続いてです。ハロウィンの習慣は、イングランド南部では17世紀以降、11月5日の火薬陰謀事件の記念日(ガイ・フォークス・デイ)に置き換わり、廃れた。しかしながら、スコットランドおよびイングランド北部においては広く普及したままであった。イングランド南部で、すっかり米国風のハロウィンになったとはいえ、再び普及したのは、この10年間だけだそうです。
続いては、ハロウィンの習慣の置き換わった、「火薬陰謀事件」について書いていきたいと思います。参考までです。
火薬陰謀事件について
火薬陰謀事件(かやくいんぼうじけん、英: Gunpowder Plot)は、1605年にイングランドで発覚した政府転覆未遂事件である。イングランド国教会優遇政策の下で弾圧されていたカトリック教徒のうちの過激派によって計画されたものであるとされてきた。首謀者はロバート・ケイツビー、実行責任者はガイ・フォークス。上院議場の地下に仕掛けた大量の火薬 (gunpowder) を用いて、1605年11月5日の開院式に出席する国王ジェームズ1世らを爆殺する陰謀 (plot) を企てたが、実行直前に露見して失敗に終わった。これにちなんだ祭事が毎年イギリス各地で開催されている。
なお、ここでいう「1605年11月5日」とは、ユリウス暦に基づく日付である。事件当時のイギリスでは、未だグレゴリオ暦は採用されていなかった。グレゴリオ暦での日付は、1605年11月15日である。以下の記述も、特別の記載がない限りユリウス暦での日付(グレゴリオ暦より10日早い日付)である。
容疑者
右の絵は、事件の容疑者を描いたオランダの銅版画である。左から順に、
・トマス・ベイツ (Thomas Bates)
・ロバート・ウィンター (Robert Wintour (Winter))
・クリストファー・ライト (Christopher Wright)
・ジョン・ライト (John Wright)
・トマス・パーシー (Thomas Percy)
・ギド(ガイ)・フォークス (Guido (Guy) Fawkes)
・ロバート・ケイツビー (Robert Catesby)
・トマス・ウィンター (Thomas Wintour (Winter))
となっている。なお、この絵は「7人の英国貴族」と題されており、主犯ケイツビーの使用人であったベイツは、「不運にも事件に巻き込まれた存在」と位置付けられている。
この他、ロバート・キーズ (Robert Keyes) 、エヴァラード・ディグビー (Everard Digby) 、フランシス・トレシャム (Francis Tresham) などが協力者として名を連ねていた。
背景
離婚問題のこじれという個人的な理由でローマ教皇庁と対立したイングランド王ヘンリー8世は、1534年に国王至上法を発布して、教皇庁と袂を分かった。彼はローマ教皇に代わって自らがイギリス教会の首長であることを宣言した。これがイングランド国教会の起こりである。ヘンリー8世は自分に従わない聖職者を処罰・処刑したり、修道院の所有していた土地や資産を没収するなどの政策を推し進めた。『ユートピア』の著者トマス・モアもヘンリー8世の離婚問題で疑義を呈したことから刑死に追い込まれた。ヘンリー8世の死後、熱心なカトリック信徒であったメアリー1世はイギリスをカトリック教会に戻すべくプロテスタントに対する弾圧を行い、「血塗れのメアリー (Bloody Mary) 」の異名をとった。
続くエリザベス1世は完全なカトリックへの復帰も、過激なプロテスタンティズムへの傾斜もとらないという「中道政策 (Via Media) 」 によって英国国教会の位置付けを明確にし、彼女を排除する計画に関わったスコットランド女王メアリー・ステュアートを捕らえた。エリザベス自身は処刑に消極的であったが、最終的には死刑執行書への署名を決断、1587年に刑が執行された。この事件はカトリック教会の守護者を自認していたスペインにイングランド攻撃の口実を与え、1588年のアルマダ海戦へと繋がっていく。イギリスのカトリック・シンパの間ではメアリー・ステュアートは「殉教者」として称えられることになった。
そのメアリーの息子であるスコットランド王ジェームズ6世は、1603年にイングランド王ジェームズ1世として即位した。母親と同じカトリックの信仰を持つジェームズの即位は、カトリック教徒にとって暗闇に差し込む光になると思われた。その一方でカトリック信徒と同じく不遇をかこっていたピューリタン(清教徒)は1603年4月、戴冠のためエディンバラからロンドンに向かうジェームズに対し、「千人請願」と呼ばれる書状を提出し、清教徒に対し寛容な政策を採るよう訴えた。これを受けて翌1604年1月、ハンプトン・コートに各宗派の代表が集い、会議 (Hampton Court Conference) が開催された。ところが、この会議で国王は「主教なくして国王なし (No bishop, no King)」との言葉に象徴される、国教会優遇政策堅持の宣言を行った。この結果は、清教徒のみならず、カトリック信者にとっても極めて不利なものであった。
発案
この閉塞状況を打破するための方策として首謀者ロバート・ケイツビーが導いた結論こそが、ウェストミンスター宮殿内にある議事堂の爆破という前代未聞の陰謀だったのである。「国王を殺害するのみならず、国会議員の多数を占める国教徒、そして清教徒をも同時に殲滅して国会の機能を麻痺せしめ、代わって政権を掌握したカトリック教徒がイングランドに至福の王国を建設する」。この遠大な目標を達成すべく、ケイツビーは1603年の四旬節に、トマス・ウィンター(ケイツビーのいとこ)、及びジョン・ライトに対し、議事堂爆破の計画を打ち明けた。
これを聞かされたウィンターらは当初、この途方もない計画を果たして本当に遂行できるのかと疑問に思い、難色を示した。だが、彼らは結局ケイツビーの説得に応じ、計画に参加することを承諾した。1604年4月、ウィンターはケイツビーの密命を帯びて、フランドルへ渡った。彼は、イギリスとの和平交渉のためスペインから同地に赴いていたフリアス公ファン・デ・ベラスコ (Juan de Velasco) に協力を仰いだが、実のある返答は得られなかった。
火薬陰謀事件については
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%81%AB%E8%96%AC%E9%99%B0%E8%AC%80%E4%BA%8B%E4%BB%B6
で参照いただけます。
続いてです。続いては、1992年10月17日、ルイジアナ州バトンルージュにAFSを通じて留学していた日本人の高校生がハロウィンパーティで訪問先を間違い射殺された事件、「日本人留学生射殺事件」と言うものについて書いていきたいと思います。
これは、参考までです。ご了承くださいませ。
日本人留学生射殺事件について
日本人留学生射殺事件(にほんじんりゅうがくせいしゃさつじけん)とは、1992年にアメリカ合衆国で日本人留学生、服部剛丈が射殺された事件である。この事件でアメリカの銃社会の実情が浮き彫りになり、その悲劇を乗り越えていこうとする各種の取り組みがなされた。
事件の概略
1992年10月17日、ルイジアナ州バトンルージュにAFSを通じて留学していた日本人の高校生、服部剛丈(はっとり よしひろ、当時16歳)が、寄宿先のホストブラザーとともにハロウィンのパーティに出かけた。しかし、訪問しようとした家と間違えて別の家を訪問したため、家人ロドニー・ピアーズ(当時30歳)から侵入者と判断されてスミス&ウェッソン社製の.44マグナム装填銃を突きつけられ、「フリーズ(Freeze「動くな」の意)」と警告された。しかしながら服部は仮装の際にメガネを外していたため状況が分からず[1]、「パーティに来たんです」と説明しながらピアーズの方に進んだところ、玄関先、ピアーズから約2.5mの距離で射殺された。
その後の経緯
ピアーズは、日本の刑法では傷害致死罪に相当する計画性のない殺人罪で起訴されたが、同州の東バトンルージュ郡地方裁判所陪審員は12名(白人10名、黒人2名)全員一致で無罪の評決を下した。評決の理由は裁判において、明らかにされていない。ルイジアナ州の法律では、屋内への侵入者については発砲が容認されているが、服部は屋内に入っていない。ただし、裁判では、服部が屋内に入ったとの証言があった。この裁判の場合、傷害致死罪を適用するのは最初から無理があり、無罪評決は正当防衛を認めたものか、傷害致死罪の構成要因を満たしていないと陪審員が判断した結果なのかは不明である[2]。評決後の陪審員の記者会見の「外国人が米国の制度に口出しをするのが不快だった」という言葉に見られるように、過剰防衛という刑事上の問題を銃規制という文化批判にすり替えてしまった遺族側の失策に起因するとも考えられる。
この後行われた、遺族が起こした損害賠償を求める民事裁判では、刑事裁判とは正反対の結果となった。ピアーズが家に何丁も銃を持つガンマニアであり、しばしば近所の野良犬や自宅敷地内に入ってきた犬猫を射殺しており、当日は酒に酔っていたことなどが実証されたため、正当防衛であると認められないとして65万3000ドル(およそ7000万円)を支払うよう命令する判決が出され、同州高等裁も控訴を棄却したため確定した。ただし、ピアーズは自己破産をしたため免責となり、実際の支払いはほとんどなされていない模様。
服部の両親はAFSと友人たちの協力で「アメリカの家庭からの銃の撤去を求める請願書」に署名を求める活動を開始、1年余で170万人分を超える署名を集めた。1993年11月、当時のアメリカ大統領、ビル・クリントンに署名を届けるために面会した。服部夫妻がワシントンD.C.に滞在していた間に、アメリカにおける銃規制の重要法案であったブレイディ法が可決された。
日本人留学生射殺事件
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E7%95%99%E5%AD%A6%E7%94%9F%E5%B0%84%E6%AE%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6
で参照いただけます。
最近のコメント