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今日は、とても大切な帰還です・・・パート9

それでは、続いては、かつて沖縄県の沖縄本島中部にあった市で、2003年に山梨県南アルプス市が誕生するまで日本で唯一のカタカナの市名だった、コザ市について、書きたいと思います。

●コザ市について

コザ市はかつて沖縄県の沖縄本島中部にあった市で、2003年に山梨県南アルプス市が誕生するまで日本で唯一のカタカナの市名だった(厳密に言えば、長野県にあった「篠ノ井市」(現・長野市)もカタカナが付く市である)。また沖縄県内の市、沖縄本島中部では唯一海に面していない自治体だった。

●概要

もともとは「越来(ごえく)」という地名であったが、第二次世界大戦後、駐留軍が“Koza(コザ)”と呼び始めたのがきっかけで、1956年6月に越来村をコザ村と改名した。コザという名は戦後に米軍が一時的に設置した胡差(こざ・Koza)市が元となっており、隣接する美里村の古謝(こじゃ・Koja)と、越来村の胡屋(ごや・Goya)が混同されたのではないかと言われている(占領時にスペルの入力ミスがそのまま利用されてとの説もある)。翌7月に市に昇格し、以後、沖縄本島中部の中心都市として発展。1974年4月1日に美里村と合併し沖縄市となり、コザ市は消滅した。市役所は胡屋に置かれ、合併後はそのまま沖縄市役所となり、のちに行われた住居表示で仲宗根町となった。

●沿革

・1666年 越来間切の東半分を美里間切として分離
・1908年4月1日 島嶼町村制により越来間切が越来村となる。
戦前の越来村は畑の多い農村だった。

・1945年9月 地方行政緊急措置要綱により胡差(こざ)市となる。(同年末で廃止)
その後、畑だったところに嘉手納基地などの米軍基地が次々と建設され大きく一変する。

・1956年6月13日 越来村をコザ村と改称する。
・1956年7月1日 市に昇格、コザ市となる。
・1970年12月20日 コザ十字路付近で交通事故を契機に車両焼打ち事件が発生(コザ暴動)。
・1974年4月1日 隣の美里村と合併し沖縄市となり、コザ市は消滅した。

●隣接していた自治体

・石川市(現在のうるま市、1666年までは同じ越来間切で、以降1945年まで美里間切→美里村の一部だった)
・美里村(現在の沖縄市)
・恩納村
・読谷村
・嘉手納村(現在の嘉手納町)
・北谷村(現在の北谷町)
・北中城村

●現在の“コザ”について

併後、沖縄市となってから「コザ」の名が消え(字名や町名に「コザ」の文字は使われていない)、市役所だけでなく警察署・郵便局・裁判所支部などの公共機関や道路案内標識の表示が次々と「コザ」から「沖縄」と変更した(道路標識は最初「沖縄市」と表示したが、1980年代以降「沖縄」に変更した)。しかし、混乱を防ぐため現在でも県税事務所はコザの名称が使用されているほか、銀行や商店などの民間企業の支店などはコザの名称が使われており、学校名にも残っている。こうして市の中心部は今でも「コザ」の名称で親しまれており、その地へ行く場合「沖縄市へ行く」というよりも「コザへ行く」という人が多く、「沖縄市コザ」と使う人はまずいない。また「コザ」は「胡屋」あるいは「古謝」の転訛であると言われるが、交差点(十字路)は「胡屋(ごやじゅうじろ)」と「コザ(こざじゅうじろ)」が別々に存在し、古謝という地名も健在である。

合併後、沖縄市だけでなく沖縄本島中部の中核都市と発展し人口が県都那覇市に次いで2番目に多く、1980年代半ばには10万人を突破した。また嘉手納基地や嘉手納弾薬庫など多くの米軍基地を抱え、現在でも市の北西部の多くが基地となっている。しかし旧美里村を中心に返還されているところもあり、跡地に住宅が建てられ、市の人口も旧コザ市よりも旧美里村が上回るようになった。かつて市の中心部にあった裁判所や保健所が旧美里村域へ移転していった。

●教育

★大学
かつて国際大学が南桃原付近にあったが、1972年に沖縄大学の一部と統合し宜野湾市に沖縄国際大学を設置したため廃止された。

★高等学校

・沖縄県立コザ高等学校
・沖縄県立球陽高等学校(1989年に開校したが、1970年代までは同敷地内に私立中央高校があった。)
・沖縄県立美来工科高等学校(2005年に中部工業高校から校名変更)

★中学校
・沖縄市立コザ中学校
・沖縄市立安慶田中学校
・沖縄市立越来中学校
・沖縄市立山内中学校

★小学校
・沖縄市立コザ小学校
・沖縄市立中の町小学校
・沖縄市立安慶田小学校
・沖縄市立越来小学校
・沖縄市立室川小学校
・沖縄市立諸見小学校
・沖縄市立山内小学校
・沖縄市立島袋小学校
・北谷町立北谷小学校(北谷町との市町境に接しているところに設置されている)

●交通

道路

沖縄自動車道

沖縄南インターチェンジ

・国道329号(国道330号と交わる交差点が「コザ十字路」)
・国道330号(国道329号と交わる交差点が「コザ十字路」、県道20号と交わる交差点が「胡屋十字路」)
・沖縄県道74号沖縄嘉手納線(主要地方道)
・沖縄県道85号沖縄環状線(主要地方道・一部国体道路)
・沖縄県道23号沖縄北谷線(主要地方道・国体道路)
・沖縄県道20号線(国道330号と交わる交差点が「胡屋十字路」)
・沖縄県道24号線
・沖縄県道26号線

◆路線バス

※詳細は沖縄本島のバス路線を参照。

◆22番・こどもの国宮里線(琉球バス交通)
◆23番・具志川線(琉球バス交通)
◆27番・屋慶名(大謝名)線(琉球バス交通・沖縄バス)
◆30番・泡瀬東線(東陽バス)
◆31番・泡瀬西線(東陽バス)
◆52番・与勝線(沖縄バス)
◆60番・泡瀬循環線(東陽バス)
◆61番・前原線(沖縄バス)
◆62番・中部線(琉球バス交通)
◆63番・謝苅線(琉球バス交通)
◆75番・石川北谷線(琉球バス交通)
◆77番・名護東線(沖縄バス)
◆80番・与那城線(沖縄バス)
◆90番・知花(バイパス)線(琉球バス交通)
◆111番・高速バス(琉球バス交通・沖縄バス・那覇バス・東陽バス4社共同運行)
◆113番・具志川空港線(琉球バス交通) 沖縄南IC以南は沖縄自動車道利用
◆123番・石川空港線(琉球バス交通) 沖縄南IC以南は沖縄自動車道利用
◆223番・具志川おもろまち線(琉球バス交通)
◆227番・屋慶名おもろまち線(琉球バス交通・沖縄バス)
◆263番・謝苅おもろまち線(琉球バス交通)
◆280番・屋慶名(首里駅・国場経由)線(沖縄バス) 沖縄南IC以南は沖縄自動車道利用
◆290番・知花おもろまち線(琉球バス交通)

●主要施設

・アメリカ軍基地
・嘉手納飛行場
・嘉手納弾薬庫
・沖縄こどもの国

いろいろと書きましたが、いかがでしたでしょうか。今日、5月15日は、1972年(昭和47年)のこの日、戦後27年間アメリカの統治下にあった沖縄が日本に返還され、沖縄県としてスタートしたのを記念した日、「沖縄本土復帰記念日」です。最後に、誤解しないでいただきたいのです。これは、あくまでも参考までに書きました。けしてそれぞれの特定の国やその住民の悪口を書いたものではないことを、申し上げておきます。とても大切な問題だと思いましたので書きました。

今日は、沖縄本土復帰記念日。皆さんはどのように思われますか??

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今日は、とても大切な帰還です・・・パート8

それでは、続いてですが、1970年(昭和45年)12月20日未明、沖縄本島中部のコザ市(現・沖縄市)で、米軍兵士が連続して起こした、「コザ暴動」について、お話をしたいと思います。

●コザ暴動について

コザ暴動(コザぼうどう、Koza Riot)とは、1970年12月20日未明、アメリカ統治下のコザ市(現在の沖縄県沖縄市)で、交通事故を契機に発生した車両および米軍施設に対する焼き討ち事件である。当時、米軍人や軍属などが住民に対して起こした犯罪や事故に対して下される処罰が軽微であったこと、特にベトナム戦争下で出撃基地となったことで米兵によるそれらの犯罪や事故が多発したこと、前年に判明した米軍の毒ガス漏れとその撤去に対する米軍の対応の遅れ、さらに上記要件も含めた上での本土並み(基地抜き)復帰運動の高揚、それらに伴う抗議行動に対する在琉米軍の施策である兵士のコザ市内への立ち入り禁止令(オフリミッツ)によって不利益をこうむる者とそうでない者との対立など、群衆の間に長年にわたる不満があったことがその背景とされている。コザ騒動(コザそうどう)、コザ事件(コザじけん)、コザ騒乱(コザそうらん)とも呼ばれる。

●背景

コザ市は戦前は越来(ごえく)村という人口7,000人ほどの農村にすぎなかったが、沖縄戦で上陸したアメリカ軍が同村字胡屋に野戦病院・物資集積所等を建設した。その後難民収容所を開設し「キャンプ・コザ」と称し、戦後、米軍人相手の飲食街を中心として市街地が形成され、1956年に市制を施行してコザ市となった。当時、ベトナム戦争のさなかで戦場を行き来していた米軍人たちの消費活動は著しく、市の経済の約80%は基地に依存していたが、暴動の発生した1970年前後には年間約1,000件の外国人犯罪、年間約3,000件の交通事故があり、犯罪の中には殺人・強盗・強姦などの凶悪犯罪、交通事故の中には死亡事故も含まれていた。しかし、米軍人・軍属による事件は被害者が住民であってもMPによって処理され、非公開の軍法会議において陪審制による評決が行なわれており、無罪や軽罰になる場合が多かったため、人々の間には不満が鬱積していた。

交通事故に関して言えば、1963年2月28日に那覇市の中学生が横断歩道を横断中に赤信号を無視した米軍人の車にはねられる死亡事故があったが、加害者は軍事裁判において「夕日が信号機に当たって見えなかった」などと主張し、最終的に5月に無罪判決が言い渡された。これに対しては、抗議運動が展開された。また、1969年9月18日に糸満町(現・糸満市)の糸満ロータリー付近でアメリカ軍軍曹が泥酔運転をして、歩道を歩いていた女性を死亡させる事故を起こした。それに対し地元の青年たちはMPへの事故車引き渡しを拒否、地元政治組織とともに事故対策協議会を発足させ、警察を通じてアメリカ軍に対し司令官の謝罪・軍事裁判の公開・遺族への完全賠償を要求していたが、事件直前の1970年12月7日に軍事裁判は軍曹を「証拠不十分」により無罪とした。これらの事件が、住民の間に米軍人による事故の処理に不満を抱かせていた。

また米軍はベトナム戦争用の兵器として、コザ市に隣接する美里村(現沖縄市)知花弾薬庫などに致死性の毒ガス(主要成分はサリンおよびVXガス)を備蓄していたが、1969年7月8日ガス漏れ事故が発生、米兵ら24人が中毒症で病院に収容されたことが同月内に米ウォールストリート・ジャーナルの記事で明らかになり、島ぐるみの撤去要求運動が起こっていた。

暴動前日の1970年12月19日に、美里中学校グラウンドで「毒ガス即時完全撤去を要求する県民大会」(上記の糸満事件無罪判決に対する抗議も決議文に含む)が開かれ、約1万人が参加した。その参加者が集会終了後、またそれ以外の市民も忘年会などを目的に、事件発生場所に隣接する中の町社交街に多数集まっていた。

●事件の勃発

1970年12月20日午前1時過ぎ、コザの中心街にある胡屋十字路から南に200メートルほどの地点で、軍雇用員の男性が、アメリカ軍教務兵の運転する乗用車にはねられる事故が発生した。事故自体は軽微なものであったが、前述のような感情が高まっていた群衆がMPによる事故処理に不信感を持ち事故現場を取り囲み、MPの事故処理に対する不満・不信を口々に叫ぶなど周囲は騒然となった。MPは現場での取り調べをあきらめ、近くにあったコザ警察署(現沖縄警察署)に加害者を連れて行こうとした。これが群衆には加害者を隠匿するかのような行動に映り、MPと加害者を移動させまいともみ合いになった。加えて、近くでもう一件の交通事故が発生し、周囲の混乱がさらに大きくなったところでMPが群衆に対して威嚇射撃を行ない、これを契機に群衆がMPと加害者に襲いかかった。群衆はさらに、当時ナンバープレートの色によって区別されていた米軍人・軍属用の車両に次々と放火した。

●事件の拡大と収束

事件の発生に対応して、琉球警察やMPが暴動の沈静化を図ったが、午前2時半になると群衆は5,000人を超え、交番などにも投石を行ない、胡屋十字路から数百メートルのところにある嘉手納基地第2ゲートから基地内へ侵入した。基地内ではゲートに設けられているガードボックスや米人学校が放火された。アメリカ軍では催涙ガスを使用してそれ以上の基地内への侵入を抑えた。

夜明け前に群集が家路についたため暴動は自然消滅した。結果、アメリカ軍人の車両70台以上が炎上し、警官5人・住民十数人・アメリカ兵十数人が負傷したが、民家・商店からの略奪行為は発生しておらず、アメリカ軍人・軍属のみを標的にした暴動であった(当時米軍内でも差別されていた黒人兵は対象外とされたという証言がある)。警察は騒乱罪を適用し、バーのボーイ・マネージャー5人、工員2人、無職3人の住民10人を逮捕したが、いずれも証拠不十分で起訴されなかった。

事件上特徴的なのは、政治党派の組織的な指導指揮がなく自然発生的であったこと、また、それまで米軍から利益を得ており、反米・反基地・日本復帰運動に敵対的だった米兵向けバー・クラブの従業員が、逮捕者も含め積極的に暴動に参加したことである。

●事件に対する琉球・アメリカ・日本政府の反応について

琉球政府は屋良朝苗行政主席が東京へ出張していたため、ナンバー2の行政副主席が現地に赴いて事態の収拾を図った。事件に対し、当時の日本国首相であった佐藤栄作は、このような暴力行為はアメリカ合衆国政府との沖縄返還交渉に悪影響を与えると「警告」はしたが、住民の不満を理解することは無かった。なお沖縄本島に備蓄されていた毒ガス兵器は翌1971年、沖縄返還を前にして米領土であるジョンストン島へ撤去移送された。

●事件の呼称をめぐって

地元紙である琉球新報、沖縄タイムスでは事件明けの朝刊でこの事件を大々的に報じたが、見出しは「コザで騒動」であった。逮捕者に対し騒乱罪が確定する前にこの事件を「暴動」と呼ぶことを控えたためである。上記のように逮捕者は全員不起訴となり、以降も地元マスコミおよび自治体はこの事件を「コザ騒動」と表記している。

それでは、続いては、前年のコザ暴動に続くコザ市で発生した第二の暴動であるが、前回とは異なり白人・黒人間の人種差別問題も絡んだ複雑な事件であった、第2次コザ暴動について書きたいと思います。

●第2次コザ事件について

第2次コザ事件(だい2じこざじけん)とは、1971年8月17日にアメリカ占領下の沖縄のコザ市(現沖縄市)で発生した暴動事件。前年のコザ暴動に続くコザ市で発生した第二の暴動であるが、前回とは異なり白人・黒人間の人種差別問題も絡んだ複雑な事件であった。

「第2次コザ暴動」「第2次コザ騒乱」とも呼ばれる。

●事件の発端

アメリカ本国で盛り上がった公民権運動は、沖縄在住の黒人にも波及していた。事件が起きた1971年には、キャンプ・シュワブや普天間基地などの基地内で反人種差別暴動が起きていた。

当時、コザ市の歓楽街は人種ごとに二分されていた。ゲート通りやセンター通り(現中央パークアベニュー)が「白人街」、照屋地区が「黒人街」となっていた。黒人が「白人街」に、白人が「黒人街」に来ると即座に叩き出された。

そして黒人の一部急進派は「白人街から白人を締め出して、コザ市全域を黒人街にしよう」と呼号し、ゲート通りやセンター通りに集団で繰り出していた。

●事件の概要

1971年8月17日午前0時半、黒人グループ約50人がセンター通りで「反人種差別」を掲げてデモ行進し、白人御用達のバーやクラブを襲撃した。これを見ていた地元住民が激怒し、約100人が黒人グループと睨み合った。琉球警察コザ警察署(現沖縄警察署)から署員が急派すると、黒人グループは一目散に逃げ出した。群集は追いかけたが見失ってしまった。

ちょうどその時、黒人が運転する車がタクシーと接触事故を起こし、米軍憲兵が駆けつけていたことから、抗議の矛先が憲兵に向けられた。憲兵はコザ署に逃げ込んだため、群衆はコザ署に押しかけ、「黒人の暴動を許すな」と叫びながら投石したりして、署の窓ガラスを割った。機動隊が駆けつけたことで、約2時間あまりで沈静化した。

米軍当局は、その後しばらく「コンディション・グリーン」[1]を発令して再発の防止に努めた。

※脚注

軍当局による規制措置で、対象地域内では米軍関係者(家族も含む)は車での通過以外の立入が禁止される。

それでは、続いては、反基地運動の「島ぐるみ闘争」について書きたいと思います。

●島ぐるみ闘争について

島ぐるみ闘争(しまぐるみとうそう)は、1956年にアメリカ施政権下の沖縄で起きた大規模な反基地運動のことである。

●概要

沖縄を占領したアメリカ軍は、戦時国際法に基づき、必要とする土地を占有していた。しかし、サンフランシスコ講和条約が締結され、「戦時」から「平時」に移行したため、何らかの法的処置が必要になった。また、軍用地の地主から地代支払いの要求も高まってきた。

それに並行して、これまで占有していなかった土地についても大規模な土地収用を開始し、軍用地を拡張していったため、地主を中心に反対運動が激化していった。

琉球列島米国民政府では、地代の「一括払い方式」を行うことで事態の収拾を図ろうとしたが、立法院が反対し、1954年4月に「土地を守る四原則」[1]が決議された。

この問題を解決するため、アメリカ下院の調査団が沖縄を訪問したが、その報告書(委員長のプライスの名をとって「プライス勧告」という)の中に「一括払い方式」が明記されていたため、保革の枠を越えた全住民を巻き込んだ「島ぐるみ闘争」と呼ばれる反対運動が起き、沖縄各地で「四原則貫徹」を求める集会やデモが行われた。

交渉の結果、アメリカ当局は「当初評価額の約6倍の地代を支払うこと」と、「原則毎年払いで、希望者のみ10年分の先払いを認める」ことで、一応の解決が図られることになった。

●運動が与えた影響

米軍側
・紆余曲折があったが、とりあえず土地の使用権が確立された。

・土地利用のルールが整備された。

沖縄側
・地代の大幅引き上げに成功し、接収で受けた被害の補償が得られるようになった。

・一定の譲歩を引き出すことに成功し、後の復帰運動に多大な影響を与えた

※脚注

★土地を守る四原則の内容

・一括払い反対
・適正補償請求
・損害賠償請求
・新規接収反対

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今日は、とても大切な帰還です・・・パート7

それでは、続いては、沖縄の「本土復帰」について、お話をしたいと思います。

●本土復帰について

本土復帰(ほんどふっき)とは、敗戦によりアメリカに施政権が移った、トカラ列島、奄美群島、小笠原諸島、沖縄県が日本に復帰したことを言う。

●トカラ列島について

1952年(昭和27年)2月10日復帰。

復帰を求める対米働き掛けは奄美諸島と合同で行われていたが、1951年連合国司令部の覚書きによって復帰が決定した。サンフランシスコ講和条約でもアメリカの信託統治下に入る地域からははずされている。

●奄美群島について

1953年(昭和28年)12月25日復帰。

アメリカ軍の琉球列島米国民政府による自治権剥奪などの政策や、沖縄戦で疲弊した沖縄本島への資金集中、本土との分離に伴う換金作物や物産の販売経路の途絶などにより、経済が疲弊し飢餓の兆候さえ出てきていた奄美の住民は不満を増大させた。分離直後から始まっていた奄美群島祖国復帰運動は激しさを増し、日本復帰を願う署名は14歳以上の住民の99.8%に達し、ガンディーの運動を真似て集落又は自治体単位でハンガーストライキが行われ、小中学生が血判状を提出する事態も発生した。

1952年(昭和27年)4月28日にはサンフランシスコ講和条約が発効したが、アメリカは基地が少なく復帰運動の激しい奄美の統治を諦め、1953年(昭和28年)12月25日に施政権を返還した。クリスマスであることから、米国政府は「日本へのプレゼント」と皮肉った。

●小笠原諸島について

1968年(昭和43年)6月26日復帰。

サンフランシスコ講和条約によりアメリカ海軍の統治下に置かれ、欧米系の旧島民のみに帰島が許される。

米軍政時代にはアメリカ海軍の基地が設置され、物資の輸送は一ヶ月に一回、グアム島からの軍用船によって行われた。欧米系住民は戦前の土地区画に関係なく、決められた区画に集められ、その多くは米軍施設で働いた。島民の自治組織として五人委員会が設けられた。島の子供たちは、軍の子弟のために1956年に設立されたラドフォード提督初等学校で軍の子弟と一緒に学び、高等教育はグアム島で行われた。

米軍によって戦前の土地区画に関係なく決められた区画に集められたことは、日本返還後も効率的な開発の都合から踏襲され、戦前の土地所有者との補償交渉で揉めることとなった。後に、日本政府の意向を無視して父島に核兵器の貯蔵施設が作られていたことが、アメリカの情報公開によって知れ渡った。軍政時代に数基の核弾頭が保管されていたという。1968年4月に日米間で小笠原復帰協定が締結され復帰が決定された。

★発行物

・1968年6月26日、小笠原諸島復帰記念の額面15円の切手が発行された。

●沖縄県について

1972年(昭和47年)5月15日復帰。

詳細は沖縄返還を参照

サンフランシスコ講和条約では、国際連合との協議によりアメリカの信託統治の下に置くこと、それまでの間アメリカが行政、立法、司法のすべての権限を行使することが規定された。そこでアメリカは、「行政主席」を行政の長とする琉球政府を置き、公選の議員で構成される立法機関「立法院」を設けるなどの一定の自治は認めたが、最終的な意思決定権はアメリカ軍の統治機構である琉球列島米国民政府が握ったままだった。

朝鮮戦争、台湾海峡危機と、連続して極東における軍事的緊張が高まると、アメリカの関心は次第に琉球自治拡大による施政権の固定化から前線基地としての沖縄の重要性に移っていった。その間にも各地に基地・施設を増設し、さらにアメリカ兵による事故・事件が頻発し、住民の死亡者や犠牲者が相次いだため、住民有志は「島ぐるみ闘争」と呼ばれる抵抗運動を起こし、1960年(昭和35年)には沖縄県祖国復帰協議会(復帰協)を結成した。なお、このころの米大統領ドワイト・アイゼンハワーは、沖縄を返還する気は全く無かったようである。

1960年代後半のベトナム戦争によって沖縄が最前線基地とされると、駐留米軍は飛躍的に増加し、これに伴って事件・事故も増加した。また爆撃機が沖縄から直接戦地へ向かうことに対し、復帰運動は反米・反戦色を強めた。一方、米軍による需要がある土木建築業、飲食業、風俗業などに携わる勢力は、復帰反対や米軍駐留賛成の運動を展開し、彼等の支援する議員が復帰賛成派の議員と衝突した。1968年(昭和43年)11月には琉球政府の行政主席選挙が行われ、90パーセント近い投票率を記録した。この選挙によって復帰協の屋良朝苗が当選、「即時無条件全面返還」を訴えた。

1969年(昭和44年)の日米首脳会談で、アメリカ大統領リチャード・ニクソンが安保延長と引き換えに沖縄返還を約束し、これに基づき1971年(昭和46年)6月17日に沖縄返還協定が締結されたが、屋良や復帰賛成派の県民の期待とは裏腹に、米軍基地を維持したままの「72年・核抜き・本土並み」の復帰が決定した。

1970年(昭和45年)12月20日未明、沖縄本島中部のコザ市(現・沖縄市)で、米軍兵士が連続して起こした二件の交通事故を契機にコザ暴動が発生した。常日頃から米軍兵士の犯罪行為が微罪として扱われることに対する怒りが爆発したもので、これ以上沖縄をアメリカ軍政下に置くことは適当でないと内外に知らしめた。

★発行物

・1972年5月15日、沖縄復帰記念の額面20円の切手が発行された

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今日は、とても大切な帰還です・・・パート6

それでは、続いては、アメリカ合衆国による沖縄統治について、お話をすすめたいと思います。

●アメリカ合衆国による沖縄統治

アメリカ合衆国による沖縄統治(アメリカがっしゅうこくによるおきなわとうち)とは、1945年(昭和20年)のアメリカ軍による沖縄占領から、1972年(昭和47年)5月15日の沖縄本土復帰にいたるまでの27年間に及ぶアメリカ合衆国による統治時代のこと。

●概要

★軍政の開始

第二次世界大戦末期の1945年3月末から、アメリカ軍は沖縄諸島の各地に上陸を開始した。アメリカ軍は4月1日に沖縄本島に上陸し、そこの防衛にあたっていた日本軍と地上戦を繰り広げた(沖縄戦)。アメリカ軍は上陸時に、占領地の軍政機関として琉球列島米国軍政府を設立した。

6月に入ると日本軍は組織的抵抗が不可能となり、沖縄本島と幾つかの島嶼はアメリカ軍によって占領された。日本降伏後の8月20日に、解体した沖縄県庁に代わる沖縄本島の統治機関として、アメリカ軍によって『沖縄諮詢会』が設置され、後に権限が沖縄諸島全体までに拡大された。また宮古支庁、八重山支庁は戦火を免れ存続していたため、それぞれ宮古列島、八重山列島の行政をアメリカ軍直属で行うこととなった。1946年(昭和21)2月には、アメリカ軍が占領しつつも日本の主権が認められていた鹿児島県大島郡(奄美諸島やトカラ列島)も、鹿児島県から切断されて軍政当局下に置かれ、大島支庁からも本土出身者が追放された。

アメリカは当初、沖縄県民などは日本の帝国主義に支配された異民族であると認識しており、朝鮮半島と同じく国際連合による信託統治期間を設けた上で、日本から分離独立させることを計画していた。軍政もそのための準備段階として捉えられていたのであるが、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)による日本占領期間中、ソビエト連邦を中心とした共産主義国との冷戦が意識されるようになり、信託統治にした場合、軍用地を自由に接収できなくなるほか、国連へ統治の実態の報告を毎年義務付けられているなど、ソ連と対抗し、共産主義の防波堤として利用するには不都合であった。そこで、独立を前提とした信託統治計画を取り下げ、日本の潜在的な主権を認めつつ、軍による統治の形態をとることとした。そして、従来の軍政機関である琉球列島米国軍政府を琉球列島米国民政府に改組した。

アメリカ軍は日本軍の旧基地を獲得していたが、さらに演習地や補給用地、倉庫群などの用地として、次々に住民の土地を強制的に接収していった。これらの様子は「銃剣とブルドーザーによる土地接収」として例えられ、アメリカ軍の強権の代名詞となった。

★本土からの分離

1952年(昭和27年)の日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)において、潜在的な日本の主権は確認されたが、引き続きアメリカ軍政下に置かれることとなった。当初、四つに分割しそれぞれ群島政府を置いていたが、それらの知事達(民選で選ばれた)が日本への復帰を公言要求したため、1952年、群島政府を廃止し琉球政府をおいた。

なお、奄美諸島は1953年(昭和28年)12月25日に日本に返還された。このとき、米軍は「日本へのクリスマスプレゼント」だと冗談交じりに自画自賛していたという。しかし、奄美諸島から沖縄本島へ労働に来ていた人々は「日本人」と言うこととなり、パスポートの所持の必要、公務員からの追放が行われるなど、いくつかの副作用がもたらされた。

★高等弁務官統治

1957年(昭和32年)からアメリカ本国の全権を委任された琉球列島高等弁務官による統治が行われるようになった。

歴代高等弁務官
1.ジェームス・E・ムーア陸軍中将(1957年7月 - 1958年4月、1955年2月 - 1957年6月までは民政副長官)
2.ドナルド・P・ブース陸軍中将(1958年5月 - 1961年1月)
3.ポール・W・キャラウェイ陸軍中将(1961年2月 - 1964年7月)
4.アルバート・ワトソン陸軍中将(1964年8月 - 1966年10月)
5.フェルディナンド・T・アンガー陸軍中将(1966年11月 - 1969年1月)
6.ジェームス・B・ランパート陸軍中将(1969年2月 - 1972年5月)

特に、第3代のキャラウェイ中将の統治は、「琉球」を多用して沖縄住民のナショナリズムを刺激して日本との分離政策を推し進めたり、強権を発動したりと、「キャラウェイ旋風」と呼ばれた。

★統治の終了

※返還へのいきさつは沖縄返還を参照。

沖縄諸島は1972年(昭和47年)5月15日に日本へ返還された。

●政治

琉球列島高等弁務官のもとに琉球列島米国民政府が置かれ、琉球政府の上部組織として間接的(場合によっては直接的)に統治した。司法権を行使するために独自の裁判所(米国民政府裁判所)を設けていた。

琉球政府の長は行政主席で、初期の頃は米国民政府が直接任命していたが、後に立法院の意向を反映した任命に変わり、最終的には直接選挙制に移行した。任期は特に定められていなかったが、公選制導入時に3年となった。

立法院(議会)は一院制で、約30議席を20歳以上の琉球住民による直接選挙で選出した。任期は2年(後に3年)である。

●地方行政区画

地理的区分として、5の地区に分かれていた(1970年時点)。戦前や現代の「郡」の区分とは微妙に異なっている。

沖縄北部地区
名護市、国頭村、大宜味村、東村、今帰仁村、上本部村、本部町、恩納村、宜野座村、金武村、伊江村、伊平屋村、伊是名村
沖縄中部地区
石川市、具志川市、コザ市、宜野湾市、浦添市、与那城村、勝連村、読谷村、嘉手納村、北谷村、北中城村、中城村、西原村
沖縄南部地区
那覇市、豊見城村、糸満町、東風平村、具志頭村、玉城村、知念村、佐敷村、与那原町、大里村、南風原村、仲里村、具志川村、渡嘉敷村、座間味村、粟国村、渡名喜村、南大東村、北大東村
宮古地区
平良市、城辺町、下地町、上野村、伊良部町、多良間村
八重山地区
石垣市、竹富町、与那国町

●地理

鹿児島県大島郡と沖縄県で構成された。後にトカラ列島は1952年に、奄美諸島は1953年に日本に返還された。

琉球政府章典によると、その範囲は「北緯28度東経124度40分の点を起点として北緯24度東経122度、北緯24度東経133度、北緯27度東経131度50分、北緯27度東経128度18分、北緯28度東経128度18分の点を経て起点に至る線の内側」とされた。

●経済

沖縄戦の影響で経済基盤が破壊された沖縄県では、通貨として日本円のほか、アメリカ軍の軍票であるB円が用いられた。1948年(昭和23年)から1958年(昭和33年)まではB円が唯一の通貨であったが、1958年以降はアメリカドルが使われた。

日本本土との往来は、パスポートが必要となるなど制限が行われた。しかし日本本土との経済圏が分離されたことで、地元の企業が多数設立されることになった。一方で、本土の大企業から切り離されたことで沖縄には脆弱な地元資本の企業しか育たなかった。役場などの政府機関やアメリカ軍基地以外に大規模な雇用が不可能となってしまい、現在でも沖縄は全国最悪の失業率となっている。

また、アメリカ軍の基地が多数設置されたことにより、基地における雇用が確保された面もある。

●交通

全域が島嶼という事情から、域外への移動や県内離島間の移動は海路や空路が主に利用されていた。

★道路

・車輌は本土とは異なり右側通行だった。復帰後の1978年7月30日に左側通行に変更された。730運動も参照のこと。
・道路は、軍道222.6km、政府道901.7km、市町村道3057.8km(いずれも1970年時点)で構成されていた。

★住民

人口の大多数が、「沖縄県」に本籍[1]を有する「琉球住民」であった。在留外国人(米軍関係者を除く)で一番多かったのは「日本人」(沖縄県外に本籍を有する日本国民)で約18000人、アメリカ人約7500人、中国人約2000人であった。

●教育

本土と同じ6-3-3制であった。ただし、公立の小学校・中学校を運営するのは市町村ではなく「教育区」という特別な公法人が担っていた。

高等学校は、政府立学校が39校、私立学校が4校あった。

大学(短期大学を含む)は当時、以下の大学が存在していた。

・琉球大学(短期大学部)
・沖縄大学
・国際大学(短期大学を含む)
・沖縄キリスト教短期大学
・沖縄女子短期大学

●文化

★祝祭日

日付 名称 備考
1月1日 元日 本土の元日と同一日
1月15日 成人の日 本土の成人の日と同一日
春分日 春分の日 本土の春分の日と同一日
4月1日 琉球政府創立記念日 
4月29日 天皇誕生日 本土の天皇誕生日と同一日
5月3日 憲法記念日 本土の憲法記念日と同一日
5月5日 こどもの日 本土のこどもの日と同一日
5月第2日曜日 母の日 
6月23日 慰霊の日 沖縄戦終結の日
旧暦7月15日 お盆の日 
9月15日 としよりの日 本土の敬老の日と同一日
秋分日 秋分の日 本土の秋分の日と同一日
10月の第2土曜日 体育の日 
11月3日 文化の日 本土の文化の日と同一日
11月23日 勤労感謝の日 本土の勤労感謝の日と同一日

● 脚注

1.戸籍上はアメリカ統治期も一貫として「沖縄県」と表記されていた。また、奄美諸島は鹿児島県大島郡の表記であった

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今日は、とても大切な帰還です・・・パート5

それでは、続いてですが、次は、明治初期に現在の沖縄県を治めた藩、「琉球藩」についてお話したいと思います。

●琉球藩について

琉球藩(りゅうきゅうはん)は、明治初期に現在の沖縄県を治めた藩。藩庁は首里城(沖縄県那覇市首里)。藩王は第二尚氏。

●藩史

廃藩置県の翌年、1872年(明治5年)に明治政府の強制命令で琉球藩となり、琉球王国は滅亡した(第一次琉球処分)。しかし、当時の琉球国王・尚泰王がこれに反発し、政府の度重なる勧告を無視して、清への朝貢を続けたが、琉球御用船の船員が漂着先の台湾で台湾原住民・パイワン族に殺害されたことを受け、政府は1874年(明治7年)に台湾出兵を行った。

これに清側は直ちに抗議し撤兵を強く求めた。明治政府は9月「和戦を決する権」を与えられた大久保が全権大使として北京で清と交渉し、難航の末清は日本の出兵を「義挙」と認め50万両(テール)の賠償をすることで琉球島民殺害事件については決着した。 これは琉球の帰属問題で日本に有利に働くが清は琉球の日本帰属を正式に承認した訳ではない。明治政府は翌1875年琉球にたいし清との冊封・朝貢関係の廃止と明治年号の使用などを命令するが琉球は清との関係存続を嘆願、清が琉球の朝貢禁止に抗議するなど外交上の決着はつかなかった。

尚泰はその後も清への朝貢を続けたが、1879年(明治12年)に政府は尚泰を東京へ連れ出し、内務官僚・警察隊・熊本鎮台分遣隊を派遣して鹿児島県へ編入することを断行し、同年中に沖縄県を設置した。また、王族士族の抵抗(サンシー事件など)を退けた(第二次琉球処分)。清は再三抗議し、アメリカ合衆国元大統領ユリシーズ・グラントの仲介もあり、1880年北京で日清の交渉が行われた。

この時日本は沖縄本島を日本領とし八重山諸島と宮古島を中国領とし、日清修好条規に中国内での日本人の通商権を追加する案(分島解約案)を提示し一旦はまとまるが、清は元来二島の領有を望まず、二島を琉球に返還し琉球王国再興を求めており、分島にたいする琉球人の反対もあり清は調印せずに終わる。最終的に琉球の帰属が国際的に確定するのは後の日清戦争後である。

華族令発布後、他の元大名との石高の比較からは尚家は伯爵に相当するが、「国王」に対する敬意により特別に侯爵に叙せられ、それに相応しい破格の経済待遇を与えられた。また、分家も男爵に叙せられた。

琉球藩設置から沖縄県設置までの一連の流れを琉球処分という。

●歴代藩王

8万9千石

代 氏名 爵位 在職期間 享年 墓所 出身家
1 尚泰
しょう たい 侯爵 明治5年 - 明治12年
1872年 - 1879年 59 玉陵 尚家

それでは、続いてですが、当時、沖縄は「琉球」と呼ばれていましたが、沖縄を1952年から1972年まで、沖縄本島を中心に存在した統治機構の名称である「琉球政府」について、参考までに記しておきます。

●琉球政府について

琉球政府(りゅうきゅうせいふ、Government of the Ryukyu Islands)は、1952年から1972年まで、沖縄本島を中心に存在した統治機構の名称である。1972年に沖縄県が日本に返還された際に消滅し、沖縄県や沖縄総合事務局(国の出先機関)などに移管された。

●概要

1945年、沖縄戦によって県庁が消滅した沖縄県では、米軍の命令により、沖縄諸島の行政を管轄させるために沖縄諮詢会が成立し、存続していた宮古支庁(宮古列島管轄)や八重山支庁(八重山諸島管轄)は県庁から独立して独自の行政を開始した。1946年2月2日、北緯30度以南の日本からの分離が決定したため、大島支庁(奄美諸島、トカラ列島)が鹿児島県庁の管轄を離れ琉球列島米国軍政府の指揮に入った。これ以降、数度の組織改変を行い、1950年8月4日には沖縄群島政府、宮古群島政府、八重山群島政府、奄美群島政府が成立した

これらの行政組織は、元々は琉球列島米国軍政府の下部組織であった。1950年に米軍政府が琉球列島米国民政府と名を変えると、その下部組織となった。米国民政府は、これらの政府を指揮監督し、その決定を無条件で破棄できることになっていた。

1952年までの群島政府には民選の知事がおり、しばしば米国民政府の意向に反する言動(日本への復帰要求など)を行ったため、米国民政府は自らが指名する琉球住民を行政主席とする琉球政府をつくった。この政府には、民裁判所、立法院、行政府があり、三権を司ったが、米国民政府が琉球政府の決定を破棄できるという条件に変わりはなかった。しかし、立法院議員は民選であったので、立法院はしばしば米国民政府の意向に反する決議を行った。そのため、アメリカはゲリマンダーや選挙干渉で自分の都合の良いようにした。アメリカは、近い将来に琉球政府をアメリカの傀儡政権とし、傀儡的な独立国家を建国させようとしていたのだが[要出典]、琉球の民衆の本土復帰運動は盛んで、第1回から会期ごとに日本復帰決議が行われた。琉球政府と立法院は、米国民政府の意向とは異なり、後に沖縄県が本土復帰をする際の原動力となった。

●歴史

・1945年8月20日 - 沖縄諮詢会設立。
・1946年2月2日 - GHQの宣言により、北緯30度以南(トカラ列島以南)がアメリカ軍の軍政下に置かれた。
・1946年4月24日 - 沖縄民政府設立。
・1946年10月3日 - 奄美諸島に臨時北部南西諸島政庁設立(トカラ列島含む)。
・1947年3月21日 - 宮古民政府、八重山民政府設立。
・1950年8月4日 - 沖縄群島政府、宮古群島政府、八重山群島政府、奄美群島政府設立。それぞれ、民選の知事と議員が選ばれる。
・1951年4月1日 - 知事らによる日本復帰を求める声が強くなると、沖縄、宮古、八重山、奄美すべて統括する琉球臨時中央政府が作られ、各群島政府知事の権限は極端に削減された。なお4つの群島政府は、翌年3月末日までは形式的には存在し、その後地方庁に改変された。
・1952年2月10日 - トカラ列島が本土復帰。
・1952年4月1日 - 琉球政府となる。
・1953年12月25日 - 奄美諸島が本土復帰。
・1968年12月1日 - 行政主席選挙が初めて行われ、日本復帰派の屋良朝苗が当選する。
・1972年5月14日 - 沖縄県の本土復帰により消滅。政府組織は沖縄県庁や沖縄総合事務局へと引き継がれた。

●琉球政府の組織(行政府のみ)

★1952年4月1日時点

・行政主席官房
・行政主席情報局
・行政主席統計局
・総務局
・財政局 - 税務署、税関
・法務局
・資源局 - 営林署
・商工局 - 駐日琉球貿易代表
・工務局
・運輸局 - 海難審判委員会
・郵政局 - 気象台
・厚生局
・文教局
・警察局 - 琉球警察本部
・中央選挙委員会
人事委員会
・中央教育委員会
宮古地方庁
・八重山地方庁
・奄美地方庁(1953年12月25日、奄美諸島の本土復帰により廃庁)

★1972年5月14日時点

・総務局 - 中央選挙管理委員会
・企画局 - 首都建設委員会、統計庁
・主税局 - 税務署、税関
・法務局 - 更生保護委員会、出入管理庁、土地調査庁
・農林局 - 営林署
・通商産業局 - 郵政庁、金融検査庁、気象庁、海難審判庁、琉球海上保安庁
・建設局
・厚生局 - 社会保険審査委員会、社会保険庁
・労働局 - 中央労働委員会、公共企業体等労働委員会、船員労働委員会
・文教局 - 文化財保護委員会
・公安委員会 - 琉球警察本部
・復帰対策室
・検察庁
・会計検査院
・人事委員会
・中央教育委員会
・琉球大学委員会 - 琉球大学
・私立大学委員会
・特別国体実行委員会
・復帰準備委員会顧問代理
・宮古支庁
・八重山支庁

※あくまでも、参考までに記しました。

それでは、沖縄が以前は、「琉球」と呼ばれていましたが、その琉球について参考までに記しておきたいと思います。

※★琉球(りゅうきゅう)について

・日本および台湾の地名。日本では主に沖縄県を指すが、学問分野によってその範囲が変化する。
・琉球諸島(琉球弧とも)。主に沖縄県を指すが、鹿児島県奄美諸島や大隅諸島など南西諸島の大半を含んで指すこともある(範囲については当該記事参照)。
・琉球王国、琉球藩、琉球政府などの施政範囲の通称。現在の沖縄県。琉球王国や琉球政府の時代には、その初期において奄美諸島を含んでいたため、現在でもその歴史や文化的な範囲を以って「琉球」と呼ぶことがある。またその住民を琉球人と表現する場合もあった。
・大琉球は沖縄本島周辺を、小琉球は台湾を指すことがあった。
・台湾島の旧名(論争あり)。
・台湾屏東県琉球郷。台湾人は小琉球と呼ぶ。
・現在の沖縄県の範囲を、中華民国・台湾では琉球(Liu ciu)と呼び、中華人民共和国・大陸においては沖縄(Chong sheng)と呼ぶ(沖縄県への認識参照)。

※あくまでも、参考までに記しました。

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今日は、とても大切な帰還です・・・パート4

それでは、ここで沖縄の歴史について触れましたので、続いては、沖縄本島を中心に存在した王国、「琉球王国」についてお話をしたいと思います。

●琉球王国について

琉球王国(りゅうきゅうおうこく、正式国名:琉球國)とは、沖縄本島を中心に存在した王国。1429年に尚巴志の三山統一により成立したが、1462年に王統が交代した。15世紀に明の冊封国となり、17世紀初頭に薩摩藩(日本)の付庸国となった。1871年の廃藩置県で鹿児島県下に編入されたが、1872年には琉球藩となる。1879年の琉球処分で王統の統治権がなくなり日本本土の一部となった。

最大版図は奄美諸島と沖縄諸島及び先島諸島(大東諸島と尖閣諸島は含まない)。この範囲の島々の総称として、琉球列島とも言う。王家の紋章は左三巴紋で「左御紋(ひだりごもん:フィジャイグムン)」と呼ばれた。

●国名

かつては琉球國と称していたが、今日では一般に琉球王国と呼ばれている。「りゅうきゅう」は元来中国の史書『隋書』卷81 列傳第46 東夷 流求國に記述される、大業6年(610年)に隋の属国にされた国の呼称「流求」によるものである。後の『北史』、『通典』、『諸蕃志』では『隋書』の内容を踏襲、『太平寰宇記』においても内容に大差はなかった。『文献通考』により琉球は、台湾と沖縄県周辺の混同記述となった。明との交易が始まった14世紀頃には沖縄県周辺の呼称として定着し、また自国の呼称として琉球國という国名が、1872年(明治5年)の琉球藩設置まで用いられた。1874年(明治7年)サン・デニーは『文献通考』の一部を翻訳し、その琉球条により流求は台湾であるとする説を発表し、1895年グスタフ・シュレーゲルは、元以前の琉球は台湾で、明からは沖縄県周辺が琉球になったとする説を発表した。1897年(明治30年)帝国大学文科大学(現東京大学)史学科教授ルードヴィヒ・リースの著書『台湾島史』(吉国藤吉郎訳、1898年(明治31年))でも流求は台湾とし、他に漠然と中国東方にある島々を指していたとも言われて、必ずしも今日の沖縄県周辺を意味する呼称ではなかったとされる。

●歴史

★三山統一

12世紀、源為朝が琉球に逃れ、その子孫が初代琉球王舜天になったとの神話があるが、来琉の真偽は不明である。1429年、第一尚氏王統の尚巴志王の三山統一によって琉球王国の成立と見なされている。第一尚氏王統は、統一後も地方の諸按司の勢力が強く、有効な中央集権化政策を実施しなかったため内乱が絶えず、63年間で瓦解した。

★第二尚氏王統

1462年、尚泰久王の重臣であった金丸(尚円王)が、尚徳王の薨去後、王位を継承し、第二尚氏王統が成立した。王位継承に関しては、正史では重臣たちの推挙によって即位したと記されているが、クーデターによる即位だったのではないかとの説もある。その後、第二尚氏王統は、尚真王の治世に地方の諸按司を首里に移住させ、中央集権化に成功した。1571年には、王国は奄美諸島北部を侵略、制圧した。この時、王国の版図が最大になった。

★薩摩による琉球侵攻

その後豊臣秀吉が明とその進路にある李氏朝鮮を征服しようとし、琉球に助勢を命じたが、琉球は明の冊封国であったため断った。なお、実際に文禄・慶長の役で日本が朝鮮半島に攻め込んだ時、琉球は日本軍に食料を提供している。なお、この時、日本から脅しに近い書状が琉球に送られている。

1609年に薩摩藩の島津氏は、明との交易利権を狙って3000名の兵を率いて琉球への侵攻を決定した。これは、秀吉に代わって天下人となった徳川家康も黙認していた。朝鮮に出兵して以来、悪化していた明との関係を、琉球を通じて改善できると考えたからである(李氏朝鮮とは己酉約条を結ぶなど関係改善が進んでいたが、明は中華思想に基づいて「蛮夷」の日本と対等な関係を結ぶのを拒んでおり、関係改善が思うように進んでいなかった。琉球を通じてという形なら、日本・明の双方の面子を保ちつつ、対等な関係を結べるのではないかと江戸幕府は考えていた)

島津軍に対して、琉球軍は島津軍より多い4000名の兵士を集めて対抗した。しかし、火力で勝り、戦国時代を戦い抜いて戦に慣れていた島津軍にとって、琉球軍は敵ではなかった。

島津軍は3月4日に薩摩を出発すると、3月8日に当時琉球の領土だった奄美大島に上陸、征圧した。3月26日には沖縄本島に上陸、4月1日には首里城にまで進軍した。侵攻開始から、わずか一ヶ月足らずであった。

首里城は城といっても日本の城のように防御と籠城戦向きの設計では無く(むしろ宮殿に近かった)、籠城しても勝ち目はないと判断した尚寧王は和睦を申し入れて開城した。4月5日の事である。

これほどの短期決戦となった理由として島津軍が強かった事もあるが、それ以上に島津が経済的に困窮していた事も理由の一つである。島津は文禄・慶長の役、庄内の乱、関ヶ原の合戦と立て続けに起こった事件で国力を低下させており、長期戦を戦えるだけの財力が無かった。そのため、島津軍は出来る限りの行軍速度で琉球各地を攻略する事を心がけていた(7月まで戦が長引いた場合、島津軍は勝敗とは無関係に撤退する予定であった)。

こうして、王国は薩摩藩の付庸国となり、戦争は終わった。

琉球王国は薩摩藩への貢納を義務付けられ、江戸上りで江戸幕府に使節を派遣した。その後も琉球は、明を滅ぼした清にも朝貢を続け、薩摩藩と清の両属という体制となりながらも、独自の国と文化を維持した。また、琉球が支配していた奄美諸島は、薩摩藩直轄地となり分離された。しかし、表面上は琉球の領土とされ、中国や朝鮮からの難破船などに対応するため、引き続き王府の役人が派遣されていた。

★黒船来航

1853年の5月に黒船来航がありアメリカ海軍のマシュー・ペリー提督が来航し首里城に入った。また翌1854年にも来航した。なおペリーはミラード・フィルモアアメリカ合衆国大統領から、武力で抵抗された場合琉球を占領することを許可されていた。

★琉球処分

1871年(明治4年)、廃藩置県によって鹿児島県の管轄となったが、1872年(明治5年)には琉球藩を設置し、明治政府により琉球国王尚泰を琉球藩王に封じた。1879年(明治12年)の琉球処分により沖縄県が設置され[2]、沖縄県令として鍋島直彬が赴任するに至り、王統の支配は終わった。琉球の王族は、日本の華族とされた。

※紀年法

明の洪武帝への入貢以後、中国王朝の冊封を受けていたため、元号は日本ではなく明や清のものを使用した。現在ではこれとは別に国王即位紀年を用いることがある。

詳細は沖縄県の歴史を参照。

●政治

★王府行政機構

※評定所

評定所は国政を司る王府最高機関である。摂政および三司官が執務する場所は御座もしくは上御座と呼ばれ、表十五人が控える場所は下御座と呼ばれた。

★摂政

摂政(シッシー)は日本の摂政職に近いが、ほぼ常設の官職である。国王を補佐し、三司官に助言を与える役目だが、辣腕をふるった羽地王子朝秀などを例外にすれば、通常は儀礼的な閑職であった。王子や按司など、王族から選ばれた。
例外は薩摩の侵攻直後に就任した僧菊隠で、これは薩摩との交渉役を期待されたためである。漢訳で国相と言った。

★三司官

三司官(さんしかん)は実質的な行政の最高責任者であり、宰相に相当する。三人制で投票により親方の中から選ばれた。選挙権を持つ者は王族、上級士族ら200余名であった。王族には選挙権はあるが、被選挙権は無かった。
職掌は、用地方、給地方、所帯方に分かれ、3人がそれぞれを分担した。三司官の品位は正一品から従二品で、士族が昇進できる最高の位階であった。漢訳で法司と言った。

★表十五人

表十五人(おもてじゅうごにん)は、摂政・三司官の下に位置する、物奉行3人、その下の次官級の吟味役3人、申口方の長官4人、その下の次官級の吟味役3人・日帳主取2人を合わせた計15名からなる協議機関である。国政の重要課題を協議し、摂政・三司官に上申するなどした。十五人衆、奉行衆とも言う。現在の国務大臣に相当する。
尚賢王の治世の1643年に置かれたが、表十五人は正式な官職名というよりは通称であり、普段はそれぞれの役所の長官および次官として働き、必要があれば集まって協議した。それゆえ、評定所の常設官職には含まれない[3]。

●物奉行所

物奉行所は用意方、給地方、所帯方の3つの物奉行所からなり、それぞれに物奉行が一人いた。各物奉行は、同じく各物奉行所を担当するそれぞれの三司官の監督のもとで職務を行った。物奉行は今日の大臣・長官に相当し、その下に次官級の吟味役が置かれた。主に物奉行は親方(従二品)が、吟味役は親雲上(ペークミー・正四品)がその任に就いた。

★用意方物奉行所

用意方(よういほう)は国有財産の管理・山川保全などを職掌とする官庁である。山奉行所、砂糖蔵、用意蔵、大台所、料理座、催促方の各役所を管轄した。

★給地方物奉行所

給地方(きゅうちほう)は役人の給与・旅費などを職掌とする官庁である。船手蔵、高所、勘定座、用物座、給地座、救助蔵、道具当の各役所を管轄した。

★所帯方物奉行所

所帯方(しょたいほう)は租税・国庫の出納などを職掌とする官庁である。田地方、取納座、座検者方、諸製方、米蔵、仕上世座、宮古蔵、銭蔵、賦方、蘇鉄方、紙座、櫨垂方、請地方の各役所を管轄した。

●申口方

申口方(もうしぐちほう)は平等方、泊地頭、双紙庫理、鎖之側の四官庁からなる。平等方を除いて、それぞれ官庁名であると同時にその長官名を指した。各長官の下には次官級の吟味役か日帳主取が置かれた。申口方の長官は親雲上(正三品)が、その下の次官級は親雲上(正四品)がその任に就いた。従って、申口方の長官は物奉行よりも品位が下に位置する。長官は漢訳で耳目官と言った。

★平等方

平等方(ひらほう)は司法(裁判所・警察署)と首里の土地山林を職掌とする官庁である。平等所とも言う。長官名は平等の側(ひらのそば)と言った。他に王家陵墓・玉陵の警備なども管轄した。

★泊地頭

泊地頭(とまりじとう)は戸籍、民事、公安、消防、宗教、建設および琉球第二の貿易港のある泊村を職掌とする官庁およびその長官名である。寺社座、大与座、総横目、泊村方、普請奉行所、鍛冶奉行所、亙奉行所、総与力の各役所を管轄した。

★双紙庫理

双紙庫理(そうしこり)は知行、褒賞、工芸や宮中のことを職掌とする官庁およびその長官名である。下庫理、書院、納殿、小細工奉行所、貝摺奉行所、厩方の各役所を管轄した。

★鎖之側

鎖之側(さすのそば)は外交、文教などを職掌とする官庁およびその長官名である。御系図座、久米村方、那覇里主所、国学、久米村明倫堂、首里三平等学校所、那覇四町学校所、泊村学校所、首里各村学校所、、諸浦在番の各役所を管轄した。

●文化

令制を参考にした政治や、中国武術から発展したといわれる唐手、中国風の名前を持つなど、最大の交易相手だった中国の影響を強く受けつつ、一方で神社を建立したり文字にはひらがなを使用したりするなど日本の影響も無視できない。琉球は、日中双方の文化を受け入れつつ、独自の文化を育んでいた。

●文学

尚清王から尚豊王の治世にかけての1531年から1623年の間に、琉球最古の歌謡集『おもろさうし』が編纂された。古来から伝わるおもろ(歌の意)・1554首を収録して、王府によって編纂されたものである。

17世紀になると、短詩型の叙情歌謡である琉歌が盛んになった。琉歌には様々な形式があるが、一般的には8・8・8・6の30音からなる形がよく知られている。琉歌の名人には惣慶忠義(1686年 - 1749年)、平敷屋朝敏(1700年 - 1747年)、玉城親方朝薫(1684年 - 1734年)、与那原親方良矩(1713年 - 1797年)、本部按司朝救(1741年 - 1814年)、東風平親方朝衛(1701年 - 1766年)等が古来より有名である。これらの歌人は、和歌・和文にも精通していた。女流歌人では、吉屋チル(1650年 - 1668年)と恩納なべ(尚穆王時代)が双璧としてよく知られている。

★琉球舞踊

琉球舞踊は、中国からの使節を歓迎するために舞う宮廷舞踊「御冠船踊り」がその起源である。御冠船踊りはすべて貴士族の子弟のみによって踊られた。宮廷舞踊のことを明治以降の舞踊と区別する意味で、古典舞踊とも言う。古典舞踊には、老人踊り、若衆踊り、二才踊り、女踊り、打組み踊りなどがある。

廃藩置県によって琉球王国が滅亡し、士族階層が没落すると、古典舞踊を元にして雑踊りと呼ばれる民間舞踊が誕生した。また、昭和以降には、現代感覚を導入した創作舞踊というジャンルも出現し、これも琉球舞踊に含まれる。

★音楽

琉球古典音楽を参照。

宮廷音楽として、室内楽の御座楽(うざがく)や、屋外楽の路次楽などがあった。

★工芸

染織の技法である紅型、漆器には琉球漆器、陶磁器には壺屋焼などがある。

★武芸

琉球王国の詳しい武術については手 (沖縄武術)、空手道を参照。

沖縄固有の沖縄手、中国武術から発展したといわれる唐手などの手(ティー)という武術があった。

●経済

琉球は、中国に冊封されることで、倭寇の取締りを尻目に東シナ海での中継貿易の中心の1つを担うようになり、経済基盤をつくり上げた。貿易範囲は日本の他、主に中国・朝鮮やベトナム、タイなど東南アジア諸国であった。

16世紀に入り、大航海時代を迎えたヨーロッパ諸国が東南アジアに貿易拠点を築き、さらに東シナ海に進出するようになると、ヨーロッパ人が東アジア諸国と直接貿易をするようになり、琉球の中継貿易は衰退した。また、戦国時代に戦費調達のため鉱山開発が進んだ日本が、安土桃山時代から江戸時代初頭にかけて、豊富な銀を持って東南アジア領域に進出し、多数の日本人町を形成するほど貿易の中心となった。ただし、明が朱印船を受け入れなかったため、琉球の対明中継貿易の地位は残り、命脈を保った。その後、東アジア諸国の鎖国政策によって国際貿易は縮小するが、薩摩藩の付庸国となることで日本との、朝貢貿易によって中国との貿易ルートを得た琉球が安定した中継貿易の地位を確立した。

19世紀に入ると、アヘン戦争に敗北した清が海禁政策を弱め、日本も開国してヨーロッパと直接貿易を再開した。これにより、香港や日本の開港5港などに貿易の中心は移り、琉球の東シナ海での中継貿易の地位はほぼ失われてしまう。結果、中継貿易を支えた琉球の日清両属体制は意義を失い、琉球処分で経済的にも政治的にも日本に完全に組み込まれた。

●宗教

★琉球固有の宗教

古来より琉球にはアニミズム、祖霊崇拝、おなり神信仰を基礎とする固有の宗教があり、首里には聞得大君御殿(きこえおおきみうどぅん)、首里殿内(しゅりどぅんち)、真壁殿内(まかべどぅんち)、儀保殿内(ぎぼどぅんち)の一本社三末社があった。聞得大君御殿は首里汀志良次町にあり、琉球各地にある祝女殿内(ぬんどぅんち)と呼ばれる末社を支配した。

聞得大君は琉球王国の高級神女三十三君の頂点に君臨する最高神女で、その地位は国王の次に位置し、前・元王妃など王族女性から選ばれて任に就いた。聞得大君は御殿の神体である「御スジノ御前」、「御火鉢ノ御前」、「金之美御スジノ御前」に仕え、国家安泰、海路安全、五穀豊穣などを祈願した。

★神道

尚金福王(在位1449年 - 1453年)の時、那覇・若狭町に天照大神のほこらを建立したのが、史書で確認できる最初の神社建立である。沖縄本島には昔から波上宮、沖宮、識名宮、普天間宮、末吉宮、八幡宮、天久宮、金武宮の八社(琉球八社)があり、よく知られている。このうち、七社が熊野権現を、一社は八幡大神を祀っている。琉球第一の神社は波上宮である。

★仏教

13世紀、英祖の治世に僧・禅鑑(国籍不明)が那覇に漂着し、王が禅鑑を尊信して浦添城の西に極楽寺を建立して禅鑑を開基としたのが、琉球に仏教が伝来した始まりと言われている。その後、察度の治世に日本の頼重法印が渡来して波上山護国寺を開き、尚泰久王の治世には京都から高僧・芥隠が渡来した。

芥隠は琉球における臨済宗の祖とも言うべき人物で、尚真王が1492年に円覚寺を創建するにあたって、芥隠を開基とした。円覚寺は琉球王家の庇護厚く、沖縄戦で焼失するまで琉球第一の巨刹として繁栄した。歴代国王の御後絵(肖像画)はすべて円覚寺に安置されていた。円覚寺、天王寺、天界寺を合わせて三大寺という。他に那覇の崇元寺も昔から有名である。

★道教

琉球に道教が伝来した正確な時期を示す文献はないが、1719年に来琉した冊封使・徐葆光の『中山伝信録』の中に、道教の竈祭(かまどの神を祝う祭)が行われていたとの記述があることから、18世紀初頭には道教が信仰されていた事実を確認できる。その後、道教は琉球土着の民間信仰と融合して、婦女子の間で広く信仰された。

★キリスト教

キリスト教の伝来は、尚豊王の治世の1622年、八重山に南蛮船が渡航して布教を行ったのが始まりである。日本ではキリスト教はすでに禁止されていたが、ジャワやルソンから往来する南蛮船が琉球諸島にたびたび寄港していた関係から、布教活動が行われた。しかし、この頃から琉球でもキリスト教は公には禁止されており、また薩摩藩からも度々禁令が発せられて琉球側に伝達されていたので、キリシタンは摘発されると罰せられた。

1846年、イギリスのバーナード・ジャン・ベッテルハイムが来琉して、王府の手配した波之上の護国寺に住みながら布教活動を行った。しかし信教の自由が認められておらず、来琉時に、王府からの丁重な退去要請を無視しての強引な上陸であったため、布教活動は様々妨害を受け困難を極めた。ベッテルハイムは滞在中琉球語を修得し、新約聖書の福音書のいくつかを翻訳して「琉球聖書」を作成し、後に香港で出版した。

●身分制度

琉球王国の詳しい身分制度については琉球の位階を参照。

琉球王国の身分制度は、御主加那志前(ウシュガナシーメ)と呼ばれた国王を頂点に御殿(ウドゥン)と呼ばれた王子、按司などの王族、殿内(トゥンチ)と呼ばれた親方、親雲上(ペークミー)などの上級士族、親雲上(ペーチン)と呼ばれた一般士族、百姓(ヒャクショウ)と呼ばれた平民からなる。

王子、按司は一間切を采地(領地)として与えられ、それぞれ王子地頭、按司地頭と呼ばれた。両者を一括して按司地頭とも言う。親方は一間切を領する総地頭、間切内の一村を領する脇地頭に分かれる。親雲上(ペークミー)とは、一村を領する脇地頭職にある親雲上(ペーチン)のことであり、発音で両者は区別された。親雲上(ペーチン)は一般士族である。

王子から親雲上までは広義における貴族階級であり、それぞれの家は系図(家譜)を持つことを義務づけられたことから、系持ちと呼ばれた。これに対して、平民は系図を持たないことから無系と呼ばれた。琉球王国末期、系持ちは総人口の25%超を占めたが、このうち実際に王府に勤めていたのはごく一部である。大部分は王府勤めを待ち望む無禄士族であった。

●脚注

1.『琉球王国評定所文書』

2.琉球藩ヲ廃シ沖縄県ヲ被置ノ件(国立公文書館)

3.真境名安興『沖縄一千年史』記載の「職制創設年表」の一覧(318、319頁)には「表十五人」の職制はない。

参考文献

名安興『沖縄一千年史』(真境名安興全集第一巻)琉球新報社 1993年
『沖縄門中大事典』那覇出版社 1998年 ISBN 4890951016

それでは、ここで沖縄の歴史について触れましたので、続いては、沖縄本島を中心に存在した王国、「琉球王国」についてお話をしたいと思います。

●琉球王国について

琉球王国(りゅうきゅうおうこく、正式国名:琉球國)とは、沖縄本島を中心に存在した王国。1429年に尚巴志の三山統一により成立したが、1462年に王統が交代した。15世紀に明の冊封国となり、17世紀初頭に薩摩藩(日本)の付庸国となった。1871年の廃藩置県で鹿児島県下に編入されたが、1872年には琉球藩となる。1879年の琉球処分で王統の統治権がなくなり日本本土の一部となった。

最大版図は奄美諸島と沖縄諸島及び先島諸島(大東諸島と尖閣諸島は含まない)。この範囲の島々の総称として、琉球列島とも言う。王家の紋章は左三巴紋で「左御紋(ひだりごもん:フィジャイグムン)」と呼ばれた。

●国名

かつては琉球國と称していたが、今日では一般に琉球王国と呼ばれている。「りゅうきゅう」は元来中国の史書『隋書』卷81 列傳第46 東夷 流求國に記述される、大業6年(610年)に隋の属国にされた国の呼称「流求」によるものである。後の『北史』、『通典』、『諸蕃志』では『隋書』の内容を踏襲、『太平寰宇記』においても内容に大差はなかった。『文献通考』により琉球は、台湾と沖縄県周辺の混同記述となった。明との交易が始まった14世紀頃には沖縄県周辺の呼称として定着し、また自国の呼称として琉球國という国名が、1872年(明治5年)の琉球藩設置まで用いられた。1874年(明治7年)サン・デニーは『文献通考』の一部を翻訳し、その琉球条により流求は台湾であるとする説を発表し、1895年グスタフ・シュレーゲルは、元以前の琉球は台湾で、明からは沖縄県周辺が琉球になったとする説を発表した。1897年(明治30年)帝国大学文科大学(現東京大学)史学科教授ルードヴィヒ・リースの著書『台湾島史』(吉国藤吉郎訳、1898年(明治31年))でも流求は台湾とし、他に漠然と中国東方にある島々を指していたとも言われて、必ずしも今日の沖縄県周辺を意味する呼称ではなかったとされる。

●歴史

★三山統一

12世紀、源為朝が琉球に逃れ、その子孫が初代琉球王舜天になったとの神話があるが、来琉の真偽は不明である。1429年、第一尚氏王統の尚巴志王の三山統一によって琉球王国の成立と見なされている。第一尚氏王統は、統一後も地方の諸按司の勢力が強く、有効な中央集権化政策を実施しなかったため内乱が絶えず、63年間で瓦解した。

★第二尚氏王統

1462年、尚泰久王の重臣であった金丸(尚円王)が、尚徳王の薨去後、王位を継承し、第二尚氏王統が成立した。王位継承に関しては、正史では重臣たちの推挙によって即位したと記されているが、クーデターによる即位だったのではないかとの説もある。その後、第二尚氏王統は、尚真王の治世に地方の諸按司を首里に移住させ、中央集権化に成功した。1571年には、王国は奄美諸島北部を侵略、制圧した。この時、王国の版図が最大になった。

★薩摩による琉球侵攻

その後豊臣秀吉が明とその進路にある李氏朝鮮を征服しようとし、琉球に助勢を命じたが、琉球は明の冊封国であったため断った。なお、実際に文禄・慶長の役で日本が朝鮮半島に攻め込んだ時、琉球は日本軍に食料を提供している。なお、この時、日本から脅しに近い書状が琉球に送られている。

1609年に薩摩藩の島津氏は、明との交易利権を狙って3000名の兵を率いて琉球への侵攻を決定した。これは、秀吉に代わって天下人となった徳川家康も黙認していた。朝鮮に出兵して以来、悪化していた明との関係を、琉球を通じて改善できると考えたからである(李氏朝鮮とは己酉約条を結ぶなど関係改善が進んでいたが、明は中華思想に基づいて「蛮夷」の日本と対等な関係を結ぶのを拒んでおり、関係改善が思うように進んでいなかった。琉球を通じてという形なら、日本・明の双方の面子を保ちつつ、対等な関係を結べるのではないかと江戸幕府は考えていた)

島津軍に対して、琉球軍は島津軍より多い4000名の兵士を集めて対抗した。しかし、火力で勝り、戦国時代を戦い抜いて戦に慣れていた島津軍にとって、琉球軍は敵ではなかった。

島津軍は3月4日に薩摩を出発すると、3月8日に当時琉球の領土だった奄美大島に上陸、征圧した。3月26日には沖縄本島に上陸、4月1日には首里城にまで進軍した。侵攻開始から、わずか一ヶ月足らずであった。

首里城は城といっても日本の城のように防御と籠城戦向きの設計では無く(むしろ宮殿に近かった)、籠城しても勝ち目はないと判断した尚寧王は和睦を申し入れて開城した。4月5日の事である。

これほどの短期決戦となった理由として島津軍が強かった事もあるが、それ以上に島津が経済的に困窮していた事も理由の一つである。島津は文禄・慶長の役、庄内の乱、関ヶ原の合戦と立て続けに起こった事件で国力を低下させており、長期戦を戦えるだけの財力が無かった。そのため、島津軍は出来る限りの行軍速度で琉球各地を攻略する事を心がけていた(7月まで戦が長引いた場合、島津軍は勝敗とは無関係に撤退する予定であった)。

こうして、王国は薩摩藩の付庸国となり、戦争は終わった。

琉球王国は薩摩藩への貢納を義務付けられ、江戸上りで江戸幕府に使節を派遣した。その後も琉球は、明を滅ぼした清にも朝貢を続け、薩摩藩と清の両属という体制となりながらも、独自の国と文化を維持した。また、琉球が支配していた奄美諸島は、薩摩藩直轄地となり分離された。しかし、表面上は琉球の領土とされ、中国や朝鮮からの難破船などに対応するため、引き続き王府の役人が派遣されていた。

★黒船来航

1853年の5月に黒船来航がありアメリカ海軍のマシュー・ペリー提督が来航し首里城に入った。また翌1854年にも来航した。なおペリーはミラード・フィルモアアメリカ合衆国大統領から、武力で抵抗された場合琉球を占領することを許可されていた。

★琉球処分

1871年(明治4年)、廃藩置県によって鹿児島県の管轄となったが、1872年(明治5年)には琉球藩を設置し、明治政府により琉球国王尚泰を琉球藩王に封じた。1879年(明治12年)の琉球処分により沖縄県が設置され[2]、沖縄県令として鍋島直彬が赴任するに至り、王統の支配は終わった。琉球の王族は、日本の華族とされた。

※紀年法

明の洪武帝への入貢以後、中国王朝の冊封を受けていたため、元号は日本ではなく明や清のものを使用した。現在ではこれとは別に国王即位紀年を用いることがある。

詳細は沖縄県の歴史を参照。

●政治

★王府行政機構

※評定所

評定所は国政を司る王府最高機関である。摂政および三司官が執務する場所は御座もしくは上御座と呼ばれ、表十五人が控える場所は下御座と呼ばれた。

★摂政

摂政(シッシー)は日本の摂政職に近いが、ほぼ常設の官職である。国王を補佐し、三司官に助言を与える役目だが、辣腕をふるった羽地王子朝秀などを例外にすれば、通常は儀礼的な閑職であった。王子や按司など、王族から選ばれた。
例外は薩摩の侵攻直後に就任した僧菊隠で、これは薩摩との交渉役を期待されたためである。漢訳で国相と言った。

★三司官

三司官(さんしかん)は実質的な行政の最高責任者であり、宰相に相当する。三人制で投票により親方の中から選ばれた。選挙権を持つ者は王族、上級士族ら200余名であった。王族には選挙権はあるが、被選挙権は無かった。
職掌は、用地方、給地方、所帯方に分かれ、3人がそれぞれを分担した。三司官の品位は正一品から従二品で、士族が昇進できる最高の位階であった。漢訳で法司と言った。

★表十五人

表十五人(おもてじゅうごにん)は、摂政・三司官の下に位置する、物奉行3人、その下の次官級の吟味役3人、申口方の長官4人、その下の次官級の吟味役3人・日帳主取2人を合わせた計15名からなる協議機関である。国政の重要課題を協議し、摂政・三司官に上申するなどした。十五人衆、奉行衆とも言う。現在の国務大臣に相当する。
尚賢王の治世の1643年に置かれたが、表十五人は正式な官職名というよりは通称であり、普段はそれぞれの役所の長官および次官として働き、必要があれば集まって協議した。それゆえ、評定所の常設官職には含まれない[3]。

●物奉行所

物奉行所は用意方、給地方、所帯方の3つの物奉行所からなり、それぞれに物奉行が一人いた。各物奉行は、同じく各物奉行所を担当するそれぞれの三司官の監督のもとで職務を行った。物奉行は今日の大臣・長官に相当し、その下に次官級の吟味役が置かれた。主に物奉行は親方(従二品)が、吟味役は親雲上(ペークミー・正四品)がその任に就いた。

★用意方物奉行所

用意方(よういほう)は国有財産の管理・山川保全などを職掌とする官庁である。山奉行所、砂糖蔵、用意蔵、大台所、料理座、催促方の各役所を管轄した。

★給地方物奉行所

給地方(きゅうちほう)は役人の給与・旅費などを職掌とする官庁である。船手蔵、高所、勘定座、用物座、給地座、救助蔵、道具当の各役所を管轄した。

★所帯方物奉行所

所帯方(しょたいほう)は租税・国庫の出納などを職掌とする官庁である。田地方、取納座、座検者方、諸製方、米蔵、仕上世座、宮古蔵、銭蔵、賦方、蘇鉄方、紙座、櫨垂方、請地方の各役所を管轄した。

●申口方

申口方(もうしぐちほう)は平等方、泊地頭、双紙庫理、鎖之側の四官庁からなる。平等方を除いて、それぞれ官庁名であると同時にその長官名を指した。各長官の下には次官級の吟味役か日帳主取が置かれた。申口方の長官は親雲上(正三品)が、その下の次官級は親雲上(正四品)がその任に就いた。従って、申口方の長官は物奉行よりも品位が下に位置する。長官は漢訳で耳目官と言った。

★平等方

平等方(ひらほう)は司法(裁判所・警察署)と首里の土地山林を職掌とする官庁である。平等所とも言う。長官名は平等の側(ひらのそば)と言った。他に王家陵墓・玉陵の警備なども管轄した。

★泊地頭

泊地頭(とまりじとう)は戸籍、民事、公安、消防、宗教、建設および琉球第二の貿易港のある泊村を職掌とする官庁およびその長官名である。寺社座、大与座、総横目、泊村方、普請奉行所、鍛冶奉行所、亙奉行所、総与力の各役所を管轄した。

★双紙庫理

双紙庫理(そうしこり)は知行、褒賞、工芸や宮中のことを職掌とする官庁およびその長官名である。下庫理、書院、納殿、小細工奉行所、貝摺奉行所、厩方の各役所を管轄した。

★鎖之側

鎖之側(さすのそば)は外交、文教などを職掌とする官庁およびその長官名である。御系図座、久米村方、那覇里主所、国学、久米村明倫堂、首里三平等学校所、那覇四町学校所、泊村学校所、首里各村学校所、、諸浦在番の各役所を管轄した。

●文化

令制を参考にした政治や、中国武術から発展したといわれる唐手、中国風の名前を持つなど、最大の交易相手だった中国の影響を強く受けつつ、一方で神社を建立したり文字にはひらがなを使用したりするなど日本の影響も無視できない。琉球は、日中双方の文化を受け入れつつ、独自の文化を育んでいた。

●文学

尚清王から尚豊王の治世にかけての1531年から1623年の間に、琉球最古の歌謡集『おもろさうし』が編纂された。古来から伝わるおもろ(歌の意)・1554首を収録して、王府によって編纂されたものである。

17世紀になると、短詩型の叙情歌謡である琉歌が盛んになった。琉歌には様々な形式があるが、一般的には8・8・8・6の30音からなる形がよく知られている。琉歌の名人には惣慶忠義(1686年 - 1749年)、平敷屋朝敏(1700年 - 1747年)、玉城親方朝薫(1684年 - 1734年)、与那原親方良矩(1713年 - 1797年)、本部按司朝救(1741年 - 1814年)、東風平親方朝衛(1701年 - 1766年)等が古来より有名である。これらの歌人は、和歌・和文にも精通していた。女流歌人では、吉屋チル(1650年 - 1668年)と恩納なべ(尚穆王時代)が双璧としてよく知られている。

★琉球舞踊

琉球舞踊は、中国からの使節を歓迎するために舞う宮廷舞踊「御冠船踊り」がその起源である。御冠船踊りはすべて貴士族の子弟のみによって踊られた。宮廷舞踊のことを明治以降の舞踊と区別する意味で、古典舞踊とも言う。古典舞踊には、老人踊り、若衆踊り、二才踊り、女踊り、打組み踊りなどがある。

廃藩置県によって琉球王国が滅亡し、士族階層が没落すると、古典舞踊を元にして雑踊りと呼ばれる民間舞踊が誕生した。また、昭和以降には、現代感覚を導入した創作舞踊というジャンルも出現し、これも琉球舞踊に含まれる。

★音楽

琉球古典音楽を参照。

宮廷音楽として、室内楽の御座楽(うざがく)や、屋外楽の路次楽などがあった。

★工芸

染織の技法である紅型、漆器には琉球漆器、陶磁器には壺屋焼などがある。

★武芸

琉球王国の詳しい武術については手 (沖縄武術)、空手道を参照。

沖縄固有の沖縄手、中国武術から発展したといわれる唐手などの手(ティー)という武術があった。

●経済

琉球は、中国に冊封されることで、倭寇の取締りを尻目に東シナ海での中継貿易の中心の1つを担うようになり、経済基盤をつくり上げた。貿易範囲は日本の他、主に中国・朝鮮やベトナム、タイなど東南アジア諸国であった。

16世紀に入り、大航海時代を迎えたヨーロッパ諸国が東南アジアに貿易拠点を築き、さらに東シナ海に進出するようになると、ヨーロッパ人が東アジア諸国と直接貿易をするようになり、琉球の中継貿易は衰退した。また、戦国時代に戦費調達のため鉱山開発が進んだ日本が、安土桃山時代から江戸時代初頭にかけて、豊富な銀を持って東南アジア領域に進出し、多数の日本人町を形成するほど貿易の中心となった。ただし、明が朱印船を受け入れなかったため、琉球の対明中継貿易の地位は残り、命脈を保った。その後、東アジア諸国の鎖国政策によって国際貿易は縮小するが、薩摩藩の付庸国となることで日本との、朝貢貿易によって中国との貿易ルートを得た琉球が安定した中継貿易の地位を確立した。

19世紀に入ると、アヘン戦争に敗北した清が海禁政策を弱め、日本も開国してヨーロッパと直接貿易を再開した。これにより、香港や日本の開港5港などに貿易の中心は移り、琉球の東シナ海での中継貿易の地位はほぼ失われてしまう。結果、中継貿易を支えた琉球の日清両属体制は意義を失い、琉球処分で経済的にも政治的にも日本に完全に組み込まれた。

●宗教

★琉球固有の宗教

古来より琉球にはアニミズム、祖霊崇拝、おなり神信仰を基礎とする固有の宗教があり、首里には聞得大君御殿(きこえおおきみうどぅん)、首里殿内(しゅりどぅんち)、真壁殿内(まかべどぅんち)、儀保殿内(ぎぼどぅんち)の一本社三末社があった。聞得大君御殿は首里汀志良次町にあり、琉球各地にある祝女殿内(ぬんどぅんち)と呼ばれる末社を支配した。

聞得大君は琉球王国の高級神女三十三君の頂点に君臨する最高神女で、その地位は国王の次に位置し、前・元王妃など王族女性から選ばれて任に就いた。聞得大君は御殿の神体である「御スジノ御前」、「御火鉢ノ御前」、「金之美御スジノ御前」に仕え、国家安泰、海路安全、五穀豊穣などを祈願した。

★神道

尚金福王(在位1449年 - 1453年)の時、那覇・若狭町に天照大神のほこらを建立したのが、史書で確認できる最初の神社建立である。沖縄本島には昔から波上宮、沖宮、識名宮、普天間宮、末吉宮、八幡宮、天久宮、金武宮の八社(琉球八社)があり、よく知られている。このうち、七社が熊野権現を、一社は八幡大神を祀っている。琉球第一の神社は波上宮である。

★仏教

13世紀、英祖の治世に僧・禅鑑(国籍不明)が那覇に漂着し、王が禅鑑を尊信して浦添城の西に極楽寺を建立して禅鑑を開基としたのが、琉球に仏教が伝来した始まりと言われている。その後、察度の治世に日本の頼重法印が渡来して波上山護国寺を開き、尚泰久王の治世には京都から高僧・芥隠が渡来した。

芥隠は琉球における臨済宗の祖とも言うべき人物で、尚真王が1492年に円覚寺を創建するにあたって、芥隠を開基とした。円覚寺は琉球王家の庇護厚く、沖縄戦で焼失するまで琉球第一の巨刹として繁栄した。歴代国王の御後絵(肖像画)はすべて円覚寺に安置されていた。円覚寺、天王寺、天界寺を合わせて三大寺という。他に那覇の崇元寺も昔から有名である。

★道教

琉球に道教が伝来した正確な時期を示す文献はないが、1719年に来琉した冊封使・徐葆光の『中山伝信録』の中に、道教の竈祭(かまどの神を祝う祭)が行われていたとの記述があることから、18世紀初頭には道教が信仰されていた事実を確認できる。その後、道教は琉球土着の民間信仰と融合して、婦女子の間で広く信仰された。

★キリスト教

キリスト教の伝来は、尚豊王の治世の1622年、八重山に南蛮船が渡航して布教を行ったのが始まりである。日本ではキリスト教はすでに禁止されていたが、ジャワやルソンから往来する南蛮船が琉球諸島にたびたび寄港していた関係から、布教活動が行われた。しかし、この頃から琉球でもキリスト教は公には禁止されており、また薩摩藩からも度々禁令が発せられて琉球側に伝達されていたので、キリシタンは摘発されると罰せられた。

1846年、イギリスのバーナード・ジャン・ベッテルハイムが来琉して、王府の手配した波之上の護国寺に住みながら布教活動を行った。しかし信教の自由が認められておらず、来琉時に、王府からの丁重な退去要請を無視しての強引な上陸であったため、布教活動は様々妨害を受け困難を極めた。ベッテルハイムは滞在中琉球語を修得し、新約聖書の福音書のいくつかを翻訳して「琉球聖書」を作成し、後に香港で出版した。

●身分制度

琉球王国の詳しい身分制度については琉球の位階を参照。

琉球王国の身分制度は、御主加那志前(ウシュガナシーメ)と呼ばれた国王を頂点に御殿(ウドゥン)と呼ばれた王子、按司などの王族、殿内(トゥンチ)と呼ばれた親方、親雲上(ペークミー)などの上級士族、親雲上(ペーチン)と呼ばれた一般士族、百姓(ヒャクショウ)と呼ばれた平民からなる。

王子、按司は一間切を采地(領地)として与えられ、それぞれ王子地頭、按司地頭と呼ばれた。両者を一括して按司地頭とも言う。親方は一間切を領する総地頭、間切内の一村を領する脇地頭に分かれる。親雲上(ペークミー)とは、一村を領する脇地頭職にある親雲上(ペーチン)のことであり、発音で両者は区別された。親雲上(ペーチン)は一般士族である。

王子から親雲上までは広義における貴族階級であり、それぞれの家は系図(家譜)を持つことを義務づけられたことから、系持ちと呼ばれた。これに対して、平民は系図を持たないことから無系と呼ばれた。琉球王国末期、系持ちは総人口の25%超を占めたが、このうち実際に王府に勤めていたのはごく一部である。大部分は王府勤めを待ち望む無禄士族であった。

●脚注

1.『琉球王国評定所文書』

2.琉球藩ヲ廃シ沖縄県ヲ被置ノ件(国立公文書館)

3.真境名安興『沖縄一千年史』記載の「職制創設年表」の一覧(318、319頁)には「表十五人」の職制はない。

参考文献

名安興『沖縄一千年史』(真境名安興全集第一巻)琉球新報社 1993年
『沖縄門中大事典』那覇出版社 1998年 ISBN 4890951016

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今日は、とても大切な帰還です・・・パート3

続いては、明治以降についてです。

●明治以降

★琉球処分

1871年に全国で廃藩置県を実施(このとき琉球国を国家としてではなく令制国として扱い、鹿児島県に編入している)した日本の明治政府は、1872年(明治5)、琉球王国を強制廃止して琉球藩を設置した。しかし清はこの日本の政策に反発、琉球は古来中華帝国に服属していたものとして、琉球の領有権を主張した。当時の東アジアの秩序は、中国・清王朝を中心とした、朝貢を基本とする華夷秩序によって形成されており、琉球も例外ではなかった。しかし、日本は「万国公法」の、近代的な「国民国家」の理論を適用し、日清重属であった琉球を取り込もうとした。日本は琉球領有の正当化のため、台湾原住民による琉球人殺害の報復として1874年(明治7)に台湾出兵を行なった。1879年(明治12)、明治政府は軍隊と警官を派遣して琉球藩の廃止を宣言し、鹿児島県に編入した。同年中に沖縄県を設置し、薩摩以前の宗主国である清国との関係を重視する王族士族の抵抗(サンシー事件など)を退けた。一部の抵抗者は清に亡命し、琉球回復の政治活動を行い、彼らは脱清人といわれた。しかし日本政府が最も危惧した清国の武力介入は結局行われず、琉球王国は中央集権的近代日本国家に組み入れられて消滅した。国王(正しくは藩王)であった尚泰は侯爵に叙せられ、東京への定住を命ぜられた。第二尚氏家系は現在も続いている。

以上の、琉球藩設置から廃藩置県までの一連の流れを琉球処分と呼び、琉球藩設置を第一次琉球処分、廃藩置県を第二次琉球処分ということもある。

清は、この動きに反発し、両国関係が緊張した。翌1880年(明治13)、アメリカ前大統領グラントが仲裁に入り、沖縄県から先島諸島を分割し、清へ割譲する案がまとまった。しかし、清は態度を変えて条約に調印せず、結局、領有権問題の解決は1894年(明治27)の日清戦争後まで持ち込まれた。戦争に敗れた清は台湾を割譲、同時に琉球に対する日本の主権を認めざるを得なくなった。

琉球処分以降の中華民国の尖閣諸島を含む沖縄諸島の認識は日本領として正式に承認し両国間では一応の決着がついていたことが判明している。その証拠として1920年に中華民国から日本の石垣村に送られた感謝状には『日本帝国沖縄県八重山郡尖閣諸島』という記載がある[2]。また70年代頃まで中華民国で使われていた教科書や台湾の国防研究所と地学研究所が作成した地図でも尖閣諸島を日本領として明確に記載していた[3]。

第二次世界大戦後、台湾に渡った中華民国政府(国民政府)は沖縄返還協定が結ばれた際にプロセスに参加できなかったことを不服として琉球の本土復帰を承認しておらず、また日中国交正常化に伴って日本と断交したため、正式には日本の琉球領有権を認めていない状態にある。現在でも政府文書などで時折日本と琉球が別の色で表示されている事などがある。中華人民共和国は日中共同声明で日中両国の主権及び領土保全の相互尊重を声明しており、在野の学者が沖縄の領有を主張することはあるが、中国政府は公式には、日本の沖縄に対しての領有権を否定する発言を行ったことはない。

★近代化政策

正式に日本の領土とされた沖縄県であるが、実情は世界に比べて法整備が遅れ、琉球時代旧来の体制が引き継がれることとなった。先島諸島の人頭税廃止を求める住民が宮古島で運動を起こしたことをきっかけに、沖縄県各地で旧制度廃止・改善をめぐる運動が起こった。運動は1890年代に県庁農業技師の謝花昇を中心に高揚し、県政の改善や参政権を要求した。この運動の成果かはわからないが、徴兵制、地租改正、市町村制、府県制、衆議院議員選挙法などが、概ね本土から10~25年遅れて施行した。

1920年(大正9)に、南洋諸島が日本の委任統治になると、新天地を求めた住民が環境の似たこの地へこぞって移住した。また同時期に、ハワイやブラジルなどの中南米諸国へも多数が移民した。第一次世界大戦による戦争バブルが崩壊し、1930年代に世界恐慌による大不況と、全国規模の農産物の不作が発生すると一時的に飢饉となり、貧家ではソテツの実を毒抜きして食べたりもしたが、毒抜きが不十分で死んでしまうこともあり、「ソテツ地獄」と呼ばれる状況となった。この貧窮は、さらに出稼ぎを目的とした本土(特に大阪市大正区には、沖縄からの出稼ぎ労働者が多く移住してきたため、現在でもその一部とその子孫らが暮らしている)や南洋諸島、中南米への移民を促進することとなった。

※詳細は沖縄県の鉄道を参照。

戦前の沖縄本島には軌道系交通機関が存在した。明治時代末期に沖縄電気軌道が沖縄初の運輸営業を行う鉄道が開通したのを皮切りに、大正時代には沖縄本島に鉄道会社が4社にまで増加、営業路線も北は嘉手納、南は糸満、東は与那原まで拡大し、絶頂期を迎えた。しかし、昭和時代に入ると道路整備の発達により、新たにバス会社が参入すると、鉄道の輸送人員は減少し、1930年代後半に次々と廃業、さらに追い打ちをかけるように、沖縄戦によりレールなどの鉄道の全施設が破壊された。そして、戦後になっても2003年に沖縄都市モノレールが開通するまで復旧することなく消滅した。

★戦争

※詳細は沖縄戦を参照

太平洋戦争では、1944年(昭和19)10月10日に本土空襲に先駆けた激しい空襲によって那覇市の90%が壊滅し(十・十空襲)、上陸戦開始まえに知事の努力で行なわれた本土疎開でも、学童疎開の対馬丸の被雷喪失など、被害が発生していた。

1945年(昭和20)3月26日、慶良間諸島にアメリカ海軍艦隊が集結し、3月29日にこれを占領した。4月1日に米軍は55万人の兵力で沖縄本島の読谷村(沖縄本島中部)から上陸し、すさまじい砲撃と空襲を加え進攻してきた。圧倒的なアメリカ軍の火力の前に、首里城地下を本部にした日本軍との間で壮絶な地上戦が行われ、沖縄県民も沖縄防衛隊を配置、多くの一般人も戦闘に参加し、日本軍と共に亡くなった。第32軍司令官牛島満が自殺した6月23日に組織的戦闘は終結、実質的な戦闘は7月4日に終了し、9月7日に降伏文書が取り交わされた。

また、戦争に伴って行われたマラリア発生地域への住民の強制疎開や、物資の移動、栄養状態の悪化、マラリアの集団罹患が発生した(戦争マラリア)。

★戦後

■アメリカの統治による琉球政府

戦争終結後、アメリカ政府は沖縄県は独自の国で、日本に同化された異民族としてアメリカ軍政下に置いた。しかし、朝鮮戦争の勃発によってアメリカ政府の琉球に対する見方は「東アジアの要石」へと次第に変化し最前線の基地とされると、アメリカ本土からの駐留アメリカ軍が飛躍的に増加した。旧日本軍の施設以外に、米軍は軍事力に物を言わせ、住民の土地を強制的に接収した。いわゆる「銃剣とブルドーザーによる土地接収」である。

1952年(昭和27)4月28日発効の日本国との平和条約で、潜在的な日本の主権は認めながら、正式にアメリカ軍の管理下に置かれるようになった。アメリカは琉球政府を創設して軍政下に置き、各地にアメリカ軍基地・施設を建設した。アメリカ兵による事故・事件が頻発し、住民の死亡者も相次いだ。この状況に対し、県民有志は「島ぐるみ闘争」と呼ぶ抵抗運動を起こし、また、このころから県民は日本復帰を目指して活発な祖国復帰運動を行い、1960年(昭和35)に沖縄県祖国復帰協議会(復帰協)を結成した。なお、このころの米大統領アイゼンハワーは、返還する気は全く無かったようである。

1960年代のベトナム戦争によって沖縄が最前線基地とされると、駐留米軍が飛躍的に増加し、これに伴って事件・事故も増加した。また爆撃機が沖縄から直接戦地へ向かうことに対し、復帰運動は反米・反戦色を強めた。一方、米軍による需要がある土木建築業、飲食業、風俗業などに携わる勢力は、復帰反対や米軍駐留賛成の運動を展開し、彼等の支援された議員が復帰賛成派の議員と衝突した。1968年(昭和43)11月には琉球政府の行政主席選挙が行われ、90パーセント近い投票率を記録した。この選挙によって復帰協の屋良朝苗が当選、「即時無条件全面返還」を訴えた。

※詳細はアメリカ合衆国による沖縄統治を参照。

★日本の施政下へ

日本の佐藤栄作政権は、1970年(昭和45)に予定される安保延長と共に、沖縄県の本土復帰を緊急の外交課題とした。このため、70年安保延長反対を唱える日本社会党や日本共産党は、安保と同列の沖縄返還論に反発し、新左翼や学生運動、各種労働組合までも反安保、反返還の一大運動を日本国内で繰り広げた。しかし、これらは沖縄県民の運動とはほとんど結びつかず、県民の真意を汲み取ることにはならなかった。

1970年(昭和45)12月20日未明、沖縄本島中部のコザ市(現・沖縄市)で、米軍兵士が連続して起こした2件の交通事故を契機にコザ暴動が発生した。常日頃から米軍兵士が優遇され沖縄県民が不当に差別されたことに対するコザ市民の怒りが表面化したもので、これ以上アメリカ軍政下に置くことは適当でないと内外に知らしめた。アメリカ政府にとっては、日頃温厚と見ていた人々が暴動をおこした事に強い衝撃を受けた。

1969年(昭和44)の日米首脳会談では、アメリカ大統領ニクソンが沖縄返還を約束した。屋良朝苗や復帰賛成派の県民は日本復帰と同時に米軍基地の全面返還を望んだが、米軍基地を維持したままの「72年・核抜き・本土並み」の返還とされ、佐藤はニクソンとの取り決めで、非核三原則の拡大解釈や核兵器持ち込みに関する秘密協定など、アメリカの利益を最大限尊重した。1972年(昭和47)5月15日に琉球政府は沖縄県となり、日本へ復帰した。

また、日本政府は返還協定第7条にもとづき、特別支出金として総額3億2,000万ドルをアメリカに支払った。特別支出金の内訳は、米軍政下で設置された琉球水道公社・琉球電力公社・琉球開発金融公社のほか、那覇空港施設・琉球政府庁舎、あるいは航空保安施設、航路標識などの民生用資産の引き継ぎの代金1億7,500万ドルが含まれていた。県民の間からは、「これらの施設・資産は無償譲渡されるべきものであって、アメリカ政府に対価を支払うのはおかしい」といった批判が噴出したが、日本政府は取り決めに従いこの巨額の対価を支払った。このため一部の沖縄県民には、「沖縄は日本政府によって金で買い取られた」という認識を強く持つ者、琉球独立論を唱える者もいる。また、この本土復帰を日本による琉球再併合と規定し、沖縄返還ではなく第三次琉球処分と呼ぶ者もいる。

※詳細は沖縄返還を参照

●現在

日本への復帰を記念して、1973年(昭和48)には若夏国体、1975年(昭和50)には沖縄国際海洋博覧会が開催された。しかし、観光以外にこれといった大きな産業がなく、日本で一番完全失業率が高い状態が長年続いている。このため、沖縄県では1998年(平成10)から「沖縄県マルチメディアアイランド構想」に基づき、海底ケーブルの陸揚げ本数が多いことから IX(Internet Exchange)の語に掛けて IT Exchange 等の呼びかけを行ない、コールセンターやIT企業の優遇策による誘致を活発に行なっている。その一方で内外から施設は立派であるが内容が伴なわないとして箱物行政といった話題も多い。また、2000年(平成12)には主要国首脳会議(サミット)が行われたのをきっかけに、国際会議、コンベンションといったイベント開催地としての体勢作りを進めている。

文化面では、具志堅用高などのボクシング選手が出身地としているほか、1990年代に沖縄アクターズスクールが安室奈美恵をはじめとする多数の歌手を輩出し、全国的な人気を博した。その後も若手の女優が次々と人気を獲得するなど、芸能面での強さを見せている。

一方、現在も在日米軍の基地が多くあり、日本にある在日米軍基地の75パーセント(面積比)が沖縄県に集中するという歪な構造となっている。これらの基地の騒音・移転問題が解決されておらず、また米兵による県民への暴行事件などがしばしば起きている。とくに1995年(平成7)の少女強姦事件は、治外法権の認められた基地に逃げ込んだ容疑者を沖縄県警が確保できない事態となり、日米地位協定の理不尽さを露呈させた。強姦事件により県民の間には米軍基地の早期返還を求める声が再度強く挙がり、これを受けて1997年(平成9)に日米両政府は普天間飛行場の全面返還を発表したが、移転先の選定が難航した。2004年(平成16)に普天間飛行場所属のヘリコプターが大学構内に墜落した事故は、同飛行場の危険性を危惧する世論を再燃させた。2006年(平成18)には普天間飛行場の移転や那覇港湾施設の返還を含めた米軍再編が決定したものの、実現には課題が少なくない。一方、永久に続く超大国は歴史上なく、遠い将来仮に米軍が撤退すれば沖縄県に基地が集中することは、なくなるだろうが、国境地帯という立地にかわりはない。

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今日は、とても大切な帰還です・・・パート2

それでは、続いてですが、沖縄県の歴史について書いていきたいと思います。

★沖縄県の歴史について

沖縄県の歴史(おきなわけんのれきし)は、沖縄県を中心とした歴史の概略の項である。沖縄県となる以前の、先史時代、琉球王国時代、琉球藩時代もここで述べる。

●琉球と沖縄の名称

「琉球」の表記は、『隋書』「卷八十一 列傳第四十六 東夷傳 流求國」(7世紀)が初出で、その後「瑠求」(『元書』)などと様々に表記され、「琉球」に落ち着いたのは明時代以降である。明以前の「琉球」が現在の沖縄県周辺を指していたかは判然とせず、台湾を指していたという説や、あるいは単に中国大陸の東方にある(日本以外の)島々を漠然と指していたという説もある。

明との交易が始まった14世紀以降、自国の国号として「琉球」を用い、これが琉球王国が消滅するまで名称であった。正式には「琉球國」と言った。

「おきなわ(おきなは、あこなは)」の呼称の由来は定かではないが「おもろさうし」には「おきなわ」という名の高級神女名が確認される。このことは「おきなわ」なる御嶽があったことを示唆している。日本側の文献には、鑑真の伝記『唐大和上東征伝』(779年)の中に、「阿児奈波」と出てくるのが初出である。「沖縄」という漢字は日本側からの日本語的な当て字であるが、これは新井白石の『南島誌』(1719年)が初出で、これは新井が長門本『平家物語』に出てくる「おきなは」に「沖縄」の字を当てて作ったと言われている。日本政府が「琉球処分」し、自国の領土であることを示す際に、県名「沖縄」が採用された。

なお古来中国では沖縄本島を「大琉球」、台湾を「小琉球」と呼称していたため、両者が史書等で混同されることも多かった。

琉球 (曖昧さ回避)も参照。

●先史時代

沖縄県には日本のような縄文時代、弥生時代のような区分は行わない。

先史時代は土器出現以前の後期旧石器時代と土器出現後の貝塚時代(縄文時代 - 平安時代)とに分けられる。

★旧石器時代

沖縄県にいつ頃から人類が現れたのかは明らかになっていないが、現在の南西諸島は、最終氷期にはアジアと陸続きであり、その頃に様々な動物と共に移り住んできたものであろう。県内最古の人骨は那覇市で見つかった山下洞人で、今からおよそ3万2千年前のものだと推測されている。また、1967年に具志頭村(現在の八重瀬町)で発見された港川人骨はおよそ1万8千年前のものとされ、日本で初めて見つかった完全な形に近い旧石器時代人骨として有名である。

化石人骨は沖縄本島を中心に、久米島、伊江島、宮古島からもみつかっている。

しかし、県内からは確実な「旧石器」の発見はない。一部に旧石器らしき石器はあるが、研究者の間で評価が定まっているとは言いがたい。北辺の鹿児島県奄美諸島からは細石器がみつかっている。また、以前はV字状に加工したようなシカの骨を「叉状骨器(さじょうこっき)」としていたが、多くはシカが異食症によって骨を噛んでできたものとする説が有力である。

港川人の年代から、続く貝塚時代までの約1万2千年間は遺跡が全く見つかっておらず、空白の時間となっている(ただし、上部港川人は1万2千年前とされる)。

●沖縄貝塚文化

貝塚時代は、縄文時代にあたる貝塚時代前期と、弥生時代から平安時代にあたる貝塚時代後期に大きく分けられる。前半については本土の縄文時代中期頃から遺跡がみられるようになる。狩猟採集経済で縄文土器に類似する波状口縁の土器をもつことなどから「縄文時代」の名称を使用する場合もあるが、縄文時代・縄文文化とするかは意見が分かれる。後期は、海岸砂丘上に遺跡立地が移動し、主に漁撈を中心とした生業と考えられている。弥生時代の特徴に稲作(水稲耕作)があげられるが、現時点で弥生時代にあたる時期の水田はみつかっておらず、農耕がはじまるのは貝塚時代後期の末である。弥生土器など弥生時代の遺物の流入はみられるものの、弥生文化の影響はあまり見られず、むしろ独自色が顕在化する時期である。また貝の道と呼ばれる、貝輪などの貝製品の材料となる南西諸島に生息する貝を日本本土へ(遠くは北海道まで)大量に運ばれたことが知られている。 

縄文文化の影響が強かった沖縄諸島に対し、先島諸島(宮古・八重山諸島)ではかなり違った様相が見られる。縄文時代に当たる古い時期には、厚手平底の牛角状突起がある下田原(しもたばる)式土器などが見られる。これらは縄文土器よりも台湾先史時代の土器との共通点が指摘されており、この時期には縄文文化と異なる東南アジア系の文化があったとも考えられる。その後約2500年前から先島諸島は無土器文化の時代に入るが、この時代もシャコガイを用いた貝斧など東南アジアとの関連性を示唆する遺物がみられる。約800年前ごろになるとカムイヤキや鍋形土器などがみられるようになり、本島地方と近しい文化をもつようになる。

日本本土の記録としては、714年(和銅7)に「信覚・球美」などの人々が来朝したと記されている(『続日本紀』)。新井白石は「信覚」は石垣島、「球美」は久米島に比定している。また753年(天平勝宝5)には鑑真が渡航の途中「阿児奈波島」に漂着したとされ、これは沖縄本島のこととされる。これ以後の沖縄の名称は長らく記録から消える。これら古代史料から7-8世紀の南西諸島社会は身分が形成され階級社会へ向かっていたとする説や政治的社会が形成されつつある社会との説が出されている。

●古琉球

沖縄県によける農耕の痕跡のうち最古のものは紀元前8世紀頃のものだが、本格的な農耕社会が成立したのは12世紀頃だとされている。農耕社会が成立してから、島津氏の侵攻(1609年)までを「古琉球」と呼ぶ。

★神話

琉球王朝の正史『中山世鑑』や『おもろさうし』、『鎮西琉球記』、『椿説弓張月』などにある神話では、源為朝(鎮西八郎)が12世紀に琉球へ逃れ、その子孫が琉球王家の始祖とされる舜天になったとされる。また天の最高神(アマミクまたはアマミキヨ)が琉球の島々をつくり、夫婦の神を島に遣わしたという。夫婦神は島で三男二女をもうけ、長男は国王の祖先となり、彼の子孫を天孫氏と言う。また次男は諸侯の、三男は農民の、長女は君々(高位の神女)の、次女はノロ(巫女)の先祖となった。天孫氏は25代に亘って沖縄本島を支配したが、およそ12世紀末頃に地方豪族(按司・あじ、後述)が各地で反乱を起こし、天孫の重臣である利勇(りゆう)が王を弑し自ら僭称す。しかし各地の按司は彼に従おうとせず、浦添按司である舜天が利勇を討ち取って国を統一した。舜天の家は3代にかけて支配したが、第3代義本によって英祖に禅譲が行われて断絶した。英祖は5代にわたって治めたという(英祖王統)。

※宮古島にも別系統の創造神話がある。詳しくは宮古島#神話の項を参照。

★グスク時代

貝塚文化の後、12世紀ごろから琉球でも稲作・畑作を中心とした農耕社会に移行し、文明の度合いが色濃くなってきた。農耕を基盤とした社会が成立すると、集落は海岸部から農耕に適した台地に移る(貝塚時代後期後半には遺跡が台地上に移行する)。この時代をグスク時代と呼ぶ。

この時代は日本本土や中国大陸との交流が盛んで、中国だけでなく東南アジアの陶磁器も輸入されており、アジア貿易の中継点としての重要性をましてきた。これらで力をつけた有力者は地元の農民を束ねて豪族(按司・あじ)となり、石垣で囲まれた城(グスク)を築き、周辺の集落を傘下に入れ小国家へと発展した。舜天や英祖といった伝説上の王も、この頃の有力な按司のことであったと考えられる。日本からは平仮名が輸入され(1265年に日本僧禅鑑が伝えたとも言われる)、表音文字として文書全般に利用されたほか、中国や東南アジアとの交流によって、これらの色が濃い文化をはぐくんでいくこととなり、その後の琉球文化の基となった。琉球の信仰はノロといわれる女性祭司の力が非常に強いシャーマニズム的なもので、古い神道にも近い要素がある。後に仏教も伝来した。

1291年に元軍に襲われたが、英祖軍は撃退している。

★三山時代

14世紀に入ると各地の按司を束ねて三つの国にまとまった。英祖王統を滅ぼした察度が収める中部の中山、南部の南山(山南)、北部の北山(山北)である。この時代を三山時代と呼び、約100年続いた。いずれも中国の明帝国に朝貢し、正当性を主張するなどして争いあったが、その中から察度の子・武寧を滅ぼした尚巴志の中山が勢力を増し、統一への動きを見せた。また、三山時代からこの頃までの間に宮古・八重山といった先島諸島も沖縄本島の政権の影響下に置かれるようになった。

三山の中で、南山の佐敷按司であった尚巴志が急速に勢力を伸ばし、まず1406年に中山王武寧(ぶねい)を滅ぼして、尚巴志の父である尚思紹を中山王につかせて基盤を固め、その後、1416年に山北(北山)を滅ぼし、その領土であった奄美諸島南部(沖永良部島以南)を侵略して領土に組入れ、1429年頃には山南(南山)を滅ぼして三山時代に終止符を打ち琉球を統一した。第一尚氏の始まりである(なお、1429年は統一した年ではなく、山南国の使者が明に最後の朝貢船を派遣した年で、この年までは山南王国があったと推測されている。ただし近年では1422年頃にすでに尚巴志の統一は済んでおり、従来との継続性から1429年に山南名義で朝貢したという説が有力である)。

●第一尚氏王統

初代琉球国王尚巴志王は首里城を王都とした第一尚氏王統の基礎を築いたが、地方の按司の勢力は依然として強く、有効な中央集権化政策を実施することなく亡くなった。そのため、尚巴志王の死後、不安定な政情が続くことになる。彼の死後に第2代琉球国王に就いた尚忠王は在位5年で死去、第3代琉球国王は尚忠の息子尚思達王だが在位4年で死去、思達は子が無く、叔父の尚金福王(巴志の6男)が第4代琉球国王となるが彼も在位4年で死去した。金福の後継を巡って息子の尚志魯と弟の尚布里が争った結果、首里城は焼失、明からの「琉球国王之印」も失った上、両者相討ちとなった(志魯・布里の乱)。ここで巴志の7男である尚泰久が明へ使者を送り、国王印を下賜されて第5代王位に就いた。

内戦によって反乱分子は一掃されていたが、北山の按司による謀略など、地方まで勢力の及ばないことも間々あった。尚泰久王はそれまで島だった那覇と本島を結ぶ長虹堤を建設したが、工事がうまくいかないことから1451年に天照大神を日本本土から招き、祈願したところ完成したため、沖縄県内において最初の神社「長寿宮」を建立した。続いて「波上宮」を初めとして琉球八社といわれる神社が整備された。彼は貿易立国琉球を自認して「万国津梁之鐘」を鋳造し、日本僧芥陰に選ばせた文章を鐘に刻み付け、琉球が交易によって繁栄していることを喜んだが、1458年に完成すると在位7年で死去した。この鐘は復元され、現在も首里城にある。

尚泰久王の子である尚徳王は在位9年で急死する。法司(後の三司官)は尚徳王の世子を王に推挙しようとしたが、安里大親がこれを押しとどめて、重臣たちを前にして、尚泰久王の重臣であった金丸(尚円王)を次期王に推挙した。重臣たちはこの提案に賛同し、これによって、金丸が1470年、国王に即位した。金丸は、1472年には明から冊封使が派遣され、中山王に封じられた。金丸が即位した経緯については、正史の記述のほかに、クーデターだったのではないかとの説があり、実際に金丸によって第一尚氏王統の王族はほとんどが殺害されている。

●第二尚氏王統

★琉球の黄金時代

金丸は即位後尚円王と名乗り、第二尚氏王統が始まる。尚円王は在位7年で亡くなると、世子・真嘉戸樽(まかとたる)が幼かったので、弟の尚宣威王が即位した。しかし、国王宣下の際に神官が真嘉戸樽に神託を読み上げるという屈辱を受け、尚宣威王は在位六ヶ月で退位し、越来に引退した。その年の内に薨去したと伝えられる。

1477年に真嘉戸樽は王位に就き、第3代・尚真王として50年にわたって在位し、琉球の黄金時代を築く。彼は仏僧の意見を取り入れ、王の死と共に行われてきた女官の殉死を廃止し、御嶽信仰を中心とした宗教を整備した。さらに南山と北山の按司を首里に強制移住させ、代わりに按司掟(あじおきて、代官)を送って、王を頂点とする中央集権化を進めた。また国民が所有していた刀剣や弓矢を没収して、国家による武力の一元管理を行うことで国内の騒乱を防ぐと共に、国防の備えとした。

第二尚氏は第一尚氏に引き続き、15世紀から16世紀前半にかけて活発な海上政策を行った。中国の福建(福州)に拠点をもち、明王朝と朝貢貿易を行ったほか、明の軍事的な権威を背景に積極的な貿易を行い、日本本土の諸港にも交易船を送った。琉球の海上政策は朝貢による明王朝の軍事的な庇護と同時に、海禁政策の間隙を突き、中国と東南アジアとの中継貿易を行ったものだが、北方民族との戦いを続ける明の要求によって、琉球からは火薬の材料である硫黄と物資輸送用の軍馬が主に捧げられた。またマレー半島のマラッカ王国、パタニ王国、タイのアユタヤー王朝など東南アジア諸国とも活発な外交・貿易を展開した。

政権が安定すると、かねてから内属していた周辺島嶼の支配を強化した。石垣島の按司オヤケアカハチが琉球の官吏に、政治改革や改宗を迫られた為に反抗、琉球への朝貢を拒否して反旗を翻したため、尚真王は1500年に征討軍を送った。宮古島の豪族・仲宗根豊見親(ナカソネトゥユミャ)は琉球軍の先鋒を勤め、石垣島に侵攻してアカハチを殺害し、先島諸島が完全に領有された。与那国島は女首長サンアイ・イソバ(実在したかは不明)の下で独立が続いたが、琉球王府の承認の元、宮古島の仲宗根により1522年に制圧された。この経緯から、当初は八重山と与那国島の直接の支配権は仲宗根豊見親が握っていたが、二年後には琉球王府の直接統治へと移行していった。1524年には、園比屋武御嶽石門を作ったことで知られる西唐を竹富島に帰郷させ、蔵元(八重山一帯を担当する王府の行政出張機関)の長として就任させているが、これが王府による先島統治の最初である。奄美諸島については、1447年、尚思達王が奄美大島を従わせ、1450年から1462年まで喜界島を攻略するためほぼ毎年攻撃していた。1466年、尚徳王が3000の兵をもって喜界島を制圧した。1537年には尚清王が、奄美大島の与湾大親に反抗の気配ありとの報告を受けこれを討つが、後に讒言であると判明したためその子孫を採り立てている。1571年には尚元王が、再び反抗を始めた奄美大島の領主達を制圧している。この間、権益の奪還を目指した日本本土勢との間に、多数の戦闘が発生していた。(奄美諸島の歴史参照)

この時代が琉球の黄金時代であったが、16世紀後半には明が中国船の海外渡航を日本を除いて許可し、中国商船が活発に東南アジア諸港で活動を始めたことや、スペインやポルトガルなどの南蛮勢力が台頭したこともあり、琉球と東南アジアとの交易は急速に衰退し、1570年には東南アジア貿易を廃止した。また、ハンス芋(藩薯芋)が野国総管の手によって中国から持ち込まれたのは1605年のことである。これは麻平衡・儀間真常により琉球中に広められた。琉球ではトウイモ(中国から来た芋なので唐芋)と呼ばれ、琉球全土の食糧事情を劇的に改善して餓死者を減少した。野国総管の功績は現在も称えられている。因みに、薩摩にはその後1705年に琉球より伝来し、本土では薩摩から来た芋としてサツマイモ(薩摩芋)と呼ばれ、現在はその名称が定着している。

一方、薩摩(現在の鹿児島県)の島津氏は、戦国時代を通じて疲弊した自家の財政を立て直したいと考え、琉球を通じて明と貿易することを望んだ。1500年代末期頃より島津氏が琉球に対する圧力を強めたため、琉球はその対応に迫られることとなった。

この時代の記録は王府の外交文書の集成である『歴代宝案』に残されている。

★江戸幕府の明通商計画

琉球の衰退に対し、琉球を通じて明と貿易を望んだ薩摩国などを統治する島津氏は、豊臣秀吉による天下統一の頃から琉球王国への要求を強める様になった。秀吉も朝鮮出兵の際に、琉球へ兵糧米の供出を命じるなど、日本側の圧力は強まっていった。1603年に江戸幕府が開かれて日本が新時代に入ると、幕府は中国大陸の明と通航を考えるようになるが、対等な外交を認めない中華帝国である明との通航には、明へ服属しなければならず、これを避けるために琉球を介した間接貿易を画策した。1602年と1603年に相次いで琉球の辺民が漂着したため、彼等を届ける見返りとして間接貿易に応じるように琉球王府へ働きかけたが、承諾は日本への服属(日本による貿易操作)を意味することと王府は考え、幕府の申し出を拒否した。これを受け、幕府は武力で承諾させることを決断し、薩摩藩主島津忠恒に対して琉球への侵攻を許可した。

★薩摩の侵攻

第二尚氏第7代尚寧の1609年3月4日、樺山久高ら島津軍3,000名余りを乗せた軍船100隻が薩摩の山川港を出帆した。3月8日に奄美大島へ上陸し、地元按司の反撃を受けたものの制圧、3月22日に徳之島、3月24日に沖永良部島を攻略し、3月26日には沖縄本島北部の運天港に上陸、今帰仁城を落として首里城へ迫った。琉球側は4,000名以上の兵を動員したが、日本国内の戦国時代を経験し強兵であった薩摩の本格的侵攻に対し、本土勢力との戦いは境界付近での小競合い程度で薩摩ほど経験を持っておらず、大貿易時代の終結で国力が低下していた琉球軍は抵抗及ばず首里城は陥落する。尚寧は和睦を申し入れ首里城から下城した。島津軍は4月5日に首里城を接収し、4月半ばには薩摩に帰った。

翌1610年、尚寧は首里城を離れて、薩摩藩主島津忠恒と共に江戸へ向かった。途上の駿府にて大御所徳川家康に、8月28日に江戸城にて将軍徳川秀忠に謁見した。忠恒は、家康から琉球の支配権を承認されたほか、奄美諸島(度々独立戦を起こし、琉球は持て余していた)を割譲させ直轄地とし、割譲後も表面上琉球領の体裁を採らせるため、王府の役人の派遣を続けさせた。

1611年、尚寧は琉球に戻され、三司官以下(鄭迥・謝名親方利山をのぞく)の重臣に、島津氏への忠誠を誓う起請文を提出させられ、国家の存続が認められた。また、琉球の貿易権管轄などを書いた「掟十五条」を認めさせられ、琉球の貿易は薩摩藩が監督することとなった。こうして薩摩藩は第二尚氏を存続させながら、琉球を間接支配するようになる。

以後、尚氏代々の王は江戸幕府の将軍に、使節(琉球国王の代替り毎に謝恩使・将軍の代替り毎に慶賀使)を江戸上りで派遣する義務を負い、また琉球と清との朝貢貿易の実権を薩摩藩が握るようになった。すなわち、薩摩藩の密貿易である。薩摩藩の服属国となって通商と技術の伝播を義務付けられたが、清にも朝貢を続け、薩摩藩は琉球が清との交易で得た利益で潤った。薩摩藩は、江戸へも琉球の使節を連れたが、その際の服装は、琉球に清使節が来た際に用いる中国風のものを着させ、異国ということを意図的に強調させた。これは、幕藩体制下の日本において、異国である琉球をともなっている、薩摩藩の権威と地位を向上させるという狙いがあり、幕府にとっても中国の中華思想に基づく朝貢貿易と同じ性格の関係を琉球と持つことにより、中国と対等であるという意識を持てると言う利点もあった。

★王国の再建(羽地朝秀・蔡温らの改革)

島津侵攻から約50年後の1665年、羽地按司朝秀が摂政に就任し、疲弊した琉球を立て直すために一連の改革に乗り出した。『羽地仕置』(1673年)を制定して、人心の立て直しを図る一方、系図座を新たに設けるなど、王府機構の改革を行った。また、琉球初の正史『中山世鑑』を編纂した。他にも新たに行政区として間切を新設し、各間切には間切番所を設置するなどして地方改革も実施した。

羽地朝秀の改革は蔡温へと受け継がれる。蔡温は、農作業の手引き書『農務帳』1734年を発布して農業生産の向上を目指し、治水・灌漑事業を実施して、全国の河川改修を行った。改修された河川は数十にも上った。蔡温は自ら現地へ赴き、改修事業を指揮するなど、多大な情熱を注いで農業改革を実施した。また、「元文検地」を実施して全国の耕地の測量調査を行った。他に、山林改革、王府財政の建て直しなども実施した。

この頃、甘蔗(サトウキビ)から黒糖を作る技術が麻平衡・儀間親方真常によって確立され、黒糖は貿易のための商品作物となった。また、琉球独自の格闘技・唐手(後の空手)やヌンチャクも生まれ、琉球唐手からはトンファーも生まれた。

羽地朝秀、蔡温、儀間真常は琉球の五偉人に含まれ、今日でもその業績は高く評価されている。

★中継貿易の衰退

幕末の頃から、琉球王国には欧米各国の船が来港して、航海の中継点として利用する為、開国の要求を行うようになった。

1844年にイギリスとフランスが通商を求めて琉球を訪れた。薩摩藩は幕府に対応を求めたが、阿片戦争(1840年)の情報を受けていた幕府は、琉球に限って薩摩の対英仏通商を許可する。

1847年、薩摩が琉球を英仏に開港した。

1853年には米国のマシュー・ペリー提督が日本来航の前に琉球を訪れ、強制上陸して首里城入場を果たし、国王に米大統領からの親書を渡すことに成功した。続いてペリーは江戸幕府との交渉を行った。

1854年3月31日(嘉永7年3月3日)に日米和親条約を結び、日本は開国した(黒船来航)。その帰路に再び首里城を訪れたペリーは、同1854年7月11日(咸豊4年6月17日)に琉米修好条約を結んだ。

清が海禁政策を緩和し、日本も開国したことで、江戸時代の鎖国下での4つの貿易ルート(松前藩~沿海州、対馬藩~李氏朝鮮、長崎~清・オランダ、薩摩藩~琉球~清)から、開港5港に貿易ルートの中心が移った。そのため、琉球を介した中継貿易は急速に衰え、また、中継貿易を支えた日清両属という琉球王国の体制も意義を失った。

なお、最初の来航の際に、ペリーは大統領から、通商の為に日本・琉球を武力征服することもやむなしと告げられており、親書を受け取らなかった場合は占領されたことも考えられる。米国は太平洋に拠点を確保できたことで、アジアへの影響力拡大を狙ったが、後に自国で南北戦争となり、琉球や日本に対する圧力が弱まった。

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今日は、とても大切な帰還です・・・パート1

皆さん、こんにちわ。更新です。皆さん、暦の上では、「立夏」を過ぎました。これから暑さも厳しくなります。
さて、今日は、5月15日です。5月15日は沖縄が、アメリカから返還された「沖縄本土返還記念日」です。わたしも、この件は、いろんな問題を抱えているので、書くのを迷ったのですが、これからの日本のことを考えると大切なことなので書くことに致しました。
誤解しないでいただきたいのです。、これから書くことは、あくまでも「参考」として見ていただきたいのです。けして、それぞれの国や、その住民の悪口ではありません。これは、これからの日本、いや、それぞれの国で考えるべき大切なことだと思いました・・。

それでは、今日、5月15日、「沖縄返還記念日」について、書いていきたいと思います。

★沖縄返還について

沖縄返還(おきなわへんかん)とは1972年(昭和47年)5月15日に沖縄県の施政権がアメリカ合衆国から日本に返還されたことを指す。

●背景

第二次世界大戦の平和条約で1951年(昭和26年)に署名された日本国との平和条約(サンフランシスコ平和条約)では、潜在的な日本の主権は認めながらもアメリカ合衆国の施政権下に置かれるものとされ、1952年(昭和27年)4月28日に発効した。そこでアメリカは「行政主席」を行政の長とする琉球政府を置き、公選の議員で構成される立法機関「立法院」を設けるなど一定の自治を認めたが、最終的な意思決定権はアメリカが握ったままであった。

1950年に朝鮮戦争、1959年にベトナム戦争がおこり、アメリカは施政権下においての自治から軍事基地としての重要性の方向に変わっていく。その間にも各地に半ば力ずくでアメリカ軍基地・施設を建設し、またアメリカ兵による事故・事件が頻発し県民の死傷者も相次いだ。このころから県民はアメリカの施政に落胆し、県民有志は「島ぐるみ闘争」といった抵抗運動を起こす。日本の佐藤栄作政権は1970年(昭和45年)に予定される日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約延長と共に本土復帰を緊急の外交課題としたが、70年安保延長反対を唱える日本社会党や日本共産党は本土復帰を訴えつつも、安保と同列の沖縄返還論に反発した。

一部の新左翼や学生運動、各種労働組合は反安保・反返還の一大運動を日本国内で繰り広げた。しかしこれらは、沖縄県民の運動とはほとんど結びつかず、県民の真意とはかけ離れたものとなった。

1970年(昭和45年)12月20日未明、沖縄本島中部のコザ市(現・沖縄市)で、米軍兵士が連続して起こした2件の交通事故を契機にコザ暴動が発生した。常日頃から米軍兵士が優遇され沖縄県民が不当に差別されたことに対するコザ市民の怒りが表面化したもので、これ以上沖縄県をアメリカ軍政下に置くことは適当でないと内外に知らしめた。

●返還へ

1969年(昭和44年)の日米首脳会談でアメリカ大統領リチャード・ニクソンが安保延長と引き換えに沖縄返還を約束したが、公選の行政主席である屋良朝苗や復帰賛成派の県民の期待とは裏腹に米軍基地を維持したままの「72年・核抜き・本土並み」の返還が決定し、1972年(昭和47年)5月15日に日本へ復帰した。佐藤はニクソンとの取り決めで、非核三原則の拡大解釈や核兵器持ち込みに関する秘密協定などアメリカの利益を最大限尊重した。

また、日本政府は返還協定第7条にもとづき特別支出金として総額3億2000万ドルをアメリカに支払った。特別支出金の内訳には米軍政下で設置された琉球水道公社・琉球電力公社・琉球開発金融公社のほか、那覇空港施設・琉球政府庁舎あるいは航空保安施設、航路標識などの民生用資産の引き継ぎの代金1億7500万ドルが含まれていた。日本政府は取り決めに従いこの巨額の対価を支払った。これについて、松山大学の田村譲教授など一部の者は、県民の間から「これらの施設・資産は無償譲渡されるべきものであって、アメリカ政府に対価を支払うのはおかしい」といった批判が噴出したとし、そのため「沖縄県は日本政府によって金で買い取られた」との非難が挙がっていた、と主張している。

これらの過程はベトナム戦争に伴うアメリカの財政問題や貿易収支とも関係しており、アメリカ政府の支出削減のためのベトナム戦争終結(中華人民共和国との国交樹立および中華民国との国交断絶)、収入増のための沖縄返還(上述のバーター)、貿易収支改善のためのニクソン・ショックへと繋がる。しかしその後、2度のオイルショックでアメリカの財政が悪化すると日本政府は思いやり予算の支出に迫られ、足元を見られ続けることになる。

●返還後の沖縄

1978年(昭和53年)7月30日には車両の通行が左側通行に切り替えられ(730)、本土同様の道路交通法が適用されるようになった。また復帰に伴って自衛隊が置かれた。

返還後は道路・病院・学校など公共投資に力が入れられ、また数々の優遇税制や特例や諸税の免除が実施され、本土並みの生活水準への到達が官民一体となって目指されている。しかし返還から30年以上経つ現在でも、1人あたりの県民所得が全国最低のままである。

経済体質は、米軍基地・公共事業・観光が柱となっており、製造業などの有力な地域産業は十分に育っていない。一方で小泉改革の一環として行われた各種特区構想をきっかけとして、コールセンターやデータサーバーが誘致されるなど、新たな産業作りも始まっている。また、沖縄県出身者の地元志向の強さを狙って、人材流動の激しい本土ではなく、沖縄でのIT開発拠点を作ろうとする動きも一部に見られるようになってきた。

現在も沖縄県外の日本を「本土」「内地」「大和」と言う慣習がある。

現在の沖縄の詳細については、沖縄県沖縄県の歴史を参照。

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それぞれの国は違っても感謝の心は同じです。・・・パート7

それでは、続いては母の日には欠かせないの、やはり、日頃の感謝をとプレゼントは悩むところかと思います。そこで、続いては、母の日のプレゼントついて書きたいと思います。

以前のようにスカーフなどのファッション小物を贈る、という人も多いですが、ここ数年から今年2009年母の日の傾向としてお母さんの心身の健やかさを願い、「いつまでも元気でいて」の気持ちを贈りたい、ということでエステ券やマッサージ券、旅行券などのギフト券の需要も増えています。お母さんも自分ではなかなか行きにくいことがあっても、チケットをもらったことで思い切って楽しめるのではないでしょうか。またこのようないつもと違う体験を初めてプレゼントする場合、娘のあなたが一緒に行ってあげるとお母さんはもっと嬉しいみたいです。ひとりでは行きづらいのもあるのでしょうが、何より可愛い娘と楽しい体験を一緒にできるというのはお母さんにとって特別の一日になるようです。

※母の日の贈り物について

●母の日の贈り物選び

母の日の贈り物、毎年の事になると迷ってしまうことも。素敵なお花が豊富な時期、年間でもお花の売り上げが一番伸びる時だとか。やっぱり華やかさではお花が一番!でも、やっぱり形に残る他の贈り物も一緒にしたい、というあなたに贈り物の選び方をご提案。

すぐに役に立つものは?
季節は5月。日差しが強くなり汗ばむ季節に入ります。これからやってくる季節を快適に楽しく過ごせるものはいかが。
ファッション小物では日傘、帽子、タオルハンカチなど。日傘などは毎年、或いは隔年プレゼントして何年か続けてもOK。雰囲気の違うタイプを贈ればもらうたびに種類が増えて服装に合わせて傘も選べて毎日が楽しくなります。帽子も同じ。タオルハンカチはいろいろなタイプが出てますし、これこそ何枚あっても重宝します。スポーツ好きのお母さんにはお洒落な保冷バッグなども。機能性だけでなくプレゼントとしてグレードが落ちない可愛い物がでています。

いつでも使える定番もの
定番でいつも使っているものって、案外新調もせずにぼろぼろだったりする。そろそろ買おうかな、と思っても、今日でなくていいや、になってしまう。
財布などはまさにそう。今は本当にいろんなタイプが出ているし、ご近所のお買い物に持って行ける手提げつきポーチタイプのお財布などもとても人気です。
他にはコサージュ、スカーフなど。いくつあっても重宝するし、どんなタイプであっても服装によって意外にしっくりくるものです。
お母様の年代なら、安価な服を沢山買うより、すこしいい服を少なめに持っていて、このような小物で変化をつければコーディネートの幅が広がり、質もアップすることでしょう。

素敵な時を過ごせるもの
お花と一緒で形には残りませんが、せっかくの記念日、普段と違うティータイムを演出できるお取り寄せグルメはいかが?今は地方の有名店のお菓子などが自宅にいながらお取り寄せできます。家の近くでは手に入らないおいしさと空気を味わってもらってください。あなたがかけつけて一緒に楽しむのもいいでしょう。

お花がそのままインテリア
玄関やリビングに飾れるプリザーブドフラワーやドライフラワーのリースやフェイクフラワーやフェイク観葉植物に体によい機能を付加したものなど、優秀で長く楽しめるお花をそのまま差し上げるのもよし。人気も高いです。

母の日のプレゼントランキングとというのがございますので、参考までに記しておきます。

1位:鉢植え「アジサイ チボリ」
濃いピンクの周りを白く縁取った花びらが印象的な、かわいらしいアジサイです。開花するにつれてボリュームを増していき、満開の時には、鉢いっぱいにふんわりとお花が広がります。つぼみから咲き終わりまで、いろんな表情が楽しめるから、きっとお母さんも大満足してくれるはずです。

2位:母の日 花束「ハートフルブーケ」
家庭の中心はいつも、優しく微笑むお母さん。愛情の象徴のような、お母さんにぴったりの花が、ハート型カーネーション“レリシア・ハートスタイル”です。その形をビビッドなピンクで浮き上がらせた花束は、ラブリーでサプライズ感もたっぷり。ブーケの形のままで飾っていただける、いち押しギフトです。

3位:ドライフラワー「ストロベリー・ティー」
ドライフラワーの温かな魅力を生かし、ピンク系でまとめたかわいいリース。飾る空間を、優しい空気で包んでくれそうです。素材となる花々のほとんどは、蓼科高原の契約農家で丁寧に育てられた専用フラワー。一つひとつのリースが、高品質に仕上げられています。お母さんを出迎える、ドアやエントランスにもぴったりです。

4位:鉢植え「カーネーション レザン」
なかなかお目にかかることのできない、珍しいパープル系のカーネーションです。ボルドーがかった落ち着いた大人の色合いからは高級感が漂い、いつものお部屋がぐっと素敵に変身します。今年はひと味違ったギフトを贈りたいという方におすすめの、イイハナいち押しアイテムです。

5位:ブリザーブドセット「baumbaum 2色のバウムクーヘン」
発酵バターや北海道産の生クリームなど、素材にこだわるバウムクーヘン工房「baumbaum」。母の日用に作られた今回のバウムクーヘンは、外側をフルーティーな苺のフレーバーで、内側をミルキーなプレーンで焼き上げ、味わいも見た目も愛らしく仕上げました。仲良しなお母さんと、親子水入らずで楽しむティータイムには欠かせないスイーツです。

だそうです。

また、お母さんの普段の行動半径にない遠方のお店から美味しいものをお取り寄せして贈ったり、持参したりする人も多くなっています。 若いあなたがお母さんの何気ない日常生活に、華やぎや刺激のある広い世界をこの機会に見せてあげるようなプレゼントに人気の傾向が向いています。いつまでも若く、冒険心、向上心を忘れない素敵で健康なお母さんでいて欲しいですね・・・。

母の日について、様々なことが解りました・・日頃、外で働いているお父さんにかわって家庭を守ってくれているからこそ、安心して私たちは生活していくことができるのと改めて感じることができる日なのかもしれません。そのお母さんに日頃の感謝を込めて、この日は一日ゆっくりしてもらいたいものですね。

今日は、母の日、2009年母の日、皆さんは、どんな風に過ごしますか?

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それぞれの国は違っても感謝の心は同じです。・・・パート6

それでは、続いては、母の日には歴史があるそうですので、こちらも参考までですが、記しておきますね。

●母の日の歴史について

※母の日 カーネーションの歴史

母の日の花 カーネーション
カーネーションは、十字架にかけられたキリストを見送った聖母マリアが落とした涙の後に生じた花という言い伝えがあります。花言葉は、赤は「愛を信じる」、白は「私の愛は生きている」、ピンクは「熱愛」などで、母性愛を象徴しています。まさに大切な母親に贈る花として最適です。

カーネーションが生まれたのは旧ソ連のコーカサス地方。古く、ギリシャ時代から栽培が始まったといわれ、ギリシャ神話にも美しい娘の生まれ変わりの花として登場しています。その名前の由来にはいろんな説がありますが、ラテン語の“肉色”(Incarnation) という、原種の色からきた説、また、シェークスピアの時代には花冠として使われたことから“戴冠”(Coronation)からきた説などが主に伝えられています。中世に入ると、しばしば絵画や彫刻に、あるいは詩や小説の中で、その美しさが表現されるようになりました。このように芸術、文芸作品を通してカーネーションは、古くから人々に愛されてきたようです。

カーネーションは、その後、ヨーロッパを中心に盛んに栽培され始め、19世紀、フランスの園芸家によって、現在のカーネーションが生まれたと伝えられています。また、20世紀には、アメリカで温室カーネーションが栽培されるようになりました。こうして誕生したカーネーションは、徳川時代に日本へやってきました。オランダ船によってもたらされたため、当時、オランダナデシコ、オランダセキチクという愛称で親しまれていました。その美しさと、ふくいくとした甘い香りから、ジャコウナデシコの和名もありました。そして明治35年、東京の新宿御苑で日本初のカーネーションが生まれました。遠く海を越えてやってきたカーネーションは、このような長い歴史に育まれていたのです。

こうして日本の花文化に採り入れられたカーネーションはその後、栽培農家の努力と熱意によって、新しい品種や優良品種がたくさん導入されました。そして、施設・設備の近代化が進められ、生産性も高まってゆきました。昭和47年では、栽培面積5アール以上の品種はわずかに8品種であったのが、10年後の昭和57年には37品種と大幅に増加しました。

母の日ができたのは20世紀初頭、一番最初は自分を苦労して育ててくれた亡き母への感謝の気持ちを表す日だったそう。カーネーションも白が主流だったようです。それがほぼ100年の月日を経て21世紀初頭の2009年、母の日もずいぶん様変わりしました。最近の母の日の傾向をお知らせします。

母の日と言えば赤いカーネーション、というのは2009年の今、もうそれほどこだわらないようになってきています。赤いカーネーションは母の日のシンボル、あげたいお菓子や小物などに添えて感謝の気持ちの表現に使われています。お母さんの好きな花や自分の選んだ花をあげる人、またインテリアとして長く楽しめる鉢植えやプリザーブドフラワー、ドライフラワーなども人気が高いです。とはいえ生花の切り花ではやはりカーネーションの花束も根強い人気を残しています。が、色合いはお母さんのイメージに合わせて、ピンクやオレンジ、何色か取り合わせたものを選ぶ場合も多いようです。また、母の日のシンボルの赤いカーネーションをあしらったうえで、お母さんのために選んだバラやユリ、ガーベラなどをメインにしたアレンジメントといったものも増えてきています。

それでは、ここで、カーネーションについてわたしの知っているちょっとしたお話しを、いくつかご紹介したいと思います。

■カーネーション:ピンク

花言葉:感動

カーネーションは、もう説明の必要もないほど、ポピュラーな花ですネ。古代ギリシャで冠づくりの有名だった「ソクニス」の生まれ変わりの花です。

ギリシャの乙女たちは、カーネーションの花冠で春の装いをいっそう彩ったといわれたそうです。

■カーネーション:黄色

花言葉:さげすみ

古代ギリシャでは、この花は「ソクサス」という美しい娘の生まれ変わりだといわれていたそうです。

ナデシコ科の多年草で、花の色は、「赤」・「白」・「ピンク」などいろいろです。

母の日のプレゼントとしても欠かせませんネ。

■カーネーション

花言葉:愛を信じる・傷心

母の日にカーネーションを贈る習慣は、アメリカの女性が、亡き母を偲んで、教会で白いカーネーションを配ったのが始まりとされているそうです。赤いカーネーションには、「母の健康を祈る」、白には、「亡き母を偲ぶ」という意味が込めらられているそうです。

大和撫子とは、日本女性を称えた言葉ですが、江戸の中期に、わが国にカーネーションが渡来した当時は、「オランダなでしこ」と呼ばれていたそうです。

楚々とした美しさの中に、「愛を信じる」心を持った花だそうです。

■スプレーカーネーション

花言葉:集団美

カーネーションといえば、一輪咲きのものを頭に思い浮かべますが、このスプレーカーネーションは、「枝咲き」です。

一つの茎がいくつもに枝分かれして、それぞれに花をつけます。花言葉の「集団美」は、そんなところから生まれたのかも知れませんネ。量感があるために、花束、アレンジ、装飾用にと、人気の高い花です。花持ちも良く、2週間くらいは楽しめるそうです。

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それぞれの国は違っても感謝の心は同じです。・・・パート5

母の日に欠かせない花、カーネーションがどうしてシンボルになったのか?は解りました。母の日は、アンナ・ジャービス(Anna Maria Reeves Jarvis)がフィラデルフィアの教会で母の好きだった白いカーネーションを配る。その後も、母に感謝する日を祝日にする普及運動を続ける。と前に書きましたが、母の日は以前は、祝日だったそうです。

続いては、母の日が以前、祝日だったといういきさつについて、書きたいと思います。

※亡き母の追悼記念式から国民の祝日へ

今から100年前のことです。アメリカのフィラデルフィアにアンナという女性がいました。その母は1905年5月に亡くなってしまったのですが、その2年後、アンナは、母の命日にあたる日に追悼記念式を開き、そこで母が好きだった白いカーネーションを参列者ひとりひとりに手渡しました。これが5月の第2日曜日だったそうです。

母を深く愛していたアンナは、母に感謝する日を祝日にすることを提唱し、支援者とともに訴え続けます。そしてついに、1914年にウィルソン大統領の提唱でアメリカの議会を通過、5月の第2日曜日が母の日として国民の祝日となりました。

※平和を願う母を思い…

母の日が注目されるようになったのには、訳があります。それはアンナの母、アン・ジャービスの生き様に人々が共感したから……。

アン・ジャービスは、1858年に「母の日仕事クラブ」を結成し、募金活動をしたり公衆衛生のための活動をしていました。
南北戦争がはじまると、「母の日仕事クラブ」は戦争で傷ついた南北双方の兵士の看病をするのですが、戦争が終盤になると今度は「母の友情の日」という企画を提唱。南北双方の兵士や地域の人を招いて交流を持つイベントを開催し、大成功をおさめました。

このような社会的貢献があったからこそ、アン・ジャービスの追悼記念式は注目を浴び、たくさんの人が集まったのでしょう。
やがて、アンナは自分の母だけでなく、すべての母親に対して感謝する記念日をつくりたいと思い、1908年から「母の日」を祝う会がアンドリュー・メソジスト教会で開かれるようになりました。以来、この教会は母の日の誕生の地の総本山ともいわれるようになりました。

それでは、続いては母の日に欠かせない、カーネーションと母の日の関係についてお話したいと思います。

※白いカーネーション
母の日とカーネーションの関係については、アン・ジャービス本人が生前に好んだ花だからといわれていますが、それだけではなさそうです。

カーネーションは十字架に掛けられたキリストを見送った聖母マリアが流した涙の跡に咲いた花だという逸話があり、それ以降、カーネーションは母と子の関係を象徴する意味を持つ花となりました。また、色にも意味があるそうで、白いカーネーションは十字架にかけられる前のイエスとマリアをあらわし、赤いカーネーションは復活したキリストを象徴するといわれています。つまり、白いカーネーションは母性愛を意味しているのです。

ですからアンナが追悼記念式でカーネーションを用意したのも、単なる思い付きというより意味を知って配った可能性が高いですね。

ちなみに、白いカーネーションは日本でも葬儀でもよく登場します。キリスト教式(※注)や無宗教式で行われる献花では、白いカーネーションが使用されることが多いようです。

※注:日本のキリスト教式献花は、欧米と異なる独自の方法で行われているものです。

●母の日にお墓参りについて

アンナが母の日を提唱した頃から比べると、現在の母の日はカーネーションが高値で取引されたり、母の日ギフト商戦が白熱するなど、商業的なイベント色が強くなってしまいましたが、それでも母への敬意や感謝を形にする日として特別な意味がある日に違いはありません。

母の日にお墓参りをするのもお勧めです。お花とお香は最高のプレゼント。心を込めて選んでください。

参考までに、記しました。

それでは、続いてですが、母の日に贈られる花、「カーネーション」について、原産地と名前の由来というのがございますので、この花ことについて少し詳しくお話をしていきたいと思います。

★カーネーションについて

カーネーション(英:carnation、学名:Dianthus caryophyllus)は、ナデシコ科ナデシコ属の多年草。別名にオランダナデシコ、ジャコウナデシコなど。

★原産地と名前の由来について

原産は南ヨーロッパおよび西アジアの地中海沿岸といわれています。カーネーションという名前の由来には諸説あり、肉(ラテン語:carn)の色の花という説や、戴冠式を意味する語のコロネーション(coronation)が訛って、カーネーションとなったとの説もあるそうです(corona:ギリシャ語で王冠の意味)。

★カーネーションの歴史について

地中海沿岸から西アジアの原産のため古くから、可憐な花容を愛されました。とくにイスラム世界ではバラやチューリップと並んで、愛好された植物である。イスラム教では偶像崇拝が禁止されているため、モスクなどの装飾にはアラベスクという幾何学模様や草花の文様が使用されたそうです。このアラベスクの意匠にカーネーションの花は、しばしば、使用されている。なお、スペイン、モナコ公国、ホンジュラスの国花です。

カーネーションが世界的に普及したのは母の日の成立が大きく関わっている。「母の日」に母親に贈呈する花として世界中で愛好されることになったそうです。

17世紀には、イギリスでフローリスト(園芸愛好家)達によって栽培され、オーリキュラやチューリップ等と並びフローリスツ・フラワーの一つとして大きく進展を見ました。18世紀を通じて品種が増え、やがて「ショウ・カーネーション」が生まれ、これが19世紀の主流となりました。この花の特徴は、花弁の縁の鋸歯がなくなり、花弁の配置を幾何学的な整形に近づけたもので、現代のカーネーションとは異なっているそうです。この時代にはまだバラの改良もそれほど進んでおらず、カーネーション、オーリキュラ、チューリップは時代の先端を行く園芸植物だったそうです。

19世紀中頃になると、フランスでの育種が進み、1840年にダルメイスが「パーペテュアル系」を作出、更に1857年にはやはりフランスで「マルメゾン系」が誕生しました。これらが現代の営利用カーネーションに繋がっています。

なお、日本には江戸時代初期以前に輸入され、アンジャベルまたはアンジャ(蘭:anjelier、tuinanjelier)と呼ばれたそうです。。享保年間に出版された、『地錦抄録』(1733年)には、徳川家光の時代正保年間にオランダからカーネーションが伝来したと書かれているそうです。しかし、このときには日本に定着せず、寛文年間に再伝来し、14種品種が紹介された。この時期に書かれた『花壇綱目』にも「あんしやべる」の名で記録されているそうです。宝暦年間の1755年に著された『絵本野山草』にはカーネーションはナデシコなどとともに紹介されています。この時期には数百種に上る品種がナデシコだけで作り出されておりその中にカーネーションも含まれていたそうです。

現在、カーネーションはキク、バラと並ぶ生産高を誇る花卉植物であり、ハウス栽培で周年供給しています。しかし、最も需要が伸びるのは母の日の5月前後である。また切り花のイメージが強いが最近では鉢植えの品種も普及しているそうです。

カーネーションに青い色はなかったが、サントリーと、オーストラリアのフロリジン社が遺伝子組換えで青いカーネーションを作り出したそうです。詳しくは、ムーンダストの項を参照してください。

ちなみに黄色のカーネーションは「軽蔑」という意味の花言葉を持つそうです。カーネーションの市町村別生産額日本一は、愛知県幡豆郡一色町で、同町の町花にもなっているそうです。

☆主な品種について

切り花

マルメーゾン種(malmaison)
ボーダー種(boarder)
グルナダン種(grenadin)
ファンテジー種(fantaisie)
マーガレット種(marguerite)
シャボー種(chabaud)
パーペチュアル種(perpetual)

☆ガーデンカーネーションについて
セキチクとの交配種で、セキチクの強健さをカーネーションに取り入れたもので、庭植えが可能だそうです。半耐寒性の秋まき一年草として扱われ、9月にタネをまくと、翌年の5月から6月にかけて開花します。ジャイアント・シャポー、アンファン・ド・ニースなどの品種があり、佛花や切り花用に作られているが、日本の風土ではやや栽培しにくく、あまり普及していないそうです。

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それぞれの国は違っても感謝の心は同じです。・・・パート4

母の日の由来、そして、提唱者の理念は記しました。なんとも奥が深いですね、母の日。

続いては、この母の日には欠かせない花がございます。そう「カーネーション」ですね・・。それでは、続いては、この母の日のシンボルともいえます、カーネーションがなぜ、母の日のシンボルになったのかお話したいと思います。

※カーネーションの由来

カーネーションは“母と子”や“母性愛”を象徴する花。十字架にかけられたキリストを見送った聖母マリアが落とした涙から生じた花だと言われており、白いカーネーションは十字架にかけられる前のキリストとマリアを、赤いカーネーションはキリストの体から散った血の色や復活したキリストを象徴しています。

そんなカーネーションをミセス・ジャービスが好んだことから、その追悼式に捧げられ、母の日のシンボルとなりました。

※赤いカーネーションと白いカーネーション

ミセス・ジャービスの追悼式では参加者に白いカーネーションを渡していましたが、その後アンナの提案で、母の存命する者は赤いカーネーションを、母を亡くした者は白いカーネーションを自分の胸につけるようになり、やがて母へ花を贈るようになりました。

日本の場合、母の日が普及した当初はもっぱら造花でした。戦後「全国未亡人団体協議会」などが中心となり、赤・白のカーネーションの造花を販売していましたが、母のいる子は赤、ない子は白と区別をつけることで童心を傷つける懸念や、義母に育てられた子の迷いなどに配慮し、1960年からは同協議会でも赤一色に統一されました。

現在は生花が中心で、赤のみならずピンクやオレンジなど色々なものが人気です。

それでは、続いてですが、母の日といえば、カーネーションですね。母の日にカーネーションは・・..定番すぎて、考えてしまうかたも中にはいっらしゃると思います。そのカーネーション、由来を考えてみると、案外、面白いかもしれません。

母の日にカーネーションを贈る習慣は、20世紀初頭のアメリカの時代から始まったものなのだそうです。それに、カーネーションと言っても、ひとえに赤いカーネーションだけでなく、ピンク・黄色などもございますし、ミックスするのも良いかもしれません。

花言葉・特徴・意味を知った上でお好きな花や色が見つかると良いですネ♪ちなみにカーネーションとバラをミックスしたようなブーケみたいなお花っていうのも良いかも知れません。それでは、そのカーネーションの由来について、参考までに、記しておきます。

■由来

カーネーションが母の日に選ばれたのは、母への愛という象徴だったからだそうです。また、十字架に架けられたキリストに聖母マリアが涙したあとに咲いた花だといわれています。

カーネーションの中央部の赤色は、キリストの体から散った血の色だともいわれているそうです。名前の由来としては、古代ギリシャ時代に遡ります。古代ギリシャ人は、オリンポス山の神々の主神ゼウスに花冠を捧げる習慣がありました。カーネーションは、その時代、花冠を作るのにに欠かせないものでした。そこで、花輪を意味するラテン語CORONAにちなんで、CARNATIONと名付けられたといわれています。

そして、母の日の提唱者である、アンナ・ジャービスの母がカーネーションが好きだったことも由来の一つだといわれています。

■花言葉

赤・・・・・・・・・・「真実の愛」「愛情」「情熱」

白・・・・・・・・・・「尊敬」「純潔の愛」

ピンク・・・・・・・・・・「感謝」「上品・気品」「暖かい心」

黄色・・・・・・・・・・「美」「嫉妬」「愛情の揺らぎ」「友情」

紫・・・・・・・・・・「誇り」「気品」

■種類

カーネーションには、主に2種類の形があります。

・スタンダードタイプ:(大輪) 一本の茎に1つの大きい花を咲かせるタイプです。

・スプレータイプ: 1本の茎に枝分かれしたいくつかの茎に、花を咲かせるタイプです。

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それぞれの国は違っても感謝の心は同じです。・・・パート3

それでは続いてですが、母の日について、「提唱者の理念」というものがございますので、参考までにご紹介したいと思います。

※「母の日」提唱者の理念

現在、「母の日」は母へ感謝をする日となっていますが、提唱者のアンナ・ジャービスは、母親への感謝だけではなく、平和を願う母親たちの社会運動を記念したものとしてスタートしました。

【母】ミセス・ジャービスの活動
アンナの母、ミセス・ジャービスは、1852年に牧師と結婚しました。そして、1858年に「Mothers' Day Work Club」を結成し、病気で苦しんでいる人を助けるために募金活動をしたり、病気予防のための食品検査や公衆衛生の活動をするなど、社会運動家として活躍していました。

やがて南北戦争(1861年~65年)が開戦すると、中立を宣言して南北双方の兵士を看病し、互いの敵意をなくそうと「Mother's Friendship Day」を企画して南北双方の兵士や地域の人々を招いたイベントを大成功させるなど、平和を願って献身的に働きました。

彼女自身、戦争や病気で8人の子供を失っているのですが、母としての愛情を、残された自分の子供(娘2人)だけでなく全ての人々に注いだのです。女性が社会的弱者だった当時、こうした母親としての社会活動は大変意義のあるものであり、社会改革に大きく貢献しました。

※【娘】ミセス・アンナ・ジャービスの理念

こうして平和を願って献身的に活動してきたミセス・ジャービスだからこそ、その追悼式(ここで娘のアンナが白いカーネーションを参加者に配布)が社会的に注目されました。そしてアンナは、すべての母親の社会に対する貢献を讃えて「母の日」を祝日にする活動をし、6年がかりでその夢を叶えたのです。

ところが、こうした素晴らしい理念が消費文化の中で変化していきます。政治的、商業的思惑によって“平和を祈る”はずの母の日が、“家族のために尽力している母にプレゼント(カーネーション)を贈る日”になり、年々盛大になっていきました。

やがてアンナは、白いカーネーションが信じられない程の高値で売られていることをきっかけに「貪欲のために母の日を侮辱している」と母の日行事の差し止め裁判を起こしますが、結果は敗訴。その後、母の日の商業化がますます加速していったのです。

晩年のアンナがこんなことを言っています。「私は、自分が創ったこの祝日の商業化を自分の手で止めさせることによって、お母さんの恩に報いたかった」と。

う~ん・・なんとも、心の優しい人だったのですね。

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それぞれの国は違っても感謝の心は同じです。・・・パート2

それでは続いてですが、母の日にはいろいろと諸説あるそうです。続いては、その母の日の由来について書いていくことに致します。

★母の日の由来について

まずは一般的な「母の日」の由来を時系列に従って簡単にご紹介します♪

※【 由来のひとつとされるもの 】

■古代ローマ時代:ローマ
神々の母リーアに感謝するための春祭りが行われていた。
■17世紀:イギリス
イギリスでは、復活祭(イースター)の40日前の日曜日を「マザーズ・サンデー」とし、母親と過ごすために出稼ぎ労働者を里帰りさせていた。

※【 定説となっているもの:アメリカ 】

■1908年5月10日(これが5月の第2日曜日だった)
1905年5月9日に亡くなったミセス・ジャービス(Ann Marie Reeves Jarvis)を追悼しようと、ウェストバージニア州に住む娘のアンナ・ジャービス(Anna Maria Reeves Jarvis)がフィラデルフィアの教会で母の好きだった白いカーネーションを配る。その後も、母に感謝する日を祝日にする普及運動を続ける。
■1908年
百貨店王ジョン・ワナメーカー(John Wanamaker)が店頭で母の日記念会を開催し、注目を集める。
■1910年
ウエストバージニア州が「母の日」を祝日として認定する。
■1914年
当時のアメリカ大統領・ウィルソンが、5月の第2日曜日を「母の日」と制定し、国民の祝日とする 。

こうして、母が健在な者は赤いカーネーション、亡くした者は白いカーネーションを胸に飾るようになり、母の日にカーネーションを贈る習慣へと変化していきました。

※【日本における「母の日」】

■1913年(大正2年)ごろ
キリスト教会・日曜学校などで「母の日」が始まる。
■1915年(大正4年)
青山学院教授だったアレキサンダー女史によって紹介され、キリスト教関係団体が中心となって広め始める。
■1931年(昭和6年)
皇太后の誕生日である3月6日を「母の日」とする。
■1937年(昭和12年)
森永製菓などが普及活動を展開し、全国的に広がり始める。
■1947年(昭和22年)
公式に5月の第2日曜日が「母の日」となる。

と一応、母の日の由来については一般的にこういわれているそうです。

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それぞれの国は違っても感謝の心は同じです。・・・パート1

皆さん、こんにちわ。更新です。ゴールデンウィークも明けましたが、皆さんはいかがお過ごしでしょうか?連休の最終の3日間は、生憎のお天気でした・・。さ
さて、今日は、5月10日です。今日は、母の日ですね・・。皆さんは、日頃、外で齷齪働くお父さんにかわって、家のことをいろいろとやってくれています。その日頃の家庭のことをやってくれているお母さんに、「一日くらいはゆっくりしてね」という日が母の日だそうですが、なかなかお母さんもそうできないですよね・・。でも今日くらいはゆっくりしてもらいたいです・・・。

そこで、今日はこの「母の日」についてお話をしたいと思います。

★母の日について

母の日(ははのひ)は、日頃の母の苦労を労り、母への感謝を表す日。日本やアメリカでは5月の第2日曜日に祝うが、その起源は世界中で様々であり日付も異なる。例えばスペインでは5月第1日曜日、北欧スウェーデンでは5月の最後の日曜日に当たる。

●起源について

※イギリス
イギリスにおける起源は17世紀の「Mother's day」「Mothering Sunday」(奉公中の子ども達が年に一度、教会で母親と面会出来る、復活祭のちょうど40日前の日曜日)にまで遡る。

※アメリカ
アメリカでは南北戦争終結直後の1870年、女性参政権運動家ジュリア・ウォード・ハウが、夫や子どもを戦場に送るのを今後絶対に拒否しようと立ち上がり「母の日宣言」(Mother's Day Proclamation)を発した。ハウの「母の日」は、南北戦争中にウェストバージニア州で、「母の仕事の日」(Mother's Work Days)と称して、敵味方問わず負傷兵の衛生状態を改善するために地域の女性を結束させたアン・ジャービスの活動にヒントを得たものだが、結局普及することはなかった。ジャービスの死後2年経った1907年5月12日、その娘のアンナは、亡き母親を偲び、母が日曜学校の教師をしていた教会で記念会をもち、白いカーネーションを贈った。これが日本やアメリカでの母の日の起源とされる。ジャービスの母への想いに感動した人々は、母をおぼえる日の大切さを認識し、翌1908年の5月10日には同教会に470人の生徒と母親達が集まり最初の「母の日」を祝った。アンナは参加者全員に、母親が好きであった白いカーネーションを手渡した。このことから、白いカーネーションが母の日のシンボルとなった。アンナ・ジャービスは友人たちに「母の日」を作って国中で祝うことを提案。1914年に「母の日」はアメリカの祝日になり、5月の第2日曜日と定められた。

※日本
日本では、1931年(昭和6年)に、大日本連合婦人会を結成したのを機に、皇后(香淳皇后)の誕生日である3月6日(地久節)を「母の日」としたが、1937年(昭和12年)5月に、第1回「森永母の日大会」(森永母を讃へる会主催、母の日中央委員会協賛)が豊島園で開催された後、1949年(昭和24年)ごろからアメリカに倣って5月の第2日曜日に行われるようになった。

なお、5月5日のこどもの日は、国民の祝日に関する法律(祝日法)では、「こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する」とあり、その意味ではこどもの日も「母の日」であるといえよう。

☆地久節(ちきゅうせつ) について
皇后誕生日の旧称。老子の「天長地久」による語で、天皇誕生日の旧称である天長節に対する名称である。明治の初めごろから宮中では儀式が行われていたが、明治20年代に、地久節を奉祝すべきとの世論が高まり、女学校では学業を休んで奉祝式を催すようになった。以来昭和に至るまで続いた。明治時代の地久節は5月28日、大正は6月25日、昭和は3月6日であった。第二次世界大戦後、天皇の人間宣言に伴い、天長節が天皇誕生日と改称されるとともに地久節の名称もなくなり、単に皇后誕生日として、皇居内で家族的な祝儀が行われるだけとなった。

母の日にはカーネーションなどを贈るのが一般的となっているが、最近ではカーネーションに限らずバラ、ガーベラなども好んで贈られる。

●世界の「母の日」の日付について

・2月第2日曜日 -  ノルウェー
・ユダヤ暦 Shevat 30日(通例2月)-  イスラエル(Shevat=ユダヤ暦の第11月)
・3月3日 -  グルジア
・3月8日 -  ボスニア・ヘルツェゴビナ、 セルビア、 スロベニア、 マケドニア、 アルバニア、 ブルガリア、 ルーマニア
・四旬節の第4日曜日 Mothering Sunday (2006年3月26日) -  イギリス、 アイルランド
・3月21日(春分) -  バーレーン、 エジプト、 レバノン、 シリア、 パレスチナ、 ヨルダン、 クウェート、 アラブ首長国連邦、 イエメン
・4月7日 -  アルメニア
・5月第1日曜日 -  ハンガリー、 リトアニア、 ポルトガル、 スペイン、 南アフリカ共和国
・5月8日 -  アルバニアParents' Day、 大韓民国
・5月第2日曜日 -  中華人民共和国、 日本、 台湾、 アメリカ合衆国、 カナダ、 香港、 オーストラリア、 ドイツ、 イタリア、 南アフリカ共和国、 シンガポール、 ニュージーランド、 ペルー、 ベルギー、 ブラジル、 チリ、 コロンビア、 キューバ、 デンマーク、 エクアドル、 プエルトリコ、 スイス、 チェコ、 リヒテンシュタイン、 ウルグアイ
・5月26日 -  ポーランド
・5月最終日曜日 -  フランス
・8月12日 -  タイ(シリキット王妃陛下誕生日)
・10月第3日曜日 -  アルゼンチン
・11月最終日曜日 -  ロシア
・12月22日 -  インドネシア

ヨーロッパ諸語での「母の日」の呼称について

・デンマーク語: Mors dag
・ドイツ語: (Der) Muttertag
・英語: Mother's Day
・エストニア語: Emadepäev
・スペイン語: Día de la Madre
・フィンランド語: Äitienpäivä
・フランス語: (La) Fête des mères
・ハンガリー語: Anyák napja
・ラトビア語: Motinos diena
・イタリア語: (La) Festa della mamma
・オランダ語: Moederdag
・ノルウェー語: Morsdag
・ポーランド語: Dzień Matki
・ポルトガル語: (O) Dia das Mães
・スウェーデン語: Mors dag

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もともとは、男女性別関係はありませんでした・・・パート7

それでは、続いてですが、最初の記事でも書きましたが、「端午の節供」「こどもの日」が、男の子の成長を願ってお祝いする日といわれていますが、実は、違うのだと、申し上げました・・・。実は、もともとは、女性の祭りだったのだそうです。

そこで、今回の、5月5日、「端午の節供」「こどもの日」がどうして、もともとは、「女性の祭り」だったのか、お話ししていきたいと思います。

と、その前に、「端午の節供」「こどもの日」ついて、もう一度、簡単に申し上げておきます。

●こどもの日
1948年(昭和23年)に制定された国民の祝日で、こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する日とも規定されています。

●端午の節供(菖蒲の節供)
この日は邪気を払う為、菖蒲や蓬を軒に挿し、粽や柏餅を食します。「端」は物のはし、つまり「始り」という意味で、「午」は「五」に通じることから元々「端午」は月の始めの五の日を意味になりした。その中でも月と日の数字が重なる5月5日特にめでたい日として「端午の節供」と呼ぶようになりました。 日本では、男性は戸外に出払い女性だけが家の中に閉じ蘢って田植えの前に身を清める神聖な儀式の日だった。 しかし「菖蒲」が「尚武」と同じ読みであることから、鎌倉時代ごろから男の子の節句とされ、甲胄・武者人形等を飾り、庭前に鯉のぼりを立てて男の子の成長を祝う節供となった。

と、ここまでは、先ほどまでの記事にも書きました。

さて、いよいよ、「端午の節供」「こどもの日」がなぜ、もともと、「女性の祭り」なのかについて、お話ししていきたいと思います。それには、こういう理由があるそうです。

♪やねよりたかい  こいのぼり

おおきいまごいは  おとうさん

ちいさいひごいは  こどもたち

おもしろそうに  およいでる~♪

と、皆さんも、ご存知の「こいのぼり」の歌詞ですネ。皆さん、何かお気付きでしょうか?賢明な皆さんなら、もう、お気付きですネ・・・。そう、この歌詞には、文字通り、「お母さん」は登場しないのです。確かに、この歌詞から、「♪おおきいまごいは、おとうさん・・その次の歌詞は、こどもたち」になっています。本当にお母さんは登場していませんネ。

でも、「端午の節供は男の子のお祝い」・・・実は、違うのだそうです。なんと、もともとは、「女性の祭り」だったのだそうです。これには、いきさつがあるのです。

こどもの日の制定趣旨はこうですネ。「こどもの人格を重んじ、幸せをはかるとともに、母に感謝する日」とされています。

昔、この時期は田植えにあたり、その田植えは、女性だの仕事でした。旧暦5月5日は、今の6月初旬ころにあたります。梅雨どきで、その雨量でその年の稲作出来・不出来が決まります。そのため、この日は女性だけが拝殿などに集い、田や水の神を迎え入れ、豊作を祈るのだそうです。神を降臨させる目印として立てた「のぼり」が、後に、「こいのぼり」になっていったそうです。そして、神事のあと、1日だけ家事や仕事などから解き放たれ、遊ぶことが許されるのだそうです。

まさに5月5日は、年に一度の「女性の祭り」です。ですから、お母さんはいないのだそうです。

それでは、最後にもう一つ。今日、5月5日はこどもの日ですが、こどもの日は鯉のぼりを飾っていると思います。ここで鯉のぼりについて、ちょっと面白いお話がございますので、参考までに記しておきますね。

1.甍(いらか)の波と  雲の波
 重なる波の 中空を
 橘(たちばな)かおる 朝風に
 高く泳ぐや 鯉のぼり

2.開ける広き 其の口に
 船をも呑まん 様見えて
 ゆたかに振う 尾鰭(おひれ)には
 物に動ぜぬ 姿あり

3.百瀬(ももせ)の滝を 登りなば
 忽(たちま)ち 竜になりぬべき
 わが身を似よや 男子(おとこご)と
 空に踊るや 鯉のぼり

鯉のぼり(文部省唱歌) 作者不詳

♪やねよりたかい・・・の歌と並び、5月5日の端午の節供のテーマソングというべき「鯉のぼり」。端午の節供は。元は奇数を重んじる中国のの行事です。元日(1月1日)、上巳(じょうし3月3日)、七夕(7月7日)、重陽(9月9日)も同じです。

端午には、ちまきを食べたりショウブを飾ったりする風習がありますが、実はこれらはすべて魔よけの品です

昔、あらぬ罪を着せられ、中国の湖南省の川、泪羅江(べきらこう)に身を投じた屈原(くつげん)という人物がおりました。その後、5月には悪霊の仕業で亡くなる人が多いとか、5月生まれの子供は悪霊に取り憑かれていると考えられるようになり、無事に成長をするよう厄払いや悪霊退治の呪い(まじない)が行われるようになtっていきました。それが、端午の節供を生んだのだそうです

また、中国・黄河の上流に竜門という滝があり、鯉がその滝を登りきると竜になるという伝説があります。そこから何事も負けず、強く人生を謳歌できるようにと鯉のぼりが飾られるようになったのだそうです。

いかがでしたでしょうか?今日「端午の節供」「こどもの日」そして、「5月5日」・・・。端午の節供と言っても、これだけの意味があります。

今日は、「こどもの日」「端午の節供」・・・。お母さんにとっても、こどもの成長は見守っていきたいですネ♪

今日は、5月5日、「端午の節供」「こどもの日」、皆さんは、どのようにお過ごしになられますか?

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もともとは、男女性別関係はありませんでした・・・パート6

それでは、続いてですが、端午の節供と粽(ちまき)との関係についてお話したいとおもいます。

端午の節供と粽(ちまき)との関係について

端午の節句の食べ物としては、柏餅やちまきを思い浮かべます。これらは、日本で最も古いお菓子の形をのこしたものといわれています。なかでも、端午の節句のちまきにはこんな伝説があるのそうです。

中国は戦国時代、紀元前278年のことです。楚(そ)の国の高名な詩人、屈原(くつげん)は国王の側近としてつかえ、人々からも慕われていました。しかし陰謀のため国を追われることになった屈原は、ついに汨羅(べきら)という川に身を投げてしまったのです。その日が5月5日。屈原の死を悲しんだ人々は、たくさんのちまきを川に投げ入れて弔いました。

この物語が、端午の節句にちまきを作って食べるという風習の起源だと言われています。

それでは、続いてですが、端午の節供には、柏餅と粽が思い浮かぶと思うのですが、ここで、この柏餅と粽についてお話ししたいと思います。

●柏餅に込められた願いについて

柏餅とは、柏の葉っぱの上に、上新粉とくず粉(片栗粉)を混ぜてつくった「しんこ餅」に、あんを挟んだものを置き、柏の葉を二つ折りにして包んだお菓子の事です。柏の葉は、新芽が出ないと古い葉が落ちないという特徴があるので、これを「子供が産まれるまで親は死なない」=「家系が途絶えない」という縁起に結びつけ、「柏の葉」=「子孫繁栄」との意味を持つそうです。
柏餅というお菓子が日本の歴史に登場したのは、徳川九代将軍の家重~十代将軍の家治の頃だと言われているそうです。その理由は俳句の季語を記した書物「拝諧初学抄/齋藤徳元」(1641年)には五月の季語として「柏餅」が記載されていないのに対し、1661~1673年頃に成立した「酒餅論」には柏餅が紹介されていることを理由にしています。
以上の説明から、柏餅自体は、中国から渡ってきた端午の節句行事には、元は含まれていない食べ物だったという事なのだそうです。

●粽(ちまき)に込められた願いについて

柏餅が日本のオリジナル祝い餅な一方、粽は中国の行事とセットで日本へ伝わってきた習慣だそうです。餅団子を茅(ちがや)の葉で包んだものを粽と言いますが、粽には「難を避ける」という縁起てきな意味があるのだそうです。これは中国の故事がらきているそうです。どんな故事なのか簡単にお話するとこんな感じだそうです。

「昔むかし、中国が戦国時代だった頃に楚国という国があり、屈原(くつげん)という人がおりました。賢人だった屈原は、楚国王(そこくおう)の乱行ぶりに我慢ができず、ある日、王を諌めようと忠告しました。しかし、それは王の逆鱗にふれてしまい、屈原は江南の地へ流刑されてしまいます。そして屈原は王を慕いながら、ベキラ川へ身を投げてしまったのです。里の人々は屈原を哀れんで、毎年、屈原の命日である五月五日に、竹づつに米を入れたものを水に流し、屈原の霊を弔います。ところが漢の時代に、里の者が川のほとりで屈原の幽霊に出会います。幽霊曰く、里の者が毎年供物を捧げてくれるのは有り難いが、残念なことに、私の手許に届く前に蛟龍(こうりゅう)という悪龍に盗まれてしまう。だから、今度からは蛟龍が苦手にしている楝樹(れんじゅ)の葉で米を包み、五色の糸で縛ってほしい。と言ったのである。里の者は、あいわかった、と承知して、以来、楝樹(れんじゅ)の葉で米を包み五色の糸で縛って川へ流したので、無事に屈原の元へ供物が届いたのでした。めでたし、めでたし」

 これが粽の始まりと言われているそうです。屈原の故事から、中国では五月五日の節句には、節物として粽を作り、親戚や知人に配るという習わしが生まれました。そして日本へ端午の節句行事とともに伝わり、今日に至っている理由だそうです。

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もともとは、男女性別関係はありませんでした・・・パート5

それでは、続いてですが、「端午の節供」の「お節供とは?」ついて、お話ししていきたいと思います。

☆お節句とは?について

5月5日 端午の節供〔菖蒲の節供・子供の日〕

・端午の節供とは??

端午(たんご)の節句は、奈良時代から続く古い行事です。
端午というのは、もとは月の端(はじめ)の午(うま)の日という意味で、5月に限ったものではありませんでした。しかし、午(ご)と五(ご)の音が同じなので、毎月5日を指すようになり、やがて5月5日のことになったとも伝えられています。

そのころの日本では、季節の変わり目である端午の日に、病気や災厄をさけるための行事がおこなわれていました。古く中国では、この日に薬草摘みをしたり、蘭を入れた湯を浴びたり、菖蒲を浸した酒を飲んだりという風習があったことから、日本の宮廷でもさまざまな行事が催されました。厄よけの菖蒲をかざり、皇族や臣下の人たちには蓬(よもぎ)などの薬草を配り、また病気や災いをもたらすとされる悪鬼を退治する意味で、馬から弓を射る儀式もおこなわれたそうです。

万葉集に名高い、額田王と大海人皇子が交わしたこの歌も、5月5日の薬草摘みのときに詠われたものです。

額田王の歌
     茜草さす紫野行き標野行き 野守は見ずや君が袖振る

大海皇太子答ふる歌
     紫草のにほへる妹を憎くあらば 人嬬故に吾恋ひめやも

とあるそうです。

・端午の節供が男の子の節供となった理由について

古来おこなわれていた宮廷での端午の行事も、時が鎌倉時代の武家政治ヘと移り変わってゆくにつれ、だんだんと廃れてきました。しかし、武士のあいだでは尚武(しょうぶ=武をたっとぶ)の気風が強く、「菖蒲」と「尚武」をかけて、端午の節句を尚武の節日として盛んに祝うようになったのだそうです。

やがて江戸時代にはいると、5月5日は徳川幕府の重要な式日に定められ、大名や旗本が、式服で江戸城に参り、将軍にお祝いを奉じるようになりました。また、将軍に男の子が生まれると、表御殿の玄関前に馬印(うましるし)や幟(のぼり)を立てて祝いました。

このような時代の変遷のなかで、薬草を摘んで邪気をはらうという端午の行事が、男の子の誕生の祝いへと結びついていったと考えられています。やがてこの風習は武士だけでなく、広く一般の人々にまで広まっていきます。はじめは、玄関前に幟や吹き流しを立てていたものが、やがて厚紙で作った兜や人形、また紙や布に書いた武者絵なども飾るようになっていったのです。さらに江戸時代の中期には、武家の幟に対抗して、町人の間では鯉のぼりが飾られるようになりました。

現在でも、端午の節句のお飾りは地方によってさまざまだそうです。鎧や兜、武者人形、馬や虎・若武者の人形、鯉のぼりや旗のデザインもそれぞれの個性があるものです。

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もともとは、男女性別関係はありませんでした・・・パート4

それでは、続いてですが、端午の節供についてまとめたものがございますので、参考までに記しておきます。

★端午の節句について

読み方:たんごのせっく
関連語:こどもの日

端午の節句」は5月5日にあたり、「菖蒲〔しょうぶ〕の節句」とも言われます。強い香気で厄を祓う菖蒲やよもぎを軒(のき)につるし、また菖蒲湯に入ることで無病息災を願いました。
また、「菖蒲」を「尚武〔しょうぶ〕」という言葉にかけて、勇ましい飾りをして男の子の誕生と成長を祝う「尚武の節句」でもあります。

●立身出世を願う男の子の節供??

江戸以降は男子の節句とされ、身を守る「鎧」や「兜」を飾り、「こいのぼり(※)」を立てて男子の成長や立身出世を願ってお祝いをします。また、初節句(男の子が生まれて初めての節句)にはちまきを、2年目からは新しい芽がでるまで古い葉を落とさない事から「家督が途絶えない」縁起物として「柏餅」を食べます。
地方によっては、子供の行事としてだけでなく、田の神を迎えるための禊の名残として菖蒲湯に入る習慣も残っているようです。

※登竜という激流(登竜門)を鯉が登ったという中国の伝説を受け、鯉には出世と健やかな成長を願う親の気持ちが託されています。

●男の子の成長を祈るまつりへと変化

端午の節句は奈良時代から続く古い行事です。もとは月の端〔はじめ〕の午〔うま〕の日という意味で、5月に限ったものではありませんでした。しかし、午〔ご〕と五〔ご〕の音が同じなので、毎月5日を指すようになり、やがて5月5日のことになったとも伝えられます。
当時は邪気を避け魔物を祓う薬草とされていた「菖蒲」を、よもぎと共に軒にさし、あるいは湯に入れて「菖蒲湯」として浴しました。

時代が武家社会に移るにつれ、これまでの風習が廃れ、代わりに「菖蒲」と「尚武」をかけた尚武(武士を尊ぶ)の節句へと移っていきます。この流れを受け、江戸時代には徳川幕府の重要な式日が5月5日と定められ、大名や旗本が式服で江戸城に参り、将軍にお祝いを奉じるようになりました。また、将軍に男の子が生まれると、玄関前に馬印〔うましるし〕や幟〔のぼり〕を立てて祝いました。こうして時代と共に男の子の誕生と成長を祝うお祭りへとなっていきました。

●現代の端午の節句

男の節句とされていたので昔は鎧や兜はお父さんやおじいちゃんが飾るのが習わしでしたが、現在では特にこだわる必要はないそうです。4月中旬までには飾りの準備を終わらせ、当日か前日の晩には両家両親や知人を招き、縁起物のご馳走でもてなします。 また、今でも「強い香気による厄払い」という意味が込められた「菖蒲湯」には性別年齢関係なく入浴しています。

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もともとは、男女性別関係はありませんでした・・・パート3

それでは、続いてですが、今日は、こどもの日ですが、今日は、5月5日は、「端午の節供」です。
それでは、続いては、この「端午の節供」についてお話をしていきたいと思います。

★端午の節供について

●端午について

端午(たんご)は節句の一つで、現在は5月5日である。五節句の一つであり、端午の節句とも呼ばれる。そもそもは旧暦5月5日に祝われたが、今日の日本ではグレゴリオ暦(新暦)の5月5日に行われ、旧暦や月遅れの6月5日に少ないながら一部地域では行なわれている。日本では端午の節句に男子の健やかな成長を祈願し各種の行事を行う風習があり、国民の祝日「こどもの日」になっている。尚、中国語圏では現在も旧暦5月5日に行うことが一般的である。菖蒲の節句ともいいます。

●端午の意味について

旧暦では午の月は5月にあたり(十二支を参照のこと)、この午の月の最初の午の日を節句として祝っていたものが、のちに5が重なるこの月の5日が端午の節句の日になったという。「端」は物のはし、つまり「始り」という意味で、元々「端午」は月の始めの午の日のことだった。後に、「午」は「五」に通じることから毎月5日となり、その中でも数字が重なる5月5日を「端午の節句」と呼ぶようになったともいう。同じように、奇数の月番号と日番号が重なる3月3日、7月7日、9月9日も節句になっている。(節句の項目を参照してください)

※節句について

句(せっく)は、伝統的な年中行事を行う季節の節目となる日で日本の文化・風習のこと。節供(せっく)とも。日本の風習と、中国大陸から伝わった暦が合わさって誕生した。古くは節日(せちにち)といい、節日には朝廷において節会と呼ばれる宴会が開かれた。日本の生活に合わせてアレンジされていくつもの節日が伝わっていたが、そのうちの5つを江戸時代に幕府が公的な行事・祝日として定めたのが節供である。

それでは、この端午の節供について風習やその由来がございますので、参考までにしるしておきます。

●風習とその由来ついて

この日を端午とする風習は、3世紀の中国、楚で始まったとされる。楚の国王の側近であった屈原は人望を集めた政治家であったが失脚し失意のうちに川に身を投げることとなる、それを知った楚の国民達は粽を川に投げ込み魚達が屈原の遺体を食べるのを制したのが始まりと言われている。

中国においては邪気を払い健康を祈願する日とされ、野に出て薬草を摘んだり、蓬で作った人形を飾ったり、菖蒲(しょうぶ)酒を飲んだりする風習があった。蓬や菖蒲は邪気を払う作用があると考えられていた。現代の日本においても菖蒲や蓬を軒に吊るし、菖蒲湯(菖蒲の束を浮かべた風呂)に入る風習が残っている。

日本においては、男性が戸外に出払い、女性だけが家の中に閉じこもって、田植えの前に穢れを祓い身を清める儀式を行う五月忌み(さつきいみ)という風習があり、これが中国から伝わった端午と結び付けられた。すなわち、端午は元々女性の節句だった。宮中では菖蒲を髪飾りにした人々が武徳殿に集い天皇から薬玉(くすだま:薬草を丸く固めて飾りを付けたもの)を賜った。かつての貴族社会では薬玉を作りお互いに贈りあう習慣もあった。宮中の行事については奈良時代に既にその記述が見られる。

鎌倉時代ごろから「菖蒲」が「尚武」と同じ読みであること、また菖蒲の葉が剣を形を連想させることなどから、端午は男の子の節句とされ、男の子の成長を祝い健康を祈るようになった。鎧、兜、刀、武者人形や金太郎を模した五月人形などを室内の飾り段に飾り、庭前に鯉幟(こいのぼり)を立てるのが、典型的な祝い方である。鎧兜には男子の身体を守るという意味合いが込められている。こいのぼりをたてる風習は中国の故事にちなんでおり、男子の立身出世を祈願している(鯉幟の項)。典型的なこいのぼりは、5色の吹き流しと3匹(あるいはそれ以上の)鯉のぼりからなる。吹き流しの5色は五行説に由来する。

端午の日には粽(ちまき)や柏餅(かしわもち)を食べる風習もある。粽を食べるのは、中国戦国時代の楚の愛国詩人屈原の命日である5月5日に彼を慕う人々が彼が身を投げた汨羅江(べきらこう)に粽を投げ入れて供養したこと、また、屈原の亡骸を魚が食らわないよう魚の餌としたものがちまきの由来とされる。柏餅を食べる風習は日本独自のもので、柏は新芽が出るまで古い葉が落ちないことから「家系が絶えない」縁起物として広まっていった。中国語圏では、現在も屈原を助ける為に船を出した故事にちなみ、龍船節として手漕舟(龍船あるいはドラゴンボート)の競漕が行われる。ヨモギ(蓬、中国語:艾(アイ)または艾蒿(アイハオ))の束を魔よけとして戸口に飾る風習も、広く行なわれている。

なお、男の赤ん坊をもつ家庭にとっては「初節句」となるため、親族総出で祝われることも多い。5月5日が祝日であり、さらに前後に祝日を伴う大型連休期間中にあるため、雛祭り以上に親族総出で祝われる。

その他、この端午の節供についての最近の話題について参考までに記しておきます

関連する最近の話題について

2005年11月、漢字文化圏にて2000年近く続いている「端午の節句」について、韓国が起源を主張。名称を「江陵端午祭」としユネスコの世界無形遺産に申請し、選定されてしまった。この選定を受け、実際の起源の中国のマスコミをはじめとする諸団体は猛反発した。

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もともとは、男女性別関係はありませんでした・・・パート2

それでは、続いてですが、こどもの日についてまとめたものがございますので、参考までに記しておきます。

★こどもの日

読み方:こどものひ
関連語:端午の節句

こどもの日とは、国民の祝日の1つで、「こどもの人格を重んじこどもの幸福をはかるとともに母に感謝する日」と1948年に定められました。

●こどもも読めるようにひらがな表記

こどもの日は、ゴールデンウイークの最終日にあたる5月5日に、こどもの健全な発達を願う日です。

こどもは、7歳までは神様の預かりものとされていたので、神仏への「お供え物」などの「そなえ」「供する」という意味の常用漢字の「供」を使用し、「子供」と表記されてました。しかし、一部の団体から「供」という漢字は「大人の手下」という感じがするという声が上がったためひらがな表記にしたそうです。また一説によれば、こどもにも読めるようにひらがなにしたともいわれています。

●いつにするか思案されたこどもの日

古来は、5月5日は「端午の節句」といって男の子の健全な成長を祝う日でしたが、1948年に定められた国民の祝日法によって「こどもの日」として広く親しまれるようになりました。

当初は、桃の節句3月3日や、学年が始まる4月1日という案が出ていましたが、3月3日では北海道などではまだ寒すぎる、4月1日はエイプリルフールと重なってしまうと言う理由で却下されたようです。

戦後、5月5日はこどもの日として全国に広がっていき、各地でこどもの日のフェスティバルなどが行われます。

●男の子も女の子も一緒にお祝い

古来は「端午の節句」の日だったので、その色が濃く、現在でも男の子のいる家では「兜」「こいのぼり」「五月人形」を飾ります。兄弟姉妹のいる家庭では、一緒にお祝いをするのが一般的になっており、更に女の子だけの家庭でも最近は「こいのぼり」を飾ったりするようです。行事の参加者は、男の子だけとは限らないようです。そのため、小学校でも男女が一緒になって画用紙で「兜」を折ったりします。

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もともとは、男女性別関係はありませんでした・・・パート1

皆さん、こんにちわ。更新です。ゴールデンウィークもあと一日を残すこととなりましたネ。今日は、5月5日、祝日です。今日は、「こどもの日」・「端午の節供」ですね。お皆さんのお家ではいかがでしょうか??

さて、それでは、今日は、この「こどもの日」・「端午の節供」についてお話をしていおきたいと思います。

こどもの日について

こどもの日(こどものひ)は、日本における国民の祝日の1日で、5月5日である。

国民の祝日に関する法律(祝日法)では「こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する」ことを趣旨としている。1948年公布・施行の祝日法によって制定された。ゴールデンウイークを構成する日の一つである。

「子供の日」あるいは「子どもの日」と表記されることが少なくないが、「こどもの日」が正式である。

●概要

こどもの日が設定された経緯

5月5日は古来から端午の節句として、男子の健やかな成長を願う行事が行われていた。大正時代には「児童愛護デー」として活動を行っていた団体が存在し、国会にこどもの日を祝日とする請願が寄せられた際にも5月5日を希望するものが多かったためである。

かつては、5月5日が祝祭日で3月3日(上巳の節句、雛祭り)が祝祭日でないことについて、男女差別とする見方があった。しかし近年では、国会の審議での議論で決着がついたことや、男女の別なく祝う日というイメージが強くなったため、これに対する批判は見られなくなっている。

こどもの日(こどものひ)

5月5日。「こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する」ことを趣旨とした国民の祝日。1948年(昭和23)制定。この日から11日まで児童福祉週間が行われる。古来、男児の節供とされる端午(たんご)の節供にあたるため、女児の桃の節供雛祭(ひなまつり)の3月3日も祝日にすべきだという主張が一部では出されています。

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いろいろと変わりました・・・パート5

それでは、続いてですが、みどりの日の由来というものがございますので、参考までに記しておきます。

「みどりの日」の来歴について
 
本日 5/4は、「みどりの日」ですね。
5/4 がみどりの日になったのは去年、2007/5/4が最初でした。それ以前は4/29がみどりの日だったことは、まだご記憶に残っていると思います。では、みどりの日がいつ出来たかは覚えていますか?

◇「みどりの日」は昭和の「天皇誕生日」
 
旧みどりの日の日付4/29が昭和天皇の誕生日だったことを忘れてしまっていたという方もいるのではないでしょうか?

当然1988年の昭和63年まではこの4/29は「天皇誕生日」でした。1989年に昭和64年が平成元年へと変わり、天皇誕生日が12/23 に移ってしまうと、慣れ親しんだ4/29という祝日がなくなってしまいます。

この日は、その頃既に国民的行事(?)となっていたゴールデンウィークの前半を担う重要な祝日でもありましたから、これを祝日から外すのはどうかなということになり、残す事になりましたがまさか「天皇誕生日」のままには出来ませんので、別の名前に変える必要がありました。

ではどんな名前にするかと考えましたが、誰がどう考えてもこの日が昭和天皇の誕生日に由来する事は明白なので、昭和天皇にちなむものにしたいと考えて決定したのが「みどりの日」だそうです。

これは、昭和天皇が生物学者で植物についての造詣が深かったことからとされます。他に科学の日と言う案もあったといいますが、ちょうど植物が生育し、新緑が美しい時期でもありますから、「みどりの日」が相応しいだろうと落ち着いたのでした。

◇心太式の日付の変更
こうして「みどりの日」として定着した4/29の祝日ですが、元々が昭和天皇の誕生日に由来しておりましたので、昭和天皇の遺徳を偲ぶ日として顕彰したいという声(「一部の声だ」という声もありますが)が高まり、2005年の法律改正で2007年(平成19年)から4/29は「昭和の日」と名前を変える事になりました。

行き場のなくなった「みどりの日」ですが、消滅の憂き目を救ったのは 5/4の俗に言う「国民の休日」の存在。国民の休日(法律では単に「休日」。「国民の休日」という名称はありません)は、1986年から祝日と祝日の間の平日も休みとしちゃおうとつくられたもの。跳び石連休の跳び石と跳び石の間を埋め立てたようなものです。

国民の休日と祝日とは異なりますが、一般の目からはどちらも「休みの日」で違いはありませんから、これを「みどりの日」として祝日にしてもあまり大きな差はありませんから、何となく心太式に 5/4がみどりの日になってしまいました。なんだか可愛そうな、放浪の「みどりの日」です。

◇5/4 が祝日になって変わったこと
国民の休日だったころも、「みどりの日」という祝日になってもどちらも休みの日で同じようなものですが、ちょっとだけ違いがあります。その違いの恩恵を今年は受ける事になりました。それは振り替え休日です。

国民の休日は「祝日と祝日の間の平日」でしたから、日曜日が祝日と祝日に挟まっても国民の休日にはなりません。
ところがこれが「祝日」になると、日曜日と重なると「振り替え休日」が発生します(ちなみに「振り替え休日」という言葉も祝日法にはありません。こちらも単に「休日」と書かれています)。

今日は 5/4でみどりの日で月曜日ですね。現在の法律では、振り替え休日は振替が発生した後の最初の祝日で無い日ですので、 5/5のこどもの日を跳ばして次の 5/6が振り替え休日となったそうです。

それでは、続いては、最後にもう一つ、「みどりの日」について、参考までにお話しをしたいと思います。

●みどりの日

読み方:みどりのひ

関連語:天皇誕生日

4月29日は「自然に親しむとともに、その恩恵に感激し、豊かな心を育む日」と法律では定められています。

☆昭和という時代

元は、昭和天皇の「天皇誕生日」として、戦前まで、国民に親しまれていたそうですが、天皇が崩御されました1989年に国民の祝日の一つとして、「みどりの日」に改名されました。一方で、4月29日は昭和天皇という昭和という時代を偲ぶための「昭和の日」にすべきだという意見が根強いそうです。

☆天皇誕生日から生まれたみどりの日

4月29日は戦前は「天長節」と呼ばれて、昭和天皇の誕生日を祝う「祝日」でした。

これは、光仁〔こうにん〕天皇(775年)が模して始めたものだと言われているそうです。

みどりの日と名前が改定されたのは、1989年のことだそうです。新緑の季節として、自然に親しむ上でもふさわしいことと同時に、80余年にわたり、国民に定着していたことから、祝日に定められたそうです。

☆みどりいっぱいの街づくり

4月23日~29日までを「みどりの週間」※(2006年8月8日廃止)として「街を綺麗にしよう」「環境問題を考えよう」等のテーマで各地でイベントが開催されているそうです。例えば、みどりの日に川越市では苗木を贈るイベントが、茨城県結城市ではフリーマーケットが行われているそうです。

また、この日から、GW〔ゴールデンウィーク〕が始まりますネ。長期休暇の幕開けの日として、心も弾むかたもいらしゃると思います。ちなみに、例として、2004年の公務員の休日は、「11日」、会社勤務のかたは、「約7日」だったそうです。

いかがでしたでしょうか?今回の「みどりの日」ついていろいろと書きました。実に様々なことが、わかりました。祝日もいろいろと変わりました。以前と名前が変わっています。今日は、以前は、「昭和の日」、現在は「みどりの日」。憶えるのが大変ですね。
でも皆さんは、祝日ですから、お休みのかたもいらしゃると思います。こういうことを気にせず、ゆっくりとしたいものです。

皆さん、今日、「みどりの日」です。どうようにお過ごしになられますでしょうか??

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いろいろと変わりました・・・パート4

それでは、続いてですが、今年の4月29日が「みどりの日」が「昭和の日」と名前が変わったのでしょうか?その理由として以下のことが考えられるのだそうです。

これは、あくまでも参考までです。

「昭和の日」推進運動団体の「『昭和の日』ネットワーク」は、「みどりの日」の「今のままで世代の交代がすすめば、この祝日の由来は忘れ去られてしまうだそうで、そうなると祝日の意義は風化します」といってるそうです。また「『昭和の日』は、昭和の時代に天長節・天皇誕生日として国民に親しまれてきた4月29日が相応(ふさ)しい」としています。

しかし、戦後、新憲法が制定され国民主権原則の下に、祝祭日も皇室中心から、国民の祝日へと変わりました。

例えば、明治天皇の誕生日11月3日の「明治節」が、戦後「文化の日」と変わりましたが、その理由を国民の祝日を審議選定した参院の山本勇造文化委員長は次のように報告しています。

「明治節を祝われた日でございますが、立法の精神から申しますと、この日は御承知のように、新憲法が公布された日でございます。そうしてこの新憲法において、世界の如何なる国も、未だ曾て言われなかったところの戦争放棄という重大な宣言をいたしております」(1948年7月4日参院本会議)と、「明治節」が新憲法の趣旨に沿わなかったことを述べています。

ですから、「みどりの日」にせざるを得なかったのだそうです。

祝日法は、憲法の精神にのっとって祝日を定めることを強調しています。その第1条には「自由と平和を求めてやまない日本国民」が「こぞって祝い、感謝し、又は記念する日」を国民の祝日にすると規定しています。

昭和天皇は、アジアで2千万人、日本国民310万人の犠牲者をもたらした侵略戦争を進めた最高責任者です。その人物の誕生日を「昭和の日」として国民の祝日にすることは、平和を希求する憲法の原則に反するだけでなく、祝日法にも反するそうです。「昭和」の時代にたいする国民の思いや認識はさまざまであり、とても「こぞって祝う」ことはできない事柄といわなければなりません。

また、「昭和の日」法案は、2000年4月に提出され、2回の廃案を経て05年4月に成立しました。日本共産党、社民党は反対しましたが、民主党は当初反対したものの成立時には賛成に態度を変更したのだそうです

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いろいろと変わりました・・・パート3

それでは、これは参考までですが、国民の祝日の妥当性の是非について記しておきます。

☆「国民の祝日」としての妥当性の是非について

・国民の祝日に関する法律第1条には「国民の祝日」全般の制定の動機・趣旨が「国民こぞつて祝い、感謝し、又は記念する日を定め」と規定されています。もし条文中の接続詞が「及び」であれば、反対派の人々にも全部の祝日を「祝う・感謝する」ことを強要するものとなり妥当性を欠くおそれがあるが、「又は」となっていることに着目するとこれはこれら三つの行動のうち一つ以上の国民的需要があれば祝日として制定可能、ということを示しているそうです。

・「国民の祝日」という表現は個別の祝日すべてを含む「総称」なのだそうですが、本来は三つ設けて「国民の祝日」・「国民の感謝日」・「国民の記念日」、あるいは一つにするとしても法令での慣例に従い「国民の祝日等」としてもよかったものと考えられるかもしれません。しかしながら、そもそも各祝日には次の第2条で個別の名称とその意義が規定されるため、総称は一つのほうが国民にとっても簡素で良いと考えられたこと、また「等」付きでは美観を欠くことなどから、第1条での総称設定は筆頭の「国民の祝日」一つだけが代表として選ばれ、第1条の文末に「これを『国民の祝日』と名づける。」と念を押す表現で記載されたそうです。したがって総称である「国民の祝日」は「祝」の字が含まれてはいるが「祝わないが記念する」日も包含される間口の広いものであり、第2条における個別の定義文中に「祝う」の表現がない国民の祝日などは、祝意を示すことまでは法的に要請も強要もされていないそうです。(たとえば建国記念の日は総称が前述のように三つあれば「国民の祝日」でなく「国民の記念日」に分類されたものと考えられる。)

・第2条の個別規定を見ると、元日、成人の日、敬老の日のように祝意に反対する人がほとんどいないと考えられる「祝日」には定義文中に「祝う」の文言がある。対して建国記念の日、憲法記念日など異論を持つ人が一定程度見込まれる「祝日」については「記念する」という言葉が使用されている。今回追加されることとなった昭和の日については「祝う」だけでなく「感謝」も「記念」の文字も無い。「顧み、国の将来に思いをいたす」との表現で一つの方向への集中(讃美など)を避ける形が取られているそうです。国会審議においても反対派議員による「昭和天皇への賛美・祝意の強制だ」との批判に対し提出議員は「記念する日である」との表現を多用していた。なお、近代の天皇誕生日で戦後も残ったのは明治・昭和両天皇の誕生日だけであり(文化の日=旧明治節)、大正天皇の誕生日は記念日・祝日として存在しないそうです。

・「記念する」という言葉をどのような意味に解釈するかは分かれるところであるが、「昭和天皇を否定的に考える」「戦前の日本を反省する」などの反対集会を4月29日に行うことも、ある意味では「記(しる)し念ずる」ということに解釈することは不可能ではないかもしれません。国民の間に異論のある事象を「祝うための国民の祝日」として制定すれば祝意の強要となり祝日法第1条に抵触する可能性があるが、記念という言葉が肯定的な場面でも否定的な場面でも使用できることを前提とすれば、異論のある事象であっても「祝わないが記念(回顧・追想・反省)をするための国民の祝日」を加えることは、その意味において第1条に抵触するとは言えないと考えられる。

・なお、この節中の記載の趣旨は、「祝日法での国民の祝日という表記は本当は三つの意味を代表したものにすぎず、『祝わないが記念する日』の祝日化は祝日法に違反しない」という制定方法についての一般論であり、「昭和」と名の付く「祝日」の存在が妥当かどうかとは別問題なのだそうです。

☆「昭和記念日」と「昭和の日」について

日本国における国民の祝日の名称の付け方には目安があるそうです。元日、憲法記念日、天皇誕生日のように名称中に「の」の字がないものは、その日付(1月1日、5月3日、12月23日)に固定的な根拠・意味合いがあるものとなっている。一方、成人の日、こどもの日、海の日、敬老の日など「の」の字のあるものは、一応動機となる事実(端午の節句や明治天皇帰港日など)はあるものの、その事象自体は本来常日頃から行われるべきこと(民法上成人となるのはその人の誕生日の前日であるし、子供や高齢者や海の幸は時節を限らず慈しむべき対象と言える)であり、しかしながら年がら年中成人式などの行事をするわけにもいかないので一つの日を選んで制定する、というように「固定的な意味」よりも「特定の一日をその事象の代表的な日とする」という意味を重視したものであることが多いそうです。

2月11日が「建国記念日」でなく「建国記念の日」となっているのも、「今となっては学術的に正確な建国日は諸説あり特定できないが大昔に国家的体制始動の日はあったはずなので、一応2月11日にその役目を命じよう」というように「代表的な日」の意味合いがあるからだそうです。ただし、春分の日と秋分の日は既に学術用語として春分日と秋分日があったため混同を避けるべく「の」を挿入したものであり、他の「の」入り祝日とは異なり(天文学的な理由での日付移動があり形の上では固定的でないのですが)意味合いとしては固定的側面の強い祝日なのだそうです。

昭和時代を記念する日を定める場合も、もし名称を「昭和記念日」とするとなると、「昭和時代回顧のためにたまたま選んだ代表的な日」の意味よりも、「記念する根拠のある日」という固定的意味のある日を選ぶ必要が生ずることとなり、結果として昭和天皇誕生日である4月29日よりもむしろ昭和に改元した12月25日のほうが適切である(もしもこの日が祝日になれば、祝日法の規定により12月24日は休日となる)、逆に律令の「国忌」規定以来の由来のある昭和天皇が崩御して昭和時代の終わった1月7日の方が皇室の伝統とも合致する(亡くなった天皇の誕生日が祝日になった先例は戦前に存在した明治天皇の「明治節」(11月3日)のみである)、更には終戦記念日(8月15日)こそ相応しい等々、日付選定に関する推進勢力同士の論争を提起する可能性がありました。一方、「昭和の日」であれば固定的な意味を持つ必然性が(昭和記念日に比べれば)薄れるため、4月29日を採用する是非についての推進勢力同士の論争(=推進運動の停滞)を避けやすい結果となったそうです。当初「昭和記念日」を主張していた推進勢力が「昭和の日」を受け入れた背景には、このような「の」の有無という祝日名称の慣例が影響したといえるのだそうです。

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いろいろと変わりました・・・パート2

それでは続いてですが、みどりの日が、今日5月4日に変わりましたが、以前は4月29日でした。4月29日は今は、「昭和の日」に変わっています。それでは、続いてはこの「昭和の日」について書いていきます。

★昭和の日について

昭和の日(しょうわのひ)は、日本国の国民の祝日の1日である。2007年(平成19年)から加わった、現在のところ最も新しい国民の祝日である。国民の祝日に関する法律(祝日法)の一部改正により追加されたもので、日付は昭和天皇の誕生日である4月29日。同法における定義・趣旨は「激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす」となる。ゴールデンウィークを構成する日の一つである。

●制定

1989年(昭和64年)1月7日の昭和天皇崩御により、同年以降の4月29日はそれまでの天皇誕生日としては存続できなくなり、祝日法の天皇誕生日に係る項を改正する必要が生じた。当時から同日を「昭和記念日」など昭和に因んだ新祝日として存続させようという意見が出ていたが、左派の反対からそのような案は見送られ同年以降の4月29日は「みどりの日」という名称の祝日に改められた。

その後、「昭和の日」の実現を目指す団体等、右派の運動に呼応・共鳴する国会議員により、2000年の第147回国会(参議院先議)、2002年の第154回国会(衆議院先議)においていずれも議員提出法律案として審議に付され、ともに先議の議院では可決したものの、国会会期満了・衆議院解散などにより後議の議院での可決に至らず廃案となった。2004年の第159回国会において、都合3度目となる改正法案提出(議員立法形式・衆議院先議)がなされ、継続審議を経て2005年の第162回国会で成立した。同改正法は2007年から施行され、同年以降の4月29日は「昭和の日」、従前の「みどりの日」は5月4日に移動した。なお、同改正法案にはこの二つの祝日設置のほかにも付随する改正(振替休日や国民の休日の重複を避けるための条文の変更等)が盛り込まれている。

4月29日・◎昭和の日(Showa Day)について。②

「激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす」国民の祝日。

1989(昭和64)年1月7日の昭和天皇崩御の後、それまでの天皇誕生日である4月29日を「生物学者であり自然を愛した昭和天皇をしのぶ日」として「緑の日」とすることとなった。しかし、実際に制定された法律では、昭和天皇を偲ぶという趣旨は盛り込まれなかった。このため、「昭和の日」に改称する法律案が超党派の国会議員により提出され、数度の廃案の後に2005年に成立、2007年より4月29日を「昭和の日」とし、みどりの日は5月4日となった。

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いろいろと変わりました・・・パート1

皆さん、こんにちわ。更新です。皆さん、ゴールデンウィーク、いかがお過ごしでしょうか?今日」は、5月4日、祝日、今日は、「みどりの日」ですね。さて、この「みどりの日」、以前は、「昭和の日」でした。この「みどりの日」、2007年より以前の4月29日から今日、5月4日に変わりました。そこで、今日は、この「みどりの日」について書きたいと思います。

★みどりの日について
みどりの日(みどりのひ)は、日本の国民の祝日の一つである。日付は2007年より5月4日。1989年から2006年までは4月29日であった。国民の祝日に関する法律(祝日法)では「自然にしたしむとともにその恩恵に感謝し、豊かな心をはぐくむ」ことを趣旨としている。ゴールデンウィークを構成する休日の一つである。

●概要

1948年の祝日法施行以来、昭和天皇の誕生日である4月29日は、国民の祝日である「天皇誕生日」とされていた。その後1989年(昭和64年)1月7日の今上天皇即位により、天皇誕生日は今上天皇の誕生日である12月23日に改められることとなったが、ゴールデンウイークの一角を構成する祝日を廃止することによる国民生活への影響が懸念されたことから、4月29日を「みどりの日」と改めた上で祝日として存続させることとなった。

その後、2005年の祝日法改正により、2007年以降は「みどりの日」を5月4日に移動し、4月29日を「昭和の日」とすることとなった。この経緯については昭和の日を参照してください。

●名前の由来

「みどりの日」の名前の由来は、各界識者をメンバーとする小渕恵三官房長官(当時)の私的諮問機関(皇位継承に伴う国民の祝日に関する法律改正に関する懇談会)において、「昭和天皇は植物に造詣が深く、自然をこよなく愛したことから『緑』にちなんだ名がふさわしい」という主旨の意見が多数を占めたからであるとされている。他の意見には「科学の日」などがあったとされ、いずれにしても4月29日が休日となるゆえんとなった昭和天皇の、博識であった面にちなんだ名前となっています。

●その他

2007年以降、「みどりの日」には国公立公園の無料開放を行うほか、国民が自然に親しむための各種行事等を各地で実施することになっている。

また、この日には普段は青色で印刷される毎日新聞の題字が緑色になります。

参考までですが、みどりの週間について書いておきます

※みどりの週間について

みどりの週間(みどりのしゅうかん)とは、みどりの日の趣旨を広く普及し、緑豊かな自然 と国土の形成及び国民生活の向上に資することを目的とした週間。

国民の祝日に関する法律の一部を改正する法律(平成元年法律第5号)により、国民の祝日とし てみどりの日が制定されたことに伴い、平成元年4月18日の閣議了解によって、みどりの日を最終日とする一週間(4月23日-4月29日)と定められた。

この週間においては地方公共団体及び一般の協力を得て、「みどり」に関する各種行事等を全国的に実施することとされていた。みどりの日の改正に伴い、みどりの週間を廃止し、代わりにみどりの月間(4月15日 - 5月14日)を創設することが平成18年8月8日に閣議決定された。

(2006年8月8日廃止)

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この問題は難しい問題ですね・・・パート3

それでは、憲法記念日についてもう少しお話を続けます。

憲法記念日
日本国憲法の施行を記念し、国の成長を期する

憲法記念日
1947年(昭和22年)の今日、日本国憲法が施行されたことによる。日本国憲法は「主権在民」「戦争放棄」「基本的人権の尊重」を三つの柱にしている。天皇を象徴とするこの憲法はポツダム宣言に基づいた連合国の占領下の国会において定められたもののため、連合国から押し付けられた憲法として、改憲を望む声もある。しかし、平和憲法と高く評価する人も多く、この日は、改憲派、護憲派のそれぞれが集会などを開き、自分達の主張をアピールする。

これも、憲法記念日についてこういう記事がございますので、参考までに記しておきます。

※昭和22年(1947)5月3日、日本国憲法が発布されました。それを記念して昭和23年7月の「国民の祝日に関する法律」で、この日が祝日と定められました。

その後今年でもう50年にわたってこの憲法は全く改正を加えられることなく継続し、天皇象徴制・三権分立・民主主義・人権尊重・平和主義などをうたっています。

憲法に関してよく議論されるのが第九条の問題です。

第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

(2) 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

これを作った時には国連の平和維持機能への期待が高く、軍隊を自国で持つ必要はないという考え方があった訳ですが、その期待は朝鮮戦争でもろくも崩れてしまいます。結果、当時の日本の法律に優先するGHQ指令で警察予備隊が創設され、それは保安隊→自衛隊と発展してきました。現在では自衛隊は実戦経験こそないものの軍備的には世界で5本の指に入る強力な軍隊であるとも言われています

ここまで来たら憲法を改訂したほうがすっきりすると思うのですが、この憲法が愚かな政治家に愚かな考えを懐かせない抑止力になっていることも事実であり、これは当面このままで良いのかも知れません。

アメリカの政府高官が昔言ったとか言わなかったという話で、日本政府と軍事問題を話し合おうとすると二言目には「日本国憲法では」と言われて、うんざりする。しかしイギリス政府と話し合おうとすると、あいつらは今度は「マグナカルタでは」と言いだしやがる、と。

イギリスの憲法マグナカルタは1215年に定められたものでなんと800年近くたっていますが、イギリス人はこの「大憲章」を改訂しようとはせず解釈の変更で800年間やってきています。日本人とイギリス人というのは性格的に似たところがあるのかも知れませんネ。

なお、日本国憲法の前文にはこうもあります。

われらは平和を維持し専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと務めてゐる国際社会において名誉ある地位を占めたいと思ふ。

この文章が日本が国連を通して軍事力を行使することを認めていると一般には言われています。また第六十六条2項には

 内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない。

という条項があります。文民でなければならないというのは、要するに現役の軍人は大臣になれないという意味であり、ここにも暗に軍隊の存在を認める文章が紛れ込んでいます。

以下1997.05.02の記事

昭和22年(1947)5月3日。日本国憲法が発布されました。それを記念して昭和23年7月の「国民の祝日に関する法律」で、この日が祝日と定められました。

その後今年でもう50年にわたってこの憲法は全く改正を加えられることなく継続し、天皇象徴制・三権分立・民主主義・人権尊重・平和主義などをうたっています。その前文にはこうあります。

『われらは平和を維持し専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しよう
と務めてゐる国際社会において名誉ある地位を占めたいと思ふ』

1997.5.3の付記

昨日はイギリスで労働党が総選挙に圧勝したニュースが流れてきました。

これを受けて保守党内閣のメジャー首相はエリザベス女王に辞表を提出、女王は労働党のブレア党首に組閣を要請します。さて、この総選挙で負けた内閣は退陣するというのはイギリスの「慣習」であって、別に憲法(マグナカルタ)に定められたものではありません。

アメリカなどは文字主義の強い国ですので法律に定められていないことは実行しない、といった風潮などもあり、法律の解釈が絡んで凄まじい数の訴訟が起きる訴訟国家です。日本の憲法が50年も改正されていないのはおかしい、などと不改正に対する批判をする人もありますが少し論点が外れているような気もしますし、また、全てを法律で決めないといけないと考える考え方もアメリカの影響の受けすぎという気もします。

日本の軍備に関しては上記にあげた前文の記述と戦争放棄をうたった9条とがもともと矛盾しており、今軍備ができると明記した憲法に変えて愚かな政治家が愚かな戦争をやったりするようにしたら全く愚かな選択です。

明治維新以前に日本が侵略戦争をやったのは、4世紀の神功皇后の朝鮮出兵以降の朝鮮半島の倭国領経営時代・7世紀の天智天皇の白村江の戦い・16世紀の豊臣秀吉と3回しかないそうです。。

いかがでしたでしょうか?今日は、憲法記念日。。。ほんとに日本の憲法について考えなければいけないのかもしれません。
皆さんはどのようにお感じになられるかはわかりませんが、世の中は実に様々な問題が起こっているようです。。
この憲法の問題も例外ではないと思います。

今日は、憲法記念日、祝日です。皆さんは、どのようにお過ごしになられましたか?

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この問題は難しい問題ですね・・・パート2

5月3日。「日本国憲法の施行(1947年5月3日)を記念し、国の成長を期する」趣旨の国民の祝日。同日が施行日となったのは、46年(昭和21)11月3日の明治節を公布日とし、半年の準備期間を置いたため。48年7月制定。この日、護憲・改憲両派が大会や講演会を開くが、政府行事は三木武夫(たけお)内閣の76年、24年ぶりに記念式典を行ったにとどまる。

憲法記念日は、もとは、四大節の一つ、明治節だったそうです。そのことについて記しておきます。

★明治節(めいじせつ)について

昭和前期の祝日。明治天皇の遺徳をしのび、明治時代を追慕する目的で制定された。明治天皇の誕生日である11月3日(天長節)があてられた。四方拝、紀元節、天長節と並んで四大節(しだいせつ)の一つに数えられ、この日は宮中でも祭儀と宴会が行われる。第二次世界大戦後の1948年(昭和23)に廃止されたが、11月3日は「文化の日」として現在も継承されている。

それでは、参考までに、その他の天長節(てんちょうせつ) 、四方拝(しほうはい) 、紀元節(きげんせつ) について記しておきますね。

※天長節(てんちょうせつ)について
天皇の誕生日を祝った祝日。その起源は中国の唐代、748年(天宝7)にさかのぼり、玄宗皇帝が老子の「天地長久」の語に基づいて創始した。天地とともに天子の寿命の限りないことを希(ねが)うという意味で、日本では775年(宝亀6)光仁(こうにん)天皇が詔(みことのり)して、自らの誕生日を祝したという記録がある。1868年(明治1)古代の例に倣って復活し、73年紀元節とともに国家の祝日となった。当日宮中では祭儀と宴会が行われた。第二次世界大戦後は「天皇誕生日」と改称された。

※四方拝(しほうはい)について
朝廷の年中行事。天皇が元日の早朝に天地四方を拝する儀式。清涼殿(せいりょうでん)の東庭に4帖(じょう)の屏風(びょうぶ)で周囲を囲った中に御座を設け、その前に白木の机を置き、花や灯火を供える。寅(とら)の刻(午前4時)、天皇が黄櫨染(こうろぜん)の袍(ほう)を着して出御し、まず呪文(じゅもん)を唱えて属星(しょくじょう)(その人の運命を支配するとされる星)を拝し、さらに天地と東西南北の四方を拝してから、父母の山陵を拝する。起源は中国で、平安時代初期に取り入れられて以来、連綿と継続した。とくに明治維新後も存続して現在に及んでいるのは、きわめて特異な朝儀といえよう。ただし明治以後は皇居内の神嘉殿(しんかでん)の南庭で、伊勢(いせ)の両宮と四方の諸神を拝することになった。なお、朝廷以外でも公卿(くぎょう)諸臣の家で、元日の朝四方を拝する儀式が行われた。

※紀元節(きげんせつ)について
1872年(明治5)12月、明治政府によって定められた神武(じんむ)天皇即位日の祝日。当初は1月29日に指定されたが、翌年3月紀元節と命名、同年10月その日は2月11日に変更された。歴史的根拠があいまいな祝日を制定した意図は、天皇を中心とした国家支配の正当性を内外に誇示することにあり、小学校教育の普及に伴って国民のなかにも祝日として定着していった。紀元節には、大日本帝国憲法の発布(1889)や金鵄(きんし)勲章の制定(1890)が行われ、1926年(大正15)からは在郷軍人会や青年団・学校生徒を中心とする建国祭行事が各地で行われるなど、この日は国家主義や軍国主義の宣伝に大きな役割を果たした。太平洋戦争に際し、この日がシンガポール陥落の目標日として設定されたことも有名である。

1948年(昭和23)7月国民の祝日法制定に際し、日本国憲法の理念にふさわしくないものとして廃止されたが、66年の祝日法改正に基づいて、佐藤栄作内閣では翌67年2月、2月11日を「建国記念の日」とすることを政令公布し、事実上の復活を遂げた。

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この問題は難しい問題ですね・・・パート1

皆さん、こんにちは。更新です。もう早いもので、五月に入り、もう3日ですね。今日は、五月の三日、そう、皆さんもご存知のとおり、「憲法記念日」ですね。今日は祝日です。世間では、ゴールデンウィークです。今回は、この「憲法記念日」ついてお話したいと思います。

★日本の憲法記念日について

憲法記念日(けんぽうきねんび)は、国民の祝日の一つ。日付は5月3日。国民の祝日に関する法律(祝日法)では「日本国憲法の施行を記念し、国の成長を期する」ことを趣旨としている。1947年5月3日に日本国憲法が施行されたのを記念して、1948年公布・施行の祝日法によって制定された。ゴールデンウィークを構成する日の一つである。

なお、1946年の憲法改正の議会審議がもう少し早ければ、2月11日の紀元節(現・建国記念の日)を憲法施行日とする案も存在していた。

公布日の11月3日は、日本国憲法が平和と文化を重視していることから文化の日になっている。

近年は憲法改正論議が高まっていることにより、憲法記念日になると、改憲派、護憲派がそれぞれ憲法改正に関する世論調査を行っている。

参考までに、各国の憲法記念日を記しておきますね。

★各国の憲法記念日

・アゼルバイジャン, 11月12日 (1995年)
・アメリカ合衆国, 9月17日 (1787年)
・アルメニア, 7月5日 (1995年)
・ウクライナ, 6月28日 (1996年)
・ウズベキスタン, 12月8日 (1992年)
・ウルグアイ, 7月18日 (1830年)
・オーストラリア, 1月1日 (1901年)
・オランダ, 12月15日
・ジブラルタル, 1月29日 (2006年)
・スウェーデン, 6月6日 (1809年, 1974年)
・スペイン, 12月6日 (1978年)
・スロバキア, 9月1日 (1992年)
・セルビア, 4月27日 (1835年)
・タイ王国, 12月10日 (1932年)
・台湾, 12月25日 (1946年)
・タジキスタン, 11月6日 (1994年)
・デンマーク, 6月5日 (1849年, 1953年)
・ドイツ, 5月23日 (1949年)
・ドミニカ共和国, 11月6日 (1844年)
・ニウエ, 10月19日 (1974年)
・日本, 5月3日 (1947年)
・ノルウェー, 5月17日 (1814年)
・プエルトリコ, 7月25日 (1952年)
・フェロー諸島, 6月5日
・ベルギー, 11月15日
・ベラルーシ, 3月15日 (1994年)
・ポーランド, 5月3日 (1791年)
・ミクロネシア連邦, 5月10日 (1979年)
・メキシコ, 2月5日 (1917年)
・リトアニア, 10月25日 (1992年)
・ルーマニア, 12月8日 (1991年)
・ロシア, 12月12日 (1993年)

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