一年に一度のロマンスです♪・・・パート11

それでは、続いては、七夕のお祭りは各地で行われるそうです。参考までに、「星田妙見宮(ほしだみょうけんぐう)」と「機物神社(はたものじんじゃ)」について書いていきたいと思います。

●小松神社 (交野市)について

小松神社(こまつじんじゃ)は大阪府交野市星田に鎮座する神社である。正式名は小松神社である。別名は星田妙見宮(ほしだみょうけんぐう)。

天之御中主大神を主祭神とし、高皇産霊大神・神皇産霊大神を祀る。祭神は、江戸時代までは、仏教では北辰妙見大菩薩、陰陽道では太上神仙鎮宅霊符神であるとされた。

●由来

生駒山系に残る数少ない岩座信仰の霊場のひとつである。

伝承によれば、平安時代、嵯峨天皇の弘仁年間(810~823)に、弘法大師が交野に来たおり、天上より七曜の星が降り、それが地に落ちた三ケ所のうちのひとつがこの地であるという。平安時代には「神禅寺」と称されており、河内長野の天野山金剛寺の古文書には、「嘉承元年(1106年)9月23日 星田神禅寺」との記載がある。明治39年11月、住吉三神を祀る星田神社の境外摂社とされた。

●祭日

・2月8日 星祭り
・7月7日 七夕祭
・7月23日 星降り祭

●アクセス

・西日本旅客鉄道片町線星田駅下車、2.5Km徒歩30分
・JR星田駅、京阪交野市駅より京阪バス17,17A乗車、『妙見口』バス停下車。一の鳥居まで徒歩約15分

●機物神社について

機物神社(はたものじんじゃ)は、大阪府交野市にある神社。七夕に関する伝説で知られる神社である。祭神の天棚機比売大神は織姫にあたる。

●由緒

この神社の創建年代等については不詳であるが、卜部兼倶が奉幣した記録があることから室町時代にはすでに格式ある神社として認識されていたと考えられる。

●境内

・本殿
・拝殿
・前拝殿

●境内社 [編集]

・東宮
・西宮

●参考文献 [編集]

・機物神社由緒略記(社務所にて頒布のもの)

参考までに機物神社では、七夕祭りが行われるそうです。それでは、最後に、機物神社七夕祭り(はたものじんじゃたなばたまつり)について書きたいと思います。

機物神社七夕祭り(はたものじんじゃたなばたまつり)について

2009.07.06(月)~07.07(火)

織姫の原型になったといわれる天棚機比売(あまのたなばたひめ)大神を祭神とする機物(はたもの)神社で行われる七夕の祭り。6日は宵宮、7日が本宮で、七夕飾りで彩られた境内には多数の露店も出る。7日は神輿が繰り出すほか、19時から神事などを執り行う。竹笹に結ばれた短冊は、夜も更けた23時30分から天の川に流される

機物神社七夕祭り データ

会場機物神社 住所大阪府交野市 交通JR津田駅から徒歩15分
ドライブ車でのご来場はご遠慮ください
料金無料
問合せ先072-891-4418(機物神社)

詳しいことはこちらで見ることができます。

http://murata35.chicappa.jp/index.html

参考までに申し上げました。

いかがでしたでしょうか??七夕の起源、いきさつ、物語、お祭りといろいろなことがわかりました。
七夕は、一年に一度、織姫と彦星が逢う大切な時間・・でも、実際の両星は14.8光年も離れているそうです。
でも、織姫と彦星のお話にはロマンを感じますね。

いずれにいたしましても、今日は、「七夕」。皆さんは、どう過ごしますか??

| | コメント (0) | トラックバック (0)

一年に一度のロマンスです♪・・・パート10

七夕に行われるお祭りを書いていますが、仙台の七夕祭りは、旧暦を意識して新暦の月遅の8月7日前後に行われているそうです。
それでは、続いては、その「仙台七夕祭り」について書きたいと思います。

●仙台七夕について

仙台七夕(せんだいたなばた)または仙台七夕まつりとは五節句の1つ「七夕」に因んで宮城県仙台市で毎年行われている年中行事および祭である。地元では「たなばたさん」とも呼ばれる。

●概要

仙台七夕まつりは例年7月7日の月遅れである8月7日を中日として、8月6日から8日の3日間にわたって行われる。大規模な飾り付けがされるのは一番町や中央通りなどのアーケード街、仙台駅周辺などであるが、それ以外の商店街組織ごとの飾り付けや店舗や家庭など個別の飾り付けなど市内各地至るところに小から大まで合計3000本と言われる飾り付けがなされ[1]、街中が七夕一色になる。東北三大祭りの1つに数えられ、例年200万人以上の人が訪れる。

仙台市周辺の自治体各地の商店街などでも同時に大小さまざまな七夕飾りがなされるため、市境を越えて広がりを持つ。また、国内各地の七夕まつりに影響を与えてきたこともあって首都圏などの企業や駅や空港の七夕飾りを作成する業者も存在しており、その豪華な飾り付けが各地に移出され続けている。

●歴史

江戸時代初期、仙台藩祖の伊達政宗が婦女に対する文化向上の目的で七夕を奨励したため当地で盛んな年中行事の1つになったともされるが、詳細は不明のままである。年中行事としての七夕は江戸時代中期頃から全国各地で行われている。1783年(天明3年)には、天明の大飢饉発生による荒廃した世俗の世直しを目的に藩内で盛大に行われた。1873年(明治6年)の新暦採用を境にして年々七夕の風習は廃れ始め、第一次世界大戦後の不景気以降はそれに拍車がかかった。

1927年(昭和2年)、この状況を憂えた商店街の有志らによって大規模に七夕飾りが飾られた。すると、大勢の見物客で商店街は賑わった。翌1928年(昭和3年)には旧暦開催を新暦日付の月遅れ(8月6日・7日・8日)に開催することとし、東北産業博覧会と関連して「飾りつけコンクール」も行われ以降、華麗な飾りつけが発達するようになった。このようにして、「七夕」という庶民の風習は「七夕祭り」という昼間の商店街で行われるイベントへ転換した。しかし、第二次世界大戦の戦局の悪化とともに規模は縮小された。

戦後の1946年(昭和21年)、仙台空襲で焼け野原となった街に52本の竹飾りで仙台七夕は復活した。翌1947年(昭和22年)の昭和天皇巡幸の際、沿道に5000本の竹飾りを並べて大規模な飾りつけの「七夕祭り」が復活した。1949年(昭和24年)には七夕協賛会が発足した。高度経済成長以降は、「東北三大祭り」の1つに数えられたことで日本各地から団体旅行客が集まる祭りへと変化した。1970年(昭和45年)からは「動く七夕パレード」(現「星の宵まつり」)が始まり、夜のイベントが加わった。1983年(昭和58年)からは「夕涼みコンサート」(現「Starlight Explosion」)が始まり、無料の屋外音楽イベントの面も持ち合わせるようになった。

●七夕飾り

仙台七夕では、7種類の七夕飾りが飾れる。それぞれの飾りに意味がある。

・短冊…学問や書の上達を願う。
・紙衣…病や災いの身代わり、または、裁縫の上達を願う。
・折鶴…長寿を願う。
・巾着…富貴と貯蓄、商売繁盛を願う。
・投網…豊漁を願う。
・くずかご…飾り付けを作るとき出た裁ち屑・紙屑を入れる。清潔と倹約を願う。
・吹き流し…織姫の織り糸を象徴する。

この内、吹き流しが現在の飾りつけの中心となっているが他の6種類の飾りも諸所に見られる。吹き流しにはくす玉が付く例が多い。

その他に特徴的な飾りとして、「からくり七夕」がある。これは数体の糸操り人形がのった小型舞台で、一定の動きが自動で繰り返される。また、仙台七夕まつりの初日である8月6日が原爆の日であることから「平和七夕」が行われている。これは全国から寄せられる100万羽もの折鶴から18万羽を5本の吹流しにして飾られるもので、その他の折鶴は花輪状にして観光客に平和のメッセージとともに贈られる[2]。

飾りの設置は、まず商店街内に店舗を構える各事業所が滑車をつけた10m以上の竹を道に埋め込んである専用の差し入れ口に差し込んで立てる。次に滑車に通した紐に吹流しなどの飾り付けをつけ、紐を引っ張って飾り付けを引き上げる。最後に紐を固定する。この方法により、道の中央にアーケードのない一番町四丁目商店街では急に雨が降ってきた場合に吹流しを降ろしてビニールを被せることが出来るようになり、適宜天候に合わせた展示が出来るようになった。また他の全天候型アーケードのある商店街も含め、夜になると一度飾り付けを降ろして折り畳むかビニール袋などに包んで小さくし通行人が触れられないほど高くに引き上げている。これによって、深夜・早朝において飾り付けの破壊行為をされるのを防いでいる。

●七夕花火祭

七夕まつりの前日(8月5日)に花火大会が行われる。雨天の場合は8月9日に順延される。例年1万発を超える花火が打ち上げられており(2007年は1万6000発、2008年も同発を予定)、仙台市や宮城県のみならず他県から50万人以上の見物客が訪れる。

打ち上げ場所は広瀬川沿いの広瀬川仲ノ瀬緑地運動公園(仲の瀬橋西南側の河川敷)であり、西公園を中心に市内各地から見ることが出来る。主催は仙台青年会議所。運営費などは募金で賄われている。

また打ち上げ場所近くにある西公園ではステージが設置され、花火祭当日の午後にゆかたクイーン&キングコンテスト、ミニライブ、花火カウントダウンライブなどのイベントが開催される。ここのステージのカウントダウンで、19:30から花火が打ち上がる。

●付随イベント

仙台七夕には秋田竿燈や青森ねぶたのような熱気はなく従来、飾り付けを見て商店街の七夕セールや露店をひやかすというものであったため、「期待外れでつまらない」という感想を持つ観光客が多いとされる。そのような観光客の不満を解消する目的もあり、以下のような付随イベントが開催されている。

星の宵まつり

定禅寺通りにて、本祭り期間中の17:00~19:30に行われるパレード。以前は「動く七夕パレード」と言っていた。踊りに使用される曲は「七夕おどり」と「星の宵まつりサンバ」。2006年は、conomi(ローカルアイドル)の「CATCH A SHOOTING STAR」が応援ソングとなった(公式・非公式は不明)。人出は3夜合計で15万人以上。

夕涼みコンサート

勾当台公園の野外音楽堂にて行われる無料の音楽イベント。本祭り期間中3日間連続で昼から夜まで続き、人出は20万人以上に上る。2007年で第24回目の開催。近年は「Date fm スターライト・エクスプロージョン」[3]という名称が使われている。詳細は夕涼みコンサートを参照。

七夕ヴィレッジ

勾当台公園の時の広場(円形公園)の出店ブースおよびステージの総称。本祭り期間中3日間連続で昼から夜まで開催される。ステージでは、ラジオ3主催の公開録音やミニライブなど各種イベントが行われる。

瑞鳳殿七夕ナイト

伊達政宗らの霊廟である瑞鳳殿において開催されるイルミネーションイベント。瑞鳳殿の参道から境内まで、竹灯籠が点される。

●作品の舞台として

仙台七夕がドラマ、映画、小説の舞台となったもの

『新日本珍道中』(1958年、映画)
『東北四大祭り殺人事件』(1998年、小説・2時間ドラマ。小林久三作)
『天花』(2004年、NHK朝の連続テレビ小説)
『千の風になって (映画)』(2004年、映画)
『東北三大祭り殺人事件』(2004年、小説。木谷恭介作)
『星に願いを~償い』(待機作、映画)

●仙台から他地域へ

仙台以外で開催される「仙台七夕」を冠したイベントとして、「サンパウロ仙台七夕祭り」がある。1979年(昭和54年)からブラジル・サンパウロ市中心部のリベルダージ地区で始まり、現在はサンパウロ市のイベントカレンダーに載るほどの規模になっている。例年7月下旬から8月上旬の開催である。またブラジル各都市にも広がりを見せ、南半球にあるブラジルにとっては「冬の風物詩」として定着している[4][5]。

またフランスのパリ市では「仙台七夕まつり IN パリ」[6][7]が行われるなど仙台市のシティセールスでも用いられている。その他、仙台市が海外での七夕普及も行っており、仙台七夕国際交流実行委員会(市民組織)などが各国での七夕飾り付けを行っている。

日本国内においても2007年(平成19年)に仙台七夕で使用された七夕飾りが鹿児島県鹿児島市に運ばれ、同市の中心部商店街である天文館の11の通りに計90個飾り付けられ「奥州仙台夏飾り[8]」が開催された。さらに同県薩摩川内市の中心部商店街にも仙台七夕の飾りを5体寄贈し、仙台の七夕工房の職人が薩摩川内に赴いて七夕飾りの作り方を指導した。仙台七夕の飾りは川内花火大会(2007年(平成19年)8月16日)の際に飾られた。また2008年(平成20年)からは、薩摩川内市民が作る仙台式と川内式の双方の七夕飾りが「川内七夕まつり」で飾られる。

●余録

・仙台七夕のテーマソングは決まっていないが、本祭り前から期間中にかけて福耳の『星のかけらを探しに行こう Again』が(特にDate fmで)よく流れる。また島倉千代子の『七夕おどり』も会場内では今でもよく流れる。
・地元の暴走族がいわゆる七夕暴走と呼ばれる期間限定の暴走行為を行うことがある。基本的に祭り期間中の夜に郊外から広瀬通りを目標にやって来るのだが、仙台市都心部に入る前に警察が検挙してしまうこともあり毎年広瀬通りに至るわけではない。
・直接の関係はないが、7月の中旬には青森県八戸市でも「八戸七夕祭り」がある(仙台七夕以前にはいろんな地区で七夕祭りが行われたりする)。
・「本祭り期間中、一度は雨が降る」というジンクスがある。
・実際、2007年は3日間とも雨が降った。

●交通

8月初旬は東北三大祭りなどを巡る観光バスが日本各地から東北地方に集まってくるため、一般道路及び各公共交通機関は非常に混雑する。仙台七夕開催期間中はそれらが仙台に集中するため、観光バスに限って一時的に路上駐車禁止が解除される区間やその他の交通規制が敷かれる。また、JRや仙台市交通局が祭り期間中に列車やバスの臨時便を運行している。

都心部への鉄道によるアクセスには、次の駅が最寄駅となる。

・JR東日本:あおば通駅・仙台駅
・仙台市地下鉄南北線:仙台駅・広瀬通駅・勾当台公園駅

●脚注

1. 周辺部七夕バスツアー(仙台七夕まつり イベント情報)
2.第32回目 平和七夕(みやぎ生活協同組合)
3.MJQ WEDDING presents Date fm STARLIGHT EXPLOSION '07
4. ブラジル宮城県人会館新会館が完成しました(仙台市)
5. エッセイ5 「異国に定着した七夕祭り」(JICA東北)
6.仙台NEW
7. 「仙台七夕まつり・INパリ」の開催状況等について(仙台市)
8. 奥州仙台夏飾り

●関連項目

・七夕
・仙台市
・楽都仙台
・ベガルタ仙台
・SENDAI光のページェント(仙台の「星祭り」の双璧)

詳しくは、こちらで見ることができます。あくまでも、参考までです。

http://www.sendaitanabata.com/index.html

| | コメント (0) | トラックバック (0)

一年に一度のロマンスです♪・・・パート9

続いては、秋田市の竿燈(かんとう)です。

●竿燈について

竿燈(かんとう)は、毎年8月3日~6日に秋田県秋田市で行われる祭り。竿燈全体を稲穂に、連なる提灯を米俵に見立て、額・腰・肩などにのせ、豊作を祈る。大若(おおわか)は提灯が46個、重さが約50kg。

重要無形民俗文化財に指定されており、青森のねぶた祭り、仙台の七夕まつりと並んで東北三大祭りの1つとされる。

●歴史・概要

・ねぶり流し行事として行われている竿燈であるが、宝暦年間には原型があったといわれている。
五穀豊饒や除災、技芸上達を願って、旧暦の7月7日にあわせて行われる七夕行事とともに、旧暦7月15日のお盆を迎え入れるために一連の行事として現在の形になったとも言われている。
大きさや重さは、次の通り。
大若(大人用)で重さ50kg、長さが12m、提灯の数が46個と非常に重い。
・小若(小学生高学年~中高生用)で重さ15kg、長さが7m、提灯の数が24個である。女性が両手で持つのは厳しい重さである。
・幼若(小学生低学年以下用)で、重さ5kg、長さが5m、提灯の数が24個。こちらは大人なら誰でも持てそうな重さ。
・上記の若を、差し手が流しから平手、額、肩、腰などにのせてバランスをとり、上達してくると、扇子を仰ぎながら行っているのも見られる。
・人によっては、顎にのせる人がいたり、町内によっては「鳩」を仕掛けたりとユニークなものもある(纏)。

・提灯の絵柄は、「兎の餅つき」の図柄で「上米町一丁目」という様に絵とその町内の文字などで分かることが多い。
提灯には、雨によって貼った和紙が溶けないように、油が表面に塗られており、堤燈台も倒れたときのために、下部が両脇に空気を通すための穴がある。

・今では、殆どが1町内に1つのスポンサーが入り竿燈が行われている。
・開催場所は秋田県道26号秋田停車場線の竿燈大通り(かんとうおおどおり)といわれている「二丁目橋」交差点~「山王十字路」の区間。ここに、約200近くの企業や学校などが参加し、終了時間近く(20:30(JST)ころ)には「ふれあい竿燈」のコーナーがあり体験できる。期間外でも「ねぶり流し館」に行けば竿燈の歴史や体験もできる。竿燈の明かりは電球ではなくすべて火をともしたロウソクであり、強風であおられたり演技失敗により倒れるなどした場合消えたり、ごく稀に燃え上がる事がある。観覧席付近は倒れても被害が出ないようロープを張るなどしているので安全は確保されている。
途中、秋田中央道路(秋田都市計画道路1・4・2号)の出口(山王ランプ)もこの付近にあり、7月下旬~8月9日までの18:00~21:30頃閉鎖する予定。
以前は、秋田市役所前(現在の秋田中央警察署付近)や、広小路でも行われており、本数が多くなるにつれて、場所が変更になった経緯がある。

・8月4日~6日の日中には別の会場(2007年現在は、中土橋)で『妙技会』が行われており、差し手の技を見ることも出来、成績が発表され、各町内会の腕が競われている。
・雨天時は、秋田市八橋の「秋田市立体育館」で本数は限られるが行われる。
・近年では、出張竿燈(臨時出竿)を開催しており、海外でも竿燈が上げられている風景が見られる。

・鳥取県米子市で1973年から行われている「がいな祭り」のうちの「がいな万灯」(1989年から)は、「米子竿灯(のちに万灯(=まんとう))」と名乗っている。これは、自衛隊米子駐屯地が秋田駐屯地の研修の一環として参加し、それをお土産として中心になって勝手に始めたものであるため、秋田の竿燈会が存在を知り抗議を行い、念書として「海外公演をしない」などの制約をした条件で、現在もなお続けられているものである。[

・2000年までは8月4日~7日の日程で開催されていたが、東北地方の他の祭と日程が重なりやすく、主催者にとっては観光客の減少が悩みで、観光客にとっては他の祭との移動に悩んでいた。このため2001年から1日前倒しして、現在の日程となった。

・平成20年度の高円宮殿下記念地域伝統芸能賞大賞を、秋田市竿灯会が受賞した。これに伴い、2008年10月12日(日)に、さいたまスーパーアリーナで実施された「日本のまつり・The MATSURIサミット」(咲いたまつりと同時開催)で妙技が行われた。また、そのプレイベントとして、前日の2008年10月11日(土)には、浦和パルコ前で妙技が行われた。

●竿燈妙技会

戦後に、竿燈の技術を保存させるために開催された。

直径6mの円の中で、基本演技が忠実かつ安定しているかを競う。
メーンとされている、夜竿燈よりも差し手は気合が入っており、「保戸野鉄砲町竿燈会」は4連覇を2回制し、いまだにこれを超える竿燈会は存在しない。
また妙技会個人戦では室町竿燈会が最多5人の現役チャンピオンを輩出している。

●アクセス

★鉄道 [編集]

竿燈大通りまで

・JR奥羽本線(秋田新幹線)秋田駅西口から徒歩10分。

竿燈妙技会会場まで

・同駅西口から徒歩15分。

★道路

・秋田自動車道経由
・秋田南ICから国道13号で10分、「茨島交差点」を右折(秋田市街方面へ)。秋田県道56号秋田天王線で、「山王十字路」で右折して、秋田県道26号秋田停車場線の「二丁目橋」までの間の区間。
・秋田中央ICから秋田県道62号秋田北野田線を進み、「城東十字路」を右折。秋田県道28号秋田岩見船岡線交点を左折。秋田県道26号秋田停車場線の交点を右折し、道なりに進むと二丁目橋向から西側が会場となる。
・2008年から秋田中央ICから秋田県道62号秋田北野田線・秋田中央道路「旭北ランプ」出口。各駐車場へ。 秋田中央道路は、「駅東出入口は18:00」「旭北出入り口は18:15」から開放時まで全区間閉鎖。

★秋田空港から

・秋田空港からリムジンバスに乗って、北都銀行前か、交通公社前下車(所要:50分)。

★秋田港から

・フェリーターミナルから路線バスで「山王十字路」「大町二丁目」「交通公社前」のどちらかで下車。
・車で、国道7号経由(臨海十字路・県庁前経由)で20分程度

●関連項目

・秋田県道26号線
・秋田放送 - 毎年、スポンサー竿燈としてアナウンサーが参加している。
・秋田テレビ - 2007年に参加。
・NHK秋田放送局 - 開始年不明であるが、参加している。
・がいな祭り

●脚注

1.山陰中央日報08年5月22日付より
2.秋田魁新報08年5月18日付より

竿燈についての詳しいことは、こちらで見ることができます。

http://www.kantou.gr.jp/index.htm

参考までに申し上げました、ご了承下さいませ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

一年に一度のロマンスです♪・・・パート8

続いては、弘前ねぷたについてです。

●弘前ねぷたについて

弘前ねぷた(ひろさきねぷた)は、青森県弘前市で開催される弘前四大まつりのひとつである夏祭り。

大勢の市民が「ヤーヤドー」の掛け声とともに、武者人形や武者絵が描かれた山車を引いて市内を練り歩く。 扇ねぷた(扇型)と組ねぷた(人形型)をあわせると約80台ものねぷたが運行される。

昭和55年(1980年)には国の重要無形民俗文化財に指定された。

●起源・歴史

ねぷたまつりの由来はさまざまあるが、

・(伝説)平安時代の初期、征夷大将軍・坂上田村麻呂が、敵をおびき出すために大きな人形を作った。
・(伝承)文禄2年(1593年)7月に藩祖為信が京都滞在中に盂蘭盆会で二間四方の大燈籠を出した。
・(定説)江戸時代元禄期の後半からの「七夕祭りの松明流し・精霊流し・眠り流し」や「盆灯籠」などが融合変化し、現在の華麗なねぷた発展してきた。
語源は、「眠り流し」→「ねむた流し」→「ねむた」→「ねぷた(ねぶた)」と転訛。(表記は佞武多、禰ふたと様々ある) 「眠り流し」は日本各地で行われている。農作業の激しい夏期に襲ってくる睡魔を追い払うための行事として、厄災・邪悪を水に流して村の外に送り出す行事のひとつ。

士族の子供らが作り練り歩くねぷたでは、他の町会と出くわすと相手のねぷたに石を投げつけるなど喧嘩したため、何度も「ねぷた禁止令」が出されたことがある。これを「けんかねぷた」という。 (その名残が「石打無用」という言葉になってねぷたの肩部分などに記されているものもある)

●開催状況

・例年8月1日から7日にかけて行われる。最終日7日(午前運行)のことを「なぬか日」と呼ぶ。
・企業主催のねぷたは少なく、町会・集落単位でのねぷたが多かったが、近年は任意に仲間たちが集まって参加しているグループねぷたが増加傾向にある。それゆえここ10年で10数団体増えており、2008年は81団体の参加となった。

弘前市の友好姉妹都市である、群馬県太田市(旧・新田郡尾島町、8月14,15日)と北海道斜里郡斜里町(7月中下旬)でもねぷた運行がされており、弘前ねぷたまつりに特別参加する年もある。

・期間中、1日平均約50団体が参加するが、土・日などの開催日には参加団体が多い場合がある。平成18年(2006年)の場合、木曜日の8月3日に59団体、土曜日の5日には62団体と集中したため、両日は出発時間を30分早い、午後6時半からとした。また、平成20年(2008年)には、日曜日の8月3日に63団体、駅前運行初日の5日には61団体が参加している

●参加団体数と人出(まつり本部集計)

開催年 参加団体数 人出
1965年(昭和40年) 87団体 
1966年(昭和41年) 35団体 
1967年(昭和42年) 44団体 
1968年(昭和43年) 76団体 
1969年(昭和44年) 43団体 
1970年(昭和45年) 47団体 
1971年(昭和46年) 67団体 
1972年(昭和47年) 61団体 
1973年(昭和48年) 40団体 
1974年(昭和49年) 37団体 
1975年(昭和50年) 51団体 
1976年(昭和51年) 59団体 
1977年(昭和52年) 67団体 
1978年(昭和53年) 67団体 
1979年(昭和54年) 67団体 
1980年(昭和55年) 61団体 
1981年(昭和56年) 64団体 
1982年(昭和57年) 58団体 
1983年(昭和58年) 64団体 
1984年(昭和59年) 63団体 
1985年(昭和60年) 64団体 
1986年(昭和61年) 60団体 
1987年(昭和62年) 60団体 
1988年(昭和63年) 61団体 
1989年(平成元年) 67団体 
1990年(平成2年) 64団体 
1991年(平成3年) 61団体 
1992年(平成4年) 59団体 
1993年(平成5年) 62団体 
1994年(平成6年) 63団体 
1995年(平成7年) 65団体 
1996年(平成8年) 68団体 
1997年(平成9年) 65団体 
1998年(平成10年) 64団体 
1999年(平成11年) 67団体 
2000年(平成12年) 66団体 
2001年(平成13年) 68団体(大型扇:52団体、大型組:6団体、小型扇:9団体、担ぎ:1団体) 136万人
2002年(平成14年) 68団体(大型扇:50団体、大型組:7団体、小型扇:9団体、担ぎ:2団体) 148万人
2003年(平成15年) 69団体(大型扇:51団体、大型組:7団体、小型扇:10団体、担ぎ:1団体) 173万人
2004年(平成16年) 75団体(大型扇:51団体、大型組:7団体、小型扇:15団体、担ぎ:2団体) 161万人
2005年(平成17年) 74団体(大型扇:53団体、大型組:7団体、小型扇:13団体、担ぎ:1団体) 144万人
2006年(平成18年) 75団体(大型扇:56団体、大型組:6団体、小型扇:12団体、担ぎ:1団体) 166万人
2007年(平成19年) 78団体(大型扇:58団体、大型組:7団体、小型扇:12団体、担ぎ:1団体) 168万人
2008年(平成20年) 81団体(大型扇:59団体、大型組:6団体、小型扇:15団体、担ぎ:1団体) 169万人

●運行コース

・8月1日~4日 土手町コース(午後7時運行開始)
・8月5日~6日 駅前コース (午後7時運行開始)
・8月7日    土手町コース(午前10時運行開始)

●ねぷたに使われる題材・構造

・表面の鏡絵や人形の部分では、三国志、水滸伝、津軽為信などがあるが、世相を風刺したものも登場する。裏面中央の見送り絵には虞美人のような女性、左右には袖絵が描かれる。表面と裏面の絵をつなぐ真横の部分は肩と呼ばれ、町内会・団体名などが書かれる。鏡絵や人形の下にある三角形(台形)の開きと呼ばれる部分はねぷたを支える受け皿の役割をしており、弘前藩の家紋である牡丹の花が描かれる。開きの下にある(四角形)の額の正面には天の川を意味する「雲漢」と書かれる。左面・右面・後面には武将の絵が描かれ、左・右面の絵の武将の眼は進行方向を向いている。使用される紙は「ねぷた和紙」等のロール状の紙が用いられる。

●弘前ねぷたの運行

1団体につき、先頭に町内会名や団体名を記した前灯籠・町印、その次に大型ねぷたの前座である前ねぷた(角灯籠や小型ねぷた)、ねぷた本体につないだ綱を引く曳き手、そして大型ねぷた(扇や組)、太鼓・笛などの囃子方という順番で運行されるのが一般的である。 ねぷた囃子は、進行・休み・戻りの3種類がある。掛け声は、進行がヤーヤドー、戻りがねーぷたーのもんどりこ、ヤーレヤレヤーレヤー。 変わったものとしては、津軽じょっぱり太鼓とよばれる1車線半ほどの幅を持つ太鼓を運行している。 弘前ねぷたと同様のまつりで比較的大きなものとしては黒石ねぷたが、7月30日から行われている。

また、弘前高校のように文化祭(弘高祭)時に各ホームルーム単位で弘前市内を運行する弘高ねぷたや保育園・幼稚園、小・中学校の行事で園内・校内を運行するなど学校単位で運行する場合もある。

また現在では会員の高齢化や後継者不足、財政不況、少子化による参加者不足等の理由であまり見られなくなったが、集落内で組織をつくりその集落を運行するねぷた(『村ねぷた』と呼ばれる)など、集落の祭りとして価値も高い。 現在もごく僅かではあるが、合同運行には参加せず近隣集落や町内を回る『村ねぷた』は存在し、20年以上続いている団体もある。

友好姉妹都市との交流で運行していたものが、地域の祭りとして変化したものもあり、太田市尾島地区(旧・尾島町)では、尾島ねぷたとして当地で運行されており、毎年8月14日・15日に開催され、弘前市も参加している。また、斜里町では、しれとこ斜里ねぷたとして毎年7月21・22日に開催され、大小約15台の扇ねぷたが町内約2.5kmを運行している。

●青森ねぶたとの違い

・弘前のねぷたが「neputa」であるのに対し、青森のねぶたは、「nebuta」と発音が違うが、これは昭和55年(1980年)の国の重要無形民俗文化財に指定されてから。

・弘前ねぷたは1日開始なのに対し、青森ねぶたは2日開始であるのは、弘前は「出陣」で、青森は「凱旋」であるためで、順序は青森が弘前の後になる、と言われている。(この、弘前は出陣、青森は凱旋というのは近代になってからの祭りのイメージであって、祭りとはまったく関係無い)

・形状としては、弘前は扇型が主体で、青森は人形の灯籠となるが、弘前のねぷたでも人形(組ねぷた)のものが相当数の割合で見られる。また、弘前の組ねぷたの場合、見送り絵と開きの部分がある。かつては弘前も組ねぷたが多かった。

・運行区間が城下町特有の道路の狭さゆえに、おおむね、幅は1車線分か2車線分しか取れない。また、電線に引っかからないように、扇ねぷたでは、扇の最も高い部分である、ためと呼ばれる部分を外側に折り曲げたり、扇部分を上下に可動するようにして運行出来るようにしている。さしまたと呼ばれる電線を持ち上げる道具も使用される。

●弘前四大まつり

・弘前さくらまつり(4月下旬~5月上旬)
・弘前ねぷたまつり(8月1日~7日)
・弘前城菊と紅葉まつり(10月中旬~11月上旬)
・弘前城雪燈籠まつり(2月中旬)

●関連事項

・ねぶた
・尾島ねぷた(太田市、(旧:新田郡尾島町))
・しれとこ斜里ねぷた(斜里郡斜里町)
・黒石ねぷた(黒石市)
・青森ねぶた(青森市)
・五所川原立佞武多(五所川原市)
・大湊ネブタ(むつ市)
・ローソクもらい

こちらのねぷたについて詳しいことは、こちらで見ることができます。

http://www.hirosaki.co.jp/

参考までです。ご了承ください。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

一年に一度のロマンスです♪・・・パート7

先ほどは、平安時代の歌人・在原業平について書きました。その中で、七夕には各地で日本古来の七夕祭りが行われるそうです。
それでは、続いては、その七夕祭りについて書いていきたいと思います。
青森市の「ねぶた」。弘前市の「ねぷた」、秋田市の「竿灯(かんとう)」と順に書いていきたいと思います。

まずは、青森市の「ねぶた」です。

●青森ねぶたについて

青森ねぶた(あおもりねぶた)、または、青森ねぶた祭(あおもりねぶたまつり)は、青森県青森市で、8月2日~8月7日まで開催される夏祭りである。毎年、延べ300万人以上の観光客が訪れる。ねぶた祭の中では最も観光客を集めており、東北三大祭りの一つに数えられる。青森ねぶた祭に関する資料等を有する、「青森自然公園 ねぶたの里」内の「ねぶた会館」には、享保年間(1716年~1735年)の頃に、現在の青森市油川で、ねぶた祭が行われたと記録されている。1788年に、江戸定府藩士が記した「奥民図彙」と言う図版では、京都・祇園祭の山車に似たねぶたが描かれ、人が山車を曳く様式が確認できる。1800年初頭に、人を模った人形型ねぶたが登場し、人が山車を曳くねぶたの他、ねぶたを台座に置き、担ぐ形式も登場するようになり、その後、ねぶた祭は、青森県内の各地で独自の発展を遂げて行く。また、市制施行60周年を迎えた、1958年に「青森ねぶた祭」と正式に命名され、1980年には、国の重要無形民俗文化財に指定された。

実際の祭りでは、囃子方、ハネト、ねぶたを先導する扇子持、ねぶたを動かす曵き手と言う順番に、22~23の団体がねぶたを中心に、町内を練り歩く形式で行われる。ハネトは「跳ね人」が由来とされ、独特の衣装を纏った「ハネト」と呼ばれる踊り手が、「ラッセラー」と言う掛け声と共に、跳ねる様に舞うのが特徴。そのハネトを躍らせ、ねぶたを生き物の様に舞わせるのが囃子方である。囃子方は、明治初期に「正調囃子」を復興させる活動が実行に移され、現在は凱立会と言う組織が中心となって、講習会等を行っている。凱立会は、祭りでは独立した囃子方として参加するが、普段は、正調囃子の普及と、楽器演奏の技術力向上に努めている。

●起源・歴史

以前、起源としてよく知られていたのは、のちに征夷大将軍となる坂上田村麻呂が陸奥国の蝦夷征討(三十八年戦争・第3期)の戦場において、敵を油断させておびき寄せるために、大蟷螂・笛・太鼓ではやし立てたことを由来とするものである。このため、青森ねぶた祭りの最優秀団体に与えられる賞として、1962年に「田村麿賞」が制定された(現在では「ねぶた大賞」と名称変更されている。後述)。しかし、田村麻呂が現在の青森県の地で征討活動をしたとは考えられず、ねぶたの起源とされたものも田村麻呂伝説の一つと見られる。現在では、日本全国にある土着の七夕祭りや眠り流しの行事(禊祓い)が変化したものと考えるのが主流である。

このほかにも「ねぶた」という言葉の語源から推察した仮説も存在する。 かつて東北に追われた原住民であった蝦夷を組織化し、征東大将軍紀古佐美の率いる五万の大軍を北上川で全滅させ、鉄武器を奪って田子の浦まで攻め込んだ阿弖流為という王が東北にはいた。その後、大陸の援助で鉄武器を大量に補給された坂上田村麻呂らと12年に渡って戦ったが、最後には制圧されて蝦夷は滅びた。 阿弖流為は今の大阪府の杜山まで連行され朝廷に謁見後、斬首、さらし首にされたが、東北に残っていた妻子や残党は、大きな穴を掘らされて生きながら埋められ惨殺されたとされている。その生き埋めの上に土をかけ、その土を素直に降伏し奴隷となった者らに踏みつけさせた。これが今の東北三大奇祭のねぶた(根蓋)の起こりであるとされている。 つまり『根』(死)の国へ追いやるための土かぶせの『蓋』ということである。踏んづける恰好をする踊りに坂上田村麻呂の山車を担ぎ踊る様は、その時のエピソードを表現しているとされている。

藩政時代や明治時代、特に明治時代には、大型の灯籠を担いで町中を練り歩く行為に対し、しばしば禁止令が出された。戦時中も禁止されたが、戦況が悪化した1944年には、戦意高揚の為に解禁されている。戦後は企業がねぶた運行の主体となり、観光の側面が強くなるようになった。人形型ねぶたは、元々は竹を曲げて骨組みを作り、指等の細かい部分は、その上に貼った和紙に筆で描いていた。昭和30年代に、北川啓三氏(後に、ねぶたの神様)と評されるねぶた師が、針金を用いて指を1本づつ作ったり、複雑な造作のねぶたを作ったことによって、ねぶた界に革命が起こる。針金が登場した当時、一部では反発があったと言われている。

北川氏によって、ロウソクだった内部の明かりを蛍光灯に替え、台座にバッテリーを乗せ、明るく輝くねぶたを作ることに成功し、より芸術性と完成度を高め、後に「ねぶたの神様」と評される。北川氏は既に他界しているが、現在の主流となっているねぶたの磯は、北川氏が築いたと言える。ねぶた作りは、1,主題の決定、2,設計図となる下絵作り、3,パーツとなる細部の製作、4,パーツ類を配置する為の骨組み、5,明かりを灯す為の電気配線、6,針金の表面を覆う紙貼り、7,紙の上に黒いフチや線を描く書割、8,着色時の色の混濁を防ぐロウ書き、9,白地に彩色する色付け、10,持ち上げて台座に設置する台上げと言う、これらの10の工程を経て完成する。この長い工程の内、立体になる前段階の作業が最重要だと言う。現在では最大サイズとして、幅9m,奥行き7m,高さ5mと言う規定がある。

●題材

神仏、日本や中国の伝説、歴史上の人物、歌舞伎などを題材にすることが多いが、近年では地元の伝説や偉人、テレビ番組(特にNHK・大河ドラマ)などを題材にすることもある。

●開催状況

毎年8月2~7日まで開催される。このうち8月2~6日が夜間運行である。7日は昼間運行であるが、夜に海上運行と花火大会が催される。

青森のねぶたには大型ねぶた、子供ねぶた、地域ねぶたがある。子供ねぶた、地域ねぶたは主に町内会が主流となって運行するねぶたであり、大きさも普通の大型ねぶたより一回り小さい。子供ねぶたは8月2・3日の二日間運行される。大型ねぶたは開催期中必ず運行されるが、奨励金の関係か2日と3日は大型ねぶたの運行台数が少ない。

●青森市以外のねぶた・ねぷた

★青森ねぶたの遠征

恒例となっているもの太字

・「函館いか踊り」への参加
「青函ツインシティ交流」を結んでいる北海道函館市の「函館いか踊り」との間で、隔年で「ねぶた」と「いか踊り」の相互派遣が行われている。2006年は8月7日のねぶた昼間運行の先頭に「いか踊り」が登場し、2007年は函館に「ねぶた」が派遣された。
・「センター街ねぶたまつり」
2005年より、毎年9月に東京都渋谷区・渋谷センター街で開催。

現時点で単発開催のもの太字

・2005年9月 韓国ソウル特別市鐘路区大学路(日韓友情年)
・2007年8月 アメリカ合衆国ロサンゼルス市リトルトーキョー「二世週日本祭」に参加(米本土初)

★各地のねぶた

詳細は「ねぶた#各地のねぶた一覧」を参照

青森県内では、大小さまざまなねぶた・ねぷたが、合わせて約30市町村で作られている。以下は主なもの

・弘前ねぷた - 弘前市
・立佞武多 - 五所川原市
・黒石ねぷた - 黒石市
・大湊ネブタ - むつ市大湊地区

青森県外では、ねぶたが祭りの一部に組み込まれている例が見られる。

●運行コース

青森市内の国道4号、新町通り、県庁通り、平和公園通りで囲まれたエリアが運行コースとなる。

かつては(1982年まで)国道4号線県庁通り交差点から1台ずつ出発し、コースを右回りで回っていた。しかし、祭りが佳境にはいったころ車幅の狭い新町通りにねぶたが入り、ハネトで通りが一杯になり、ねぶたがいつまでたっても前に進めないという問題点が指摘された。このため1983年に左周りにコースが改められた。

その後(1992年に)ねぶた団地(ねぶたの車両基地のようなところ)が観光物産館付近のラッセランドに移されスタート地点が新町通りと柳町通り付近の交差点となった。

しかし、祭りが高潮するとハネトであふれかえるためゴール地点は常に渋滞し、祭りそのものがなかなか終了しないという問題は相変わらずであった。ねぶた祭りは青森市内の幹線道路を2本も通行止めにするので、時間通りに祭りが終了しないと市民生活に与える影響も大きい。またこの頃から、増大するカラス族(後述)の問題が無視できなくなってきた。祭りがだらだらと運行されると、カラス族が最後尾に集合し、祭りそのものが、彼らの格好の餌食にされてしまう。

そこで、2001年にはあらかじめねぶたを配置し、花火の合図で同時にスタートし花火の合図で同時に終了するという手法に改められ、コースも右周りとなった。これにより、ねぶたの列の始めと終わりがなくなり、運行もスムーズになった。また、祭りを破壊しに来るカラス族を少なくさせることにも成功した。

一方で、花火の合図と同時に最高潮にある祭りが蜘蛛の子を散らすように終了するのは見ていて寂しいものがある。

なお最終日の7日に限り、現在でもねぶたが1台ずつ出発している(吹き流し)。

●ねぶた祭りへの参加

ねぶたの運行に関して基本的な運営(ねぶたの隊列、山車の運行、囃子方)は各出陣団体によって賄われる。それ以外の重要なファクターとしてねぶたをロープで引っ張る子供(現在は形式だけで実際に引く団体は稀)、ハネトがある。特にハネトに関しては正式な装束をまとってさえいればどの団体のねぶたに参加しても自由である。居住地に関しての制限も無い。一般の観光客が参加しても構わない。衣装は県内のスーパーやデパートなどで花笠を除いて一式5000円程度で販売されている。また、ねぶたの運行ルート上には衣装のレンタルを行っている所もある。こういった所では衣装の着付けもしてくれるので気軽にハネトとして参加することができる。

●ねぶた大賞

最優秀のねぶた運営団体には「平成○年ねぶた大賞」(○にはその年度の数字が入る)が贈られる[1]。

また、この賞は1962年より「田村麿賞」の名称で制定されたが、坂上田村麻呂は東北地方から見れば征服者であるという見解により「賞名に征服者の名前を使うのはおかしい」という批判もあり、各界各層の意見や世論を踏まえた結果として、1995年より現在の賞名に変更された。

●「カラス族」問題

カラス族(カラスハネト)とは、ねぶた祭りで傍若無人な振る舞いをする者達である。彼らは、ハネトの正式な衣装ではなく、黒装束などの衣装でねぶたに参加し、それがカラスのように見えると言うことで「カラス族」または単に「カラス」と呼ばれるようになった。

「カラスハネト」とも言われるが、彼らの振るまいは祭りにそぐわないもので、そもそも「ハネト」の名に値しないとして、地元メディアでは、「カラス族」として表現されることが多い。徒歩暴走族の分類とされる。

カラス族は1986年あたりからねぶた祭りに現れ始めたといわれる。当初はそれほど問題視されてはいなかったが、平成に入ると暴走族などがグループの中心となるようになり、次第に悪質凶悪な集団となっていった。この問題はしばしばマスコミ等で取り上げられたが、それがかえって全国からカラス族の集団を呼び集める「逆効果」を引き起こすこととなった。 青森市にとってねぶた祭りは貴重な観光資源であり、祭りの安全かつ正常な運営は避けて通るわけにはいかない。そこで、青森市など主催者側はカラス族を監視、統制するためにカラス族を一か所にまとめてねぶたを運行するという対策を1996年に行った。しかし、この対策はカラス族を肯定することとなり、逆にカラス族を増長させるという結果になった。

この危険な集団は2000年には1万人にも増え、仲間同士の抗争、観客や警察への暴行と凶行がエスカレートし、もはや正常な祭りとは言えないような状況になった。

そこで主催者側は2001年、ねぶたの一斉スタート、一斉終了という作戦を導入した。同年、県も迷惑行為等防止条例を施行し、事件にならなければ手が出せなかった警察も事件が起きる前に摘発、排除できるようにした。結果、祭りとしては盛り上がりに欠けるものになったが、カラス族対策には効果があり、事件の件数は激減した(五所川原に移動しただけとの見方もある)。しかし特に以前の祭の盛り上がりを懐かしむ人の間ではこれに反対する声も根強い。

現在ではねぶた祭りの治安はかなりよくなっている。これも、市、警察、ボランティアの人々の努力の賜物である。

近年では正装であるたすきをかけずに祭りに参加する女性が増加している。カラス族が減少している今、第二のカラス族とも言うべき、たすきをかけずに、まるで振袖のような格好の「クリオネ族」なるものも登場している。いずれにせよ、祭りに参加する者のモラルの低下が見受けられる。

暴走族を「珍走団」と呼ぶことで格好の悪いイメージを持たせるのと同様に、カラス族にも格好の悪い名称を付けることが期待されている。

●ねぶたが出た映画

・「トラック野郎 御意見無用」(1975年)東映{舞台 東北}

●その他

・北海道の七夕には、青森県のねぶたが伝播・変化して根付いた「ローソクもらい」という子供たちの行事がある。

脚注

1.各賞紹介(青森ねぶた祭オフィシャルサイト)

●関連項目

・夏祭り
・東北三大祭り
・弘前ねぷた
・五所川原立佞武多
・黒石ねぷた
・大湊ネブタ
・カラスハネト

ねぶたについてはこちらでご覧になることができます。

http://www.nebuta.or.jp/

参考までです。ご了承ください。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

一年に一度のロマンスです♪・・・パート6

先ほどは、旧暦について書きました。今度は、平安時代の歌人、在原業平は七夕について歌を残しています。

在原 業平(ありわら の なりひら、天長2年(825年) - 元慶4年5月28日(880年7月9日))は、平安時代初期の貴族。従四位上・蔵人頭・右中将。歌人であり、六歌仙、三十六歌仙のひとり。また『伊勢物語』の主人公とみなされています。

それでは、続いては在原業平と七夕について書いていきたいと思います。

★在原業平と七夕について

七夕に水を使う風習は日本固有のものですが、それはお盆の前に清める機織女儀礼に由来します。現在も各地で七夕船や七夕竹を作って川に流したり、水浴びをしたり、牛や馬を川に洗うといった水に関わる慣習が、農村を中心に数多く残されています。
また、青森市の「ねぶた」。弘前市の「ねぷた」、秋田市の「竿灯(かんとう)」は、名前から想像しにくいですが、実は、これらもすべて日本古来の七夕祭り、つまり、機織女儀礼に起源を持ちます。「ねぶた」「ねぷた」とは、「眠り流し」を語源として、祓のために、形代(かたしろ)(紙で作った人形(ひとがた)を川に流す神送り行事が厳しい農作業の妨げとなる夏の眠気を追い払う行事として発展したものです。こうした「眠り流し」の行事は、富山県をはじめ全国各地でも見られます。

一方、町全体が七夕伝説で彩られた場所もあります。こちらは「機織」ではなく、ロマンチックな星伝説の方です。それぞれが、大阪府枚方市(ひらかたし)から交野市(かたのし)にかけて広がる交野が原を流れる、その名も「天野川」(あまのがわ)です。この川は、生駒山地田原を源流に北へ流れ、淀川に注ぎます。上流にあった風化花崗岩(かこうがん)が流れたため、かつての川原は白砂で白く覆われていました。それが銀河系の「天の川」」を彷彿とさせ、この名がつけられたといいます。また、この川には仙女が水浴びに降りてきたという伝説があって、天上の神が地上を訪れる際の道になった川とされています。そのためか、桓武天皇(かんむてんのう)など多くの宮廷人が訪れ、美しい七夕伝説のイメージをこの地に見出したとされています。

『伊勢物語』によると、平安時代の歌人・在原業平(ありわらのなりひら)も、狩りでこの地を訪れた際、七夕伝説の機織女(織女)と天野川にちなみ「狩暮らし 棚機津女に宿からむ 天の河原に われは来にけり」(狩りをして日が暮れてしまったので、今夜は織姫_(おりひめ)の家に泊まろう。天の川辺に来てしまったのだから」という歌を残しています。
天野川に架かる橋には、「鵲(かささぎ)橋」「天津(あまづ)橋」「逢瀬(おうせ)橋」と呼ばれるものがあって、周辺には、星田妙見宮(ほしだみょうけんぐう)や機物神社(はたものじんじゃ)など、七夕がらみの名所も点在します。天空を見上げて七夕伝説に想いを馳せのもいいですが、伝説の息づく場所も訪れてみるのも一興かもしれませんね・・・。

江戸時代後期から真夏の病魔や邪気を祓うねぶり流し行事として行われてきた秋田市の「秋田竿灯祭り」。国の重要無形民俗文化財で、長い竿を十文字に構え、それに灯火をつけて町を練り歩く。2009年度は8月3日~6日に行われます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

一年に一度のロマンスです♪・・・パート5

先ほどは、七夕には、願い事を書く理由について書きました。それでは、七夕はどうして「7月7日」なのでしょうか。
続いては、七夕の7月7日の日付けについて書いていきたいと思います。

★7月7日の秘密について

縁起物で笹竹を飾り、願い事を書いた5色の短冊を枝に飾ります。素麺も用意して、七夕の準備は万端とばかりに、夜空を見上げると、曇っていて何も見えない・・・。そればかりか、雨の日も少なくありません。
七夕の7月7日は、梅雨の最中」です。一年の一度の逢瀬(おうせ)なのに、これでは天の川も氾濫して、織女と牽牛が逢えないのではないか?と心配する人も中にはいらっしゃるのではないでしょうか。
実は、本来、七夕は現在の7月7日ではありませんでした。明治5(1872)年、政府が太陽暦(グレゴリオ暦)を採用したために、旧暦(太陰太陽暦)とずれてしまったのです。

かつての7月7日は、現在の8月20日頃です。本来は、夏真っ盛りの時期だったのです。夜空には、天の川を隔てて織女星と牽牛星が鮮やかに輝き、月は上弦(じょうげん)の月となります。上弦の月は上が欠けた半円で、まるで船のように見えたため、『万葉集』には、「天(あめ)の海に 月の船浮け 桂楫(かつらかぢ) かけて漕ぐ見ゆ 月人壮士(つきひとをとこ)」など、七夕と月を題材にした歌も数多く残っています。半円の月に牽牛が乗り、織女に逢いに行くように見えたのでしょう。星祭りにふさわしい夜だったことがわかります。

仙台の七夕祭りは、今も旧暦も意識してか、新暦の月遅れである8月7日前後に行われます。このように、今も8月に七夕を行う地域は少なくありません。しかし、一般的な七夕はやはり、7月7日でしょう・・・。気候と行事の日取りとが合わなくなってしまったのが、現在の七夕なのです。

今年は、旧暦の日取りに沿った8月20日頃に、夜空を見上げてみてはいかがでしょうか。例年とは違う織女星と牽牛星が見られるかもしれませんね。

あと、七夕は現在の暦ではなく、旧暦の七夕だったという話はいたしました。それでは、続いては、この旧暦について書いていきたいと思います。

★月の満ち欠けと四季を重視した日本の旧暦について

現在、私たちが使っている暦は、16世紀にローマ教皇・グレゴリウス13世が制定した太陽暦のひとつ、「グレゴリオ暦」です。日本では明治5年に採用され、それ以前の暦は「旧暦」と呼ばれるようになりました。しかし、現在までに日本の暦は10回も変えられていて、一般に「旧暦」という場合は、今の暦のひとつ前の「天保暦」を指します。これは、太陰太陽暦でした。
太陰太陽暦とは、365日周期の太陽の動きを基にした「太陽暦」と、29日半周期の月の満ち欠けを基にした太陽暦を組み合わせた暦です。月の周期や四季を大切にする日本人にとって、太陽暦だと月の周期と季節が合わなくなります。一方、太陰暦では、1年に10日以上ずれ、17年経つと季節が逆転してしまいます。
そこで、太陰暦に閏月を加え、季節のずれを調整した太陰太陽暦が使われてきたのです。四季の移ろいを感じられる旧暦は、今も占いや伝統行事の世界に息づいています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

一年に一度のロマンスです♪・・・パート4

先ほどは、七夕の伝説でも馴染みの「織女星」とと「牽牛星」のことについて書きました。七夕に短冊に願い事を書くという風習がありますね。それでは、続いては、短冊に願い事を書く理由について書いていきたいと思います。

★短冊に願い事を書く理由について

♪「笹の葉さらさら  軒端(のきば)にゆれる
  お星さまきらきら  金銀砂子(きんぎんすなご)

  五色(ごしき)短冊  私が書いた
  お星さまきらきら  空から見てる」

(権藤(ごんどう)はなよ・林 柳波(りゅうは)作詞
下総晥一(しもふさかんいち)作曲『たなばたさま』
〔昭和 16年作〕より

全国に七夕祭りはいろいろとありますが、七夕といってすぐに思い出されるのは、この唱歌とともに、願い事を書いた短冊を笹の枝に飾ることではないでしょうか。でも、なぜ、織女(しゅくじょ)と牽牛(けんぎゅう)に、願いをかけるようになったのでしょうか。
それは、中国で七夕伝説を基に生まれた儀式「乞巧奠(きこうでん)」に由来します。織女が機織(はたお)りが巧みだったことにちなんで。裁縫の上達を祈るというもので、この儀式は、唐の時代に、玄宗皇帝が楊貴妃とともに織女と牽牛を祀って遊宴したのが始まりとされています。
7月7日の夜、女性たちは、庭の台に置いて酒肴(しゅこう)、瓜、果物、菓子などを供え、7本の針に5色の糸を通して祭壇に供えたといいます。5色とは青、赤、黄、白、黒で、中国の陰陽五行説(おんみょうごぎょうせつ)に基づく色です。

日本にもこの儀礼が伝わって、孝謙(こうけん)天皇の天平勝宝(てんぴょうしょうほう)7(755)年に、初めて宮中で行われたとされています。平安時代になると宮中行事として定着します。裁縫だけでなく、和歌の上達も祈って笛や笙(しょう)を奏で、古人の和歌を朗詠(ろうえい)しました。
そして、天の川に見立てた銀白色の布をはさんで、参列者たちが即題の歌を詠んで交換したといいます。

この「七夕歌合(うたあわせ)」をはじめ、「七百首和歌」「七十韻連歌」「七調子の管弦」「七献(しちけん)の酒」など「七遊(ななあそび)」と呼ばれる遊びも行われました。

江戸時代には、幕府が七夕を五節供のひとつと定めたため、武家や庶民の間でも、七夕行事が盛んに行われるようになりました。願い事を5色の短冊に書いて笹の葉に飾るのも、この時代に定着したもので、7月6日の夕べから竹を立てたといいます。竹には5色の短冊はもちろん、吹流しや薬玉(くすだま)、紙衣(かみごろも)、瓢箪(ひょうたん)、そろばん、千両箱、鯛などを験(げん)を担いで飾りつけました。
また、江戸時代の書物には、七夕に素麺(そうめん)を食べると病気にならないとも記されています。本来は、小麦粉と米粉に塩を混ぜて縄のようにねじり上げた唐菓子・索餅(さくべい)と食べるとされていましたが、次第に、この索餅が素麺へと形を変えたとされています。

古来、受け継がれてきた代表的な七夕飾りには、裁縫の上達するよう願う「きぬこ」、豊年うを祈願する「棚飾り」、金運アップを願う「巾着」、そして表に願い事を書いて、こよりで結ぶ「5色の短冊」です。正式ににはピンクの代わりに黒の短冊を飾りました。

江戸時代に各藩の行事について記した『諸国風俗門状(しょこくふうぞくもんじょう)』によると、七夕の日に、竹に詩歌を書いた短冊を飾り、瓜、西瓜、果物などを供え、素麺を食べる風習があったといいます。

京都の冷泉家では、今も「乞巧奠(きこうでん)」が行われています。旧暦7月7日の夜、庭に祭壇「星の座」を設け、瓜、茄子、蒸蚫(むしあわび)、鯛といった、海幸、山幸を2組ずつ供える。さらに琴や琵琶(びわ)、5色の布や糸、星を映して眺めるための水を張った角盥(つのたらいなどを並べ、七夕の夜を祝います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

一年に一度のロマンスです♪・・・パート3

この七夕のお話には欠かせない、織女星(織姫)と牽牛星(彦星)。二人の恋物語、なんともロマンを感じます・・。さて、この織女星と牽牛星はどいうものなのでしょうか??織女星は、こと座・ベガ、牽牛星は、わし座・アルタイルですね。これは、皆さんもよくご存知です。

それでは、つづいては、この織女星と牽牛星ついて書いていきたいと思います。

まずは、織女星(ベガ)からです。

Vega
こと座のα(アルファ)星の固有名。アラビアで、こと座のζ(ゼータ)星とε(イプシロン)星とあわせて「落ちる鷲(わし) Al Nasr al Waki」とよんでいたが、その名称の後半部が変形した。漢名は織女(しょくじょ)星、和名は織姫(おりひめ)といい、天の川を挟んで相対する牽牛(けんぎゅう)星(アルタイル)とともに、古来から、七夕(たなばた)の星として日本人には親しみ深い。日本では織姫のほか、棚機(たなばた)、棚機津女(たなばたつめ)ともよばれていた。夏の夜空で、わし座α星のアルタイル、はくちょう座α星のデネブと結んで「夏の大三角」をつくる。平均の実視等級は0.03等であるが、周期0.19日で0.09等以下の幅の変光を示している。天球上の位置は、2000年分点の座標で、赤経18時37分、赤緯プラス38度47分。地球からの距離は牽牛星の17光年よりはやや遠く、25光年ある。スペクトル型はA0型の主系列星。表面温度は約9500Kで、青白い光を放っている。質量、半径とも太陽の約3倍で、牽牛星(質量は太陽の1.7倍、半径1.8倍)よりはかなり大きい。毎秒14キロメートルで地球に近づきつつある。ベガで注目されるのは、塵(ちり)の雲が半径140天文単位もの円盤状に広がって取り囲んでいることである。これらの塵の雲はベガが星間雲から誕生したときに、星になりきれなかった塵粒子が大量に残されたためと考えられている。この塵雲のなかに惑星の存在の可能性を指摘する天文学者もいる。

牽牛星(アルタイル)です。

Altair
わし座のα(アルファ)星の固有名。アラビアで、わし座のβ(ベータ)星、γ(ガンマ)星とあわせて「飛ぶ鷲(わし)Al Nasr al Tair」とよんでいたが、現在の固有名はその後半部に由来する。夏の夜空で、こと座α星のベガ、はくちょう座α星のデネブと結んで「夏の大三角」をつくる。漢名は牽牛(けんぎゅう)星、和名は彦星(ひこぼし)といい、天の川を挟んで織女星(ベガ)と相対し、古来から、七夕(たなばた)の星として日本人には親しみ深い。中国では、β星、γ星とともに「河鼓(かこ)三星」と名づけ、アルタイルを大将軍、β星を左将軍、γ星を右将軍ともいう。実視等級は0.77等。天球上の位置は、2000年分点で赤経19時51分、赤緯プラス8度52分。太陽からの距離は17光年。スペクトル型A7の主系列星。表面温度は7500K。質量は太陽の1.7倍で、赤道半径は1.8倍と推定される。アルタイルは高速自転をしており、赤道表面の自転速度は少なくとも秒速240キロメートルに達する。赤道半径は遠心力のために極半径よりも14%ほど膨らんでいる。占星術では災いをおこす星とされている。

7月の夜、天の川をはさんで、わし座のアルタイルこと、「牽牛星(彦星)」とこと座のベガこと、「織女(織姫)」が輝きます。二つの星に、天の川の中ほどで輝く、はくちょう座のデネブを加えると、「夏の大三角」になりますね。

参考までです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

一年に一度のロマンスです♪・・・パート2

続きです。

「七夕伝説」は、中国周代(前1050頃-前256)に書かれた同国最古『詩経(しきょう)』に初出する古い伝説です。二つの星が、天の川を隔てて東岸と西岸に対峙していることから物語が連想され、民間伝承として作りあげたとされています。
その話とは、こうです。

「天の川の東岸に暮らす天帝(古代中国における天地・万物を支配する神)の娘・織女は、毎日ひとりで機織りに励んでいました。天帝はそんな娘を不憫に思って、天の川の西岸に住む牽牛という牛飼いの若者と結婚させました。しかし二人は仲が良すぎて仕事を怠けるようになります。怒った天帝は、二人を再び天の川の両岸に引き離し、年に一度、7月7日の夜だけ、川に鵲(カササギ)の橋をを架けさせ、逢うことを許しました。」
この伝説は、奈良時代に日本に伝えられたとされていて、『万葉集』には、七夕を主題にした句が132首残されています。中でも、遣唐使として唐に渡って、中国から「七夕伝説」を持ち帰った一人とされる山上憶良(やまのうえのおくら)は、もっとも多く七夕の歌を詠みました。

「牽牛(ひこぼし)」の 嬬(つま)迎え船 漕ぎ出(づ)らし 天の川原に 霧の立てるは」(牽牛が妻を迎えに船を漕ぎ出したらしい。天の川沿いに霧が立っているのはそのせいか」

愛し合いながらも、一年にたった一度しか会えない二人―。この哀れにも美しい恋物語は、日本でも共感を呼んで、古来、愛され続けてきたのでしょう・・・。

今では、日本人の誰もが知っている「七夕伝説」ですね・・・。

七夕の伝説はなんともロマンチックです。それでは、続いては、このお話にも出てきます、「天の川」。天の川について、こんなお話がございます続いては、この「天の川」について、書いていきたいと思います。

●天の川について

天の川(あまのがわ、あまのかわ)は、夜空を横切るように存在する雲状の光の帯である。銀河。

●概要

『万葉集』では、大伴家持の歌に、天漢(あまのがわ)とも記されている。この光の帯は天球を一周しており、恒星とともに日周運動を行っている。天の川の実体は膨大な数の恒星の集団である。我々の地球を含む太陽系は「天の川銀河」と呼ばれる銀河の一員であり、我々はこの銀河を内側から見ているために天の川が天球上の帯として見える。天の川銀河の中心は射手座の方向にある。

「銀河」は本来天の川を指す言葉であるが、現在では一般的な天体としての銀河(galaxy)全般を表す言葉として使われている。天体としての天の川銀河を特に「銀河系」とも呼ぶ。英語の Milky Way (ミルキーウェイ)は文脈によって「天の川」と「銀河系」の両方を指す。

日本では、夏と冬に天の川が南北に頭の上を越える位置に来る。これをまたいで夏には夏の大三角が、冬には冬の大三角が見える。他の星も天の川の周辺に多いので、夏と冬の夜空はにぎやかで、これに対して春と秋の夜空には目立つ星座が少ない。

なお、天の川のあちこちに中州のように暗い部分があるのは、星がないのではなく、暗黒星雲があって、その向こうの星を隠しているためである。

●神話

ギリシャ神話での天の川のエピソードを説明する。ゼウスは、自分とアルクメネの子のヘラクレスを不死身にするために、女神ヘラの母乳をヘラクレスに飲ませようとしていた。しかし、嫉妬深いヘラはヘラクレスを憎んでいたため母乳を飲ませようとはしなかった。一計を案じたゼウスはヘラに眠り薬を飲ませ、ヘラが眠っているあいだにヘラクレスに母乳を飲ませた。この時、ヘラが目覚め、ヘラクレスが自分の乳を飲んでいることに驚き、払いのけた際にヘラの母乳が流れ出した。これが天の川になったとされる。英語での名称 Milky Way はこの神話にちなむ。

中国・日本など東アジア地域に伝わる七夕伝説では、織女星(こと座のベガ)と牽牛星(わし座のアルタイル)を隔てて会えなくしている川が天の川である。二人は互いに恋しあっていたが、天帝に見咎められ、年に一度、七月七日の日のみ、天の川を渡って会うことになった。詳細は七夕の項目を参照のこと。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

«一年に一度のロマンスです♪・・・パート1