月に制定。
・旧市庁舎建設時に公募。全国から2,398編もの応募があった。森鷗外・幸田露伴など5人の審査で、香川県三豊中学校長・堀沢周安の歌詞が入選。賞金は500円。
・作曲は東京音楽学校助教授の中田章。
「大阪市歌」太字(作詞:堀沢周安 作曲:中田章)

1.高津の宮の昔より
 よよの栄を重ねきて
民のかまどにたつ煙
 にぎわいまさる 大阪市
 にぎわいまさる 大阪市
2.なにわの春の朝ぼらけ
 生気ちまたにみなぎりて
物みな動くなりわいの
 力ぞ強き 大阪市
 力ぞ強き 大阪市
3.東洋一の商工地
 咲くやこの花さきがけて
よもに香りを送るべき
 務ぞ重き 大阪市
 務ぞ重き 大阪市

財政・事業太字

生活保護者数の人口比が最も高い大阪市では、人口の約4.57%(12万1193人。2009年2月現在)[5]が生活保護を受給しており、市財政において市税収入6868億円に対し、生活保護費が2443億円である。

●議会

★概要

1889年(明治22年)の市制施行に伴って議事機関として「大阪市会」を設置した経緯から、地方自治法改正により市会を「市議会」と改称した後も「市会」と称している(横浜市、名古屋市、京都市、神戸市も同様)。

市会は大阪市役所の7階(市会図書館)、8階(議場)、地下1階(傍聴席)にある。

★役員

・議長(第103代) - 足高將司(自由民主党・市民クラブ大阪市会議員団)
・副議長(第107代) -

★定数・任期

・89人
・4年

★会派

会派名                    議員数      所属党派

自由民主党・市民クラブ大阪市会議員団 33         自由民主党
公明党大阪市会議員団           20         公明党
民主党・市民連合大阪市会議員団     19         民主党
日本共産党大阪市会議員団                  16         日本共産党
自民クラブ大阪市会議員団                      1         自民党系無所属

★選挙区・定数

北区 3 東淀川区 6
都島区 3 東成区 3
福島区 2 生野区 5
此花区 3 旭区 4
中央区 2 城東区 5
西区 2 鶴見区 3
港区 3 阿倍野区 4
大正区 3 住之江区 4
天王寺区 2 住吉区 6
浪速区 2 東住吉区 5
西淀川区 3 平野区 6
淀川区 5 西成区 5

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天まで通じて、高いってスゴイですね・・・パート1

皆さん、こんにちわ。更新です。今日は、7月の3日です。昨日で、一年の折り返しの日を過ぎたそうです。今日は、7月の3日。今日は、何の日かと申しますと、「通天閣開業記念日」だそうです。
それでは、今日は、この「通天閣開業記念日」についてお話したいと思います。

まずは、このお話の主旨である、「通天閣」についてお話をすすめていきたいと思います。

●通天閣について

通天閣(つうてんかく)は、大阪府大阪市浪速区にある新世界界隈の中心部に建つ展望塔である。国の登録有形文化財。大阪のシンボルの一つとして親しまれ、観光名所としても有名である。

通天閣
Tsūtenkaku

用途 展望台
設計者 内藤多仲
構造設計者 
施工 奥村組
建築主 通天閣観光
構造形式 鉄骨造 
階数 
高さ 100m 
竣工 1956年
開館開所 {{{開館開所}}}
改築 
所在地 〒556-0002
大阪府大阪市浪速区恵美須東一丁目18番6号
位置 北緯34度39分9.13秒
東経135度30分22.77秒

●設計・構造

・本体:鉄骨造(一部鉄骨鉄筋コンクリート造)
・塔高:地上100m
・幅:24m
・脚間:24m
・展望台:鉄骨鉄筋コンクート造(周囲ガラス張り2階建て)
・高さ:1階床まで84m、2階床まで87.5m
・補助棟:鉄骨鉄筋コンクリート造
・性能:関東大震災級の地震、風速70メートルの強風に耐えられる

●概要

現在の通天閣は二代目で、1956年(昭和31年)に完成した。通天閣観光株式会社(つうてんかくかんこう、Tsutenkaku Kanko Co., Ltd.)により運営されている。避雷針を含めた高さは103m(塔自体の高さは100m)。設計者は、ほぼ同時期にできた名古屋テレビ塔、東京タワーなどを手がけた内藤多仲。建設を施工したのは奥村組である。

「通天閣」とは、「天に通じる高い建物」という意味で、命名したのは明治初期の儒学者、藤沢南岳である。

完成翌年の1957年(昭和32年)から、塔の側面に総合電機企業の日立製作所が広告を出している。日立が広告を出すようになったのは、当時、地元の大手電機企業(松下電器、三洋電機、シャープなど)に対抗して大阪に進出しようとしていた日立と、資金調達のために長期に渡って広告を出してもらえる大手企業を探していた通天閣観光の思惑が合致したのがきっかけとされる。なおかつては広告上部に日立の社章である「亀の子マーク」が付けられていたが日立が使用をやめた2001年に取り外され(下述記事も参照)、その当時はマークなしの看板に違和感を覚える市民も少なくなかった。日立グループの広告が取り付けてあるからか、毎日正午には日立の樹のCMソングが流れる。

二代目通天閣に建替えられた1956年は年間入場者が155万人を越えていたものの、1965年に100万人を割込み、光化学スモッグ等の環境汚染等も要因となって1975年には20万人前後へと激減した。その後は緩やかに回復傾向を示し、通天閣を舞台としたテレビ番組や串カツ人気の高まりもあって2006年に90万人、2007年度に100万人超へと回復した。通天閣の入場者数増加について、通天閣観光は「若い人が新世界に大阪らしい情緒を求めているのだろう」とコメントしている。

●特徴

上と2階を結ぶエレベーターの乗りかごは円柱形であるが、この形状のエレベーターが設置されたのは通天閣が世界で最初とされている。2001年(平成13年)にこのエレベーターは更新されたが、形状は現在もそのままである。

2階は、5階展望台へのエレベーター乗り場、売店、ゲームコーナーがある。貸卓球台など、一風変わったものもかつて設置されていたが現在は撤去されている。3階はイベントホール、4階および5階には展望台、喫茶室、売店がある。

5階の展望台には、足の裏を撫でると幸運が訪れるという言い伝えがある幸運の神様「ビリケン(Billiken)」の像が安置されている。これは新世界にかつて存在していた遊園地である「ルナパーク」が開業した1912年(明治45年)当時、世界的に流行していたビリケンの像をルナパーク内に作られたビリケン堂に安置したのが始まりである。1923年(大正12年)にルナパークが閉園した時期を境に像の行方がわからなくなっていたが、1979年(昭和54年)、通天閣の3階に「通天閣ふれあい広場」が作られたのを機に復元された。また、現在では見える風景や建造物の説明を展望ガラス上部に掲げた写真で行っているが、つい最近までは展望ガラスに直接赤ペンキで山や建造物の形と名前が描かれていた。

塔直下の地下には「通天閣歌謡劇場」があり、毎週土曜日と日曜日に演歌歌手の歌謡ショーが催されていた。ここには、映画やテレビドラマのロケにも使われた「通天閣囲碁将棋センター」が2001年(平成13年)まで併設されていた。松竹芸能が運営を行っている。なお「通天閣歌謡劇場」は、2008年(平成20年)春、道頓堀にあったB1角座が閉鎖されたのに伴い、これに代わる施設として、同年7月3日から「STUDIO210(スタジオ・ニーイチマル)」と名称を変更した。月曜日はこれまで土・日曜日に行っていた歌謡ショーを「通天閣歌謡劇場」の名称で行い、土・日曜日は松竹芸能に所属する芸人による落語や漫才の興行を行う「通天閣劇場 TENGEKI」が開かれる。

夜間は、黄金色と白色を基調とするネオンの光で塔全体が彩られ、さらに毎時0分になると、塔東側面にある大時計の文字盤が鮮やかなグラデーションで光る。ネオンはおよそ5年毎に模様替えされており、現在のものは12代目である。また、塔頂上には翌日の天気予報を4つの色の組み合わせで示すネオンサインが点灯する(晴=白、曇=橙、雨=青、雪=ピンク)。このネオンサインの装置は大阪管区気象台と専用回線で接続されており、そこからの情報に基づいてが予報が表示される仕組みになっていて、1979年(昭和54年)に日立製作所により制作、設置されたものである。

2001年までは展望室下に日立製作所のモノグラム社章が掲げられていたが、この年のネオン更新時に撤去され、その後に横3本線の帯が取り付けられた。二代目が完成した当時のエレベーターは、東洋オーチス・エレベータ(現・日本オーチス・エレベータ)製であったが、2001年に日立製に更新された。
2006年に再建50周年を迎えるに当たり、改修工事が行われた。大時計の形が丸から八角形に変更されたほか、ネオンの色も変更され、より目立つようになった。

●初代通天閣

1903年(明治36年)に開催された第5回内国勧業博覧会の会場跡地に、パリのエッフェル塔と凱旋門を模した初代通天閣が1912年(明治45年)7月3日にルナパークと共に建設された。設計は設楽貞雄。建設費用は約9万7000円で、当為の入場料は10銭。300尺(91メートル)という触れ込み(実際は250尺/約75メートル)で、その当時東洋一の高さを誇っていた。通天閣は、ルナパークと「ロープ・ウエィ」で結ばれており、人々に親しまれていた。大阪で2番目(非貨物専用としては最初)の昇降機が設置され評判となった。現在の二代目と同じように塔側面に巨大ネオン広告があった時期があり(1920年に導入)、当時の広告は「ライオン歯磨」であった。

通天閣の電灯工事には当時大阪電灯に勤務していた松下幸之助(後にパナソニック創業者、当時17歳)が配線工として参加している。

吉本興業に買収された後、太平洋戦争中の1943年(昭和18年)に直下にあった映画館・大橋座の火災で通天閣の脚部が加熱により強度不足となる。そのため、鉄材を軍需資材として大阪府に「献納」するという名目で1943年2月13日から塔は解体され、初代通天閣は姿を消した。なお終戦後赤錆となった残骸が明石市の浜辺で見つかっている。

●交通

・大阪市営地下鉄堺筋線 恵美須町駅(とくに相互乗り入れを行っている阪急京都本線[6]・同千里線からのアクセスが良く、飛躍的優位に立っている)
・大阪市営地下鉄御堂筋線 動物園前駅
・JR西日本大阪環状線・南海電気鉄道 新今宮駅
・阪堺電気軌道阪堺線 恵美須町駅・南霞町駅

●関連文献

・木下博民著『通天閣 第七代大阪商業会議所会頭・土居通夫の生涯』創風社出版、2001年5月、ISBN 4915699986
文献あり
・阪本順治、豊田利晃脚本、丹後達臣ノベライズ『ビリケン』(『扶桑社文庫』)、扶桑社、1996年7月、ISBN 4594020356
・下元信行著『通天閣の歌姫伝説・叶麗子物語』現代書館、1992年9月、、ISBN 4768466109
・通天閣観光編『通天閣30年のあゆみ』通天閣観光、1987年3月
年表: p111~128
・二鬼薫子著『通天閣物語』鳥影社、1997年1月、ISBN 4886293123
・橋爪紳也著『大阪モダン 通天閣と新世界』(『気球の本 Around the world library』)、NTT出版、1996年7月、ISBN 4871886239
・読売新聞大阪本社社会部編『通天閣 人と街の物語』新風書房、2002年9月、ISBN 4882695081
・NHKプロジェクトX制作班、『プロジェクトX 挑戦者たち〈12〉起死回生の突破口』、日本放送出版協会、ISBN 978-4140806807

●注釈・出典

1.朝日新聞(2008年3月29日付)
2. 初代通天閣 交通科学博物館
3. NHKプロジェクトX制作班『プロジェクトX 挑戦者たち〈12〉起死回生の突破口』日本放送出版協会 ISBN 978-4140806807、NHK「プロジェクトX」制作班 『プロジェクトX 挑戦者たち 起死回生の突破口 通天閣 熱き7人/商店主と塔博士の挑戦』日本放送出版協会 電子書籍(参考)
4. 当時作られた映像の中には「250尺(約75メートル)」と説明していたものが存在する(『カルチャーSHOwQ〜21世紀テレビ検定〜』(東・名・阪ネット6)2008年11月17日放送「タワー検定」より)。
5.ただし、68メートル、64メートル、など高さが食い違って説明されていることもある。
6. さらに淡路駅または桂駅乗り換えで嵐山線からのアクセスも非常に優れている。

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中でも此処は、「日本最初」だと謂われているそうです・・・パート12

それでは、続いては函館開港150周年記念では、さまざまなイベントがあるようです。参考までに書きたいと思います。

函館開港150周年について

函館港は、1859年(安政6年)に横浜港・長崎港とともに日本最初の国際貿易港として開港してから、本年150年目に当たります。
開港以来、函館港は国内外の交流の玄関口として発展し、港を通じて多くの人やものが運ばれるとともに、文化・情報なども本道にもたらされてきました。
函館市では、開港150周年となる本年を記念の年として祝い、こうした歴史と伝統を振り返り、先人の業績を称えるため、記念式典を行うとともに数々の記念事業の実施が計画されています。

記念事業

会場:函館港の「緑の島」をメイン会場とした函館市域全体
記念式典:7月1日(水)開催
※ 年末まで様々な事業が行われる計画となっています。

函館開港150周年公式サイト
函館市では、函館港開港150周年にあたり、「記念事業実行委員会」を組織し、公式ホームページを作成しています。
函館港のこれまでの歴史紹介やトピックス、イベント情報などが掲載されています。

http://www.hakodate150.com/
でご覧になることができます

函館開港150周年記念イベントとして、函館港港まつりが、2009年8月1日~開催される予定です。

http://www.hakodate-minatomatsuri.org/
でご覧になることができます。

※参考までです。

いかがでしたでしょうか??函館では、今日、様々なイベントが催されるようです。楽しみなかたも中にはいらっしゃるかもしれません。
今回のお話の「函館開港記念日」。それにしても、開港から、150年の月日が流れたのですね。早いものです。

今日は、「函館開港150周年記念日」。皆さんは、どう過ごしますか??

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中でも此処は、「日本最初」だと謂われているそうです・・・パート11

続いては、函館の歴史 箱館戦争~黄金時代について書いていきます。

4.箱館戦争

開国と討幕運動で日本が揺れている時、15代将軍慶喜は政権を朝廷に返上して将軍の職を辞職しました。ここに700年続いた武士の時代にピリオドが打たれました。しかし、天皇制の復古と薩摩・長

州藩の主導で作られた新政府に対して不満を持つものは少なくなく、江戸を脱出した旧幕府軍は京都を攻撃し、各地でも戦闘(戊辰戦争)が繰り広げられました。
やがて戦火は北上し、最終的には箱館の五稜郭の戦争が最後の舞台となっていきます。1868年8月旧幕府軍副総裁榎本武揚はオランダ製の最新鋭艦「開陽丸」など8隻を率いて品川沖を脱出しました。新政府に不満を持つ旧幕臣を集めて蝦夷地を開拓し蝦夷共和国を樹立する野望に燃えていました。新天地を目指す榎本軍は土方歳三・大鳥圭介らの新撰組を含むかなりの戦闘慣れした兵士や旧幕府が買い集めた最新兵器を持って、すぐに箱館の五稜郭を占領しました。さらには松前城に攻め込み新政府を支持していた松前藩に圧勝しました。これで榎本軍は新政府の樹立を宣言します。イギリスとフランスの艦長は「事実上(デファクト)の政権」とし、これを認めました。またこの政権は色々な役職を軍内部の選挙で選び決めたことから「蝦夷共和国」と言われていました。しかし具体的な政策も取れなかった為に、政治的にも、また、軍事的にも安定しませんでした。しかも、今では一般的に知られている台風で主力艦「開陽丸」を江差沖で失いました。榎本率いる旧幕府艦隊は海と陸からの箱館総攻撃で、五稜郭は完全に孤立しました。戦い慣れていて戦略などにも並々ならぬ力を発揮した土方歳三でしたが、一本木の戦い少ない部下と前線を突破しながら切り込みました。
一時は、勢力が盛り返したかに見えましたが、急に後退しはじめます。一発の銃弾を受け、馬上から落ちて仲間達に抱えられている人がいました。土方歳三でした。即死だったようです。これで榎本武揚は無条件降伏を受け入れ、投降し、五稜郭は明け渡されました。明治元年から約1年半に及ぶ戊辰戦争は、箱館戦争の終結で終わりを告げました。

5.函館へ

明治2年に開拓史が置かれて、蝦夷地は道となり名前が「北海道」となりました。また、箱館は「函館」となりました。函館は北海道の開拓の中心地でもあり、国際貿易港でもあったので、以降、先進都市として目覚しい発展を遂げて行きます。来函た外国人の中には鳥類研究や海運業などで有名なブラキストンのように定住する人も多く、宣教師も多く渡来しています。カトリックやプロテスタント、仏教など、さながら東西の宗教の坩堝でもありました。
「世界中の宗教が私の家を中心に集まってきたようである」と亀井勝一郎(函館の発展に寄与した、函館の四天王の一人。銅像は元町公園にあります)は語ったという逸話も残っています。世界各国から訪れた人々は自国の建築様式で建物を建てて、宗教や文化、果ては学術までも持ち込みました。当時の建物は函館市内の至る所に残されております。

6.文化の先進都市

イギリス領事のユースデンの呼びかけで渡辺熊四郎をはじめとする有志が私財を提供して作られた日本最初の公園が、明治11年に造られました。これが今の函館公園です。園内には日本で2番目となる博物館が造られて、今でも当時のまま現存しています。銀行や商社、裁判所などの近代都市としての機能は充実してきて図書館・病院・新聞・洋物店・洋食店が軒を連ねる日本でも指折りの文化都市が形成されていきます。
明治の思想家の幸徳秋水は「東北に進むにつれてだんだんと暗くなる気持ちが一旦、津軽海峡を超えると、たちまち夜が明けたような気持ちであった。言語・風習においても電灯や電話などの物質的進歩においても、かえって東京が恥ずかしく思えるくらいであった。」

と当時の函館を讃えています。

7.東京以北最大の繁華街

この頃になると、港付近を中心に商家や一般住宅にも洋風建築が建ち始めます。一階は和風、2階は洋風といった「和洋折衷様式」の流行です。多くの外国人が渡来して、日本人とも協調して生活していました。
今も残る当時の建物は洋風建築が庶民的なスタイルであった事を物語っています。当時の繁華街は今の十字街にあたり、カフェやバーなどで賑わう銀座通りが作られて、毎夜、不夜城のようであったと言います。西部地区から湯の川にかけて新しく造られた道路に、明治30年、馬車鉄道(現在の市電の前身)が開通しました。青函定期航路も開設。内地からの移住者も増えました。まさし

く函館の黄金時代です。

8.大火

明治・大正には幾度もの大火に襲われ、明治40年の大火では当時の西部地区のほとんどを焼き尽くしました。しかし、大火の度に復興して、現存するレンガ造りなどの耐火構造の和洋折衷の建物が街を造っていきました。
昭和初期から戦前にかけては北洋漁業が最盛期を迎え、中心となった日露漁業は当時サケマス缶詰で最大の漁業会社でありました。出漁前の街は大変な活況で西部地区の大黒銀座などは一杯飲み屋や芝居小屋などで賑わい、末広町の銀座通りカフェをはじめ、丸井デパート・金森デパート、日銀なども建ち並んでモダンな都会を形成していきました。

9.黄金時代

またしても起こった昭和9年、函館で起こった大火では最大級の大火を境にして、街の中心は駅前地区の大門へと移って行きます。戦後、期待されていた北洋漁業は再開されるが振るわず、かつての勢いはなくなりました。変わって台頭してきたのが、造船業とイカ産業です。函館の風物詩である漁火は有名ですが、一時期はイカ珍味の生産量のみでは日本一を誇っていました。戦後の闇市か始まった駅前の朝市には活気があふれ、昭和20年代までは東京とさほど変わらない文化や芸能があり、多くの文化人を輩出しています。人口のピークもこの頃に迎え、外国人も多く、まさしく国際都市でした。経済的にも発展していました。

参考までに書きました。ご了承下さい。

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中でも此処は、「日本最初」だと謂われているそうです・・・パート10

続いては、函館の歴史には先ほども少し書きましたが、函館の歴史・中世時代の貿易都市~日本初の国際貿易港というのがございますので、それを書きたいと思います。参考までです。

函館の歴史1 中世時代の貿易都市~日本初の国際貿易港

函館を語る上で「港」抜きに語ることはできません。なぜなら港を最大限に活用した交易があったからこそ繁栄したからです。「巴港」とも呼ばれる天然の良港によって繁栄し、文化や産業など北の歴史を育て上げてきました。
当時は、中央の管轄が行き届かない事と、移民を受け入れやすい環境によって自由奔放な気風があったようです。その為、他国の文化も受け入れ、中でも西洋文化の影響は大きく、エキゾチックな函館の街並みがそれを物語っています。

明治から大正にかけては、日本の中でも最先端の西洋文化が花開き、東京とさほど変わらない華やいだ街でもありました。電話普及率等では東京を凌いでいたという部分もありました。昭和の初期から中期には北洋漁業や造船業が活発になり、港には多くの船が(外国船)が多く入港し特に活気あふれる国際都市でした。

1.交易都市・箱館

函館はかつてアイヌ語でウスケシと呼ばれていました。函館の名前の由来は、15世紀頃に渡島半島に12の館があり、また、函館山の麓にあった大きな居城(館)が箱型をしていたために、だんだんと「箱館」と呼ばれるようになりました。今のように「函館」と呼ばれるようになるのは、もっと後になってから(函館市制施行は大正11年)です。
鎌倉時代から室町時代は津軽十三湊を本拠地とする安東氏の勢力下にあり、津軽海峡一帯は日本の交易航路として非常に重要な役割を担っていました。それに伴い、箱館には問屋も設けられて商船も行き交っていました。16世紀半ばには、コシャマイン戦争があり豪族の河野氏は滅亡して、箱館は荒廃しました。功を制した武田信廣が松前藩の基礎を築きましたが、蝦夷地の中心地は松前や上の国に移っていきました。松前藩は江戸時代末期まで蝦夷地を支配していきますが、18世紀の箱館は、商人の街として次第に繁栄していきます。

2.海商 高田屋嘉兵衛

寛永11年、幕府の直轄地となって繁栄した箱館にとって忘れてはならないのが海商・高田屋嘉兵衛の活躍です。明和6年、日本はまだ鎖国中の時代に淡路の都志で百姓の子として産まれました。家は貧しく勉学に励む余裕もなかったようで、わずかなカナと漢字を習った程度だったようです。家計を助ける為に13歳から嘉兵衛は休む暇も無く働き、風・海・塩・漁などの知識を確実に身に付けていきました。
18歳で大阪へ往復する瓦船に乗り、淡路を離れ兵庫(現在の神戸)で境屋喜兵衛に身を寄せて樽廻船の水主となりました。当時の江戸は人口の割りには生産力が低く、物資の多くは経済先進地域であった上方からの運搬でまかなわれていました。学問、操舵や海の知識を深めていた嘉兵衛の船はいつも一番乗り。そのため、船主や荷主からの評判は良かったそうです。27歳で辰悦丸を建造して独立。中央との商取引が無かった蝦夷地に新しい可能性を求めて進出しました。当時は函館よりも松前の方が開けていました。しかし嘉兵衛は天然の良港と広大な土地が未開発だった箱館(東蝦夷)を選び、酒や塩、米などを蝦夷地に入れました。菜種油を取るために、栽培する菜の花を育てる為には肥料が必要ですが、その肥料に蝦夷地で大漁だった鯡(にしん)を使う事で成功。塩鮭や鯡、昆布などの蝦夷地で豊漁だった海産物を上方で売りさばく事で財を築きました。また商人としても船乗りとしても才能が認められた嘉兵衛は幕府の命令を受けて、千島列島方面の航路を開き、北方領土問題で有名な択捉島や、根室などにも多数の魚場を経営しました。これが、昭和中期まで栄華を誇った北洋漁業の先駈けとなりました。一代で財を築いた嘉平衛ですが、それに溺れてしまう事は無く、箱館の道路の改修や開墾、植林、ハマグリやシジミなどを淡路から取り寄せ、箱館港内にて養殖するなど地元に多大な貢献をしました。文化3年の箱館大火の時には被災民に物資を無償で与え、木材などは利益無視で原価で販売するなど復興に寄与しました。また、防災用の井戸を掘り、ポンプを寄贈するなど防災にも寄与しました。嘉兵衛の行った貢献は非常に大きい物でした。当時の函館は、現在の大町や弁天町を中心に船問屋や中宿など多くの店が軒を並べ賑わいを見せていました。文化8年に起きたゴローニン事件。日本がまだ鎖国中だった当時、ロシアは通商を求めて南下政策を進めていました。鎖国を理由に幕府は通商を拒み続けるうちに、日露の対立は深まっていきました。そしてロシア使節レザノフは樺太や択捉に襲撃をかけていきました。
   
この時、北方警備によってロシア軍艦ディアナ号の船長ゴローニンを捕まえたが、ロシアは安否確認のため国後沖を航行していた嘉兵衛を連行してしまいました。この事件で嘉兵衛は幕府の事情を説明するなど両国間の調整係を務め事件の解決に貢献しました。商才だけでなく大変な人格者であり、また鎖国時代の日本では稀に見る国際人であったことが伺えます。

3.日本初の国際貿易港

嘉永7年3月、開港を迫っていたアメリカのペリー提督に対して幕府は、実質的に屈服して、日米親和条約を結びました。これにより箱館は近代日本初の国際貿易港として世界に開かれ、この条約は日本初の不平等条約でもありました。約300年も続いた幕府の鎖国政策は終わりました。北方警備を目的とする箱館奉行所も置かれました。5月にはペリー艦隊が箱館港に入港して24日間滞在しています。
この頃より西洋の食料が持ち込まれ西洋料理店やカメラ・写真・気象観測・上水道など色々な技術が伝わります。箱館の街は次第にイギリス・ロシア・フランス・オランダ・中国と外国人が多く訪れ、欧米の文化や科学も伝わってきました。58年には遊郭も開かれて、現在も坂の名前(見返り坂)にその名残を残しています。


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中でも此処は、「日本最初」だと謂われているそうです・・・パート9

函館の戦後  戦後から最近までの函館市(1955から1988年まで)、ラストは、1979~1988年までです。

函館・戦後の活気3.(1979~1982年)

・1979年(昭和54年)~1982年(昭和57年)

1879年に開園した函館公園は北海道初の本格的な公園として知られており、1979年には開園100年を迎えました。この函館公園は1877年に函館に赴任していたイギリス領事のユースデンが有志を募って募金を集め公園を作ることを提案しました。、この声に賛同し函館の財界人達は建設費や土地を寄付して完成しました。
この頃には、北海道の道路は、まだ舗装されていない所もありましたが、綺麗な道路も増えてきて、日本車の性能もメーカーの努力で上がってくるなど車や電化製品などの性能も日本製品の「安かろう悪かろう」と言われるような事もなくなり逆にメイドインジャパンを選ぶようになってきた時代でした。

・1985年(昭和60年)~1988年(昭和63年)
 
青函連絡船「洞爺丸」沈没事故からかなりの時間が過ぎ、やっと「青函トンネル」が完成しました。その3年後の1988年に一番列車が駆け抜けました。実は、津軽海峡にトンネルを通して本州と北海道を結ぶという構想は第2次世界大戦より前からありました。昭和29年の洞爺丸沈没事故があってから、天候に左右されずに北海道と本州を往来できる海底トンネルの必要性が叫ばれるようになります。本格的な工事は昭和39年に北海道側(福島町吉岡)から開始しました。
1988年3月13日に青函トンネルを通る一番列車「特急列車・はつかり10号」が走りました。同じ日に青函連絡船「洋蹄丸」が最後の航海に出発しました。いずれも函館からの出発です。明治41年に「比羅夫丸」が青森港を出港して以来、津軽海峡を往来し、北海道と本州を結ぶ交通の中核を成して来た連絡船はこの日で80年の歴史に幕を下ろしました。青函連絡船は80年間で走りきった距離は地球を2019周分(約8,090万km)におよびました。
 
この年の流行語など

1985年
流行語 イッキイッキ・新人類
映画・TV 乱・ビルマの竪琴
流行歌 恋に落ちて
俺ら東京さ行くだ

1986年
流行語 亭主元気で留守がいい・知的水準
映画・TV バック・トゥ・ザ・フューチャー
流行歌 時の流れに身をまかせ
物価 たばこ120円

1987年
流行語 サラダ記念日・くれない族
映画・TV トップガン
流行歌 命くれない
出版 サラダ記念日

1988年
流行語ペレストロイカ・5時から男
しょうゆ顔・ソース顔
映画・TV となりのトトロ
流行歌 人生いろいろ
出版 ノルウェイの森
物価 はがき60円

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中でも此処は、「日本最初」だと謂われているそうです・・・パート8

続いては、函館の戦後   戦後から最近までの函館市(1955から1988年まで)です。

函館・戦後の活気2.(1967~1978年)
・1967年(昭和42年)~1970年(昭和45年)

昭和40年代の前半には函館駅前と五稜郭にもビルが建ち並ぶようになってきました。それに自家 用車も増えてきて交通も過密的になってきました。昭和40年代は様々な事件や災害が起きた時代でした。3億円事件に東大闘争など恐ろしい事件がありました。3億円事件は未だに解決していません。北海道では1968年十勝沖地震が発生し、マグニチュードは7.8。津波も発生したが、引き潮だったために津波による被害はさほどでは無かったが、全壊は約670、半壊は約3000、浸水に至っては約530。被害船舶340などの被害もありました。特に青森県では揺れによる被害が多かったようです。
函館では函館大学の校舎が倒壊したり、鉄筋コンクリート製の公共の建物の被害が目立ったそうで、防災対策を施した所も少なくなかったそうです。明るい話題では、この40年代前半はかの有名なオバケ番組であり土曜8時と言えばこの番組、「8時だョ全員集合」でおなじみのドリフターズの勢いが全盛期の時代に突入していきます。

この年の流行歌など

1967年
流行語 アングラ族
映画・TV スパイ大作戦・アルジェの戦い
流行歌 ブルーシャトー
出版 万延元年のフットボール
物価 徳用上級米10k・1,180円
NHK受信料330円

1968年
流行語 失神する・ハレンチ
映画・TV 3時のあなた・俺達に明日はない
流行歌 天使の誘惑・帰ってきたヨッパライ
出版 竜馬がゆく
物価 カレーライス128円
革靴3,615円

1969年
流行語 ニャロメ・あっと驚くタメゴロー
映画・TV 8時だョ!全員集合
流行歌 黒猫のタンゴ
出版 天と地と
物価 国鉄入場券30円。
パンティストッキング300円。

1970年
流行語 鼻血ブー
映画・TV 時間ですよ・戦争と人間
流行歌 走れコウタロー・今日でお別れ
出版 ***
物価 牛乳25円。
ワイシャツクリーニング代63円。

・1971年(昭和46年)~1974年(昭和49年)

昭和46年に、札幌丘珠空港発、函館空港行きの東亜国内航空YS-11型ばんだい号が函館市 近郊の横津岳に墜落しました。乗員乗客を含む68名全員が死亡するという最悪の結果になった事故が起きました。墜落当日は、墜落現場が悪天候のために、横津岳に墜落したらしいと言うことしか判らず、救出隊も出動できず、現場に救出隊が着いたのは翌日でした。事故後には、こういった事故を防ぐ為、函館航空路監視レーダー基地が建てられました。2005年7月3日、事故から34年目の夏を迎えました。

この年の流行語など

1971年
流行語 ニアミス・ガンバラナクチャ
映画・TV 仮面ライダー・ベニスに死す
流行歌 知床旅情・また逢う日まで
出版 戦争を知らない子たち
物価 コロッケ28円。
国産乗用車1.6エンジン70万円

1972年
流行語 恥ずかしながら・ヘンシーン
映画・TV 忍ぶ川・太陽にほえろ
流行歌 瀬戸の花嫁・喝采
出版 日本列島改造論
物価 食パン1キロ146円
牛ロース100g258円

1973年
流行語 ちょっとだけよ・じっと我慢の子であった
映画・TV 刑事コロンボ・燃えよドラゴン
流行歌 てんとう虫のサンバ・神田川
物価 大根54円。
鉛筆20円。

1974年
流行語 ストリーキング・晴天のヘキレキ
映画・TV 宇宙戦艦ヤマト
流行歌 襟裳岬・二人でお酒を
物価 醤油2リットル。
牛乳41円。

・1975年(昭和50年)~1976年(昭和51年)

昭和51年は日本中を震撼させる事件が勃発しました。ソ連空軍の当時の最新鋭戦闘機ミグ25が 函館空港へ強制着陸した事件(ベレンコ中尉亡命事件)です。亡命に使用された機体は出入国管理令違反容疑の証拠品として函館地方検察庁に押収されて、防衛庁の管理下に置かれ、アメリカと日本で当時、ベールに隠されていた機体の徹底調査が行われました。
この年、ソ連(現ロシア)がミグを取り返しに北海道に上陸してくるなどデマが広まり日本中が震撼しました。ミグをソ連船籍の貨物船に乗せて返還するまでは、日本には異様に外国人が増えたそうです。破壊屋と呼ばれる人達か、スパイが入国していたとの話もあります。当時、ソ連では軍事的なものや国に関わる全ての情報はKGBによって厳しく監視されていたので一切、西側ではベールに隠されていたので、スパイなどが入国したとの話も生まれたのかもしれません。

この年の流行歌など

1975年
流行語 わたし作る人、ぼく食べる人
映画・TV 青春の門・欽ちゃんのドンとやってみよう
流行歌 シクラメンのかほり・私鉄沿線
物価 タバコ150円、映画館1,000円

1976年
流行語 記憶にございません・はしゃぎすぎ
映画・TV 犬神家の一族・徹子の部屋
流行歌 北の宿から・およげ!たいやきくん
物価 焼酎1升720円、そば230円

・1977年(昭和52年)~1978年(昭和53年)

この年の流行語など
1977年
流行語 翔んでる・よっしゃよっしゃ
映画・TV ロッキー・ヤッターマン
流行歌 勝手にしやがれ
出版 ***
物価 コーヒー280円、入浴料140円

1978年
流行語 なーんちゃって・窓際族
映画・TV スターウォーズ、ザ・ベストテン
流行歌 UFO・いい日旅立ち
出版 うる星やつら
物価 国鉄初乗り80円

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中でも此処は、「日本最初」だと謂われているそうです・・・パート7

先ほどは、函館市について書きましたが、続いては、函館の戦後  戦後から最近までの函館市というものがございますので、参考までに書いていきたいと思います。

★函館の戦後  戦後から最近までの函館市(1955から1988年まで)

昭和30年、だんだんと日本も活気が出てきました。20世紀は原動機や車が作った時代と言われています。日本で車がやっと量産体制に入ったのがこの昭和30年でした。この年が実際に日本が経済大国にのしあがっていく元年なのかも知れません。当時の物価なども参考に載せましたので、時代の移り変わりを感じてください。

函館・戦後の活気1.(1955~1966年)
・1955年(昭和30年)~1956年(昭和31年)

やっと戦争が終わり、函館も活気が戻ってきた時代です。これからの日本は一種異様なまでの経 済成長を遂げてゆきます。昭和30年には、五稜郭公園に市立函館博物館の分館ができました。
この頃は、コーヒーが一杯50円、新聞が一ヶ月約300円くらい、タバコが40円くらいの物価でした。翌年の31年には北海道新聞社の花火大会も始まり、後に函館 港祭りも始まります。
この花火大会は全国の花火師が自慢の技を競い合い、青函船舶鉄道管理局のブラスバンドが船に乗って観客の前で演奏して盛り上げていました。臨時の増発バスも運行され近郊からの人々も押し寄せ北洋出漁の時にも見られない空前の人出だったそうです。

この年の流行歌など

1955年 1956年
流行語 ノイローゼ・最低
流行歌 月がとっても青いから・おんな船頭歌 
流行映画 エデンの東・野菊の如き君なりき 
物価 コーヒー、一杯50円。靴磨き20円
新聞一ヶ月300

1956年
流行語 もはや戦後ではない・一億総白痴化
流行歌 ケセラセラ・どうせ拾った恋だもの
流行映画 ビルマの竪琴・理由なき反抗
物価 タバコ40円。ラーメン40円。
ビール125円。理整髪料140円。

・1957年(昭和32年)~1960年(昭和35年)

日本のテレビ放送開始は1953年でした。それから4年後には函館でもテレビ放送が開始されまし た。道内では札幌市に続いて二番目で全国的に見ても比較的、早い段階での放送開始でした。最近のテレビやMDコンポなどもデザインは未来的ですが、当時はステレオやテレビなども非常に高額で、デザインは重厚な高級家具のようなデザインでした。今のようにリモコンが付いている訳ではなくガチャガチャとレバーを回してチャンネルを変える方式でほとんどが白黒の画面でした。実際はテレビよりもラジオの方が安価だった為にラジオの方が普及していました。当時はテレビのある家は珍しく、私の父は子供の頃、近所の子供達と一緒に地主さんが自分の家の庭を公園として開放してくれていて、その家にはテレビもあったのでサイダーを飲みながら子供達とテレビを見たりトンボ取りをしていたそうです。当時は公務員でも収入が少ない時代ですからサイダーも高級品でした。当時のステレオ(今ではコンポ)は正面の扉が閉められるようになっていて一見するとその中にレコードやラジオチューナーが入っているとは思えない洋物の高級家具のようでした。

1958年には明治30年代から軍事要塞となっていた函館山は入山はもとより写真撮影や写生なども厳しく検閲されており子供の書いた函館山の絵も兵士に破られたりしていたそうですが、戦争が終わり要塞を放棄したため昭和21年には一般に広く開放されるようになりました。この入山禁止の為に函館山の自然は守られ、数百種類の植物が函館山の綺麗な緑を作っています。昭和25年には自動車での観光登山を目的としている観光道路の建設に取り掛かっています。そして1957年に新日本百景の全国投票で函館山が第1位になり翌年にはロープウェイが建設され運行を開始しています。昭和10年(函館大火の翌年)に函館港(みなと)祭りが始まりました。これは前年に函館大火があり活気を無くした人たちを勇気付ける為にはじまりました。当時は7月1日でした。この日は函館、横浜、長崎が国際貿易港として開港されたとする記念日でした。

この年の流行歌など

1957年
流行語 よろめき・パートタイム・デラックス
流行歌 有楽町で逢いましょう 
流行映画 戦場にかける橋
出版 開高健・裸の王様
物価 銭湯入浴料16円。掛け蕎麦30円
映画館150円。 たいやき8円。

1958年
流行語 シビれる・団地族・ハイティーン
流行歌 星は何でも知っている
流行映画 死刑台のエレベーター
出版 松本清張・点と線
物価 米1キロ87円。
たいやき8円

1959年
流行語 カミナリ族 
流行映画 人間の条件
流行歌 南国土佐を後にして
物価 週刊誌40円。 
小学校教員初任給8,400円

1960年
三種の神器(電気冷蔵庫・マイカー・
カラーテレビ)
流行映画 おとうと・太陽がいっぱい
流行歌 誰よりも君を愛す
物価 ラーメン45円。コーヒー60円

・1961年(昭和36年)~1966年(昭和41年)

1964年に五稜郭は築城から100年を迎えました。そして、この五稜郭を見渡せる五稜郭タワーが 完成しています。このタワーは高さが約60メートルで展望台はおよそ200名が収容可能です。そのタワーも2006年4月オープンに向けて現タワーの横に新タワーの建設も始まっています。この新タワーは高さが約100メートルで展望台には1000名を越す観光客を収容可能になるそうです。

1966年に函館市の隣であった銭亀沢村が函館市と合併しました。この土地は北海道の道南地方の中では最も早く開けた漁村として知られています。室町時代に豪族がこの土地に館(志海苔館跡)を築いています。この館の近くから1968年に大漁の古銭が出土しました。これは国の重要文化財(北海道志海苔中世遺構出土銭)に指定されました。14世紀から15世紀の初頭に埋められた物ではないかと見られているそうですが、一体どのような理由で埋められたのかなどを示す証拠が見つかっていません。古くからアイヌ民族と和人の争いがあったようですので、そのせいかも知れません。まさに歴史のロマンですね。

この年の流行歌など

1963年
流行語 ハッスル
映画・TV 天国と地獄・鳥・大脱走
流行歌 高校三年生
こんにちわ赤ちゃん
出版 太平洋ひとりぼっち
物価 タクシー1区間80円
理整髪料280円

1964年
流行語 トップレス・ウルトラC
映画・TV 飢餓海峡
ビートルズがやってくるヤァ!ヤァ!ヤァ
流行歌 アンコ椿は恋の花・ビートルズ抱きしめたい
出版 藤子不二雄・オバケのQ太郎
物価 砂糖1キロ147円。掛け蕎麦50円

1965年
流行語 マジメ人間
映画・TV サザエさん・メリーポピンズ
流行歌 北島三郎・函館の女
出版 白い巨塔
物価 ビール1本116円。珈琲80円
銭湯入浴料28円。

1966年
流行語 びっくりしたなぁもぅ
映画・TV ウルトラマン・白い巨塔・男と女
流行歌 いい湯だな
出版 沈黙
物価 ワイシャツのクリーニング50円。
はがき7円。封筒15円。

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中でも此処は、「日本最初」だと謂われているそうです・・・パート6

続きです。函館市の電話から順に書いていきます。

●電話

市内全ての地域で市外局番は0138である。旧南茅部町地域は01372(01372-2/01372-3)であったが、2006年(平成18年)10月1日に番号を変更して0138(0138-25/0138-63)となり、統一された。なおこの市外局番0138は、隣接する北斗市、亀田郡七飯町の大半、および茅部郡鹿部町の一部と共通である。
市内をカバーしているNTT交換局は以下の通りである。

・函館局
・函館松陰局
・桔梗局
・銭亀局
・湯の川局
・旭岡局
・函館北局
・戸井局
・尻岸内局
・古武井局
・椴法華局
・七重浜局
・南茅部局
・尾札部局

★電気

・北海道電力
・函館支店

★水道

・函館市水道局

★都市ガス

・北海道ガス
・函館支店・函館工場・函館みなと工場

●交通

★空港

・函館空港

★鉄道路線

・中心となる駅: 函館駅
・北海道旅客鉄道(JR北海道)
・函館本線:函館駅 - 五稜郭駅 - 桔梗駅 - (七飯町、札幌市方面)
・江差線(津軽海峡線):五稜郭駅 - (木古内町、青森市方面)
・函館市交通局
・函館市電(路面電車):4路線2系統

★バス
かつては函館市交通局の路線バスが市内を運行していたが、2003年(平成15年)4月1日に廃止され、路線は函館バスに譲渡された。

・函館バス(市内路線、郊外路線)
・函館帝産バス(函館空港連絡、函館港連絡)
・北都交通・檜(「桧」)山観光バス(定期観光バス)
・北都交通・道南バス・北海道中央バス(高速はこだて号)

★道路

・高速道路・自動車専用道路
・函館新道(函館IC)
・函館江差自動車道(函館IC)
・函館新外環状道路(函館IC)

・一般国道

・国道5号(函館駅前~昭和地区~桔梗地区)
・国道227号(万代町~港地区)
・国道228号(国道227号と重複)
・国道278号(函館駅前~大森海岸~湯の川地区~銭亀沢地区~戸井地区~恵山地区~椴法華地区~南茅部地区)<漁火通>
・国道279号(函館駅前~末広町)<海峡通>
・国道280号(国道227号と重複)
・国道338号(国道279号と重複)

・都道府県道

・北海道道41号函館恵山線
・北海道道63号函館空港線
・北海道道83号函館南茅部線(大門地区~昭和橋~五稜郭本町~湯の川地区~トラピスチヌ~亀尾地区~南茅部地区)
・北海道道100号函館上磯線(湯の川地区~美原地区~昭和地区~西桔梗地区)<産業道路>
・北海道道231号椴法華港線
・北海道道347号赤川函館線(新中野ダム~赤川地区~美原地区~田家町~港町)<赤川通>
・北海道道457号函館漁港線
・北海道道571号五稜郭公園線(万代町~五稜郭本町~五稜郭公園)<行啓通>
・北海道道633号函館港線
・北海道道635号元村恵山線
・北海道道675号立待岬函館停車場線(函館山への登山道路区間は冬季に除雪を行わないため閉鎖される)
・北海道道879号米原古川線
・北海道道970号蛾眉野原木線
・北海道道980号臼尻豊崎線
・北海道道1132号函館臨空工業団地線

・重要道路の愛称

・国道

・赤松街道・漁火通
・函館駅前~亀田川中下流域方面
・高砂通・大縄町通・八幡通・行啓通・教育大通・ときわ通・新興通

・港地区方面

・大野新道・浅野町通
・亀田・富岡・美原方面
・産業道路・赤川通・東山墓園線・美原学園通・桐花通・旧戸井線(本通富岡線・緑園通り)
・大森浜~湯の川~日吉方面
・日吉が丘通・学園通・日ノ出町通・駒場通・湯浜通

★船舶

・国土交通省指定重要港湾
・¥函館港(西・中央・万代・港町・北・有川埠頭)
津軽海峡を挟んだ本州との連絡のため、青森県にある青森港(青森市)、大間港(大間町)との間にフェリーが運航している。
1988年まで国鉄およびJR北海道により青函連絡船が運航されていた。
・函館港-青森港(道南自動車フェリー・青函フェリー)
・函館港-大間港(道南自動車フェリー)
・地方港湾(避難港)
・椴法華港

・その他(漁港)

・第1種漁港:住吉、函館湯川、志海苔、石崎(銭亀沢)、小安、釜谷(戸井)、汐首、日浦、女那川、恵山、古部、木直、川汲、大舟
・第2種漁港:戸井、大澗、尾札部
・第3種漁港:函館(入舟)、臼尻
・第4種漁港:山背泊

★道の駅

・道の駅なとわ・えさん

●文化財

★国宝

・土偶(1979年(昭和54年)重要文化財指定、2007年(平成19年)国宝指定)
1975年(昭和50年)8月、南茅部町尾札部地区(当時)の住民が、農作業中に偶然発見した。内部が中空になっているので中空土偶と言われる。現在その周辺は、著保内野(ちょぼないの)遺跡となっている。北海道で唯一の国宝。北海道初の国宝と言われているが、正確には2例目。大船遺跡埋蔵文化財展示館にてレプリカ展示。

★重要文化財(建造物)

・太刀川家住宅店舗(北海道函館市弁天町)(1971年(昭和46年)指定)
1901年(明治34年)に建てられたレンガ等で造られた耐火建築の商店で、隣接する洋館(1915年建造)などとともに国の重要文化財に指定された。
・旧函館区公会堂(本館は、1974年(昭和49年)指定。附属棟は、1980年(昭和55年)指定)
・函館ハリストス正教会復活聖堂(ギリシャ正教会。東京・御茶ノ水ニコライ堂の司祭と同一人物が設立)(1983年(昭和58年)指定)
・遺愛学院(旧遺愛女学校)本館(2004年(平成16年)指定)宣教師館(2001年(平成13年)指定)
・大谷派本願寺函館別院 本堂 鐘楼 正門(2007年(平成19年)指定)

★重要文化財(美術工芸品)

・木造大日如来坐像(1967年(昭和42年)指定) - 高野寺蔵
・北海道志海苔中世遺構出土銭(2003年(平成15年)指定) - 市立函館博物館蔵
・銀板写真(石塚官蔵と従者像)〈エリファレット・ブラウン・ジュニア撮影/一八五四年〉 - 函館市写真歴史館蔵

★登録有形文化財

・五島軒本店旧館
・北海道道教育大学函館校北方教育資料室 - 旧函館師範学校本館
・プレイリー・ハウス(旧佐田邸)
・函館中華会館
・遺愛学院講堂
・遺愛学院謝恩館
・函館大手町ハウス(旧浅野セメント函館営業所)

★史跡

・五稜郭跡 - 特別史跡
・四稜郭
・志苔館跡
・大船遺跡 - 縄文遺跡の里、大船遺跡埋蔵文化財展示館

★名勝

・旧岩船氏庭園(香雪園)

★登録記念物

・函館公園

★重要伝統的建造物群保存地区

・函館市元町末広町 - 古稀庵など

★重要有形民俗文化財

・アイヌの生活用具コレクション - 函館市北方民族資料館蔵

★選択無形民俗文化財

・松前神楽 - 道指定無形民俗文化財でもある。松前神楽函館連合保存会

★道指定有形文化財(建造物)

・旧金森洋物店 - 現市立函館博物館郷土資料館(旧金森洋物店)
1880年(明治13年)に建てられた洋風の商家で、レンガ等で造られているため1907年(明治40年)の大火でも焼き残った。1969年(昭和44年)には函館市立函館博物館郷土資料館となった。
・旧函館博物館1号・2号 - 函館公園内
・旧北海道庁函館支庁庁舎 - 元町公園内、現函館市写真歴史館
・旧開拓使函館支庁書籍庫

★道指定有形文化財(美術工芸品)

・サイベ沢遺跡出土の遺物 - 市立函館博物館蔵
・夷酋列像粉本 - 函館中央図書館蔵
・釈迦涅槃図蠣崎波響筆 - 高龍寺蔵
・住吉町遺跡出土の遺物 - 市立函館博物館蔵
・石崎八幡神社の鰐口 - 市立函館博物館蔵
樽岸出土の石器 - 市立函館博物館蔵
・刀銘源正雄 - 市立函館博物館五稜郭分館蔵
・椴法華出土の尖底土器 - 市立函館博物館蔵
・日ノ浜遺跡出土の動物土偶 - 市立函館博物館蔵
・板碑(戸井町の碑) - 函館市戸井郷土館蔵
・板碑(貞治の碑) - 称名寺蔵

★道指定史跡

・恵山貝塚 - 函館市恵山郷土博物館
・古武井熔鉱炉跡
・女那川煉瓦製造所跡

★函館市指定文化財

・旧イギリス領事館
・有形文化財(美術工芸品)65件 - 函館市中央図書館、市立函館博物館、称名寺、南茅部公民館など
・有形民俗文化財5件 - 函館市北方民族資料館など
・木直大正神楽 - 木直大正神楽保存会
・安浦駒踊り - 安浦駒踊り保存会
・日ノ浜遺跡
・北海道建網大謀網発祥の地及び記念碑
・東エゾ箱館在六箇場所臼尻会所跡
・恵山
・道南金剛
・賽の河原
・恵山断層
・恵山高山植物群
・イチョウの大樹 - 覚王寺
・「大船の杉」大樹
・旧臼尻村役場のエゾヤマザクラ

●名所・旧跡・観光スポット

・函館山からの夜景
・「世界三大夜景」(ナポリ・香港・函館)
・「日本三大夜景」(神戸・長崎・函館)
・函館山ロープウェイ
・五稜郭・四稜郭・土方歳三最期の地碑
・箱館戦争跡地
・五稜郭タワー
・トラピスチヌ修道院
・北南山高野寺(北海道三十三観音霊場1番札所)
・明光山神山協会(北海道三十三観音霊場2番札所)
・函館市北方民族資料館
・函館市文学館
・金森赤レンガ倉庫
・北島三郎記念館(旧金森森屋<現 棒二森屋>の建物。中にはGLAY記念館もある)
・「国選定重要伝統的建造物群保存地区」の元町末広町
・西部地区(函館山山麓)の歴史的街並み
・朝市(函館駅前)
・青函連絡船記念館摩周丸(函館駅前)
・外国人墓地
・立待岬
・汐首岬(北海道と本州の最短地点、距離は17.5km)
・戸井線跡アーチ橋(未完成)
・恵山
・恵山道立自然公園
・恵山温泉(旧恵山高原ホテル<一時はモンテローザになっていた>は、閉鎖。しかしバブル時のネハン像などが閉鎖後も現地に存在)
・恵山岬灯台
・水無海浜温泉(満潮時は温泉に入湯できない)
・川汲公園(かっくみ)
・川汲温泉
・大船温泉(上の湯温泉)
・高田屋嘉兵衛資料館
・湯の川温泉
・谷地頭温泉
・函館競馬場
・函館競輪場

★北海道遺産(函館関係)

・内浦湾沿岸の縄文文化遺跡群(南茅部地区)
・五稜郭と箱館戦争の遺構
・函館山と砲台跡
・函館西部地区の町並み
・路面電車(函館市電)
・北海道のラーメン(函館ラーメン)

★日本初

国際貿易港として通商を行ってきたため、日本初のものが多数ある。

・日本初の貿易港(1859年、函館港や西部地域 一時は大使館もあった)
・日本初の西洋式城郭(五稜郭、フランス築城方式 ※未完成)
・日本初のコンクリート造り寺院(東本願寺函館別院)
・国産初の上水道
・日本初の種痘術(1824年、中川五郎治による)
・日本初のストーブ(末広町、高田屋嘉兵衛資料館に復元したものがある)
・日本初の洋式帆船「箱館丸」(日本人が設計した初の洋式帆船)
・日本初の西洋料理店(1859年)(五島軒)
・日本初の正教会(1861年、函館ハリストス正教会)
・日本初の混声合唱
・日本初の選挙(旧幕臣榎本武揚が蝦夷共和国建設を目指して行った)
・日本初の天然氷(1869年、五稜郭氷として横浜への輸送販売を行った)
・日本初の測候所(1872年)
・日本初の女子修道院(1898年、トラピスチヌ修道院)
・日本初のバットレスダム(笹流ダム)
・日本初の雪かき車(1910年)
・日本初のコミュニティ放送局(1992年、FMいるか)
・日本初の車体更新低床電車(2002年、函館市交通局8100形)
・日本初の地方博物館(1879年、「開拓使函館支廳仮博物場」函館公園内旧函館博物館1号)
・日本初の赤十字活動(1868年、箱舘戦争の際、旧幕府の軍医、高松凌雲が、博愛主義に基づく赤十字精神で敵味方なく治療にあたった。)
・日本初のワイン製造(1870年、開拓使が、旧ガルトネル租借地=七重開墾場に幕末に植えられていたワイン用ぶどうを用いて製造)
・日本初の四角形コンクリート電柱

★祭事・催事 [編集]

・箱館五稜郭祭(5月)
・椴法華どうだんつつじ祭(5月)
・恵山つつじまつり(5月~6月)
・南かやべひろめ舟まつり(6月)
・市民創作函館野外劇(7月)
・大門祭(7月上旬)
・高田屋嘉兵衛まつり(7・8月)
・函館港まつり(8月)
・夜景の日(8月13日)
・はこだて湯の川温泉いさり火まつり(8月)
・はこだてクリスマスファンタジー(12月1日<2008年は11月30日>~25日迄)
・五稜星の夢(1~2月)
・はこだて冬フェスティバル(12月~2月)
・西部地区「バル街」
・函館港イルミナシオン映画祭
・湯の川温泉「オンパク」

●函館市民憲章

わたくしたちは、北海道の文化発祥の地、函館に住む市民です。
山と海にかこまれた美しい自然を誇り、すぐれた市民性をはぐくんできた函館を、いっそう住みよい都市に発展させるため、わたくしたち市民とまちの理想像をかかげ、ここに市民憲章を定めます。(昭和52年5月3日制定)

・真心あふれる函館市民、あたたかいまち
・健康で働く函館市民、にぎわうまち
・文化を誇る函館市民、はぐくむまち
・自然を生かす函館市民、きれいなまち
・郷土を愛する函館市民、のびゆくまち

都市宣言 [編集]
安全都市宣言(昭和36年3月6日制定)
核兵器廃絶平和都市宣言(昭和59年8月6日制定)
国際観光都市宣言(平成元年8月1日制定)
スポーツ健康都市宣言(平成4年10月10日制定)
いきいき長寿都市宣言(平成6年12月10日制定)

●出身有名人

★学術・文芸 [編集]

・上田勤(英文学者)
・奥平康弘(憲法学者)
・及能正男(経済学者)
・斎藤元秀(政治学者)
・佐々木雄太(政治学者)
・武田雅哉(中国文学者)
・道幸哲也(労働法学者)
・横田瑞穂(ロシア文学者)
・亀井勝一郎 (評論家)
・箱根寿保(画家)
・田辺三重松(画家)
・大月源二(画家)
・長谷川海太郎(作家、林不忘、谷譲次、牧逸馬とも)
・長谷川四郎(作家)
・今日出海(作家、元文化庁長官)
・滝本竜彦(作家、上ノ国町)
・久生十蘭(作家)
・川内康範(作家・作詞家)
・五島勉(作家)
・佐藤泰志(作家)
・宇江佐真理(作家)
・琴音(作家)
・高楼方子(絵本作家)
・野田高梧(脚本家)
・石原正(地図製作者)
・岡本一平(漫画家)
・のむらしんぼ(漫画家、南茅部町生まれ)
・加藤唯史(漫画家)
・魚戸おさむ(漫画家)
・山本直樹(漫画家、福島町生まれ)
・馬場康誌(漫画家)

★音楽 [編集

・中原理恵(歌手、女優)
・GLAY(ロックバンド、函館市栄誉賞受賞)
・YUKI(歌手、元JUDY AND MARY)
・三橋美智也(歌手、北斗市(旧上磯町)生まれ)
・瀬川伸(歌手)
・北島三郎(歌手、知内町生まれ、西高中退、函館市栄誉賞受賞)
・森山加代子(歌手)
・新谷のり子(歌手)
・佳山明生(歌手)
・中村耕一(歌手、J-WALK)
・大石まどか(歌手)
・暁恵(歌手)
・水原由貴(歌手)
・芳野藤丸(ミュージシャン)
・あがた森魚(ミュージシャン、俳優、留萌市生まれ、ラ・サール卒)
・辻仁成(ミュージシャン、作家、東京生まれ、西高、函館市栄誉賞受賞)
・加茂フミヨシ(ギタリスト、アレンジャー)
・BOSS THE MC(ラッパー)
・廣瀬量平(作曲家、「はこだて賛歌」作曲者、函館市栄誉賞受賞)
・吉田雅夫(フルート奏者)

★芸能

・イナダ(演出家)
・大野一雄(舞踏家)
・ギリヤーク尼ヶ崎(舞踏家)
・高勢実乗(喜劇俳優)
・益田喜頓(俳優、函館市栄誉賞受賞)
・納谷悟朗(俳優、声優)
・宮部昭夫(俳優、声優)
・小林正寛(俳優)
・高峰秀子(女優)
・岩崎加根子(女優)
・山内絵美子(女優)
・加山麗子(女優)
・叶和貴子(女優)
・朝加真由美(女優、北斗市)
・墨田ユキ(女優)
松井菜桜子(声優)
・中家志穂(声優)
・水純なな歩(声優)
・相原玲(タレント)
・川合千春(タレント)

★政界・官界・法曹界・経済界 [編集]

・早坂茂三(政治評論家)
・田中正巳(政治家)
・佐藤孝行(政治家、北桧山町生まれ)
・阿部文男(政治家、山形県生まれ)
・大崎誠子(政治家)
・厚谷襄児(官僚・元公取委事務局長、北大名誉教授)
・佐藤英彦(官僚・元警察庁長官)
・富田朝彦(官僚・元宮内庁長官)
・松田昇(検察官・元東京地検特捜部部長、預金保険機構理事長)
・横田正俊(裁判官・元最高裁判所長官)
・平塚常次郎(実業家・ニチロ創業者、元運輸相)
・田中清玄(右翼活動家、実業家、七飯町生まれ)
・大道寺小三郎(実業家・元みちのく銀行頭取、新ひだか町生まれ)
・小林敬(実業家)
・唐牛健太郎(政治活動家)

★スポーツ

・巴潟誠一(大相撲・元小結)
・永沢富士雄(元プロ野球選手)
・佐藤平七(元プロ野球選手)
・沼澤康一郎 (元プロ野球選手)
・森徹(元プロ野球選手、旧満州生まれ)
・盛田幸妃(元プロ野球選手・横浜ベイスターズ球団職員、鹿部町生まれ、有斗高卒)
・石川賢(プロ野球選手)
・青山浩二(プロ野球選手)
・佐藤宣践(元柔道選手・東海大学教授)
・山口圭司(プロボクサー、函館市栄誉賞受賞)
・増沢末夫(競馬騎手、北斗市(旧大野町)生まれ)
・武邦彦(競馬調教師、元騎手)
・安藤賢一(競馬調教助手、元騎手)
・俵信之(競輪選手)
・グレート小鹿(プロレスラー・大日本プロレス社長)
・将軍KYワカマツ(プロレスラー)
・黒田哲広(プロレスラー・アパッチプロレス軍)
・大野勇樹(プロレスラー・DRAGON GATE)

★その他 [編集]

・二上達也(将棋棋士、元日本将棋連盟会長、函館市栄誉賞受賞)
・佐藤大五郎(将棋棋士)
・喜瀬浩(STVアナウンサー)
・片山雅子 (元:札幌テレビ放送アナウンサー)
・伊藤隆太(TBSアナウンサー)
・佐藤麻美(HTBアナウンサー)
・蜂谷薫 (元:毎日放送アナウンサー)
・牧泰昌(ラジオパーソナリティ)
・ジャック白井(スペイン内戦時、唯一の日本人義勇兵)

●小説・アニメ・ドラマ・映画 [編集]

・小説・評論
・函館物語(辻仁成)

・漫画

・東京大学物語

・アニメ

・ノエイン もうひとりの君へ
・アニメ映画『名探偵コナン 銀翼の奇術師』
・北へ。〜Diamond Dust Drops〜

・ゲーム

・雪割りの花
・北へ。Diamond Dust

・映画

・いつかギラギラする日 ※ジュディ・アンド・マリーのメンバーがエキストラで出演。
・日本沈没
・パコダテ人
・居酒屋兆治
・海猫
・星に願いを。
・オートバイ少女
・キッチン
・Little DJ〜小さな恋の物語
・犬と私の10の約束

●その他 [編集]

・日本の道百選:大三坂道
・日本の音風景100選:函館ハリストス正教会の鐘
・名湯百選:湯の川温泉、恵山温泉郷
・「世界三大夜景」:ナポリ、香港、函館
・「函館に来る」あるいは「函館を訪問する」という意味で「来函(らいかん)」ということがある。
・」大正時代に市内の各寺院がお盆を新暦の7月に切り替えたため、7月に墓参りを行なう家が多い。
・函館近辺では、葬儀の際には通夜の前に遺体の火葬を済ませることがほとんどであり、通夜と告別式では、祭壇に骨箱が安置されることが非常に多い。
・日本のラーメンの発祥地といわれる。

●関連項目

・ベレンコ事件
・全日空857便ハイジャック事件
・函館太洋倶楽部
・久慈次郎
・函館市千代台公園野球場
・函館市千代台公園陸上競技場
・旧彩華デパート
・棒二森屋
・ハセガワストア
・ラッキーピエロ
・テーオー小笠原
・北海道乳業
・函館酪農公社 - 函館牛乳の製造・販売
・カールレイモン - ハム、ソーセージの製造・販売
・函館高校生集団暴行死事件

●脚注

http://www.nanboku-c.net/gakkosyokaitop.html
http://www.nanboku-c.net/gakkosyokaitop.html

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中でも此処は、「日本最初」だと謂われているそうです・・・パート5

続いては、函館市の行政から順に書いていきます。

●行政

★市政

・市長:西尾正範(2007年4月27日 - 2011年4月26日 1期目)
・自民党、民主党道8区総支部、公明党の相乗り候補井上博司を破り僅差で当選
・民主党は反井上派が西尾の支持に回る分裂選挙。
・函館市役所本庁の他、亀田支所・湯川支所・銭亀沢支所・戸井支所・恵山支所・椴法華支所・南茅部支所、及び水道局・交通局分庁舎などを設置。

★警察

・北海道警察 函館方面本部
・函館中央警察署
・函館西警察署

★消防

・函館市消防本部
・北消防署 - 1つの支署、4つの出張所を配置
・東消防署 - 2つの支署、7つの出張所を配置

★登記

・函館地方法務局

★税務

・国税庁 札幌国税局
・函館税務署
・北海道渡島支庁地域振興部
・函館市財務部

★関税

・函館税関

★検疫

・小樽検疫所
・函館出張所・函館空港出張所

★海難審判

・函館地方海難審判所

★海上保安

・海上保安庁 第一管区海上保安本部
・函館海上保安部・函館航空基地

★気象観測

・函館海洋気象台

★林野

・林野庁 北海道森林管理局
・駒ケ岳・大沼森林環境保全ふれあいセンター
・函館事務所

★開発

・北海道開発局
・函館開発建設部
・函館港湾事務所
・函館農業事務所

★自衛隊

・防衛省
・自衛隊函館地方協力本部
・海上自衛隊 大湊地方隊
・函館基地隊
・陸上自衛隊 北部方面隊 第11旅団
・函館駐屯地

●司法

・裁判所
・函館地方裁判所
・函館家庭裁判所
・函館簡易裁判所

・検察

・函館地方検察庁
・函館区検察庁
・松前区検察庁(管轄区域は松前郡だが函館地方検察庁舎内に所在)

●立法

★函館市議会

・定数 38人
・現議員数 37人
・議長 阿部善一
・任期 2007年5月2日から2011年5月1日まで

★会派別構成

会派 議席数
民主・市民ネット 10(議長を含む)
新生クラブ 9
市民クラブ 6
公明党 5
日本共産党 4
無所属 3

★北海道議会議員

函館市単独で1つの選挙区(函館市選挙区)を有し、定員は6名である。議員と所属政党は、以下の通りである。任期は、2011年4月29日まで。(得票順位の上位から示す)

・横山信一(公明党・2期目)
・川尻秀之(自由民主党・5期目)
・高橋亨(民主党・2期目)
・平出陽子(民主党・5期目)
・斉藤博(民主党・4期目)
・佐々木俊雄(自由民主党・1期目)

★衆議院議員

函館市は、渡島支庁、桧山支庁全域の北海道第8区となっており、議員と所属政党は、以下の通りである。

・金田誠一(民主党・5期目)

●経済

★産業

・主な産業は、漁業と観光。
近海の豊富な水産資源を活用した食品加工業が盛んである。イカソーメンやイカの塩辛・燻製など「イカの街」としてのイメージを全国的に広げようとしている。イカは市の魚にもなっている。また小樽市とともに北海道を代表する「鮨の街」としての自負もある。

幕末の開港とともに西洋の文化がいち早く流入し、その後の市街の形成の中で取り込んでいったため史跡や名所を数多く抱えている。さらに温泉地や街を一望できる函館山、隣接する七飯町の大沼国定公園(景勝地)といったように天然資産にも恵まれている。このため一年を通じて訪れる観光客の数は多く、大小さまざまな宿泊施設や朝市に代表される土産物店が軒を連ねる。

往時よりは斜陽になっているが津軽海峡以北では唯一の造船所が立地していることもあり、関連産業も息づいている。
臨港部には油槽所や鉄工所、函館臨空工業団地には電気・電子関連の工場、函館テクノパークにはIT関連企業などが立地している。

函館市は青森県との関わりもあり、函館市に本社を置くテーオー小笠原は青森県にも支店・店舗を置く。青森県発祥のデンコードー(本社・宮城県名取市)も函館市に店舗を置く(現在はケーズデンキ函館本店 By Denkodoである)。

交通部門としては、道南自動車フェリー・青函フェリーが函館市に本社がある。函館からの航路は大間・青森を結ぶ航路のみである。

★農協・漁協

・函館市亀田農業協同組合(JA函館市亀田)
・新函館農業協同組合(JA新はこだて)函館支店
・函館市漁業協同組合
・銭亀沢漁業協同組合
・戸井漁業協同組合
・えさん漁業協同組合
・南かやべ漁業協同組合

★金融機関

・日本銀行函館支店
・函館信用金庫(本店と9支店)
・函館商工信用組合(本店と5支店)
・北洋銀行(11支店。うち2支店は2008年10月10日まで札幌銀行函館支店・亀田支店)
・北海道銀行(7支店)
・みずほ銀行函館支店
・青森銀行(3支店)
・みちのく銀行(6支店)
・北陸銀行函館支店・五稜郭支店
・江差信用金庫函館支店
・渡島信用金庫(4支店)

●郵便

・函館中央郵便局(日本郵便函館支店・かんぽ生命函館支店併設)
・函館北郵便局(日本郵便函館北支店・ゆうちょ銀行函館店併設)
・函館東郵便局(日本郵便函館東支店併設)
・石崎郵便局(日本郵便函館支店石崎集配センター併設)
・尻岸内郵便局(日本郵便函館支店尻岸内集配センター併設)
・南茅部郵便局(日本郵便函館支店南茅部集配センター併設)
・戸井郵便局
・古武井郵便局
・椴法華郵便局

●姉妹都市・提携都市

★国内

青森市(青森県)
1989年(平成元年)3月13日「ツインシティ(双子都市)」提携。

★海外

・ハリファックス市(カナダ・ノバスコシア州)
1982年(昭和57年)11月25日提携
・ ウラジオストク市(ロシア連邦沿海地方)
1992年(平成4年)7月28日提携
・レイクマコーリー(オーストラリア連邦ニューサウスウェールズ州)
1992年(平成4年)7月31日提携
・ユジノサハリンスク市(ロシア連邦サハリン州)
1997年(平成9年)9月27日提携
・天津市(中国)
2001年(平成13年)10月18日友好交流都市提携

●地域

★人口

1980年 345,165人 
1985年 342,540人 
1990年 328,493人 
1995年 318,308人 
2000年 305,311人 
2005年 294,264人

★健康

★保健所

・北海道渡島保健福祉事務所
・市立函館保健所

★病院

国立病院機構 太字

・函館病院

市立 太字

・市立函館病院
・市立函館恵山病院
・市立函館南茅部病院

★社会体育施設

・体育館 - (函館市民・函館市古部・函館市磯谷)
・プール - (函館市民・函館市南茅部)
・運動場 - (千代台公園陸上競技場・函館市戸井運動広場・函館市南茅部運動広場)
・野球場 - (千代台公園・根崎公園・新川公園・函館八幡宮外苑)
・庭球場 - (千代台公園・青柳市民・日吉市民・NHK広場・函館市南茅部市民)
・サッカー場 - (函館市日吉)
・ラグビー場 - (根崎公園)
・弓道場 - (千代台公園)
・アーチェリー場 - (根崎公園)
・スキー場 - (函館市臼尻)
・スケート場 - (冬季のみ函館市営競輪場内に開設)

★その他の施設

・函館市営熱帯植物園
・温泉 - (函館市営谷地頭温泉・ふれあい湯遊館・函館市恵山市民センター・水無海浜温泉・函館市南茅部保養センター)
・オートキャンプ場 - (トーパスヴィレッジ・ムーイ・函館白石オートキャンプ場〈ゴルフ場も隣接〉)

★教育

★大学

国立大学法人 太字

・北海道教育大学函館校
・北海道大学函館キャンパス(水産学部、大学院水産科学研究科)
・北海道大学北方生物圏フィールド科学センター臼尻水産実験所

公立 太字

・公立はこだて未来大学

私立 太字

・函館大学

★短期大学

私立 太字

・函館短期大学
・函館大谷短期大学

★外国大学指定日本校 [編集]

・専修学校ファーイースタンステイトユニバーシティ函館校(ロシア極東国立総合大学函館校)

★高等専門学校 [編集]

独立行政法人国立高等専門学校機構
函館工業高等専門学校

★高等学校 [編集]

道立 太字

・北海道函館中部高等学校
・北海道函館稜北高等学校
・北海道函館西高等学校
・北海道函館工業高等学校
・北海道函館商業高等学校
・北海道戸井高等学校
・北海道南茅部高等学校

市立 太字

・市立函館高等学校(函館東高等学校と函館北高等学校の合併に伴い、創立)
・北海道函館恵山高等学校(2007年度より、募集停止)

私立 太字

・函館ラ・サール高等学校
・函館白百合学園高等学校
・遺愛女子高等学校
・函館大学付属有斗高等学校
・函館大学付属柏稜高等学校
・函館大谷高等学校
・函館大妻高等学校
・清尚学院高等学校

★中学校

国立大学法人附属中学校 太字

・北海道教育大学附属函館中学校

市立 太字

・西中学校
・潮見中学校
・本通中学校
・凌雲中学校
・五稜中学校
・大川中学校
・港中学校
・光成中学校
・的場中学校
・深堀中学校
・湯川中学校
・戸倉中学校
・旭岡中学校
・亀尾中学校
・鱒川中学校
・北中学校
・赤川中学校
・桔梗中学校
・亀田中学校
・恵山中学校
・臼尻中学校
潮光中学校
・日新中学校
・椴法華中学校
・尾札部中学校
・宇賀の浦中学校
・桐花(とうか)中学校
・銭亀沢(ぜにがめざわ)中学校[1]

私立 太字

・函館ラ・サール中学校
・函館白百合学園中学校
・遺愛女子中学校

★小学校

国立大学法人附属小学校 太字

・北海道教育大学附属函館小学校

市立 太字

・西小学校
・弥生小学校
・青柳小学校
・あさひ小学校
・中部小学校
・北星小学校
・八幡小学校
・万年橋小学校
・港小学校
・高盛小学校
・中島小学校
・千代田小学校
・柏野小学校
・金堀小学校
・駒場小学校
・深堀小学校
・本通小学校
・北日吉小学校
・北昭和小学校
・湯川小学校
・高丘小学校
・上湯川小学校
・旭岡小学校
・亀尾小学校
・鱒川小学校
・東小学校
・石崎小学校
・桔梗小学校
・中の沢小学校
・磨光小学校
・昭和小学校
・亀田小学校
・赤川小学校
・中央小学校
・北美原小学校
・南本通小学校
・神山小学校
・東山小学校
・臼尻小学校
・千代ヶ岱小学校
・鍛神(たんしん)小学校
・日吉が丘小学校
・戸井西小学校
・日新小学校
・えさん小学校
・椴法華(とどほっけ)小学校
・木直小学校
・大船小学校

私立 太字

・函館三育小学校

★その他の学校

国立大学法人附属養護学校 太字

・北海道教育大学附属養護学校:小・中・高

道立 太字

・函館盲学校(もうがっこう):幼・小・中
・函館聾学校(ろうがっこう):幼・小・中
・五稜郭養護学校:小・中
・函館養護学校:小・中・高

★社会教育施設

・函館市中央図書館 - (函館市五稜郭町)
インターネット利用サービスやAV視聴サービスも行っている。
・市立函館博物館
・函館市北方民族資料館
・函館市北洋資料館
・函館市灯台資料館(ピカリン館)
・函館市戸井埋蔵文化財展示館
・函館市大船遺跡埋蔵文化財展示館
・函館市文学館
・北海道立函館美術館
・公民館 - (函館市・函館市亀田・函館市戸井・函館市南茅部)
・函館市民会館
・函館市芸術ホール

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中でも此処は、「日本最初」だと謂われているそうです・・・パート4

続いて、函館港があります、「函館市」について書いていきたいと思います。

●函館市について

函館市(はこだてし)は、北海道の南部に位置する市。北海道内では旭川市に次ぐ第3の人口を有する。漁業(港湾)と観光の街。函館山からの夜景が美しく津軽海峡に浮かぶ漁り火(いさりび)がそれに花を添える。中核市に指定されている。

道内では比較的温暖な気候で温帯に属し、陸・海・空の交通の要衝として、また、道南地方の行政・経済・文化の中心として発展した。 平成16年(2004年)12月1日、戸井町・恵山町・椴法華村・南茅部町(いずれも当時)が函館市に編入合併した。 平成17年(2005年5月)北海道新幹線 新青森~(仮称)新函館間(現 函館本線 渡島大野駅付近)フル規格で着工。 平成27年度(2015年度)北海道新幹線 新青森~(仮称)新函館間開通予定。(ただし函館市内は通過しない)

函館市
はこだてし 国  日本
地方 北海道地方
都道府県 北海道 渡島支庁
団体コード 01202-5
面積 677.92km²

総人口 284,910人
(住民基本台帳人口、2009年3月31日)
人口密度 420人/km²
隣接自治体 北斗市、七飯町、鹿部町、青森県大間町
市の木 おんこ(いちい)
市の花 つつじ(やまつつじ)
他のシンボル 市の鳥 : ヤマガラ
市の魚 : イカ

●地理

★地名の由来

古来、この地はウスケシ(宇須岸)と呼ばれていた。1454年(享徳3年)、南部氏との戦いに破れた津軽の豪族・安東政季を擁し、武田信広らと共に蝦夷地に渡った河野政通が、函館山の麓(現在の弥生町付近)に築いた館(「宇須岸館」とも「河野館」とも呼ばれる)が箱に似ていたため箱館と呼ばれるようになり、明治時代になって函館と改められたとされるが、諸説ある。

★地勢

北海道渡島半島南部、亀田半島に位置し、東西と南は海(津軽海峡と函館湾)に面している。市街地は、古火山である函館山とつながる陸繋島である函館半島から、七重浜方面・亀田平野方面・横津岳山麓方面・湯の川方面に展開している。

深い入り江のある、扇を開いたような地形のため、俗に「巴港」(「ともえみなと」や「はこう」とも)と呼ばれる天然の良港として栄えた。市章にも「一つ巴」が採用されている。 行政区域としては北海道渡島支庁に所属する。

・山

・函館山(334m)
・三森山(842m)
・毛無山(630m)
・袴腰岳(1108m※函館最高峰)
・釜谷富士岳(228m)
・恵山(618m※市内唯一の活火山)
・台場山(528m)
・泣面山(835m)

・河川

・亀田川水系(亀田川・笹流川・赤井川・黒井川)
・常盤川水系(常盤川・石川・小田島川)
・松倉川水系(松倉川・湯の川・湯の沢川・鮫川・深堀川)
・汐泊川水系(汐泊川・温川)
湖沼
・笹流貯水池(人造湖、ダム湖百選)
・新中野貯水池(人造湖)

・岬

・立待岬
・大鼻岬
・汐首岬
・日浦岬
・恵山岬
・黒羽尻岬

★気候 [編集]

対馬海流の影響のため北海道の都市としては冬の寒さは厳しくなく、夏の平均気温はむしろ札幌より低い。また、降雪量も少ない。このため函館はとても過ごしやすい気候の都市であり、日本では珍しい西岸海洋性気候(気候区分Cfb/c)に分類されることもある。

●歴史

幕末の開港以来、港の発展とともに歩んできた街であり、それに呼応して函館山の周辺から亀田半島方面に向かって市街地が拡がってきた。旧亀田市との合併などはこの流れを受けてのものであり、大野平野を抱える七飯町や北斗市の人口増加にも影響を与えてきた。これらを裏付けるように街の盛り場も十字街地区から大門地区へ、さらに五稜郭地区、昭和・美原地区へと変遷している。

明治の開拓使時代には出張所や支庁が置かれた。その後それらが廃止され北海道庁が設立されるまでのわずかな期間には、函館県の県庁所在地でもあった。このような経緯で道南地方の中心地としての礎が築かれ、今日では主だった国の出先機関や北海道の出先機関である渡島支庁などの行政機関が一通り所在している。教育においては旧制中学校や高等女学校、実業学校という中等教育学校や師範学校が明治時代に相次いで設立され、それらの後身校や新学制以降の設立校が今日まで所在している。医療においても幕末に設立された医学所に端を発する市立病院や他の総合病院など多数が所在している。

地理的に本州に最も近い港町であるため明治時代から海運は発達し、北海道と本州との連絡としてかつては青函連絡船が、そして今なお定期フェリーが青森との間に就航しており物流の結節点となっている。道都である札幌との間の陸上交通として、鉄道では函館本線(通称:山線)が、道路では国道がともに明治時代に全通し、以降は室蘭・千歳経由の路線(通称:海線)の設置や車両の改良、道路の舗装や拡幅工事などが進められ、時間距離は短縮してきている。近年は札幌側から高速道路が着々と延伸されてきており、一般国道との二重路線化がなされようとしている。空港も昭和中期に開港して以来、滑走路の延長やターミナルの整備が進められ、ジャンボジェット機などによる定期便やチャーター便の就航により国内はのみならず、近年は台湾など国外からの観光客の入れ込みが増えている。また将来的には隣接する北斗市までの北海道新幹線の延伸開業が決定しており、青函トンネル前後の区間で工事が行われている。

高度経済成長期には地場産業の要である造船とその関連産業が大いに賑わい活気に溢れていたが、オイルショックを境にそれらは一気に冷え込み街に暗い影を落とした。同様にかつては北洋漁業の基地としても栄えており漁船団の一斉出漁なども風物詩として見られたが、ロシア(当時はソ連)の200海里経済水域の設定以降はその姿が消えてしまった。青函連絡船が出港・入港時に鳴り響かせていた汽笛の音も廃止とともに回数は激減し、今では記念館として係留されている摩周丸が12時と17時に鳴らすだけの静かな港になった。バブル経済の崩壊後は、以前より街中の空き家や空きビル、空き地(駐車場)などが目立つようになっている。

経済の悪化に対処するべく企業誘致を進めるとともに、20世紀末からは情報系大学の設立による「IT」産業の育成や「国際水産・海洋都市構想」に基づく試みなど新たな地域発展に向けての取り組みが行われている。

★沿革

・1454年ごろ 河野政通が宇須岸(うすけし、元はアイヌ語で湾の端を意味するウショロケシ)と呼ばれていた漁村に館を築く(この館が箱の形に似ているところから「箱館」と呼ばれることになった)。
・江戸時代に高田屋嘉兵衛が箱館を拠点にした。蝦夷地交易の場として栄え、松前藩の役所が置かれた。蝦夷地が天領となると幕府の奉行所が置かれた。
・1854年 日米和親条約によって補給港となる。
・1859年 日米修好通商条約により、日本初の国際貿易港として開港、外国人居留地が設置される。
・1864年 五稜郭竣工。新島襄海外脱出。
・1868年 戊辰戦争後期、榎本武揚らが箱館を占領。蝦夷共和国を宣言。五稜郭を拠点とする(箱館戦争)。
・1869年 新政府軍に榎本武揚らが降伏。
・1869年 箱館から函館に改称する。
・1872年 函館気候測量所が設立される。(我が国初の気象測候所)
・1879年 明治12年大火。堀江町(現末広町)から出火、2千戸あまりが焼失。
・1882年 開拓使廃止、函館県庁が置かれる。
・1886年 三県廃止により北海道庁が開庁、函館県庁が閉庁される。
・1897年 函館馬車鉄道営業開始。
・1896年 渡島国亀田郡湯ノ川村大字湯ノ川字柏野(現在の駒場町)に函館競馬場開設(現存する日本最古の競馬場)。
・1899年 函館、亀田郡亀田村の一部を併せ、区制施行「函館区」。函館山に要塞完成(50年弱市民の函館山入山禁止が続く)「要塞地帯法」公布、陸海軍省より「函館要塞地帯」公示(指定区域内の写真撮影スケッチなど無断記録行為禁止、建築規制など)。
・1900年 函館要塞司令部設置
・1902年 亀田郡亀田村、神山村、鍛治村、桔梗村、石川村を併せて、2級町村制施行「亀田村」(現在の亀田支所管内)。亀田郡上湯川村、下湯川村、亀尾村を併せて、2級町村制施行「湯川村」(現在の湯川支所管内)。亀田郡銭亀沢村、根崎村、志苔村、石崎村を併せて、2級町村制施行「銭亀沢村」(現在の銭亀沢支所管内)。亀田郡戸井村、小安村を併せて、2級町村制施行「戸井村」(現在の戸井支所管内)
1906年 亀田郡尻岸内村が2級町村制施行(現在の恵山支所管内)。茅部郡臼尻村、熊泊村を併せて、2級町村制施行「臼尻村」(現在の南茅部支所管内)
・1907年 明治40年函館大火
・1913年 馬車鉄道の軌道を利用して路面電車が運行開始。
・1919年 亀田村(当時)が1級町村制施行。椴法華村が2級町村制施行(現在の椴法華支所管内)
・1922年 函館区(当時)が市制施行、「函館市」に。
・1923年 湯川村(当時)が1級町村制施行。
・1927年 函館要塞司令部、津軽要塞司令部に改称。
・1932年 NHK函館放送局開局。
・1934年 昭和9年函館大火。死者2,166名。
・1935年 この年、開港77周年記念と、大火で傷ついた市民の慰撫・復興祈念のために、函館港まつりはじまる。
・1936年 湯川村(当時)が町制施行「湯川町」。
・1939年 亀田郡湯川町が函館市に編入合併。
・1945年 函館空襲、西部地区及び青函連絡船に被害、死者多数。終戦。
・1946年 函館山、一般市民に開放。
・1950年 函館競輪場(冬季はレース<場外レース扱い>が出来ないため、市営スケート場になることがある)開設。
・1954年 青函連絡船洞爺丸他4隻、函館湾内七重浜沖にて沈没(洞爺丸事故)。死者乗客乗員合計1430名。戦後世界最大の海難事故。北海道放送(HBC)テレビ試験放送開始。
・1959年 茅部郡尾札部村、臼尻村を併せて、町制施行「南茅部町」(現在の南茅部支所管内)
・1961年 函館空港開港。
・1962年 亀田村(当時)が町制施行「亀田町」。
・1964年 尻岸内村(当時)が町制施行「尻岸内町」。
・1966年 亀田郡銭亀沢村が函館市に編入合併。
・1968年 戸井村(当時)が町制施行「戸井町」。
・1971年 亀田町(当時)が市制施行「亀田市」。
・1973年 亀田市が函館市に編入合併。
・1976年 ベレンコ中尉亡命事件。ソ連空軍機MiG-25が領空侵犯の上函館空港に強行着陸。パイロットのV.I.ベレンコ中尉はアメリカに亡命。MiG-25の機体は、ソ連に返還。
・1981年 函館港まつりにおいて「いか踊り」初披露(1986年 レコード化)。
・1985年 尻岸内町(当時)が町名変更「恵山町」。
・1988年 青函トンネルとJR津軽海峡線開業、青函連絡船廃止、青函トンネル開通記念博覧会開催。
・1993年 北海道南西沖地震発生。テレビ北海道(TVh)函館基幹送信所開局。函館基幹送信所の開局を持って基幹送信所の設置は事実上打ち切りとなった。
・1994年 それまで、函館空港では、チャーター便や成田空港などの国際空港が天候で使用不能時に国際線が離発着したことがあったが、函館空港から離発着できる常設の国際線開設(函館~サハリン・ユジノサハリンスク間)。
・1995年 全日空機ハイジャック事件発生。
・2000年 特例市指定。
・2002年 市制80周年。東北新幹線が盛岡~八戸間開業伴い、88年から津軽海峡線で走行してきた特急「はつかり」(盛岡以北から東北本線<青森止まりを除く>経由津軽海峡線、函館止まり)と快速「海峡」(青森以北、津軽海峡線函館止まり)が廃止され、変わりに特急「白鳥」「スーパー白鳥」が八戸~函館間を走行。
・2004年 亀田郡戸井町・恵山町・椴法華村・茅部郡南茅部町が函館市に編入合併。
・2005年 中核市指定。ただし、住民基本台帳や2005年国勢調査では、すでに30万人割れ。2000年国勢調査で30万人を超えていたことを根拠に中核市にすべりこんだ。
・2007年 10月1日、NHK函館放送局と道内民放5局の地上デジタル放送スタート。送信所はすべて函館山に設置されたが、UHFを使用。そのため、既にアナログ放送がUHFで放送されている北海道テレビ放送(HTB)、北海道文化放送(UHB)、TVhと同様、NHK函館放送局、HBC、札幌テレビ放送(STV)も送信アンテナに指向性がかけられ青森県側に電波が飛ばないような工夫がなされている。ただし、大間町周辺は受信が絶対不可能ではない)。放送開始に先駆け、道内中継局では一番早く、7月30日に試験電波の発射を開始した。

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中でも此処は、「日本最初」だと謂われているそうです・・・パート3

今日は、「函館港開港記念日」ということで、続いては、この「函館港」ついて書いていきたいと思います。

●函館港について

函館港(はこだてこう)は函館市に位置する港湾である。函館湾に面する。港湾管理者は函館市。港湾法上の重要港湾、港則法上の特定港に指定されている。

●概要

波浪の少ない天然の良港として、中世から港として利用されてきた。江戸時代には北前船の寄港地として、明治以降は北海道の玄関地および北洋漁業の本拠地として繁栄した。現在、函館港では主に国内貨物が扱われセメントや石材が移出され、石油製品や廃棄物などが移入されている。取扱高は北海道全体の約15%で、苫小牧港・室蘭港に次いで道内3位である。また港奥に埋積した大量の土砂を処理するために、浚渫土を使って作られ約8ヘクタールの人工島・「緑の島」が港の南部にある。

●歴史

海外開港以前 太字

函館湾内の箱館一帯はかつて宇須岸(うすけし)と呼ばれ、15世紀には河野氏がいた。アイヌの攻撃を受けて一時後退したが16世紀初頭には宇須岸には若狭国から毎年3回商船が来航し、海岸には問屋が並んでいた。宇須岸は天然の良港で「纜知らずの湊」とも呼ばれて交易が盛んになったが1512年(永正9年)にはアイヌに攻撃され、その後は和人は松前と上ノ国に集まり宇須岸は衰退したという

松前藩は亀田を和人地の東限とし箱館は空家などが見られ、函館湾に流入していた亀田川河口の亀田湊の方が繁栄していたとされる[3]。この頃には箱館湊という表記が使われており、1717年(享保2年)の『松前蝦夷記』によるとやがて亀田湊に土砂が流入して廻船が寄港できなくなり代わって箱館湊が利用されるようになったとされる。箱館では亀田半島南岸で産出する昆布が盛んに買われた。享保年間に松前藩が場所経営を請負制にしてからは物流が活発になり、寄港する船舶が増加した。1739年(元文4年)の記録では箱館は廻船が寄港して繁昌し、奥羽で最も波浪が穏やかな港のため東回り廻船が天候の様子見をしていたとある。

松前城下近郊で採れた昆布のほか、蝦夷地東部からの集荷も担当したために箱館湊は飛躍的に発展した。このため亀田にあった亀田番所は1741年(寛保元年)に箱館に移設され、この番所で沖之口業務も行なわれた。。なお、『蝦夷島奇観』によると移設は1747年(延享4年)ともされる。さらに1785年(天明5年)には長崎俵物会所が箱館に設置され、北国の俵物の集荷拠点となった。『東遊記』は松前や江差に比べ、箱館湊はどの方向の風でも問題がなく便が良いとしている。19世紀に入ると1801年(享和元年)に内澗町に掘割が、1804年(文化元年)には堤の先に築島して造船所が、1811年(文化8年)には沖之口番所がそれぞれ設けられた。箱館を拠点とし蝦夷地御用定雇船頭にも任命された高田屋嘉兵衛は国後島や択捉島、根室などの場所を請負い豪商として箱館の発展に寄与している。

開港以降 太字

1854年3月31日(嘉永7年3月3日)に日米和親条約が締結されて同日開港の後、マシュー・ペリーは旗艦以下5艦を率いて同年5月17日(4月21日)に箱館湊に入港して測量などを行なった。この際、複数の乗組員が箱館とイベリア半島先端のジブラルタルがよく似ているとの印象を受けたという[5]。一方、この条約で翌1855年(安政2年)から薪水や食料の補給港として箱館が開港される事になったため江戸幕府は箱館付近を直轄領として箱館奉行を置き、湊の防衛と外交のために奉行所移転を進めた。1859年(安政6年)には砂洲の中央の南北方向に願乗寺川の掘割が作られ運搬用の小舟が運行できるようになり、同年7月1日(6月2日)に開港した。外国との貿易が始まると鯣、昆布などがイギリスやアメリカに輸出されたが横浜港や長崎港よりも貿易額はかなり低かった。

明治維新後は1869年(明治2年)に開拓使の所管となって函館港と呼ばれ、1879年(明治12年)から港湾整備の調査が行われた。担当の内務省技師・モルトの提言に基づき、亀田川を付替えて津軽海峡に面する大森浜へ向かわせ砂や泥の港への流入を防いだ。同年に開拓使は三菱会社に青函航路を運営委託したが貨物の扱いなどの評判が悪く1882年(明治15年)に開拓使が廃止されて農商務省に移管された後、船は北海道運輸会社に貸与された。同年に北海道運輸が合併して共同運輸会社を設立して青函航路を開設すると、三菱との間で激しい競争が起きた。共倒れの懸念などから政府が仲裁し、1885年(明治18年)9月に両社が合併して日本郵船株式会社が設立された。

1896年(明治29年)から函館港の本格整備が始まり港内の浚渫や砂防堤・防波堤・灯台の設置、埋立てによる埠頭の建設などが行われた。1907年(明治40年)には第二種重要港湾に指定され、翌1908年(明治41年)には国鉄の青函連絡船が開設されて北海道と本州を結ぶ港としての重要性が高まった。また1907年(明治40年)には日露漁業条約が結ばれてロシア領海での漁業権が拡大し、大正時代には北洋漁業の拠点として海産物の出荷が盛んになった。第二次世界大戦中は北海道の石炭を本州へ輸送する役割を果たし、1945年(昭和20年)7月の米軍による空襲で連絡船12隻がほぼ全滅している。

戦後は1951年(昭和26年)に重要港湾に指定されるとともに港湾運送事業法が適用され、また出入国管理令に基づいて出入国港に検疫法に基づいて検疫港に指定されている。1952年(昭和27年)から造成した中央埠頭は1958年(昭和33年)に完成し、この間の1953年(昭和28年)に港は函館市に移管された。1952年(昭和27年)に北洋漁業が再開されるとサケ・マス漁などが行なわれたが、1977年(昭和52年)に排他的経済水域が設定されると北洋漁業の拠点としての約割を終えた。函館の風物詩といわれた近海のイカ漁は昭和30年代にピークを迎え、その後は低調になっている。

1964年(昭和39年)に大間港(現・青森県大間町)との間に、1967年(昭和42年)には青森港との間に道南海運(現・東日本フェリー)が就航した。また、1974年(昭和49年)に万代埠頭の供用が始まっている。一方で1988年(昭和63年)には青函トンネルが完成し、青函連絡船は歴史的な役割を終えた。1991年(平成3年)から港町地区に大型公共岸壁を整備する工事が始まり2002年(平成14年)度、2003年(平成15年)度にそれぞれ水深14mと12mの埠頭岸壁が供用されている。2007年(平成19年)に東日本フェリーが導入する高速船に対応するため旅客用フェリーターミナルを新築した。

●利用状況

フェリー 太字

道南自動車フェリー(津軽海峡フェリー)
函館港~青森港:「びなす」「びるご」「えさん2000」「えさん」
函館港~大間港:「ばあゆ」
青函フェリー(共栄運輸(栗林商船グループ)と北日本海運(日本通運グループ)による共同運行)
函館港~青森港:「3号はやぶさ」「はやぶさ」(共栄運輸)「あさかぜ21」「あさかぜ5号」(北日本海運)

●参考文献

・日本歴史地名大系(オンライン版) 小学館
1. 『福山秘府』
2. 『新羅之記録』
3. 『津軽一統志』
4. 『北海随筆』
5. 『ペリー艦隊日本遠征記』

●関連項目

・条約港
・青函連絡船
・海上自衛隊 - 函館基地 - 大湊地方隊 - 函館基地隊

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中でも此処は、「日本最初」だと謂われているそうです・・・パート2

今日、7月1日は、「函館港開港記念日」です。開港から今年で、150年の歳月です。早いものです・・。
それでは、つづいては、「函館港」について書いていきたいと思います。

★ようこそきらめきとふれあいの街・国際観光都市 函館

函館港はその形から「巴の港」ともいわれ、深い入江のある恵まれた地形が港町としての歴史を決定づけました。北海道の表玄関と地の利もよかったので、海運によって発達、蝦夷地と呼ばれていたころから、交易が盛んでした。

安政6年(1859年)、横浜・長崎とともに日本で初の国際貿易港として開港。欧米文化の影響を直接受け、元町を中心に栄えていきました。教会や旧領事館、石畳の坂道など、異国情緒あふれる街並みは往時を偲ばせます。そして、明治維新における函館戦争や、北洋漁業の繁栄による街並みなど歴史が交錯する函館独特の街が形造られました。

★世界の「ハコダテ」はトレンディの発信基地!!

箱館港に初めて入港した外国船は、寛政5年(1793年)、交易を求めてやってきたロシアのエカテリーナ号でした。その後もイギリス船などの外国船出没騒ぎが続き、江戸幕府は北方警備のために享和2年(1802年)、箱館奉行を置きました。ここに箱館は蝦夷地の中心として栄え始めます。 諸外国がアジアに手を広げだした時期でもあり、ロシアは自国軍艦や商船の寄港地として、アメリカは北太平洋捕鯨船の寄港地および対中国貿易品をストックする場として、日本の開港を望んだのです。

嘉永7年(11月から安政元年)(1854年)、米国東インド艦隊司令長官ペリー提督との間で、ついに日米和親条約が締結され、わが国は箱館と下田の開港を約束、ペリー提督はその足で艦隊をひきつれて箱館の視察に訪れました。
和親条約が締結された翌年から、外国船が盛んに箱館港に入港し始め、その後の米・蘭・露・英・仏との通商条約を経て、安政6年(1859年)には横浜、長崎とともに、日本初の国際貿易港として開港、世界の「ハコダテ」は大きく発展しました。往時の中心地、元町は異国情緒あふれる街並みを今に伝えています。

また、外国人との交流も深まり、北海道初、日本初のもの(ストーブ、西洋料理店、気候測量所など)がたくさん誕生、”北の文明開化”の地、箱館はトレンディの発信基地でもありました。

★「箱館戦争」の勃発

明治元年(1868年)、10月20日朝、旧幕臣・榎本武揚らは軍艦「開陽丸」以下7隻の艦隊を率い、鷲の木の浜に入った。旧幕府軍は総勢約3,000名、加えてフランス軍人が10名、6日後は五稜郭を無血占拠、旧幕臣のための蝦夷地開拓をアピールしました。
 
翌年の5月11日、政府軍は箱館を海と陸から総攻撃し、18日にはついに旧幕府軍が降伏。開陽丸を蝦夷地に着いてまもなく暗礁に乗り上げて失ったことが敗戦を早めたとも。元新撰組副長・土方歳三もこの戦いで生涯を終えました。ここに封建時代は終焉を迎え、蝦夷は北海道に、箱館も函館と改められ、街は平静を取り戻したのです。この戦争での大海戦は、近代戦では初めてのものでした。

★函館の盛衰を左右した北洋漁業

幕末の頃から行われていた北方出漁は、日露戦争のために中止となっていましたが、明治40年(1907年)に日露漁業条約が結ばれて、北洋漁業は発展し始めました。

大正10年(1921年)に創設された日魯漁業(株)は、世界最大の漁業会社といわれ、「嫁にやるなら日魯の社員」という言葉がうまれたほど。タラ延縄(はえなわ)や母船式カニ漁で北洋漁業は黄金時代を迎え、貿易は満州や欧州各国、アジアまでひろがりました。
 
北洋の基地という栄光の座が奪われたのは、太平洋戦争の敗戦による漁場締め出し。昭和27年には戦前に比べてスケールは小さくなったものの再開されました。

★激動期、流れを決した「五稜郭」

日本初の洋式城郭、箱館戦争の舞台 特別史跡五稜郭跡

わが国最初の洋式城郭。五つの稜が星型に突き出ているため五稜郭の 名がある。幕府が北方防備のために弁天砲台(函館ドック付近)とともに安政4年(1857年)から7年がかりで築造しました。ヨーロッパの城を参考に蘭学者、武田斐三郎が設計。鉄砲など近代兵器に対処できるようプランを練りました。各稜に砲をおけば死角も少なく、砲火をあびせられるというわけです。
 
奉行所がありましたが明治5年に取り壊し、現存しているのは兵糧庫と井戸のみ。
日本最後の内戦「箱館戦争」の舞台となったところで、明治元年(1868年)、大政奉還に不満をもった旧幕臣・榎本武揚、大鳥圭介らがここを占拠し、翌年5月に降伏、開城しました。彼らが抱いた「蝦夷共和国」建設の夢ははかなく消えました。

公園内の市立博物館分館には武器、衣服など関係資料を多数展示。
現在は、桜の名所として知られ、幅30mの外堀には鯉が悠々と泳ぎ、貸しボートも人気があります。

市電五稜郭公園下車、徒歩15分  公園の入口には五稜郭タワーがあり、地上約60mの展望台から、史跡五稜郭を俯瞰眺望することが出来ます。なお、1階展示ホールには、五稜星型文化が、どういう目的で生まれ、世界中にどのように伝播したかを紹介する資料が展示されています
 
このことは、函館市ホームページの「函館観光情報」→「函館の歴史」で詳しくご覧いただくことができます。

※参考までです。

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中でも此処は、「日本最初」だと謂われているそうです・・・パート1

皆さん、こんにちわ。更新です。今日は、月の2日です。早いもので、一年の半分を過ぎました。今日は、7月1日は、「函館港開港記念日」です。日本の五大都市開港の一つです。この函館港も今年で150年の月日が経っているそうです。先日も五大港の「横浜港」について書きました。
今回は函館港です。
ということで、今日は、この、「函館港開港記念日」について書いていきたいと思います。

まずは、おさらいの意味で、先日も書きました、「開港記念日」について書いておきますね。

●開港記念日について

最初に調印された日米修好通商条約では、神奈川・長崎・函館を1859年(安政6年)7月4日に開港することになっていた。この日はアメリカの独立記念日にあたる。次の日蘭条約もこれを踏襲したが、続く日露条約で7月1日とされ、日英条約もそれに従った。
日仏条約では8月15日になっているが、これは当時のフランス皇帝、ナポレオン3世の誕生日にあたる。 結局、最恵国条款により、5か国すべてに対して、7月1日(陰暦の6月2日)に開港されることになったのである。

「村垣淡路守公務日記」を見ると、開港当日の7月1日、これを記念するような行事は何もなかった。「アメリカ彦蔵自伝」によると、7月4日、湾内に停泊する船に旗が掲げられ、米領事館に当てられた神奈川の本覚寺では、墓地の大木に星条旗が掲揚され、公使ハリスを始め、領事ドーア、 領事館員のヒコやヴァン・リードらはシャンペンを抜いて合衆国国歌を合唱した。「明治事物起源」は、これを「横浜開港記念日の始」としているが、開港を祝したのか、合衆国の独立を祝ったのかはっきりしない。いずれにしてもアメリカ人だけの祝賀行事であった。
 
「横浜沿革誌」によると、1860年(万延元年)6月2日、開港1周年を記念するため、洲干弁財天で祭礼が挙行され、 「外国人ニ示サンカ為メ男女美麗ヲ尽シ」、山車・手踊りで市街を練り歩いた。本来8月15日であった洲干弁財天の例祭は、以後この日に変えられた。これが開港記念日の淵源である。
1909年(明治42年)には、開港50年祭が全市を挙げて盛大に行なわれ、浜菱の市章と市歌もこの時に定められた。 これ以降陽暦を採って7月1日が記念日となる。
1918年(大正7年)から小学校と市役所が休日となった。
1928年(昭和3年)、市会の決議を経て、陰暦の6月2日に戻され、現在に至っている。

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